モンスーンと青い鈴蘭の酒 2
ぱたぱたぱた、ざあっ。
突然雨足が強くなった。
周囲の景色がけぶるようになり、雨に叩かれた庭木から緑の香りが立つ。
けれどもその中を歩くと、海忘れの風の異国の香りが混ざり込むのだ。
魔術の天蓋に守られて、ヴェールのような雨の動きを見ていれば、胸いっぱいに吸い込むのは水の香りだろうか。
どこかに行きたい。
ふとそんな事を考えてしまい、ネアはぎくりとする。
それから、ああ、海忘れの風はこんな風に心を動かすのだなと頷いた。
しかし、強欲な人間にとってそんな欲望は口先のものでしかなく、美味しいおやつを控えているリーエンベルクから離れるつもりは毛頭なかった。
何しろ、本日のおやつは、たっぷりの檸檬クリームを載せた紅茶のゼリーなのだ。
これを蔑ろに出来る者が、一体どこにいるというのか。
(でも、この香りは好きだわ…………)
雨に濡れた青い果実と檸檬の香りに、カルダモンとコリアンダー。
淡く淡く滲むその香りに重なる瑞々しい花園の香りがふくよかで、ネアはまた深呼吸をする。
どこかに行きたくなる香りだが、この香りだけで充分ではないか。
そう心の中で呟けば、なぜか、どこか遠くで誰かが愉快そうに微笑んだような気がした。
「……………この領域は、グレアムだな」
「むむ、パーシュの小道のことですか?」
「ああ。迷い込んでもさして支障はないだろうが、…………くそ、魔術の層が薄くて紛らわしいな」
「踏み間違えると、アルテアさんによる事故となるのですね?」
「ほお、それなら自分の足で歩いてみるか?その場合、雨の遮蔽はしてやらんぞ」
「なんという邪悪な魔物なのだ。ご主人様を土砂降りでずぶ濡れにするなど、ちびふわの風上にも置けません」
「なんだその括りは…………」
「ふっ、私にはもう森ウィンムィがいるのですよ?」
ネアがそう告げると、アルテアはすっと瞳を細めた。
たいへん魔物らしい眼差しだが、これは、ちびちびふわふわしている生き物の縄張り争いに他ならない。
ふっと雨足が弱まった一画があり、その部分の景色だけが鮮明に浮かび上がる。
青い青い影を滲ませた庭園の中に揺れるのは、白ピンク色の薔薇と花をつけ始めた紫陽花の茂みだ。
はらりと落ちた薔薇の花びらに、葉影からそっと顔を覗かせた小さな妖精は青い小鳥の姿をしていた。
「……………お前のせいだぞ」
「なぜ突然、何かの責任を負わされたのでしょう。やめるのだ」
「パーシュの小道だ。………ったく。グレアムを呼んだ方が早いな」
「さては、踏み違えましたね。………むぅ。ウィーミア問題を経てグレアムさんが登場するとなると、何だか運命的なものを感じます」
「なんでだよ」
ぶつぶつと文句を言っている使い魔に、そっと手を伸ばして頭を撫でてやれば、低い声でやめろと言われたので、ネアは、ちびふわはつんつん期だなと微笑んでおいた。
(風景の色がまた変わった…………)
ざあざあと、雨はまだ降っている。
けれども異国の風の香りは届かなくなり、薄暗い雨のカーテンの向こうには、ぽつぽつと街の灯のような明かりが揺れた。
雨のヴェールがまるで木立のように視界を切り取り、その様子に気を取られているともう、周囲の景色はリーエンベルクの庭ではなくなっていた。
雨のカーテンが深い森に変わり、ネア達はいつの間にかその中に立っている。
(……………そして、あちこちに人が倒れているのだけれど…………、)
「成る程な。その為の道か」
「…………何やら様子のおかしな人が、あちこちに倒れているのですが、戦場か何かだったのでしょうか?」
「いや、ここはリーエンベルクの外周の道だ。ウィームか、リーエンベルクを損なう為に身を潜めていた者達が、海忘れの風に炙り出されたらしい」
「なぬ。私のお家に何かをしたら許しません!」
ざあざあと音を立てる雨音はそのまま、周囲の景色は深い森に変化していて、その中には、あちこちに黒い服を着た男達が倒れ伏していた。
地面に投げ出された手の指先がさらさらと灰になって崩れてゆく様から、人間ではないのだと分かる。
服装からヴェルリアの民だろうかとぎくりとしたが、よく見れば肌の色が違うようだ。
この肌色となると、砂漠の民やカルウィからの刺客なのだろうか。
そこかしこに倒れ伏している者達を見れば、どれだけ凄惨な殲滅が行われたのかが分かる。
彼等がウィームやリーエンベルクに害を成す者だったのだとすれば、グレアムの道でこうして事切れているのはなぜだろう。
しかし、まだ生き残った者がいるようで、そんな一人が正面から走ってきた。
「……っ、そこをどけ!」
「やれやれだな」
ネア達に気付くと、なぜ真正面から来てしまったのだろうという無謀さで、背の高い赤髪の男はこちらにぶつかってくる。
短く息を吐いたアルテアがこつりと踵を鳴らすと、突然霧がかったように男の姿が見えなくなり、ばさりと服だけが落ちた。
(不思議な靴音だわ。この森の地面では鳴らないような硬い音だった………)
「…………このような場合、この服をひっくり返すと着ていた時のまま層になっているのでしょうか」
「お前の情緒は、まだ行方不明のままか」
「純真な乙女の疑問に、なぜその返答を用意したのでしょう………」
「自分の質問をもう一度考え直してみろ」
「む?」
ネアは、そのような質問くらいは誰でも考えるのではなかろうかと首を傾げたが、魔物的にはいけない範疇のようだ。
これだから繊細な生き物はと首を振り、森の中に踏み込むように前に向かって歩いてゆくアルテアの背中ごしに、背後を振り返る。
するとどうだろう。
歩いて来た筈の道はもうどこにもなく、鬱蒼とした深い森が広がっているばかりだ。
複雑に入り組んだ木々を見れば、獣道すら探せない深く暗い森である。
生い茂る枝は黒に近い緑が禍々しく、夜ではない筈なのに一切の陽光を差し込ませない。
捻じれた木の根が隆起し、木々の幹はごつごつと結晶化してる様は、グレアムの道だと考えると少し意外だった。
もっと繊細で美しい森かと思っていたが、もしかすると、こうして敵を殲滅する為だけの場所なのだろうか。
そう思い視線を戻す頃には、先程まで森のあちこちに倒れていた黒い服の者達の姿はもう残っていなかった。
アルテアの倒した相手と違い、こちらは服も残さず消えてしまっている。
ネアは、服が残らない場合と残る場合の違いがとても気になったが、使い魔にまた情緒を貶されても堪らないので気にしない事にした。
「…………なんだ」
「…………むぐぅ。服が残る方と、残らない方の違いは何なのでしょう?」
「扱う魔術の違いだな。犠牲と選択は、害虫の駆除の仕方は大きく異なる。対価として取られる犠牲に対し、俺のものは崩壊や入れ替えに近い」
「そうなのですね。だからアルテアさんの倒した黒服さんは、すぽんと…」
「情緒はどうした」
「解せぬ。…………っ?!」
その瞬間の事だった。
じゃっと大きな物を振り捌き、背後から何者かが飛び掛かってくる。
アルテアに持ち上げられている姿勢から、襲撃者と正面から向き合ってしまったネアは鋭く息を呑んだが、どこからか飛来した大剣が、飛び掛かってきた男にがつんと当たり、そのまま襲撃者を遠くに吹き飛ばしてしまう。
「…………ほわ。吹き飛びました」
「グレアムか」
アルテアのその言葉を聞くまでもなく、暗い森の奥から姿を現したのは白灰色の髪を揺らしたグレアムだ。
ネアと目が合うと淡く微笑んでくれたが、アルテアの方を見れば、表情を少し険しくする。
「…………迷い込むのは致し方ない事だが、ネアがいるんだ。不用心にも程があるのではないか?」
「リーエンベルクの程近くで、海忘れの吹く日に狩りをしているお前の手落ちだろうが」
「…………海忘れが吹いているのか?」
「ああ。パーシュの道を形成しやすくなる要因になるだろうな。………こいつらはダムハンの暗殺者達のようだが、狩りを始める前に周辺の状況を調べるべきだったな」
「やれやれ、まさかこの日に限って二年も吹かなかった海忘れか………。ネア、巻き込んでしまってすまないな。すぐに元の場所に戻そう」
「いえ、あの不思議な風のせいのようですし、アルテアさんが乗り物になってくれていて危険はなかったので、どうか気にされないで下さいね」
「それでも、怖い思いをさせた。シルハーンは?」
そう尋ねたグレアムに、ネアは、リーエンベルクの庭から迷い込んだことと、ディノは、エーダリアに付き添って夕立ちの精霊に呪われた鈴蘭の酒の呪いを解いているのだと説明する。
顎先に手を当ててその話を聞いていたグレアムは、そんなネアの説明に、だからかもしれないなと低く呟いた。
「今回俺が排除していた者達は、鈴蘭の毒を扱う妖精の暗殺者達だ。その、青い鈴蘭の酒があったのなら、雨の円環の魔術の中からもう、こちらに道が繋がりかけていたのかもしれない」
「まぁ。では、アルテアさんがもふもふ競合に動揺したからではなかったのですね」
「おい。ふざけるな」
「あら、森ウィンムィは愛くるしい茶色のもふけばなのですよ?」
そう言えば不愉快そうな顔をするくせに、選択の魔物は、己のちびふわとしての縄張り意識の高さを認めたくはないようだ。
くすりと笑ったグレアムが、森ウィンムィは可愛いぞと、触れ合い経験者の目で教えてくれる。
すっと伸ばした片手には、光の粒子が集まるようにして先程の男性に向かって投げつけた大剣が戻ってくると、グレアムがぎゅっと柄を握った途端に淡く光って消えてしまった。
「さて、戻り道を繋ごう。迷い込んだ箇所は、…………ああ、ここだな」
「まぁ。そんな事まで分かってしまうのですね……」
「お前が隣にいると、二回に一回は事故るのはどういう訳なんだろうな…………」
「ぐるる……」
「二回に一度か。………少し頻度が上がっていないか?」
「さぁな。またこいつが妙な縁を拾ってきていなければ、相変わらず足元の運命基盤が不安定だというところだろうが……」
少し心配そうにこちらを見たのは、暗い森の中で輝くような灰色の瞳。
夢見るようなその瞳は、まるで黒い森に守られた星の煌めきのようで、鮮やかな色ではないのに吸い込まれてしまいそうだ。
アルテアの赤紫色の瞳とはまた違う、司る物を違えた人ならざる者の美しさである。
「ネア、…………どこかで、土地の魔術との親和性を高めたか?」
「………もしかして、風車小屋の糸車から貰ってきた糸を、ハンカチの刺繍に縫い込んだからでしょうか?」
「いや。そのようなものではない筈なんだが………、土地の魔術の庇護のようなものが、以前より随分と色濃く付与されている気がするんだ」
そんなグレアムの言葉に、ネアはふと、水晶の糸車の回る風車小屋の事を思い出した。
ネアの目には見えなかったが、あの風車の中には羽を回して集めた土地の魔術の雨が降っているのだという。
糸車は、その雨を動力にし、雨そのものを紡いで糸にするのだ。
(ヒルドさんに天井の雲も見せて貰ったから、それでだろうか…………)
違うかもしれないがとその時の事を説明すると、なぜか、グレアムとアルテアは顔を見合わせている。
どこか深刻そうな様子に、何か良くないことをしてしまったのだろうかと眉を下げると、アルテアにぽふんと頭に手を載せられた。
「土地の魔術の意向となると、あのまま海忘れに触れていると良くなかったんだろう。事故かと思っていたが、避難させられたようだな」
「…………まぁ。考えていたのとは逆の理由でした」
「ああ、ネアは、その雨に触れた事が良くなかったと思ったんだな。その逆だ。一時的に土地の庇護が強まった事で、土地の注意喚起が届き、危険や災いから遠ざけられた可能性が高い。該当しそうなものといえば、普段は吹かない海忘れくらいだろう」
「そう言えば、アルテアさんが、雷の妖精さんが宜しくないというような事を言っていたのですが、そやつが近くにいたのかもしれません」
ネアがきりりとしてそう報告すると、なぜかグレアムは困惑したように目を瞬く。
「もし、今日のウィームで観測されたものの事を指しているのなら、あの雷の妖精は、寧ろネアの好きそうな毛皮の妖精達で、大した悪さはしない筈だが…………」
「なぬ。…………わ、私を騙したのですね!」
「お前の反応を考えれば、注意するべき内容にさして変化はないだろうが。言っておくが、見た目に反して獰猛な生き物だぞ」
「はは。確かに撫でるのはやめておいた方がいいな。だが、雨の日の屋根の上で弾んでいる姿は愛らしいものだ。見かけても、近付かないようにさえしておけば怖くはない」
「はい。では今度そんな妖精さんを見たら、眺めて愛でておき、触れないようにしますね」
優雅な淑女の微笑みでそう答え、ネアは、どうだこれが正式な注意喚起であるとアルテアの方を見る。
なぜか使い魔からは疑わし気に見つめられているが、危ないと言われている生き物を触る酔狂さはない。
ネアだって、雷でびりりとやられるのは嫌なのだ。
因みに、本日のウィームで観測された雷の妖精達は、太った猫耳の栗鼠のような生き物で、雷の系譜には他にも多くの妖精達がいるらしい。
(そう言えば、以前に嵐の妖精さんに会ったな…………)
あの妖精の黒い羽は、嵐の日にこそ美しく見えるもののような気がする。
何気なく思い出しただけだが、もしまた通り雨の魔物に虐められていたら、その時こそはミカエルに貰った眼鏡の出番だ。
そうふんすと胸を張ったネアは、貰ったものの活躍の場のないあの眼鏡を、そろそろどこかで使いたいと考えていた。
そう考えるとやはり、人間は危険な生き物なのだろう。
武器を手にすれば、それを使わずにはいられないのだ。
「おかしな顔をしているが、何も企んでないだろうな?」
「可憐な乙女が、叡智の煌めきを目に宿し、優雅な微笑みを浮かべているのではなく?」
「残念ながら、そうは見えなかったな」
「むぐぐ………。人間が手に出来る力と、世界の平和について考えていました。時として邪悪に偏るのもまた、人間という生き物の悲しい宿命なのでしょう」
「…………念の為に言っておくが、妙なものを狩るなよ」
怪訝そうな顔をしたアルテアに言い含められ、ネアは、邪悪さには枷もまた必要なものなのだと思い、こくりと頷いておいた。
「ざっと調べたが、リーエンベルクの方に問題はないようだ。恐らく、こちらの道に迷い込んだ後から、戻れるようになるまでのどこかに、ネアがあの場所にいない方がいいような要素が動いたんだろうな。風は吹き抜けるものだ。特に海忘れは一方方向にしか吹かないから、安心していい」
「まぁ、戻り先の事も調べてくれたのですね。グレアムさん、色々と有難うございました。…………それと、暗殺者さんが沢山いたようですが、何か困った事があれば言って下さいね。きりんさんで一網打尽にしてしまいますから」
グレアムに出口まで案内して貰えば、そこにあったのは小さなクローバーの輪だ。
円環状に生えているクローバーの健やかな緑は、この黒い森の中では異質な清らかさで、特別な場所なのだとひと目で分かる。
ネアの申し出に、にっこり微笑んだグレアムは、もう全部排除してしまったよと安心させてくれた。
その暗殺者達が何だったのかを、グレアムは語りはしない。
だからネアもそれを尋ねはせず、知るという事の魔術が繋がらないようにする。
帰ったらディノとノアに相談し、エーダリア達に報告するべきかどうか決めよう。
「シルハーンには、どのような理由があれ、君をこちらに迷い込ませてしまったことを謝罪しておく」
「むぅ。こちらに迷い込んだのは、土地の魔術の庇護さんの判断なので、グレアムさんのせいではないのです」
「それでも、君が近くから失われるのは、あの方にとって恐ろしい事だろうからな」
そう言われ、ネアはぎくりとした。
使い魔が一緒であるのですっかり安心していたが、ディノがこちらの不在に気付いていたのなら、どれだけ怖がらせてしまっているのだろう。
すぐに帰れる道という事で気が緩んでおり、いつものすぐに成すべき情報共有を、大事な魔物にしていなかったのだ。
アルテアがクローバーの輪に入ってしまったので、青ざめたネアに気付かれずに済んだまま、グレアムとはそこでお別れになる。
淡い転移の薄闇を超えてリーエンベルクの庭に戻ると、ネアは、へにゃりと眉を下げて後ろのガゼボの方を振り返った。
「…………ネア?」
「…………ふぇぐ。ディノに、パーシュの小道に入った事を伝え損ねてしまいました」
「…………そんな事か。ったく。こちらに踏み込んですぐに伝えてある」
「…………そうなのです?」
「そうでもしないと、あちらの儀式を中途半端にしかねないからな」
「………おまけに、アルテアさんが気付いてくれなければ、私はエーダリア様の儀式を台無しにしてしまうところでした。………ふぐ。最近は失敗ばかりなので、どこかで鍛え直してきた方がいいのかもしれません…………」
「やれやれだな…………」
なぜかここで、ネアは、ごつりと使い魔に頭突きをされてしまい、目を瞬いた。
これはもう、あまりにも無様な人間だと攻撃されたのだろうかと震えていると、呆れたような目をしたアルテアは、続けざまに指先で鼻を摘まむ。
「…………ぎゅむ」
「俺は、お前の使い魔なんだろう?違うのか?」
「…………ふぁい。事故報告も出来ない愚かなご主人様の、使い魔さんです」
「使い魔は主人のものだ。俺が報告しておいたのであれば、お前は元よりする必要がない。気付かなかった事こそが問題だと考えるのなら、俺がいたからこそ油断したんだろうが」
「…………そ、そうでしょうか?甘やかされると、怠惰な人間はすっかりそう思い込んでしまいますよ?」
「思い込むも何も、今回はそれが理由だろう。お前が、今迄一人でどこかに迷い込んで、意識浸食も受けていないのに、誰の名前も呼ばなかった事があるか?」
それは、お砂糖のように甘い優しい声ではなかった。
けれども、淡々とそう指摘されたことで、ネアは少しだけ気分を持ち直す。
するべき事に思い至れず、与えられた武器の力に酔いしれていた己の愚かさは鍛え直す必要があるが、とは言え不必要に落ち込むのはやめておこう。
「……………はい。アルテアさんが、使い魔さんで良かったです」
「ほお、今更そう思えるのなら、今後は忘れないようにしておけよ」
「そして私の物な使い魔さんなので、もしどこかにパイなどを隠し持っていたら、献上するべきだと思います」
「なんでだよ」
呆れたようにそう言うくせに、アルテアは、部屋に戻ると、おやつの時間が近いので夜に食べるようにと言い含め、美味しそうなバナナタルトを授けてくれた。
ネアとしてみれば、紅茶のゼリーとタルトは併用出来る品物なのだが、今日ばかりは殊勝な様子を見せておこうぞと、素直に頷いておく。
バナナは、アルテアが扱うのは珍しい果物なので、どこか南国にでも行っていたのだろうか。
そんな事を考えながらネアは、見付けて購入しておいた、物語本を部屋の引き出しから引っ張り出し、背筋を伸ばした。
「…………ネアが浮気する」
「腰紐の運用を許可しますので、この本を読む間の少しだけ、どうか我慢していて下さいね。最近の私は、様々な事に対する対応力が落ちていますので、ここで少し修行をしておかねばなりません」
「それは、修行なのかい………?」
「はい。ちょっと迂闊な主人公が、何度も悲惨な目に遭いつつも学びを得ず、身勝手な主張や迂闊な事を繰り返し、引き続き大惨事になってゆく物語なのです。これを読み、心の中で、なぜここではこうしなかったのだろうと考える事で、対応力を磨き上げる修行になります」
「…………ノアベルトは、学ばないのかな」
ネアの説明に、椅子になっていた魔物はしょんぼりと項垂れてしまった。
ガゼボでの儀式は無事に終わり、雨ももう止んだ。
アルテアも帰り、今はお部屋で晩餐を待っている夕刻の時間である。
「少なくともこの本の中では、さっぱり学ぼうとしないのです。何しろ、転落してゆかない事には題名通りになりませんので、結末ありきの無茶な設定なのですけれどね」
「…………シル。僕の妹が虐待するんだけど…………」
こちらも悲しげに、アルテアへの告白が失敗し部屋に来ていた塩の魔物が項垂れる。
髪の毛がぴしゃりと整えられているのは、銀狐がアルテアにブラッシングされたからなのだそうだ。
「物語の中での事なので、どうかノアは落ち着いて下さいね。晩餐を挟んで夜に読み終えたら、アルテアさんのタルトを切る予定なので、その時に、どうして告白が失敗したのかの話を聞きましょうか?」
「…………その話をしたら、ヒルドに凄く呆れられたから、もういいや。その代わりに、また君の得意な香辛料の入った紅茶を淹れてよ」
「仕方ありませんねぇ。特別ですよ?」
「ノアベルトなんて…………」
「あら、ディノも同じものでいいですか?何でも好きなものを作ってあげますよ?」
「ネアかな……………」
「ご主人様は飲用には向かないので、美味しく飲める物にしましょうね」
海忘れの風の中で、土地の守護が警戒したものが何だったのかは分からないままだった。
だが、ネアが誰かが微笑んだような気がしたと報告すれば、その風のやって来た海の方が調べられるようだ。
ガゼボの中でも、エーダリアが少しだけどこかに誘われるような感覚を覚えたらしい。
ディノが一緒だったので事なきを得たが、そうなってくると放置してはおけないとなったようだ。
グレアムが殲滅した暗殺者達についても、魔物達とエーダリアで話し合うようだ。
そうして議題に上がった事が、ネアにも共有されるかどうかは分からない。
だがネアは、いつ狩りが始まってもいいように、しっかりと己の心を鍛え直しておこうと思う。




