149.最後は お酒が何とかします(本編)
かたかたと、窓を揺らす風が吹く。
窓から街の方を眺めれば、街の奥には一際雲がぶ厚くなって暗くなっている場所があり、まるで夜のようだ。
明らかに雨雲の色ではなく、火事などで立ち昇る黒煙のような色をした雲は、まるで意思を持つかのようにもわもわと蠢いていた。
そこでは今、何が起きているのだろうとはらはらしていると、そのどんよりとした黒い雲を押しやるようにむくむくと湧き上がる灰色の雲が現れ、ざあっと雨が降った。
けぶる景色を見ると、かなり強い雨が降っているのだろう。
ヨシュアの雨雲に違いないと思えば、あの雨は、どこかで燃え上がった火を消してくれているのだ。
ネアは、拳を握りしめて、その活躍を見守った。
「うーん、かなり激しく雨を降らせたな。となると、それなりに火の勢いが強かったのか………」
「川沿いの区画だな。延焼しやすい場所だから、ああして火を消して貰えるのは助かる」
「アレクシスさんは、この後はお店に帰るのですか?」
「ああ。仕込みもあるからな。だが、夕暮れからは、街の見回りだ。妹から、久し振りに慰霊祭の日にウィームにいるんだから、街の活動に参加しろと叱られた」
「ふふ。アレクシスさんがいてくれれば、きっと頼もしいですね」
ネアがそう言えば、なぜかアレクシスは首を傾げた。
この外客用の部屋に備え付けられたポットから、林檎と木漏れ日の紅茶を飲んでいて、ネアは、なぜかスープ以外の物を飲んでいるアレクシスを不思議な感動を以て眺めてしまう。
これまでに、お茶を飲んでいる姿を何回も見ているのに、あれスープじゃないと脳が勝手に不思議がってしまうのだ。
「どうだろうな。あの辺りの地区は、ハツ爺さんがいるだけで何とかなりそうな気もする。ウィーム中央での犠牲者は、毎年、職人街や指定内教区、後は川の対岸にあたるウィーム中央の外周に偏るんだ」
「やはり、手薄な地区というものがあるのでしょうか。………そのような場所を、重点的に補える仕組みがあるといいのですが、現状でないとなれば、そのようなものを作るのは難しいのかもしれませんね…………」
「ああ。職人街は、あまり部外者の侵入を好まない工房の地区もあるからな。教区は、言うまでもなく教会の管理地なので魔術的には手薄になる。外周は、火の手が上がったことに気付かれないまま、大きな火になってから対処にあたることが多い。後は、観光客や領外からの商人達など、この土地の住人ではない者達が集まる土地も危うい」
そのような場所を重点的に監視する措置が取られた事もあったが、ネアも体験した通り、怨嗟の火は近くにいる者を取り込むこともある。
しっかりとその場を監視出来る者がいるというだけではなく、周辺の者達の抵抗力そのものも求められるので、なかなかに全てを押さえ込むというのは難しいのだとか。
「取り込まれた方が、協力してしまうような形になるのですね……………」
「火に呼ばれて取り込まれた者が、監視の目が届かない場所に、火を誘導してしまう事もあるからな…………。ああ、帰ってきたようだぞ」
「は!……………ディノ!」
ふっと顔を上げたアレクシスに教えて貰い、ネアは、椅子の上からびゃんと飛び上がった。
ここから先は慰霊祭の魔術の上になるので、魔術的に相性の悪いウィリアムだけではなく、アレクシスも一緒にリーエンベルクでディノ達の帰還を待っていてくれたのだ。
ディノが戻ったところで、この二人と交代になる。
ふわりと真珠色の三つ編みを揺らして現れた魔物は、リーエンベルクに戻ってから転移を踏んだのだろう。
さっと手を伸ばすと、ネアをすぐに持ち上げてくれた。
少しだけふるふるしているので、無事に帰った事を伝えてはいても、それでも怖かったのだろう。
でも、こうして別行動で仕事にあたれたというのは、今後の事も考え、大きな進歩だと思うのだ。
(そう言うと、ディノは嫌がりそうだけれど………)
「ネア、怖くなかったかい?悪夢の系譜の魔術に触れられたのだろう……………?」
「まぁ、そんな顔をしなくても、お二人がしっかり守ってくれたのですよ。儀式の間はとても寒かったのですが、アレクシスさんのスープを飲んでからは、体もほこほこしてきましたし」
「うん。……………動いてる」
「……………この短時間でも、そこに感動するようになってしまうのですね」
ディノは、不慣れながらも頑張ってアレクシスにもそもそとお礼を言い、アレクシスはにっこり微笑んでいつでも頼ってくれて構わないと言ってくれた。
今度お店で、伴侶の祝福のある香辛料を使ったあざみ玉のチーズクリームスープを御馳走してくれるそうで、そう言われたディノは目元を染めてこくりと頷いている。
アレクシスはよく、父親のようなものだと思ってくれて構わないと言ってくれるが、帰り際に頭をわしりと撫でてくれる仕草は、ネアの胸の中をほかほかにしてくれた。
アルテアにはよく給餌だと言われてしまうが、強くて格好良くて、美味しいスープを作ってくれる素敵なスープの魔術師に懐くのは、致し方ない事ではないか。
「そしてウィリアムさんは、現れた獣さんを、剣でばしんと斬り捨ててくれたのです!」
「うん。凝りのものの気配もあるね。……………ウィリアム、有難う」
「いえ、あまりにもあの魔術師が全てを完全に抑えてしまうので、最後に凝りの獣が現れた事で、来た甲斐があってほっとしました。ノアベルトは後からですか?」
「エーダリア達と共に戻ってくるそうだよ。ヨシュアも来たようだから、あちらも少し落ち着いた頃だろう」
「ああ、火消しには有利ですからね」
ここでウィリアムも帰る事になり、ネアは、最後にもう一度、黒髪の騎士風終焉の魔物をしっかりと堪能させて貰い、これくらいならいつでもと微笑んだ魔物に手を振った。
今日は特に大きな仕事はないそうで、何かあれば呼んでくれと言い残し、ウィリアムも帰ってゆく。
ネア達は、ノアが帰って来たら昼食なので、会食堂で家族の帰りを待つことにした。
(エーダリア様はヴェンツェル様達とお昼だから………)
今日はヴェンツェルとの昼食会があるので、エーダリア達は、正午から議事堂に向かう事になる。
ノアが安心して一時帰宅出来るのは、その議事堂に、ドリーやヒルドだけでなくダリルもいるからだろう。
完全に身内だけでの昼食会になるようで、ヴェンツェルの従者達は、控えの会議室でリーエンベルクの騎士達との懇親会があるそうだ。
「……………ネア、何か嫌な事を囁かれたのではないかい?」
会食堂に到着すると、いつもの椅子に座ってネアを膝の上に引き上げた魔物から、そんなことを尋ねられた。
ぽふんとディノの胸元に寄りかかり、ネアは、うっとりとするような澄明な瞳を見上げる。
こうして覗き込む魔物の瞳は薄闇の中で光を宿し、あらためて人間とは違う生き物なのだと感じるのだが、こんな魔物こそがネアの大事な伴侶なのだ。
綺麗な水紺色の瞳を贅沢に堪能しつつ、ネアは、一度地面に降り立って、ポットから宝石蜜と朝露の紅茶を取りに行くべきか少しだけ悩む。
ポットに元々甘い紅茶が用意されているのは珍しいのだが、あれだけ体が冷やされてしまうと、そんな甘い紅茶を体が欲するようになる。
(でも今は、……………)
まずは、伴侶にたっぷりくっついて、心も体も柔らかくしてしまおう。
そんな贅沢を享受出来る立場になった以上、強欲な人間は、少しも無駄にせずに使う所存である。
「…………怨嗟に悪夢が仕込まれていたらしく、私に囁いた怨嗟が、…………両親の死について触れたのです。すっかり油断していましたので、私はまんまと告げられた言葉に、あの日のことを脳裏に思い描いてしまいました。でも、思わず繋いだ手を握り締めてしまったら、ウィリアムさんが安心させるようにぎゅっとしてくれたのですよ」
「……………悲しかっただろう。頑張ったね」
そっと頭を撫でられると、ネアは、そのまま目を閉じてお昼寝に移行したくなってしまう。
優しい温度と、こんなに贅沢なものが当たり前になった安堵に、すっかり甘えてしまったのだ。
「ええ。とても悲しくて、私は正しいのだと主張するあの声に、お前は私と同じだと言ってくるあの声に、心からむしゃくしゃしました。……………でも私は、」
「うん」
柔らかな相槌の声音が心の柔らかい部分に届き、ネアは、今更ながらに目の奥が熱くなる。
両親がどうやって死んだのかだなんて、その亡骸に対面したネアは、嫌という程に知っていた。
だからこそ、あの無残さをもう思い出したくはなかったのだ。
小さく濡れた吐息を飲み込み、すりりと頬を寄せてくれたディノの体温に心を緩める。
こうして汲み上げてくれるようになった今の伴侶も大好きだが、この魔物は、まだ感情を上手く動かせずにただ寄り添ってくれていた頃から、ネアの孤独を癒してくれていたのだ。
その温度を知れば、まだディノを受け入れる準備が出来ていなかったあの頃のネアが蕩かされてしまったのは、こうして誰かと共に生きてゆける喜びそのものなのだと噛み締める。
「……………私は、もう二度とあのような思いをしたくありません。けれど、そうして自分の都合だけで私の大事なものに手をかける誰かを滅ぼすのなら、それはもしかすると、確かにあの怨嗟めと同じものなのかもしれないのです」
「そう考えてしまうことも、悲しかったのだね?」
「はい。とても悲しい事を思い出させ、尚且つ、ちょっぴり私の清らかな心を揺さぶってくる嫌な奴でした。……………でもやはり、私はあの声の主をこれっぽっちも可哀想だとは思えませんでしたし、誰かがウィームや私の家族に悪さをしたら、容赦なく踏み滅ぼします」
「うん。けれど、どうか危ない事はしないでおくれ。そのようなものに出会ったら、私を呼ぶんだよ?」
「……………ふふ。そう考えると、私には宝物でありつつ、守ってもくれる大事な魔物がいるので、もう何の心配もないのですね」
ネアがふんすと胸を張ってそう言えば、直前まできりりとしていた魔物は、途端にもじもじし始めた。
そっと握らされた三つ編みに、ネアは、ここは手を握って欲しかったなという表情はせず、手の中の三つ編みをにぎにぎする。
「……………ネアが、可愛い」
「ディノの方はどうでしたか?ノアは、怖がってしまっていませんでした?」
「こちらは、殆ど問題はなかったよ。街のあちこちに火の気配は立っていたが、この時間はまだ問題ないだろう。ノアベルトは、ずっと君の心配をしてた」
「そんな優しい義兄は、帰ってきたら一緒にぎゅっとしてあげましょうね」
「……………私はいいかな」
「あら、照れてしまうのです?」
「ご主人様……………」
ディノはあわいから様子を見ていたというので、主会場での儀式の様子を教えて貰えば、今年はイブリースも来ているのだそうだ。
何かと自由な火薬の魔物ではあるが、ディノの言う事はちゃんと聞こうとするので大きな脅威にはならない。
そうしてヴェンツェルの身の回りもしっかりと固められている事に、ネアは少なからずほっとしてしまった。
もし、ウィームでヴェンツェルに何かあれば、こちらも無傷では済まなくなる。
ドリーがいれば充分ではあるが、やはり守護はぶ厚い方がいい。
そんな事を考えていると、こつこつと手の甲で会食堂の入り口をノックする音が響いた。
おやっと顔を上げれば、そこに立っていたのは、お仕事帰りの騎士服風のノアだ。
「ただいま、ネア。悪夢を混ぜ込んだ馬鹿がいたんだって?」
「ノア!お外は怖くありませんでしたか?………ふむ。泣いてしまっていたりはしないようです」
「ありゃ。僕だって男だからさ、外での仕事で泣いたりはしないよ。…………ルドルフの仕掛けだって?」
「そのようなものがあったようです。アレクシスさんが、スープでぽいしてくれました」
「…………毎回思うけれど、アレクシスのスープって凄いよね」
そう苦笑しながら、ノアは会食堂のベルをちりりと鳴らした。
直接厨房にこの音色が届く訳ではないが、魔術仕掛けで厨房のベルが連動して鳴るのだそうだ。
今日は午前中から慰霊祭の儀式を執り行い、例年より火を使える時間が少ない為、こうして厨房と直接連絡を取れるようにしてあるのだとか。
「ヨシュア達は、街に残るのかい?」
「うん。会員の誰かの家で待機しながら、街の火の幻影を押さえて回るらしいよ」
「まぁ。殆ど一日見ているような形になるので、疲れてしまわないといいのですが……………」
「いつもならね。今年は、去年の事を思い出させる火を消して回るのも、報復のようで面白いみたいだね。でも今のところ、幻影じゃない火が現れたのはごく一部かな」
「むぅ。とは言え、そのような火もまた、出て来てしまったのですね……………」
ウィームの火の慰霊祭には、三種の火があった。
一つは、怨嗟や災いを鎮める為に儀式として焚かれる火で、これは、火の系譜の者達に既にここに火があるぞと示す為の印のようなもの。
残りの二つは、怨嗟により現れる幻影の火と、その怨嗟が災いとして呼び起こす生身の火だ。
先程までネアが参加していた儀式で現れたのは、災いが生み出した生きている火である。
そのようなものが延焼すると被害は遥かに大きくなるので、慰霊祭で燃え上がる火は、それがどちらのものなのかを見極める必要もあった。
「帰り道でさ、統一戦争後の大火の幻を見たんだ」
こぽこぽと紅茶を注ぎながら話し始めたノアは、家族の団欒の時の穏やかさで微笑んではいるが、鮮やかな青紫色の瞳は僅かに苦し気な色が過る。
ノアは終戦後にウィームを離れたので、その後の大火を知らないのだそうだ。
「でも、それが僕の知らない火災の様子でも、やっぱり嫌な気分になるんだよ。市場近くの花屋の通りはさ、もう僕の馴染みの通りなんだ。そこを燃やすなんて在り得ないよね。…………ああ、やっぱり火は嫌いだって思って、その怨嗟を街の騎士達が鎮めているのを確認してから、慌てて帰ってきたんだ」
「ノア、ぎゅっとします?」
「……………わーお。して貰おうかな」
「ノアベルト……………なんて」
「ふふ、いつもより少し弱めの抗議になりましたね?」
ネアは、こちらの気が変わるとでも思ったのか、なぜか慌てて駆けて来た義兄な魔物をぎゅっと抱き締め、かつて、この魔物が絶望の中で彷徨った凍えるような日々を少しでも和らげる事が出来ればと願った。
ストーブにもあたれず、湯気を立てているスープも飲めなかった塩の魔物を、ぎゅっと抱き締めて温めるように。
「……………うん。僕の大事な女の子は、ここにいるね」
「はい。どこも欠けていませんし、狐さんが、ヒルドさんに内緒で外客棟の飾り棚の下に盗品を隠している事も知っています」
「……………え、何で知ってるの?」
「ディノと歩いていて、飾り棚の下から、盗品の室内履きとばりばりにしたタオルが覗いているのを発見したのですよ。あの品物は、きちんとヒルドさんに謝ってお返ししましょうね」
ノアは、叱られるのが怖いのか少しだけ視線を彷徨わせていたが、あまりにも悲し気な目で自分を見ているディノに気付いたのだろう。
魔物らしく勇気を持って、ヒルドに謝罪に行く決心がついたようだ。
そこうしている内に、会食堂のテーブルには昼食が届けられた。
まずは何と言ってものさくさくシュニッツェルで、今年は角切りトマトに香草と葡萄酢のさっぱりソースと、お酒の香り付けのある濃厚な茶色いソースの二種類である。
シュニッツェルだけで提供され、ソースは各自好きなものをかけるという運用なので、どちらも美味しく食べられるのが堪らない。
付け合わせのフェンネルと鮭を使った一口ポテトグラタンに、ほっくり甘くグラッセした春霞人参。
焼き立てのパンはさっくりとした表面とふわふわの内側の対比が素敵な、微かに甘みのある牛乳たっぷりパンで、茹で卵とオリーブのサラダには、ミモレット色のクリームドレッシングが色鮮やかだ。
そこに、ウィームの伝統的なグヤーシュを添え、デザートには控えめの分量の林檎のシュトルーデルが並ぶ。
どの料理もネアの大好きなものばかりで、ウィームらしい味わいの揃えに胸が弾む。
お肉を叩いて薄く揚げたシュニッツェルは、さくさくした黄金色の衣の色合いだけで心を満たしてくれた。
「へぇ、アレクシスは、ルドルフの仕掛けをばらせるのかぁ。……………え、何で人間でそんな事が出来るんだろう」
「ウィリアムが見て剥離出来ていたのなら、怨嗟ごと完全に剥ぎ取ってしまったのだろうね。もしかすると彼は、採取や収穫の魔術を磨き上げて、成果物があるような場面での魔術の扱いに特化させているのかもしれない」
「ああ、そうか。どの魔術も限定をかけると精度が増すけれど、その区分だと範囲が広くなるし、自身の固有魔術にも紐付くのかぁ……………。あ、このソースは美味しいぞ」
「むぐ!さっぱり酸味のソースが、さくさくシュニッツェルに合いますよね!茶色いソースも濃厚で美味しいです…………」
「交換するかい?」
「では、私のこの一切れと、ディノの一切れで交換しましょうか。もはや息災なシュニッツェルがこれしかないのですが、端っこに葡萄酢のソースがかかってしまっていることを許してくれます?」
「……………かわいい」
「なぜ恥じらう結果になったのだ……………」
魔術の叡智のお陰で、温かなものをいただけた昼食の時間が取れた。
ポットの紅茶はほかほかと湯気を立て、ネアは美味しい林檎のシュトルーデルの最後の一口をお口に入れる。
優しい甘さに頬を緩め、冷たいものしか食べられない晩餐のそのメニューにすら、どんな組み合わせなのかなと思いを馳せてしまうのが人間であった。
騎士棟から連絡が入ったのは、そんな和やかな時間の折だ。
応じたノアによると、リーエンベルクの正門前に、恐らくは火の怨嗟の祟りものらしき生き物が現れたのだという。
それがあまり見ない形状の生き物だったので、騎士達は手順通りに魔物達に指示を仰いだのだ。
怯えや焦りではなく、ただひたすらに困惑を感じさせる声だったと言うノアに顔を見合わせ、ネア達も問題の現場に行ってみる事にする。
これは、野次馬的な行いではなく、塩の魔物の知らない生き物をディノなら知っているかもしれないし、合成獣的なものが出て来ると、ネアにしか倒せないかもしれないからだ。
「え、………何でハンマーを持ったのかな?」
「私が対処するとなると、ディノやノアが苦手なものですよね。激辛香辛料油では燃料になってしまいますし、きりんさんは効果がない可能性があります。となればやはり、ハンマーで粉々に………」
「ネア、燃えていると危ないから、君は手を出してはいけないよ?」
「むぅ。いざとなれば、……………ぐぬぬ、うたいます」
「ご主人様…………」
「ありゃ。僕の妹は逞しいなぁ………」
正門前に到着すると騎士達は、ネア達の反対側である、門の外に立っていた。
ほっとしたようにこちらを見たのは、竜の血を引くリーナだ。
リーナと、連絡をくれたというエドモンが、この時間のリーエンベルクの警備の責任者なのだろう。
「………燃えながら踊る松ぼっくりです」
「…………わーお」
「……………ご主人様」
「私の大切な魔物が怯えてしまうので、どこかに行っていただきたい」
「え、…………これ、寧ろよく祟りものだって分かったね?!」
「エドモンが、普通の怨嗟の派生にしては、魔術の質が妙だと言い出しまして。…………祟りものだという事までは判明したのですが、………扱い方を決めかねております」
「ふむ。こやつは、なかなかに怒っているようです。お水をかけてしまえばいいのでは?」
「隔離結界で覆って試したのですが、怒らせるだけでしたね。………騎士の一人が、体当たりをされて行動不能にされました」
「…………騎士さんが?!」
ネアは、まさかと慌ててしまったが、体当たりをされた騎士は、単純な打撲で蹲っているだけであった。
悲しい事に、燃える松ぼっくりが直撃してはならないところに当たったらしい。
「…………うーん、怨嗟には違いないかな。装飾品の祟りものみたいだ。この形状でも、階位がそれなりに高そうだから、リースや祝祭の飾りから外れたものなのかもね………」
「まぁ。松ぼっくりさんは、元々はそのような物の一部だったのですねぇ」
「おや、覗き窓の術式だ。………ネア、こちらにおいで」
「ありゃ、何か展開するぞ。………リーナ達は少し離れていてくれるかい?」
「承知しました」
ネアが伴侶に持ち上げ直されている間に、怒れる松ぼっくりから、もわもわぽふんと霧のようなものが立ち昇っていた。
これは何の煙だろうと目を瞬いていると、ネアは、煙の向こう側に見事な劇場が広がっている事に気付いた。
(……………あ、)
一瞬、かつてよく見たあの舞台だろうかと思いぎくりとしたが、客席や内装の色彩が違うので、見慣れない劇場だったようだ。
「…………歌劇場かな。ウィームではないようだね」
「うーん、ヴェルリアでもなさそうだから、となると完全に通りすがりの怨嗟だね」
「通りすがりの怨嗟なのですね………」
そんなものがあるのかとネアは困惑したが、燃える松ぼっくりの段階で謎度は高いので、もう、多少のおかしさは致し方ないと受け入れるしかないようだ。
「こうして見せる情景があるのだから、この劇場に縁のあるものなのだろう」
「劇場の松ぼっくりさん…………」
「よし、少し見ていこうか。承認欲求で怨嗟を残しているかもしれないからさ」
「まぁ、何か演目が始まるようですよ」
「舞踏、かな…………」
「バレエのようです!ほわ、わくわくしてきました!」
ネア達の様子を見ていると、もくもくの煙が映したものが気になるのだろう。
騎士達は少しだけそわそわしており、苦笑したノアから、近付かないようにして、斜め後方から見るようにと指導されている。
そうして、荒ぶる松ぼっくりの祟りものの様子を注視しながらではあるが、思いがけない観劇が始まった。
軽やかな音楽が流れ、舞台の上に出てきた踊り子たちは、ネアの良く知るバレエと民族舞踊を混ぜたような踊りを始める。
チュチュのような薄布の衣装は、色鮮やかな刺繍で飾られていて、何とも華やかだ。
衣装の傾向からすると、北方の土地のものではないだろうかと考えながら、ネアは、すたんと跳躍した踊り子の見事なジャンプにおおっと目を丸くする。
(…………わ、何て素敵なのだろう!)
心を奪われる舞踏というものがある。
ネアは、劇場に赴いてのバレエの舞台は何度かという程度しか見た事がなかったが、こちらの世界で、演目としての舞踏のみのものを見るのはそもそもが初めてだ。
ひらりと揺れると光る妖精の刺繍や、祝福結晶の装飾がぴかりと光る舞台は、まさに心を奪う美しさであった。
主役とおぼしき少女は、もしかしたら、名のある踊り手なのかもしれない。
意識してしならせた指先の動きに、軽やかで力強いスタッカート。
その踊りの向こう側に物語が透けて見えるというよりも、物語の紡ぎ手としてのダンスは、煌めく祝福がしゅわしゅわとこぼれるソーダ水のよう。
ネアは興奮のあまりに乗り物になっている魔物の肩をぎゅっと掴んでしまい、ディノは、目元を染めてずるいと呟いている。
けれども、その素敵な観劇の時間が終わりに近付くと、厄介な対価が付いてきた。
「…………あ、分かった。押し売り型の障りを持つ祟りものかぁ。観ちゃったぞ」
「むむ、この素敵な舞台が、何か問題になるのですか?」
「欠け残しの祟りものの一種だね。価値のあるものを押し付けて、それを得た者を不平等だと詰る生き物なんだ。見せられたものに意味があるのかなと思ったけれど、これは、獲物を捕らえる為の餌のようなものなのだろう」
「親切にも見せてくれたのではなく、無理やり見せて、勝手に良いものを見るなんてと荒ぶるのですか?」
「うーん、というよりこれってさ、自分では見えないよね?それを理由付けにして、怨嗟を向けてくるんだよ」
「…………まぁ」
「今観ていたものが、この生き物にとって価値があると思えたものなのだろう。ロクマリアのように思えたけれど、その北にある小国のどこかかな」
「いい踊り手だね。この手の祟りものが差し出すのは、他ではもう手に入れられないものだから、もう生きてはいないのかな。…………さてと、ここから対価を要求して荒ぶり始めるぞ」
ノアの予告通り、しゅわんと煙が消えると、燃える松ぼっくりは、先程よりも禍々しい様相になってきていた。
それでもなお、燃える松ぼっくりが弾むという姿があまりにも奇妙で、見ている側は困惑するばかりである。
何となく、フライパンで作るポップコーンを思い描いてしまったネアは、その想像を打ち消そうとしたところで、先ほどまで観ていた舞台がポップコーンの想像に浸食されている事に気付き、はっと息を呑む。
「ネア…………?」
「………ぎゅむ。大切に記憶に焼き付けて覚えておこうとした、素敵な舞台なのです。おのれ!」
余韻を楽しみたい気分の邪魔をされたネアは、獰猛な人間の例に漏れずさっとハンマーを取り出したが、残念ながらここからは届かない。
であればと取り出したのは、小さな小瓶に入れて持ち歩いている、新開発の液体武器シリーズである。
苦さ一億倍の液体をかけてやろうぞと考えた邪悪な人間は、ぴっと震えあがった魔物に持ち上げられたまま、小瓶の中身を燃え盛り始めた松ぼっくりにじゅわっとかけてしまった。
「え、お酒?!」
「なぬ?!苦さ一億倍の、苦いだけの市販の消毒液ではないのですか?!」
「この匂いって、コルヘムだよね…………。え、一億倍の消毒液って何だろう…………」
「むぅ。一億倍のコルヘムの瓶と間違えました。三種類しかないので取り違える事はないと考えていましたが、今後は瓶にラベルを貼っておきましょう」
しかし、燃料になりかねない酒を注いでしまったものの、幸いにも燃える松ぼっくりには効果があったようだ。
じゃばりとコルヘムを注がれた途端、松ぼっくりは、ぼうっと燃え上がり消し炭になってしまう。
あっという間に燃え尽きると、さらさらと灰になって石畳に散らばるばかりだ。
「ふむ。最終的には、お酒で片が付きましたね。素敵な観劇の余韻をかき消そうとした、たいへんに悪い奴です」
「わーお。酩酊したまま逝ったから、障りも残さなかったぞ…………」
「ご主人様…………」
「よく考えたらアルテアって、飲み会の度にああいうの飲まされてるよね…………。思っている以上に丈夫なんだなぁ…………」
無事に祟りものを滅ぼしたネアは、観劇からの討伐を堪能してしまい、若干高揚気味の騎士達からお礼を言われ、屋内に戻った。
無料で素晴らしい舞台を楽しんでしまい、すっかり心はバレエな喜びでいっぱいになった人間が、自分もあんな風に華麗にジャンプ出来るだろうかと挑戦した結果、心と体に大きな傷を負うのは、その三日後の事である。




