145. その竜は予想外です(本編)
ちらちらと木漏れ日の揺れる森の中は、ふくよかな緑と足元の花々に何とも可憐な雰囲気だ。
ところどころに赤い屋根の家があるからか、いっそうにファンシーな感じに整っている。
途中で、銀狐が夢中で茂みをふんふんと嗅いでいる傍ら、アルテアが屈みこみ、地面に残った迷宮の魔術に触れている事も何度かあった。
「水と同時に城塞魔術と信仰を撚り合わせたのか。この迷宮の質はかなりのものだな……………」
「アルテアさんは、ここには来た事がないのですか?」
「一時期、面倒な奴が住み着いていたからな。近付かないようにしていた」
「面倒な奴……………」
「エドワードだ」
「額縁の魔物さんでした……………」
ネアは、あの魔物がこんな可愛らしい土地にと意外な思いであったが、迷宮が開いていた頃にはまた違う雰囲気であったのかもしれない。
「となると、武器を回収したのは、エドワードさんなのです?」
「いや、剣の系譜だと聞いているので、恐らくはオフェトリウスなのではないかな。ヴェルリアに属していた彼ならば、武器がここにあった事への懸念も育て易いだろうし、時期を図っての回収もし易かっただろう」
「ふむ。オフェトリウスさんなら、そのような物を任せておいても安心そうですね…………」
ネアはその言葉を、ウィームの安泰という意味で発したつもりだったが、なぜか振り返ったアルテアが顔を顰めるではないか。
おやっと目を瞠ると、こちらをじっと見た選択の魔物は、逆光になっても鮮やかな赤紫色の瞳をすっと細めた。
「ほお、随分と懐いたものだな」
「…………なぜ頬っぺたを摘ままれたのだ、許すまじ」
「アルテア、この子はオフェトリウスを使い魔にはしないのではないかな……………」
「節操も情緒もないこいつがか?」
「ぐるる!」
はらりと、どこからか花びらが落ちてくる。
見上げれば、高い位置にある木々の天蓋には、蔓を絡ませた藤に似た水色の花が咲いていて、花影を透かして落ちる木漏れ日はえも言われぬような淡い色で森の中を染め上げていた。
赤い屋根の家々の玄関には、必ずヤマボウシの花が咲いているようだ。
ヤマボウシはこの土地では通年咲く花であり、ミノスの守護を司る精霊がいるのだと言う。
清廉な緑の瞳を持つ美しい乙女だと聞いてネアは目を輝かせたが、守護の強さの割に臆病な精霊であるらしく、滅多に姿を現す事はないのだそうだ。
(……………む!)
その時、ご機嫌で尻尾を振り回して歩いていた銀狐が尻尾をぴしりと立てた。
視線の先にある茂みの横から、何やらけばけばしたおかしなものがこちらを見ている。
ネアは、あれは何だろうかと凝視してしまい、それがずしゃりと動いた瞬間に目を丸くした。
「……………ぴ!」
こちらを見た生き物と、目が合ってしまっただろうか。
ぞわわと指先まで震えが走り、恐怖のあまりに垂直に飛び上がった人間に、なぜか使い魔は顔を顰めてみせる。
「祠守りだな。いいか、絶対に近付くなよ?」
「……………ぎゅむ」
「ネア?」
「あ、あの竜さんは、苦手でふ……………」
ネアは、察しの悪い使い魔ではなく、目が合った瞬間に心配そうに水紺の瞳を揺らしたディノに、ぴったりと体を寄せた。
そう申告すれば魔物達は驚いたような顔をするが、茂みの横にのっそり立ち上がったものは、ずももと聳え立つけばけばの灰色の毛皮の巨大な怪物のようなものではないか。
捻じれた二本の角に幼児の落書きのような歪な面立ちは、悪夢の中の怪物の様相がある。
毛皮の会の誇り高き会員であるネアとて、毛皮があればどんな生き物でもいい訳ではないのだ。
いや寧ろ、毛皮の会の会員だからこそ、毛皮の質には拘りたい。
(そして、そもそもその毛皮が、半年程沼に漬け込んだ敷物のような毛皮なのだ………!!)
あんまりな竜の姿に、儚くも可憐な少女が怯えるのは当然のことと言えよう。
ささっと背中の後ろに隠れてしまうと、頼られたディノは少し嬉しかったようだ。
目元を染めて、可愛いと小さく呟いている。
「……………一つ懸案事項が減ったか」
「ぎゅむ!あの竜さんは、なでなでしません!」
「可愛い。くっついてくる……………」
幸いにも、そんな祠守りの竜は、こちらを覗き込むように体を屈めようとしたところで二人の魔物の姿に気付くとゆっくりと後退りしてゆき、ずしずしと森の奥の方に歩いて行ってしまった。
顔立ちのせいで表情が読めないが、怯えたように背中を丸めたので、高位の魔物は回避するようだ。
こちらは森の小道を左折するところなので、行き先が同じ方向でないことにも安堵し、ネアははふぅと息を吐く。
だが、あんな竜達が一族で蜂起して荒ぶったと考えるとぞわりとなってしまい、慌ててディノの三つ編みを握り締めた。
「…………シルハーン、そのリードはこっちで引き受ける」
「うん。任せてもいいかい?」
「むぐ。私がディノの三つ編みを持ってしまったので、狐さんのリードと絡まりそうだったのですね……………」
「おいで、ネア。祠守りが来ても、君には近付けないようにしよう」
「……………ふぁい」
少し離れた位置ではあったが、祠守りは家くらいの大きさはあるようだ。
勝手に、道端に祀られている祠くらいのサイズの小さな竜だと思っていたネアは、そのような意味でも対応不可であると眉を寄せる。
近付かれたら、視界いっぱいにあの造形が広がってしまうので、即死案件ではないか。
(もう二度と、祠守りなどとは目を合わせてはなるものか………)
ホラー寄りの生き物に遭遇してしまったせいか、ネアはとても慎重に歩いた。
銀狐は、祠守りの竜は怖くなかったようで、先程と変わらぬご機嫌さで尻尾を振り回しながらムギムギと歩いている。
(そう言えば……………、)
ネアはここで、よせばいいのに想像してしまった。
祠守りの竜達が抗っているのは、ボラボラにかぶれないようにする為の予防接種である。
つまり、まだ注射をされていないあの竜は、ボラボラが現れ始めると、蕁麻疹で荒れ狂う可能性があるのだ。
ボラボラとあの巨体が一つの画面の中で荒れ狂う姿を想像すると、もはや絵的な災厄以外の何物でもない。
そんな悲劇だけは、絶対に見たくはなかった。
木陰には、時折、崩れた石壁や円柱の跡のような物がある。
それが、遺跡のようなものなのか、迷宮の名残なのかは分からないが、洗ったドアマットを無造作にかけられていたり、植木鉢置き場になっていたりと、この村の人々の生活に上手く利用されているようだ。
祠守りの竜を見てすっかり悲しくなってしまったネアは、そんな森の道をむぎむぎと歩く銀狐の後ろ姿を見て心を慰めるしかない。
じんわりと心が満たされたので、もふふかのお尻と弾む尻尾には、存在するだけで大いなる癒しの効果があるのだろう。
「そろそろ、……………ぎゃ!」
「ネア、持ち上げようか」
「……………ふぁい。ふぎゅう」
「………おい。祠守りの竜が、何で木の上にいるんだよ」
「飛ばない竜の筈だったけれど、木登りはするのかな…………」
ネアは、自分で思い描いてしまった、ボラボラと祠守りの竜の組み合わせという恐ろしい想像を振り払う為に、気持ちのいい木漏れ日を見上げて元気を出そうとしただけだった。
それなのに、今度は大きな木の枝にみっしりぶら下がっている祠守りの竜を見てしまい、心に大きな傷を負ってディノにしっかりと持ち上げて貰うしかなくなる。
その方が安心感はあるものの、若干、逆さまにぶら下がった竜達に距離が近くなると言う自損事故にも見舞われ、悲しく震えながらディノにしがみつくのが精一杯だ。
祠守りの竜達は逆さまにぶら下がっているので、これには銀狐もけばけばになってしまい、前足でアルテアの靴の上に乗り上げて守り給えのポーズを取り、叱られていた。
「あ、あの竜さん達は、何をしているのでしょう………」
「なんとも言えないが、様子からして日光浴だな。あの位置の方が陽光が当たるんだろう」
「も、森の中から出て、草原にゆくべきです!」
「ネア、彼等は迷宮の跡地からは出られないのかもしれないよ?」
「ぐぬぬ………」
ネアはあまりの恐ろしさに若干記憶が途切れがちだったが、そんな難所を越えて更に何軒かの赤い屋根の建物を通り過ぎてゆくと、周囲の木の様相が変わってきた。
立派な枝ぶりでところどころが結晶化している木々は、淡い水色の藤のような清廉な花を沢山咲かせていて、ふっと輪郭が滲むような不可思議な透明感のようなものがある。
ネアが、これは疲れ目で周囲が霞んで見えているのだろうかと手の甲で目をごしごし擦っていると、その手をそっと押さえたディノが、あわいの木が混ざっているのだと教えてくれた。
「あわいの木、なのですね。………という事は、この辺りは迷宮の影響が出ているのですか?」
「うん。なので、このまま離れないように」
「はい。狐さんは大丈夫でしょうか?」
「アルテアが持ち上げたようだよ」
「……………なぬ」
塩の魔物である筈の銀狐を抱っこした選択の魔物の姿を見てしまい、ネアは、たいへんお労しいという思いでいっぱいになった。
ひょいと片手で持ち上げられた銀狐も、緊張のあまり、尻尾の先までぴーんと伸びてしまっている。
「アルテアさんの背中を、優しくぽんと叩いてあげたくなりました」
「アルテアを………」
「何でだよ」
「いつまでも、健やかな使い魔さんでいて欲しいです………」
うおん、と不思議な風が鳴った。
(……………あ、)
歩く速度に合わせて、耳元に届いたのは遠い喧噪のようなもの。
囁きのようにも、宴の音にも聞こえるその賑わいは、音を有した部分が漂う霧のように流れてきては触れ、途切れ途切れに聞こえてくる。
不可思議で儚げで、人間の領域の向こう側のものだと感じられる、遠い歌声のようなもの。
これはもうあわいの物音に違いないとひやりとしたネアは、ディノの肩にしっかりと掴まる。
しかし、魔物達は思ってもいない事を言うではないか。
「…………接種が間に合わなかった竜がいるな」
「そのようだね。どこで歌っているのかな………」
「………むむ?これは、あわいの何か悪いやつではないのですか?」
「これは竜の歌だよ。この場合は、酩酊歌と呼ばれるのかな。シヴァルが捕まえられなかった竜の中に、吟遊詩人の病を発症してしまったものがいたのだろう」
「予防接種を受けられなかった影響ならば、ボラボラにかぶれてしまうのではなく………?」
すっかり混乱して首を傾げたネアに、こちらを見たアルテアが訝しむように眉を寄せた。
とても魔物らしい眼差しだが、その腕にはぴーんとなったままの銀狐が抱えられていて、塩の魔物の心を取り戻したのかもしれない銀狐は、とても助けて欲しそうにこちらを見ている。
「あれは、年に一度だろう。今回の予防接種は、吟遊詩人の災いを避ける為のものだぞ?」
「……………むむ、違うものなのです?」
「ネア、この時期に竜達が受けているのは、酩酊して歌い続けてしまう病を避ける為の予防接種なんだよ。エーダリアが話していなかったかい?」
「………ふぁ。はつみみです。……………となるとこれは、先程のホラーな沼もじゃが歌っているのですね………」
「ぬまもじゃ………」
今度はディノが困惑して目を瞬いてしまい、ネアは、他に何と表現すればいいのか分からないあの生き物が歌っているところを想像しようとして、ぶるりと震えた。
もはや、あの生き物は想像全般に耐えられないと言っても差し支えはなく、多分今夜は個別包装では寝られないだろう。
とんでもない生き物に出会ってしまったものだ。
「どうせ、ろくに説明を聞いていなかったんだろう。……………ん?」
呆れたように笑ったアルテアが、何かに気付いたように、ゆっくりと視線を下げる。
その視線を追うようにしてアルテアの腕の中を見たネア達は、全身がけばけばになり、涙目で震えている銀狐にはっと息を呑んだ。
「狐さん………?……………は!!」
ぶるぶる震える銀狐に見つめられ、ネアは、たった今自分が発した言葉の迂闊さに気付き、青ざめる。
しかし、やってしまったと慄いた人間は、すぐに、最初にしでかしたのがアルテアだという事に思い至り、犯人ではなかった安堵にふっと体の力を抜く。
「アルテアさんが悪いのですよ………」
「………もう見えてきたな。あの小屋だろう。急ぐぞ」
「気付いてしまったのだね………」
ここからは時間勝負だ。
ネア達は、まだ少し離れてはいるものの、漸く赤い屋根が見えてきたシヴァルが滞在しているという小屋に、大慌てで向かう事にした。
目的地に向けて小走りになったネア達に、そこで何が待っているのかに気付いてしまった銀狐は、とうとうムギャワーと凄まじい雄叫びを上げる。
そして、全身全霊で予防接種への抵抗を示す為の、ムギャムギャ大騒ぎが始まった。
「っ、………、暴れるな!この辺りは、迷宮のあわいがどこに広がっているが分からないんだぞ。落とされたいのか!」
「ふぁ、未だに全力の冬毛のままなので、尻尾がもふもふです………」
「この小屋でいいのかい?」
「はい!急いでノックしますね!!」
シヴァルが滞在しているという小屋は、魔術の隔離結界で器用に隠されている。
運び入れられてゆくこちらの患者はたいへんな騒ぎだが、森の入り口側からの搬入の物音はその結界によって跳ね返されており、小屋の中や森の奥には届かないのだそうだ。
そうする事で、生活音などを消したまま立て篭り竜の監視をしているのだが、それと引き換えに、こちら側からの物音が小屋の中に届かなくもなる。
指定されたノッカーを鳴らさないと、隔離結界の入り口を開けて貰えないのだった。
ネアは、ヤマボウシの葉を模したノッカーをこつこつと鳴らし、予め訪問を知らせておいたからか、すぐに扉を開けてくれたシヴァルの姿を見て胸を撫で下ろした。
ふわりと、魔術師の黒いケープが揺れる。
山羊の角のある髑髏面を、頭の後ろに回しかけたこの青年は、元々は人間の為の医療研究などもしていた、医療協会に属するウィーム期待の若手獣医だ。
茨の魔術と呼ばれるとても希少な魔術を扱って疫病祭りで大活躍するばかりでなく、屍人使いの終焉の系譜の魔術も扱えるらしい、ウィームの中でも高位の魔術師でもある。
端正な面立ちで、水色の瞳にかかる砂色にも淡い銀色にも見える髪色なのだが、それが擬態なのか本当の持ち色なのかは定かではない。
シヴァルの扱う固有魔術は、膨大な量の禁域の魔術を錬成する為に、副作用的に身に持つ色彩が変わる事があるのだそうだ。
そうして、年に何回か身に持つ色を変えるシヴァルの今のこの色が、生まれ持った色かどうかは本人しか知らない。
とは言え、ネアの周囲には、その確認を取れる程にシヴァルと親しい者はいないのだった。
(そう言えば…………)
おや、お隣が静かになったぞと振り返ると、アルテアの腕の中の銀狐は、この狂乱に時折訪れる虚無の時間に入っているようだ。
虚な瞳でどこか遠くを見つめ、ぴしりと固まっていた。
「ああ、来たのか。すぐに済ませてしまおう」
「はい!どうぞ宜しくお願いいたします」
シヴァルは、アルテアと視線を交わすともはや相棒かなという連携で小屋の中の診察台のような場所に向かい、アルテアが、再び荒れ狂い始めた銀狐をそこに素早く下ろした。
注射器の登場にいよいよ荒ぶった銀狐は、抗議のための雄叫びを上げようとしたものの、さっと指の輪っかを作ったシヴァルに口元を押さえられてしまう。
すかさずアルテアが体も押さえ、銀狐のお尻にぷすりと注射器の針が刺さった。
銀狐の毛並みがぶわりと膨らみ、尻尾がぱさりと落ちる。
「これで終わりだ。発症しなくて良かったな。これからもエーダリア様を宜しく頼む」
「ぶ、………無事に終わりました」
「……………終わったのだね」
「まぁ、ディノも一緒に涙目になってしまうのです?」
予防接種が終わり、今年も注射をされてしまった銀狐は、すっかりふかふかの毛並みもしょぼくれてしまい、耳をぺたんと寝かせて涙目で震えている。
今度は、そんな銀狐をディノが抱き上げ、床に解き放たれたネアは、シヴァルから予防接種完了の証明書類にサインを貰った。
ぺらぺらとした薄い灰色の紙は、いつもとは仕様の違う書類だが、今年はこのミノスの村に敷かれた魔術を損なわないように特別に作られたもので済ませるように言われている。
こちらの世界での魔術的な書類には、それぞれに必要な魔術が織り込まれており、その場に応じて使い分けなければならない。
一通りの処置が終わってネアが一息吐くと、換毛期ではないにせよ服についた毛を魔術でしゅわんと払い終えたアルテアが、やれやれと肩を竦めながら、ぞんざいに手招きするではないか。
何だろうと思いそちらに近付くと、しっかりと手を繋がれネアは眉を寄せた。
「なぜ捕獲されたのでしょう」
「発症した祠守りがいるんだ。お前を一人にしておくと、事故るだけだからな」
「ぐぬぬ。たいへん遺憾な疑惑ですが、あの竜さんに出会うよりはいいのです」
「……………祠守りが、発症していたのだろうか?」
ひたりと落ちたのは、静かな静かなシヴァルの声。
もしや、発症した竜がいる事を知らなかったのだろうかとネアが頷けば、シヴァルはふっと瞳を眇める。
その眼差しの鋭さと怜悧さに驚いていると、シヴァルは無言で幾つかの窓の外を調べにゆき、その内の一つの窓を開いたところであっと声を上げた。
「…………何か困った事になったのですか?」
「見張っていた長老が、いつの間にか、囲っておいた魔術柵の中から逃げていたようだ。…………長老は、どの予防接種も逃げ出し続け、一度も予防接種を受けずにここまで来てしまったと聞いていたから、今年こそは受けさせようとしていたのだが………」
「勝手な印象の押し付けですが、長老という立場の方には是非、皆さんのお手本になるような対応をと望んでしまいますね…………」
この予防接種は、毎年受ける物ではないらしい。
ネアはここで初めて、専門家から竜達の予防接種について詳しい事を教えて貰い、実に様々な予防接種がある事を知った。
竜種ごとに種類があり、百年に一度受ける、落雷や流星の魔術の病で角がひび割れないようにする為の予防接種なども含め、これだけ多いと竜達が予防接種を倦厭する理由も分からないではないと考えてしまう数だ。
「だが、毎年のボラボラの予防接種が、一番痛いと怖がられるかな。ミノスでは、薬香を焚いて竜達を失神させてから行うんだ。そうしないと、恐怖のあまり心神喪失状態になって森で迷子になってしまう竜が出るらしい」
「…………どれだけ怖がりなのだ」
「その香は、今は焚けないのか?残っている他の個体も発症すると、迷宮のあわいが活性化して厄介な事になりかねないぞ」
アルテアの指摘に、シヴァルは無念そうに首を横に振った。
会話をしている相手は、擬態をしても高位だと分かる人ならざるものの美貌であるが、とても落ち着いた様子である。
「この予防接種で使う薬剤との相性が悪いのです。副作用が出ると、発症と同じような酩酊歌の症状が出るだけで済まず、泣き出したり踊り出したりする症状も加わると報告されているので」
「最も質の悪い酔っ払い感です………」
「歌って踊るのだね……………」
「おまけに泣くのか……………」
シヴァルが使っている小屋の中は、小綺麗に整えられていた。
元は森番が交代で泊まる小屋だからか、手斧や草刈り鎌が部屋の壁に立てかけてあり、石を組み上げた竃もある。
この小屋から先の森は、まだ迷宮の魔術が濃く残り、人間が住むのには適さないそうだ。
その代わり、その森の奥には祠守りの竜達の寝床や集落がある。
「だからここで、立て篭り犯を監視していたのですね」
「ああ。姿を見かけたら、捕縛して注射を打つんだ。祠守りの王からは、もはや本人の同意なしで予防接種をしても良いと言われている」
「王様もいるようです………」
「彼は、きちんと集団予防接種の日に会場に足を運んで、注射を受けたんだ。その上で、今回の予防接種は殆ど痛みもないと仲間達に説明したらしいのだが……」
それでも、蜂起が起きてしまった。
ミノスの村の人々だけでなく、祠守りの竜の王も頭を抱えたのは、蜂起された事で争いが起こったりするからではなく、荒ぶった竜達が迷宮の魔術に紐付くからだ。
「ここに来る迄に、あわいの木が沢山見えただろう。立て籠もっている竜がいる事で、ここ数日間でとても増えてしまったらしい」
「それは、竜さんが荒ぶっておられるからなのですか?」
「ああ。もう発症者が出たとなると、残っている竜達は、無理やりにでも捕まえて予防接種を終えてしまった方が良さそうだ」
そう呟いたシヴァルは、それはまさか狩り的な手法になるのかなと慄いたネアと目が合うと、淡く微笑んだ。
そうするのを避けていたのは、無理やり捕縛して予防接種をすると、いっそうに恐怖心が植え付けられてしまい、ますます逃げるようになるからだと言う。
とは言えもう、この先の事迄を考えている余裕はなくなってしまった。
「無理やり注射をされた竜達が、迷宮のあわいを濃くしない内に、ここから離れた方がいい」
「丸屋根の食堂に寄る予定なのですが、それは問題ないでしょうか?」
「あの食堂の位置なら、元から迷宮の入り口にあった建物だと聞いているので、問題ないのではないかな。念の為に、外との道を繋いで残しておいた方がいいとは思う」
「はい。ではそのようにしますね。………そしてシヴァルさんは、お一人で大丈夫なのですか?」
そう尋ねると、シヴァルは造作もなくあっさりと頷いた。
「この仕事をしていると、こういう事はよくあるんだ。幸いにも、荒ぶる生き物を鎮める魔術を持っているから、僕の事は心配しなくていい」
「それを聞いて安心しました。この度は、お忙しい中、狐さんの予防接種をしていただき有難うございます」
発症者が出たとなると、一人で大丈夫だろうかという心配もあったものの、問題はなさそうなので、ネア達はそのまま帰る事になった。
小屋の扉のところまで見送ってくれたシヴァルに手を振り、元来た道に出ようとすると、確かに先程よりもあわいの木が増えているような気がする。
「やれやれだな。途中迄は転移で戻った方が良さそうか」
「むむ、迷宮のあわいが少し危うい感じであれば、それも吝かではありません。祠守りの竜さんにまた遭遇してしまわないよう、ささっと食堂に向かいましょう!」
振り返ってディノに抱えられた銀狐を見ると、まだけばけばで涙目のままでいる。
ムギャムギャと狐語でディノに何かを訴えており、ディノは、そんな狐姿の友人の背中を、ぎこちない手つきで撫でてやっていた。
「狐さん、この村には美味しい郷土料理のお店があるのだそうです。一緒に昼食を食べて、予防接種完了のお祝いをしましょうか?」
そう話しかけると、けばけば銀狐はこくりと頷く。
すっかり昼食気分になってしまい、ネアが唇の端を持ち上げていると、手を繋いでいたアルテアにひょいと抱えられた。
「むぐ?!」
「これでもかと手を打っても、事故りかねないのがお前だからな」
「解せぬ」
「ネア、アルテアから離れないようにしておいで。まだ、酩酊歌が聞こえるね。こうして、理性なく歌声で魔術を編み上げてしまわないように、予防接種を受ける必要があったのだろうけれど………」
「霧も出てきたか。本格的に迷宮のあわいが立ち上がるとなると、午後からの予約の患者達が、この小屋に辿り着けるかは危ういところだな」
「むむ、それならば、念の為にエーダリア様にも共有しておきましょう」
迷宮の内側に閉じ込められてしまわないよう、まずはここを離れる事を優先し、ネア達は転移を踏んで村の入り口近くにある食堂に向かう事になった。
いつもの転移の薄闇を超え、ふわりと降り立ったのは柔らかな草地だ。
広場のような所だろうかと見回せば、これまでに見た家々に比べると立派な建物が、幾つも並んでいる。
その中の一つはよく見れば村役場のようで、その隣の塔型の造りになっている建物には、森鳩郵便社と書かれていた。
広場のような草地の中央には、綺麗な絵付けタイルで飾られた噴水があり、村の人々の憩いの場になっているようだ。
パン屋と菓子屋などの食べ物を売るお店に、その奥の通り沿いには、小規模だが市のようなものも立っているのが見える。
お目当の丸屋根のお店は、郵便社の奥にあるようだ。
「まぁ。元来た道のどこかではなく、村の広場に直接来てくれたのですね」
「転移の座標を地図の通りにずらしたんだが、ここで良かったようだな」
「では、そろそろ自分の足で歩くので、解放していただいて構いません。…………なぬ。なぜ歩き出したのだ」
「お前を野放しにしておくと、余計な騒ぎを起こしかねないと言わなかったか?このまま店に向かうぞ」
「おかしいです。ディノですら狐さんに歩かせてあげているのに、なぜ私はこの措置なのだ」
ネアは自由を求めてじたばたしたが、アルテアは行きも帰りもかとぼやくくせに、暴れるご主人様を下ろそうとはしなかった。
結局そのまま食堂に到着してしまい、ネアが漸く自分の足で立てたのは、食堂の入り口での事だ。
「ふぁ、いい匂いが…………」
赤い瓦屋根に円筒形の建物が特徴的な食堂の入り口には、本日のお品書きの黒板が置かれている。
ネアは、三行目に書かれた、アカシアの花揚げというものが気になって堪らず、お食事用とデザート用があるらしいぞと目を輝かせた。
いざ、素敵な昼食だと心を躍らせたネアは、ひたひたとその広場に迫る暗い影に、魔物達が素早く視線を交わした事にはまだ、気付いていなかったのだ。




