153. 尖り棒の王子に会いました(本編)
「むぎぎ…………」
「ネア!」
つやすべ白尖り棒に押し潰されかけたネアは、低く怨嗟の声を上げて石畳の地面で拳を握り締めた。
すぐさま伴侶な魔物が尖り棒を追い払ってくれたので、淑女らしからぬぺしゃりと地面に倒れ伏した哀れな体勢から、何とか助け起こして貰う。
よれよれになりつつも体を起こすと、あの金髪三つ編み美女な騎士と、その騎士を守るように立ったエーダリアが、問題の白尖り棒に詰め寄られているではないか。
(……………まずい!)
さあっと青ざめたネアは、空から尖り棒が降ってきても手から離さずにいた撃退道具をぎゅっと握りしめ、慌ててそちらの援護に向かう。
しかし、ネアが背後から攻撃をしかけようとしたその時、白尖り棒がくるりと振り返った。
「むぐ?!」
「ネア、危ないよ」
ひょいとそんなネアを持ち上げ、体を入れ替えてくれたのはディノだ。
か弱い乙女が魔物の背に庇われてしまうと、白尖り棒は様子を伺うようにぴたりと動きを止める。
ざわりと風が森の木々を揺らし、ぶ厚い雲が陽光を隠してしまった。
リーエンベルクの周囲は僅かに薄暗くなり、その代わりに森の奥に揺れる妖精達の煌めきがぺかりと光る。
どこか不穏な光と影の間で、擬態している筈のディノの髪色が白く見えたのは気のせいだろうか。
こちらに避難していた女性達の姿が見えなくなったので、気付いた誰かがまた誘導してくれたようだ。
「………成程、アルテアが今回の祝祭に参加しているのは、この道具を警戒しての事だったのだろうね」
僅かな沈黙は、向かい合った棒を見ていたのだろう。
静かにそう呟いたディノに、ネアは目を瞬いた。
「なぬ。アルテアさんのお道具だった棒なのです?」
「魔術の磨耗具合からして、君がこちらに来る前のものだろう。離れた土地であっても、このような物を夏至祭で使えば、さすがに私も気付く筈だ」
「………夏至祭、の道具なのですね?」
「うん。人間の物だから、どのように使う物なのかは分からないけれど、纏っているのは夏至祭の祝祭魔術で間違いないよ。……少なくとも五年以上前にアルテアがどこかで使った道具で、恐らく、本体は既に回収されているのではないかな」
そんな事も分かってしまうものなのだ。
密かに驚嘆しつつ、ネアは、じっとこちらを見ているようだが、顔などはないのでその表情が読めない白い棒を見つめる。
先程のフリル棒も手練れであったが、この棒は明らかに身に纏う気配が違う。
騎士と魔術師と言えば気配の違いが伝わるだろうが、どちらかと言えば人間の騎士と人外者と言った方が正確かもしれない。
(先程までの物は、…………祝祭で動き出した道具だった…………)
けれどもこれは、一つの異形そのものだ。
見慣れない形をした人ならざるもので、音一つ立てずにすらりと佇んでいるのに、夏至祭の夏の夜の森の奥のような、背筋がひやりとする奇妙な喧騒を感じてしまう。
石畳の床に落ちた影ですら、ネア達の影よりも暗く、くっきりとしているように見えた。
「………それは、夏至祭の花輪の塔を建てる際に使う、魔術師達の補助道具だ。この十年間となると、……八年前に一度、ウィームの山間部の町で、花輪の塔を建てる際に大きな事故があった。詳細は不確かな証言ばかりで曖昧なままなのだが、………塔に花輪を投げ入れる際に不手際があり、集まっていた鴉の妖精達を怒らせ、その土地に派遣されていた神父と客人として迎えられていたヴェルリアの魔術師、町長の家族が命を落としている」
「その儀式で使われた道具は、調べたのかい?」
「すぐに調査をさせたのだが、花輪の塔周辺にあった物は何一つ残されておらず、生き残った魔術師達も何も覚えていなかった。………もし、この棒がその時に使われた物だとすれば、………命を落とした神父は白銀階位の魔術師でもあった。おまけに、現場では青銅の魔術師と、鴉の妖精も命を落としている。…………どの要素が混ざっているかによっては、かなり危険なものになっている可能性が高い」
エーダリアの声には、噛み締めた不安を払拭する程の、土地の為政者らしい厳しさが滲んでいた。
迷いもなく伸ばされた手が取り出した魔術書を開いたのは、この尖り棒を退ける為の詠唱の準備だろう。
ネアの前に立ったディノも、魔物らしい酷薄で冷ややかな気配を纏い、その眼差しは、先程のフリル棒が現れたときとは比べ物にならないくらいの鋭さであった。
油断のならない敵だ。
とても。
もしかするとこれはもう、クッキー祭りの時のような可愛らしいものではなく、ある種の災いや障りですらあるのかもしれない。
(そう言えば先程、…………クッキー祭りの棒が固かったのは、クッキー祭りの特性を反映しているからかもしれないと、誰かが言っていた………)
であれば、夏至祭の祝祭魔術が帯びる特性は、どんなものなのだろう。
ひたりと嫌な予感に冷たい汗が落ち、ネアは、エーダリア達側とこちら側とで、左右から挟まれた白い尖り棒が動きかねているこの隙を逃さぬよう、首飾りの金庫からカードを取り出して、アルテアのカードに状況説明を殴り書いておく。
お探しの棒かもしれません。
アルテアであれば、そんな一文にリーエンベルク正面広場と書き加えただけでこちらの伝えようとした事を汲み取ってはくれるだろうが、選択の魔物がこのカードを開くのがいつになるかで、こちらの戦況も大きく変わってくるだろう。
「エリオス、下がりなさい!」
その時だった。
ばたばたと靴音が響き、鋭く響いたヒルドの声に、ネアは瞳を瞠った。
(ヒルドさんだ!………ノアも!)
こちらの騒ぎを誰かが伝え、正門前を離れていた二人が戻って来てくれたらしい。
安堵に息を吐きかけ、けれども油断してはならぬと気持ちを引き締め直したネアは、エリオスと呼ばれた金髪三つ編み美人な騎士が慌てたように後退し、ヒルド達がエーダリアの隣に並ぶのを見てほっと胸を撫で下ろす。
この油断のならない敵を前に、エーダリアと離れてしまっているのが気になっていたのだ。
これでもう、エーダリアの隣にはヒルドもノアもいるので、そちら側に攻撃を仕掛けられたらと気を揉む必要もない。
蒼白になったままヒルドの後方に下げられ、がくりと肩を落としている金髪の騎士には、この尖り棒との対峙は荷が重かったのだろう。
この距離からでは断言は出来ないが、僅かに手が震えているような気がする。
(………そうか、あの騎士さんが立ち竦んでしまっていたから、私が倒れている間に、エーダリア様が向こう側に移動したのだわ…………)
このような場所でと思いかけ、けれども仕方のない事なのだと思い直す。
白という色の持つ魔術階位は、本来であれば、人間が一生出会う事もないようなものである。
先日のダリルとの仕事の際に、その道中で、自分の常識と他人の常識の差分を考えられずに組織の調和を乱してはならないという講義を受けたばかりではないか。
その時に、ネアの抱えた根深い意識の差分として、その周囲にいる魔物達の話をされたばかりであった。
(ダリルさんは、出来ない事の平常値を知っておかないと、いつもの輪を出た所にいる人達との連携が難しくなると話していた…………)
それは即ち、ネアにとっては白という色であり、そのような色を持ち、或いはそのような色に馴染むことの出来た者達が出来る事と、それ以外の者達が出来る事の差分である。
今回のように、例えリーエンベルクの騎士であっても、白を持つ襲撃者の階位に気圧されてしまう者がいて当然なのだ。
それを知り、すぐにあの騎士の側に駆け付けたエーダリアは、ネアなどとは違い、自分と他者の認識や常識の差をきちんと理解出来ている。
じゃりりと、石畳の上を固いものが擦るような音がした。
つるりとした白い木の棒は、ネアの頭よりも高いくらいの位置にぐるりと複雑な彫刻が施されている。
だが連続模様のその彫刻ではこの棒がこちらを見ているのかは分からないが、ゆっくりと体を回転させているようだ。
だとすれば、この棒は今、どちらを見ているのだろう。
顔がないので当然なのだが、得体のしれない生き物がどこを見ているのか分からないというのは、思っている以上に怖いものなのだなと、そんな事を考える。
その時のネアは自分の事でいっぱいだったが、それはきっと、他の皆もそうだったのだろう。
ぎゅおんと、白い棒が勢いよく振り回され、周囲にいたネア達は慌てて体を屈めたり跳び退ったりする。
それは一見白尖り棒が牽制の為に暴れたようにも思えたのだが、すぐに異変に気付いた者がいた。
「ノアベルト!円環を…」
はっとしたようにそう声を上げたディノに、ネアはぎゅっと抱き締められる。
振り返って手を伸ばしたディノが、腹部に腕を回して捕まえてくれて、しっかりとしっかりと抱き締められた筈だ。
「…………それなのになぜ、ここにいるのでしょう」
「………同感だ。私も、ヒルドとノアベルトの双方から腕を掴まれた筈なのだが………、まさか、それも円環なのか?」
はらはらと、高い天井の向こうから花びらが降る。
淡いピンク色の花びらには、どこか儚い美しさがあって、そんな花びらの降り積もる床石は淡い水色をしていた。
擦り硝子のような独特の質感のこの石は、かなり高価な石材ではないだろうか。
僅かに入った白斑の色合いは、リーエンベルクの内装を見慣れたネアの目にも、息を呑む程の美しさであった。
(…………広い)
ドーム型の大きな天井に、見事な木漏れ日のシャンデリア。
あまりにも広い空間だが、恐らくは大広間のようなところなのだろう。
窓にはドレープをつけた薄布がかけられ、円柱には森結晶や泉結晶を掘り出した見事な彫刻が飾られている。
かと思えば、この壮麗で美しい空間の隅には、壊れた石像や馬車など、不似合いな物が積み上げられていた。
そしてそこに、ネアは、エーダリアと共に立っていた。
ネア達がいるのは見知らぬ王宮のような場所で、周囲には人はおらず、近くに人の気配もない。
互いにディノやノアの名前を呼んでみたが、その呼びかけに応えはなかった。
「どことなく、スリフェアを思い出しませんか?ここではない、けれどどこでもない不思議な場所のような………」
「…………ああ。もしかするとここは、文献で読んだ事のある、道具屋のあわいのような場所かもしれない」
「道具屋のあわい……?」
「ああ。子供たちの絵本にもあるし、ウィームには古くからある思想なのだ。大切に使われた道具が壊れると、焚き上げられる迄の時間を暮らす道具達の国があるのだと言われている。そこには見事な王宮があり、時として、人間の子供が迷い込んだり、妖精に意地悪をされた者達が迷い込まされたりする。………先程の尖り棒は、夏至祭の道具だ。夏至祭の祝祭魔術と言えば、境界を司る物だからな………」
「…………まぁ」
エーダリアから差し出された手を取り、しっかりと手を繋いだ。
折角一人ではなかったのに、ここではぐれる訳にはいかない。
けれども、あれだけしっかりと守られていた筈なのに、どうしてこのようなところに迷い込んでしまったのか。
「道具屋のあわいは、………子供たちにとっては一晩の夢のようなものなのだ。どんな文献でも、絵本でも、こちらに迷い込んだ子供たちは、朝になって目を覚ますと自分の寝台で寝ていたのだと気付き、物語が終わる」
どこか無防備な瞳で高い天井を見上げ、エーダリアはゆっくりと瞬きした。
先程までは、騎士達のものより青の強い水色のケープを羽織っていたが、今はなぜか深い青色の装いに変わっている。
それはネアも同じで、尖り棒祭りの制服であったウィスタリアがかった水色のドレスは、衣裳部屋にはなかった筈の艶やかな菫色のドレスに変わっていた。
(…………夢。…………或いは、おとぎ話の領域なのかもしれない)
茨の杖を恐れる人々の心が、尖り棒を派生させるくらいの世界なのだ。
語り継がれた道具屋のあわいは、その存在を思った人々の心にこのようにして形を成したのかもしれない。
或いは、元よりこのようなものが存在していたのか。
それは、厨房の食器棚の扉や、古い柱時計の蓋を開け、或いは、庭の花壇の奥に続いていた不思議な獣道から迷い込むところ。
子供達が不思議な夢のような時間を過ごし、朝が来ると自分の寝台に返してくれるところ。
そんな場所はきっと、この世界には幾らだってあるだろう。
「であればここは、以前に私が落とされたような、夢にかかわるあわいなのかもしれませんね。………あの時も、私の体は盗まれていませんでしたが、私は確かに不思議などこかに攫われていたのです」
「先程の棒の動きは、円環の術式だったのだろう。ディノが気付いてくれるまで、私はその術式が結ばれた事に気付かなかった」
円環の術式は、特定の魔術を帯びた道具で円を描くことで結ばれる。
あの尖り棒は、己の体を術具として円を結んだのだ。
「………エーダリア様、その物語の中で、道具屋のあわいは子供たちに何を求めるのですか?」
「対価として奪われるものはなく、舞踏会に招いてくれたり、城の中を案内して茶会に誘ってくれたりするようだ。大抵の道具達は大事に使ってくれた人間を親しい隣人だと思い、もてなしてくれる。だが、中には、自分の壊れた玩具を無理やり連れ帰ろうとして、窘められる話もあった。…………子供たちが招かれた場合はあまり危険はないだろう」
「…………む。では、妖精さんに迷い込まされた方々は、どうなってしまうのです?」
質問を変えれば、エーダリアが微かに目を伏せた。
「………青年は、道具達を直す修理工に、少女は、馬車の車輪の王に見初められて王妃になった。………彼等には帰りを待つ者達がいたのだが、そのような事はなぜか忘れてしまい、死ぬまで道具屋のあわいに残る事になる」
「ぞくりとしました。…………私には大事な魔物がいますので、エーダリア様を連れて必ず帰らなければなりません」
「安心してくれ。私も、何としてでもここから帰ろうと考えている」
幸いにも、互いに家に戻るという思考は奪われていなかったので、二人は顔を見合わせて深く頷き合った。
とは言え、最初はそうであっても記憶が奪われたりするといけないのでと、ネアはエーダリアに見張りを任せて首飾りの金庫からカードを取り出し、そこに現在の居場所と助けを求める旨を書き連ねてみる。
「…………アルテアさんのカードに、返信が入っています。すぐに行くと書かれていますので、道具屋のあわいの可能性を書き加えておきますね」
「ああ。………恐らくだが、あの道具が彼の物であれば、ここへの道を最も見付けやすいのも彼だろう。………それと、一つ思い出したのだが、探して欲しいものがある」
「むむ!」
残念ながらディノのカードには何のメッセージもなかった。
どのような形でネア達がこちら側に滑り落ちているのかは謎だが、あちらではまだ、白尖り棒との戦いが続いているのかもしれない。
そう考えると、ディノ達は大丈夫だろうかと不安に心がざわりと揺れる。
「………水辺か、鏡のような物はないだろうか。姿がある程度鮮明に映る物が望ましい。あわいとの境界が曖昧になっている場所では、決して覗いてはならないとされる物だ。夏至祭でも、水辺に不用意に近付かないようにと言われるだろう?」
「ええ。という事は、こちら側に落とされてしまっている場合は、逆なのですか?」
「ああ。向こう側の者達が、外を窺う覗き窓に使う物なのだ。内側からであれば、外の様子が見れるかもしれない」
「では、壁沿いを少し歩いてみましょうか」
「そうしてみよう。………ただ、映ったものの全てが真実だとは限らない。何を見ても、冷静でいるように」
「ふむ。望む場所が見えるとも限りませんものね………」
二人はこくりと頷き合い、少しだけ慎重に最初の一歩を踏み出してその場を離れた。
幸いにもネアは戦闘靴を履いていたし、エーダリアも先程まで履いていた靴のままだと言う。
服は変えられてしまっても靴はそのままなのだなと首を傾げれば、そのような事は珍しくないのだとか。
寧ろ、履き物まで奪われていたら相当に危ない状態であるらしい。
こつんと、高い天井に床石を踏む音が響いた。
二人はそんな事に少し慄きつつ、けれども足を止める事なく壁際に向かう。
そこには様々な道具が積み上げられていて、ネアは、壊れた馬車が動き出したらどうしようとぐぐっと奥歯を噛み締めた。
(でも、…………エーダリア様がいるからかな、思っていたよりは怖くない………)
何しろこの上司は、ガレンの長である魔術の大家なのだ。
ここが道具屋のあわいかもしれないという情報も、エーダリアがいなければ知れずにいた事である。
魔物達程の安心感とはいかずとも、この家族も凄いのだとふんすと胸を張り、ネアは、積み上げられた道具の中に、姿を映すようなものを探して視線を彷徨わせた。
「…………あれがいいだろう。道具の領域にあたる鏡などよりは、安全かもしれない」
「お目当ての物がありましたか?…………まぁ水鉢ですね」
ゆっくりと歩きながらいい物がないか探していたところ、エーダリアが壁沿いに流れる水を見付けたようだ。
白大理石に似た石質の壁をどれだけの年月をかけたものか、浅く削って流れる人口の滝のようなものは、壁を掘り出して作られた飾り棚の上に乗せられた、白磁の鉢に注いでいる。
これが屋外であれば、鳥や馬達などの水飲み場だが、屋内ではどう使われているのかは謎であった。
「……………ヒルド!」
そこを覗き込んだエーダリアが、ぱっと目を輝かせる。
慌てて覗き込んだネアは、大切な魔物の姿を見付けてぴょんと飛び上がった。
「ディノです!」
「ネア!………どこも怪我をしていないね?」
「ふぁ、お話も出来るのですね?」
「うん。周囲に何かや誰かはいるかい?」
「いえ、今はまだどなたもいないようです…………」
水鉢の中にひたひたと溜められた水面に映ったディノは、確かにこちらを見ているようだ。
互いに見えている物が違うのか、エーダリアはヒルドやノアと会話をしている。
「では、繋がりが途切れる前に、説明させておくれ。君達の体はこちらにある。………あの時、私達が慌てて手を取った事で、夏至祭の棒が描いた円環がこちらでも結ばれてしまった事になってしまったらしい。あの棒よりも魔術階位の高い者はこちらに残り、君達だけが拐われた。…………そこは、あわいの内側だろうと、ヒルドがこうしてのぞき窓になる鏡を騎士達に用意させてくれた。……………すぐにアルテアがそちらに降りるから、もう少しだけ辛抱しておくれ」
「まぁ。それで、ディノの腕の中にいた筈だったのにここに来てしまったのですね。アルテアさんが来てくれるのならとても頼もしいので、それ迄、エーダリア様は私が守ってみせます!!」
「君も危ない事をしてはいけないよ。………それと、誰かにダンスに誘われても、決して踊らないように」
「ダンスは踊ってはならないのですね………」
「精霊の系譜の可能性もある。どんな食事を出されても、決して食べてはいけないよ?」
「はい!」
その時、こつこつと靴音のようなものが背後で響いた。
はっとしたように振り返ったエーダリアに、一拍遅れて振り返ったネアは、いつの間にかこの広間の中に流れていた優雅なワルツに、思わずぞっとしてしまう。
この水面を覗き込むまで、周囲には人影もなく、がらんとしていた筈だった。
けれども今はどうだろう。
そこかしこに優雅に着飾った紳士淑女の姿があって、まるで普通の王宮の舞踏会のように、お喋りをして寛いでいる。
「………レイノ、と呼ぶぞ」
「はい。リア様」
「今からは、絶対に私の手を離さないように。ここでは、君と私がパートナーだという事にしておこう。アルテアがこちらに降りるそうだから、それまで耐え凌げばいい」
「はい。………いざとなったら、踏み滅ぼします。そして、念の為に戸外の箒を金庫の入り口近くに移しておきますね」
「ああ。こちらを見るようにして、彼等に背を向けるといい」
ネアは、そう言われてエーダリアに向き合うように立ち、その隙にもう一度水鉢の中を覗き込んだが、もうディノの姿は見えなかった。
頼もしい魔物との繋がりが途切れた事に不安を覚えながらも、これだけ大勢の者達に対処出来そうな唯一の武器を金庫の一番手前に移動させておいた。
ついでに取り出しておいたのは、ウィリアムのナイフだ。
こちらは、着替えさせられてしまったドレスでは不安だったので、腕輪の金庫に移し替えておく。
けれどもその作業をしていると、預けておいた手をエーダリアがぎゅっと握った。
ぎくりとして振り返れば、そこには一人の美しい男性が立っている。
「……………ふむ。私の招待に応じてくれたのは、君達だけだったか。残念だな」
そう呟き微笑んだのは、淡い白銀の髪の男性だ。
すらりと背が高く、青い瞳をしている。
装いはまるで王子のような華やかさだが、怜悧な美貌の持ち主なので少しも華美にはなっていない。
深い青色の盛装姿は、不思議な事にエーダリアの装いと同じ色相であった。
「…………ここは、どこなのか尋ねてもいいだろうか」
聞き慣れない余所余所しい声でそう尋ねたのはエーダリアで、ネアは、目の前の男性が話し出した途端に、多くの人々がこちらに注意を向けたのを感じた。
(身分の高い人なのだろう……………)
男性の後ろには、三人の従者が付き添っている。
こちらは、黒髪の背の高い男性達で、三つ子かなというくらいによく似ていた。
ネアはなぜか、壁際に置かれていた黒い馬車の残骸を思う。
「さて、君達が道具屋のあわいと呼ぶ場所かもしれないし、もっと古くからある深い深いあわいかもしれない。一つだけ言えるとすれば、ここを訪れる人間は君達が初めてではないし、ここで暮らす者達も多いということだ。君達は、どうする事になるのかな」
「私達には、元の場所でそれぞれに果たすべき責務がある。出来るだけ速やかに元の場所に戻して貰いたい」
「はは、それは困ったね。舞踏会は始まったばかりだし、夜はとても長い。せめて、一曲は踊ってゆかないか?」
「残念だが、戻らなければいけない我々がここで踊るのは控えた方がいいだろう。迎えが来る予定なので、それまではあなた方が楽しむ姿をここで見ていても構わないだろうか」
「…………無粋な事だが、そのような選択もあるだろう。ただ、その迎えの者は、この王宮に入れるのだろうか」
青い瞳の男は、そう呟き微笑んだ。
どこか魔物のような艶麗な眼差しと老獪な口調で、けれども不思議な清廉さがある。
白銀の髪は、腰より少し上くらいまでの長さで、黒いリボンで一纏めにされているようだ。
ネアと目が合うと、男性はにっこりと微笑みかける。
「祝祭の制限がないこの場所でなら、私は君と踊りたいものだ。……………不思議な事だが、君との間には、魔術の繋がりを感じるからね」
その言葉に、周囲の女性達が小さな囁きを漏らした。
落胆や失望、そしてほんの僅かな怨嗟の囁きにどきりとしながら、ネアはそっと首を横に振る。
(祝祭の制限があるのなら、私とは踊れないという事なのだろうか……………?)
「私には魔物の伴侶がいます。今の同伴者のように、その魔物が家族の一人だと認めた方以外の方とは、ダンスを踊る事は出来ないのです」
「であればその魔物は、私をこのような姿に変えてしまった者かもしれないね。魔術の縁の深さはそのような理由なのだろう」
「……………あなたを?」
「そう。かつての私は、それでも貴族ではあったけれど、凡庸な男だったのだよ。少なくとも王子ではなかった」
柔らかな声で語られる内容に、ネアはとても混乱していた。
どうやら目の前の人物は、王子であるらしい。
一瞬、ここが道具屋のあわいであるのなら、ディノが何らかの形で関わった物なのだろうかと考えたが、その盛装姿を引き立てる襟元の刺繍を見た途端に、この男性がどのような道具が人の姿に転じた者なのかを知る事になる。
(……………あの、夏至祭の棒だわ)
彼の襟元の刺繍の模様は、あの棒にあった模様と同じではないか。
つまり彼は、先程の白い尖り棒で、尖り棒ながらにここでは王子であるのだ。
様々な体験はしてきたものの、さすがに棒の王子様からダンスに誘われたのは初めてなので、ネアはどう対処するべきか慎重に判断する。
恐らく、棒には棒なりの人間とは違うお作法がある筈だ。
しかしそれは、ネアには全く未知の分野であった。
「あなたは、王子様だったのですね。お誘いを受けられないのはたいへん恐縮ですが、私は、狭量だとされる魔物の伴侶です。どうぞ、他の方にお声がけいただければと思います」
「はは、つれないものだな。なぜか君には惹かれてしまうが、それが我が身に宿る魔術の縁であるのなら、確かに無理強いはしない方が良さそうだ。とは言え、君達がここから帰れないようであれば、またいつか君をダンスに誘おう。その時には、伴侶がいた事すら忘れてしまっているかもしれないからね」
(……………っ、)
穏やかな声音に見合わない冷ややかな微笑みに、ネアは、やはりこの生き物は人間とは心の持ちようが違うものなのだと理解した。
決して、人間と同じような感覚で接してはいけないのだが、それは目の前の王子だけでなく、この広間に集まった大勢の参加者達全てに言える事なのかもしれない。
そう考えると、賑やかな大広間が急に悍ましい場所にも感じられて、じわりと冷たい汗を背筋に感じる。
「残念ながら、帰り道は用意してある。形代を失ったお前が、地上に戻る事もないだろう。……………ったく、手間をかけさせやがって」
低く甘く、例えようもない美しい声が響いたのはその時の事であった。
はっとして視線を巡らせると、人波を割ってこちらに歩いて来たのは、ネアの見慣れた一人の魔物だ。
漆黒の盛装姿はどこか不穏で、もし何も知らない誰かがここにいたら、この者こそが災いであると宣言したかもしれない。
けれどもネア達にとっては、この上なく頼もしいお迎えの魔物であった。
「お迎えです!」
「やれやれだな。何でもかんでも引き寄せやがって」
「むぐぅ…………」
「すまない、世話をかける」
「どうせ引き寄せたのはこいつだろ。……………だが今回は、俺との魔術の縁が因果を繋いだんだろうがな。さっさとここを出るぞ」
気付けば、音楽は途切れ、大広間は静まり返っていた。
ネアは、僅かな時間だけとは言え迷い込んだ道具達のあわいを眺め、ここは、なんと不思議なところだろうと考えた。
子供の頃に読んだ絵本の物語のようなこの場所には、どんな世界が広がっているのだろう。
でもそれは、ほんの少しだけ。
ネアにはネアの充分過ぎる程に魅力的な世界があり、この強欲な人間はそこを離れるつもりなどないのだから。
エーダリアの手を離さないようにしつつ、伸ばされたアルテアの手を取る。
ふつりと途切れた背後の気配に振り返ると、いつの間にか広間から先程の舞踏会の喧噪は消えていた。
誰もいないがらんとした広間を見回し、ネアは目を丸くする。
エーダリアも、どこか呆然とした顔で周囲を見回していた。
「いいか。ここからは、何も持ち帰るなよ。拾った物があれば捨ててゆけ」
「私は、まだ何も拾っていません」
「ああ。私も何も拾っていない。こちらの物に触れたといえば、靴底くらいだろうか」
「その程度であれば問題ない。道具類を持ち帰らなければ、障りを受けるようなことはないだろうからな。くれぐれも帰り道で手を離すなよ?」
アルテアが手に持っていた杖をかつりと鳴らすと、ネア達の足元にざあっと魔術陣が浮かび上がる。
転移とは違う手法なのだなと頷いている内に、周囲の景色が変わった。
(……………わ、)
まるで眩暈で翳った視界のように、くらりと世界が揺れ、それが晴れるともう、ネア達は先程のリーエンベルク前広場に立っている。
ネアはディノの腕の中にしっかりと抱き締められていたし、エーダリアは、ノアやヒルドにしっかり腕を掴まれて立っていた。
まるで、ほんの一瞬だけ不思議な夢を見ていたかのよう。
「……………も、戻ってきました」
「ネア、……………良かった。無事だね」
「ほわ、アルテアさんは?」
「おや、一緒に戻ってこなかったのかい?」
「手を握ってくれていた筈なのです。……………む?」
お迎えの魔物はどこに行ってしまったのだろうと首を傾げたネアは、正面にいるエーダリアが、青い顔で指を差した方を振り返り、ぴっと飛び上がった。
幸いにも、大事な使い魔を道具屋のあわいに置いてきてしまったということはなく、アルテアはそこに立っていた。
けれども、少し離れた森側になぜアルテアが立っているかと言えば、森からゆっくりと姿を現しつつある、一体の尖り棒と対峙しているからである。
こちらの視線に気付き振り返ったアルテアは、赤紫色の瞳を眇めて顔を顰めている。
「……………おい。何だこれは」
「私に聞かれても、なぜフリル棒が産まれるのかは、謎に包まれているのです。そして今度は、水色フリルにアヒルさんアップリケなのですね……………」
「ご主人様……………」
「わーお。やっとの思いで夏至祭の棒を倒したばかりなんだけど、またこれかぁ…………」
「ふざけるな。あれを壊したのは俺だろうが」
「じゃあ、その尖り棒はアルテアに譲るよ。僕は、………ええと、エーダリアやネアの健康に問題がないか、調べないとだからね」
「おや、その尖り棒は、ネイ、あなたを見ているようですが?」
「え?!何でまた僕なのさ?!」
奇妙な体験をしたばかりで、ここはゆっくり冷たい飲み物などをいただきたいところだが、どうやらそうもいかないらしい。
そして、たいへんな苦戦を強いられたフリル棒は、どうやらもう一体いたようだ。
あの戦いの壮絶さを思い出してへにゃりと眉を下げたネアは、その後、再びの水色フリル棒との戦いに身を投じる事になる。
すっかりくたくたになって昼食をいただけたのは、尖り棒祭りの終わりを知らせる鐘が鳴り、ウィームが夕刻に差し掛かる頃であった。
道具屋のあわいに颯爽と迎えに来てくれたアルテアも、フリル棒には弱ってしまい、今晩はリーエンベルクに泊まるらしい。
大活躍したのかどうかは分からないが、沢山使わせて貰った銀色の棒を綺麗に手入れして道具箱にしまいながら、ぼんやりと考える。
尖り棒祭りでしか使われないこの道具を取り出すのは、十年後になるだろう。
そうして使い込んでゆく内に壊れるような事があれば、この道具もまた、あの不思議な世界で舞踏会に参加するのだろうか。
今夜もどこかのあわいで、あの道具達が舞踏会を開いているのかもしれない。
そこにはきっと、青い瞳の王子もいるのだろう。




