青い林檎と雨の日の食卓
積み上げた暗緑色の石積みの家々は、壁を白灰色の漆喰で塗り上げた独特の趣きを揃える。
灰色の屋根は角度がきつく、雨の多い土地らしく砕いた雨雲の結晶石を使った雨除けのまじない薬が塗られている。
青々とした下草には黄色の花が咲き、木組みのガゼボには藤の花が咲いていた。
かつてこの村には、気の良い騎士達がいた。
小さな村らしい世襲制の騎士団には、いつだって大らかな笑顔で迎え入れてくれる半竜の騎士団長がいて、彼は、美しい湖水結晶を星結晶で磨いた愛用の大剣を、すぐに自慢してしまうような男だった。
からりと笑う騎士達と仕事終わりに飲みに行っていたのは、村に一軒しかない木苺の酒を作る酒屋で、残念ながら、そこで何を食べたのかはよく覚えていない。
ざあざあと雨が降る。
人々の笑顔や往来が容易く想像出来る村の中は、荷車一つ転がっていない整然としたもので、そこに暮らす人々の姿がない事だけが強烈な違和感となっていた。
もしこの村に旅人が訪れたなら、村民達はきっとどこかに出かけているだけだと思うだろう。
その旅が、もう二度と帰れない長いものだとは誰も思うまい。
猛烈な血臭を残した村の広場を見るまでは、誰も。
ざあざあと雨が降る。
かつて共に笑い合った友の多くは既にいないが、それでもまだ、顔見知りの者は残っていた。
けれども彼等ももう、逝ってしまった。
この村一つを魔術の贄とすると決めた一人の伯爵がおり、その男が手駒の魔術師達に命じて、集めた村人達を一纏めにして殺してしまったから。
(……………どうして、俺を呼ばなかったんだ)
握り締めた拳を、雨が濡らす事はない。
魔術の遮蔽を叩きこの身を避け落ちてゆく雨が、今日も律儀に雨除けの屋根を流れ落ちてゆく。
「…………綺麗な村だな」
隣に立ちそう呟いたのは、絶望を司るギードだ。
彼の目には、雨の中をはらはらと舞い落ちる黄色い花びらが見えるのだそうだ。
そう言われてみれば、この村には夏になると黄色い木香薔薇が咲き誇るのだった。
花影の下で、長閑な村の見回りを終えて仲間達とカードをした午後は、もうどれだけ昔のことか。
けれども、あの日の色で舞い散る花びらは、ギードにしか見えない。
「ああ。………美しいところだ。この村の住人達は、善良で優しい人間ばかりだった。…………顔見知りだった男に、もし何かあれば一度だけ俺を呼べるからと、守護を預けてあったんだが……」
「…………呼ぶ間もなかったのかもしれないな。騎士達だけでなく、村の魔術師ですら抵抗する間も無く殺されたようだ。………誰も、皆殺しにされる為に広場に集められたとは思わなかったんだろう」
「………かもしれないな。死者の国への扉を開く時も、皆、どこか茫然としていた。………誰一人としてはぐれない事が、幸いと言えるかどうかは分からないが………」
「………そうだな。優しい者達なら、愛する者が未来を奪われた事を悲しむだろう。………だが、誰かが一人きりで残されるよりも残酷ではなかったのだと、いつかは、そう考えるかもしれない」
ずっと昔。
この村の人々は、疲弊して近くの森で木にもたれかかったまま動けなくなっていた一人の男を助けた。
見知らぬ男を躊躇うことなく村に連れ帰り、清潔な寝台と温かなスープを振る舞ってくれたのだ。
(……………あの日も、こんな雨の日だった)
三日と告げたものの、実際には三月眠っていなかったその男は、体調を整えるまでゆっくりしてゆくようにと告げた村長の言葉に頷き、持ち主が亡くなったばかりで空いていた借家で十日間を過ごした。
そして、すっかり親しくなってしまった村人達と離れ難くなり、結局半年もの間ここで暮らすことになる。
この村で暮らしている間は、体格と剣技を買われて騎士団の仕事を任されていたが、他にも、色々なことを引き受けながら暮らしていた。
畑仕事を手伝い、狩りにも出た。
集めてきた木の実と引き換えに隣家の女達に冬用のキルトを作って貰い、年老いた隣家の夫婦の家の薪割りを手伝い、焼き立てのキッシュと交換した。
幸福な日々だった。
無残な死の影のないこの土地では、終焉としての残忍さを示す事もない。
共に暮らしてゆく内に、新しい住人が人間ではないと気付いた者達も何人かいたが、誰もそれを問題視しなかった。
些末な事だったのだ。
この土地は、冬が長く雨の日が多い。
決して豊かな土地ではないが、幾つかの土地の恵みをしっかりと根付かせて育み、人々は清貧に暮らしていた。
糸を紡いで織物をしたり、牛や羊達の世話をして冬の為の保存食を作る。
そんな日々を送る人々にとっては、例え人間ではないのだとしても、ウィリアムはせいぜい、カードが強くて薪割りの上手な新参者でしかなかった。
「この村を出たのは、なぜだったんだ?」
「………近くの国で、大きな戦乱があった。ふた月も続いた殲滅と虐殺の流れがこちらにまで及べば、この小さな村は簡単になくなってしまう。…………そうならないようにと考えた時に、終焉である俺は、ここにいない方が良かった」
「………そうか。……………あんたも、そう考えるんだな」
「戦場に近過ぎたんだ。………呼び込まない自信はなかったし、一度離れた場所に、もう一度障りなく戻れるかどうかも分からなかった。……………だから二度と戻らなかったんだ」
村を出る日、あの半竜の騎士団長に、決して素手で触れないようにと念を押して守護を宿した蝋燭を渡したのもまた、こんな雨の日だった事を覚えている。
立ち会ったのは村長と村の魔術師達で、彼等に自分が魔物である事を明かし、村の暮らしに迎え入れてくれた謝礼として、一度だけ有事に駆けつけると約束を交わした。
困惑したようにそんな事はしなくていいと言われたが、この村にもしもの事があったら困るのだと言えば、男達はこの肩を叩いてまた戻ってこいと言ってくれた。
『また、カードをしよう。いいか、今度という今度は負けないぞ』
騎士団長にそう言われて手を振り、もう二度と戻れないという事は言わなかった。
けれども彼等も、ウィリアムが二度と戻らない事は分かっていたのだろう。
それで良かったのだ。
この美しく優しい小さな村がいつまでも続くようにと、終焉の靴跡の響く対岸に戻ったのだから。
(この土地の人々が、こんな風に喪われるとは思ってもいなかった………)
せめて疫病だ。
或いは、彼等が自らの意思で関わった戦乱なら、こうも胸をざわめかせはしなかったに違いない。
その後も、ギードと別れて暫く村の中を歩き、どこにも死者が残されていないことを確かめ終えると、青白いドレスの裾を揺らして村の中を彷徨っていた死の妖精達や、残っていた系譜の者達を解散させた。
今頃この村の住人達は、死者の国で、これからの暮らしのための手続きを受けている頃だろう。
彼らの気質であれば、無駄な抵抗をして死者の国の理に反する事もないに違いない。
比較的穏やかに暮らせる、この土地の暮らしに近い区画へと誘導させる余裕があってせめても幸いだ。
大きな戦乱が重なる時期であれば、死者たちをどの区画に収容するのかまでをこちらで調整するだけの手間はかけられない。
そうして、あの広大な死者の国のどこかに埋もれたまま見失った知人も少なくはなかった。
死者の国には死者達の管理簿もあるが、その全てに目を通すにはさすがに数が多過ぎる。
自領として統括してはいるものの、仕事の多くを地上の戦場で過ごす以上、そこで把握出来る情報には限度があった。
管理の為に下りた死者の国で顔見知りの者に出会う事もあるが、大抵の場合は、こちらでどの区画に住まわせるかを調整したのでなければ、そのまま二度と会う事もないのが常である。
死者の国であれば、何の騒ぎも起こらないという訳ではない。
死者達はその多くが心に深い傷を抱えているものだし、人間という生き物は死んでも尚、狡猾で強欲なものだ。
よって、死者の国に滞在する時はそれなりに厄介な案件を抱えている事が多く、どうしてもそちらの業務に忙殺されてしまう。
広大な死者の国のあちこちを手入れしながら、死者の国での動向を追える者達はごく僅かに過ぎない。
(…………それに、)
ゆっくりと、ゆっくりと、魂を漂白されてがらんどうになってゆくその目を覗き込み、そこに、かつて語らった友の姿を、そして、最後はこの名を呪いながら死んでいった誰かの姿を探すのは、決して容易な事ではないのだ。
(けれども俺は、この村の人間達が死者の国でどう暮らすのかを、見に行かずにはいられないのだろう…………)
関わる者の全てを記憶している程に繊細ではないが、どうしても心に残るものは確かにある。
鋭い棘でもなく、強い毒でもないようなものが、何百年も経ってからふと心の中で息を吹き返す事も。
雨音に、いつかの午後の情景が蘇る。
激しい雨の降るその日は、記憶の中と風景は夏前の青灰色の影に沈んでいて、簡素な昼食の準備をしていた。
借家には、雨が降り出す前に訪ねてきた同僚がおり、雨足が弱まるまではここにいたらどうかと、三人分の昼食の準備をしたのはウィリアムだ。
茶色い麦を使ったパンはバタートーストにし、隣人に貰った青林檎がテーブルの上の水色の陶器の鉢に入っていた。
ポットで湯を沸かし紅茶を淹れた時の記憶を辿れば、あの頃によく飲んでいたその香りが、ふわりと鼻腔を擽ったような気がする。
だが、この雨音の向こうにはもう、人々の営みの気配が戻る事はないのだ。
全て、死に絶えてしまった。
じゃりりと小石混じりの土を踏む音がして振り返ると、やはり村を歩いてきたのか、反対側の道から歩いてきたギードの姿がある。
大振りな耳飾りには雨の日の鈍い光が弾け、ネアがオーロラのようだと言う瞳の煌めきが、薄闇で尾を引く。
「………まだ残っているとは思わなかったな」
「あんたが暮らしたこの村を、ゆっくり見てみたいと思ったんだ。古い建物ばかりだが、よく手入れされていて、大事に使われている品物が多い。いい村だったんだな。………家畜の姿がないようだが、それは村人たちを殺した者が連れ去ったのか?」
「恐らくはそうだろう。略奪には違いないが、面倒を見る者がいなくなって、無残に餓死させるよりはいい。………この国はあまり豊かではないんだ。家畜は大事な財産になるからな」
「そうか。結果として、悲しいものが増えないのなら良かった。あんたは、まだ帰らないのか………?」
「ああ。………俺はもう少し村を見ていくよ」
「そうか。思い出も多いから、そうしたくなるだろう。でも、あまり一人で長居しない方がいい。今夜は、ウィームに泊まったらどうだ?」
「こんな事は珍しくはないのにか?」
「そうだとしても、こんな時に会いに行ける誰かがいるのなら、会いに行った方がいい」
大真面目にそう言われ、薄く苦笑する。
もう誰もいなくなってしまった村を見ると堪らない気持ちになるが、とは言え、誰かの慰めを必要とする程の精神状態でもない。
だから、そういうものでは、ない筈なのだ。
ただ、ひどく乾いた溜め息を吐き、雨音の響く村を見回した。
この土地の人間達が受け継ぎ、大事に育ててきたものが、これから先はあっという間に失われてゆくだろう。
古い家々は手入れをする住人がいなくなるとあっという間に壊れてしまうし、畑は草地になり、蓋が朽ちた井戸には落ち葉が溜まって使い物にならなくなる。
失われてゆくのは一瞬なのだ。
その時間の無情さには、かつての思い出を偲ぶだけ配慮など一切ない。
恐らく、次にこの地を訪れる時にはもう、村は草木に呑み込まれた廃墟となっているだろう。
それが堪らなく虚しく思えても、より華やかで壮麗な大国の王都ですら辿る道は変わらない。
壊れた物は、朽ち果てて滅びゆくのがこの世界の理である。
「じゃあな。………それと、グレアムはまだ残ってゆくらしい」
「…………ん?グレアムも来ているのか?」
「なんだ、まだ会っていないのか。犠牲の対価を得た魔術を動かす為に、広場に残っている」
くすりと笑ったギードにそう言われ、眉を寄せる。
広場で動かすべき魔術と言えば、村人達を殺すに至ったものくらいだろう。
だがそれは、人間の貴族や魔術師達が持ち去ったのではなかったのだろうか。
(…………それとも、遅効性の魔術の障りのようなものを、この地に残していったのか?)
そんな考えが表情に出ていたのだろう、帰ろうとしていたギードが振り返り、そのようなものではないようだと教えてくれる。
「グレアムが、この願いは大切に扱いたいと話していた。…………多分、村人が残した願いなんだろう」
では、怨嗟や復讐だろうか。
そう考えながらギードと別れて広場に向かうと、大きな林檎の木の並ぶ村の広場にはまだ、どす黒い血の染みが残っていた。
獣たちに荒らされてもいけないので、魔術の贄にされた人間達の亡骸が残っていなくて幸いであるし、敷かれた術式が魂までを食らうものでなかったのは救いだが、それでもこの血の跡を見ると何とも言えない気持ちになる。
大きく広がった血の跡の縁が僅かに黄色みがかっているのも、まだその血痕が新しい事を示す証だ。
土壌に深く深く沁み込んだ血の跡が雨に洗い流されて地中深くに沈むまで、どれだけの時間を要するのだろう。
雨に濡れて鈍い赤さを取り戻したその色に、あまりにも多くの命が失われた場所特有の匂いがする。
そして、そんな凄惨な痕跡の残る広場に、白灰色の装いのグレアムが立っていた。
こちらに気付くと振り返り小さく微笑んだ彼は、確かに、気に入った願い事に触れた時にだけ見せる柔らかな眼差しをしている。
星空のような灰色の瞳は濡れたような輝きで、淡く光り落ちたのは、犠牲の魔術の残照だろうか。
「君が来ていたのは知らなかった」
「ああ。俺はまだ来たばかりなんだ。カルウィで手のかかる案件があって、手間取っていた。…………だが、こういう願いはあまりないからな。出来るだけ叶えてやりたい」
「………どんな願いなのかを聞いても?」
「ギードから、ウィリアムはかつてこの村で暮らしていた事があったと聞いた。………もしかすると、ハンドレルムの戦いの少し前の時期だろうか」
「………そうだな。あの頃だ。………半年ほどここで暮らしていた。不思議なものだな。………あの当時に俺が暮らしていた家が、今も綺麗なまま残っているんだ。誰も暮らしている様子はないのに手入れされていて、…………借家としてすぐに貸し出せるようにしてあったのかもしれないが…………」
「君が、いつか戻ってくるかもしれないと思っていたのかもしれないな」
「…………さあな」
そう答えたが、自分でも考えなかった訳ではない。
もし、あの家が綺麗なまま残されていた理由が、いつかふらりと戻ってくるかもしれない、騎士崩れの人間でなかった男の為だとしたら。
床は掃き清められ、テーブルは濡れた布巾で毎日磨かれているらしく、その男が好んでいたこの村独自の品種である青林檎が、食卓の上に置かれた水色の陶器の鉢に入っていた。
まるで、今朝もそうして整えられたばかりのような林檎の新鮮さに、それを見た瞬間になぜか息が止まりそうになり、慌ててその家の扉を閉めたのがつい先程のこと。
「彼らの願いは、先祖代々守り続けてきたこの村に、新しい住人を呼び込んで欲しいというものだった」
「…………新しい住人を?」
「ああ。大事な村なのだそうだ。何世代にも渡って整えた畑があり、土地の魔術に沿うようにと、改良を重ねて育てた林檎の木が何本もある。人間ではなくても構わないから、誰か、この土地を大事に使うような者達を呼び込んで欲しいと、そう願って死んでいったんだ」
「…………助けてくれとは、願わなかったのか」
「それもギードから聞いた。ウィリアムは、この土地の者達に、守護を残してあったんだな」
「ああ。安易に触れられるようなものではないが、一度だけ俺を呼び込めるものを渡してあった。回収しなければと探したら、この村の騎士団の団長の屋敷に厳重に保管されていたよ。…………恐らく、使う間もなかったんだろう」
そう言えばグレアムが頷き、どこか遠くで雷の音が聞こえた。
林檎の木の枝葉からは雨粒がしたたり落ち、無造作に置かれた収穫用の籠を濡らしている。
この村の林檎は、長い冬の明けた後の短い春と秋との二度の収穫が可能で、今は最初の収穫の時期だったのだろう。
「俺が触れた者の願いから覗き見た限り、近隣の村で発見された伝染病の魔術守護を与えるという事で、住人の全員が広場に集められている。………誰一人としてそれを拒まず、素直にここに集まってしまったらしい。足の悪い老人や、あまり起きられないような病の者の移動は家族で助け、………結果として誰一人として残らなかった」
「…………そうするだろうな。小さな村だが、この土地の人間達は、驚く程に仲が良かった。安息の魔術の系譜の土地だからかもしれないが、そういう気質の人間が集まる村だったんだろう」
「また、そういう住人が暮らすようになるさ。彼らの願いは、この悲劇を対価として正式に結ばれた。…………古くからある、とても単純でそれだけ強い願いだ。これだけ強い魔術が結ばれれば、きっとそう遠くない内に、この村には新しい住人達が入るだろう」
「…………そうか」
新しい住人達は、かつてここで暮らした心優しき人々の生活を、その痕跡を辿って引き継いでゆくのだろうか。
であればまたいつか、穏やかな夏の日に黄色い木香薔薇が咲き、その花影でカードをする男たちの姿が見られるようになるかもしれない。
少し酸味の強い、けれども甘く瑞々しい青林檎を収穫し、石垣で守られた畑を耕すのかもしれない。
「その家に案内してくれないか?」
「…………グレアム?」
「ウィリアムが暮らしたという家を見てみたいんだ。もし、不快でなければだが」
「別に構わないが、…………さして愉快な物でもないと思うぞ」
「はは、それでもいいのさ。何となく、見てみたいと思っただけなんだ」
終焉の気配の色濃い広場を離れ、雨の降る村の小道を歩いて肉屋の角を曲がり、石工の工房の通りの端にある青みがかった屋根の借家に向かう。
途中の家々の庭には見事な紫陽花が咲いていて、配達された牛乳瓶がそのまま残っていたり、子供用だと思われる木のブランコが庭木にかけられて雨に濡れていたりした。
「…………ここだが」
「思っていた以上に、綺麗に管理されていたんだな。………この林檎は、ウィリアムが気に入っていたものか?」
「そんな事まで話したか?」
「以前、この村で暮らしていたと思われる時期の後に、ある人間の集落で毎日食べていた林檎を気に入っていたと教えてくれただろう。ギードと、それはどんな林檎だろうかと話した事があるんだ」
「………はは、さっぱり覚えていないな。…………だがそうか、俺はそんな話をしたのか」
「折角だ。まだ新鮮な林檎のようだし、試してみるか」
「…………グレアム?」
突然何をと思い目を瞬くと、こちらを見た友がふわりと微笑む。
それはどこか、失われてゆくものの多さを良く知る眼差しであった。
「思い違いかもしれないが、この林檎がもし、かつてこの村で暮らした一人の魔物の帰りを待つ為に用意されていたものであるのならば、この村の人間達からの最後のふるまいという事になる。無駄にせずに、受け取ってやってはどうだ?まぁ、俺は単純に林檎の味を知りたいだけだがな」
「……そうか。…………そういうものなのかもしれないな」
「ああ。今日はまだ昼食を摂っていないんだ。どうせなら、食事をしていってもいいかもしれないな。ウィリアムなら、まだどこに何があるのかを覚えているんじゃないか?」
「いや、さすがに調理器具は残っていないようだぞ、元々隣家から借りてきたものだったからな。…………いや、だが、…………ネアから貰ったランチョンマットがあるな………」
そう呟き、贈り物を広げて料理を取り出すと、グレアムが目を丸くした。
この贈り物については知っているものの、料理が出てくる瞬間を見るのは初めてだと言われると、確かにそうだと考える。
「今月は、食事をする余裕もないような仕事はなかったからな。二人分出そう」
「………いいのか?それは、ウィリアムの為に用意された物だろう」
「いいさ。こんな事でもなければ、二人で昼食を食べる機会なんてそうそうないからな。折角だから、ギードも呼び戻すか」
「まだ近くには居ると思うが、………狼になっていると、見付け難くなるんだ」
「…………ふと思ったが、野生の獣になっている時は、ノアベルトのような予防接種は必要ないのか?」
「…………それも、訊いてみるか。来られるそうだぞ」
「ああ。それなら三食分だな。一人がアレクシスのスープになるのか。………疲労回復と、損傷無効のスープらしい」
「………あのスープ屋のものか、凄まじいな………」
すぐに一度この村を離れていたギードも揃い、不思議な不思議な食事の時間が始まった。
かつて、人間の騎士として暮らしていた村の小さな借家の食卓で、もう二度とこうして揃う事はないと思っていた友人達と食事をする。
グレアムが淹れた珈琲の湯気が立ち上り、しゃくりと噛んだ林檎の香りや味わいはあの日のままだ。
雨樋を鳴らす雨音に、眩暈のように記憶を揺らすのは、遠く懐かしい穏やかな日々。
木を削って子供たちに作ってやった玩具は、今はもう残ってはいないだろう。
目が合うと笑って手を振ってくれていた仲間たちは、今はもうその全員が地上を去った。
奇妙な弔いになってしまったが、グレアムの提案がなければ、この村の事を思い出す度に瞼に映るのは、あの噎せ返るような血の匂いがした広場の光景だったかもしれない。
それは、静かな静かな雨の日であった。
その先に何度も思い出すのは穏やかな食卓の光景で、そこで顔を合わせているのは、昼食を共にしたグレアムやギードであったり、あの村の隣人達や仲間達であったりした。
その村にはやがて、集落を追われた妖精達が住み着いたのだという。
その妖精がどこからやって来たのかを知る者たちはいないが、階位が高く管理下に置くのは難しいという事で、土地を治める王族達は、同族に村への手出しを禁じたのだとか。
死者の日には、地上に戻ったかつての村民たちが、新しい住人達に林檎の木の管理の仕方や、家の修繕の仕方を教える姿が見られたそうだ。
様々な知恵を引き継いでくれるかつての住人達に、妖精達は、人間の死者の日用のもてなし料理を作っておき、彼らは賑やかに語らったという。




