ぐりぐりとぐらぐら
ウィームにはぐりぐりというジャムがある。
小さな小瓶に入った、もったりしたミルクジャムのようなものだが、じゃりっとした食感の美味しい花蜜が入っている。
乳白色のジャムの中に花蜜の小さなつぶつぶが淡いピンク色や黄色を添えて、たいそう可憐な色合いになるので、子供達にも人気のジャムだ。
だが、この花蜜が固まりやすく、最後の方になると瓶の底に残ったジャムが硬くなってしまう。
しかし、そんな風に食べ難くなったジャムが、濃厚でしゃりりとしていてとても美味しいと発見した人は、さぞかし嬉しかったに違いない。
今では、この最後の美味しい部分こそがぐりぐりの醍醐味といってもいい、誰もがイメージするぐりぐりジャムの味であった。
よって多くの人々が、瓶の底の方に残ったミルクジャムを、スプーンでぐりぐりとこそげ取ってパンやクラッカーに載せている。
その結果、ぐりぐりという謎めいた命名がされてしまたものの、それ以前の名前は、ミルクと花蜜のジャムであったのだとか。
「むぐ!」
その日のネアは、命名の由来ともなったぐりぐり行為に耽っていた。
小瓶の底の方に残ったミルクジャムをスプーンでぐりぐりし、削り出しては夢中で紅茶パンに載せる。
湯煎で温めると柔らかくなるという無粋な手法もあるようだが、この硬くなったジャムこそが美味しいので、焦るあまりに全てを失う手本のような食べ方だと言わざるを得ない。
(この少ししゃりっとした感じが、とろり蜂蜜ではなくて、じゃりっとした巣蜜のような美味しさがあるのだけれど…………)
だが、ぐりぐりの甘さはとても爽やかだ。
蜂蜜のような濃厚な甘さではなく、僅かな酸味も加わった花蜜なので、さらりとした控えめな甘さと、花の香りが何とも素晴らしく、ちっぽけな人間の心など容易く翻弄してしまう。
甘いミルクジャムの美味しさを加えた紅茶パンは、新しいステージへ引き上げられていた。
「…………ふは!全部こそげ取りました!」
「おい、夢中になり過ぎてグラスを倒すなよ」
「……………むむ。いつの間にかパイナップルジュースのグラスがこんな所に…………」
「置いたのはお前だからな。それと、そのジャムとパイナップルは合わないぞ。そろそろ、紅茶に変えたらどうだ」
「………は!………その通りです。パイナップルジュースを飲むと、繊細なジャムの甘さをお口の中で損なってしまうので、早急に入れ替えを行いますね。今後は、冷たい紅茶できりりといただきます」
今朝の朝の光は青白く、窓の向こうでは満開になった薄紫色のライラックの花が咲いている。
ウィームでは、一年を通して様々なライラックが楽しめるが、こちらの花は普通のライラックだろうか。
その花影には、籠を背負ってどこからか盗んできたブルーベリーを運ぶちび兎型の妖精がおり、立ち止まって近くに咲いていた薔薇の香りを嗅いでいた。
そんな淡い朝の光の差し込む会食堂には、ネアとアルテアしかいない。
他の者達はどうしたのかと言えば、エーダリア達は安息日の朝をまだ寝台でゆっくりと過ごしているし、ディノとノアは、早朝から昼前にかけて、ウィーム各地の見回りに出ている。
こちらの魔物達は、昨日の尖り棒祭りの思いがけない苛烈さに警戒を深め、階位の高い尖り棒が現れた土地を巡り、厄介な障りなどが落とされていないのかを調べているのだそうだ。
(……………私も、一緒に行けたら良かったのにな)
かつてはべったりな魔物を引き剥がして、どうにか自分の時間を確保しようとしていたネアだったが、最近ではディノから離れていたくないと思う時間も出来た。
ディノ自身が望んで出かける離れ離れの時間は特に気にかからないし、部屋の中でそれぞれに別の事をしているのも豊かな時間だと思う。
だが、昨日の今日なのだ。
ネアの大切な魔物は、尖り棒祭りで沢山頑張ってくれたばかりであるし、そんな祝祭の影響がどこかに出ていないかと探しに行くのだから、それは決して愉快な作業ではないだろう。
もし怖い思いをしたり、悲しい目に遭ったら困るので、出来れば一緒に行きたかったのだが。
(……………きっと、私のお腹が鳴ってしまったから、ディノは心配してくれたのだと思う………)
ディノ達が行う調査は、祝祭が明けてからの安息日の朝が一番なのだが、昨日は沢山戦ったネアはうっかり夢の中でも戦ってしまったらしく、すっかり空腹で迎えた朝食の時間に、出かけるディノに着いてゆこうとしたところで、お腹がぐーっと鳴ってしまった。
ここまでの事はあまりないのだが、なぜか、空腹のあまりに一刻たりとも待てないという感じになってしまった残念な人間は、使い魔に預けられ、先んじて朝食の席に着く事になっている。
優しい魔物は、食事を終えたら部屋で休んでいるようにと言い残して調査に出かけたが、寂しがり屋の伴侶を待てずに先に朝食を食べてしまうばかりか、その帰りを待たずに部屋でぐうぐう寝ていたら、とんでもない伴侶ではないか。
なぜだか、今朝はとても腹ペコでぐったりとした疲労感を覚えるのだが、何とか二人が戻ってくるまでは意識を保っていたいところだ。
かしゃんと、微かな音が淡く色づくように響く。
ネアがこの世界に来てとても気に入っている物の一つに、この食事の時の食器の触れ合う微かな音があった。
こんな音が聞こえてくると、ああ、誰かと食事をしているのだなと思える。
それがどれだけ贅沢な事なのかを、ネアはよく知っているのだ。
窓から差し込んだ清廉な朝の光が、ソーサーにカップを置くアルテアの横顔を繊細に縁取る。
人ならざるものの飛び抜けた優雅さで、その手元のお皿は綺麗に空っぽになっていた。
どうしていつもそんなに綺麗にソースを扱えるのかと羨ましく思いながら、食卓に自分以外の誰かがいてくれる時間の心地よさに頬を緩めた。
向かいの席で食事をしているアルテアは、昨晩はリーエンベルクに泊まり、今日も夕刻までは特に予定がないのでゆっくりしてゆけるらしい。
アルテアがここに居てくれるので、ディノとノアは安心して調査に出られているのだ。
「今朝のアルテアさんは、休日仕様なのですね」
「……………何だそれは」
「寛いだ感じで、髪型もちび結びです」
「…………っ、……………ああ、そうだな」
ぎくりとした顔になったという事は、ちび結びでこちらに来てしまったのはうっかりなのだろうか。
となると、選択の魔物はなかなかにお疲れなのかもしれない。
そう考えたネアは、すっと手を持ち上げるとわきわきさせてみた。
「お腹撫でをします?」
「いらん。やめろ」
「昨日は助けに来てくれましたので、今なら尻尾の付け根のこしこしもお付けしますよ?」
「必要ない。お前は、さっさと食事を済ませたらもう少し寝ろ」
「なぬ。なぜに起きたばかりで寝かしつけられるのだ………」
「あの種のあわいは、人間の体力を削るからな。気付いていないかもしれないが、一昼夜森を彷徨ったくらいには体力を持っていかれているぞ」
「……………まぁ」
そう言われると、起き抜けに感じたぐったりとするような体の重さにも説明がつく。
ネアは、てっきり夢の中でも戦っていたことでの疲労感に違いないと考えていたが、あのあわいに呼ばれた事での影響らしい。
(……………道具屋のあわいに呼ばれたからだったなんて)
確かに昨晩はくたんと倒れるように眠ってしまったし、夢の中の戦いはあったにせよ、深い深い眠りだったような気がする。
「………アルテアさんは、大丈夫なのですか?私がぐーぺこだったせいで、朝食の席に駆り出されてしまいましたが、本当ならお部屋でゆっくりしていたかったのでは…………」
「俺にはさして影響はない。訪問規則で体力を削がれたのは、お前とエーダリアだけの筈だ」
「むぅ。呼び寄せておいて、体力を奪うなど許すまじ…………」
「あの手の物は、持ち主の訪問に関しては寛容だが、そうではない者は呼び寄せて衰弱死させるあわいだからな」
「……………なぬ」
「帰れなくなった連中は、体が死んで戻れなくなるんだ。自分の持ち物に呼ばれて訪れたのでなければ、あの手のあわいは時間勝負になる」
だからこそ意地悪な妖精達は、あのあわいに人間を迷い込ませたりするらしい。
中身が彷徨い出て空っぽになった体を乗っ取ってしまったり、美味しくいただいてしまう為の下拵えだと聞けば、成程と思わずにはいられない。
ただの愉快犯ではなく、きちんと目的があっての行為なのだ。
「子供達も招かれるくらいなのでと油断してしまいましたが、…………確かにあの場所は、人間の理を外れた場所だという感じがしました。怖いところだったのですね………」
「無事に戻ってきた子供達は、招き入れた道具の持ち主という枠組みでもてなされている。とは言え、そんな子供達でも、多くの本の中では翌日は親に起こされるまで寝過ごす表記がある。一定の消耗はあるんだろう」
「………となると、持ち主ではないお子さんが迷い込むと、………やはり戻れないのですか?」
ひやりとしてそう尋ねれば、アルテアは丁寧にあわいの規則を教えてくれた。
その横にも、貰い物のパイナップルで作られたパイナップルジュースのグラスが置かれている。
このパイナップルは、ヴェンツェルからリーエンベルクへ差し入れで、隣国への視察の際に沢山貰ってしまい持て余していたらしい。
「道具によっては、自身を扱えないような子供は、そもそも領域外とする。そう判断されれば、取り込まれる事はないだろう。迷い込んでもすぐに返される筈だ。今回、お前が可動域で領域外とされなかったのは、扱える道具に目をつけられたからだな」
「むむ、夏至祭の花輪の塔を作る時の棒さん……」
「投げ入れた花輪の傾きを直す道具だ。夏至祭の魔術に触れないように、魔術を遮断する手袋を使って扱う。おまけに、祝祭魔術と共に付与したのは俺のものだからな。元々の使用方法の簡単さもあって、奇跡的にお前にも扱えた筈だ」
「奇跡的に………」
なお、エーダリアについては、かなりの消耗や疲労感があるだろうとノアからヒルド経由で本人に連絡がしてあり、その結果、朝食を抜いてお昼前まで寝ている事に決めたらしい。
領主としての仕事に間違いがあってはいけないので、ゆっくり体を休めるという判断なので、ヒルドは、あわい訪問で興奮したエーダリアがこっそり魔術書などを開かないように夜間の見回りを徹底していたが、ぐっすり眠っていたので問題なかったのだとか。
魔物達にとって、体が疲弊していても空腹で起き出してきてしまったネアが、想定外だったのだ。
「………むぅ。だからディノ達も、昨晩から調査に出かける予定を立てていたのですね」
「昨晩はまだ祝祭当日にあたる。あわいの特性を伝えておかなかったのは、余計な縁を繋げない為だろう。今朝は、出がけにお前が不審がるようであれば説明しておくように、俺に言い残していったからな」
「ふむ。眠っている間に迷い込むところであれば、そのような危険もあるのかもしれませんね。そして、今朝のディノ達はちょっと急いでいました」
「終わった祝祭の証跡を探すんだ。跡地が踏み荒らされる前にと、ノアベルトあたりが急かしたんだろう」
最後のミルクジャムを載せた紅茶パンをあむりと噛み締め、幸せな甘さにうっとりする。
疲弊しているのだと言われるまではそうでもなかったのだが、言葉にして伝えられると、急に体がぐったりと重いような気がするのだから面白い。
こんな時は、冷たい飲み物ではなくてあつあつのスープや紅茶などを飲むのがいいのだと、小さな我が儘を心の中で育てた人間は、部屋に帰ってから厨房で何か作ろうかなと思案した。
今朝のメニューは、香辛料たっぷりでスパイシーに仕上げた鶏肉と、野菜をたっぷり摂れるサラダを合わせたさっぱりだが大満足の朝食で、デザートは心も弾むブルーベリーのチーズケーキである。
ネアはこちらも美味しくいただき、むふんと幸福の溜め息を吐くと、量を少なめにして早めに朝食を終えていたアルテアをじっと見つめる。
(……………やっぱり、少しだけ似ているのだわ)
そんな事を考えながらグラスの中の冷たい紅茶を飲み終えてしまうと、こちらを見た赤紫色の瞳がすっと眇められた。
襟足の毛を結んでいるからか、いつもよりやや砕けた雰囲気がある。
シャツのボタンを二つ外し、すらりと伸びた首筋がどこか無防備にも見えた。
「……なんだ」
「昨日の白尖り棒さんの雰囲気が、少しだけアルテアさんに似ていたんです」
「……………ほお。どこがだ」
「………森に帰っている時のアルテアさんの、ちょっと邪悪でふふんと笑う感じでしょうか」
そう言えばアルテアは呆れたような顔をしたが、ネアは、使い魔の気配を見逃さない優秀なご主人様であると胸を張った。
あの棒自身も言っていたように、付与された選択の魔物の魔術は、道具そのものの何かを大きく変質させたのだろう。
であればそこには、きっと選択の魔物の資質そのものが反映されていたのではなかろうか。
「人間の領域外の得体の知れないものという感じがして、あまりお近付きにはなりたくはありませんでしたが、……そんなアルテアさんの森要素に、少しだけヒルドさんのような清廉さがあって、どこか魅力的な棒さんでもありました」
「…………ほお。お前は、あの状況下でそんな余裕があったのか」
「むぎ。…………おのれ、なぜ少し身を乗り出してまで、私の鼻を摘まんだのだ。許すまじ」
「余分を増やすなと、言わなかったか?こうも覚えが悪いようだと、一度徹底的に教育し直さないといけないようだな?」
「むが!魅力的な人型具合でしたと言っただけなのに、なぜ持ち帰ろうとしたかのように叱られるのでしょう。私だって、荒ぶる棒さんは欲しくありません!」
「自分の胸に手を当てて考えてみろ」
「解せぬ」
ネアからしてみれば、どこかアルテアに似た雰囲気があったあの棒は、棒だったけれども複雑な美しさを感じる存在だったのだと言いたかっただけなのだ。
それはもう、お庭のココグリスに対していい毛並みの個体がいましたねと言うようなものなので、そんな言動に対しては荒ぶらないでいて欲しいものだ。
「……………む」
しかし、乙女の鼻をぺしゃんこにする悪い魔物の腕を払おうとしたネアは、いつものように戦おうとしてぱたりと腕を落とした。
物凄く疲れていて眠たい時のように、体に上手く力が入らない。
へにゃんと崩れてこの場で眠ってしまいたいような、奇妙な脱力感がある。
「………どうした?」
「むぐ。お腹が一杯になった途端、体に力が入らなくなりました。この場に私の寝台を呼び出して欲しい気分です」
「………成る程な。食欲だけで動いていたのか」
「むむ。そう言われてしまうと、なかなか見事にやり遂げたという誇らしさでいっぱいですね」
「お前な………」
一つ溜め息を吐いて立ち上がると、アルテアはなぜかネアの隣にやってきた。
何用でしょうかと見上げていると、ひょいと椅子から持ち上げられる。
「乗り物になってくれるのです?」
「お前のその状況だと、目を離した隙に廊下で転びかねないからな」
持ち上げられた腕の中は、不思議な甘やかさがあった。
しっかりと支えられているので体はぴったりと固定され、魔物特有のいい匂いがする。
よきにはからえな気持ちになったネアは、もうここは乗り物を信用して身を任せてしまおうとふにゃんと体の力を抜いてしまい、頭の上に落ちた呆れたような溜め息の柔らかさに口元をもぞもぞさせる。
そっと額に触れた指先の温度が、ひんやりとしていて気持ちいい。
後はもう目を閉じて眠ってしまうばかりだと思いかけ、しかし、強欲な人間はかっと目を見開いた。
慌ててテーブルの上に視線を投げ、花蜜入りのミルクジャムを最後まできちんと食べきったかどうかの記憶を辿ろうとしたが、残念ながら小瓶は既に片付けられてしまったようだ。
「……………ぐるる」
どうしても思い出せないが、多分最後まできちんと食べきった筈だ。
もしそうでなければ、一番美味しい部分を食べ損ねるというたいへんな悲劇に見舞われている事になる。
すっきりと解決した訳ではないが、食べ残す筈がないではないかと短く首を振っていると、ひたりと据えられた視線を感じて顔を上げた。
じっとこちらを覗き込んでいるアルテアの瞳を見上げると、透明な色彩の鮮やかさと暗さは特別な宝石のようで、つやつや光る美味しい苺ジャムのよう。
「……………じゅるり」
「おい、食ったばかりだろうが」
「唐突に、苺ジャムを作りたくなりました。ぐつぐつ煮てゆくと、綺麗な赤い色が苺に戻ってゆくところが大好きなのです。……………そして、私はぐらぐら煮え立つ何かを作る筈だったのですが、覚えていますか?」
「知るか。また妙なものを作ろうとしているんじゃないだろうな…………」
「まぁ。私は、美味しいものにしか手を出しませんよ?沼味の飲み物を作るのは、使い魔さんではないですか」
「そもそも、煮え立つようなものを作ってどうするつもりだ。…………ったく」
「ぐぅ」
美味しい朝食をいただくという重要な任務を終えたネアは、ここでほんの少し眠ってしまったようだ。
俺に抱き上げられて眠るのはお前くらいだとぼやく声が聞こえたような気がしたが、むにゃむにゃと寝言寄りの音声で返し、いい匂いの使い魔の腕の中でふにゃんと目を閉じる。
そうして、次に目を開いたのは寝台に寝かされてからの事であった。
(……………歌声だ)
子守唄のようなものではないが、誰かが低く甘い歌声で歌っていて、その旋律の美しさにとろとろと心を蕩してゆく。
ディノは、強請らないとこうして歌ってくれる事はないのだが、アルテアは機嫌がいいと時々歌ってくれる。
幼い頃に、寝かしつけられながら母親の歌声を聴いてきたネアは、眠りの淵で聴く甘やかな歌声にうっとりと心を預けた。
途中で唇に触れた物があったので、差し入れかなと思ってあぐりと噛みつくとぺしっとおでこを叩かれたが、それでも優しい歌声は続いていた。
しんしんと。
しんしんと降り積もる聖夜の雪のように。
優しい夜の光の中で、きらきらと光るシャンデリアの影を踏んで踊る二人を見ている。
それは、ディノと自分のような気もしたし、季節の舞踏会で共に踊るアルテアやウィリアムのような気もした。
けれどもよく目を凝らせば、それは、道具屋のあわいで出会った白銀の髪の王子だったのかもしれない。
それが、くるりくるりと踊り、ターンで姿を変えると、見た事のない盛装姿の父と母のダンス姿になり、見知らぬ誰かと踊る母の姿にも見えた。
しゃりんと落ちてくるのは、ぴかぴか光る流星で、地面に落ちた星はきらきらと光り崩れて可憐な花を咲かせてゆく。
ああ、だからここは花の香りがするのだなと思うと、満開の薔薇の茂みを揺らす風が花びらを夜空に巻き上げた。
大広間には沢山の人達がいて、ネアの知らない赤い瞳の美しい竜がいる。
その竜は、けばけばの猫のような生き物を大事に抱き締めていて、どこからかはらりと白い薔薇が咲きこぼれた。
横倒しになった黒い馬車の車輪がからからと回り、わあっと歓声を上げた者達の中には、なぜかダナエやグラフィーツの姿まで。
どこか遠くで、輪になって踊っている妖精達がいる。
いつかの嵐の中で見た豊穣の妖精達に似ていたが、気のせいだろうか。
ざざんと強い風が吹き込み、美しい初夏の森に通り雨が降る。
これは夢だ。
記憶が取り込んだ沢山の物語をからからと回し、洗い流して再編してゆくようなもの。
そう思いながら移り変わる景色の複雑さを眺めていると、頭の中にぽこんと何かが閃いた。
「……………むぐ。ぐらぐら」
むにゃむと口元をもぞもぞさせて、力なく呟けば、何だそれはと誰かに問い返される。
まるで子供に添い寝する父親のように隣に寝そべった誰かに、あやす手つきでぽんぽんと叩かれた。
「ぐらぐらしたものを、……………食べまふ」
「さっぱり分からないな。やり直しだ」
「ぐらぐら……………ぐ、…………ぐつぐつ?」
「…………鍋料理か、オーブン料理だな」
「……………おぶ、ん。……………おぶんなら、グラタンでふ……………ぐぅ」
「…………グラタンか?」
「グラタン様。………むぐ。……………でもグラタンは、とても高価なので滅多に食べられません…………」
「………作っておいてやる。………おい、指を噛むな」
「あぐ。…………ぐむるる」
「レインカルそのものだな」
「……………レインカルでは、……………なふいでふ。おのれ…………ぐぅ」
何だかとても眠い中で誰かとお喋りをした記憶はあったものの、ネアは、目を覚ますと用意されていたコンビーフ入りのポテトグラタンにこてんと首を傾げる。
然し乍ら、グラタン皿の上ではまだチーズがくつくつしており、何とも素晴らしい光景だ。
アルテアには、強請られたから作ったのだと言われまた首を傾げたが、こんな素敵な献上品は美味しくいただくばかりなので取り分けて貰ったお皿を差し出され、目をきらきらさせる。
「短い時間でも、あのような多くの者達の認識が基盤を押し固めるあわいには、強い力があるのだろう。他にも食べたいものがあったら、用意してあげるよ」
「むぐ。…………はい。でも、このグラタンでとても満ち足りた思いになりました。それに、ディノが帰ってきてくれたので、ぎゅっとしますね」
「……………ずるい」
「朝には出来なかったので、後で髪の毛を梳かしましょうね。………むむ、ノアもなのです?」
「うん。僕はこのリボンね」
「おい、勝手に食うな」
「ありゃ。アルテアが仲間外れにするんだけど」
目を覚ますと、ずっと聞こえていた素敵な歌声は途切れてしまった。
それが何だか惜しいような気がしたが、どのような夢を見ていたのかどうしても思い出せない。
だが、美しい夜の下で誰かが踊っていたような気がする。
それは、とてもとても美しい、星の光の降る青い夜であった。




