表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
379/880

ダンスと疑惑




ネアはその日、こっそり衣装部屋にいた。




とは言え、伴侶を一人で部屋に残しておくとしょぼくれてしまうので、衣裳部屋の片隅にそっと安置してある。

天鵞絨張りの着替え用に設置された椅子に座っているディノは、水紺色の瞳をきらきらせて、何が始まるのだろうと期待の眼差しだ。


この無垢な魔物は、ここから、どの世界でも女性達が突然陥りかねないある種の狂乱、ファッションショーの宴が始まるのだと理解しているのだろうか。



「ディノ、私が思い描くような服を探し、あれこれとお着換えするだけなので、あまり楽しくはないと思うのです………。退屈してしまいませんか?」

「ネアが、沢山動くのだろう………?」

「むぅ。それでいいのなら、ご期待に添えるかもしれません…………」

「欲しい服があるのなら、用意してあげるよ」

「い、いえ!ちょっとしたごっこ遊びをするだけなので、新しいお洋服はいらないのです」



慌ててそう言えば、ディノは不思議そうに首を傾げた。


どこか無垢な仕草は、ここにいるのが魔物達の王だとは思わせない無防備さだ。

そんな魔物は、勿論、人間のごっこ遊びには無縁の日々を送ってきたらしい。



「ごっこ、遊びなのだね?」

「はい。火の慰霊祭で見た松ぼっくり劇場の舞踊がとても素敵でしたので、私も、あの踊り手の方が着ていたようなしゃわんと裾が揺れる服を着て、ディノと大広間で踊ってみたいのです」

「…………私と、でいいのかい?」

「ええ。勿論です。残念ながら私にはあのような踊りは出来ませんので、せめて、いつものダンスを、あの舞台の素晴らしさを真似っ子出来るような装いで楽しもうと思いまして…………。ディノ、もし良ければ、衣装が決まったら一緒に踊ってくれませんか?」

「うん。…………ずるい」



だが魔物は、自分が参加すると知ると少し張り切ってしまった。

仕立ての魔物にあのようなドレスを作らせようと言い出したので、ネアは慌てて止めねばならなかった。



「新しい物の方が、君が望んでいるようなドレスになるだろう?同じような物がいいのなら……」

「ディノ、このごっこ遊びは、こうして衣裳部屋の探索をするのも楽しいのですよ。なので今回は、手持ちの服の中から、あのような雰囲気のものを探すというのも、私の目的に含まれているのです。あれこれ着替えてみるかもしれないので、ディノの意見も下さいね」

「…………うん」



初めて参加するご主人様のファッションショーに、ディノは、目をきらきらさせたままこくりと頷いた。

まだよく分かってはいないようだが、新しいことに一緒に参加出来るというのが嬉しいようだ。


ネアはまず、最初の候補達を手に入れようぞと、ささっと衣装棚の森に入る。

そして、立ち尽くした。



(…………ふ、増えてる!!)



一歩踏み込み、真っ先に感じたのは、風景の変化だ。


何をどう増やしてしまったのだと慄く人間は、慌てて周囲を見回し、見慣れないドレスや上着などの数に眩暈を覚える。


なおここは、ディノだけでなく、義兄も品物を増やしてくるたいへんに恐ろしい部屋で、ネアは、常々置き去り犯罪を防止しようとしてきたがなかなか効果が上がっていないのが実情であった。


ふらりと部屋から出てくるアルテアを見た事もあるので、使い魔も犯人の一人であるのだろう。

ウィリアムだけは犯行にかかわっていないと、ネアは今も信じている。


しかも、犯人たちはネアの嗜好を知り尽くした残虐な仕打ちをこれでもかとするのだ。



(……………ほ、ほわ………)



例えば、この衣裳棚の並びだけでも、新作ですと言わんばかりに吊るされたドレスは、一番のお気に入りにしてもいいくらいのものばかり。

気に入った服は大事に何回も着たいネアにとって、あんまりな拷問だと言わざるを得なかった。


当初の目的をどこかに落としてきてしまい、ご新規衣裳の着替えだけを楽しみそうになりかけ、ネアは慌てて首を横に振った。


既に手にはお出かけ用のドレスを二着も抱えているが、これは、リノアールやザハでの昼食に使う用ではないか。



渋々その服を戻し、きょろきょろと周囲を見回す。


目を留めたのは、チュールレースのような軽やかな素材を使ったスカートがダンスにうってつけのドレスで、くすんだ薔薇色が何ともロマンティックだ。

裾部分の内側が鮮やかな薔薇色になっているので、渋めの色彩の中にひと雫の血色を落としたような色合いも素晴らしい。



(もう一着は…………)



一度に何着かを着てみようと企み、もう一着候補を選んだ。


こちらは柔らかなクリーム色のドレスで、たっぷりと布地を使ったスカート部分は、はりのあるシフォン生地のような素材で、裾だけ淡い水色になっている。


儚げな朝顔の花のようなドレスは、想像していたものとは違うものの、すっかりお気に入りになってしまった。


更にもう一着選んだのは、刺繍の華やかさが少し民族衣装的な雰囲気を作っているセージ色のドレスだ。

袖口と腰回りに色鮮やかな刺繍が施され、くっきりとした花々の刺繍がある割にくどい印象にならない。



「むふぅ!素晴らしい候補を見付けてきました。…………まぁ、ディノはしょんぼりなのですか?」

「…………ネアが見えなかった」

「少しだけぞくりとしましたが、この場合は、次に現れるまでの期待値を高める趣向だと考えて下さいね」

「衣裳棚なんて…………」

「大事なものが沢山入っているものなので、決して無体を働いてはなりません」



衣裳棚にご主人様の姿を遮られた魔物は少しだけ悲し気であったが、ネアが容赦なく着替え始めてしまうと、きゃっとなって先程まで恨めし気に見ていた衣裳棚の影に隠れてしまった。



こちらの世界のドレス事情では、ウィームの暮らしでは日常的にコルセットなどは装着しないものの、アンダードレスと呼ばれるものを下着の上に着ている。


シュミーズのような下着だけではなく、ネアもよく知る水着的な下着の装いが約束されているので心許なくはないものの、ネアは、どうしてもその上に着るこのアンダードレスを過信し過ぎてしまう傾向があった。


何しろ、これ一枚でも、場合によっては部屋着や夏用ワンピースとして通りそうなものなのだ。


魔物はこれだけで恥じらってしまうが、さすがに街には繰り出さないものの、屋内の、それも私室の範囲では許されてもいいのではなかろうか。


がさっと脱いでがさっとドレスを被るという、お母さんな使い魔のアルテアがいたら叱られそうなドレスの着方をしながら、ネアは、ノースリーブもちょっと刺激が強過ぎる系の魔物に頭を悩ませていた。


舞踏会のドレスの露出は気にしないようなので、恐らくは、こちらの世界の装いにおける常識が邪魔をしているのだろう。


ネアとて、以前の暮らしや文化にさしたる執着はないのでこちらの世界での常識に合わせるのは吝かではないのだが、あまりにも貞操観念が厳しいと、大雑把な人間の暮らし方という障害が立ちはだかる。


時として、がさつに過ごしたい事もあるネアにとって、アンダードレスを見るだけで恥じらってしまう魔物を宥めるのは、なかなかに重労働であった。



(そもそも、浴室着も見ているのに、なぜ恥じらってしまうのか………)



「さぁ、ディノ出てきて下さいね。着替えたドレスを見て欲しいのです」

「ネアが虐待する…………」

「アンダードレスにも慣れましょうか。寧ろ、これに慣れてくれるのは、伴侶であるディノと、お気に入りの仕立て妖精さんなシシィさんくらいですので、ぜひに伴侶としての特権を行使して下さい」

「…………伴侶は、いいのかい?」

「ええ。一緒に暮らしている仲良し伴侶ですので、私のアンダードレス姿を見る機会は、誰よりも多いのですよ?」

「…………ずるい。懐いてくる」

「むぅ…………」




しかし魔物は、もそもそと衣装棚の影から出てくると、ネアが着替えたドレスを見てくれた。



「これはどうでしょう?」

「とても綺麗だよ。君によく似合うし、一番可愛い」

「ダンスを踊ると、………えい!………このようにスカートがふわっと広がるのが素敵だと思いませんか?」

「…………可愛い」

「まぁ、なぜ衣装棚の方に戻ってしまうのでしょう?………ディノ、次のドレスの感想もあるのですからね?」

「………うん。また、ここで着替えるのかい?」

「ぐぬぬ、なぜ震えているのだ。私が虐めっ子のようではありませんか………」



ネアがその後の二着の感想を魔物に求めた結果、この伴侶はどのドレスでも一番可愛いと言ってしまうのだという事実が判明した。

どれか一つを選ばせようとすると、何て事を言うのだろうという悲しげな目をしてこちらを見つめるので、ますます虐めているような気分になってしまう。



「ディノ、では今日はどのドレスがいいですか?また後日、他の二着も採用しますので、一番ではなく、今日はどんな伴侶と踊りたいのかを選んで下さい」

「今日は、でいいのかい?」

「はい。ドレスなどについては、その日の気分で嗜好は変わるものですから」


ネアがそう言えば、ディノはひたりと動きを止め、考え込む様子を見せた。

僅かに細められた瞳には魔物らしい叡智にも似た思案が宿り、どこか高位の見知らぬ生き物のような美貌にネアはおおっと目を瞠る。



こうしていると、この魔物はなんて美しいのだろう。

ついつい見惚れてしまい、大切に撫でてやりたいような、どこか美しい湖の畔にでも設置して絵姿を描いて欲しいような、不思議な気分になった。



「では、君がセージ色のドレスと呼んでいたものにしようかな。あの舞台の踊り子のような雰囲気に憧れていたのなら、そのドレスが最も近いだろう。君が望んでいたものが、私が今日、選びたいものだから」

「まぁ、私の伴侶は何て優しいのでしょう!では、そのドレスにしますね。ディノが選んでくれたので、今日の私の一番はこのドレスです!」


そう弾めば、ディノはまた少し弱ってしまった。

欲を言えば、ネアの望みではなく自分の好みで選んで欲しいところもあったのだが、しっかりと一着を選んでくれたのでこれでもいいだろう。


ネアとしては、選び切れずに魔物を巻き込んだので、どのドレスでも大満足である。


いそいそとセージ色のドレスに着替え、衣装棚の影で待っていてくれたディノの腕を取り、こちらの棟に近い中広間に向かう。

道中、ぐいぐいと腕を引っ張られたディノは、目元を染めてへなへなになっていたが、ネア達が訪れた時にはもう扉を開いていてくれた広間に入ると、伴侶らしくエスコートしてくれた。



「ディノ、この広間も模様替えしています…………」

「君を喜ばせようとしてくれているのだろう。白水色の天鵞絨のカーテンは、あの舞台のものとよく似ているね」

「………ふぁ。それどころか、きらきらと光る月光のシャンデリアの煌めきが床に落ちているところも、あの舞台のようでそっくりです。………このシャンデリアは元々この広間にあったものですが、カーテンを閉めていると、こんな風に光が入るのですね…………」



床石は流石に、あの舞台と同じ結晶化した木の床ではなかった。

だが、柔らかなクリーム色の壁もよく似た色で、どこからか、不思議な森の影が床にかかっているところは、やはりあの舞台と同じなのだ。



ネアは、松ぼっくりが見せてくれた舞台について、エーダリアやヒルドに事細かに語った事を思い出した。

もしかするとリーエンベルクのこの広間は、そんなネアの言葉をどこかで聞いていてくれたのかもしれない。



「ディノ、踊ってくれますか?」

「………うん。すごく可愛い………」



ネアはすっかりいい気分になってしまい、ディノに沢山ターンをして貰ってダンスを踊った。


くるりと回して貰い、ひらりと揺れるドレスの裾の色合いを楽しむ。

こちらを見ているディノの眼差しと、きらきらと揺れるシャンデリアの明かりと影の色。

どこからともなくはらりと舞い込んだ赤い花びらは、あのステージの喝采のよう。




「……………ふは!大満足です」

「沢山踊ったね。楽しかったかい?」

「はい!この弾みは、楽しかったという昂りを示しているのですよ。…………む、そう言えば………」



概ね満足したが、まだ一つ達成出来ていない事があったと思い出したのは、二回の休憩を挟んで十四曲も踊ってからだ。


ネアの知らないロクマリアのダンスも教えて貰い、優雅な音楽と共に過ごした午後は気持ちの良い疲労感を残している。


こんなに素敵な広間を貸し切っているのだから、ネアが、物語の主人公のようだと浮かれた気持ちになっていたのは致し方ないとも言えないだろうか。



「ディノ、ちょっぴり飛び跳ねてみますので、少しだけ離れていて下さいね」

「飛び跳ねる、のかい?」

「はい。あの踊り子さんのように、しゅたんと飛び上がってみたいのです。私は体がとても柔らかいとは言えませんが、中の下くらいの柔軟性はあると自負しております。勢いをつけてえいやっと飛び上がれば、華麗な姿を維持出来る筈………」

「ネア、一人で遠くにはいかないようにね?」

「むむぅ。この広間から飛び出す程の跳躍力はないのだ………」



その日の事を思い出す度に、ネアは、なぜそこで挑戦してしまったのだろうと、自分の勇気と努力が引き起こした悲劇を恨めしく思う。

沢山ダンスを踊った後なので、その高揚感からまだまだ自分はやれると感じてしまったが、疲労感までは計算していなかった。


加えて、ダンスというものはパートナーの力が反映される娯楽であり、ディノは、ネアに自分はダンスの名手であるという勘違いをさせてくれるくらいには、素晴らしいお相手だったのだ。




(あの時のように、空中で足を広げてしゅたんと………)



ててっと助走を付け、空中で綺麗に開脚するジャンプは、なんと優雅で華やかだったことか。

指先までが伸びた空中姿勢は、力強いジャンプに反して、繊細で儚げですらあった。


(私だって…………!!)




そうして、己の力を過信した愚かな人間は、悲しい事故を起こしたのだ。




「えいっ……………にぎゃ?!」

「ネア?!」



びきっ、ずばんと、激しい物音が重なった。



まずネアは、己の柔軟性を過信し過ぎており、助走を付けて飛び上がって足を開こうとした瞬間に、両足の太腿の付け根の、主に内側付近がびしっと嫌な音を立てた。


可動域とそれに見合わない反動の付け方が災いし、ネアは無理に足を開き過ぎてどこかしらを痛め付けたのだ。


しかも、その痛みにぎゃっとなってしまい、着地がたいへん疎かになった。

即ち、そのまま床に落下したのである。




「……………ふぇぐ」

「ネア、大丈夫かい?!どこか痛いところは………」



痛いどころの騒ぎではなかった。

石造りの床に何の受け身も取れずに落下したのだから、辛うじて足を閉じるという動作は行えたようだが、お尻と左足の膝の内側を強打している。

お尻の内側にある骨は恐らく粉々だろうし、足については痣になるだろう。


そして、淑女としてあるまじき事に、両足の付け根もたいへんにびきびきと痛んでいる。


すっかり消沈してしまったネアは、おろおろとする魔物に泣きつこうとして、ぎくりと固まった。




「……………お前は、どうしてそうすぐに事故るんだ」



よりによって、森から戻ってきた使い魔が、広間の戸口のところに立っていたのである。



「……………っ、ぐむ。…………着地に仕損じてしまいましたね。お恥ずかしいところをお見せしました。その、……………見た目よりも痛くないのですよ」

「ほお、その涙目でか」

「まぁ。これは、至らぬ自分への悔しさなのです。……………ぎゅむ?!…………むぐぐ、ディノ、立ち上がるのに手を借りてもいいでしょうか?」

「どこか痛むのであれば、治してあげるよ。ネア、どこが痛いんだい?」

「そ、そうですね。こちらの足の膝のところが少しだけ………」



お尻と足の付け根が一番痛いのだ。

じんじんびりびりと痛むその部位に、ネアは奥歯を噛み締めた。


しかし、呆れたような目でこちらを見ている使い魔に、本職の踊り子に憧れて跳躍し、お尻を粉々にした事は知られてはならない。



(もしここでその事実が露見したら、アルテアさんには今後、粉々お尻と虐められるかもしれないのだ。………その辱めだけは、何としても回避してみせる)



「……………ぐ。…………うふふ。アルテアさんは、本日はどうされたのですか?森にお帰りになられては如何でしょう?」


ディノの手を借りて何とか立ち上がったネアがそう言えば、アルテアは、どこかうんざりとしたように顔を顰めている。



「火の慰霊祭では、何も問題は起こしてないだろうな?市場で、お前が祟りものを狩ったと噂が流れていたぞ」

「そんな事もあったのかもしれませんね。ですがもう、遠い過去のことです。ところで、森への便には間に合いますか?そろそろ急いでお帰りになられた方がいいかもしれません」

「…………なんだその設定は」

「時間は無駄にしてはいけませんよ?ささ、気を付けてお帰り下さい」

「ったく。拗ねるにしても、もう少しマシなやり方にしろ。パイでも作って欲しいのなら、はっきりと言え」

「い、いえ、………パイは今日は結構です。どうか、帰り道では気を付けて下さいね」



ネアはディノにしがみついたまま、さようならと手を振った。


本音を言えばパイはとても食べたいし、出来れば月並みな林檎のパイをバニラアイス添えでいただきたいところであるが、今はアルテアをここから遠ざける事に全力を傾けねばなるまい。


お尻粉々事件を隠蔽する為には、涙を呑んでパイは諦めよう。



「…………まさかとは思うが、余分を増やしてはいないだろうな?」

「なぬ。なぜに粘るのだ。森へ帰り給え」

「……………もしかして、あの精霊を気に入ってしまったのかい?」

「む?」



ディノにまで心配そうにそう問いかけられ、ネアはこてんと首を傾げた。

最近、精霊のご新規さんに出会った記憶はないぞ考え、まさか、消し炭にした松ぼっくりの事だろうかと眉を寄せる。


しかし、眉を寄せたのはネアだけではなかった。

腕を組んで立っているアルテアも、無言で眉を寄せ、ゆっくりとこちらに歩いてくるではないか。


近付かれると、足が震えている事に気付かれてしまうので、ネアは低く唸って使い魔を威嚇する。

ディノに膝は治癒して貰ったが、お尻と足の付け根は、もう限界という痛みを訴えているのだ。

一刻も早く使い魔の目を逃れ、ディノに治療を請わねばならない。




「接近禁止です。森への便がある内に、豊かな自然の中に戻るのだ!」

「…………何を企んでいるのかは知らないが、破棄出来ない契約を結んでおいて今更だな」

「むぐるる!なぜ近付いてくるのです!!今日のご主人様は、使い魔接近禁止を発動しているのですよ!」

「ネア、アルテアが弱ってしまうから、許してあげてはどうだい?祟りものは飼えないし、あの生き物はもういなくなってしまっただろう?」

「……………私は、お気に入りの生き物を消し炭にするような人格破綻者ではありません……………っ?!」



ここで、崩壊の瞬間が訪れた。

ディノにしがみつき、何とか奇跡のバランスを保ち優雅に立っていたネアだったが、ディノにそう主張する為に上を見上げてしまったのが災いした。


びききっと走ったお尻の痛みに足を踏み替えようとして、ネアは、足の付け根の筋的な何かの反逆を受ける。



「にぎゃ!!!!」



結果として、苦痛の声を上げて前屈みになってしまい、お尻を押さえて悶絶する淑女が出来上がった。



「……………ほお、まだどこか痛むようだな」

「ネア、まだどこか痛めているのかい?すぐに治してあげるよ」

「……………にゃぐ。ど、どこもいたくありませむ」

「明らかに様子がおかしいだろうが。そもそも、隠す理由は何なんだ」

「わたしはとてもゆうがなので、おしりはくだけていません」

「ご主人様…………」



慌てて持ち上げようとしてくれた伴侶に、ネアは真っ青になってぶんぶんと首を振った。

その体勢は、今ばかりは決してならない。

更なる悲劇の予感しかないではないか。



「やれやれだな。妙な転び方をして、あちこち痛めたな。……シルハーン、部屋に戻して治癒をかけた方がいいだろう」

「うん。ネア、どこを痛めたのか言いたくないのなら、全身を治癒してあげるからね」

「……………ふぁむ。そ、そんな事も出来るのです?」

「うん。まずは治癒をしてしまおう。それから、部屋に帰ってゆっくり休もうか」

「……………ふぁい。驚かせてしまってごめんなさい」

「可哀想に。すぐに気付いてあげられなくてごめんね」




ネアはすぐに治癒魔術で恐ろしい痛みと決別を果たし、自室に連れ帰られ、無事に着替えも済ませる事が出来た。



なぜかアルテアも同行しており、事件の真相を聞き出そうとするので、そこは頑なに黙秘を貫かせていただく。

冷やかさずに治療を優先させてくれた魔物であるが、事の経緯を知った上でも優しいかどうかの保証はない。




「で、その精霊はもう隠し持ってないんだな?」

「なぜそちらの質問なのだ。燃える松ぼっくりなど、隠し持っておりません………」

「俺を帰らせようとした理由にならないだろうが」

「……………淑女には、色々と都合があるのですよ」

「シルハーン、その祟りもの以外に、こいつが会った者のリストを寄越せ」

「ウィリアムとアレクシスだけだと思うよ。ウィリアムは、リーエンベルクの騎士に擬態していたから、とても喜んでいたかな。アルテアも騎士に擬態してみるかい?」

「……………ほお、あいつか」

「なぜか、どんどんおかしな方向に向かってゆきますが、私はただ、お尻が粉々なのを隠したかっただけなのです…………」

「もう一度言うが、俺を遠ざけようとする理由にならないだろうが」

「なんと疑い深いのだ…………」



ネアは、伴侶の魔物にも弁護して貰おうと、どうして先程の負傷をアルテアに知られたくなかったのかを耳打ちしてみたが、たいへん悲しい事に、こちらの魔物は不意打ちで耳元に囁かれ、ぱたりと儚くなってしまった。


ネアは、とても過保護な魔物たちに寝台に設置されており、そこに突っ伏すようにして動かなくなった伴侶はもう、揺さぶっても目を開いてはくれなかった。



「お、おのれ!なぜ脱落してしまったのだ!!」

「いいか、ウィリアムの言動の何が気に入ったのか知らないが、騎士服目当てならあの日の事だけだろうが。それと、使い魔の契約は入れ替えは出来ないからな。何度言わせるつもりだ」

「……………むぐぅ。ぐるる………」

「そもそも、慰霊祭の日は用事があると言っておいただろう。お前が前から食べたがっていた無花果のタルトを作ってやる。それで機嫌を治しておけ」

「……………むぐ。林檎のパイのバニラアイス添えがいいでふ」

「ったく」



選択の魔物は、ご主人様がリクエストを出した事で落ち着いたようだ。


ネアは、厨房の鍵を借りてパイ作りに出かけるその後ろ姿を見送りながら、枕元の引き出しにしまってあった使い魔と仲良しを引っ張り出す。


なかなか難しい使い魔の心を理解する為に、まだまだ勉強が必要なのだろう。

そして、それはそれとして、今度ウィリアムに、騎士服の会を設定して貰った事はアルテアには内緒である。


狡猾な人間は、おのれの欲望の秘め方を理解しているのであった。











評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ