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ヴァーベナとラベンダー




ぼうぼうと燃える火の中を、ゆっくりと歩いてゆく。

そこには崩れ落ちる美しい王宮があり、風に揺れていたラベンダー畑がある。

隔離結界でもないのに立ち塞がった目に見えない透明な壁を拳で打ち、ひび割れたその壁面には血が飛び散った。



どうかお願いだ。

夜よ、明けないでくれ。

あの白い光で無残に焼け爛れたものを見せつけ、この心を引き裂かないでくれ。



待っても待っても誰も戻らなかった暗い浜辺や、沢山の茶器を揃えたのに誰も来なかった星空の下のお茶会。

ばらばらと降り積もり、笑っていても粉々になりそうなどうでもいい夜のその畔から、あの日に当たり前のように食べ物を分け合ってくれた彼女の眼差しがこぼれ落ちてゆく。



(そこにいたのは、僕と同じ瞳をした女の子………)



君がいて、決して分かりやすくは微笑まないけれど、そのお喋りで唇の端を持ち上げて、部屋を満たしたヴァーベナとラベンダーの香りに幸せそうに頬を緩めている。


クッションを抱えて何でもない事を沢山話したあの夜に、こんな風にお気に入りの香りに包まれて夜を過ごしたいのは君だと気付いてしまった。


抱き締めて腕の中に閉じ込めて、そうすればきっとよく似た二人は分かり合えるけれど、それだけでは不十分な気がする。

けれども、何が足りないのかはそこからまた探してゆけばいい。



そう思って、彼女が喜びそうな香りの石鹸やクリームを沢山買って、クッションやキルトを揃えて、きらきら光る鉱石の置物や、珍しくて美しい名前の酒を沢山集めた。


幸せな幸せなあの夜。

わくわくしながら彼女とのこれからを考え、どこかで上がった戦火の事だなんて気にもかけていなかった。




「……………っ、」



鳴り響いた鐘の音に目を覚まし、ひたりと滲んだ冷や汗を拭う。

ここはどこで、何が正しかったのだろうと浅く息を刻み、指に嵌められたリンデルの手触りに震える安堵の息を吐く。



これが現実だと知るだけで泣きたくなるのは、もう、家に帰れば家族がいるからだ。



(ネアがいて、エーダリアとヒルドがいて、シルがいる。グラストとゼノーシュがいて、…………いつもボールを投げてくれるアメリアがいて、…………たまたま行き合った時くらいしかお喋りはしないけれど、僕と友達になったシバがいて…………)



だからもう、先程まで心を落としていたあの冷たい悪夢の中には戻らない。

皆の集まる部屋に行かなくても、廊下に寝ていても誰かが見付けてくれる寂しくないところ。



そこはもう、自分の家になったのだから。





「…………ねぇ、目が覚めたのなら朝食を食べに行かない?」

「うーん、やめておこうかな。今日はさ、大切な仕事があるんだよね」

「もう、またそれなの?お互いに束縛し合わないと決めたのだから他の誰かと遊んでいても構わないけれど、私の事を蔑ろにするようであれば…」

「………そうしたら、もうお終いかな。僕はそれでもいいよ。君があまり乗り気じゃなくなったのなら、もうやめておこう。楽しく過ごせないのなら、こうして過ごすのも億劫になるものね」

「っ、わ、………私はそんな意味では………」



慌てたように視線を彷徨わせた藍色の髪の妖精に、にっこりと微笑みかける。

特に警戒するべき必要もないので少しだけ眠っていたが、やはり、恋人ですらない相手の寝台では夢見も悪いようだ。



(もしかすると、…………部屋で焚かれたヴァーベナの香りのせいかもしれない………)



唇を噛んで項垂れた彼女の頭をふわりと撫でながら立ち上がり、周辺にこちらの様子を伺う者の気配がないかを確かめ、ゆっくりと伸びをした。


背後では、この屋敷の扉を開ける為の鍵となった妖精が何かを喋っている。

それに適当な相槌を打ちつつ、カーテンの隙間から、中庭の噴水とそこに落ちた時計塔の影の角度を計算した。



(……………予定より少し早いけれど、このくらいで始めても支障はないかな)



二度めの鐘の音は、教会から聞こえてきた。

鍵の迷宮と呼ばれるこの屋敷の裏手には、重なるようにして立派な聖堂が建てられている。


外から見ればここに屋敷などは見えないだろうし、聖堂の影の中に何軒もの屋敷が立ち並ぶ影絵があると知っている者も、こちら側へは招かれなければ立ち入る事は出来ない。



例えばこんな風に、その屋敷に暮らす住人の招待と執着を得られなければ。

じゃあねと手を振って部屋を出ると、いつものように出口に向かうのではなく、中庭に抜ける為の柱廊へ向かった。



さわさわと静かな風に揺れるのは、ユーカリの木だろうか。



聖堂の下に澱んだ古い音楽の魔術と影絵の揺らぎの中で、淡い金色の月光の魔術を帯びている。

歩く距離を測りながら、出てきた部屋からこの影絵を出る扉迄の距離と同じだけを歩いた後は、魔術の道へ入り、それと同時に擬態を解いて造形や色彩を本来の自分のものに戻した。



ここは、ザルツの地下にある土地守りの妖精の領地である。



その屋敷に招かれる迄は意外に簡単だったが、こうして、屋敷の中を自由に歩けるようになったのは、七回目の訪問を経ての事だ。


最初は、何か悪さをしないかと警戒した彼女に手を引かれて出口まで案内され、そしてそれを何度か重ねると自分で部屋を出てゆけるようになり、今はもう、ちゃんと出口を抜けたかどうかの追尾すらされなくなった。




(…………まぁ、今日で最後だけれどね)



なかなか手間がかかったなと思いながら中庭に出れば、そこには、さらさらと水音を立てている美しい彫刻とモザイクに飾られた噴水がある。


誰にでも触れられるような場所にさり気なく配置されているこの噴水こそが、土地の魔術基盤への入り口だとは誰も思うまい。


なかなか上手い手法だと感心しながら、噴水の中に記された鍵の魔術に触れて基盤に下りると、古い劇場の形をした魔術基盤と、そこに並んだ基盤を調律する為の楽器に幾つかの念入りな細工をした。



(僕がこんなことをしていると知ったら、ダリルあたりは過保護だって言うのかな。それとも、僕がここまでする事を計算の上で、あの仕事にネアを連れ出したんだろうか…………)



例の子爵婦人は、明確にウィーム中央への嫌悪を示す者ではないし、恐らく、本人の興味はウィームの内政ではなく、諸外国や他領へ向いているのだろう。

けれども、策謀に長けた人物がネアを知り、その言葉や思考に触れたのならば、やはりある程度の手は打っておくべきだ。


ノアベルトの大事な妹は、何かと下僕志願者を増やしてしまう稀有な人間だが、当たり前だけれど、どれだけ正確に彼女を知ってもそうはならない者達も同じくらいにいる。

だからこそ、そのような者達と関わった時は、常に警戒を怠ってはいけない。



特に春と夏の系譜の者達や、陽光や黄系統の花の系譜。

そして、同族の人間達に、ネアが友達にしたくて堪らない女達。


そう思えば、かつてのネアが、ノアベルトと同じように、決して自分を幸福にしない者達へ手を差し出していた事を知る。



(僕の場合は、恋人になったり大勢で馬鹿騒ぎしていたような仲間たちは、結局、僕の望むようなものを与えてくれる存在じゃなかった。僕にとってもそれは違い、彼らにとっても違ったんだろう。ネアもそう。ネアが受け入れて欲しかった人間達はあの子を受け入れなかったし、あの子が欲しがるような女の子の友達は…………、エーダリアやヒルドもいるし、やっぱりちょっと難しいかな)



ふと、考える事がある。



ネアは、どうして同族の人間達に受け入れられないままに、生まれ育った世界で孤立していたのだろう。

勿論、彼女の気質は自分と同じようにそれなりに捻くれているし、背負った過去や健康上の欠損が原因で選択肢から除外されたのかもしれない。

ネア自身が、その選択を受け入れられずに背を向けた事もあるだろう。



けれども多分、その一番の要因は。



(…………あの子の名前だろうな。その名前がもし、何かに繋がり何かを結んだのなら、ネアが森の女神と同じように一人ぼっちになった段階で、付与された祝福や災いが閉じた可能性が高い。完成した魔術………もしくは、魔術に該当する何かが、あの子を、その瞬間から異端なものに置き換えてしまったんだ…………)



他の世界や他の領域ではどうか知らないが、名前を借りるということは、その運命を踏襲してしまう危険も孕んでいる。


女神、或いは森の聖人の名前が結ばれた時、ネアは、あちら側の人間達が無意識に排除してしまうような、その力の依代としての異質な存在になってしまっていたのではないだろうか。



そんな事を考えながら地上に出ると、人気のない聖堂の裏手の雑木林で、思いがけない人物に行き合った。



「ありゃ、もしかして基盤の調整かい?」


影絵を出たところにいたのは、一人の老人だ。

丁寧な擬態をしているし魔術の質さえ変えているが、それが誰なのかはすぐに分かった。

こちらを見て目を瞠っているので、ひらりと片手を振ってもう終わったよと教えてやる。



「…………どうやって中に入った?…………いや、あの土地の管理者は女だったな」

「正確には、土地守りの妖精の姉妹達だね。ほら、僕はそういうの得意だから」

「やれやれだな。基盤の掌握は済んだのか」

「問題なく済んでいるよ。………あの手の人間はさ、家族や恋人を人質に取られるよりも、自分の命や財産を奪われるよりも、土地そのものを損なうぞって脅すのが一番だからね。ま、アルテアもそう考えたからここに来たんだろうけどね」

「約定はこちらで取り付けてある。後で誓約書を持っていくから、そこに土地の基盤の魔術を結び付けておけ」

「あ、そっちは終わってたんだね。助かるよ。…………僕もさ、興味のない女の子を立て続けに篭絡するのは、さすがに疲れるなって思っていたところだったんだ」

「使った妖精は始末しておけよ」

「大丈夫だよ。あの子が約束を破って、自分から僕に連絡すればいいだけだから。あんな簡単な約束だけれど、契約の不履行で対価を取るのが、どんな仕掛けよりも手っ取り早いんだよね」

「お前らしい魔術誓約だな…………」

「まさかそれが、自分の命を食らう術式だなんてあの子は思っていないだろうけどね。…………って、ありゃ。…………思ってたより早く片が付いたな。さっきまで会ってたばかりだったのに…………」



魔術のうねりとその顛末で潰えた命の気配に眉を顰めると、隣にいた擬態中の選択の魔物が、呆れたような溜め息を吐くのが分かった。



「余計な騒動を持ち込む前に、普段からそれを使っておけ」

「はは、嫌だなぁ。今のは道具だけれど、普段の女の子達は普通に恋人なんだからそんな事しないよ。…………勿論、僕の大事な家族に近付いたら、ぱちんと泡が弾けるみたいに消えちゃうようにはしてあるけどね」




月明かりの落ちる聖堂の前でアルテアと別れ、リーエンベルクに戻ったのは夜遅くになってからだった。


もう少しだけ早く帰れはしたのだが、何も残っていない筈なのに何も持ち込みたくないと思ってしまったので、一度自分の城に戻って入浴してから帰る事にしたのだ。




「おや、…………どこかで何か悪さを?」

「わーお。すぐに気付かれるのって、何でなのかな…………」


廊下で擦れ違ったヒルドが、そんなことを言う。

こちらを見た瑠璃色の瞳に揺れたのは、それはもう家族のようなものにしか見えない、不思議な労りの色。

その温度と、声の柔らかさに、じわりと滲むような安堵と喜びを覚える。



「大方、王都かザルツあたりでしょう」

「ありゃ。ザルツで正解だし、あの土地はもう、基盤を押さえてきたから、何かあったらそれを揺さぶればいいよっていうのはさて置き、どうしてそこまでばれるのかなぁ」

「私自身が、何かを調整するのであれば、そのあたりからだと思っていたからかもしれませんね」

「え、一人でそう言う事をするのはなしだからね?」

「ネイ、…………それはあなたもなのでは?」

「…………うん。まぁね。…………でもほら、僕はこれでもそういうのは得意だから」



何だか心の中がもぞもぞしてしまい、そう誤魔化すと、ネアが会食堂にいることを教えられた。

どうして唐突にそれを教えられたのだろうと目を瞬けば、遅くまで外に出ていて疲れたでしょうとヒルドが微笑む。



「…………そうだね。…………うん。そうかも。僕の大事な女の子とお喋りをして、癒して貰おうかな」

「ええ。そうするといいでしょう。桃のシロップ煮もまだ残っている筈ですよ」



という事は、ネア達は夜のおやつの時間なのだろう。

真夜中のおやつには背徳的な喜びがあると考えているネアは、時々、こんな時間のおやつを楽しむ事がある。


元々、リーエンベルクの厨房には騎士達やゼノーシュの夜のおやつも作り置かれているので、頼めば簡単に出てくるらしい。




「まぁ、ノアも桃のシロップ煮を狙ってきましたね?」

「おや、ノアベルトもかい?」



会食堂に行くと、こちらを振り返ったネアが、そう言って微笑んでくれた。


淡く夜に滲む星屑と花明かりの燭台の魔術に、小さな硝子の器に入った冷やしてある桃のシロップ煮がテーブルに置かれている。



「うん。僕も急に食べたくなったんだよね」

「ふふ。では、お喋りしながら、一緒にいただきましょう。それと、今日はリノアールのクリーム屋さんで、商品の入れ替えセールがあったのです。ノアにもお土産のちびハンドクリームを買ってきましたので、ヴァーベナとラベンダーの香りの中から好きなものを選んで下さいね」

「…………僕にもくれるの?」



びっくりしてそう問いかけると、ネアは、勿論だと言って、にっこり微笑んでくれる。



だからこんな夜は、大事な大事な家族と、取り留めのない話を沢山するといいのだと思う。













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