チーズのお裾分けと仲良しの証
ばさりと大きな翼を打ち振う音がして、ふわりと舞い降りたのは優美な、けれどもリーエンベルク前広場を覆い尽くしてしまいそうな竜の影だ。
それなのに、軽やかな着地音で石畳の上に降り立ったのはすらりとした美しい男性である。
緩く編み込まれた三つ編みの髪は艶やかな夜の入りの色で、こちらを見て微笑んだ瞳は淡い春の色をしていた。
ぼうっと光を放つような片方だけの白い角は、白瑪瑙で出来た鹿の角のようで、ネアはいつも、その美しさに目をきらきらさせてしまう。
この春闇の竜は、おとぎ話の中に思い描いていた憧れの美しい竜そのものなのだ。
「ネア」
「ダナエさん!」
「…………なかなか、ウィームに来られなかった」
ふにゃりと微笑んだ春闇の竜にぱっと笑顔になれば、こんな夕闇の中ではぞくりとするような美貌を見せるダナエは、嬉しそうに唇の端を持ち上げた。
凄艶な美貌にもなり得るその面持ちは、どこか無防備で拙い微笑みを浮かべていて、そろりと持ち上げた手に、ネアはくすりと笑うと、指先で頭を撫でられるままにする。
「……………撫でられた」
「ふふ。ダナエさんに撫でて貰いました」
「ネアは、…………ずっと食べたくならない」
「それなら、ずっとお友達でいられますね」
そう言えば、ダナエはこくりと頷き、嬉しそうに目元を染める。
この竜は、ネアの大切な魔物に少し似ているのだ。
「…………バーレンさんは、大丈夫なのでしょうか?」
「ああ。雛達が巣立てば動けるから、もう少ししたら一緒にこちらに来ようと思う」
「バーレンさんが、道中で鳥さん風なちび竜さんに懐かれて動けなくなったというお話を聞いて少し驚いてしまったのですが、お元気そうでほっとしました」
「竜鷲の雛達は、普通の鳥よりは大きい…………」
「むぅ。むくむくもこもこなのに、大きいのですね」
「むくもこ…………」
こうしてダナエ一人がウィームを訪れたのには、理由がある。
既に暫く前に春告げの舞踏会も終わり、本来ならダナエ達はもう、ウィームに来ていてもいい筈なのだ。
いつバルバをするのかなとわくわくして待っていたネアであったが、そんなダナエ達の旅は、ウィームの少し手前でちょっとした事件が起きた。
旧ロクマリア域の小さな森の中で、竜狩り達に母竜を狩られた竜鷲という生き物がいたらしい。
その夜は気持ちのいい満月で、竜姿で野宿を決めたダナエとバーレンが木の下ですやすやと眠っていたところ、母親を喪った竜鷲の雛達が眠っていたバーレンを襲って母竜代わりにしてしまったのだ。
ひしっとしがみつき、ぴいぴいと鳴く子竜達に囲まれてしまい、バーレンは今、その土地から動けなくなっている。
聞けば、竜鷲は大岩に近い竜のようで、親を失うと、その直後に見た竜に懐いてしまうのだとか。
アルテアに届いたメッセージの内容がネアにも伝えられ、その内容をエーダリアが説明してくれたのだが、ネアは多分、とても茫然としていたと思う。
(大岩に近い竜で鷲……………)
幸い、ヒルドが見せてくれた図鑑の絵で、竜鷲達は愛くるしいもふもふとした猛禽類系の生き物だと判明したが、未だにどこに大岩要素があるのかは謎である。
そんなちび竜鷲達は今、二代目のお母さんであるバーレンにしっかりとへばりつき、ダナエが借りた小屋ですくすくと育っているようだ。
二週間程で巣立つ生き物なので、それ迄はお母さん代わりとして付き合ってあげる事にしたらしい。
もう話を聞いただけで可愛いしかないので、ネアとしては是非に見に行きたいのだが、険しい岩山や深い森の中で暮らしている竜鷲は、人間をぱくりと食べてしまう獰猛な竜でもある。
遊びに来たお客様がおやつにされてしまう悲しい事故があってもいけないのでと、ネアは、ちび竜鷲訪問を泣く泣く諦めた。
短い母親と子供達の時間に水を差すような事は、決してあってはならないのだ。
(今はここから、ちび竜さん達が元気に育って巣立てることを祈ろう………)
悲しみを堪えて凛々しく頷いたネアの隣にいるのは、まだこちらに来られないバーレンをその小屋に残して、リーエンベルクを訪ねてくれたダナエに相談事があるというノアだ。
つい先程までは銀狐姿でむぎむぎと駆け回っていたが、今は高位の魔物らしく、しゃんとしている。
「それにしても、その竜鷲にとっては思いもかけない光竜の守護だよね」
「ふふ、ちびさん達は、二代目のお母さんがとても凄い竜さんだとは知らないのでしょうね」
「竜鷲は何百年かすると人型になる竜だから、バーレンは、念の為に擬態している」
こくりと頷きそう教えてくれたダナエに、ネアは、お忍びの最後の竜種の王族と、母親を喪ったばかりのちびちびした子供達との運命の出会いを頭の中で思い描いた。
とても素敵な物語なので、是非に物語本にして欲しい。
「竜鷲さん達が巣立った後も、またいつか会えるといいですね」
「うん。バーレンは、初めて生き物を飼ったと喜んでいた」
「なぬ。孤児の保護というよりは、捨て猫を拾った感じでした………」
ちょっと思っていたものとは違うようだが、ネアは、それはそれで愛くるしいので宜しいと、こくりと頷いた。
(でも、バーレンさんは、そんな竜さん達にも正体を明かさないのだわ…………)
だが、バーレンが面倒を見ている竜鷲の雛達は、まだ赤ちゃんである。
そんな彼等に、滅びた筈の光竜が生き残っているという秘密を背負わせるのも酷な話だ。
であれば最初から擬態しておくのがいいだろうと、そのまま擬態を解かない事にしたのだと言う。
「元々、お外で眠る時は、擬態をしたままなのですか?」
「バーレンはそうする事も多い。竜の外套があるから、羽織ったまま眠ればいいだけだから」
「まぁ!その外套があれば、眠っている間にも負担なく擬態していられるのですね」
ふむふむと頷きながら、ネアは、ダナエに引越しかなという大きさの木箱に入ったチーズを引き渡した。
これこそが、本日のダナエの訪問の理由である。
ウィーム中央市場の品物なのだが、チーズ専門店の店主が呪いにかけられてしまい、大量に作り過ぎて投げ売りされたものをリーエンベルクが買い上げておいたものだ。
そのような呪いの弊害は時折発生し、リーエンベルクでも、報告があれば、大量購入などで生産者の負担を減らす措置が取られる。
(いつもならそれを、無償で配布したり、孤児院に預けたりもするのだけれど………)
だが今回は、複数のチーズ業者が同一の被害に遭い、リーエンベルクでも、買い上げるチーズの量が多くなった。
おまけに、今後の消費をそのチーズで賄うと結果として生産者が先々の収入を失ってしまうので、今回買い上げたものは出来るだけ早く消費しなければならない。
しかし、買い上げたチーズを配布しようにも、あちこちで同じような事が起こった為に、今のウィームはチーズ供給過多なのだった。
「……………嬉しい」
「こちらこそ、美味しく食べてくれるダナエさんが近くにいてくれて良かったです。こんなに美味しいチーズですから、美味しく食べてくれる方に差し上げたいですから」
「うん。ウィームのチーズは、美味しい」
そこでリーエンベルクが頼ったのは、ダナエやほこりのように、食事量の多い者達への贈与であった。
とは言えエーダリアやヒルドは、キャンバスや煉瓦など、何でも食べてしまうほこりよりも、今回は、気に入った料理を食べに出かけるような嗜好を持つダナエにこそ、食べて貰いたいと考えていたようだ。
そうして、竜鷲の雛達の世話で動けないダナエ達にチーズを食べるかどうか聞いたところ、こうしてダナエが受け取りに来てくれたのであった。
木箱二箱分のチーズを貰ったダナエの嬉しそうな様子を見ていると、ネアもにこにこしてしまう。
エーダリアは、こんな事態とは言え、生産者のチーズにかける熱意を理解してくれるような引き取り先をと願っていたが、引き渡したチーズは無事に美味しく食べて貰えそうだ。
「それと、僕からはこっちだね。…………この獣なんだけれど、見た事はあるかい?」
ノアがそう示したのは、最近報告されたばかりの新種かもしれない獣の絵姿だ。
ウィームの南西部でこの獣による被害が出ており、春闇の系譜だという事が判明したばかりだった。
「話していた獣だね。………春闇の中で似たようなものは見た事はあるけれど、このように斑の毛皮ではなかったし、角もなかったかな。………角の形が不自然だから、変質しているものだと思う」
「ありゃ。となるとやっぱり悪変かな。春闇の系譜の生き物は報告例が少ないから、意見を貰えて助かったよ」
「その獣を見付けたら、リーエンベルクに伝えるかい?」
「うん。ウィームで見かけたらそうして欲しい。どうも領民を襲っているみたいだから、多少なりとも人間を食べるみたいだしね………」
「食べられたら、食べてしまってもいいのかい?」
「ありゃ。それが一番手っ取り早いのかぁ………」
かくして、報告された限りでは、ウィーム領民を三人も食べてしまった獣は、見かけて美味しそうであればという注釈付きではあるものの、春闇の竜のお腹に入る予定となった。
食べたくならない獣であれば、リーエンベルクに連絡を入れて貰う事になり、ノアもほっとしたようだ。
それではと、チーズを持ち帰るダナエが飛び立とうとしたところで、こつりと石畳を踏む音がして、ネアはおやっと振り返った。
「まさかとは思うが、事故じゃないだろうな?」
「むむ、アルテアさんです」
「わーお。目敏いなぁ…………」
「アルテアさんもご存知かもしれない、チーズを千個作ろうの呪いで余ってしまったチーズを、ダナエさんにお裾分けしていたところなのですよ」
いつの間にか背後に立っていたのは、お散歩中かもしれない選択の魔物で、本日はどこかにお出かけしていた帰りなのか、優美な漆黒のスリーピース姿である。
ネアがダナエの訪問の理由を説明していると、竜化を解いて慌ててこちらに戻って来たダナエが、嬉しそうにアルテアに話しかける。
「アルテア。少し遅れているけれど、バルバはやる」
「こちらに来てからにしろ。それと、棘草と棘蜥蜴は食えないからな」
「そうなのだね。では、棘牛だけにしよう」
「海竜と鯱もいらないぞ」
「うん」
どうやらダナエは、カードからアルテアにバルバの持ち込み食材の相談をしているようだ。
ネアは、知り合いかもしれない海竜を食材として持ち込まれなくて良かったと安堵しつつ、あらためて竜姿になって翼を広げたダナエに手を振った。
夕暮れの空に、美しい竜がひらりと飛んでゆく。
その姿は春闇に転じてすぐに見えなくなってしまい、ネアは、何て綺麗だったのだろうと大満足の溜め息を吐いた。
「……………ふぁ。やはりダナエさんは、竜さんの中で一番綺麗です。翼が………」
「もしかしてだけどさ、ダナエって白い部分が増えてない?」
「むむ、薄ピンクの綺麗な色合いの部分が減ってしまうのです?」
「どうせまた、どこかで白持ちを食ったんだろう。…………何だ?」
「アルテアさんがここに来たのは、パイかタルトかゼリーのお届けに違いありません。受け取りますよなポーズなのです」
「…………いい加減お前は、俺に会う度に食い物を貰えると思うなよ?」
「解せぬ」
「そう言いながらも、リーエンベルクに竜の気配があったから駆け付けちゃったんだろうなぁ…………」
「ノアベルト?」
「はいはい。僕はそろそろ中に戻るよ。アルテアも寄っていくかい?」
ノアにそう言われてしまうのは腑に落ちないものか、アルテアは無言で片眉を持ち上げてはいたが、結局リーエンベルクには寄ってゆくとても懐いた使い魔である。
屋内に入ると、ノアは先程のダナエの意見を共有する為にエーダリアの執務室に向かい、ネア達は、お茶でもするかと外客棟のアルテアのご愛用の部屋に向かう。
「シルハーンはどうしたんだ?」
「今日は、先日のお礼のお茶菓子を届けつつ、ウィリアムさんとグレアムさん、そして黒艶もふもふことギードさんとのお茶会なのです!晩餐までには帰りますよ」
先日の朝食会があまりにも素敵だったので、ネアは、余分に買った薔薇色の缶のシュガークリームクッキーを、ディノにグレアムへのお礼のお菓子として持って行って貰う事にした。
すると、その時にたまたま近くにいたウィリアムが同行する事になり、であればとギードも誘ってお茶でもして来たらいいのではと提案したところ、当日開催決定のお茶会が決まったのだ。
皆、それなりに忙しい魔物達であるので、こうして全員が揃える日は稀だろう。
嬉しそうに出かけてゆくディノに、ネアは、あれこれとお土産を持たせてやった。
「……………となると今は、ノアベルト一人か」
「エーダリア様とヒルドさんもいますよ?」
「防衛上の問題だ。あいつは、春闇の獣の報告とやらで、エーダリアの方にかかりきりだろうが」
「お家の中なのです…………」
「お前の場合、屋内だろうがお構いなしだろう」
「まぁ!私とて、そうそう事故ばかりではないのです!!」
(……………これは、いい機会かもしれない)
ふと、そんな事に気付く。
ネアは、ちらりとアルテアの方を見てそわそわすると、そう言えばとても使い魔に会いたかったのだと、滅多にない好機が訪れている事に気付いた。
窓の向こうには青く滲むような夕闇が満ちており、白ピンク色の薔薇が淡い花灯りを落としている。
三色菫の葉の下で小さくちかちかと光るものは、妖精達だろう。
禁足地の森の向こうに、翼を広げて飛んでゆく竜の姿が見えたような気がした。
穏やかで静謐で、どこか甘やかな夜の入り口。
「……………アルテアさん」
「何だ?」
意を決したネアがぽそりと呼びかけると、こちらを振り返った選択の魔物は、丁度上着を脱いでいるところであった。
まるで我が家のように寛ぎ、すっかりこの部屋での過ごし方にも手慣れてきている。
だからと、邪な願いを抱えた人間は考える。
この様子ならば、もう少しだけ踏み込んでみてもいいのではないだろうかと。
「その…………」
「パイもタルトもなしだ。お前は、もう少し他の物にも目を向けろ」
「そ、それです!」
「……………ほお、何か新しい要求を覚えたのか?」
ふっと笑って弄うような眼差しをこちらに向けたアルテアに、ネアは慌てて駆け寄った。
野生の魔物なのでまずは捕獲しておいた方がいいのかもしれず、けれども今は着替えの最中なので手は嫌がりそうかなと、きょろきょろする。
「アルテアさんを固定する場合は、どこを掴めばいいのでしょう?野生の魔物さんは、何かをしている時に手を押さえられるのを嫌がるのですよね?」
「…………その情報はどこから持ってきたんだ」
「ダリルさんの貸してくれた、使い魔のお手入れの仕方の本に書いてありました。手足などを掴むと、繊細な生き物は怯えてしまうそうです」
「そうだな。そこで得た知識は、全て捨てろ」
「なぜなのだ」
ネアは仕方なく、アルテアの腰回りのシャツをちみっと掴み、呆れたような目でこちらを見下ろしている魔物を見上げる。
そして、少し前から温めている提案を口にしようとして、また少しだけ躊躇った。
(こんな事を言ったら、…………嫌がるのだろうか…………)
しかしネアにも、人間としての欲求があるのだ。
それにアルテアも、パイやタルト以外の要求を歓迎するような物言いだったではないか。
「……………その、…………もう少し使い魔さんと仲良しになりたいのです」
「……………ほお」
「む、……………むぐ。その、今は二人きりなので、………なぬ。なぜに、とても顔を顰められたのだ」
「何か別のものを要求してみろと言いはしたが、俺を失望させるような物を望むなよ?」
「…………仲良くは、してくれないのです?」
それはアルテアの領域では失望にあたるのだろうかと首を傾げてそう尋ねてみると、美麗な魔物の形の良い眉がくっと顰められる。
一見表情は豊かだが、どこか突き放したような諦観に、ネアは途方に暮れて目を瞠った。
「俺との仲を深めるのがお前の要求なら、具体的にどうやってそれを成すつもりだ?」
「むむ、…………親密さを深め、仲良しの証を残したいと思うのですが、……そのような一般的な愛情の表現をと望む事は、アルテアさんのような使い魔さんにとっては不愉快なものなのでしょうか?」
「……………成る程な。シルハーンが不在の時を狙ったのは、お前なりに気を遣ったという訳だな?」
「………ええ。私のこの野望を知ったのなら、ディノが自分もと荒ぶってしまうかもしれません。けれどもやはり、ディノは伴侶であって使い魔さんではないのです。…………っ?!」
線引きが難しいのだと伝える為にそう言った途端、抱き寄せられるようにして、背中にぐっと手のひらを押し当てられた。
驚いて振り返りかけたところで、その手を起点にしてくるりと視界が反転し、ぼすんとどこかに落とされる。
驚きのあまりにぱちぱちと瞬きをすれば、部屋の天井が見えた。
(ここは、………)
ふかふかとした背中の感触から、長椅子に寝かされているのだと理解するのに一拍かかり、ネアは、なぜ仰向けにされたのだろうと混迷に包まれた。
「…………アルテアさん?」
「興を削ぐなよ?お前が始めた事だからな」
そう微笑む魔物の表情は、薄暗い部屋の中で影になっている分、赤紫色の瞳がぼうっと光るよう。
その、ぞくりとする程の美貌の仄暗さに困惑しつつ、唇の端をゆっくりと持ち上げ微笑みを深めた、艶麗な魔物を見ている。
深く微笑んだ表情の淫靡さはひやりとするくらいに鋭く深く、魔物なのだからこんな表情になる事もあるだろう。
けれども、ゆっくりと唇をなぞる親指の温度に、ネアは、なぜ使い魔の敷布団にされた上に、誘うような優しい仕草で物凄く不愉快そうに顔の輪郭を辿られているのだろうかと困惑するばかり。
(……………もしかして、)
ふと思い出したのは、市場で出会ったヴェルリアの侯爵令嬢の一件だ。
あの時に触れた眼差しの冷たさはまだ覚えていて、こうして向けられる瞳の怜悧さは、確かにあの時のものに近しいのかもしれない。
あの後、沢山撫でてクッキーを与えたのだが、結局は寝かしつける事は叶わなかった。
そのせいで、使い魔の心が満たされていなかったのだとしたら。
「……………正しい寝かしつけ方を、教授してくれようとしているのですか?」
「……………は?」
少しの間だけ我慢したが、とは言えきちんと事前に説明をして欲しいと、堪らずにそう尋ねてしまったのは、なぜか祝福を与えようとする使い魔の吐息の温度を唇に感じられる距離での事だ。
上からしっかりと押さえつけられているので、ずしりとした男性の体重を体の上に感じている。
アルテアは片足を床に下ろしているので少しは軽減されているのだろうが、だとしても、体重で押さえ込む形で拘束されているのは間違いない。
ネアもよく、使い魔を押さえ込む為にやる体勢だ。
つまりこれは、逃さぬように寝かしつける為の正式なお作法という事になる。
「やはり、先日の寝かしつけが上手くいかなかったことを、根に持っているのですね…………。仲良し度を上げるよりもまずはこちらだと、正しい体の使い方などを教えていただくのは吝かではありません。ですが、体格差があるので、出来れば言葉でも説明してくれると分かりやすいのです」
「……………おい、まさかとは思うが」
「むぅ。やはりこの体勢は、ある程度の体重があった方がぎゅっとなって有利なのですね。となると私が行う場合は、まずは軽く戦闘靴で踏んでから……?」
「やめろ。いいか、絶対にやるな」
低い声でそう言い含められ、ネアはまた眉を寄せた。
先程まで感じていた、アルテアのどこか投げやりな苛立ちはいつの間にか消えていて、その代わりに、目の前には珍しく本気で困惑している魔物がいる。
「そして祝福も、魔物さんの寝かしつけに必要なものなのですか?確かに、私が子供の頃は、就寝前に両親が頬に口づけをしてくれました。思えばディノも時々強請りますし、ウィリアムさんの依頼でも、して差し上げた事があります」
「……………そうか。ウィリアムには二度とやるな。それと、魔物を寝かしつけるという発想自体をどうにかしろ」
「…………つまり、魔物さんは、寝かしつける方が好き…………?」
「何でだよ」
はあっと、深い溜め息が落ちる。
ネアは、それでも体勢は変えないまま、呆れたような溜め息を吐いたアルテアを見上げていた。
(……………あ、)
やはり魔物は人間とは造りが違うらしく、睫毛の密度が濃いのだなと、この際なので観察などしてみる。
使い魔と仲良しの一巻では、使い魔の観察は欠かせないもので、僅かな変化からその体調を管理するのはご主人様の役目だと書かれている。
であれば、生き物の感情や体調が現れる瞳の観察は欠かせないものであろう。
決して、あまりにも宝石のように綺麗な瞳なので、うっかり凝視してしまった訳ではない。
正統な理由があれば、この凝視も許される筈なのだ。
ふむふむと見上げていれば、なぜかアルテアが、すっと瞳を細める。
唇の端に触れたままでいた親指が離され、ふつりと、どこか執拗な口づけが一つ落とされた。
ネアはむぐっとなりつつも、寝かしつけには口づけが必要だと心の中の使い魔管理日誌に書き込み、触れていた温度が離れた時に少しだけじわりと滲んだ気恥ずかしさに、慌てて心の中で酔っ払いちびふわを思い浮かべた。
ネアとて乙女である。
この魔物が、尻尾の付け根をこしこしすると喜ぶ魔物である事を忘れ、美麗で色めいた男性の姿をしているのでどこかそわそわしてしまう事もあるものだ。
しかし、そんな恥じらいで、ご主人様の手入れが足りずに荒ぶる使い魔の心のメッセージを受け取り損ねている暇はない。
今後も契約を続け、その存在を引き受けるのであればと、大切にする事を心に誓った使い魔でもある。
些細なメッセージも、受け取れるようになりたかった。
「さては、甘えたいけれど、つんとしてみたいという、相反する感情に引き裂かれているのですね」
「前々から思っていたが、お前のその妙に具体的な主張は、何を教本にしているつもりだ?」
「使い魔と一緒の……」
「よし、黙れ」
「むぐぅ。………それと、どうしてぎゅっとされたのですか?やはり、蔑ろにされていると感じ、とても甘えたい感じに………」
「何でだよ。……………ったく、お前の表現は誤解をされても仕方のない雑さだな。………で、結局、何の為に俺と親密になりたいと考えたんだ?」
「……………む。…………邪な願望はありませんし、投稿の締め切りが迫っている訳でもないのです」
「……………ほお、締め切り?」
「ぎゅむ!なぜお耳を齧られたのだ!甘噛みの治らない使い魔さんであれば、噛み癖直しの、噛んで遊ぶガラガラを与えますよ!!」
「やめろ…………」
ここで、漸く上からどいてくれたアルテアに追求されたネアは、使い魔と一緒の新刊が出版されるにあたり、巻末にある人気の読者投稿欄に自分も投稿してみたいのだと白状させられた。
そこには、自慢の使い魔との仲良しエピソードや、可愛い使い魔の足跡スタンプを添えた種族自慢などが掲載されており、ネアは、自分にだって素敵な使い魔がいるのだと自慢したくてうずうずしていたのである。
「ですので、白けものさんか、ちびふわの足跡スタンプを仲良しの証としていただきたいのです!勿論、投稿の際には魔術証跡を取られないよう、きちんと模写したものを使います!そして、使い魔さんとの仲良しエピソードが仲良し一位を取ると、使い魔さん用の月光森結晶のブラシがいただけるのです!!」
「……………お前は、今後一か月間パイは禁止だ」
「ぎゃむ?!な、なぜなのだ…………」
「これからの一ヶ月で、それが分かる程度には情緒を育ててこい。その上でもう一度、今回の依頼の仕方の問題点を考えてみろ」
「情緒ではなく、仲良し度を上げるのですよ?」
瞳を眇めて呆れたようにこちらを見たアルテアにびしりとおでこを叩かれ、ネアは、悔しさと悲しみのあまりにその場で地団駄を踏んだ。
「……………ぐぬぬ。この際は、ウィリアムさんを竜さんにして………」
「馬鹿かお前は!ウィリアムにあの言葉を言ってみろ。簡単に箍が外れるぞ!」
「なぜ、箍問題まで登場したのだ…………。私は、本に載せて貰えるような、見栄えのいい足跡スタンプが欲しいだけなのです…………」
ネアはそんな自分の願いをとても可愛いらしいものだと自負していたが、なぜかアルテアは、今回は一歩も譲ってくれなかった。
(となるとやはり、前回の寝かしつけが不発だった事を、心の中で許せてないのだわ…………)
そう考えた人間は、苦心して苦心して、何とかアルテアを床にひっくり返すと、その上に跨り、どうにかして寝かしつけようとした。
使い魔はとても荒ぶっていたので、ここはもう背に腹は変えられないと子守唄を歌ってやったところ、ぴたりと黙る。
「……………え、僕の妹は、使い魔を狩ったのかな?」
ネアが、ここからは目に物を見せてくれるとほくそ笑んでいた時、かちゃりと音がして誰かが部屋に入ってきた。
部屋に入ってきたノアは、床に仰向けになったアルテアを押さえつけている義妹の姿に茫然としているようだ。
しかしネアからしてみれば、協力者の登場である。
「ノア!いいところに来てくれました!大事にして貰えなくて拗ねている使い魔さんを、完璧に寝かしつけたいのです。子守唄を歌ったら動きが鈍くなりましたので、このままアルテアさんの意識を完全に奪うにはどうしたら良いでしょう?」
「わーお。部屋にいないから慌てて探しに来て良かったぞ…………。因みに聞くけど、息の根を止めたいんじゃなくて、寝かしつけるだけでいいのかい?」
「はい!そして、その隙に白けものさんかちびふわにして、足跡スタンプを捥ぎ取ります!」
「…………っ、やめろ。そもそもお前は、歌を捧げる魔術的な意味合いを分かっているのか?!」
「……………寝かしつけ?」
「何でだよ」
「あ、その反応だと、求婚になりかねない方の歌かぁ。ネア、お兄ちゃんが魔術の繋ぎを切ってあげるから、少しだけじっとしていてくれるかい?」
「……………足跡スタンプ」
「うん。それは後で用意してあげるよ。シルが帰ってきてからの方が、アルテアを押さえておけるかな」
「ふざけるな!ノアベルト、さっさとこいつを部屋に戻してこい」
その後、ノアが部屋を封鎖してくれたので、ネアは使い魔を一度解放する事にした。
その間、ノアも寝かしつけて欲しいと言い出し先程のやり方を所望されたのたが、そうするとなぜか、アルテアが邪魔をするのだ。
そのやり取りはディノが帰ってくる迄続き、ネアは、帰ってきたディノがグレアムからのお土産のゼリーを渡してくれている間に、まんまと使い魔に逃げられてしまう。
「ぐぬぬ!!締め切りが!!」
「ネア、落ち着いて。足跡スタンプ、……が欲しかったのだね?」
「ふぁい。………しかし使い魔さんは、まだ仲良し投稿をする段階ではないと、そう思っているのかもしれません……………ぎゅ」
「可哀想に。ゼリーを食べるかい?」
「ゼリー様!」
ネアはその後、投稿が叶わないままに発売された使い魔と一緒の四巻を私物として購入し、読者投稿のページに付箋を貼ってアルテアに届けておいた。
いつか興味を引かれて読んでくれた時に、自分も負けてなるものかと協力してくれるかもしれない。
その時にはきっと、誰もが羨むご主人様と使い魔になるのだ。




