子爵邸と茶色い革紐
からからと、馬車の車輪が石畳を走る音が響く。
そうして辿り着いたのは、ザルツの郊外に佇む広大な庭園に囲まれた子爵邸で、ネアは、その入り口の石門の壮麗さにおおっと目を瞠った。
「珍しい仕事になると思うけれど、まぁ、いい社会勉強になるだろうよ」
そう声をかけてくれたのはダリルで、美しい書架妖精の本日の装いは深い青色のドレスだ。
ネアは密かに、深い青色こそ、ウィームの誇る書架妖精を最も美しく見せる色だと考えている。
馬車を降りる際に立てる衣擦れの音は軽やかで、近くでその所作を見ていると、何とも優雅な所作に惚れ惚れとしてしまった。
対するネアは淡い水色の訪問着で、ドレスという程に華美ではない装いにしたのは、本日は、貴族達の会合に招かれた専門家に過ぎないという立場を明確にしたからだ。
誰でも、獰猛な獣達の檻の中で旗を振りたくはないだろう。
少なくともネアはそう考えたので、同行してくれるダリルの面子を潰さない程度に優雅で貞淑に見え、しかし見ようによっては地味にも感じられる装いを、王宮勤めをしていたヒルドの意見も参考にしつつ目指したのであった。
「はい。今日は、心してかかりますね。その、………私は、環境的にすっかり魔物さん達に甘やかされておりますので、このような場では、お相手の質問如何で、うっかり常識知らずな発言をしかねません。その場合は、こっそり注意して貰ってもいいですか?以前の暮らしから、自身が思考に大幅な偏りのある人間だとは痛感しておりますので、その至らなさで、エーダリア様やダリルさんの評判を傷付けたくはないのです」
ネアがそう頼むと、ダリルは目を瞠ってから小さく笑い、そうするよと呟いた。
「でもまぁ、安心しな。ネアちゃんは魔物の調教は上手いと思っているけど、癇癪を起して咎竜に呪われたような面もあるし、こちらでの対人間の社交経験が未熟なのは承知の上だ。だからこそ、これ迄は政治的な舞台には上げてこなかったんだからね。でも今回は、知識や価値観には相応の危うさがあると理解した上で、あちらの指名を受ける事にした。寧ろ、出来ない事がどこまで出来ないかを確かめる為の仕事だと思うように」
「はい!それを聞いて安堵しました。なぜ私が、ダリルさんが赴くような大事なお仕事で同伴を求められたのだろうかと考え、きちんとお役に立てるかどうか、密かにひやひやしていたのです」
「多少仕損じても、今日の議長がどうにかするだろう。今回の件は、多少ネアちゃんがしでかしても結論が変わらないだろうと安心しているからこそ、連れて来られたんだ」
ネアが参加する本日の会議では、この子爵邸に暮らしている子爵夫人が議長となる。
集まるのは、どちらかと言えばあまりウィーム中央と親密ではない貴族達ばかりだ。
(ウィーム領の中でも、統一戦争時に中立を保ったザルツには、終戦後からの独自の法制度が幾つかある。今回は、そんなザルツ独自の新しい法案についての議論をする場なのだとか………)
ザルツが新しく法案を立ち上げ組織する公的な機関についての議論が行われ、その中で、歌乞いの運用に関わる問題が議題に上がるのでと、ネアが専門家として招聘されることになった。
ダリルはウィーム領主の代理として。
そして、封印庫で働く魔術師の女性が一人、組織的な魔術の構築の専門家として招かれている。
ネアは、歌乞いとしての忌憚のない意見をお聞かせいただきたいと言われているが、向かう場所では、恐らく専門外な議論の方が多くなるだろう。
胸元にはムグリスの伴侶も仕込んであるが、今回はお仕事なので、身に危険が及ばない限りは荒ぶってはいけないとお願いしておいた。
正直なところ、不得手な戦場だ。
嫌な思いをする可能性も高いし、自分の頭の足りなさに気付いて惨めな思いもするだろう。
だがそう理解していても、ネアは、ウィームの歌乞いなのだ。
肩書に見合っただけの報酬を得ており、尚且つリーエンベルクでぬくぬくと暮らしている以上は、求められた仕事をせねばなるまい。
となれば、これから向かう先で繰り広げられる戦いがどれだけ苦手な分野であれ、こちらの至らなさが足を引っ張る事を承知の上で投げ込まれる以上は、その肩書に相応しい義務を果たすばかりである。
ザルツ側からの指名があったにせよ、ダリルなら、巧みにその要請を握り潰し、未熟なネアを公の場から遠ざける事も出来た筈である。
それなのになぜ今回は呼ばれたのだろうと考えていたが、鍛錬の場であれば納得だ。
(恥をかかないようにと、勉強はしてきた。…………けれども、付け焼き刃の知識でどれだけの事を理解出来るだろう)
ネアは立派な淑女であるが、どれだけ予習をしようと、生来の気質と素質から政治の場ではさっぱり役に立たないのは明白で。
なので今、ネアはとても怯えていた。
「まぁ、ネア様はこのような会議はあまりお得意ではないのですか?」
そう尋ねたのは、トリアリーという名前の封印庫で働くご婦人だ。
少女のように見える瑞々しい美貌の持ち主だが、その淡い緑色の瞳を見れば、可憐さに騙されて手を出せば、すぐさまずたぼろにされてしまうに違いないと察せる鋭い叡智の煌めきが見える。
綺麗なオリーブ色のドレスには差し色で合わせた檸檬色が鮮やかで、これはお洒落だぞと唸りたくなる絶妙な小物の配置などが素晴らしい。
つまりのところ、ネアがどう転がっても敵わない才あるご婦人なのである。
「…………はい。それが私の役目なのですから、精一杯努力はするつもりなのですが、生来が、そちらの畑では上手く戦えない愚鈍な人間なのです。野生の魔物さんのしつけ方は日々学んでおりますが、人間同士の鍔迫り合いのような議論では、頭のいい方の手にかかるとあっさり自滅する未来しか見えません」
「まぁ…………。使えなさそうですわ」
「…………はい。おまけに未熟者ですので、知識が足りなくても虐められれば腹が立ちますし、おだてられると見栄も張りたくなるでしょう。私情で足を掬われぬようにと限りなく控えめにはしていますが、自分でも悟れぬ内に転がされているといけませんので、これはまずいぞと思ったら、容赦なく足を踏んで知らせて下さいね」
そう伝えると、トリアリーはにっこりと微笑んだ。
だがこの微笑みは、絨毯に悪さをしている銀狐を見付けた時のヒルドと同じ表情ではないか。
「あらあら、では必要な場面以外では、そのお口を開かないようにして下さいまし。こちらの子爵婦人は、なかなかの切れ者ですから」
「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ダリルさんは私の扱い方をよくご存知だと思うので、上手に活用して下さると信じています…………」
「ネアちゃんは、玄人向けの武器みたいなもんだからね。扱い方を間違えると薄っぺらい紙も切れないけれど、祟り物狩りには有用な逸材って訳だ。トリアリー、この武器は、私が投入するまで動かすんじゃないよ」
「はい。ダリル様。………うふふ。ダリル様と一緒にお仕事が出来るだけで、わたくしは幸せなのです。こちらのお嬢さんも、自分は無能なので道具になりますと言えるくらいにはお利口で良かったですわ」
「……………ふぁい。道具になります」
こちらのご婦人は現地集合だったので人物像が掴めずにいたが、これは間違いなくダリルの弟子か信者だぞと確信し、ネアは安堵の息を吐いた。
嵐の中の木の葉のように翻弄されるかもしれないが、この二人が一緒であれば、どうにか無駄死にはしなくて済みそうだ。
どちらにせよ殺されるにしても、名誉の戦死くらいに留めておいてくれるだろう。
(そう言えば、子爵家の敷地の外側で馬車から降ろされたけれど……………)
ネアはここで、トリアリーのドレス姿を見て、なぜ自分達は、こんな手前で馬車から降ろされたのだろうかと首を傾げた。
ここは貴族の屋敷なのだし、招待されるお客も高貴な者達が多いだろう。
ダリルやトリアリーのように、裾を汚したくないドレス姿のお客もいる。
だが、玄関口まで運んでくれればいいのにというそんな疑問は、敷地内の庭園の見事な作り込みを見てすぐに払拭された。
色とりどりの花々が咲き乱れる子爵邸の美しい庭園には、馬車を走らせる程の道はそもそも存在していなかった。
外門からの訪問となると、屋敷迄続く細い歩道があるだけなので、これでは馬車などを乗り入れる事は出来ないだろう。
(となると、住人は転移などで屋敷を出るのだろうか。そうでなければ、馬車の乗り入れが出来ないのはさすがに雨の日に不便だろうし…………)
であればこの屋敷の人々は、可動域が高めなのかもしれない。
そう考えたネアが、ダリルに思ったままに尋ねてみると、案の定、子爵夫人を筆頭に、子爵家の人々は高位の魔術師でもあるのだと教えられた。
「でも、本人はそれを隠しているから、余計な知恵を付けないように言わずにいたんだけれどね。会話の中では、そこに触れないようにするんだよ」
「はい。自ら戦況を悪化させてしまいました…………」
「まぁ、困ったお嬢さんだこと。ダリル様の事前情報には、取りこぼしなどないのですから、伝えられなかった情報は不要なものだと覚えておきなさい」
ネアは、さっそくトリアリーにも叱られてしまい、しょんぼりと項垂れる。
慌てた胸元の伴侶がすりすりしてくれたので、何とか背筋を伸ばした。
(…………こんな時、自分を巡る陰謀であればまだ、幾らでも意見を切り出せるのだけれど…………)
だがそれは、所詮自分事だからだ。
世の中には、ネアを中心に回らない事など幾らでもあって、当然だがそこでは、ネアも歯車の一つとして順当な動きをしなければならない。
責任が他の誰かにもかかってくるような問題の対応には他方との連携を求められるし、調和を求められる議論の場を、力業で解決してしまう訳にもいかない。
また、人間独自の問題を議論するのであれば、人間とは価値観の違う魔物達を呼び込む訳にもいかないだろう。
その上で、ひたすらに謙虚であればいいというものでもなく、しっかりと自分の仕事もしなければならないのだから、なかなかに難しい仕事だぞとごくりといきをのむ。
庭園の中にもある石門を見上げれば、素晴らしい彫刻には、蔦が絡まり小さな黄色い花が咲いている。
そのアーチ形の門を抜けると、先程迄の木々の生い茂る庭園から、可憐な花々を主体とした見事な庭園に変化してゆく造りが何とも見事だ。
赤や橙、黄色や華やかなピンクなどの強い色彩の花が多く、本来ならネアがあまり得意ではない色合いの花々がこうして美しく感じられるのは、庭造りをした者が絶妙な配置で植えたからなのだと、ほうっと感嘆の溜め息を吐く。
(…………凄い。明るくて華やかな色ばかりなのに、落ち着いた色合いの植物が同じ視界に入るように植えられていることで、どこを見ても上手く色がまとまるようになっているのだわ)
議会への招待状の色が華やかなピンク色だった事からも、この色合いは屋敷の主人の嗜好なのだろうと察せられた。
どんな庭師が、その嗜好を損なわずにこれ程見事な庭を作り上げたのかと、ついつい興味を持ってしまう。
「さあ、そろそろ着くよ」
だがネアは、そんなダリルの声に、慌てて視線を戻した。
ここから先は、ネアが普段足を踏み入れる事のない戦場で、相対するのは歴戦の猛将ばかり。
あまりの怖さに眩暈でも起こしてぱたりと倒れてしまいたいところだが、ぐっと拳を握り締めて、覚悟を決めた。
「まぁ、思っていたよりも地味な子なのね。この子を見ていると、今回の組織編制において、見目麗しい乙女達を集める意味はないのかもしれないわ。んもう!だから私は、最初から貴族の美しい子供たちばかりを歌乞いにするのは反対だったのよ」
「ですが、一般的にはやはり、魔物は美しい乙女を好むと言われておりますから、容姿の整った少女達を編成するのが宜しいのでは?」
「彼女たちには、美しい貴族の娘に生まれたからこその役割りもあるのだもの。幾らザルツの未来の為に貢献せよと言われても、はいどうぞとそちらにばかり比重をかけるのはどうかと思っていてよ」
けれどもネアは、そんな最初のご挨拶からがつんとやられてしまい、見事に心がひび割れかけていた。
因みに子爵夫人は、綺麗な銀髪を結い上げたうなじの色香が凄まじい妖艶なご婦人で、トリアリーと同じように年齢不詳の美女である。
ドレスは淡い髪色を引き立てる暗い紫色で、瞳の色は赤みの強い澄んだ茶色であった。
議論の場に上がるという事は、即ち、相手からの分析を受ける事でもある。
今回はネアにかかる議論ではなく、ザルツが防衛上提案している新しい歌乞いの管理体制についてなのでと、自分が分析にかかる可能性を排除していた己の迂闊さを悔いた。
こうして突き回されると知っていれば、今日の朝食はもっと沢山食べておいても良かったかもしれない。
特にデザートの苺のムースは、二個くらい食べておいた方が今後の生存確率が上がった筈だ。
(それにしても、立派な会議用のテーブルだわ………)
何とか初撃から気を逸らそうと見回した会議室代わりに使われているこの部屋は、代々の子爵家の主人が使ってきた執務室なのだとか。
こうして中規模の会議設備を整えているという事は、こちらの子爵家は、元より土地の貴族達の纏め役としても機能している家なのだろう。
二十人程度は利用可能な大きな象嵌細工の楕円形のテーブルや揃いの椅子などは、急場しのぎで集められたものではなく、随分な年代物に見える。
長時間座ることを見越した椅子の作りからすると、食堂に使われていたような椅子を代用している様子もない。
子爵家内の家族会議程度では、これ程の物は必要ない筈だ。
(…………それはつまり、本日の議長となる子爵婦人にも、子爵家の役割に相応しいだけの、役割や人望がある事を示している)
この会議に参加する者達は、殆どがザルツに古くから住む貴族達である。
そんな彼らは、歌乞いになっただけの小娘が土地の有力者に噛み付くような事をすれば、たいへんに不愉快に思うだろう。
ある程度は大人しくしておかねばと、また一つ増えた新しい戒めに重々しく頷いておく。
ダリルが、子爵婦人に対しては本日の議長であるとしか言わなかったのは、ネアが、この場でどれだけ状況を整理出来るのかを見極める為だろうか。
そう考えると、失敗のしようがない部分では、渡される情報は制限されているのかもしれない。
「そりゃあ、そうだろうよ。この子の魔物は、この子個人を特別に気に入って現れた者だ。有象無象の中からお気に入りを探した訳じゃない。そもそも、組織としての歌乞いの運用は合理的じゃないとは思うよ。魔物達は、群れとして扱われるのを嫌うだろうに」
「あら、リーエンベルクでは、二組の歌乞いが機能しているのでしょう?であれば、ザルツ伯のお膝下でそれが不可能だとは言わせなくてよ。それにこちらは、何も伯爵位の魔物を揃えようなんてしていないのだもの。そうね…………男爵位。それくらいなら、同じ組織に所属させても問題ないでしょう」
「個別に組織に所属させるだけであれば、こっちもとやかくは言わないさ。だが、部隊所属となるとそうもいかないねぇ」
「部隊?そんな大仰な言葉で括れば、中央の障害になるかもしれない法案の成立を阻止出来ると思っているのかしら?」
「こちらとしては、ザルツが自衛出来るようになる事は大歓迎だ。でもね、自壊されるとなると堪ったものじゃないんだよ」
ここで、子爵夫人がネアの方を見た。
座り心地の良い椅子の上で、そろりと水の入ったグラスに手を伸ばしかけていたネアは、その視線にぴっとなる。
「ねぇ、歌乞いさん。予め組織の中で階位や役割を定めておけば、爵位のある魔物を有していても、歌乞いを組織化する事は可能だと思わない?」
「………これは、あくまでも歌乞いとしての意見ですが、難しいでしょうとお答えします。紐で一列に括れば連携は取りやすいかもしれませんが、それぞれが司るものの王だと考え、尚且つ心のままにあちこちに飛び出してゆく生き物です。そんな生き物を巻き込みそのような事をすれば、諸共引き倒されて引き摺られる未来しか見えません。………ただ、私はこちらの皆さんが、その組織形態が必要であると考えた背景を存じ上げませんので、各歌乞いをそれぞれに召し抱えるような仕組みには出来なかった理由もあるのでしょうか」
「そうね。通常の歌乞いの運用のように各々に動かれては困るという理由があり、有事に指揮系統を殺さぬ為には、そうするしかないというのが我々の考えよ」
「成る程、そのようなご事情があるのですね」
「正しいことや安全な事と、必要な事は違うものなの。悪政であろうが成果を出せば正義になるし、土地を治める貴族がどれだけ強欲でも高慢でも、結果として領土が守られれば、民の受ける被害は最小限で済むわ。そんな事も分からずに、政治や統治が清廉潔白なものであり、弱者に優しいものだと信じたがるお馬鹿さんもいますけれどね」
「…………っ、それは、私への当てつけだろうか!」
子爵婦人の言葉に、一人の貴族ががたんと音を立てて立ち上がった。
途中から子爵夫人の標的が自分ではなくなった事に気付いていたネアは、彼はなぜ、自ら罠にかかりに行ってしまったのだと悲しく思いながら、その冥福を祈る。
部屋の中には十人程のザルツの貴族が集まっており、その中では、一番年若く見える淡い金髪の青年だ。
(……………そしてもしかすると、歌乞いの扱い方云々はさて置き、今回の会議では、この法案の成立へ意思統一を図る事こそが求められているのだろうか………)
そう言えばダリルは、結論ありきのような話をしていた。
ネアは専門家として招かれたのではなく、体のいい箔付け役のようなものなのだとしたら。
「自分の話題だと気付くだけの知能は残っていて、ほっとしてよ。ねぇ、伯爵。仮にもあなたは、あの方と同じザルツの伯爵なのだから、必要な泥も啜れないような甘ったれた子供のまま、さもそれが民衆の総意のように気取って自分の意見を言うのはおよしなさいな。真面目で公平な事だけがしたいのなら、関わる分野を変えるべきだわ。竜には竜の住処が、妖精には妖精の住処があると言うでしょう」
「だいたいあなたは、ザルツの魔術教会に不必要な予算を割いているようではないか。この法案を通し、余程あちらに便宜を図りたいらしい」
きりりと整った顔立ちでそう言ってのけた青年だが、外野から見ていると戦う相手が悪いと言わざるを得ない。
おまけに彼の主張は、この議論には不要に等しいものではないか。
この場で議論するのが何であるべきかを理解出来ないのなら、子爵夫人の言うように、彼はこの戦場には不向きな人物なのだろう。
「…………お馬鹿な坊やだこと。私には、ザルツ貴族としての矜持と責務があります。必要な措置を取り、必要な手立てを揃える為なら、それが領地から上がる税金だろうと、魔術教会を黙らせる為にくれてやる事もあるでしょう。我々の責務には本来、途中経過などは必要ありません。成果を生み出す為にどのような魔術を展開出来るか、そしてどのような成果を出したのかこそが重要なのですから」
「ほお、自ら魔術教会への過分な寄付を認めたか。だいたい、今回の一件については、ウィーム中央の方々も懸念を示しているではないか。ザルツで不要な武力を組織化するにあたり、あなたに利権を貪らせるだけの法案など、我々を馬鹿にするにも程がある」
激高したようにそうまくしたてる青年に、ふっと小さく笑ったのは封印庫の女性職員だった。
「…………何がおかしい」
怪訝そうに振り返った青年はもはや、哀れな生贄の子羊にしか見えなかった。
「ご自身に都合の良い、甘ったれた議論がお好きですこと。我々は、歌乞いを組織として組み立てる手法そのものに懸念があると申しているのです。ザルツが、諸外国からの人材の引き抜きや銘のある楽器の強奪に備え、武力対抗する為の策を探ること自体には反対しておりません。事前に送られた書類をご覧になられていないのかしら?」
「だが、……」
「その為に子爵婦人が多少手を汚そうが、どっぷりと泥水で喉を潤そうが、最低限の倫理観念を持ち、為すべき事を為して下されば問題はありません。寧ろ、目的の為の手段が気に食わないと、それっぽっちの事で乙女のように顔を赤くしているあなたの方が問題ですわ。同じだけの働きが出来る人材が他にいるのなら、比べてより清廉な方をと望むのもありでしょう。ですが、他国からの干渉が既にあり、緊急性を問われる中で為すべき事の障害になるのでしたら、それは手段を選ばない者達よりも余程我が儘ですね」
可憐な面立ちのトリアリーにすらぴしゃりと払い落とされ、青年は顔を赤くした。
ネアは、胸元のむくむくの毛皮を密かに堪能し、すやすや眠っているムグリスディノの温もりで何とか心を癒す。
この青年を大人しくさせる為の一幕だとは承知の上だが、戦場の真っ只中に座っているような、何とも心許ない気分ではないか。
「………っ、あなたは、たかが封印庫の職員だろう!ウィーム中央とは違うザルツの政情を知らないだろうが。専門家としての立場を超えた意見は慎み給え!恥じらいというものがないのか!!」
「あら、こちらは民衆の意見として取り入れては下さらないのですね。…………ダリル様、この伯爵は使えませんわ。このような場で清廉さを求めてくる幼さで、議論に参加しようという事が烏滸がましいとすら思えないだなんて」
「父親は優秀だったんだけれどねぇ。………リリアーナ、この坊やは議論に必要なのかい?」
リリアーナと呼ばれた子爵夫人以外の他の貴族たちは、ひっそりと沈黙を守っていた。
やれやれと肩を竦めていたり、呆れたように青年を見ていたりはするが、議論に加わるでもなく、その眼差しの温度は一様に低い。
どちらが優勢かは一目瞭然であり、ネアは、まさかこの戦乱の後でもう一度壇上に引き摺り出されるのではあるまいなと、震える指先を握り込む。
「票数としては必要でしたが、そろそろいらないかもしれませんわね。知力としては優秀だと評される者なのですが、この場に必要な議論を理解しておられないのが致命的です。…………ねぇ、坊や」
ここで、にっこりと微笑み青年を見つめた子爵夫人に、ネアは捕食者のような獰猛さを見た。
「ザルツに必要で、この私にしか出来ない事があれば、私は、どんな悪事と謗られようともそれを為します。勘違いしないで頂戴?ザルツが世界中のどこからも敬われる土地で、誰にも脅かされず、全ての住民の意思が統一されていればそんな必要はないのよ?でもそうではないでしょう。……そして、私のその行いを悪党だと罵るあなたには、私と同じようなものは守れないわ。だって、土地を守る為に手を汚す覚悟も、足元を盤石にする為に権力にしがみつく愚かな連中に媚を売る覚悟も、そして、我が手で敵を屠る覚悟すらおありにならないのですからね」
「へぇ、この坊やにはその一つとして出来ないってことかい?はは、聡明狡猾と謳われたザルツの貴族の質も落ちたもんだ」
「そんなに純真でいたいのなら、花嫁になって、どこかの頼もしい殿方にでも守って貰ったらいいのではなくて?」
「…………っ、」
にっこり微笑んでそう言われてしまうと、青年は返す言葉を失ったようだ。
ネアとしてみれば、ここで反論し、自分の主張に固執しないあたりはまだ真っ当なのではないかなと思ってしまうが、ダリルはもう、薔薇についた害虫でも見るような目をしているし、周囲の貴族達も視線を合わせようとはしない。
(でも、今のような子爵夫人の主張がこの会議の場で通るという事は、ウィーム中央からすればなかなか厄介な存在なのだとしても、ザルツの貴族達は老獪で有能な人達なのだろう…………)
そんな事を考えていたネアは、次の瞬間にはもう、戦場の真っ只中に引き摺り出されていた。
質疑応答の中で、トリアリーから二回足を踏まれ、ダリルからは、うちの歌乞いはそういう調整は苦手なんだよねぇと言葉を重ねられる始末。
くしゃくしゃに踏み滅ぼされ、兵士たちが通り過ぎた後にずたぼろで置き去りにされた気分で会議を終えたのは、その日の夕刻のこと。
ふらふらと子爵邸から出た、玄関ホールでの事だった。
「……………むむ。風で舞い込んだ落とし物でしょうか」
帰り際は、貴族の邸宅らしく、子爵夫人と家令とのお見送りがあった。
ダリル達や、会議に参加した他の貴族達と共に屋敷を出ようとしていたネアは、ひらりと舞い込んで来た茶色い革紐のようなものをわしりと掴む。
「……………ネアちゃん、それは女王カワセミだからね。相変わらず、躊躇いなく狩るねぇ」
「まぁ。王様カワセミよりも、少ししっかりとした体の作りなのですね。ぎゅっと握り締めたら儚くなってしまいましたが、……………もしや、このお家のペットだったりは………」
「しないだろうね。いいかい?カワセミは、普通の個体ですら本来は討伐部隊が組まれてもおかしくない生き物なんだ」
「………こやつが………」
「……………やっと分かりましたわ、ダリル様。ネア様は、文官ではなく武官なのですね」
ぽんと手を打ってそう言ったトリアリーに、どこか引き攣った顔で駆け付けた子爵夫人が頷く。
そんな子爵夫人に、こちらのお宅の玄関で捕獲されたのでとぐんにゃりとした茶色い革紐を渡そうとすると、夫人を庇うように前に出た凛々しい美丈夫風の家令ですら、真っ青になってしまうではないか。
会議の最後まで死人のような顔色でいた先程の青年が、その瞬間にばたーんと音を立てて失神してしまったが、こちらは、会議が終わったという解放感のあまりに精神が不安定になってしまったのだろう。
「うーん、やっぱりネアちゃんは、実戦向きだねぇ」
「……………とても儚い、革ベルト風の生き物なのです」
とは言えそれもネア自身の力ではなく、ディノのくれた指輪の効能なのだ。
だからどうかザルツの貴族達は、可憐な乙女に対して、森の祟りものを見るような目を向けないで欲しい。
あからさまに距離を取るのは、最も傷付く対応だ。
「どうやら、ウィームの歌乞いはあのような生態らしいわね。不用意に近付かないようにしてゆきましょう」
「まさか、…………ここまで獰猛だとは………」
「カワセミの女王を素手で殺すのか………」
「ザルツの騎士達どころか、竜達にすら不可能だろう………」
そんな囁きを背にとぼとぼと子爵邸を出たネアは、ウィーム中央に無事に戻ってくると、人型の魔物に戻ってくれたディノに付き添われて、ザハでケーキのやけ食いをせざるを得なかった。
幸いにも、今回のような仕事はやはり不向きであると、ダリルは今まで通りの運用としてくれるらしい。
案外、最後のカワセミ狩りも仕込みで、この歌乞いの政治的な利用は難しいぞと周囲に印象付ける為の措置だったのかもしれないと話していたのは、ノアだ。
(だとしても…………)
必要とされるだけの仕事が出来なければ、リーエンベルクの歌乞いというお役目をいただいている意味がない。
ネアはその週の内に、近所で、騎士達が手を焼く祟りものを三匹ほど狩っておき、自身の有用性を必死にアピールしたのであった。




