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妖精の薬屋と毛玉のお墓




雲間から青空が覗くその日は、光量は少ないものの光が澄んでいて、ほんの少しだけ肌寒いかなという穏やかな風が吹いていた。

ネアは、こんなウィームの天気も大好きだったのだが、洗濯物となるとそうも言っていられないのも承知の上である。


なので、洗濯妖精達が魔物の巣材を持っていってくれているともなれば、今日はもう少し晴れてもいいのになと思って空を見上げた。



春の遅いウィームは今、最も多くの花々が咲く時期である。


薄紫色のライラックの花が満開になり、みっしりと咲いた花に曇りの日の光が落ちる葉影の何とも言えない繊細さが美しい。

その下に咲いているのは、ライラックより紫の色味を強くしたアガパンサスとラベンダーで、同系色の色合わせの絶妙さにネアは唇の端を持ち上げた。


どこから種がやってきたものか、その隙間に宝石のような赤い実を実らせたのはスグリだろうか。

レースのような細やかな水色の花を咲かせているのは、どんな名前の植物だろう。

見る角度を変えると、花色が水面のように揺らぐので、ついつい色々な角度から見てしまい、ネアはむふんと満足の溜め息を吐いた。



「こうして、美しい庭園の中を歩いていると、何だか満ち足りた気持ちになりますね。………まぁ、見て下さい!スグリの実を手に入れた栗鼠さんがご機嫌で籠に詰めています」

「籠に入れるのだね…………」

「ふふ、ちびこい籠に詰め込んでいる姿が、とても愛くるしいですね」

「浮気………」

「ディノ、栗鼠さんが怪訝そうにこちらを見てしまうので、見ず知らずのもふもふに対して浮気疑惑をかけてはなりませんよ?」



リーエンベルクの庭には様々な花々が植えられているが、今歩いている区画はこの季節のお気に入りである。


ネアはこの水の香りのする爽やかな季節の香りを胸いっぱいに吸い込み、隣でしょぼくれている魔物の顔を見上げた。

悲しげに伏せた瞳は真珠色の睫毛が頬に影を落とし、なんとも儚げで、水紺色の瞳は深く澄明で震えるようだ。


伴侶が栗鼠を愛でたからと言って、ここまで悲しい目をしているだろうか。



(……………これはもしかして、)



「ディノ、…………巣をお洗濯に出してしまったので、しょんぼりなのですか?」

「…………巣がなくなった」

「ええ。でも、やはり時々はお洗濯に出しましょうね?」

「…………洗濯なんて」

「おまけに今回は、缶スープの包装用のリボンが、巣の中に持ち込まれていました。あの中で色々なものを収集してはいけませんと、約束したでしょう?」

「…………洗濯なんて」

「まったくもう。三つ編みを引っ張って差し上げますので、元気を出して下さいね?」

「ネアが懐いてくる…………」



よいしょと手を伸ばして三つ編みを掴んでやると、魔物は少しだけ元気が出たようだ。


三つ編みを引っ張って心を持ち直す伴侶とはどうなのかと考えかけたが、そもそも、巣材を洗濯に出されて落ち込んでしまう魔物の王様もどうなのだろう。

あまり深く考えると心の迷宮に迷い込んでしまうので、ネアは、魔物はたいへん繊細な生き物なので大事に守ってやらなければならないと頷いておいた。



「…………む」

「何か見付けたのかい?」

「ディノ。…………この美味しそうな果実は、食用でしょうか。昨日まではありませんでしたし、意図的に植えられたものではなく、種が落ちて生えてきたもののように見えませんか?つやつやした透明な赤い葡萄のような実がたわわになっていて、明らかに初めましての植物なのです」



ネアが目を止めたのは、スグリとは違う色合いの、赤い実をつけた見慣れない植物であった。


野苺くらいの大きさに株を広げ、小ぶりながらもプラタナスのような形の葉を持つその植物は、花壇の外側に生えている事からして、元々庭園に植えられていたものではなさそうだ。



「…………なんだろうね。成就の魔術の気配を感じるから、因果の系譜のものかもしれない」

「という事は、毒ではなさそうなのです……?」

「祝福の結びだから、毒ではないと思うよ。………けれども、人間にとって安全なものなのかは分からないから、このまま近付かないようにして、誰かに聞いてみようか」

「むむ、良いところに外回廊を歩くエーダリア様を発見したので、さっと捕まえてきますね」

「捕まえてしまうのだね…………」



ネアは、執務の合間かもしれないと僅かに躊躇したのだが、最近の修行で、どんな些細な事も、気にかかった時に早めに手を打っておくという学びを得たばかりである。


折角の教本の教えを無視してはならぬと、ててっと外回廊に向けて走れば、三つ編みを持ったままだったので、引っ張られた魔物も嬉しそうではないか。


エーダリアはすぐに駆け寄ってくる部下に気付き、その場で立ち止まって待っていてくれた。



「………ネア?何かあったのか?」

「エーダリア様、お急ぎですか?もしこの後にお仕事が詰まっていなければ、ご相談したい事があるのです」

「いや。インク協会の一件が片付いたところだからな。夕刻までは、これと言って急ぎの執務はない」

「では、庭師さんのお話をお聞きするか、どなたか植物に詳しい方を教えていただけませんでしょうか。………実は、昨日までは見かけなかった植物が花壇の外側に出現していて、赤い綺麗な実がなっているのです。庭師さんであれば既に把握済かもしれませんし、もし、今日はお話が難しいようであれば、あの植物をどなたかご存知ではないかなと思いまして」


そう切り出したネアに、エーダリアも、なぜ相談を必要とされたのかをすぐに察したようだ。

難しい顔で考え込む仕草を見せ、ポケットから魔術通信端末を取り出している。


「………昨日はなかったものなのか」

「ええ。私のお気に入り区画なので、昨日も、このお花は蕾だななどと思いながらじっくり観察しましたから間違いありません。些細な事ですが、実もついていましたので、エーダリア様にお聞きしてみました」

「共有して貰えて助かった。…………リーエンベルクの庭は、小さな害のない妖精達は自由に出入り出来るからな。時折、森の木の実を植えていってしまう事もある。何年か前に、そうして芽吹いた植物の毒で騎士達が動かなくなった事もあったのだ」



エーダリアがそう言ってくれたので、ネアはほっとして、ディノから聞いた事も重ね伝えた。


ここでエーダリア自身がすぐに調べに行かないのは、万が一にもウィーム領主の身に危険が及ぶとまずいからだ。

近日には祝祭を一つを控え、尚且つエーダリアは、その後にノアと出かける古本市という一大イベントを控えている。

平素からその大事さは変わらないが、今は、いっそうに大事な体であった。




「今日は、庭師を捕まえるのは難しいだろうな……」



エーダリアがそう呟いた、リーエンベルクの庭を管理する庭師は、古くからこの地に暮らす妖精である。


この広大な庭を三人で管理している彼らは、庭妖精と呼ばれている、言葉通りに庭を管理する事を糧とする妖精で、人間の生活に寄り添い暮らす優しい隣人だ。


だが、そんな庭妖精達には、人間の生活に寄り添う妖精種だからこその、少し厄介な決まり事が幾つかあった。



「………は!そうでした。今日は、満月の前の日ですものね………」

「ああ。この日ばかりは、雇用主である私にも、彼等を呼び出す事は出来ないからな。植物に詳しい騎士達でもいいのだが、ヒルドの方がいいかもしれない。恐らく、元は森の植物だろう」



庭妖精は、その庭の持ち主にのみ仕え、その主人の召喚にしか応じない不思議な妖精だ。


庭仕事への注文がある場合は、注文書を書いて庭仕事用の道具小屋に置いておけばいいのだが、その場合にも、主人の署名が必要となる。


穏やかに微笑む老人の姿をしている事が多く、庭で偶然出会った場合には、普通にお喋りをすることも可能なので、ネアは何度かお喋りしたことがあり、暫くの間は人間の庭師だと思い込んでいた。


彼等には、召喚方法以外にも約束事があり、満月の前の夜と、大晦日や年明けの最初の日、祝祭の安息日には用事を言いつけてはならない。


これは、隠れ妖精や祝福妖精と呼ばれる、本来は人間が見ていないところでこっそり色々なものを整えておいてくれる妖精達が持つ決まり事で、約束を破ってしまうと良くない事が起こると言われているそうだ。


この分野には、夜中の内に靴磨きをしてくれる妖精や、夜明けまでにお鍋を磨いておいてくれる鍋磨きの妖精など、様々な種類の妖精達がいる。

そうして人間達の暮らしに近いところに現れる妖精達は、約束を破りさえしなければこの上なく頼もしい隣人でいてくれる半面、障りを受けるとその領域のものを損なってゆくので注意が必要でもあった。


その約束はどれも、妖精達本人が定めたものではないとされている。

彼等がそこに在る為の対価でもあると考えられており、実際に約束を破られてしまった妖精達は消えてしまうので、決して損なってはいけない大切な物なのだ。



(だから、どんな不都合があるのだとしても、彼等との約束だけは破ってはならないのだ…………)



残念ながら庭妖精の知恵は借りられないとなり、ヒルドが呼ばれる事となった。

ネア達がその場に留まったのは、もし、人間にとってあまり良くないものであった場合は、ヒルドと一緒に、謎の赤い実対策班に入る為だ。



インク協会との話し合いで取り決めた新しい決まり事などについてお喋りをしながら待っていると、すぐにヒルドとノアが来てくれた。



「まぁ、ノアも一緒に来てくれたのですね」

「うん。ヒルドの部屋でボー………たまたま一緒にいたからね」

「ボール遊びだったのかな…………」

「まぁ、ヒルドさんのお仕事の邪魔をしていたのです?」

「ええと…………」

「今朝は、騎士棟からの帰り道で、五個もボールを拾いましたからね。一度、使い終わった後のボールの扱いについて、しっかり話し合いをさせていただきました」



にっこり微笑んでそう教えてくれたヒルドに、ネアは、ああ、お説教を受けていたのだなと得心する。

だからこの義兄は、そんな場所から解放されて、ちょっぴり嬉しそうに現場に駆け付けたのだ。



「え、妹が凄い冷たい目で見るんだけど………」

「リーエンベルクは皆で暮らしている場所ですし、ボールはうっかり踏んでしまうと危ないので、狐さんの時でも、遊んだボールは片付けられるようになりましょうね?………それに、この通り、ディノがすっかり落ち込んでしまうので、一度に使うボールは一個に制限するべきでは?」

「ノアベルトが…………」

「ありゃ…………。でもさ、何個もボールを追いかけると、贅沢な気持ちになるんだよね」

「やれやれ。少しも反省しておりませんね。………ネア様、問題の植物はどちらに?」

「はい。ご案内します」



エーダリアとノアがその場で待機となり、ネア達は、ヒルドを連れてその植物を見付けた場所に戻った。

花壇からはみ出るようにしてぴょこんと茂った植物を指し示せば、ヒルドが僅かに眉を寄せる。


調査の為の接近なので先程よりも近付いてみたところ、赤い実は、硝子細工のようにきらきらと輝いていた。


「…………これは、…………ネア様、触れたりはされておりませんね?」

「は、はい!祝福の魔術が結ばれていると聞いたのですが、良くないものなのでしょうか?」

「恐らく、妖精の薬屋と呼ばれる果実でしょう。怪我をした妖精がいると、祝福の結びとして実をつけるものなのですが、使われた形跡がないので、その妖精には不要だったのだと思われます。本来は祝福のものですが、未使用のまま妖精以外の者が触れると、必要ではない者が採取しようとしていると判断をして反撃をすることがあるので、ご注意なされて下さい」

「…………反撃されてしまうようです」

「触れていなくて良かったね」

「はい。ディノが注意を促してくれなかったら、私は、摘んでみてから食べれるかどうか思案していたかもしれませ…………みぎゃ?!」

「ネア様?!」

「ネア!」



ここでネアは、思っていた以上に狭量であった妖精の薬屋から、恐ろしい攻撃を受けた。


人間に摘まれてしまう可能性を感じて荒ぶってしまったのか、妖精の薬屋は、葡萄のような実を爆発させてネアの顔面にぶつけてきたのだ。



「……………えぐ」

「ネア、すぐに拭いてあげるから、目と口を閉じておいで」

「…………ふぁい」



その結果、熟しきった実が爆発しつつ顔面に直撃した場合、こうなるだろうという悲劇が起きた。


ネアは、顔面からぽたぽたと赤い果汁を垂らし、真っ赤なべたべたで覆われ目を開けられないままふらりとよろめく。

何が起こったのかは直前の爆発を見ていて察したので、目を開けてはならない事はわかったのだが、ぷわりと漂う強いお酒のような香りがきつく、閉口する。



「毒ではないようですね。障りや呪いなどもないようですが、念の為にすぐに洗い流しましょう。………っ、……失礼。妖精には堪える香気ですね………」

「酒精の香気に似ているようだけれど、そのようなものなのかい?………ネア、気になるかもしれないけれど、今は動かないでいておくれ」

「…………むぐ」


ネアは目をぎゅっと閉じ、尚且つ口もあまり開けないようにして前屈みになったまま、ディノに柔らかなタオルのようなもので顔を拭って貰った。

口をむぎゅっと噤んだネアに気付いてくれたのか、ディノはすぐに、頷くだけで答えられる質問をしてくれる。


どこか痛いところはないか、沁みたりはしていないか、その他に体調を損ない始めているような気配はないかどうか。

幾つかの質問の全て首を横に振れば、ほっとしたようにディノが息を吐いたような気がする。


ぽたぽたとしたたる果汁は綺麗になったようだが、まだ目や口は開けずにいた方がいいらしい。

とは言え、少しだけ周囲の様子を窺う余裕が出てきたところで、ネアは、ディノとヒルドの会話が気になって仕方なかった。



(ヒルドさんは、大丈夫なのだろうか………)



心なしか、その呼吸が荒くなっていないだろうか。

いつものような穏やかな声で話しかけてくれることもなく、心配になったネアは体をヒルドの方に傾ける。



「……………っ、強い酒に近しい効果のようですね。まさか、ここまで強い香りだとは………」

「この実の影響だね。君程の影響はないと思うけれど、強い蒸留酒のような香りがする」

「…………ええ、そのようです。………申し訳ありません、ディノ様。ネア様の魔術洗浄は、お任せしても?…………麻酔代わりに与えられた香気なのでしょう。………酩酊に近い影響が出そうです」

「うん。ではネアは私が見るよ。君はどこかで休んでいるといい。………やはり、妖精には強く作用するものなのだろう」

「………魔術洗浄や薬草の調合に長けていらっしゃるのは、やはりアルテア様でしょうか?私が使い物にならない以上、そのような知識を持たれる方にも診ていただいた方が良いかと思われます」

「では、アルテアを呼ぼうか。…………ネア、顔は綺麗に拭いたけれど、まだ目を開けないようにするんだよ」

「むぐ」

「お力になれず、申し訳ありません。こちらの植物の対処は、私が行いましょう。どうぞネア様を宜しくお願いします」



まだ目を開けて周囲の様子を窺う余裕はないが、何やら、ヒルドがこの香気に影響を受けているらしい。

話を聞いている限り、怪我をした妖精の為に実らせたものなので、強いお酒のような香りには、麻酔代わりの酩酊に近い効果があるようだ。

そしてそれを、不埒な盗人の撃退にも役立てようとしていたのかもしれない。



ネアは視界情報が皆無となっているので、ディノに持ち上げて貰い、三人はまず、エーダリアとノアの元へ向かう。


真っ赤な実が爆発したことを知っているネアは、綺麗な白い装いのディノに抱えられる事には抵抗があったのだが、魔物はきっとこんな事では汚れないだろうと、必死に自分に言い聞かせた。




「え?!僕の妹に何があったのさ?!」

「ヒルド?!…………ど、どうした?何かあったのか?」

「…………いえ、私は酩酊に近い状態が付与されただけですから、この香りから離れれば、すぐに回復するでしょう。ネイ、ネア様が見付けたのは、妖精の薬屋という植物だと思われます。人間に採取されると思ったようで、実を弾けさせ、ネア様は近くにいたのでそれを顔に浴びてしまわれました。………妖精以外の者が採取しようとしていると認識されると、厄介な事になるようです」

「うん。分かった。………エーダリア、念の為にグラスト達を呼んおこう。シル。僕は、二人がこちらに来たら追いかけるよ」

「うん。痛かったり、沁みたりはしないようだよ。…………ネア、すぐに水で顔を洗えるから、もう少し我慢しておくれ」

「…………ぐむ」

「私とヒルドはここに残り、グラスト達が来てからその植物の対処に当たることにしよう。…………ネア、気付いてくれて本当に助かった」

「むぐ」



ネアは、とは言えお騒がせして申し訳ありませんとも、ヒルドは大丈夫なのだろうかとも、何も言えないままに浴室に運ばれた。


残念なのは、逃げ沼で泥人形になって運ばれた時よりも感覚が残っているからか、その分、もし、実の汁が人体に良くないものだったらどうしようかと、ついつい余計な事を考えてしまう。

肌が水玉になったことのある乙女は、あの日の悲しみを忘れてはいなかった。



(…………もしそうだったのなら、せめて、あの汁をかぶったのが私で良かったのだわ。魔術抵抗値は、リーエンベルクの人間の中で一番高いそうだし、守護も沢山貰っているもの)



今のところ特に肌に問題は起きていないようだが、これがエーダリアや騎士達などであればどうなるのかは分からない。

試してみる訳にもいかないので、せめて自分で良かったと思うしかなかった。



(自損事故ではあるけれど…………、)



このような事故については、ネアは、こちらの世界に来て早々に己の過ちを責めるのをやめている。

隣の花を見てにっこりした事で祟られかけたり、一番熟している実から摘んでくれないと怒り狂ったりと、こちらの世界の植物の系譜はいささか狭量なのだ。


エーダリアもチューリップに飛びかかられた事があるし、ノアは団栗で撃たれた事もある。

ヒルドのように、森などの資質に特性を持たない限りは、そうそう避けようとして避けられるものではなかった。


しかし、そう考えて安堵していたネアは、浴室に応援に来てくれたノアから、恐ろしい話を聞くことになる。



「…………ノアベルト?」

「…………シル、僕も洗って欲しいな」



そんな悲しげな声が聞こえてきたのは、ネアが三回の魔術洗浄を終え、髪の毛も顔もびしゃびしゃになってタオルで拭いている時の事だった。


ディノは思っていた以上に甲斐甲斐しく面倒を見てくれ、ネアがむぐむぐしている内に、部屋のポットから冷たい紅茶をグラスに淹れてきてくれたくらいだ。

この顔を拭き終われば美味しい紅茶が飲めると、ネアがやっと張り詰めた心を緩めた直後の事であった。



「むぐ。…………ぷは!まさかノアも、爆発されたのですか?」

「僕だけじゃないよ。一緒にいたエーダリアもだからね」

「ぎゃ!」

「幸い、あの実には妖精を酩酊させる香りと、溶かした飴みたいなべたべたした汁以外の問題はないようだね。でもさ、タオルで顔を拭ったんだけど、まだ目が開かないんだけど…………」

「私は、安全の為にまだ目を開かずにいるのですが、とても嫌な情報を聞きました…………」

「…………ネア、念の為に、目はアルテアが来るまで開かないようにしておこうか。痛めてしまうといけないからね」

「…………ふぁい。言われてみれば確かに、お口を開くときに、唇の端がまだべたべたしていたのです…………」



溶けた飴というあまり心に優しくない表現を頭の中で噛み砕き、ネアは、恐怖にぶるりと震えた。

前髪や生え際の髪の毛も犠牲になった筈なので、そちらがどうなっているのか心配でならない。

だが、まずは何よりも、睫毛を全て失う危険を何とかして回避するしかなかった。



「ネア、ここにグラスがあるよ」


ディノが、顔を拭き終えた伴侶に、そっとグラスを持たせてくれる。

お礼を言って両手でグラスを持ち、ネアは、ふわりと漂う紅茶の香りに癒されながらちびりと飲んだ。



(…………美味しい!)



そこまで長い時間が経った認識はなかったのだが、喉はすっかりからからになっていたようだ。

体に染み渡る紅茶の美味しさに何だか感動してしまった人間は、万感の思いで幸せな溜め息を吐いた。



「…………ふぁむ。…………ふぁ、やっと飲み物で潤いました。ディノ、有難うございます」

「え、僕も何か飲みたい…………」

「ノアベルトは、…………顔を洗ってからにしようかな」

「…………うん。僕も今迄に色々な目に遭ったけどさ、シルに顔を洗って貰う事になるとは思わなかったなぁ…………」



因みにノアは、最後までディノに顔を洗って貰うしかなかったネアとは違い、最初の一回だけを手助けして貰えば、あとはもう一人で洗えるらしい。


こんな時に、自分以外の誰かに洗って貰うとなると、顔程に作業がし難いところはないのだと知ってしまったネアは、それを知って羨望の思いで足踏みをする。

おまけにまだ目が開けないので、ノアがディノに顔を洗って貰うという歴史的な瞬間を目撃する事すら出来なかった。



「…………おい、何でノアベルトまで洗われてるんだよ」



ネアが二口目の紅茶を飲んでいると、浴室にアルテアの声が届いた。


靴音などが聞こえなかったので到着に気付けずにいたが、ネアは慌てて声のした方向を振り向き、頭の上にぼすんと手のひらを載せられる。


こんなに近くに居るのに、どんな眼差しでこちらを見ているのかすら分からない。



「むぐ。赤い実が爆発したのです…………」

「どうせ、お前が手を出したんだろう」

「だ、出してません!私は、危うく摘み取ってしまうところだったと口にしただけで、あの実めが、神経質過ぎたのですよ!」

「…………あ、因みにあの実が爆発したのって、ネアが最初じゃなかったみたいだよ。だから多分、ネア達が見付けた時にはもう怒ってたんだと思う」

「なぬ…………」

「グラストが、騎士棟でゼベルも顔を洗ってるって話してたし、他にも手がべたべたになって洗ってた騎士がいたみたいだよ」

「魔術洗浄は、既にとりかかっていると聞いたからな。問題の妖精の薬屋を見てきたが、近くに、木漏れ日の精霊も死んでたぞ」

「…………おのれ、犠牲者だらけではないですか」



あまりの被害に戦慄していたネアは、体を屈めてくれたらしいアルテアから、丁寧に目の周りの確認を受けた。

指先で肌を辿られ、唇の端や睫毛の際まで見て貰い、むぐぐっとこそばゆさに耐えながら診察結果を待つ。



「………完全とは言えないな。通常の魔術洗浄では限界があるんだろう。まずは、目を開けられるようにしてから、もう一度魔術洗浄だな」

「…………ぎゅわ。お顔がぱりぱりになりそうです」

「皮膚は大丈夫だろうが、睫毛の何本かは抜けるかもしれないな。それくらいは覚悟しておけ」

「…………ふぇっく」

「ネアが減るなんて…………」



ネアはその日、慎重に開こうとしていてもぴりっとなる目蓋を開くのに大変な苦労を強いられ、疲労困憊して浴室の藻屑となった。

どうやらネアよりもしっかりと顔面に赤い汁を浴びてしまったらしいノアもくしゃくしゃとなり、エーダリアは、酩酊対策をしたヒルドに目元の洗浄を手伝って貰ったらしい。



リーエンベルクの被害は、ネアの左目の目頭の睫毛と、エーダリアの右目の目尻の睫毛に、ノアは魔術で治癒したものの、我慢出来ずに目を開けた際にかなりの睫毛が抜けてしまい、あまりの痛さに悶絶していた。


騎士棟では、ネア達があの近くを通りがかる前にうっかり近くを歩いてしまった何人かの騎士が、靴や足などを汚されたが特に大きな被害はなく、気付いていなかったようだ。


しかし、ヒルドはエーダリアの顔の洗浄を終えたところで動けなくなってしまい、ネア達も先に脱落してしまっていた為に、除草の際には大捕物のようになってしまい、今も三人の騎士が必死に顔を洗っている。



「つまりさ、その辺りのどこかで、手足じゃ生温いって考えて顔を狙うようになったんだろうね」

「……………ぐるる」

「ネア、アルテアのパイだよ」

「むぐ。…………お見舞いのパイがなければ、私は祟りものになったかもしれません。乙女の顔を狙うなど、万死に値します…………」

「…………やれやれだな」



自室で顔を洗っていたゼベルは、なぜか無傷で済んだそうだ。

当人曰く、お金がなくて討伐した祟りものの毒抜きをして食べていた頃に、扱い難い体液や毒液に耐性が出来たのだと言う。


それを聞いたネアは、あらためて第二席の騎士の特異さを思い知らされたのであった。



なお翌日、ネアとエーダリアは同時に熱を出した。

こちらは、頑強な守護を持つネア達があの実に近付いた事で、怪我もしていないくせになぜ実を狙ったのだと、妖精の薬屋の怒りを買ったからであるらしい。


邪悪な祟りものですら調伏してきたリーエンベルクを襲った祝福の結びをする筈の植物の障りは、同じような被害を出さぬ為に、今後はガレンでも研究されるそうだ。




リーエンベルクの庭の片隅には、妖精の薬屋の犠牲になった毛玉型の木漏れ日の精霊のお墓がある。


そこを通りかかった騎士達がそっと冥福を祈るのは、べたべたした実の汁がどれだけ恐ろしかったかを、身をもって知っているからである。







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