蛸のフリットと海老の呪い
しゃりらりんと、澄んだ音が煌めく。
まるで煌めくように鳴るのは木漏れ日の結晶で出来た素晴らしいベルで、ネアは、そんな商品をみっしりと吊るした特設区画を見上げて胸を熱くした。
ここは、ウィームの高級複合商店リノアールの企画出店の区画である。
風景を移植する魔術で床石の上には可愛らしい小花を咲かせた野原が広がっており、そこに生やした大きな木の枝には、淡い淡いミントグリーン色のベルが沢山吊り下げられていた。
ベルの中には僅かに檸檬色がかったものもあり、透けて落ちる光の色が他のベルと混じり合う。
どこからともなく吹く淡い風にベルが揺れ、その下に置かれた木漏れ日の結晶のグラスがきらきらと輝く様は、何とも言えない美しさだ。
「ぐぬぬ…………」
「欲しいなら買ってあげるよ」
「い、いえ。新しいグラスが必要だという事もないので、いいのです…………」
「大丈夫かい?」
「…………むぐ」
魔物は心配そうにこちらを覗き込んでくるのだが、そのグラスがいらないというのは、本当なのだ。
ネアが心奪われたのは、この展示の風景そのものなので、さすがに根こそぎ買い上げてゆく訳にもいかない。
ただ、こんな木漏れ日の下でごろごろしながらお茶をしたら素敵なのにと、果たせぬ夢に想いを馳せるばかりだ。
ふるふるしながら、しゃりらりんと音を立てるベルと、複雑に色合いを変える木漏れ日に煌めくグラスを暫し眺め、ネアはふらふらとその売り場を後にする。
しかし、試練はその一か所では済まなかったのだ。
「…………ほわ、こ、これは…………」
「妖精工房の品物だね。新しい品物のようだよ」
「なんて綺麗な刺繍作品でしょう。……ポーチに、お裁縫道具入れに、針刺しもあります」
「君の好きそうなものばかりだね。全部買うかい?」
「………ぐぬぅ。しかし、どのお道具も今は必要としていないものなのです………」
「そうなのかい?」
不思議そうに瞳を揺らしたディノに、ネアは苦しみを堪えながら頷いた。
残念ながら、針刺しは持っているし、裁縫道具入れも素敵なセットで揃えている。
ポーチに関しても、鞄ではなく首飾りの金庫を愛用するネアには、必要最低限のものがあればいいのだ。
これが旅先であれば思い出の品物として買う事もあるだろうが、ここは、自宅近くのリノアールではないか。
(が、我慢しよう…………!!)
こうして購入を見送った品物が他の誰かの持ち物になってゆく無念さに、涙を堪えて美しい刺繍作品達から離れると、ネアは、更によろよろになりながら目的の店を目指した。
本日の買い物は、庭に出る時に履くサンダル用の靴下である。
ネアの生まれ育った世界とは違い、こちらの世界では素足にサンダルを引っ掛けて気軽に外に出かけると、転んだりした際に大惨事となりかねない。
転んで地面に手をつく事も勿論だが、サンダルがうっかり脱げるような状態を強要されると、履物を奪うという呪いが成就してしまい帰り道などを失う事があるのだ。
よって、多くのウィーム領民達は、素足でサンダルを履かないか、素足でサンダルを履く場合は身の安全を図れる自宅の庭や温室程度で留める。
どうしてもさらりとサンダルが履きたい場合は、足首で留めるストラップや紐などが付いた物を選ぶ事も出来るし、その備えすらなくサンダルを履いてその辺を歩いている者を見付けたら魔術可動域が相当に高いと見ていいだろう。
なおこれは、ウィーム程に魔術基盤が満たされていない土地ではその限りではない。
そして、可動域が上品な人間は、専用の靴下を買うのが良いのだった。
ウィームの機能性を重視した衣類を集めたという専門店には、小さな妖精達に悪さをされないように、護符を紡いだ糸で編み上げられた靴下が売られているらしい。
(その靴下を履いておけば、うっかりサンダルが脱げても安心なのだとか………)
ネアの基本的な履物は戦闘靴だが、これからの季節は、ささっと庭に出る際にサンダルなどを引っ掛けてゆきたい時もあるだろう。
そう考えていたところ、アルテアから守護が手厚くかけられたサンダルを貰ったので、とうとう噂の靴下も手に入れる時が来たのだ。
みんなはどこで買っているのだろうと聞き取り調査をした結果、何人かの騎士からリノアールのお店を教えて貰い、早速買いに来たのだった。
であるからして、木漏れ日のグラスは勿論の事、刺繍作品を買う予定もない。
ライラック柄のハンカチも、勿論、当初の予定にはなかったものだった。
うっかりその売り場に通りがかり、目を留めてしまったハンカチを手に、ネアは悲しく眉を下げる。
「…………ふぎゅ」
「ハンカチくらいはいいのではないかな?」
「いいと、思います………?」
「うん。そのようなものは、………消耗するのだろう?」
「ふぁい。しかし、隙あらばそういう品物を買い足してくるアルテアさんの持ち込みがあり、ハンカチもすっかり揃っているのです………」
「けれどそれは、君が気に入ったものなのだろう?昨日の仕事では辛い思いをしたのだから、ご褒美に買えばいいのではないかな」
「…………買います」
意志が弱く自分に甘い人間は、そこであっさり清貧な心に別れを告げた。
そのハンカチが、春の夜明けの澄んだ香りがするのも、敗因だったかもしれない。
ここは伴侶も道連れにしようとディノにも野の花とラベンダーのハンカチを購入すると、魔物は渡された小さな正方形の紙袋を手に固まってしまう。
擬態して青灰色になっている睫毛を揺らし、両手で受け取ったハンカチを持ったまま固まっているので、ネアはくすりと微笑んだ。
「ディノも、昨日のお仕事の間ずっと、胸元で丸まっていてくれたでしょう?なので、そのお礼なのです」
「…………ずるい」
「おまけに昨日は、お仕事の帰り道で、自身のあまりの無力さに傷付き弱った私の為に、ザハのケーキを奢ってくれました」
「ネアが凄い懐いてくる……。可愛い」
「あら、この場合は伴侶にとても愛されていると言うのですよ?」
「…………虐待した」
「解せぬ」
なぜか魔物は、震えながら爪先を差し出してきたので、ネアは、解せない気持ちのままそんな爪先をぎゅっと踏んでやった。
まだお買い物途中なので、ここで儚くなってしまっては困るのだ。
このご褒美で、どうか引き続き頑張って貰いたい。
(勿論、昨日の今日で早速お買い物三昧をしている訳ではない…………!)
ネア達は、なぜか今朝はばたついていたリーエンベルクで本日の薬作りを終え、その後に禁足地の森沿いの水路で、誰がそこにぽいしたものか、流されてきた歯ブラシの祟りものを滅ぼした。
見事に武官としての役割を果たしてのけた、日々の研鑽と仕事へのひたむきさを失わない、善良な歌乞いなのである。
そしてお昼近いこの時間に、今日は気分を変えて外食でと考えていた昼食をかねて、靴下を買いに来たのだ。
「…………それにしても、今日のリノアールはお客さんが多いですねぇ」
「うん。あのグラスかな…………」
「私もそう思ったのですが、あの売り場に急ぐ様子もないので、たまたま人手が多い日なのかもしれません」
その後、無事に靴下を買えたネアは、ディノに視覚的な遮蔽を行って貰いつつ、大事なお買い物を首飾りの金庫に押し込み、周囲を見回した。
いつもなら、出先では腕輪の金庫を優先的に使うのだが、この中には昨日の女王カワセミが入っているので、あまり一緒にしたくなかったのだ。
リノアールが賑わっているのはいつもの事だが、今日の混み具合はセールがある日のそれである。
ネアは鋭い目で周囲を見回し、階段近くにある掲示板も見に行ったが、見逃しているセールがあった訳でもないようだ。
まぁこんな日もあるかもしれないなと考えて頷いていると、不意に、近くを歩いていた栗色の髪の青年が振り返ってこちらを見る。
「食品売り場で、ヴェルリア市がやっているからかもしれませんよ。新鮮な海産物だけでなく、あちらの有名な商店の出来合いの料理なども売っているようですから」
「…………まぁ!そんな素敵な催しがあったのですね。教えていただき、有難うございました」
親切な通りがかりの人にお礼を言うと、ネアは、こちらを見たディノの手を握ってびょいんと弾んだ。
魔物はきゃっとなってしまったが、美味しい情報を入手してしまった喜びを、このように表現せずになんとするのか。
「ディノ!食品売り場のヴェルリア市に寄って、もしその場で食べられるようなものがあれば、お昼はそこにしてもいいですか?」
「勿論だよ。では、そこで昼食にしようか」
「品物は使い道がないままに買い込めませんが、食品となると話は別です。あっという間にお腹に消えていってしまう儚いものたちなど、幾ら買い込んでもいいのですよ!」
「うん。では見てみよう。………君は、蛸の揚げ物が食べたいのだものね」
「ふぁ、なぜに知っているのだ…………」
「……………ずっと前に、君が食べたくて仕方がなかったものだから、かな」
(……………あ、)
その言葉に、ネアは、ディノが前の世界にいるネアの事をじっと観察していた魔物であった事を思い出した。
ぐぅと鳴ったお腹を押さえて、惨めさに唇を噛んだあの日。
それは、こんな風に遠くまで歩いてきても振り返れば鮮やかに蘇る、ネアが、不幸せで寂しかった一日のこと。
(…………そう。私はあの日、蛸のフリットが食べたくて堪らなかった)
あの日のネアは、近くの百貨店で行われている他国の食品フェアに行きたくて堪らなかった。
あまり、目に毒な区画には近づかないようにしていたのだが、その時はたまたま、駅の掲示板で催しを知ってしまったのだ。
あの広告のポスターの、なんと可愛らしかったことか。
心躍るような文字で飾られたポスターには、瓶のラベルも可愛いリモンチェッロに、美味しそうなチーズやハムの写真があった。
色とりどりの屋根の沢山の屋台が出ていて、美味しそうなパスタやジェラートや、ネアの食べたくて堪らなかった新鮮な蛸のフリットや鰯のペンネも売っていた。
屋敷の中をぐるぐると歩き回りながら、その日のネアは、何度お金の計算をしただろう。
しかし、そんな素敵な催しがあるとは知らずに老朽化した井戸のポンプを直したばかりであったので、ネアにはそれっぽっちの余裕もなかったのだ。
少なくとも今日から三日は絶食しなければならないと知りながら、より多くの食品を買えるお金を蛸のフリットに変えてしまう事は出来ない。
そのような食品フェアにありがちな事だが、蛸のフリットも、安価と言うにはいささか値の張る、それなりのお値段だったのだ。
(でもきっと、普通に生きている人たちからすれば、あの程度の値段は考えもせずに買えるくらいだったのだろう…………)
それを理解していたから、ネアは、蛸のフリットが食べたいのと惨めなのとで、その夜は一人の部屋でしくしく泣いてしまい、あと三日経てば、せめて安売りの塊パンを買えるからと必死に自分を慰めた。
紅茶のティーバッグは残り三つで、けれども冷蔵庫には先月買ったバターが入っている。
パンを買えたら、そのバターを使ってバタートーストにすればいい。
この時期を何とか耐え凌げば、なぜか家周りの色々な物が壊れてしまった不遇の年も乗り越えられるだろう。
それは厳しい厳しい年で、ネアは紅茶しかない朝食のテーブルに着き、お気に入りのピアノ曲を流した。
見回した部屋はがらんとしていて、端の擦り切れたハンカチを繕う。
何年か前に手術が重なった事があり、手元に残されていた家族の遺品でもある貴金属の殆どは、売らねばならなかった。
うっかり倒れて病院に運び込まれてしまった為に治療を避けられず、青ざめるような検査費用の積算に加え、長期の入院の為に仕事も失った。
多額の手術費用を支払う為に、大事な家族の思い出は無残な現実に剥ぎ取られるようにして、二度とネアの手の届かないところへ行ってしまったのだ。
だからネアは、最後に残った屋敷だけは、何としても維持しなければならなかった。
これを失えばもう、思い出も残らないから。
ゆっくりとあの日の思い出から顔を上げ、ネアはどきりとするような美貌の、けれども大切な家族になった魔物を見上げる。
「…………蛸のフリットはあると思います?」
「なかったら、売っているところに行けばいいよ。君はもう、好きな物を好きなように買えるのだからね」
「ふふ。………それが、自分が働いたお金で買えると思うと、堪らなく誇らしい気持ちになるんですよ。それに今は、こうして手を繋いでくれるディノがいます」
「…………うん。…………ごめんね、ネア。君を呼び落した時にすぐ、蛸の揚げ物を食べさせてあげれば良かった」
悲し気に項垂れた魔物に、ネアは唇の端を持ち上げた。
けれどもこの世界に呼び落されたあの日、ネアは、離宮だったという建物の会食堂で素晴らしい鶏肉のクリーム煮込みをいただいたのだ。
マスタードの効いた煮込みと、ふかふかの焼き立てのパンに、鶏レバーのクネルの入ったビーフコンソメのスープ。
山羊のチーズと林檎の入ったサラダに、甘く煮た付け合わせの野菜。
見ず知らずの場所に落とされ、自分の味方になるべき魔物を勝手に決められてはなるものかとぴりぴりしながらも、その晩餐がどれだけ幸せだったかは覚えている。
寧ろ、そこでこの世界で新しく自分を生かし直す可能性を見てしまったからこそ、転職活動に精を出してしまった部分すらあり、あの夜のネアは決して腹ペコではなかった。
「あの夜に食べた鶏肉のクリーム煮込みのお蔭で、私は、自覚しないままにこの世界に魅せられてしまったのですよ?」
「そうなのかい………?」
「ええ。勿論、妖精さんの煌めく森や、初めましての綺麗な魔物が契約してくれた事もそんな幸運の一つでしたが、久し振りに美味しいものをたっぷりいただけた時間は、とても幸せなものでした。ディノがいなければ、私はお腹いっぱいにローストビーフを食べることはないまま、一人ぼっちで死んだでしょう。でも、ディノのお蔭で今はこんなにも幸せになれたのです」
伸び上がってそう言えば、ディノは、水紺色の瞳を揺らし小さく頷いた。
ネアが向こうの世界で困窮していたことをしっかりと理解してからは、もっと早く呼び落せばよかったと落ち込むことも多かった魔物だが、まだ、王都でアリステル派の排斥が終わっていなかった頃に呼び落されていたなら、ネアの扱いは違うものになっていたかもしれない。
ウィームでの暮らしが叶わなかった可能性も含めて考えると、今が幸せなだけに、あの日の自分を救うためにであってもこの幸せを手放す事は出来なかった。
「さぁ、ヴェルリア市を攻めに行きましょう!蛸の揚げ物がなくても、きっと他に目移りしてしまうような美味しいものがある筈なのです!」
「うん。好きなだけ買ってあげるよ」
食料品売り場に行けば、そこはかなりの賑わいで、ネアは慌てた魔物から素早く三つ編みを手渡される。
海と商人の街であるヴェルリアの雰囲気も演出されているものか、どこからか波音の聞こえてくる特設会場には、色とりどりの帆布を張った屋根で仮設商店が並んでいた。
「………新鮮な帆立と海老が売っています!じゅるり」
「買ってあげようか?」
「な、生ものなので帰りにしましょう」
市の入り口にはリノアールの店員が立っており、会場マップなるものを渡してくれた。
うきうきとそれを眺め、ネアは小さく足踏みする。
「ディノ、この地図によると、奥の赤い帆布のお店で、蛸の揚げ物が売っています!おまけに、小海老と蛸の合わせ技でより贅沢になっているのだとか!」
「欲しかったものがあって、良かったね。まずはそこに向かおうか」
「はい!…………ふぁ。タルタルソース添えだなんて」
混みあった市の中には、様々な食べ物が売っていた。
ウィームでも買える品物を上手に避け、主に、自宅で調理出来る海産物や、海辺の市場で売られているような漁師風の料理などを売っているようだ。
ネアが聞いた事のある店名はなかったが、代わりに初めて見る料理もあって、あちこちからいい匂いがする。
アクアパッツァ風の料理には波乗り鯛という何だか陽気な名前の魚が使われていて、鮮やかな黄色の魚にネアは目を丸くした。
これは陽光の系譜の魚なので、あまり陽光に当たらない人には、祝福の補助としても良い魚であるらしい。
勿論小海老サンドも売っていて、ウィームでは少し珍しいものとしては、シンプルに塩茹ででいただく蟹や海鯨などもあるようだ。
そしてネアは勿論、お目当てのお店に直行した。
「…………手に入れました」
「うん。このタルタルソースは、どうすればいいんだい?」
「そのまま、立食用のテーブルまで持ってきて下さいね。こちらの揚げ物を食べる際に、都度浸けるようになります」
「うん。…………分け合うのだね」
「あら、さては好きな食べ方なのです?」
「ご主人様…………」
揚げ物の入った紙箱を手に持つのでと、ここでは一度三つ編みはリリースさせて貰い、ネアは、お目当ての蛸揚げを手に弾むような足取りで食事用のスペースに向かう。
香辛料を混ぜたスターチのようなものをまぶして揚げた蛸は、まだあつあつでからりとしている。
木のピックをぷすりと刺して食べるのだが、ネアはまず、何も付けずにぱくりと食べた。
「…………むぐ!…………美味しいれふ。塩味も丁度良くて、大蒜の香りも素敵です!」
「可愛い…………」
「ディノ、このままでも充分にお味がありますよ。ですが、タルタルソースでも楽しむ所存です」
「うん。……これが蛸かな」
「むむ、それは海老さんかもしれませんね」
「蛸じゃない……………」
うっかり海老を選びかけてしまったディノは、慌てて蛸を探し出し、ネアの真似をしてぱくりと食べた。
こちらの魔物は以前にも蛸の揚げ物は食べた事があるのだが、瞳の輝きからすると、今回のものも美味しかったようだ。
二人は顔を見合わせて、にっこり微笑む。
夢中で蛸の揚げ物を食べていると、途中でヴェルリアの港町で売られている麦酒の売り子が来たが、無料のお水で美味しくいただいているネア達は断った。
すっかり蛸のフリット気分だったのだが、小海老もぷりぷりで美味しいので、あっという間に食べ尽くしてしまう。
「………むむ。殲滅しました。次の目標を探しますね」
「うん。………色々と店があるようだね」
「ふふ、奥で、お買い物をしているエドモンさんを見ました。リーエンベルクの騎士さん達も来ているのですね」
視線を巡らせると、近くの店では、塩茹で小海老を市場などで見かける茶色い撥水加工の紙袋に入れて売っているようだ。
揚げてあるのもいいが、素材の味を生かした塩茹でもきっと美味しいだろうと考えていたネアは、そのお店で小海老の塩茹でを一袋購入した男性に目を留めた。
麻素材のベージュ色の服に、小洒落た木の杖。
綺麗な仕草が印象的で淡白な面立ちのその男性は、こちらの視線に気付いたのかこちらを振り返るとふっと瞳を揺らし、どこか慌てたように立ち去る。
「………使い魔さんがお買い物をしているという事は、あのお店の塩茹でも美味しいに違いありません。ここで食べてもいいですし、今の揚げ物と少し似た感じになるので、お土産に買って帰るのもいいですね」
「アルテアだと、分かってしまうのだね………」
「ふむ。私の目を誤魔化す事は出来ないのですよ!…………昨日の会議では、くしゃくしゃでしたが………」
「ネア、」
昨日の惨敗を思い出して暗い目をしたネアに、ディノが、そっと顔を覗き込んでくれる。
ネアは慌てて微笑みを浮かべ直したが、ディノは優しく頭を撫でてくれた。
「…………あのような場所には、二度と行かなくていい」
「実は昨晩、寝台の中でも考えていたのです。…………もしかするとダリルさんは、あの会議の場に連れてゆく事で、私にはそちらの戦場に参戦する素質はないのだという理解を促したのかもしれません」
「それが必要な事だとしても、もういいだろう?」
「…………ええ。そしてそれは、必要な事だったのでしょう。前任の方の一件があったのですから、私がどのように張り切るのかを、ダリルさんは知る必要があったのだと思うのです。そして同時に、ザルツの方々にも、私はあの方のように使えはしないのだと知らしめたのでしょう」
一晩明けると、ネアは、それ迄に理解していた以上の昨日の仕事の意味に気付く事が出来た。
(切っ掛けは多分、第五王子の事件なのだろう…………)
ネアやウィームは、中央の不始末に巻き込まれてそれぞれに思うところもあった。
同時に中央が、その危うさを露呈した一件でもある。
そうして不安や不満を抱いたかもしれないネアが、これ以上の領域を確保しておきたいと、政治的な分野に食指を伸ばすかどうか。
もしくは、そこまであからさまではなくとも、嬉々として、あの会議で自分の力を見せつけようとするか。
その両方を知る為にも、あの舞台はうってつけだった。
問いかけて答えを得るばかりではなく、その潜在的な欲求も含めて、ダリルは、ネアの考えを知ろうとしたのではないか。
(トリアリーさんが私の事をあまり知らなかったようだと聞いてエーダリア様が首を傾げていたけれど、あのような舞台でも才能を示すのが正解ではなく、………あのような場所で上手くやらない事こそが正解なのだとしたら、………)
トリアリーもまた、ダリルと同じ目的でネアを採点していた仕掛け人であり、試験官だったのかもしれない。
「その推理が正しければ、私はもう試験に合格している筈なので、もうあのような場所には行かなくていいような気がします」
「うん。こちらでも、ザルツの抱えている問題は既に片付けてある。会議の中で懸念されていたものを気に留める必要はもうないから、君が再び呼ばれる事はないだろう」
「なぬ………」
話を聞けば、どうやらネアの家族な魔物達は、昨晩の内にザルツが新しい法案を成立させてまで歌乞いの部隊を作ろうとしていた懸念材料そのものを片付けてきてしまったようだ。
ノアからエーダリアには報告済みだそうなので、今朝のリーエンベルクが慌ただしかったのはそのせいなのかもしれない。
「結果として、ディノ達を忙しくしてしまったのです………?」
「おや、君は私の歌乞いなのだから、これでいいのだと思うよ」
「そう言われてしまうと、顛末としてはそんな感じもしますが…………。で、では、私は私の大事な魔物を労いますね!次に食べるものはディノが決めて下さい。ご主人様の奢りです!」
「可愛い。袖を掴んでくる…………」
「お料理だけではなく、お土産で買って帰れるような他の売り場の品物でもいいですよ?」
「ハンカチも貰ったし、後はネアがいればいいかな………」
「こちらは常備品なので、新規のものにしましょうね」
「頭突き……………」
「ご褒美になった………」
結局ディノは、お持ち帰り用の濃厚な魚介のスープ缶を選び、ネアは六缶セットを購入した。
セット購入すると、何に使うのかが謎の豆皿が付いてくるので、収集癖のある魔物にはいいかなと思ったのだ。
因みにこのスープ缶は、ごく稀に、スープにされた海老の呪いごと缶詰になっている事があるらしい。
その場合は返品交換出来るらしいが、ネアは、それよりも海老の呪いがどんな物なのかを教えてほしいと切実に思っている。
豆皿は、昨年の秋にネアがディノに拾ってあげた森結晶を載せ、ディノの宝物部屋に飾られる事になった。
海老の呪いに当たるかどうかは、あと四缶を開けるまでは分からない。




