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薔薇色の缶とカナリア色のドレス





涼やかな空気だが、からりと晴れた日の午後であった。


その日はウィームにある有名な菓子店の一つで、一年に数回しか売り出されないクッキー缶の発売の日とあって、ウィーム中央市場の近くは領外からのお客でも混み合っていた。


その店で売り出されるクッキーは、夜の雫や草原の花蜜などの魔術の祝福が混ぜ込まれたシュガークリームで飾られた保存用の固めのクッキーで、バターたっぷりのさくさくのクッキーとは違うがりりと齧るその食感には、昔から特定の支持者が多いのだと言う。



「となると私は、邪なお客なのでしょう」

「そうなのかな。僕は、どんなクッキーも美味しいよ」

「むむぅ。どちらかと言えば、ざくざくさくさくのクッキーが好きなのですが、あのデコレーションの可愛い保存用クッキーも、やはり買っておきたいのです。一度に沢山食べるものではありませんが、時折缶を開けて齧ると、何だか幸せな気持ちになりますものね」

「ネアは、一日に二枚以上食べたら駄目だよ。ジッタのパンみたいな事になっちゃうから」

「…………ふぐ。気を付けまふ」



ゼノーシュに食べ方の注意を受け、ネアは、もう二度とあの苦しみを味わいたくはないときりりと頷いた。


二人は今、市場の外周にある休憩スペースに置かれたベンチに座っている。

ベンチの右手には可愛らしい花壇があって、市場で貰ったらしい林檎を囲んだもふもふ妖精達が、少しの不平等も許すまいと真剣な面持ちで林檎を分け合っていた。



(確かに、今日は領外の人をよく見かけるかな………)



この市場に面した路地にある菓子店のクッキーは、保存用クッキーとして日持ちするだけではなく、魔術的な役割もある。


例えば、いつもより鮮やかな夕暮れにふと不安を感じた日には、夜の雫の祝福をしっかりと載せたクッキーを食べればいい。

すると、黄昏よりも高位の祝福を取り込む事になり、僅かな黄昏への護符代わりになる。


黄昏の系譜の高位の者に狙われた場合に役立つ程に強い守護は得られないが、心の不安を宥め、僅かな守護を与えるくらいの役割は果たすお守りのクッキーでもある。


そんなクッキーは薔薇色の缶に入れられており、ネア達はここで、クッキー購入の行列に並んでくれた魔物達の帰りを待っているところなのだ。


なお、見聞の魔物の手にはもうお目当てのクッキー缶が入った紙袋があり、今は、ディノとアルテアが戻るまで一緒にいてくれている。

偶然ここで出会ったゼノーシュに、領外の者達が多く並ぶ行列を警戒したアルテアがネアを預けたのだ。



「ここから見ると、後十人くらい。人間だけじゃなくて、ヴェルリアやガーウィンから色々な生き物が買いに来ているから、やっぱりネアは近付かない方がいいかも」

「はい。ゼノがいてくれたお陰で、安全な場所でディノ達を待つ事が出来ました」

「うん。ネアの苦手な精霊もいるよ」

「……………なぬ。どなたが来ているのでしょう?」

「前にウィームに来ていた、眼鏡じゃない方の死の精霊」

「うむ。絶対にそちらには近付かないようにしますね。おのれ、なぜあやつが、クッキーを買いに来たのだ………」

「硬いクッキーが好きなのかなぁ。あの精霊は変わってるよね」

「ゼノは、随分と早くから並んだのですね」

「うん。でもまた、ハツ爺さんに敵わなかったんだよ。………僕ね、あの人間は足回りの魔術だけ、階位が別格なんだと思う」

「むむ、そうかもしれません。夏至祭のダンスでも、狸さん達を打ち負かしてしまいますから………」



そんな事を話していると、ほんの少しだけ間を開けて並んだ隣のベンチに、ささっと三人連れの男性達が座りあれこれお喋りを始めた。

どうやら竜達のようだが、そのベンチを狙って正面から歩いて来ていた三人のご婦人が席を取られる形になってしまい、どこか憮然としている。



とは言え、竜達の方が早く座ったのは事実であるし、これはもうどうしようもない。

市場の外側にある休憩スペースなので、混雑を見越して椅子のないテーブルだけの席もあり、彼女達はそちらに向かった。



(……………ウィームのご婦人方なのだろうか)



カナリア色のドレスの女性を中央に、同世代の女性がもうひとりと、二人より少し年嵩の妖精の女性の組み合わせだ。


ネアは、ドレスのデザインがどうも見慣れないものである気がすると考えたが、そちらをちらりと見たゼノーシュがさして気にしていなかったので、丁度お向かいの位置に陣取った彼女達を気にするのはやめておいた。




それなのに、と思うだろう。

ネアは少なくもそう思うし、なぜこんな事になったのかは未だによく分からない。


ただ、一度、そちらのテーブルとネア達の座ったベンチの間を小型の竜がしゅばんと飛び抜けたので、驚いて互いに顔を上げた際に目が合い、会釈はしていたくらいだ。



「…………もう、我慢なりません!あなたは、もう少し自分の周囲への配慮をするべきだわ。自身の歌乞いの契約の魔物に対する扱いとしては兎も角、伴侶に対してあまりにも失礼な振る舞いよ」

「…………その、どちら様でしょう」



ネアが茫然とするのは致し方ない。

なぜか、その後も何回か目が合うなと思っていたところ、カナリア色のドレスのご婦人は、憤然とした面持ちでネアの前に立つと、いきなりそんな事を言い始めたのだ。



目を瞬き、けれども、歌乞いという言葉を出すという事は自分に対する苦言なのだろうかと、ネアは途方に暮れる。


おまけに、伴侶という文言があるという事は、こちらを知っている御仁なのだろうか。



「前々から噂は聞いていたけれど、噂に違わぬ傲慢さではないの」

「お嬢様、いいのですか?この方は……」


慌てて止めようとしているのは、妖精ではない方のご婦人だ。


カナリア色のドレスのご婦人共々、恐らくは既婚者だろうという年齢には見えるものの、その二人の着ている可憐な作りのドレスを見ていると、年齢を読み取り難い女性達でもある。


「構わないわ。見ていて不愉快で、どうにも我慢ならないの。………伴侶を持つ女性として、もう少し女性らしい装いは出来なかったの?あなたのような立場の人間がそのような軽装で街に出ているだなんて、敬意を持ってその力を借りるべき自分の魔物を軽視しているようなものでしょう!あちこちの舞踏会では、財を尽くしたドレスで参加しているというのだから、せめてもう少し、伴侶の為に着飾りなさいな」

「あ、あの………」

「あなたの良くない噂は前から聞いていたし、先程から、この市場で見かけていてよ。歌乞いとして魔物を捕まえたからと、自分に寄り添う相手を思い遣る心もないのなら、魔術の誓約で捕らえた魔物は手放すべきよ」

「………そのご指摘が、私達を実際に見ていて為されたものであるという前提でお答えしますが、私達がどうあろうと、それはあなたには関係のない事です。別々の人間なのですから、あなたと私が違う事はどうしようもありません。どうか、見ず知らずの我々の事情には踏み込まないでいただけますか?」



どうにも、目の前の女性の憤慨の理由が分からない。

ネアは、なぜ絡まれたのかが分からずにとても困惑していたが、そう言わざるを得なかった。


おかしな言い掛かりに反論せずに納得してしまい、言葉の魔術の仕掛けでもあったら厄介だ。

隣に座っていたゼノーシュも、髪色の擬態はしていても今日は色を変えていなかった檸檬色の瞳をすっと細めている。



(……………魔物の権利などに敏感な団体の人なのだろうか。私が、自分では並ばずにディノにクッキーを買いに行かせたのを見ていたのかもしれない………)



ディノは、擬態していてもとても美しい魔物だ。

あまり周囲の注意を集めないように魔術で認識の阻害をかけているが、ごく稀にそのようなものを擦り抜ける者もいると聞いている。


美しく無垢なものが虐められていると考え、ネアを叱ろうとしているのだろうか。



(服装については、今日は込み合ったお店で買い物をするつもりだったから、乗馬服のような装いだからかな。舞踏会では着飾るくせに、普段は手を抜いていると指摘したいのかもしれない)



庶民としてはやはり放っておいて欲しいが、貴族の女性からしたら無作法や怠惰と取られてしまうのかもしれない。

ディノのような美しい魔物の伴侶として、女性らしい努力が足りないと言いたいのだろう。



「ネア、僕が追い払うよ?」

「むむむ、ゼノ、もうちょっと頑張ってみますから、少しだけ待っていてくれますか?」

「……………うん。でも、あまりいい気分じゃないな」



不機嫌そうに眉を寄せた姿も抜群に愛くるしいゼノーシュの頭をふわりと撫でて、ネアは、なぜこんな面倒な人に絡まれたのだろうとうんざりしながら視線を戻す。


時折おかしな人はいるものだが、ここであまり言葉が過ぎると、ネア自身以前に、隣に座った仲良しの見聞の魔物が排除に乗り出してしまいかねない。


しかしなぜか、目の前の女性は、ネアがゼノーシュにそう頼んだ途端に不機嫌さを目に見えて上げた。



「…………見ていられないくらいに、全てが失格だわ。あなたは、自分の伴侶をどれだけ不愉快にさせているのか、まさか気付いていないの?無垢なものを契約で無理矢理繋いで苦しめているだけならば、そんな指輪は捨ててしまいなさい。無理やり仕えさせている使い魔も解放するべきね」



その言葉にネアは、目の前のカナリア色のドレスの女性には、ディノの指輪が見えているのだと腑に落ちた。


人目を引かないようにと隠される事もあるその指輪だが、今はゼノーシュが一緒だからか、ディノは見えるようにして行ったらしい。



「この指輪は、私のとても大切なもので…」

「僕がどこかに捨ててくるね」

「ぎゃ!ゼノ、お、落ち着いて下さい!!お、お顔が………!!私が穏便にどこかに追い払いますので…」

「指輪を捨てろって言ったんだよ。それは、絶対に許しちゃいけないんだ」



ゆらりと立ち上がったゼノーシュに、ネアは、慌ててそちらの鎮静に全力を傾ける。


正直なところ、この人の話を聞かない系のお客はどうでもいいが、ここでゼノーシュに問題を起こさせてしまっては、グラストにお詫びのしようがない。


これがネア自身の管轄にある魔物達ならまだしも、ゼノーシュは、グラストにとって大切な魔物である以上に、今はもう我が子のような存在になっている契約の魔物だ。


こちらの事情で付き添って貰っておきながら、厄介事に巻き込ませる訳にはいかないではないか。



ゼノーシュが髪色の擬態をしているからか、レモン色のドレスのご婦人は、立ち上がった魔物にさして脅威を覚えてはいないようだ。

それどころか、まるでゼノーシュがネアに何かを強要されたかのように、哀れむような目をしている。



ネアが、早く連れて帰り給えと同行者に必死に目配せしても、そちらも危機感というものがないのか、困ったわねぇと言うように笑うくらいである。

どうしてこんなとばっちりに巻き込まれたのかと胃が痛くなった人間は、もう、戸外の箒を使ってもいいのではないかなとぎりぎりと眉を寄せた。



(でも、明らかにウィーム領の住人じゃない装いだわ。恐らくは他領の人間で、ちょっぴり高位そうな妖精の侍女を連れていて、尚且つ子供姿とは言えゼノーシュの容姿を見ても怯えないくらいの家柄となると、簡単に森に埋めてきたりしてはいけないお客様かもしれないし…………)



どこかに通りすがりの書架妖精はいないだろうかと、必死に策を巡らせていたその時の事だ。



ふっと、日差しが翳るように視界の明度が下がった。



(……………しまった!)



ぎくりとしたネアは、背後から、こんな時ばかりは温度を感じない魔物の羽織りものを受け入れる。

ふぁさりと揺れたのは、今日は青灰色に擬態した三つ編みだ。



「…………ネア、これは何だい?」

「そ、その、ちょっとした通りすがりの面倒な人でして………」

「………君を困らせていたのかな………」



よりにもよってのタイミングで戻って来てしまったディノは、体を捻って振り返ったネアのおでこを、指先で憂鬱そうに撫でる。


あんまりな貰い事故具合にすっかり眉を寄せてしまっており、困っていませんでしたと言い逃れ出来無い事になっていた自分の表情を、ネアはこの時ばかりは心から悔いた。



「その人間はね、ネアに指輪を捨てろって言ったんだ。使い魔もだよ。だから僕が、捨てに行くところだったの」

「……………ふうん」

「ぶ、文脈が!!…………こちらの女性は、私がディノをクッキーの列に並ばせた事で、伴侶としてあまりにも我が儘だと感じられていたようです。ですので、その、…………まったく余計な事だとは思いますがお叱りを受けていただけで………」

「そして、指輪を捨てろと言ったのだね」

「…………ぐぬぬ。穏便に済ませたいのに、否定のしようがありません」



ゼノーシュは見過ごせても、さすがにディノの容貌はいけなかったのだろう。

先程まで、こちらにありありと嫌悪感を向けていたカナリア色のドレスのご婦人は、今や紙のような顔色になっている。


彼女を守るように駆け寄った妖精の眼差しには、驚愕と怯えが色濃く映り、もう一人のご婦人は動けなくなってしまったのか、一人後方でへたり込んでいた。



けれども、不思議だった。

ざわざわとした市場の心地よい喧騒は揺らがず、ネアは、ディノが、隔離結界のようなものでこの場で起きている事を周囲から覆い隠してしまっているのだと気付く。



(これは、まずい……………)



となると、こちらの状況を察した市場の誰かが、助けの手を差し伸べてくれたり、ダリルダレンに使いをやって、ダリルを呼んできてくれたりする事を期待するのは難しい。


おまけに、魔物達が、このご婦人方を人知れず簡単に排除してしまえる環境とも言える。



「ネア、もう少しだけゼノーシュと一緒にいてくれるかい?私は、これを片付けてこよう」

「い、いけません!」

「……………ごめんね、ネア。君の願いはどれも叶えてあげたいけれど、これは出来ないかな」



そう微笑んだディノが、ぞっとするほどに美しくて、ネアはあまりにも排他的で魔物らしい眼差しに、慌ててその手を掴む。



「ディノ!どれだけ失礼な物言いであれ、悪意と価値観の相違は別物です。このご婦人は、こちらの事情も知らずに大きなお世話だというような事ばかりを言いましたが、けれども不思議と、…………その言葉に悪意はありませんでした。あくまでも、考え方の違う迷惑な方でしかありません」



ネアが慌てて、けれどもきっぱりとそう言えば、ふっと、すぐ近くに立っていた誰かが、肌に氷塊が触れるような冷ややかな目をこちらに向ける。


まさかと思いそちらを見れば、クッキーの缶の入っているに違いない紙袋を二つ持ったアルテアが立っており、どこか失望にも似た眼差しでこちらを一瞥する。



「……………むぅ」

「そいつが、他領の貴族である事を見越して緩和しようとしているのなら、確かにヴェルリア貴族ではあるな。だが、それは理由にはならないぞ」


(……………ああ、もう!面倒過ぎる!!)



魔物達からしてみれば、今のネアの言葉こそが、手をかけて授けた守護や愛情を軽視するように聞こえるのだろう。


だが、人間にも人間の事情があり、だからと言って大人しく引き下がれない事もある。

ぐぬぬと顔を顰めたネアは、もう一度伴侶の魔物に視線を戻した。



(分かってはいるのだ…………)



目の前の女性の言葉は、この魔物を不安にさせる、不愉快で怖い言葉だったのだろう。

怒るのは当然だし、どこかにやってしまいたいに違いない。

そしてネアとて、それが悪意や意地悪で為されたものであれば、躊躇わずにそうする。



「その人間が、人間の組織の中で軽視出来ない地位の者であれば、君はその指摘を受け入れるのかいとは問わないよ。けれども、私にも、その言葉を口にした者を見逃す訳にはいかない理由がある」



その声はとても静かで、あまりにも静か過ぎて一片の温もりもない。

ぞっとしたネアは、目の前で目を見開いて震えているばかりの迷惑なご婦人に、一刻も早く謝るのだと、箱いっぱいの豆の精を投げつけたくなった。



これが人間同士であれば、ネアは、過激な発言をする伴侶を宥め賺して、この場を立ち去っただろう。

けれどもディノは魔物で、人間とはそもそもの価値観が違う部分も沢山ある。


高位の者を怒らせた場合は、それが例え、どれだけ理不尽な理由であったとしても、その誤ちを犯した人間が鎮める努力をしなければならない。

今回のように、自らが礼儀を欠いてしでかした事であれば、尚更にすぐ対処するべきである。




「だから、ディノの案と、私の案の中間で処理して下さい!」

「…………中間、かい?」


ふっと、光を孕むような静謐なディノの瞳が揺れ、ゆっくりと瞬きをしたその動きに、ネアは、悟られないように胸を撫で下ろした。


「うっかり使い魔さんに気付いて言葉を切ってしまいましたが、私の主張はまだ途中なので、どうか、最後まで聞いて下さいね。私が先程話した事は、人間の側の主張です。けれども勿論、私達は違う生き物なのですから、ディノの側の主張もあるでしょう。…………ですから、今回はその中間の措置を取って下さい。今回、こちらにいらっしゃる女性への対応について、我々の意見は異なります。もし、その方を見逃す事で、私が気付いていないような弊害があるのならまた話は変わってきますが、でなければ、私達は伴侶なのですから、中間地点で落ち着いて然るべきでしょう」



ネアは、頑張って息継ぎを減らした。

痺れを切らした魔物が荒ぶる前にと急いで、けれども、落ち着いて聞こえるように微笑みなども取り入れつつ、そう説得する。


ディノはまだ酷薄で魔物らしい目をしていたが、少なくとも先程迄の、全く温度を感じられないような気配はなくなっただろうか。

このまま、どうにか納得してくれればいいのだが。



「半分だけ残すのかい…………?」

「どこかの王子様みたいになった!!」


どうやら魔物は、このご婦人を完全に滅ぼしてしまうつもりだったようだ。

ネアは、人間は万象の魔物版の半分措置でも生きていられるのだろうかと、頭を抱えたくなる。



「…………あの、」



か細い、消え入りそうな声が割り込んだのはその時だった。



がばっと顔をそちらに向けたネアは、爛々と光らせた目で問題となったご婦人を凝視し、早く謝るのだと圧をかける。

恐らく、怪物のような獰猛な顔をしていたに違いない同族に凝視されたご婦人はびくっと肩を揺らしていたが、けれども、ごくりと息を飲むと、言葉を続けた。




「あなたの伴侶は、……………その少年の姿の魔物ではないのね?」

「……………はい?」

「……………今、後ろにいる方が、あなたにその指輪を贈った方なの?」

「も、勿論です。…………あなたは、私が彼をクッキーの行列に並ばせたので、怒っておられたのではないのですか?」

「…………何てこと。勘違いだったのね」

「どういう事なのか、説明して下さい。私の為にでもありますが、主にご自身の延命の為に!」



幸い、アルテアは傍観の立ち位置であったし、ゼノーシュもディノに判断を任せてくれるようだ。

ネアが、抱き締めるように回された腕を掴んでぎゅっとしたからか、ディノは、カナリア色のドレスのご婦人が発言を終える迄は待ってくれるようだ。

今のところ、その言葉を遮る様子はない。



(……………そしてよく考えたら、この状況下でここまで会話が成り立つという事は、このご婦人はなかなかの人物なのでは…………)



今更ながらにそんな事にも気付きつつ、ネアは、何か思い違いをしていたらしいご婦人が、少しでも心象を回復するような弁明をしてくれる事を願うばかりだ。


なぜ今日は、こんな時に味方になってくれたかもしれない義兄ではなく、使い魔を連れて来てしまったのだろう。



「……………その、………私は、あなたの魔物は隣の少年だと思っていたの。可愛らしい子供の魔物を好む事で有名だから。指輪を見て、彼がかの伴侶なのだわと考えて驚いていたら、…………あなたは、彼を、…………その、愛玩するような事ばかり言うではないの。おやつをあげたり、頭を撫でたり、…………おまけに、その魔物があなたを守ろうとしても、思い留まらせたでしょう?……………伴侶にしてはあんまりだと思ったのよ」

「理由は分かりましたが、それでも若干、大きなお世話だと言わざるを得ません。もし、本当にそうであったとしても、あなたには関係のない事です」

「…………契約相手の素行はやはり気になるものよ。だとしても、…………いえ、今回は私に非があります。誤解であなたを非難してしまったのですから、対価を取られるのだとしても、心を込めて謝罪しましょう」



潔くそう宣言し、臣下のように膝を折って深々と頭を下げたご婦人に、ネアはぎりりと眉を寄せる。



(……………契約相手という言い方をするという事は、この方はウィームと繋がりのある方なのだろうか。…………そう言えば、ゼノとの会話が聞こえて私を歌乞いだと判断したのだとするには、少し妙だわ。何度も、噂を聞いているとも言われたし…………)



「……………あなたは、私をご存知なのですか?」

「もしかして、私が誰だか分からないの?」

「……………どちら様でしょう?」


ネアがそう返せば、なぜか向かい合わせに立った女性達は、呆然としたようにこちらを見る。


「美少年散らしのルゼシャルティよね?」

「……………誰なのだ」

「……………ま、まさか、人違い?!砂色の髪に金色の瞳で、美しい少年の魔物を連れているのに?!」

「……………ディノ」

「……………うん。人違いのようだね。君の今日の擬態がまずかったのかな…………」

「………その名前は、幼い魔物達を契約で捕らえては食い荒らして殺す事で有名な、ガーウィンの教会付きの歌乞いだな」



うんざりしたような声でそう呟き、アルテアがぱちんと指を鳴らす。


その瞬間、ふつりと全ての物音が止まり、動揺のあまりに物凄い顔をしていた目の前の女性達の瞳が、虚ろになる。



「……………どうする、シルハーン?」

「そのまま、ここで起きた事の記憶を引き抜いて、どこかに捨てておいてくれるかい?元々、会話の中で呼んだ名前は記憶に残らないようにはしてあるよ。……………どうやらこの人間は、本当にただの迷惑なだけの人間だったようだ。…………それに、今日のネアの擬態の色を決めたのは私だからね」



なぜ擬態をしたのかと言えば、クッキー目当てでウィームを訪れている他領と接触する機会が多い日だったからだ。

身に纏う色彩をいつもとは違うものにしたのも、もし、厄介なお客に遭遇してもウィーム領民かどうか判別が付かないようにという配慮からであった。


それがまさか、同じような配色で、尚且つ少年姿の魔物を連れているらしい誰かに取り違えられる原因になるとは、ディノにだって分かる筈がない。



「…………やれやれだな。誤りであれ、こちらの領域を踏み荒らしたのは、罪でもある。対価は取らないのか?」

「であれば、もう一つ取ってあるよ。この人間は、本当に欲しかったものは、生涯得られないだろう」

「……………少しも許してないな」

「当然だろう。どのような理由であれ、この人間は、ネアに私の指輪を捨てろと言ったのだから」



そう呟きこちらを見たディノにそっと頭を撫でられ、ネアは目を瞠る。


先程迄の魔物らしい怜悧さはどこへやら、ディノは叱られた犬のように悲しげに水紺色の瞳を揺らしているではないか。



「…………ディノ?」

「ごめんね、ネア。私の決めた擬態のせいで、君に怖い思いをさせてしまった…………」

「まぁ、それでしょんぼりなのですか?…………もしかして、こちらの方達を生かして帰してくれるのは、それでなのです?」

「…………君は、この人間達と妖精を壊してしまっては困るのだろう?」

「ええ。とは言えそれは、ウィームを大事にしたい領民として、安易に他領のご令嬢を行方不明にしたくないだけで、それ以外の感情は全くありません」

「そうなのかい…………?」

「この方は、ヴェルリアの貴族の方であるようです。もし、ウィームにとって有用な方であったり、この方の存在がなくなった事で、必要なのに崩れるものがあれば面倒ですから」

「ヴェルリアの侯爵家の娘だ。第一王子の、婚約者候補だな」

「ぎゃ!!となれば、尚更壊してはなりません!こっそりその対価だけいただいて、ぽいです!!」



慌ててそう主張し、ネアはふと、ディノの少し前の発言を思い出してふるふるする。



「…………となると、ディノの取った対価のせいで、ヴェンツェル様と、この方が上手くいかなかったりするのでは…………」

「ご主人様……………」

「安心しろ。その女が、お前も知っているウィームのパン屋を追いかけ回しているのは、有名な話だからな。そちらが潰れるだけだ」

「……………ほわ、まさかのジッタさんでした。とは言え、お二人が両思いだった場合は、ジッタさんにお気の毒な事に………」

「あのパン屋の主人が、うんざりして、空の牛乳瓶を投げつけて追い払っているのも有名な話だな」

「なぬ。牛乳瓶となると、それなりの鈍器になり得るのでは…………」

「引き取った子供の試験の邪魔になるからと、術式を組んで暗殺しかけた事もあるらしい。バンルが止めたらしいぞ」

「……………我々の成し得た偉業を知れば、きっとジッタさんも喜んでくれる事でしょう」



二人の出会いは、ご婦人がウィーム領への観光に来た際に食べた、魔術疲労を軽減するパンからなのだそうだ。


その後、ジッタに恋をした侯爵令嬢は、あまりにもジッタを追いかけ回すのでと頭を痛めた父親から、他国での修学に出されており、どうやらそちらから戻ってきたばかりであるらしい。


追いかけ回すとは言え、絶妙に人の道を外れたような迷惑のかけ方はせず、お店に買い物に来てしずしずと手紙を置いて行ったり、向かいの家の影からじっとお店で働くジッタを見ていたりする程度なので、強制排除も出来ないと、長年ジッタを悩ませていたようだ。



おまけに、それ以外の面に於いては、優秀なご婦人なのだそうだ。


第一王子の婚約者候補筆頭とも言われる程の才女で魔術階位も高く、尚且つ身分的にも相応しい侯爵令嬢である。


然し乍ら、ジッタへの思いに邁進してしまい、すっかりヴェルリア貴族の女性の結婚適齢期からは外れてしまっているらしく、彼女の両親はとても困っているのだそうだ。



(色々と注目される方だからこそ、アルテアさんは、この方を知っていたのだわ………)



そんな侯爵令嬢が秘密裏に会おうとしていたガーウィンの歌乞いは、妖精の媚薬の扱いに長けた、いささか評判の良くない女性なのだとか。


美少年を無理やり従わせるのが大好きで、幼気な幼い少年姿の魔物達を無理やり捕まえて来ては、契約で縛り虐め殺してしまうらしい。


つまり彼女は、いささか暴走気味なところはありつつも、自身の倫理観からネアを糾弾したのであった。


そんな人物に間違えられたネアは屈辱のあまりに荒ぶったが、そうそう美しい少年を連れた歌乞いなどいないと思えば、その歌乞いと外見的な特徴が同じであった以上、間違えられるのも致し方ない。


「大方、恋愛成就の妖精の媚薬目当てで、取り引きでもしたんだろうよ。あのガーウィンの歌乞いは、ウィームへの渡航許可が下りない筈だ。本物が来られなかった事で取り違えをされたんだな。………とは言え、この一件はダリルに届けておけ」

「はい。ウィームでは、気のないお相手にそのような物を使うのはご法度なので、そうしておきますね」



ふうっと一息吐き、ネアは、隣でもふすんと息を吐いたゼノーシュと視線を合わせる。



「ごめんなさい、ゼノ。嫌な思いをさせてしまいましたね」

「ネアは僕の友達だから、ネアを虐めたら怒るよ」

「ふふ、そう言われると、ご迷惑をおかけしましたと言わなければいけないのに、何だか嬉しくなってしまいます」

「僕もグラストをどこかにやられたら嫌だから、指輪を捨てろだなんて言われたら許さないんだ。ネア、絶対に捨てちゃ駄目だよ?」

「むむ、勿論です!この指輪は私の宝物なので、奪おうとする方は、すぐさま踏み滅ぼしてからアルビクロムの業務用水路に捨てるしかありません」



アルテアが魔術で意識制限をしていた女性達は、ネア達がこの場を去る頃に我に返るのだそうだ。

並んで購入して貰ったクッキーを受け取ると、ネアは少しだけ落ち込んでいるディノにそっと三つ編みを手渡された。



少し前を歩くアルテアは、特にいつもと変わらない言動であったが、ネアはリーエンベルクに帰ると、使い魔と一緒の三巻を開き、不安を感じさせてしまった場合の頁をしっかりと読み込んでおいた。


美味しい餌を与えて、寝かしつけながらたっぷり撫でて甘やかしておくと書かれていたので、ネアはまず、買ってきたばかりのクッキーの中から、安らぎの木漏れ日の祝福のあるものを手ずから食べさせてやる事にした。



寝かしつけながら食べさせようとすると使い魔はとても荒ぶっていたので、まだ拗ねているのだろう。

帰ってからはすっかり椅子になりっ放しのディノもそうだが、落ち着けてやるまで暫く時間がかかりそうだ。




余談だが、ネアが取り違えられた歌乞いの女性は、あまりにも契約の魔物の消耗と、幼い少年達への偏愛が過ぎるという事で、その後、ガーウィンで裁判にかけられたらしい。


どんな裁判だったのかをにやにや笑うダリルから教えられ、ネアは、世の中には知らなくていい事が沢山あるのだと遠い目をするしかなかった。




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