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花布と腕輪



青い青い海を眺めている。

時折ふと、その中に引き摺り込まれ、海の上に鮮やかな光を落とす満月を見上げる夢を見た。


海の底には不思議な街があり、そこはまるで祭りのように賑わっていた。


舞を踊る女達に楽器を奏でる男達。

声を上げて笑うのは貴族だろうか。

宝石を縫い付けたターバンに、石造りの家は簡素なように見えて豪奢なモザイクが施されていた。


見た事のない樹木に花々。

そして、銀細工の盆に載せられて売られている色鮮やかな果実。


わあっと声が上がり、誰かが踊り始めた。

けれどもここは、天上に満月の影を見上げる海の底なのだ。



「それは多分、影の国のようなものだな。幻影だとしてもあわいだとしても、呼ばれているのなら近付かない方がいい。……………ヴェンツェル、なぜ海の底に眠る国が影の国と呼ばれているのか知っているか?」

「いや。…………だが、普通の人間達も暮らしているというのに、人間を食らう者達の街すらある妖精の国よりも閉ざされているだけの理由はあるのだろう」

「その通りだ。……………あの土地はな、前の世界の残骸の上に芽吹いた国だ。だからこそ、一度は滅びた世界の怨嗟や呪いが残り続けている。……………つまりそこには、地上には決して出してはならない者達もいると言うことだ」

「…………成る程。前の世界…………か。………正直なところ、まるで想像が出来ないな」

「はは、そりゃぁそうだろうさ」



そう笑ったのはニケで、彼は宝石の縫い取りのあるドレスのような星空を見上げ、月光水晶の杯から強い酒をあおった。


夜風にひらひらと揺れ舞うのは天幕に下ろした薄布で、それはヴェンツェルにあの海の中の街を思わせた。



(あの街の中の、誰かに心を惹かれた訳ではない…………)



踊っていた女達は美しかったし、男達は愉快そうに笑い、市場は賑わっていた。

けれどもそこにはどこか、滅びた世界だからと知る以前から影絵のような曖昧さがあり、その儚さこそが目を引く理由なのかもしれない。


もし、窓の下に、そしてこの国の眼下に広がる海の底に、失われた世界への扉があったならと考えたなら、その向こう側に惹かれるのはおかしな事だろうか。

あちら側へ行きたいとは思わないが、けれども、名もなき一人の旅人として、ここではないどこかを旅してみたならそれはどんな思いだろう。



何を見て、どこへ行き、誰に出会うのだろう。

食べ物はどんな物があり、どんな生き物達がそこに暮らしているのだろう。



そんな事を考え、ふと思うのだ。

お前はどこにも行けないではないかと。




だからかもしれない。



それはまるで世界から隔絶されるような月の明るい夜で、ヴェンツェルは窓を開けて海を眺めていた。

ざざんと揺れる波音に、ぼんやりと波間に煌く人魚達の竪琴を目で追っていると、ふと、その雑踏が聞こえてきた。


今夜はやけに大きく聞こえるなと考えていたら、ふっと目の前を横切った人影にぎくりと肩を揺らす。

そして自分が今、あの街の中にいる事に気付いたのだ。



「…………っ?!」



ぎょっとして体を捻ると、突然振り返った通行人に、後ろを歩いていた商人らしき男がびくりと体を揺らす。

怪訝そうな顔をして避けられてしまい、自分の迂闊さにぞっとした。



(ここはどこだ…………)



ここはどこだろう。

あの海の下の街なのか、ニケに言われたような前の世界の跡地に芽吹いたあわいや影絵なのか。



(それとも、前の世界そのもののあわいや影絵なのか………)



だが、ここがどこだとしても、自らの身を危険に晒すような言動など軽率でしかない。

さり気なく体勢を元に戻し、振り向いた理由があったかのように頭を掻いてみせると、悪目立ちしないように、他の者達と同じ進行方向に視線を向ける。



街は賑やかだった。


それでいて輪郭や香りが僅かに曖昧で、周囲を行き来する人々は視線を向ければこれ以上なく鮮やかな生きた人間なのだが、視線を外すとまた曖昧になり、夢の中で触れる人波に似ている。


鮮やかな緑の鸚鵡を連れた商人に、その指示を受けて、大きな荷車を牽く男達。

護衛の騎士達を連れた若い男は貴族らしいが、気さくに街の住人とも話をしていて、この土地が平和なのだと教えてくれた。


子供達は仕事もしているが、その眼差しは決して暗くはない。

一つの選択肢として働き、それが自身の助けになっていなければ、見せられない表情だ。



花飾りに、宝石を収めた天鵞絨張りの小箱。

銀細工のオルゴールに、釉薬の色合いが見事な陶器の数々。


見たこともない花は甘い香りがして、ニケに貰った事もある南方の果実を、皮ごと齧る老人がいる。



(………砂漠のオアシスのようだが、海も近いのだろう。あのような積み荷は船でしか運ばない物だ。であれば、砂漠と海と両方が近いような土地なのかもしれないな…………)



ヴェルリアの街並みにどこか似ているが、決定的に違うのは土地の気候だろう。

冬も訪れるヴェルリアとは違い、この土地の冬はなぜか、想像出来なかった。



美しい街だった。

人々の活気が鮮やかな彩りとなり、失われたものとして揺蕩う曖昧さが、その鮮やかさを少し欠いている。

そうして欠け落ちた物を惜しみながら見回せば、それでもこの街は堪らなく美しいのだ。



通りの端に寄り街並みを眺めると、ヴェンツェルの今の装いは、住人達の服装とは旅人達の服装とはだいぶ違ってくるが、王族であると気取られないような室内着だった事が幸いした。


このくらいなら、旅人の多い土地のようなので、その中に上手く溶け込めそうだ。

ドリーの名前を呼んでみたが、残念ながら応えはないらしい。



(……………金はあるな。換金出来そうなものも少しはある。エーダリアから聞いた、ネアの金庫の中身を真似ておいて良かった)


指輪の金庫の中には、ウィームの歌乞いを真似て幾つかの緊急時の備蓄がある。


これまでのように武器や薬、手形だけでなく、どんな土地でも換金出来る様に様々な国の金に、乾燥させた薬草に売れそうな高価な織り物、宝石は大きなものから屑宝石まで。

食糧や飲み物に、人ならざる者達の力を借りるために必要な贈答用の酒類など。


おかしなところに迷い込んでも冷静でいられるのも、ウィームの歌乞いがあちこちに迷い込むのを聞いていたからかもしれない。

帰り方は必ずあるのだ。


であれば、ここでどう過ごすかをまずは考えよう。

そう自分自身に言い聞かせていた時、不意に声をかけられた。



「お兄さん、買い物かい?あんた、旅人だねぇ」

「…………っ、あ、ああ。思っていたよりも賑やかで、つい目を奪われてしまった」



横から話しかけてきたのは、果物を売る黒髪の女だ。

鮮やかな青色の瞳には橙の虹彩が見え、その問いかけに応えてから、こんな瞳を持つのは人外者ではないかとひやりとする。


きつく巻いた髪は腰まであり、色鮮やかな絵布を頭に巻き付けて、宝石の飾りのある装飾を絡ませていた。



「それにしちゃあ、身のこなしに隙はないね。甘やかされた坊ちゃん達は、財布をすられたりはするけれど、あんたは大丈夫そうだ。うん、いい目だね。陽光の系譜か、火の系譜の守護を受けているのかな」

「…………そこまで、見ただけで分かるものなのか」

「はは、そりゃあそうだ。それに、珍しい妖精の庇護も持っているね。………これを持っていきな」



ばさりと投げ渡されたのは、ブーゲンビリアに似た花の模様の絵付けがある布で、馬飾りかタッセルのような飾り紐の意匠など、他にも色とりどりの複雑な模様が描かれ何とも手が込んでいる。


投げ渡されたので思わず受け取ってしまったが、陽光に温められたその布の温度が、不思議なくらいに手のひらに心地良かった。



「これは………」

「対価も取らないし、災いなんぞの余計なものも付与していないよ。ただ、あんたは迷い子だろう。夜が明ければどこかに帰る旅人の一人だ。だからこれは、私からあんたへの忠告さ。……………いいかい」


会話をする為に店の前まで歩み寄っていたが、ぐいっと体を寄せられると、王宮の女達やロクサーヌの薔薇の香りとは違う、強い日差しの下で咲く花びらの浅い薔薇の香りがした。


にっこりと微笑んだ女は美しく、どこか悪戯っぽい目をしていて、薔薇色の唇の瑞々しさにくらりと目眩がしそうだ。



「ここでは、妖精はとうに失われた種族だ。その守護があることを商人や貴族達に気付かれるんじゃないよ」

「……………なぜ、あなたは」

「はは、なんだいその呼び方。お前でもあんたでもいい。よく分からないが、その呼び方はあんたの口調には相応しくないね。…………なぜ私が、あんたを助けたかについては、…………そうだね、気紛れかな。この街に迷い込んで、すぐに気を取り直して姿勢を正した様子を見ていたら、なかなかしっかりとした男じゃないかと興味が湧いたからさ」

「ではせめて、この布の対価を支払うべきだろう。これは、…………随分と手が込んでいる。高価なものだろう」

「はは、そんなところに気付くあたり、あんたはただの坊ちゃんじゃないんだねぇ。では、もし持ち合わせているのならあんたの国の硬貨を一つおくれ。金貨ではなくて銅貨でも構わないよ。それはきっと、ここにはないものだからね」



そう笑う女の掌に金貨を落としたのは、なぜだか、この美しい女の手に残してゆく物に、その輝きを与えたかったからだ。


より美しいものを、彼女に残しておきたかった。



「はは、銅貨でも構わないと言ったのにね。これじゃあ、悪徳商人のようじゃないか。釣りは出せないが、差額の分だけこの街を案内してやろうか?」

「…………それは有難いが、店はこのままでいいのか?」

「はは、それは構わないさ。…………オードリー、店を頼んでもいいかい?」

「……………はーい」



現れたのは、栗色の髪に緑の瞳をした女であった。

端正な顔立ちは美しいが、この黒髪の女とはまるで違う。


明らかに人種としても違う面立ちに、家族のような関係ではないのだなと考える。




(だが、俺は何をしているんだ…………)



見知らぬ土地で、見ず知らずの女と親交を深めてどうするというのだろう。

ここはまず冷静に一人で考えを纏め、ドリーには届かなくても、エルゼやエドラの名前も呼んでみるべきだ。


或いは、対価を取られるだろうが、統括の魔物に助けを求めてみるという手もある。


どちらにせよ、この土地の気質を知らないのに、住人の手を借りるというのはあまり褒められた手ではない。

それなのにヴェンツェルはなぜか、躊躇いもせずに女の提案に乗ろうとしていた。



なぜか、彼女ともう少し話していたいと思ってしまったのだ。



「…………さぁ。これで店番は交代だ。市場と港と、砂漠の湖の見える星見の塔を案内してやろう。それでだいたい、この街の事は分かる」

「では、宜しく頼む」

「ふふ、あんたは、そんな必要はないとは言わないんだね。………いい選択だ。困惑していて、自身の欲求もあって、だが未知のものを厭わない、澄んだ目をしている」

「……………そのようなものだろうか。それと、………お前は、人ではないものなのだろう?不躾な質問かもしれないが、なぜ屋台で果物を売っているんだ……?」



良い選択だと言われた途端、ヴェンツェルは、用意していた回りくどい問いかけを全て捨てた。

ただ疑問に思った事を素直に告げれば、女は愉快そうに声を上げて笑う。


腰までの髪は弾むようで、彼女が歩くと、しゃりんと宝石の飾りが音を立てる。

立ち上がるとよく見えるようになった服装は、ニケの国の貴族の女達のようだが、肌は雪鉱石のように白い。


大ぶりな耳飾りには深みのある紅玉が嵌め込まれてきらきらと光り、装飾品の多さと老獪した眼差しに、化粧気のない肌と唇の無垢さがどこか危うい印象である。



「そうだよ。そしてここでは、私みたいなものが店を開くのも珍しくはない。宝石の精霊達が街中の質屋を統括していたり、ネアンが市場で買い物をしているのも珍しくはないからね」

「ネアン…………」

「ああ、あんたには分からないか。死と崩壊を司る魔物だよ。陰気な女だが、………優しい女だ」



では、お前は誰なのだと問いかけたかった。

けれども、彼女が名乗らないのであれば、それを問うのは無作法なのだろう。



(少なくとも、死を司る魔物が女だという事は、ここは、……………俺が生まれた世界ではない)



であれば、元の場所には帰れるのだろうかと背筋が冷える一方で、隣を歩く女の言葉をそのまま信じ、夜が明ければ帰れるのだろうと楽観的に考える自分もいる。



だが、一つだけ理解していた。

この夜が明ければもう、彼女には二度と会えないのだろう。




「ほら、賑やかだろう。魚や貝などが主な品物だが、砂漠の湖の周囲にあるオアシスでは、獣達の肉も取れる。果実の殆どは星の夜に収穫されるものだ。水は雨の日になると育つ、雨葡萄から集める」

「井戸のようなものは作らないのか?」

「はは、まさか。こんな土地で井戸を掘ったら、水の乙女達にいいように隷属化されてお終いだよ。まぁ、宝石を対価に取引するなら、何とかなるかもしれないね」

「あれは、花だと思っていたが、野菜のようなものなのだろうか?」

「ああ。人参だね。そちらにはないのかい?」

「……………俺の知る人参とは、だいぶ違う」

「へぇ。そんなものなのか。それもまた面白い。…………じゃあ、セロリは?」



老獪な人ならざるものの瞳がきらきらと光り、その美しさに魅せられる。

問われるままに野菜の話をしたり、香辛料の話をしていると、大きな青い布の帆を張った帆船の並ぶ港が見えてきた。



市場で何かを購入する事も考えたが、どうしてだか、こちらから持ち帰るのは、女が頭に巻いてくれたこの布だけでいいと思う。

王子としての立場を思えば、このような場所に迷い込んだ経験を無駄にせず、もっと多くの成果をと欲張るべきだ。


ここがあちらではないのであれば、あの人参一つでさえ、大きな魔術の成果となり得る可能性がある。



それでも。

それでも、この絵布だけでいいと思ってしまう。



「……………圧巻だな。こちらの船は、鉱石で出来ているのか」

「海鉱石だね。人魚達が守っている海の底の洞窟から切り出される特別なものだよ。船乗り達は、船を作る材料を得られるだけの伝手や財力がなけりゃ、海には出られないんだ。…………ああ、カザドキアから帰還する船団だ。ふふ、あんなに風の精霊をくっつけて、船員の何人かはもう夫にされているだろうね」

「風の精霊………」

「マストの横に、透けて見える女達がいるだろう?」



腕を引かれて視線を合わされ、しなやかな指先が指し示した場所を見つめると、それまで、船の装飾だと思っていた有翼の女がばさりと翼を広げた。

何やらこちらを威嚇しているように見えないでもないが、黒髪の女は気にする素振りもない。


ぴたりと触れ合う体温に、その背中に手を回して抱き締めたいという不躾な欲求を感じ、けれどもそうはしなかった。



「あれはいいのか?こちらを見ているのでは?」

「私が統括の魔物だろうかと、警戒しているんだろう。だから放っておいて構わないよ。残念ながらこの土地はまだ、私のものじゃないからね」

「その口ぶりだと、やがて手に入れるつもりにも聞こえるな」

「そのつもりだ。…………ここは、泉乙女達には荷が重く、貪食の魔物には軽過ぎる」

「その貪食は、階位が高い?」

「いんや。階位は中の中だが、あの女の腹を満たすには土地の豊かさに欠ける。だがここは、いい土地だろう?貪食ごときに食い潰されては堪らないからね」



振り返り笑った女に、では、またここに来れば会えるのだろうかと問いかけたくなるその愚かさに苦笑した。


そもそも、どうして自分がここに来ているのかも分からないし、また訪れられる機会があるのだとしても、もう二度とそうするべきではない。


訪れ方や帰り方を知らず、自分が国と民を守るべき役割を担う者だと知りながら、無責任にこの身を危険に晒すのは浅慮と言うものだ。



ここは、ヴェンツェルのよく知る世界ではないのだから。



(……………どこでもいいから、あの世界であれば良かったのに)



そうすれば隣を歩くこの女は、もう二度と会えない曖昧なものではなく、ニケ達のように望めばまた会う事も可能な者になったかもしれないのに。



多くの帆船を見て周り、月光水晶の船着場を渡り、小さな船上で開かれる店々を覗いた。

太陽は丁度真上に差しかかるような日差しだが、見上げると、いつかの夢で見たように水面に映る満月が見えるばかり。



「さて、次は星見の塔だ。…………おや、どうしたんだい?」

「ここは、美しい街だな。海の色も南洋のようなエメラルドグリーンで、…………人々の顔も幸福そうだ。…………俺は、もう二度とこの地を訪れる事はないだろう。だからせめて、忘れないようにしっかりと記憶に残しておきたい」



言葉を淡々と音に乗せようとしたのに、その声は僅かに歪み、小さな羨望が滲んだ。

ヴェルリアを愛しているし、今の自分を愛する者たちを手放すつもりはないが、もし自分が誰でもない誰かに生まれ変われるなら、この土地で暮らしてみたかった。


(ドリーも、こんな街なら気に入るだろう。船の修理場で竜が働いているのなら、竜そのものはさして珍しくないに違いない)



だがそれは、所詮夢のような願いでしかないのだ。



「あんたは、やんごとなきとかいう身分の人間なんだろうね。近くで見ていると、立ち振る舞いが一介の貴族のそれとは違う。仕えるべき相手を殆ど持たない、支配階級の振る舞いだ」

「かもしれないし、違うかもしれない。だが、ここにはもう戻れないだろう。………どれだけ心を奪われても、俺の立場を考えれば、自分の土地からあまりにも足を離すべきではないだろう」

「…………では、足を離す時にまた来ればいい」



その言葉に隣を見ると、黒髪の女は、人ならざるものらしい不可解で美しい目をしてこちらを見ていた。

青い青い瞳に橙の虹彩は、まるで海と太陽を示す宝石のよう。



「足を、離す時……………」

「年老いての死に際でも、殺される瞬間にでも。月と海が開いていれば、またこちらに呼ばれる事もあるだろう。………その時にまたこちらに来れば、ここに好きなだけ滞在出来る。こちらの死と、そちらの死は領域が違うようだからね」

「それは、恐らくだが、…………俺の暮らしている場所の輪廻からは外れるのではないか?」

「かもしれないね。だが、本気で心を預けた者がいないのであれば、魂を自分の世界に残す事なんて責任を負う必要はないんだ。…………でも、残されて待つ者が長命ならば、そちらの世界で死んだ方がいい」

「………では、死ぬ時にならないと分からないな」

「そりゃそうだ。何を当たり前の事を言っているんだ。勿論、その時にならないと分からないだろう」



海を渡る風に気持ち良さそうに髪を靡かせ、女は、星見の塔にも案内してくれた。

淡い色の砂漠の中に豊かな森と大きな湖が広がる様はどこか異様でもあったが、人知を超えた祝福が宿るようで美しいのは確かだ。


だがヴェンツェルは、活気付いた港や、停泊した帆船の影を歩き、鮮やかなエメラルドグリーン色の海を見ている方が気に入った。



「あの湖には、星が落ちているのだな」

「空に月がなく、星しかない夜には、あちらの道が開くらしい。だが、砂狼に乗ればあっという間の距離だ。迷子になろうが、すぐに辿り着けるだろう」

「疑問なのだが、…………この地から遠く離れた、例えば船が向かうような遠い国に迷い込む事もあるのだろうか?」



そう尋ねると、女はくつくつと喉を鳴らして笑い、首を横に振った。



「縁というものは、そんなに万能ではないものだ。あんたが繋がったのがここなら、あんたはこちら側では、ここ以外のどこにも行けないだろう。………橋の向こう側。或いは、月の光の向こう側の人間だからね」

「…………そうか。それなら、こちらに戻る事があっても道に迷う事はなさそうだな」

「ああ。海の向こうの国々も美しいけれどね。だが、ここだけで我慢するしかないだろう」



ふつりと風が揺れ、女の瞳が市場の方に向けられる。

あれだけ眩かった日差しは傾き始めており、金貨の差額分とは言え、そろそろ戻る頃合いなのだろう。


名残惜しい気もしたが、こうして共に過ごせた時間があっただけで幸いなのだ。

所詮ここは、交わる筈のなかった一晩の夢のような所なのだから。




「もう、帰る時間じゃないのか?」

「残念だが、そのようだ。市場で別れよう。あんたは、残された時間は市場でも見てゆくといい。もう一人でも歩けるだろうからね」

「ああ。そうしよう。街を案内してくれて助かった。…………こんなに楽しい時間を過ごしたのは、久し振りだ」

「謙虚な事だが、それがあんたの本音だろう。幾つもの分岐があったが、どの選択も間違ってはいない。興味深いまま、気に障らない愉快な人間だった。気に入らなくなれば、私は災いにもなったかもしれないのにね」

「ああ。お前が案内を引き受けた時に、そのような事もあるだろうと考えていた」

「それなのに、案内はいらないと言わなかったのかい?あんたは、戻らなきゃいけない場所があるんだろう?」

「……………なぜだか、そうなるとは思わなかった。これ程楽しいとも思わなかったが………」



ヴェンツェルがそう言えば、一瞬呆気に取られたような目をしてから、女は声を上げて笑った。

腹を抱えて笑う女にばしばしと腕を叩かれ、そんなに愉快な言葉だろうかと眉を寄せる。



「……………ああ、帰すのが惜しくなったが、そうもいくまいか。ここで選択を歪めるのは、私の美学にも反するからね。だがそうだ。………こうしよう」


ぐいっと腕を引かれ、思わぬ力強さに体を屈めた瞬間に、ふわりと薔薇の香りがした。

吐息が触れそうな距離で青い瞳が微笑むのが見える。



「……………っ?!」

「はは、いい顔だ」



唇に触れた柔らかさと、頬に触れた髪の感触と。

何をされたのかを理解して目を丸くすると、女はまた愉快そうに微笑む。



「その祝福は、あんたの暮らす場所には持ち帰れないだろう。だが、私からの祝福が与えられた事を覚えておくといい。それは、あんたが、人ならざる者の、そして選択というものの祝福に値する人間だという証として、その記憶に残るだろうからね」

「……………たった一半日程度だ。それも、初対面で………」

「言っただろう。私は気紛れなんだよ。例えば、次にどこかで再会した時にあんたに失望すれば、祝福を与えた事があるからと言って、殺すのを躊躇いはしないだろう。私達はそういうものだ。そして妖精の庇護を持つお前は、そういう事を理解はしているだろう」



そう笑う女を見つめ、指先で口づけを落とされた唇に触れた。



(……………多分、もう二度と会う事はない)



いつか、遠い遠い未来で、王子として、王としての役目を終えて死ぬ時に、ドリーを残してゆかずに済むのならこの街に戻れるかもしれない。

だが、そうなる見込みがどれだけあるのか。


新月の夜に殺される可能性だって、少なくはないのだ。




(だが、この話を帰ったらドリーにもしてやろう。もし、俺が死ぬ時にドリーも死ぬのなら、二人でここに移り住むのも悪くはない…………)




そんな事を考えながら、女と色々な事を話しながら星見の塔のある小高い丘を下り、日の傾き始めている市場に戻った。



こちらの夕暮れが、あちらの夜明けなのだろう。

そう考えると、ますますひと夜の夢のようではないか。



女はあっさりと立ち去り、残されたヴェンツェルは、頭に巻かれた布に触れる。

そこにはもう、日差しに暖められたあの温もりは残ってはいなかったが、彼女と過ごした僅かばかりの時間の証として、確かに触れられる布地の質感があった。



(さて、………夜明けまで、どう過ごすべきか)



もう、さしたる時間はないだろう。

完全に日が落ちるまでと考えても、長くても一刻程度だ。


店々にはランタンに明かりが灯り、晩餐をかねて市場を訪れる買い物客は増えたようで、昼間よりも賑やかになっている。


旅人の多い土地のようだし、盗まれて困る物は金庫に入れてあるが、街の住人達とは異なる装いなのは確かなので、気の荒いような船乗り達に目をつけられても困ると、買い物客の中に紛れる事にした。




「あれ、何でここにいるんだろう」



だが、ではこれから一人で街を見てみるかと気を引き締めて直したところで、思いがけない声がかけられ、ヴェンツェルは今度こそ弾かれたように振り返った。



「……………父上?!」



そこに立っていたのは、串に刺した肉のようなものを手にした、どこからどう見ても国王のその人である。

とは言え、随分と寛いだ商人のような服装であるし、護衛達の姿も周囲にはない。


あまりにも無防備なので他人の空似だろうかと眉を顰めると、目を丸くしていた国王に慌てたように駆け寄られる。



「っ?!」

「だ、大丈夫かい?怪我はしていないね?………うん。どこも取られてないね。………はぁ。驚き過ぎて心臓が止まりそうになったじゃないか。夜更かしは構わないけれど、一人でこんな危ないところにいるなんて」

「……………それは、寧ろ父上の方なのでは。お一人でしょう」

「まぁね。でも私は子供の頃から来ていて慣れているから、ここでの過ごし方を知っているんだ。…………ところで、食事はしたかい?」

「い、いえ…………」

「よし、では私のお勧めの物を奢ってあげよう。はは、こりゃあいいぞ。息子と買い食いをするのは初めてだ!」



言いたい事は沢山あったと思う。

なぜ国王たる人がこんな所に一人でいるのか、護衛もなく一人でいるには、あまりにも危うい場所ではないのか、そもそも、ここで飲み食いして戻ってから支障はないのだろうかとか。


だが、やけに上機嫌の父を見ていると、このような所だからこそこんな出会いもあるのだろうかと、なぜか腑に落ちてしまう。


或いは、あまりにも非日常的な事が続き、感覚が麻痺していたのかもしれない。



ヴェンツェルはその後、大はしゃぎの父に串焼肉の店でご馳走して貰い、串焼き肉の他にも、初めて見る不思議な果物のジュースや、砂糖をからめて焼いた葡萄の焼き菓子を食べさせられた。



少しずつ青く深く夜に近付いてゆく街で、屋台に併設された食事用のテーブルの横で歌う吟遊詩人に銅貨を投げ与え、また来たのかと船乗りに声をかけられている父を茫然と見つめる。


なぜか、お揃いにするのだと強引に飾り紐に宝石の欠片を編み込んだ腕輪を買い与えられ、満足げに色違いの同じ腕輪を自分の腕にも嵌めている父の横顔を見つめた。



(……………今日は、ただ見つめるものが多いな)



初めて出会ったあの女と、見知らぬ顔で笑う父と。




「…………ああ、いい夜だ。これで明日の朝の、正妃との朝食会も乗り切れる」

「母上と、朝食会なのですか?」

「そうなんだ。まず間違いなく甚振られるから、心を満たし直しておかないとね。ここのように、どこでもないどこかで気を緩めるのは、時として必要な事だろう?」

「…………そう簡単に訪れられるような場所にも思いませんが、…………父上は特別なのですか?」


そう問いかけると、さてどうだろうねと苦笑され、何だか見てはいけないものを見たような気がして途方に暮れる。


「必要とされれば、運が良ければ、必要とすれば、不運なら、そしてどこかで何かが繋がれば、また来られると思うよ。二度目三度目と縁が続けば、縁のある土地なのだろうと理解する迄だ。もしまたここで出会えたら、その時も一緒に食事をしようか。お気に入りの息子と食事をするのは、父親の数少ない特権の一つだからね」

「……………ええ」

「それと、何度も大事そうに触っている、その頭に巻いた布を持ち帰りたいなら、そろそろ外してしっかりと手で握っておくといい。ここから持ち帰れるのは、手首に巻いた物と、手で掴んだ物だけだ。…………私も、何度かそれで大切なものを無くしてしまった」

「それは、………」



それは、どんな物だったのですか。



そう尋ねようとして、くらりと視界が揺れた。

はっと息を飲んで顔を上げると、そこは自室の窓辺に置かれた長椅子の上で、窓の向こうにはまだ、真夜中の色が満ちている。



(……………夜明けですらないのか)



波音に煌めくのは海の上に落ちる満月の光で、灯りを消した部屋は青白い月の光の中で静まり返っていた。




「…………っ、」



慌てて手の中を見れば、そこにはしっかりと握り締めたあの布がある。

手首に巻かれた、父とお揃いの腕輪もそのままだ。



「……………俺は、戻ってきたのか…………」



よろよろと立ち上がると、半日かけてあちこちを歩き回った疲労感が、僅かに残っていた。

すぐに隣室で休んでいるドリーを呼び、海の底の見知らぬ街で体験した事を、どうやって伝えようかと少しだけ考える。




「ヴェンツェル、どうした?…………眠れないなら子守唄を歌おうか?」

「……………それはいい」



殆ど間を開けずに部屋に駆け付けた契約の竜は、ヴェンツェルの姿を上から下まで確認すると、安堵したように瞳を細める。


恐らく、特に変わった様子はないので、眠れなくて呼び付けられたと考えたのだろう。



「夜遅くにすまないな。話したい事がある」

「そうか。一人で寂しくなる事もあるだろう。今夜は、前のように一緒に寝るか」

「……………それもない」



放っておくと大変な事になりかねないので、慌てて不思議な体験をしたのだと伝え、海の底の不思議な街の話を始める。



幸い、夜はまだ日付が変わったばかり時間なので、話をする時間はたっぷりありそうだ。











明日5/26の更新は、お休みとなります。

Twitterの方でSSを書かせていただきますので、もし宜しければご覧下さい。

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