148. その火を剥離します(本編)
ざざん。
一際強い風が吹き抜け、風に散らされた花びらが千切れ飛ぶ。
そんな曇天の空を見上げればそれでもまだ明るいのに、視線を正面に戻すと、地表近くに闇が凝るようにとろとろと暗いのだ。
それはまるで、空に昇れない何かがこちら側の世界に沈殿しているような、どこか救いのない怨嗟を感じる暗さであった。
どこまでも、どこまでも。
救われず呪いながら沈んでゆき、その水底から健やかな者達を憎み続ける。
そんな暗闇の中には、どれだけの者達が蠢いているのだろう。
そして、その暗い暗いウィームの森の横を、ネア達はアレクシスの先導で歩いていた。
ただでさえ暗く感じる日だからか、足元に落ちる森の影はどこか怖いおとぎ話のよう。
けれども、ネア達が歩くのはそんな森からは切り離された、魔術の道のようなところだ。
(……………先程から、ぼんやりとした影のようなものが行き来している)
その影はどれも、ネア達の事が見えていないようである。
ウィリアム曰く、先導するアレクシスの敷いた術式が、巧みにネア達の姿を隠しているらしい。
例えばここで、こちらから誰かに話しかけてしまったりさえしなければ、あちら側とこちら側がしっかり交わる事はないのだそうだ。
「……………む」
「花籠の妖精達だな。その美しさが災いして、乱獲されて今は殆ど残っていない。新しく派生した花籠の妖精もいるが、彼女達とは姿形が違うんだ」
「ここにいらっしゃると言うことは、あの方達はもう、健やかな形では残っていないものなのですね………」
近付いた事で色や輪郭を取り戻し、正面から歩いて来たのは、嫋やかな美貌の乙女達だ。
薄物を纏い楽しげにお喋りをしている。
全員が耳下で髪を切り揃え、華奢な手足は少年のよう。
その、僅かに未熟な青さを感じさせる美貌だからこそ、どこか危うい美しさを引き立てるのだろうか。
乱獲されたという彼女達がどうなってしまったのか、ネアは、主に花籠の妖精達を狩っていたのが魔物だと知り、なぜか少しだけ安堵してしまった。
身勝手な人間は、この美しく無垢な目をした生き物達を傷付けたのが同族ではなかったことに胸を撫で下ろしてしまう。
ネアとて狩りをするが、美しい乙女達をその美貌目当てで狩るとなると、どこか倫理的な禁忌に触れるような気がする。
その倫理観はきっと、伴侶狩りをする事もある妖精のものとも違う筈なのに、時折、ネアの心の中の保守派が勝手に拒絶を示すのだ。
例えば、アレクシスのようにスープの材料にするのだという理由の狩りの方が、ネアには受け入れ易いらしい。
しゃりん、しゃりんと、銀水晶の鎖が鳴る涼やかな音がする。
前を歩くアレクシスが片手に持っているのは香炉のような魔術道具で、精緻な彫刻のある魔法の杖のようなものの先端に、銀水晶の鎖で吊るされている。
立ち昇る煙は淡い紫色をしていて、時折、何かに触れるのか、何かが錬成されるのか、きらきらと控えめな花火のように火花を散らした。
(これが、鎮めの道なのだ…………)
この道を行けば、影絵のようなぼんやりとした人影や、得体の知れない生き物達の影が行き交う。
その全てが、ここではないどこかに在ったものだと認識出来るのは、近付いた時だけ色と質感を取り戻してゆく影達が、振り返るともう、水彩絵の具を滲ませた影絵のような姿に戻っているからだ。
この道の名前を思えば、彼等は皆、鎮めてやらなければならないような運命に翻弄されたのだろう。
これから向かうのが慰霊祭の会場であるだけに、そうして潰えた物があるのだと思い知らされるのは、恐ろしく悲しかった。
ネアが知らず、それ故に言葉ほどに心を寄せる事もない見知らぬ者達ではあるが、それでも喪われた者達を眺めていると心の端が冷え込んでくる。
(でも、アレクシスさんは、慰霊祭の日に、鎮められた者達しか入れないこの道程に安全なところはないのだと言う)
魔術の理に於いて、この道は今、世界の裏側に沈められている。
ここは災いや怨嗟を払ってさらさらと流れ落ちてゆく、その最期を繋ぐ魔術の通路のようなもので、立ち去る者達を呼び戻すような粗相をしたり、かけられた鎮めを剥ぎ取らない限り、魔術の理がこちらとあちらを明確に分けるらしい。
その魔術が最も堅牢になるのが、あちらとこちらをしっかりと区分する認識の魔術が結ばれる慰霊祭の日なのであった。
「そろそろ道が明ける。広場に入ったら、そこからはもう儀式の術式の上に立つと思ってくれ」
しんしんと冷え込んでゆく心に僅かに慄いていると、振り返ったアレクシスがそう教えてくれた。
ネアはゆっくりと頷き、自分の動作の緩慢さに眉を顰める。
気付けば、吐き出す息が真冬のように白い。
冷え込んだ外気に、ネアは、既にもう怨嗟の起こりがあるのだとぞっとした。
「…………は、はい。私は、定められた位置に立ち、儀式を見守るだけで良いのですよね」
「ああ。俺の術式は詠唱を使わない物だから、その場にいるだけでいい。儀式が終わったら、俺が渡したスープを必ず飲むように。もしかすると、飲みたくないと強烈に思ったり、突然気鬱になって何もしたくないと思えたりするかもしれないが、それでも飲むのだと覚えておいてくれ」
「はい。何らかの意識障害を受けるかもしれないと、覚えておきます」
「魔術汚染の一環だ。だが、それは誰であれ起こる変化だから、怖がることはないからな」
ネアには魔術の成り立ちは分からないが、その反応は、真冬に外に出たら寒いと感じるようなものなのだそうだ。
予め反応を消す為の魔術防壁を整えていなければ、平等にその変化を感じるようになる。
だが、ネアの場合は可動域が低いので、反応を消す為の術式を体の中で構築するのは難しいらしい。
「この広場の怨嗟は、リーエンベルクの騎士を殺した程の階位のものだ。どの資質がその騎士を取り込んだのかは分からないが、有りがちな介入となれば、儀式の途中で、怨嗟が耳元で囁く事もあるだろう」
「…………はい。エーダリア様からも、その危険があると言われました」
「覚えているようだな。………俺がここでもう一度説明をしたのは、記憶や認識への浸食があるといけないからだ。知っていた筈の事が思い出せなくなると、それも厄介なんだ」
そう微笑んだアレクシスは、擬態しているウィリアムよりも人ならざる者らしく見えた。
片手をネアの頭の上にそっと載せ、光を孕む魔物の瞳のような紫の瞳で、じっとこちらを覗き込む。
「いいか、怨嗟がどんな言葉を囁いても、それは結局のところ、この土地を蝕んだ害獣の主張でしかない。………まぁ、ネアは大丈夫だろうが、心を覗かれると取り込まれて逃げ出せなくなる事もある」
「………はい」
「ネア。俺からも付け加えるが、もし取り込まれても、守護がある限り損なわれる事はないからな?それも覚えておくんだぞ」
「はい。取り込まれないように努力し、万が一取り込まれてしまった場合は、守りがあるという事を覚えておきますね」
「アレクシス、儀式を閉じるのに支障がなければ、払えなかったものは俺が排除する。もし、想定外があれば輪を閉じる前に教えてくれ」
「ああ。そうさせて貰おう。終焉の手を借りられると、取りこぼしがなくて助かるな」
そうして、鎮めの道を抜けて訪れたのは、今日は閉鎖され、人影のない小綺麗な広場だ。
マロニエの木に囲まれており、積み荷の整理などが出来るよう、石畳が敷かれて綺麗に整備されている。
長方形の形をした土地は、短辺の側に花壇が設けられ、春の花々が美しく咲いていた。
馬達を休める為の水路が引き込まれて、優美な花々の彫刻を施した水飲み場が目を引く。
けれども、全体的には街道沿いの停留地という役割なのでがらんとしており、後は大切に使われているベンチがあるくらい。
「…………この暗さだと、前に訪れた時と、随分と印象が違うように感じてしまいます」
「これから、俺が怨嗟の火を力尽くで呼び起こす儀式を行うと、もっと周囲が暗くなるぞ。描いた術式陣の外に火が広がる事はないが、魔術的な影響はある事を覚悟しておいてくれ」
そう前置きをして、術式陣を描く場所を定めたアレクシスに続けば、この前に来た時には気持ちのいい春の木漏れ日が落ちていたその場所は、あの影のような者達の行き交う鎮めの道の中よりも遥かに暗かった。
透明な透明な黒い闇色を何層にも重ねたような景色が広がると、どこか視力そのものに損傷を受けたようなえもいわれぬ不快感を覚える。
そしてその中で、ぞっとするような赤い色が灯るのだ。
「呼びかけをするでもなく、起点の術式を打ち込んだだけで、もう目を覚ましかけているのか………。俺の手を離さないように」
「はい。ぎゅっとしていますね」
広場に出たところで、ウィリアムは手の繋ぎ方を変えていた。
ここまでの道でのしっかりと握り込む家族のような繋ぎ方から、下から手を取るようなエスコート的な繋ぎ方に変えたのは、ここからのウィリアムが騎士として振る舞うからだろう。
びしゃんと振り撒かれたのは水だろうか。
それとも、スープの魔術師の特製スープだろうか。
アレクシスは、先程まで手にしていた香炉をどこかにしまい、いつの間にか、タジクーシャで見た道具を手にしている。
長い持ち手のある蓋付きの柄杓のような道具には注ぎ口が付いていて、タジクーシャでは、そこから注がれたスープが、悪い妖精達を宝石に変えてしまったのだ。
踊るように優雅に、けれどもどこか鋭い動きで容器の中の液体を土地に回しかければ、広場の石畳の上には、さらさらと魔術陣のようなものが描かれていった。
それと同時に、意思があるかのように揺らいでいた炎が、青白い魔術の輪の中に閉じ込められてゆく。
(あ、……………)
魔術陣の中の炎が、強い風に煽られたように大きく形を歪め、また元の形に戻る。
雫型の炎は、まるで誰かの魂のような形に見えなくもない。
ゆらゆらと、ゆらゆらと。
明るく赤く、どこまでも暗い。
(この火の色は、慰霊祭本来の鎮魂対象である火竜の王子や火の精霊達のものとは違うのだとか………)
統一戦争の開戦後に斃れた火の系譜の者達の怨嗟を反映し、街の方で上がる火の手は、もう少し暗い色をしているので、こうして見てみると確かに怨嗟の形が少し違うようだ。
詠唱がないので緩急がつかないものの、アレクシスの儀式は淡々と進んでゆき、ネアは、そんなスープの魔術師の斜め後ろに立ち、儀式の成り行きを見守っている。
しゃんと背筋を伸ばし続けているのは、もしここで背中を丸めて怯える姿を見せたら、姿の見えない何者かに付け込まれそうな気がしたからだ。
ぼうっと、また火が揺れる。
ネアはその揺らぎに思わず魅入られてしまいそうになり、ぎくりとして小さく息を呑んだ。
爪先は冷え込み、吐き出す息はまだ白い。
ここで、僅かに動きを止めたアレクシスが、何かを取り出し、ぱらりと術陣の中に振り撒いた。
その途端、ぎゃおんと獣の悲鳴のようなものが上がり、ネアは小さく息を呑んだ。
揺らぐ火の向こう側に、誰かの人影が過ったような気がする。
(そして、直前のアレクシスさんの動きには、躊躇いや思案のようなものがなかっただろうか…………)
「………うーん、やけに怨嗟の輪郭が濃いな」
「…………良くない事なのですか?」
「きっちりと押さえ込まれているので問題はないだろうが、これ迄の慰霊の状態としては、あまり良くなかったようだな。………だが、怨嗟が目を覚ますまでは魔術が均されていたところを見ると、元々、あまりいい状態ではないものだと理解した上で、しっかり蓋をして閉じ込めておいたものなんだろう」
ここでは、一人のリーエンベルクの騎士が命を落としている。
怨嗟に取り込まれた者は、死者の国にも行けずにその障りの糧にされてしまうそうなので、悲しく悍ましいことだが、そうして怨嗟にくべられた燃料が、その炎をより強くしたのだろうか。
「…………ああ、小賢しいな。随分と前だが、誰かが逆引きの術式で、鎮魂の魔術を穢した事があるらしい」
じわじわと這い上がるような冷気に耐え、ネアが懸命に儀式の成り行きを見守っていた時のことだ。
ふいに、アレクシスがそんな事を呟いた。
(…………悪意をもって、この場所を訪れた人がいるという事?)
ネアはぎょっとしてアレクシスの表情を窺ってしまったが、鮮やかな紫色の瞳をどこか酷薄に細めたスープの魔術師は、声の冷ややかさに反して表情を変える様子はない。
だが、術式陣の中の炎はざあっと石畳の上に広がり、生き物のように、ぐるんと術陣の内側を円を描くように一周したではないか。
ああ、この怨嗟はここから抜け出そうとして暴れているのだと思えば、その意志はどんなものが司るのだろう。
炎の乙女と呼ばれた生き物か、或いはまた別のものなのか。
ぐるぐると歩き回る獣のようで、それなのに酷く歪み壊れたような歪さもあり、ずるずるぞわぞわと這い回る動きを見ていると背筋が冷える。
アレクシスは、手に持っていた柄杓型の道具の蓋を取り、中身を捨てるように逆さにして何度か振るうと、まるで空気を掬いあげるような仕草をした。
すると、入れ物の中は新しく黄金色のスープが満たされ、ほこほこと湯気を立てる。
美味しいビーフコンソメのような色合いだが、漂う香気は教会で焚かれる香炉の煙のような薬草と香木の香り。
蓋をすると、その道具をまたくるりと回し、地面に注がれるスープが、先程の魔術陣の上に複雑な模様を重ねてゆく。
その途端、荒ぶっていた炎の端がもろもろと崩れた。
(…………あ、)
誰かが、そこにいる。
そんな確信にも似た思いはそれでも曖昧で、ネアは、儀式の術式の向こう側で、じっとこちらを見ている何かの視線を感じた。
肌に触れる冷気は憎しみなのだろうか。
それとも、望まずに果てねばならなかった絶望なのだろうか。
「………悪意で書き換えられていた怨嗟が、こちら側に触れるか。いいか、これからどんな問いかけや囁きが聞こえても、決して頷かないようにしてくれ」
「…………はい」
僅かに眉を顰めたウィリアムにそう言い含められ、ネアは、それはやっぱりホラー的な展開になるのだろうかと慄くばかりだが、それでもきりりと頷く。
慰霊祭で大事なのは、怨嗟に引きずられないように心を強く保つ事なのだ。
(………そう思えば、まだヒルドさんやノアが傍に居なかった頃のエーダリア様は、そんな儀式をずっと一人で乗り越えていたのだわ…………)
囁きかけ、咽び泣く怨嗟はウィームを焼いた炎の色をしている。
エーダリアを温かく抱きしめてくれる筈だった人々の魂までを砕いたその色を、一人ぼっちのウィーム王族の末裔はどんな思いで鎮めたのだろう。
そして、大事な騎士がここで奪われた時には、どんな思いで新たに奪われてゆくものを見ていたのだろう。
グラストの存在は頼もしいが彼は騎士である。
魔術の扱いに於いて、エーダリアを助け、導くような人はいたのだろうか。
ダリルは有能な妖精だが、儀式魔術を扱う者ではない。
(……………でも、もしかしたら)
そこには、バンル達や封印庫の魔術師達がいたのかもしれないと、ネアがほっとしかけたその時の事だった。
「ねぇ、」
ふいに耳元で囁くような少女の声を聞き、ネアは、びぎゃんと飛び上がりそうになる。
すかさずウィリアムがしっかりと手を握ってくれなければ、悲鳴を上げてしまったかもしれない。
(こ、このホラー展開の定番ともいえる、少し幼めの温度の低い声は駄目だ…………)
あんまりな仕打ちにわなわなと震えるネアは、こんな暗い暗い一日だからこそ、踏襲してはいけない定番があるのだと強く主張したい。
今夜、一人でお風呂に入れなくなったら、どうしてくれるというのか。
「ねぇ、私はここで辱められて殺されたのよ。あの、高慢で身勝手な竜に引き裂かれ、どれだけ懇願してもあの男は私をばらばらにした。………私は、まだ幼かったわ。哀れな声を上げて泣いていた人間達の為に、その憂いを払ってあげようとしただけなの。それなのにあの竜は、私のそんな訴えに耳を貸しもしなかった」
そうして囁かれるのは、ここで滅びた炎の乙女の声だろうか。
怨嗟として残り自我を残しているのか、それとも、一人の精霊が無残な最期を迎えた土地で派生した同じ姿の別のものなのか。
「私には家族がいた。お姉さま達や、可愛い弟達。それなのに、ここで引き裂かれて何度も何度も擦り潰されて、どれだけ泣き叫んでも、もう二度とその家には帰れなかった。…………ねぇ、お前。私はとても可哀想だと思わない?愛する者達から引き離されて、もう二度と会えないの。痛くて痛くて寒くて仕方なくて、ずっとここにいるのよ?」
声は、尚もネアの耳元で囁き続ける。
アレクシスの儀式は続いていて、ネアは、真っすぐにその、スープの魔術師の横顔を見ていた。
凍えた手をしっかり握りしめていてくれるウィリアムに、頼もしいその体温を感じる。
だから、こんな亡霊のようなものに損なわれるものかと自分に言い聞かせ、ネアは、お昼には美味しいシュニッツェルを食べるのだと心を奮い立たせた。
「私はとても可哀想でしょう?この国はね、統合されるべきだったのに、ずっと頑固にその必要性を認めようとしなかった。私達が手を貸さなければ、お前の暮らすこの土地は、とっくにカルウィに侵略されていたでしょう。あの年のカルウィは記録的な大飢饉で、やっと王になったばかりの男が愛妾に殺され、国は荒れ放題だったわ。…………そう。理由はあった。私たちは正しく、そして慈悲深い使者でもあった。それなのにどうして、この国の王族達は膝を折って救いを求めなかったの?あの王子を私の贄に差し出し、助けて下さいと私を祀るべきだったのよ」
(…………そんなの、知った事ではないわ)
降り積もる怨嗟の声に、ネアは、心の内側でそう呟く。
政治的な視野を持たないネアには専門的な事など語りようもないが、確かに、当時のウィームの王族達は、世界情勢を測るには視野が狭かったのかもしれない。
統一が成功したからこそ今があり、だからこそネアは、大事なウィームでの暮らしをまんまと手に入れられたのかもしれない。
だが、利己的で冷酷な人間は、何が正しいのかの議論など、これっぽっちも必要ではないのだ。
こうして耳元で囁く怨嗟の声を聞いても、それは所詮、ネアの大事なウィームの外側のもの。
どれだけ正義感を振りかざし正当性を訴えたところで、この声の主はウィームの不純物でしかない。
それはネアの知らない誰か。
そして、今もこうして残り、ネアの大事な土地の災いとなった腹立たしいもの。
(毒もまた必要であったというのなら、私が許すのは、私が必要ないものだけを殺す毒なのだ)
それがなければ生かせないと言うのなら、きっとネアは自分に都合のいいだけの取捨選択をするだろう。
そして、必要だと決めた領域を侵すものは全て、不要なものとして滅ぼすと決めるだろう。
そんな振る舞いに誰かが文句をつけても、ネアが責任を負うのはもう、自分の大切なものだけでいい。
大切なものは、とてもとても少ないのだから。
愛せたものも、慈しみたいものも、ネアがこの手に抱えるものは、他の人間達よりもずっと少ないのだから。
ぎりりと奥歯を噛み締め、この声の主を踏み滅ぼしたいという欲求を押さえ込む。
応えてはならないという指示は即ち、この声の主に耳を貸してはいけないという事でもあるのだ。
「お前にだって分かるでしょう?だって、お前の愛する者達の主張を理解しなかった者が、そして、お前の愛情や苦しみを軽んじた誰かが、お前の家族を無残に箱の中に閉じ込めて焼き殺したのだもの。…………ほら、お前と私は同じものなのよ?」
「…………っ、」
思わず体が揺れてしまい、冷たい汗が背中を伝う。
ウィリアムの手をぎゅっと握り、遠い過去の怨嗟に過ぎないものが、突然に自分の過去を掘り出してきた怖さを堪えていると、ふっと優しい指先が頬に触れた。
「俺がここにいる。儀式ももうすぐ終わるだろう。…………いいか、もう少しだけ頑張ってくれ。この鎮魂の儀式に介入した者は、悪夢の要素も仕込んでいったようだな」
「…………もう閉じるぞ。怨嗟の声はもう聞こえなくなった筈だ」
「………ぎゅ?」
こちらのやり取りを聞いていたのか、ちらりと振り返ったアレクシスがそう言ってくれる。
ネアは、慌てて耳を澄ましてみたが、先ほどの囁きはもう聞こえないようだ。
ほっとして、悪夢の要素まで付随されていたという怨嗟の、その最後の瞬間を見守る。
こうっと、術式陣の中の炎が一際高く燃え上がる。
先程崩れ落ちた部分は何だったのかと思うくらいに、赤く赤く燃え上がり、そうしてざあっと風に散らされる灰色の砂煙のようになって忽然と消えた。
「はぁ、終わったな。………まさか、悪夢を媒介にして怨嗟が守られているとは思わなかったから、途中で用意していたスープを入れ替える必要があった。ネア、怖い思いをさせてすまない。怨嗟の囁きに、悪夢の浸食があっただろう?」
「…………ふぁ、ふぁい。思わずぞっとしてしまい、ウィリアムさんに助けて貰いました」
へなへなと崩れ落ちそうになったネアは、寒くて堪らないのにびっしょりと冷や汗をかいていた。
儀式が終わったからか、ウィリアムがしっかりとケープの内側に入れてくれて、その体に包まれるとやっと安心する。
「正直なところ、俺は、人間の君には、剥離出来ないと思っていた」
「初めて見るものだったら、難しかっただろう。………この手の書き換えと浸食は、魔物か妖精にしか出来ない。以前の大掛かりな儀式の際にリーエンベルクの騎士が犠牲になったのも、この仕掛けのせいだろう」
「ああ、これだけのものなら、リーエンベルクの騎士でも押さえ込むのは難しかっただろうな。その時に気付けていなかった事が、却って幸いしたか………」
「犠牲を出した怨嗟の場は、鎮魂の術式を犠牲者用に早急に書き換える必要があるからな。でないとその犠牲者も怨嗟に成り果てる。そうして、奥に凝った怨嗟の内側までを覗き込む余裕がないままその年は慰霊祭が終わり、翌年以降の慰霊儀式のやり方を変えた事で、この介入に誰も気付かなかったんだ」
「すっかり空になっているな。…………ん?もしかして、怨嗟ごと剥ぎ取ったのか?」
どこか茫然としたように尋ねたウィリアムに、アレクシスは静かに頷いた。
ネアは二人の会話を聞くばかりだが、終焉の魔物が絶句しているので、かなり凄い事が行われていたようだ。
「術式の癖と扱い方を思えば、以前の白夜の魔物の仕掛けたものかもしれない。この辺りには、少し前まで黄昏の系譜の妖精の呪いもあちこちにあったが、その殆どはアクスの製品だったから、さすがに彼等も、商売に響くウィームの街道沿いにこのような物は残さないだろう」
「…………おのれ、またあやつなのです」
「さて、魔術洗浄をしようか。ネア、よく頑張ったな。スープを飲もうな」
ネアが、これはもうクライメルとかいう魔物の仕業に違いないと怒りに足踏みしていると、くすりと笑ったアレクシスが、小さな紙のカップに入ったスープをどこからともなく差し出してくれた。
「…………あ、」
「どことなく、抵抗を感じるだろう?怨嗟に近くで触れると、それを削ぎ落す物への忌避感を持つようになるんだ」
「ええ。………嫌な感じはしないのですが、物凄く眠たくて体が重いような、これは後でもいいのではないかなという感じがします」
「その感覚が、残った魔術浸食だ。洗い流してしまおうな」
「はい!」
持ち上げた手はずしりと重く、温かいスープを飲むよりも、隣にいるウィリアムに持ち上げて貰い、目を閉じてぐったりと眠ってしまいたい。
そう考えている自分がどこかにいて、その思考の自然さにネアはひやりとする。
しかし目の前には、ほこほこと湯気を立てるスープがあるのだ。
冷え切った体が必要とする温かくいい匂いは、ネアの中に凝ったそんな浸食をあっさりと引き剥がした。
思うように動かない手で慎重に受け取ったカップの中のスープを、まずはちびりと、その次にはごくごくと飲み、幸せな美味しさにふにゃんと頬を緩める。
たっぷりの野菜も入っているが、どの具材も細かく切られているので、スプーンなどはなくても飲めてしまう。
「…………むぐ!………鶏肉とお野菜のスープです!この澄んだスープの濃厚な美味しさと、ほくほくで味の染みたキャベツと牛蒡が、何て美味しいのでしょう。体にじゅわっと染み込む感じがします…………。ふぁ、……なくなってしまいました…………」
「ああ、やっぱりネアは美味しそうに飲んでくれるな。因みにその葉物は、キャベツではなくて、檻や籠の恩寵の系譜の植物の葉なんだ。美味しく感じるという事は、体が魔術洗浄を必要としていたという事だな。このような時でなければ、苦くて食べられないだろう」
「まぁ、そういうものなのですね。スープがしみしみで、とっても美味しくいただけてしまいました」
美味しいスープにお腹の中が暖まり、唇の端を持ち上げかけていたネアは、ここでぎょっとして目を瞠った。
なぜかウィリアムが、腰の剣をすらりと抜き、戦闘態勢に入るではないか。
「ウィリアムさん……………?」
「…………もしこれがルドルフの罠だった場合、ここでもう一手間かけているだろう。反応があるとすれば、そろそろか…………」
「クライメルさんではなく………?」
「そちらなら、もっと悪辣な罠を仕掛けるだろうな。ルドルフの仕掛けの方が、少し読み取り易いんだ」
「なぬ…………」
ウィリアムの読みは、ぴたりと当たった。
その直後、ごうっと風が吹き荒び、巨大な獣のようなものが姿を表す。
けれども、登場は派手だったものの、その獣は終焉の魔物の剣でさっくり斬り捨てられてしまった。
「これで安心だ。やれやれ、凝りの獣か」
「あまりにも一瞬で、どんな獣さんなのかも把握出来ないまま滅びました…………」
「やはり終焉の助力があると楽だな。凝りの獣の処理をしている間に、この木の芽が枯れてしまわなくて良かった」
「……………まぁ、いつの間にか石畳の隙間から、木の芽が…………」
「おっと、怨嗟の術木か。ネアは触れないようにしてくれ」
にょきにょきと伸びてきた木の芽に目を瞠っていると、ネアは、慌てた様子のウィリアムにひょいと持ち上げられてしまう。
凝りの獣はウィリアムに任せるつもりでいたのか、アレクシスは、いつの間にか花切り鋏のような物を手にしていて、その木の芽を収穫している。
なお、手袋などはせずに素手のままだ。
「………これは、怨嗟の剥離を行った土地に生える木の芽なんだ。彼は、最初からこの土地の怨嗟を根から剥離してしまうつもりだったんだな」
「根から……………」
「慰霊祭の儀式をやりたい中央の連中は、ここを知らないからな。一つくらい潰しておいても問題ないだろう」
「………つまり、ここはもう、怨嗟がなくなってしまったのですか?」
「ああ。三年ほど前に通りがかった時から目を付けていたんだが、いい収穫になった」
「……………ほわ」
「もっと早く気付いていれば、犠牲者が出る前に俺が剥離したんだがな。…………いや、ネアが来る前だとしたら、エーダリア様が立ち会うしかなかったのか。となると、あの方の身に持つ守護としては足りなかっただろうな」
「そ、そうなのです?」
「ああ。ましてや、高位の人外者に手を加えられた怨嗟だ。そうしていなくて良かった」
(よく分からないままに終わってしまったけれど、それなら、私がここにいた事にもきちんと意味があったのだわ………)
カーンカーンと、遠くから、火の手が上がった事を知らせる鐘の音が聞こえた。
それが火の幻なのか、ここ数年のように生きた火が上がったものなのか、振り返ってもここからは森しか見えないが、街の方でも早くも怨嗟の火が現れたようだ。
火の慰霊祭は本来、午後から夜にかけてのものであるのだが、儀式の為にこの広場で意図的に最初の火を起こした事で、随分と早い時間から始まる事になる。
ウィームの領民達には、緊張を強いる時間が長引くことを詫びる書面が開示され、半日から終日の休業を強いられた商店には補償があるのだとか。
きっと今日のウィームでは、どの家庭も火を使える時間の内にと、早い時間の朝食としたのだろう。
ネアは、朝の内にシュニッツェルを揚げておいてくれた料理人達と、保温魔術の偉大さに感謝するばかりである。
「少し風が強くなってきたな。そろそろ帰ろうか」
「はい。アレクシスさん、儀式を執り行っていただき、有難うございました」
「いや、想定外の仕掛けで、怖い思いをさせたな。無事に鎮魂も収穫も出来て良かった」
「あの木の芽は、スープになるのでしょうか………」
「煮出した液体を、畑に撒くんだ。そうすると、試練の系譜の特殊な祝福を宿した野菜が育つ。特に人参は美味しくなるぞ」
「…………じゅるり」
帰り道は、森の様子を見ながらという事で、公共の転移門の入り口まで歩く事になった。
往路にそうしなかったのは、うっかり道中で始まりの火を呼び起こしてしまうと、到着した時に広場が既に燃えているという大惨事になりかねなかったので、出来るだけ周辺を刺激しないように静かに会場入りしたのだ。
暗い暗い森を横に見ながら、ネアは、リーエンベルクに帰った。
炎の乙女の怨嗟はもう二度と現れる事がないのだと報告すれば、ピンブローチ型の魔術通信端末の向こうでエーダリアが呆然としているのが伝わってきたので、立ち会っただけのネアも少し誇らしい気持ちである。
ふと、耳元で囁かれたあの少女の声が蘇った。
(……………私は、もう二度と、あなたと同じものにはならないわ)
もう怨嗟ごと剥離されて消え失せた炎の乙女に、ネアは、心の中でそう呟く。
大事な人達を損なわれたり、大事な家族から引き離されるくらいなら、そうして災いとなるものはこの手で滅ぼしてしまえばいい。
きっとウィームの住人達は皆、もう二度と誰も奪わせないようにと、喪失と絶望を踏み締めてこの暗い慰霊祭の日を過ごすのだろう。




