147. 火の慰霊祭に挑みます(本編)
こうっと、静まり返っていた薄暗い庭園を一陣の風が吹き抜ける。
清廉な花々を揺らしてざわざわと音を立てるのは雨待ちの風ではなく、魔術基盤が動き吹く風だ。
くらりと視界を翳らせる眩暈のような暗さをひたひたと満たし、どこか不穏な影の落ちるその日、ウィームには火の慰霊祭がやって来る。
火の慰霊祭の日は、殆どが朝からどんよりとした曇天であるが、元々晴天の日があまり多くなく曇り空に慣れている筈のウィームでもなぜか異様に暗く感じる。
ふとした折にちりりと首筋の毛が逆立つのは、ここにはいない筈の者達の気配を感じるからだろうか。
小さな物音一つに神経がざわつき、誰もいない筈の部屋にゆらゆらと蠢く影が見えたりする事もある。
その、もはや馴染みの感覚になりつつある異変の全てが、統一戦争の中でウィームで滅びた火の系譜の者達の怨嗟によるものだ。
それは、戦争で無残に踏みにじられたウィームで、戦後すぐに痛ましい大火を引き起こす等、今迄に何回もこの美しい土地を火の脅威に晒してきた。
祝祭の区分ではあるものの、鎮魂を主とする儀式を行う火の慰霊祭は、ウィームの一年で最も暗い日の一つだ。
ざあっと強い風を感じて振り返ると、火の気のない筈の場所にぼうっと燃え上がる暗い炎。
或いは外を歩いていると、雪のようにどこからともなく風に混じる灰。
そして、ここではないどこかから耳元で囁かれる、火の系譜の亡者達の怨嗟の声。
どれだけ今のウィームが復興を遂げ、中央から独立した統治に近付いているとしても、この日になると、誰もがあの戦争を思い出すのだろう。
遠くで重なり合う鎮魂の鐘の音は、かつて、ウィームから失い得ないものを多く奪い去ったその日に向ける嘆きの調べでもある。
もう春の花が艶やかに咲き誇る季節であるのに、窓はうっすらと冷気に曇り、ネアは、冷たくなった指先を微かに握り込む。
気付いたディノがそっと手を握ってくれたので、心配そうにこちらを見た水紺色の瞳を見上げて唇の端を持ち上げた。
こんな時ばかりは、ネアの大事な魔物も恥じらわずにしっかりと手を握っていてくれる。
大切なものが沢山喪われた日だからこそ、そうして大切な人と一緒に居られる事に感謝しよう。
「そろそろか。…………くれぐれも、ウィリアムの側から離れないようにな」
「はい。今年は私の不手際でアルテアさんが森に帰ってしまったので、ウィリアムさんに一緒に居て貰えるお仕事で良かったです」
ネアの正面に立ったのは、儀式用の盛装姿のウィーム領主だ。
黒にも見える濃紺の儀式用ケープには、暗く鮮やかな色を宿す紫紺の結晶石が縫い付けられている。
今年のエーダリアの儀式用のケープは、結晶石そのものの色ではなく、その石が布地に落とす光の色で守護を縁取る手の込んだものだ。
こうして近くで見ていると、布の上に落ちる煌めきの色は青紫色や瑠璃色になっていて、その影が施された刺繍に複雑に重なり合い、魔術陣のような美しい模様を描き出している。
昨年と同じような作りの物でも構わないのだが、火の慰霊祭は一年に一度しかない。
その日にしか検証出来ない魔術効果を調べる為にと、敢えて違う守護の形を探ると決めたのはノアとダリルなのだそうだ。
今年は特に、厄介な鎮魂の儀式が一つ追加される。
ネアはそちらに参加する事になっており、王都からヴェンツェル王子なども訪れる慰霊祭の会場に行くことはない。
そうして身に持つ因果や運命的な要素から災いごとを集めやすいネアが離れている以上はと、念には念を入れて、火の怨嗟が凝ってしまう事も見越し、見合った守護の形をと試行錯誤されたケープなのだそうだ。
「今年は、大きな怨嗟の鎮めの儀式の立ち合いを、お前に任せる事になる。負担もあると思うが、宜しく頼む」
「はい。大きな火の気配の現れる要所だと伺っていますので、障りなどを受けないようにきちんと注意をし、儀式に立ち合ってきますね」
「ああ。………そちらは、この上なく安全な組み合わせだとは思うのだが、それでも気は抜かないようにするのだぞ」
「…………浮気」
「むぅ。ディノ、火の慰霊祭のあれこれは、ディノの魔術とは相性が悪いのでしょう?その代わりにウィリアムさんが一緒にいてくれるので、安心して下さいね?」
「…………うん」
「お昼の前には帰って来ますから、シュニッツェルは一緒に食べましょうね」
本日の任務は、この世界に落とされたネアが、火の慰霊祭に参加するようになって初めて担う大役だ。
ネアが羽織っているのは、儀式の為に漆黒に擬態させた贈り物のケープで、勿論足元は戦闘靴だ。
こちらも黒に近い墨色に擬態してケープとの色を合わせつつ、慰霊祭に相応しい装いとした。
髪の毛は火の粉が風に混じると嫌なのでゆったりとではあるが結い上げており、ケープのフードをかぶってしっかりと覆っていた。
ディノは重ねて守護をかけてくれているし、ノアからもあれこれと目には見えないお守りを貰っている。
(それでも、…………少しの不安があるのは否めない)
これからネアが立ち合う儀式の場は、炎の乙女という火の系譜の精霊が命を落とした場所なのだそうだ。
禁足地の森沿いにある街道沿いの広場で、馬車を休ませる為に作られた場所なのだと言う。
その場所を知らなかったネアは、二日前にも足を運び、広場の構造を履修しておいた。
統一戦争の開戦前、王都から大きく迂回する形でロクマリア経由でウィームを襲撃した炎の乙女は、事前に危険を察知していたウィームの王子の契約の竜によって、その広場付近で討ち滅ぼされた。
炎の乙女とその契約の竜は、顔見知りだったのだそうだ。
(呪いを受けて弱っていたというその竜を軽視していた炎の乙女は、自分が侮っていた竜に滅ぼされて、深い絶望と怒りを残して亡くなったのだとか…………)
ネアからしてみれば、この美しい土地を脅かした精霊を返り討ちにした胸がすっとするばかりの出来事であるのだが、そうして刻み付けられた怨嗟は、今もウィームに根を張り残り続けている。
統一戦争の開始の一年前の襲撃ではあったが、慰霊の儀式は火の慰霊祭と併せて行われていて、尚且つ、慰霊祭の本会場とほぼ同時に儀式を始めなければならない。
(だからこそ、今年の慰霊祭は、こちらの儀式に合わせて例年より早めの時間から行われる事になった…………)
なぜ儀式のタイミングが限られるのかと言えば、火の系譜の者達の怨嗟が、火というものの資質に応じて連鎖して広がる性質があるからであるらしい。
ネア達が担当する場所は、残されている怨嗟は強いものの、討伐直後の開戦前にしっかりと鎮魂の儀式を行われている。
なので、最初の火が目を覚ます場所にはならないのだが、怨嗟の規模としては広めなので、火の気配の強まる午後からの儀式では危険が大きくなる。
(他の怨嗟の地で燃え上がる火があって初めて、目を覚ますのだとか…………)
そう説明されると、火の慰霊祭の儀式がウィームに今も尚残り続けているのは、統一戦争終結時に火の系譜の者達の鎮魂の儀式を執り行える者が誰もおらず、適切な儀式処理が出来ないままに怨嗟を育てたからだという事情が浮き彫りになる。
勿論、魔術師がいない訳ではなかった。
だが、乗り込んで来たヴェルリア軍の監視の目が光る中、鎮魂の儀式などをしてれば、早々に捕縛対象になりかねない。
それを残せば災いになると分かっていて、汚された土地や、怨嗟を刻む亡骸を放置しなければならなかった人々の苦しみは如何ばかりだろう。
その経緯を思えば、影絵の中で滅びゆく人々の眼差しを知るネアの胸は、つきりと鋭く痛むのであった。
「毎年、人手が足りなくて先延ばしにしてきたが、そろそろ、しっかりと鎮魂の儀式を重ねておきたかったのだ。漸く、今年の慰霊祭で執り行えるようになって良かった」
「今年は、人手を割いても大丈夫になったのですね」
とは言え、ネア達の向かう街道沿いの広場で大きな儀式を行うのは、元々、何年かに一度なのだそうだ。
人払いに長けた土地という利点を生かし、それ以外の年は隔離結界でしっかりと封鎖しておき、内側を燃やし続ける事で凌ぐ簡易儀式で済ませているのだとか。
本来であれば全ての場所で儀式を行うのが望ましいのだが、火の慰霊祭は、あちこちで火の手が上がるだけでなく、王都からのお客も多いのでただでさえ人手が足りなくなる。
ましてや慰霊や鎮魂の儀式は、土地の管理者の立ち合いが求められる、手間の多い儀式の一つなのだ。
その広場の怨嗟の根が深く太いからこそ、安易に儀式を執り行える状態にはなかったのだと言う。
「………主に、アレクシスが参加の申し出をしてくれたお陰だな。彼は、公的な機関に属していない、ウィームのいち住民だ。本人の生活圏にかからない場所での儀式の依頼は、あまり出来るものではない。今回は、お前との関係性も含め運が良かった………」
「ふふ。アレクシスさんの気になるスープの材料が、その広場にあって良かったですね」
「………障りがスープ用の野菜の肥料になるというのも、凄まじい話だがな」
そう苦笑したのは、今日は人間に擬態しているウィリアムだ。
たいへん希少な事に、慰霊祭用に黒色を取り入れた特別な騎士服のリーエンベルクの騎士に擬態しているので、ネアはついつい目をきらきらさせてしまい、先程からディノをしょぼくれさせていた。
「ウィリアムなんて…………」
「ディノ、私達が出かけている間は、ノアを頼みますね。そして、私が傍に居られない間にディノが怖い思いをしないように、お守りです」
ネアが持たされていた三つ編みに口づけを落とすと、魔物はきゃっとなって目元を染めている。
もじもじしながらも近寄ってきたのは、頬にも口づけを落として欲しいからのようだ。
ネアはくすりと微笑むと、手を伸ばすと体を屈めてくれたディノの頬にも、何もありませんようにという思いを込めて、滑らかな頬に口づけを授けておいた。
「………ネアがずるい」
「え、お兄ちゃんにはないのかな…………」
「むむ?」
「シルハーンが一緒なんだ。ノアベルトはいいだろう」
「わーお、腹黒いぞ…………」
にっこり微笑んだウィリアムに遮られてしまい、ノアはどこか遠い目をしている。
儀式に参加するエーダリア達に同行する為、これから擬態するのだというノアは、リーエンベルクに来たばかりの頃とは違い、目で見て分かる程にこの日を恐れる事はなくなった。
それでもやはり、綺麗な青紫色の瞳には微かな苦痛の気配がある。
今はすっかり幸せになっているネアとて、過去の気配に触れると心が慄くくらいなのだから、ノアが、長年苦しめられた火への苦手意識を払拭する事は、そう簡単な事ではないのだろう。
それでも今年は、ネアが別会場での儀式に参加するのでと、エーダリア達の側に騎士として並び立つのだそうだ。
ディノは、その会場近くであわいに待機し、ノアに寄り添ってくれる。
これはネアが頼んだからなのだが、もしネア達に何かがあった場合は、すぐにディノの名前を呼ぶ事と引き換えであった。
ああ、そろそろだ。
そう思えばやはり、緊張に指先が冷たくなった。
この土地の管理者として、エーダリアの代理で立ち合うだけの簡単なお仕事だが、それでも、怨嗟の形として現れるものは少し怖い。
大きく息を吸い込み、ネアはしっかりと背筋を伸ばした。
(今日は、私がリーエンベルクの代表として、慰霊祭の儀式に立ち合う。同行してくれるのは、儀式を執り行ってくれるアレクシスさんと、リーエンベルクの騎士に擬態してくれているウィリアムさん。三人だけという考え方も出来るけれど、これ以上にない程に頼もしい二人でもあるのだわ…………)
ウィリアムは本来、火の慰霊祭に触れる事には向かない、終焉を司る魔物である。
戦乱に纏わる鎮魂の儀式において、死そのものへの道行きを司るウィリアムの魔術はとても危ういものだ。
だが今回の儀式の地で亡くなった炎の精霊は、幸いにも、開戦前に打ち滅ぼされた者であった。
例外的にウィリアムの資質が有効となる、討伐対象としての資質を持つ事になる。
一方で、残念ながらディノは、その精霊と面識があるらしい。
所属などが不明瞭な炎の乙女は、ディノが手を貸したヴェルリアの人物と縁があるかもしれないし、ディノ本人との縁を辿り、怨嗟に生前の執着などが派生してもいけないのでと、今日はお留守番となった。
そこに、こつこつと靴跡を響かせてヒルドがやって来た。
ひらりと翻ったケープは黒色で、身に纏う色彩を変えると、この美しいシーは、ぞくりとするような暗く鋭い雰囲気を見せる。
それなのに冷酷な印象になるという事はなく、ファンデルツの夜会で見かけた真夜中の座の精霊達を彷彿とさせる艶やかさだ。
「ネア様、アレクシスが到着したようですよ。そちらの儀式の方が、怨嗟を呼び起こす手順を踏む為に先に始まります。我々とは入れ違いになりますが、儀式を終えた後は、リーエンベルクで体を休めていて下さい」
「はい。…………ですが、もし街で何かがあり、私がお役に立てそうな場合は、どうか声をかけて下さいね。大事なウィームに何かあったら困りますし、私の大事な家族に何かがあったらもっと困るのです」
ネアがそう主張すると、ヒルドは淡く微笑み、どうかお気を付けてとそっと頬に手を当ててくれる。
エーダリアも含め、皆が神経質になっているのは、十五年前のその儀式で、リーエンベルクの騎士が命を落としているからだろう。
その騎士は儀式魔術に長けた人物であったのだが、火と精霊という組み合わせの怨嗟は、思いがけない執拗さで燃え上がり続けた。
儀式を無事に終えたと安堵したその時に、最後の火の手が上がったらしい。
そしてその年を境に、エーダリアは広場での鎮魂の儀式を、慰霊よりも封じ込めに切り替え、数年に一度の儀式とした。
勿論、万全の守護を貰っているネアが燃えてしまう事はないが、それでも炎に包まれるというのはやはり、あまりいい気分ではないだろう。
おまけに、ウィームを襲った者の怨嗟の炎に害されるとなれば、たいへんにむしゃくしゃするに違いない。
「では、行ってきますね。エーダリア様達もどうかお気を付けて」
「こちらには、兄上がいるからな。…………例の、ディートハルトの一件があったばかりだ。彼等が、まだ認識されていない者の関わりがあるといけないからと、今日はずっと私達に同行すると言ってくれた。お蔭で、こちらはあまり気を張らずに済んでいる」
「朝にご挨拶に来て下さったドリーさんが、ヴェンツェル様は、その事件の後処理で身内の問題にあれこれにくたくたなので、大好きなエーダリア様に会いたかったようだと話していました」
「………っ、………い、いや、」
「ふふ、あの方にとって、ますますエーダリア様の存在が癒しになっているのかもしれませんね」
意地悪な部下に冷やかされてしまい、エーダリアは目元を染めて視線を彷徨わせている。
だが、穏やかに微笑んだヒルドは、王都の問題で背負った肩の荷を、こちらで降ろそうなど都合が良過ぎますねとやや辛辣だ。
ヒルドは、あの事件は第五王子自身の失策が発端とは言え、その土壌を育てたヴェルクレア王家の体質にも問題があると考えているらしい。
よって、事前に身内の行いを正せなかった第一王子にも、少々厳しい評価を付けているようだ。
(ヴェンツェル様の足元も盤石とは言えないという事情は、その手立てを講じられなかった理由にはならないのだわ)
ヴェンツェルは、ほぼ確実に次代の王となると言われている人物だ。
彼がその椅子に座る頃には、今以上に広い視野を持ち、多くの剪定を同時に行えるようになる事が求められる。
現王派の暗躍ぶりと比較してみれば確かに、今回の第一王子派の動きは鈍かったと言わざるを得ない。
そしてヒルドは、主にウィームとの連携に於いて失点を付けていた。
ヴェンツェル王子にとってのウィームは、有能な契約の魔物や代理妖精のように、彼の基盤を支える柱の一つになりつつある。
そうして、決して支配しえないものの、良き隣人のように知恵や力を借りる存在として並び立つのであれば、その柱を上手く利用せねば意味がない。
かつては第一王子の代理妖精として働いた立場からそう指摘したヒルドに、ネアは、成程と頷いてしまうのだった。
(…………そうか。ウィームは、ヴェンツェル様の、そしてこの国の中央の、代理妖精や契約の魔物のような存在になるのだ)
思考の中でそう言葉にしてみれば、統一戦争であれだけの犠牲を出して手に入れたウィームを、王都から切り離そうとしている国王の思い描く構図が、なかなか鮮やかに見えてくる。
バーンディア国王は、前王の望むような一枚岩の大国としての統治ではなく、各領の本来の資質を生かし支配や統合に向かないものは自治に近いくらいの権利すらを与えてしまい、その代わりに、よりしっかりとした国を支える柱に育てようとしているのだ。
この施策に於いて、どの領よりも早く独り立ちしたのは、意外にも統一戦争で最も弱体化されたウィームであるという。
エーダリアという領主の下、領内の団結と再編が進み、その役割に見合った健やかな葉を伸ばし蕾を付けたというのが、国王派の評価であるようだ。
(ウィームがこの国の代理妖精で契約の魔物であるのならば、ガーウィンやアルビクロムはどのような役割なのだろう…………?)
各領の資質はそれなりに特化しているが、未だ、中央との連携の形が定まっていない部分も多く、ネアには到底見通せない。
素人に簡単に見据えられる程に、国造りの仕組みは安易なものではないのだ。
「ネア、どうした?」
「…………む。この国の各領の在り方について、ついつい考えてしまいました。政治的な事はさっぱりなのですが、どうか末永く堅牢で穏やかな国であって欲しいと思わずにはいられないのです………」
考え事に気を取られてしまい、善意の同行者をなおざりにしてしまっていたようだ。
けれども考えていたことを告白すると、ウィリアムは、こういう日だからなと淡く微笑む。
廊下を歩く二人が向かうのは、リーエンベルクを訪れたアレクシスが待機している部屋である。
「慰霊祭の日には、よくある事なのですか?」
「魔術侵食の一種だな。ネアのように、これからという視点でその影響が出ればいいんだが、………こういう日は、過去に沈めた筈の憎悪や怒りも心の中に浮かび上がり易い。そういう意味では、ウィームは諸々の対処をよくやっているんだろう」
「…………そうなのですね」
「ああ。自国の王族達の鎮魂は行えず、火の者達への慰霊祭を行う事で、中央に対して戦敗国だという姿勢を見せているだろう?今のウィームの豊かさに不満を持っている者達も、その姿にある程度溜飲が下がる。健全ではない心の動きだが、それで余分な負の感情を洗い流せるなら安いものだ」
こちらを見て、そう淡く微笑んだウィリアムは、漆黒の髪に青い瞳の男性に擬態していた。
ノアの監修のこの擬態は、わざとウィームの住人にはあまりいない色彩を纏う事で、在籍する騎士の擬態だろうかと勘繰らせる工夫があるそうだ。
「…………私はただ、今日は統一戦争でウィームの王族の皆さんが亡くなった日でもあるのに、ウィームの方々は、ぐっと悲しさや虚しさを堪えて火の慰霊祭を行っているのだとしか考えていませんでした」
「勿論、そういう側面もあるな。戦争終結後に適切な鎮魂の儀式を行えず怨嗟が土地に残ったのも事実だし、何しろ火の系譜は執念深い。だが、今も尚、王都から客を招いて儀式を行うだろう?その中には、ただの冷やかしの者も多いとは思わないか?彼等はつまり、冷やかしの観客のようなものなんだろう」
「言われてみれば、あまりウィームには好意的ではない来賓の方も多いようですものね。………むむむ、奥が深いです」
また一つ政治的な駆け引きの巧みさを知ってしまい、ネアがむぐぐと眉を寄せていると、小さく笑ったウィリアムが手を差し出してくれる。
「今日は、手を繋いでいよう。いざとなれば、俺はネアの騎士として盾になれる。終焉の領域の内側となれば、確実に災いを退けるからな」
「ふふ、ウィリアムさんが騎士役をしてくれるだなんて、なんて贅沢なのでしょう。………むぐ、………お話に夢中で通り過ぎました。この角を曲がるのです………」
まさかの、自身の領域内での失態は、聡明な淑女らしい振る舞いとは言えまい。
ネアは、今日は凛々しく振る舞う筈だったのだと、へにゃりと眉を下げながら歩いて来た廊下を戻り、お目当ての扉をノックした。
聞こえたアレクシスの声にほっと息を吐き、扉を開ける。
「…………ふぁ!」
「やぁ、ネア。先日のミノスの迷宮のあわいは、無事に抜けられたか?」
外客棟を抜けて訪問客用の待合室に入ると、そこには、見た事のないような魔術師風の装束に身を包んだアレクシスがいた。
ネアは、漆黒のどこか軍服めいた実用的なケープと、そこに施された相反する優美な印象の色とりどりの結晶石を縫い込んだ美しい装飾に目を輝かせてしまい、今日は白に近しい白灰色の髪を見せているアレクシスは、人ならざる者のような秘密めいた微笑みを浮かべる。
(……………凄い。何というか、………正規の組織には属していない凄腕の魔術師さんという感じがして、少しだけ人ならざるもののような美麗さがあって、こんなアレクシスさんは初めて見た………)
相反する印象を纏め上げた魔術師のケープは、言葉を選ばずに言うのなら、人外者らしい禍々しさがあった。
そしてその装いが、アレクシスにはとても似合うのだ。
「アレクシスさん、来て下さって有り難うございます。あの日は、祠守りの竜めに酷い嫌がらせをされたのですよ……。その時にあわいの迷宮を治めていたという竜さんは、絶対に許しません…………」
「となると、初代の祠守りの王だな。こちらで材料となる生き物を採取している間に何度か邪魔をされそうになったから、暫く薬草スープに漬け込んで黙らせておいたが、それを知っていればもう少し煮込んでおくべきだったか…………」
「…………ぎゅ。王様は煮込まれてしまったのです?」
「あわいが晴れるまでの、時間制限のある採取だったからな。邪魔をされるくらいであれば、さして役に立たないとしても、出汁にしておいた方が無駄がない」
「…………お出汁に」
ネアは、ふるふるして隣のウィリアムを見上げたが、スープの魔術師のあんまりな主張には、終焉の魔物も困惑しているようだ。
そんなウィリアムの方を見て、挨拶を切り出したのはアレクシスであった。
「さて、これから向かう広場では、俺が儀式を執り行う事になる。…………宜しく頼む」
「ああ。こうして話すのは初めてだな。俺は儀式には参加しないから君に任せるしかないが、その代わり、ネアの事はこちらに任せておいてくれ」
「いや、以前にロクマリアで同じ騎士団の仲間として仕事をした事があるんだが、………ああ、その時は俺も擬態をしていたのか…………」
「ん?もしかして、面識があったのか………」
ウィリアムはあまり覚えていなさそうだったが、アレクシスが地名と思しき名称を口にすると、なぜかとても遠い目をして額を押さえた。
終焉の魔物に頭を抱えさせるそれは、一体どんな出会いだったのだろうとネアは首を傾げたが、何か事情があるのか語っては貰えないようだ。
「近く迄は公共の転移門を使い、そこから広場までは、魔術の道を行く事になる。ネア、今日のような日に使う道には少し見慣れない者達が出てくるが、驚かないでいてくれ」
「はい!………その、怖い生き物なのですか?」
「悍しいというよりは、鎮魂の場に上がってくる影絵と道と、交差するような感覚に近い。統一戦争や、火の慰霊祭に関わる者達はさすがにいないが、かつて鎮められた者達の過去を通るかもしれない」
「…………人間にも、鎮めの道を通れる魔術師がいるのか。一人、それを可能としている者を知っているが、彼の場合は元々終焉の系譜の魔術を扱うからな………」
「ああ、ハツ爺さんだろう。爺さんと出かけた時にその道を使って、収穫にも使える道だと思ってな。使えるように、あれこれ工夫したんだ」
事もなげにアレクシスはそう言うのだが、苦笑したウィリアムの表情を見ていると、そう容易い事ではないのだろう。
今春から、人間の魔術師の中では、あわいから地上に戻ったウェルバが死者でありながら第一席となってしまったものの、それ迄は長らく第一席を維持し続けたのが、このスープの魔術師である。
おまけに、保有する魔術が他の誰にも再現出来ない物であるからこそ、ウェルバが第一席とされたが、それがなければ一席はアレクシスで揺らがなかっただろうと、ノアが話していたくらいなのだ。
ネアの行きつけのスープ店の店主は、魔物達を慄かせるくらいの凄腕魔術師なのである。
「では、今日はどうぞ宜しくお願いします」
かたかたと、ウィームではあまり吹かないような風に、窓が音を立てる。
窓硝子越しに空を見上げれば、どんよりとしたぶ厚い雲は重たい灰色で、曇天でもどこか澄んだ色を感じさせるウィームの空とはやはり違う。
ひらりと遠くを舞ったのは、花びらか、灰の雨か。
ネアは、ウィリアムの手をぎゅっと握りしめ、儀式の場所に向かう事にした。
騎士棟に向かう為に外回廊を渡れば、頬に触れる風はどこかじっとりと湿ったような生温さだったり、凍えるようにからからに乾いていたりして、その不穏さにネアはこくりと息を飲み込む。
そうして、リーエンベルクの警備に残る騎士達に見送られ、騎士棟にある転移門を潜ったのだった。




