150. 優しい夜になりました(本編)
ぴしぴしと窓に広がる霜の白さに、暗い夜が複雑な形状に縁取られてゆく。
どこか遠くで、赤い火が揺らいでいた。
あれが生きた火であればとひやりとしたが、目が合ったノアが短く首を横に振ったので、幻なのだろう。
視界の端でひらりと揺れたのは、奇妙な白いヴェールのようなもの。
何だろうと目を凝らしていると、はっとしたようにエーダリアがこちらを見る。
「ネア、白いヴェールのようなものが見えているな?!」
「むむ、何か見えたらまずいものなのですか?………ディノ?」
その声の調子から目を瞠ったところで、ネアは頬に手を当てられ振り返る。
こちらを覗き込んだ魔物は、ネアの瞳をじっと見つめるとほっとしたように息を吐いた。
「…………問題ないね。ネア、それはこだまだ」
「こだま………」
「残響のようなもので、視覚的な魔術を持つ精霊の一種だね。本来なら障りはないものだけれど、このような日に出会うと祝祭に纏わる記憶に触れかねない。…………君が、怖い思いをするといけないからね」
「…………あのぺらぺらめを、侵入禁止にして下さい」
「そうしたいところなのだが、祝祭の魔術に触れるので排除を仕掛けられないものもいるのだ。………特にこの地ではな、…………慰霊祭の日こそ、領民達を触れさせたくないものなのだが………」
「むむぅ!エーダリア様をしょんぼりさせたぺらぺらなぞ、滅ぼしてくれる………!」
「ご主人様…………」
荒ぶったネアにおろおろしていた魔物は、慌ててパテを乗せた小さな麦葡萄パンをお口に入れてくれた。
むちむちもちもちの、ぎゅっと詰まった黒いパンは、麦葡萄という葡萄の甘さのある黒麦で作られる。
ヨーグルトも入っていると聞いたような気がするが、そこは食べる方に集中してしまっていたのか、少し記憶が曖昧だ。
黒麦は実際には黒というよりは焦げ茶色で、秋になって麦穂の揺れる麦葡萄の畑は、少しだけ香ばしくて甘い香りがするのだそうだ。
かたかたかたんと、不思議な音がした。
ネアがもしやまた不審な生き物の現れだろうかと思い顔を上げれば、エーダリアが何やら魔術道具のようなものを手にしている。
手のひらの上に乗せた小さな本のようなものを覗き込み、この部屋の明かりの中では瑠璃色の影の落ちる鳶色の瞳は、どこか不安げに揺れているような気がした。
俯いているせいで目にかかる銀髪が、今触れても構わないだろうかという、苦しげで繊細な影を落としている。
「………ヒルド、負傷者が出たようだ。確認をしてくる」
「いえ、私が。あなたが連絡口に出てどうするのです。少しこちらでお待ち下さい」
「そうか。………そうであったな」
静かな静かな声に、ネアは膝の上に置いた手をぎゅっと握り締め、隣の魔物の表情を窺った。
けれども、真珠色の睫毛を揺らしてこちらを見た魔物が何かを言う前に、首を傾げたノアがひょいっと手を上げる。
「それってさ、リーエンベルクの騎士の条件魔術の管理板だよね?それなら、火の慰霊祭周りじゃないね。僕も一人ずつ魔術を繋いで把握してるけど、少なくとも誰も死んではいないし、死ぬような怪我もしてないよ」
敢えてなのだろう。
微笑みを滲ませた飄々とした声音に、エーダリアが勢いよく顔を上げる。
こちらを見てふるりと揺れる瞳は、ネアが懸念した程に儚くはなく、けれども凛とした強さと覚悟を残しているからこそ悲しい、そんな瞳であった。
「…………そうなのか?」
「うん。さすがに普段はそこまでやってないけれど、今日は僕が我慢ならないから、念の為にね。まぁ、連絡を取って事情を聞いてみてからだけど、エーダリアやヒルドが心配するような事は起こらないからさ。安心してよ」
「そうか!…………良かった」
「ふふ、良かったですね、エーダリア様。ノアのおかげで、心がぎゅっとなる時間が短く済みました」
「…………ああ。騎士たちに警備や街の管理を命じる以上、どのような結果も受け入れるのも、私の役目なのだ。………だが、やはりこのような連絡魔術が動くと、堪らない気持ちになる…………」
エーダリアがこのような事を言うのは珍しい。
だからこそ、本当に胸を痛めていたのだ。
そんな息を詰めるような怖さが伝わり、ネアは知らずに詰めていた息をふはっと吐き出した。
安堵にへにゃりと眉を下げたネアに、ディノがそっと膝の上に三つ編みを置いていってくれる。
だがしかし、こんな時もやはり、三つ編みではなく手を繋いでくれるような気遣いが良かったなとご主人様はこっそり思う。
「………山車を出す時間に近いのでと、無理をして見回りに出たようですね。………まだ上手く歩けないようでしたので、騎士棟で休んでいるようにと指示を出したのですが、火の気配を感じて外に出てしまったようです。幸い、駆け出した瞬間の振動が………打撲個所に響いて転倒しただけのようですので、新たに手首を捻ったくらいで済みました」
「………だが、それにしては魔術反応が強かったのだが、他に負傷箇所はないのか?」
「先の打撲個所が相当痛んだようですね。…………祝祭に紐付く祟りものに与えられた損傷は、その祝祭の間は魔術的な治癒が叶いません。痛み止めが切れたのでしょう。あまりの痛みに失神したようですよ」
どこか鎮痛な表情でヒルドがそう言えば、エーダリアだけでなく、なぜかノアまでもが真っ青になった。
こてんと首を傾げたネアとて、その手の負傷がどれだけの苦痛なのかは想像する事は出来る。
だが、今迄のウィームの魔術的な治癒に慣れてしまい、痛みが続くという状態を上手く想像出来なくなっていたのだ。
「…………わーお。僕は絶対に無理。泣くよね………」
「真面目な男なのだ。その痛みの中でも、見回りに出ようとしてくれたのだな……」
「日付が変わり次第、魔物の薬を飲むように言ってあります。鎮痛作用もありますから、酒などで酩酊させるようにも言ったのですが、本人が拒否したようですね」
なお、ネアにはその騎士の名前は伝わってきていない。
何でも、一応は男性としての矜持があるので、ご婦人には被害者を特定出来ないようにして欲しいという嘆願が騎士達から上がったのだとか。
残念ながら、配属などを考えると何人かまでは絞り込めてしまうのだが、ネアは、その先の推理はしないように自分に言い聞かせている。
(いつもなら、夜にも儀式があるのだけれど………)
ヴェルリアからお客達が招かれるので、政治的に儀式の時間をずらす事は珍しくないが、今回は魔術的な理由で儀式がお昼前となっている。
エーダリアは火の怨嗟達の標的にもなりかねないので、儀式を増やすばかりでは成り立たないのが、この火の慰霊祭だ。
その分、山車を牽く者達や、松明を持ち練り歩く者達には負担がかかるが、今年は広場の炎の乙女問題が解決したので、一つの大きな成果と引き換えであると領民達の士気は上がっているらしい。
そんな広場の炎の乙女については、ヴェルリアの者達は知らないままだ。
慰霊祭にまとめての鎮魂となるものの、開戦前の討伐として、わざわざ報告はしないという括りになるらしい。
報告すれば、恨みを残した炎の乙女の怨嗟を勝手にひきはがしてしまったと文句を付ける者達がいるかもしれず、それ以前の問題として、正式な慰霊儀式を何年かに一度しか行えなかったので、公にする事を好まれなかったのだ。
またどこかから、火事を知らせる鐘の音が聞こえてきた。
予兆を司るこの音は、リーエンベルクの屋内でも聞こえるようになっている。
生きた炎が現れた時には今のウィームでも鳴らされるが、大抵のものは、火の幻影の中から聞こえて来るここではないどこかの響きだった。
「……その騎士さんが気にされた火の気配は、無事に処理されたのでしょうか?もし手が足りなければ、言って下さいね」
「ええ、グラスト達が戻っておりましたからね。すぐに様子を見に行き、近付いて取り込まれなければ問題のない、火の幻だという事です。念の為に、リーエンベルクの周囲でも慰霊の火を多めに焚くようにしたそうですので、…………ネイ、あなたはあまりあちら側に近付かないように」
「…………ありゃ」
それはつまり、ノアの苦手な火の影が見えるので、窓の外を見ないようにという忠告である。
しかし、そんな注意を促された塩の魔物は、頷くよりも先に、大事にされ過ぎて感動してしまったらしい。
青紫色の瞳を揺らすと、そわそわと視線を彷徨わせ、目元を少しだけ染めるとこくりと頷いた。
「今夜のノアは我々のお部屋預かりですので、最後の見回りの後は、お部屋から出さないようにしますね」
「…………わーお。情熱的だなぁ…………」
「あら、ノアはどうして涙目になっているのでしょう?」
「シル。僕の妹が虐めるんだけど…………」
「泣いてしまいそうなのかい…………?」
今夜の晩餐では、火を使えないので冷たい食事が提供される。
魔術保温は可能であるが、ほこほこと立ち昇る湯気ですら火の系譜の注意を引きかねない。
また、儀式に付随した風習であるのでと、その運用を変えようとはしないのだそうだ。
冷たい空豆のポタージュに、しんなりした茄子が堪らない美味しさの春野菜のトマトソース煮込み。
パイ生地で包んで切り分けた、お料理パテに、パンに塗って食べられるふわふわの鶏レバーの白いパテ。
麦葡萄のパンと、揚げた鮭を千切りにしたたっぷりのお野菜と和えていただく甘酢漬けには、ぴりりと唐辛子が効いている。
(…………美味しい!)
どれもが、料理の冷たさを利用したものばかりで、体が冷え過ぎないようにと飲まれるのが、菩提樹の花茶である。
これは、魔術に影響があるので魔物達は飲まないが、ネアは美味しくいただいていた。
お料理パテに添えられた酢漬け野菜と、甘酢漬けの味わいはまるで違う。
そうして丁寧に作られた料理はそれぞれにお口の中の味が変わり、ネアはあれもこれもと、ぱくりと頬張る。
またどこか遠くから、火の起こりを知らせる鐘の音が聞こえた。
これだけ暗い夜だと、もう、ヨシュアの雲が雨を降らせているのかどうかは、ここからは見えない。
それでもこの窓の向こうには、イーザやヨシュアがいてくれて、今年の火の慰霊祭ではとうとう顔を合わせずに終わってしまいそうだが、ウィームを火の怨嗟から守ってくれている。
そう考えていたネアは、テーブルに落ちた影を見てひゅっと息を呑む。
「…………あ、」
「ああ、これは気にしなくていい。魔術が動いている事でグラスの中の水に影響が出ただけで、怖いものではないよ」
じりりと、消えかけの蝋燭の炎のように、グラスの影が揺れた。
一瞬、どきりとしてしまったが、気に留めるようなものではないそうだ。
グラスに満たされたウィームの雪解け水の宿す魔術と、火の慰霊祭の魔術の相性の悪さから水の中の祝福が動き影が揺らぐのだとか。
それは、静かな静かな晩餐であった。
美味しい料理と家族の会話があり、けれどもどこかで、皆が窓の向こうのウィームの夜で起こる火に人々を案じ、残された時間で良くないものが現れないようにと夜の向こうを見るのだ。
「ノアは、エーダリア様達の夜の見回りにも付いてゆくのですよね。…………私の新しい武器を持ってゆきますか?」
「…………コルヘムかな」
「うーん。効果があるって知った後だからなぁ。念の為に借りていこうかな。僕は、外に出られても普段よりも使い物にならないかもだし、ネアの武器って、…………何て言うか天然ものなのに、えげつない効果が出るからさ」
「ふむ。自然環境にも優しい武器なのです!」
「い、いや、一億倍のコルヘムのようなものが齎されれば、さすがに地面にも影響が出ると思うのだが………」
「む……?」
冷たい食事を美味しくいただけるように工夫された優しい晩餐が終わると、エーダリア達は、これから最後の街の見回りに出る。
ネア達は、馬車に乗るところまで義兄を案じてお見送りにゆき、がらがらと車輪の音を立てて走ってゆく馬車を見送った。
出会った頃は、統一戦争でのことを思い出してしまい、ネアが中央棟に近付く事すら耐えられなかったノアは、こうして夜に見回りの馬車に乗れる迄になった。
それでも今夜は、慰霊祭の日の特別措置で一緒に眠るのだ。
(…………風に、少しだけ火の気配が混じっている)
それが、先ほど話題に上った騎士が見付けたものだろうか。
焦げ臭い香りに心の端がささくれ立ち、ネアは、ディノの手をしっかりと握り締めた。
これは、魔物が三つ編みを差し出す前にえいやっと握ってしまったもので、ディノは、ネアが怖がっているのだろうかと考えてくれたのか、まだ弱ってしまわずにいる。
「ノアが怖い思いをしないよう、ここから念じておきますね」
「念じておくものなのかい?」
「ええ。大事な家族に怖いものが近寄りませんようにと、心の中で念じておく、人間独自の明確な効果はない心のお守りなのですよ。なお、私の家族に何かをしたら、ハンマーで粉々にして激辛香辛料油を注いで滅ぼします」
「…………ご主人様」
僅かな風に前髪が揺れ、ネアはその髪を指先で直した。
ちりりと疼くのは今も尚残る不穏な気配で、この独特の感覚はきっと、慰霊祭の日が終わるまでは続くのだろう。
でもここにはもうあの電話のベルは響かないし、エーダリア達の乗った馬車が柵を乗り越えて滑り落ちるような急な坂道はない。
それにきっと、馬車が倒れてもあの家族はびくともしないだろう。
綺麗な馬車に擦り傷が付くのは悲しいが、大事な人たちが怪我をしなければそれでいい。
「…………ネア、何か気になることがあるのかい?」
「いえ、………。時折感じるような、不穏な予感は全くないのです。それでもやはり、こんな日は少し不安になってしまいますね」
「馬車の上に、竜の影があった。誰かが空からも見張っているようだから、あの馬車を損なう者はいないだろう」
「まぁ、どなたかが馬車を守ってくれているのです?」
「うん。あの影からすると、リドワーンではないかな。君が彼等を案じているのを、知っていたのだろう」
「なぬ。リドワーンさんが………」
「他にも、色々といたようだけれどね」
「…………色々」
ネアは、それはきっとエーダリアの会の人達だろうと考え、唇の端を持ち上げる。
こんな時、自分はもう一人ではなく、それどころか守り手はいくらでもいるのだと思えるのは、幸せなことではないか。
ディノの手を繋ぎリーエンベルクの中に戻れば、まるでこの建物自体が、そっと息を詰めてエーダリアの帰りを待ち侘びているような気がした。
しかし、そうして見回りに出かけたエーダリア達は、思わぬ帰還を果たす事になる。
「……………ねぇ、あの馬車ってさ、普通の馬車だったよね?」
「まぁ、帰宅早々になぜかノアがくしゃくしゃになっています………」
「…………いや、今夜は私も驚いた。ネア、お前は馬車には何もしていないのだな?」
「なぜ疑われているのだ………」
「馬車の立ち寄り先で、幾つか火の幻影があったのですが、馬車を止めようとするとどれも立ち消えてしまいまして。近くにいらっしゃった竜の方々とも、また違う魔術の働きがあったようですね」
「であればやはり、後続の馬車の兄上のお陰だろうか………。だが、乗っていた馬車の車輪周りに、祝福と守護が見えたのだが………」
そう首を傾げているエーダリアに、ネアは、成る程と頷いた。
そうして守られているのはいい事なのだが、誰がそれを成したのかが謎なので、ノアも困惑しているのだろう。
幸いにも見回りでは何の事件も事故もなく、火の慰霊祭はまだ続くものの、ネアの家族が家を出る用事はもうない。
「車輪という事は、アレクシスさんのスープでしょうか」
「……………おや、と申されますと?」
「お見送りの際に、リーエンベルク前広場の馬車の轍に、厄除けスープを撒いておこうと話していました。ディノが、その中身を確認してくれたのですよね?」
「うん。茨の魔術師の怨嗟の鎮めの魔術を溶かした、具のないスープのようだよ。ウィリアムは、あまり近付きたくないと話していたね」
「…………わーお。それじゃないかな」
「リーエンベルクの結界は万全なものの、その周囲を行き交う馬車に災いや障りがこびりついているといけないからと、通り道を除染しておくと話されていました。やっておかないと、妹さんが怒り狂うのだそうです。念の為に、グラストさんに報告を上げておきました」
「そ、そうだったのか。…………まだ、グラストからの報告の、緊急性のない物については目を通しきれていなかったからな。アレクシスには、明日にでも礼を言っておこう。茨の魔術師の…………」
「まぁ。エーダリア様が茫然としてしまいました………」
ヒルドも若干茫然としていたが、すぐに気を取り直し、引き続き街に出ている騎士達の報告を集約する為に、エーダリアを連れて執務室での仕事に戻った。
残すところ一刻あまりだが、ネア達はここで、本日の業務は終了し、就寝準備に入る。
勿論、何か問題があれば同じ屋根の下にいるのでいつでも対応可能だ。
「ノアは、今年も左側ですからね」
「うん。最初の時はさ、シルが譲れない場所を取っちゃって揉めたからね」
「こちら側は、私が寝るからね」
「そして、夜中に狐さんがはしゃぎ出すという困った事件があったのでした」
「ええと、本当の事件は夜明けに起こったんだよ。………僕は、本気で狩られるかなと思った」
「わたしはなにもおぼえておりません………」
三人で一つの寝台に横になり、明かりを消した部屋の窓から落ちる、僅かな夜の光が天井に映るのを眺めている。
自分ではない誰かの呼吸の音と、柔らかな温もりに囲まれて眠る、優しい夜。
窓の向こうの暗さは慰霊祭のものであるし、時折、鐘の音が聞こえては来るものの、ディノ曰く、祝祭の魔術はとても安定しているらしい。
「……………ネア、もう寝ちゃった?」
「…………むぐ。……………おきてまふる」
「はは、少し眠りかけてたね。ごめん」
「ぐぅ。…………は!お、おきているます!」
部屋を暗くしてから半刻ほど経ってからだろうか。
ノアに名前を呼ばれ、ネアは慌てて目を開く。
まだ慰霊祭の夜の内なのだから、ノアを残して眠りたくはないなと頑張って起きていたのだ。
「…………今日はさ、怖くてリンデルを持ち歩けなかったんだ。…………火の怨嗟で僕の宝物が壊れたら、また僕は、火に大切なものを奪われた事になるからね」
「それは、今日はやはり、本調子ではないから、そんな事になりかねないと怖くなってしまったのですね」
「うん。………僕が気付かないで怨嗟に触れて、それでリンデルの守護が僕を守ろうとしてさ、…………そうしたら、この手の中で宝物が砕けるんだよ。…………代わりのものを作って貰えるって知っていても、それは我慢出来ない…………」
「ええ。…………今日だけはと、そう思う日もあるでしょう。……………私の家族も、………火に取られてしまいました。それが直接の死因ではなかったのかもしれないのですが、火の痕跡はとても鮮やかで、……………だから、今日は嫌なのです」
どちらかと言えば、ネアにとっての火の慰霊祭は、新しい家族と家に属するものであった。
だが、今夜の見回りで馬車に乗り込むエーダリア達を見送った時、ネアが思い出したのは両親を見送った最後の日の事だった。
(……………あの、炎の乙女のせい?)
それともそんな事がなくても、あの日のことを思い出したのかもしれない。
ばたんと閉まった扉の音に心を震わせて、ぎゅっと胸が締め付けられるような思いで見送ったのかもしれない。
「…………うん。お揃いだ」
「私達はもう兄妹なのですから、こんなお揃いがあってもいいかもしれませんね。……………なので、ノアは絶対に、火の慰霊祭の日に怪我をしないで下さいね。私も、ノアを怖がらせないようにしますから」
「……………虐待だ」
「なぜなのだ………」
春用の薄手の毛布の中で、指先がそっと触れた。
伸ばされて触れた温度に、繋がれた手をきゅっと握られたネアは、今夜は特別であると眉を寄せる。
あまりにも拘束されていると、敵襲があった場合に反撃が遅れるのでそわそわするのだが、今夜ばかりは甘んじて受け入れよう。
「……………むぐ」
「ネアがさ、そうやって眠っている間に体を押さえられるのを嫌がるのって、眠っている間も心を休められないで、誰かに脅かされるかもしれないって、ずっと気を張っていた時期があるからなんじゃないかな………」
「…………むぅ。睡眠程に尊く偉大なものはありませんが、…………もしかすると、そんな影響も少しはあるのかもしれませんね」
「…………うん。いつ誰かが家の扉を開けて、報復の為に自分を殺すかもしれないって考えるのは、あまりいい気分じゃないよね」
「ええ。………でも、その選択こそが私に溜飲を下げさせ、私の心を生かしたのですから、…………あの時の私には必要なものだったのでしょう」
「…………うん。僕の大事な女の子が、そうして日々心を擦り減らしていたのは我慢ならないけど、………今はこうして僕の隣にいるから、我慢しよう。…………ネア、これからは、僕がいつだって守ってあげるからね」
「……………ノアベルトなんて」
「ありゃ。シルも起きてたみたいだぞ………」
「では、ノアのことは、私とディノで大事に守ります!でもきっと、エーダリア様とヒルドさんも守ってくれますから、安心してここで暮らしていきましょうね」
「………え、またそうやって泣かせようとする………」
ぽつりぽつりとお喋りをしていると、やがて、夜の色相が変わった。
ここで漸くウィームの慰霊祭は終わり、松明を持っていた人々は火を消して家路に着く。
山車は回収され、その連絡を受けるとエーダリア達も執務を切り上げ、明日の報告に備えて休むのだ。
翌日の朝になると、それでも幾つかの被害報告は上がってきた。
エーダリアは難しい顔で報告書を読んでいたし、ヒルドは、怨嗟から何かが派生した痕跡を考えると報告数が合わないのではと首を傾げている。
「……………ここで、私が私欲に走り、燃える松ぼっくり狩りをした事は報告するべきでしょうか?まさか、数合わせがあるとは思っておらず、ご報告出来ていなかったのです………」
「ネア様?念の為に、何体狩ったか、お聞きしても?」
「………ふぁい。その、観劇目当てで、五体程滅ぼしました」
「………成る程。これで報告数と一致しますね。今回、リーエンベルクの騎士達や禁足地沿いの住人達に被害が出なかったのは、全ての障りをネア様が狩って下さったからのようです」
「つまり、コルヘムの武器はそれだけ持っていたという事なのだな…………」
「はい。予備も含め、十二個のセットにして備蓄してあります!」
「わーお。想像より沢山持ってるぞ………」
「しかし、素敵な舞台を見せてくれたのは、最初の松ぼっくりだけだったのですよ?後はもう、謎の地下水脈の中のお城だとか、青い硝子の花を咲かせた断崖に生える木だとかばかりで、早々にコルヘムの刑に処すしかありませんでした」
「……………ネア、それは………最後まで見なかったのだな?」
「エーダリア様?」
優しい朝の光に照らされた、朝食の席で、なぜかウィームの領主はテーブルに突っ伏してしくしくと泣いていた。
ネアが途中で見るのをやめてしまった松ぼっくり劇場はどれも、魔術的な秘宝の在処だったらしい。
とは言え、地下水脈の冒険は断じてならぬとヒルドに叱られていたので、どちらにせよエーダリアは、秘宝を探しには行けなかったかもしれない。




