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17. 薔薇の祝祭が終わります(本編)




やがて、ざあっと滝のように夜空を覆う妖精の花火が打ち上がった。

これは人々の喜びを高める効果のあるもので、こうして祝祭の花火の最初に打ち上げられることが多いらしい。



「……………む。お腹がぐーっとなりました。ディノ、そこの屋台でひと袋買った、ちび薔薇パウンドケーキをどうぞ」

「……………ネアが虐待する」

「お腹が空いていませんでしたか?」


ネアの問いかけにふるふると首を振り、ディノはその屋台の看板を指差した。

そこには、使われている祝福により、恋人や伴侶と分け合って食べるとより仲良しになれると書いてある。

友達同士で食べても、絆が強くなるので良いそうだ。



「ピンクの薔薇から取れる愛情の祝福結晶を使ったパウンドケーキなのですね。紙袋に入った賽子状のおやつなので一口でぱくりと食べられて、こういう場所向きです!」



ネアに一つを口に入れて貰い、ディノはきゃっとなって目元を染めている。

ネアもしっとりしたパウンドケーキを頬張り、口の中がもそもそにならない質感に感動しながらもぐもぐした。


この祝祭らしい付与効果があるだけでなく、甘すぎずぱさぱさし過ぎず、手元に飲み物がなくても食べられるかなり優秀なおやつと言えよう。



「こちらは、薔薇ジャム入りです。六個セットで、内二つは薔薇ジャム入りなんですよ。こちらも食べてみませんか?」

「……………ネアが虐待する」

「はい。食べたい場合は、お口を開けて下さいね」

「可愛い……………」




(む…………………)



ここで、ついつい魔術の道から出て花火を見ていることを忘れていたネアはぎくりとした。


美しい魔物が涙目で震えながら口を開ける姿は、周囲の人達にはいささか刺激が強かったらしい。


近くにいたご婦人達の集団が目を覆ってぜいぜいと肩で息をしており、その中の一人は我が人生に悔いなしと頷いて、もう見るものは見たと帰ろうとしてしまっていた。

飲み物や食べ物を買って帰ってきたご主人達が、不在の間に妻達に何が起きたのだろうとおろおろしている。



なお、そんな光景は勿論ネア達だけではなく、斜め前方では、竜らしい青年と可憐な妖精の少女の初々しい恋人達のやり取りが周囲の人々に見守られていた。


こちらの二人は、恥じらってしまってどうしても手が繋げないようだ。

顔を覆いながら応援しているご老体がいるので、ネアが見ていなかったところでかなり破壊力の高いやり取りがあったらしい。



(……………皆さん好意的だけど、ちょっぴり気を付けよう…………)



気恥ずかしくなったネアは、お祭り気分とは言えここは公の場であったことを思い出し、淑女の振る舞いを意識する。

けれどもそれは、残り一つのパウンドケーキも口に入れてくれるのかなと恥じらいながらもちらちら視線を送ってくる魔物の為に、一時解除しなければならなかった。




やがて、どおんと最初の花火が上がった。




「ほわ、…………」



見上げた夜空を覆い尽くすような淡い金色の花火に、ネアは目を丸くする。

こうして真下から見上げる花火は、全景が見えないとしても大迫力で美しい。


微かに香るセージのような香りが、花火の打ち上げに使われる魔術の火の香りだろうか。

ネアの世界にあった花火とは違い、焦げ臭いような火薬の匂いはしないようだ。



(火薬の匂いがしなくて、ばらばらと花火玉の欠片が降ってこないなら、こうして真下から見上げても楽しいかもしれない…………)



しゅわしゅわぱちぱちと尾を引いて煌めく花火のシャワーに、世界が金色の光に包まれているようで何だか嬉しくなってしまったネアは、周囲を見回した。

花火の最後の余韻のところで伸びた光の筋が空の縁に届くと、ローゼンガルテンを金色の鳥籠で覆っているかのようにも見える。



「綺麗ですね……………」

「ネア、薔薇に目を向けてごらん。今度はこちらが光るんだ」

「なぬ…………」




ディノに教えられて視線を下げたネアは、目を瞠った。


花火の金色の光を浴びた薔薇達は、負けじと祝福の光を強めるようで、あちこちの薔薇の茂みが、花火の光が落ちて薄暗くなった丘の上をきらきらと光り照らす。



しゃわんと、足元が揺らめいた。

立ち上る細やかな光の粒子は、青みがかった緑色に、咲いている薔薇だけの色と、花火と同じ淡い金色だ。


よく見れば、足元に敷き詰められた薔薇の花びらから立ち昇るようで、上から降り注ぐ光と下から立ち昇る光に包まれ、ネアは、祝福の中に立っているような特別な気持ちになった。



「ほ、ほわ……………これは何の光なのですか?」

「この祝祭そのものの祝福を、ローゼンガルテンの土地の持つ祝福が結んで空に引き上げているんだ。花火で空の魔術と繋ぐことで、祝祭の祝福を広範囲に降らせる仕組みだね」

「……………きらきらの中に立っています。こんな風にあちこちが素敵にきらきらすると、上を見ても下を見ても綺麗なものが映るという、特別な楽しみ方が出来ますね…………」



どおんと、花火が上がる。


魔術の道から出てみれば、祝祭の中心地らしく周囲は人に溢れ雑然としているが、それでもここに大勢の中の一人として立ち、安心して幸福を享受出来るということの贅沢さに目眩がするようだ。



大切な伴侶と手を繋ぎ、お財布を見ても躊躇わずに買えた美味しいおやつの甘さが、まだ口の中に残っている。

また花火が上がり、その光の影でこちらを見たディノが、幸せそうに微笑んだ。



「ディノ、今夜は私をローゼンガルテンに連れてきてくれて、有難うございます」

「ネア………………」



目元を染めて嬉しそうに頷いたディノと、ネアは最後まで花火を楽しんだ。




「……………そして、皆さんの切り替えの早さに驚きを禁じえません…………」

「うん。……………場所を押さえるのだね…………」

「けれど、こんな夜に薔薇の下でのピクニックも楽しいかもしれませんね。ディノの初めてにも繋がりますし、いつか、お弁当を用意して私達もやってみましょうか」

「ご主人様!」




花火が終わった途端、ローゼンガルテンに集まった人々は劇的な動きを見せた。



まずは、一刻も早くローゼンガルテンを下りて、街にある飲食店に駆け込み素敵な晩餐をいただくのだという断固たる意志の下、素早く退出路へ向かう者達がいる。


花火が終わった途端にがさっと人影が減ったので、魔術の道や転移門などを使って移動する者も多いのだろう。

事故などが起きないよう、今夜はローゼンガルテンへの転移は関係者以外禁止されているが、帰りの転移は自由なのだ。



また、もう一方では、花火が終わると敷物を敷いてのピクニックが解放される為、より素敵な薔薇のところを我が物にとあちこちで場所取り合戦が行われる。

こんな時もウィームの領民達はとても優雅だが、熟練の暗殺者のように無駄のない動きでお目当の場所をさっと押さえる姿は、いっそ感嘆してしまうくらいの鮮やかさだった。



薔薇の木の下や茂みの横でピクニックを始めるのは、小さな子供のいる家族連れが多いようだ。

質のいい薔薇の魔術に小さな子供が触れると、これから先の人生でより多くの愛情を得られるようになると言われているからだろうか。


なお、今夜のローゼンガルテンの警備を任された街の騎士達も巡回しており、竜は酔っ払っても元の姿に戻らないで下さいという切実な注意を促す声が聞こえてくる。




「私達も出ようか」

「はい。この次はザハですか?」

「うん。君のお気に入りのシュプリを飲もう」

「ふふ、またあのシュプリを飲めると思うと、うきうきしますね」

「可愛い、弾んでる………」



淡い転移を踏みしめると、今夜ばかりは、足元に敷き詰められた薔薇の花びらがふわりと舞い散る。



その光景があまりにも美しくて、ネアは胸がいっぱいになってしまった。

ディノの足元が、ふわりと煌めくように魔術を揺らすのは、この魔物がとても幸せな証拠なのだろう。


その証拠に、花火の後の時間で予約したザハを訪れると、この時間にだけ出勤してくれていたいつものおじさま給仕こと、擬態したグレアムから、今夜は窓から夜の虹が見えると教えて貰った。



お席に案内しますと優雅に一礼したその姿に、ネアはぱっと笑顔になった。



「まぁ、今夜はお店に出られているのですね?」

「ご贔屓にして下さるお客様がいらっしゃるからと、この時間だけ出させて貰いました」

「ふふ、何だか今夜はいいこと尽しです!先程は、ディノと、ローゼンガルテンでこのビーズを貰って来たんですよ」

「おや、良いものを手に入れましたね。知り合いが今年のビーズの製作に関わっておりましたが、ウィームに満ちる祝福そのものが高まっていましたので、今年はかなり質がいいと自慢しておりましたよ」



そう聞けば、いっそうに喜びが募るものだ。

まだ手に持ったままの薔薇のビーズを嬉しそうに見つめるディノの姿に、ネアはまた胸がほこほこしてくる。



「こちらのお席へどうぞ。虹が美しく見えますよ」

「……………こんな夜空でも、くっきり見えるのですね。何て綺麗なんでしょう」



案内された席は、昨年花火を見た時の座席と同じところだった。

各席ごとに柱や鉢植えで絶妙に区切られていて、席についてしまえば周囲のお客のことは気にせずに窓からの風景を楽しめる。


ディノが、さり気なく席の案内にお礼を言っているが、そんな二人の姿も何だか素敵だ。



「ディノ、虹もよく見えますし、先程までいたローゼンガルテンも綺麗に見えますね。この時間だと、薔薇が咲いているであろうところが淡く光って見えるのだと、初めて知りました…………」

「……………不可侵の守護もかけておこう」

「あら、ビーズの保護ですか?」

「君のものも、一緒にかけるよ。状態保存と、不可侵の守護をかけて、私が生きている限りは不変のものとしておこう」

「……………一介のビーズには、重すぎる運命が…………」



ディノが大切なビーズに一生懸命に守護をかけている時に、ちょうどシュプリが運ばれてきた。


ビーズを真剣に保護している万象の魔物の姿に、給仕姿の犠牲の魔物は、眼差しを柔らかくして幸せそうに微笑む。

この魔物がディノのことを我が君と呼ぶその響きは、いつもどれだけ愛情深いことか。

そんな姿を見られたネアも嬉しくなり、いつもよりもシュプリのグラスの中の幸福の祝福結晶が美しく見えた。



(……………と言うより、本当に去年のものとは違うような気がする…………。こんなにきらきらしたかしら?)



おやっと眉を寄せて顔を上げれば、グレアムは秘密ですよと言うように、唇に人差し指を当ててみせる。

おじさま給仕な姿でその仕草を見せれば、何とも粋に見えた。



「こちらは、ザハからのお祝いです。今夜の祝福結晶は、お二人のものは等級が高めになっております」

「おや、………………いいのかい?」

「ええ。ご予約をいただいた時に、支配人がそのようにと。今宵は、愛情を司る薔薇の祝祭ですからね」

「有難うございます。また一つ、今夜の素敵な思い出が増えてしまいました」

「いえ、私もお二人の幸せそうな姿を見られましたので、良い夜になりました」



こうしてディノが幸せそうにしている姿を、この人にも見せたかったのだと、ネアは微かな達成感に胸を熱くする。

同じようにディノを大切にしてくれたギードにも見せてあげたかったけれど、絶望を司る彼は、今夜はもの凄く忙しいと聞く。

あちこちで恋に破れ荒ぶる人々の話を聞いたり、祟りものになった誰かを鎮めたり滅ぼしたりするのだそうだ。



しゅわりと、グラスの中で解けた幸福の結晶が、シュプリの泡を立てた。

薄いグラスの縁に唇をつけて一口飲めば、きりりと冷えたシュプリの美味しさに唇の端が持ち上がる。


「美味しいです!」

「うん。良いシュプリだね。今代のシュプリの魔物は働くことがとても好きなようだから、シュプリの質がとても安定しているようだ」

「ゼノから、休みの日も休みなく働くのが至上の喜びな魔物さんだと聞きました。そしてちょっぴり、ロサさんに恋をしているのだそうです」

「ネビアに恋をしているんだね…………」



白薔薇とシュプリの組み合わせはネアからすればとても素敵に思えたが、シュプリの魔物のように忙しい魔物だと、お相手は自身の領域のものが好ましいのだそうだ。

仕事が忙しくて恋もままならないという悲しい状況は、どうやら魔物にもあるらしい。



窓の外の夜空には虹がかかり、どこからか、はらはらと薔薇の花びらが降る。

微かに聞こえてくるピアノ曲は優雅だが心がほどけるような旋律で、ふんだんに生けられた花の香りと、さざ波のように音楽の向こうに聞こえるどこか遠い他のお客達のお喋りの声。

グラスをテーブルに置く音と、一緒に出された小さな小皿の上のオリーブとチーズ。



(これ、私は甘いものよりも塩っぱいものが好きなのを、グレアムさんは知っていて変えてくれたのかな?)


本来はチョコレートが添えられるのだが、ネアはおつまみ系の一皿に変えられていた。

チョコレートが欲しければ声をかけて下さいと言われたが、どうしてもお酒にはオリーブやチーズで合わせたくなるネアは、微笑んで首を横に振った。

なお、ディノにも同じものが出されているが、こちらは好みと言うよりはお揃い感を重視したのだろう。


ディノと連名でグレアム宛に薔薇の祝祭のお菓子を贈っているのだが、それについてはここでは触れられない。

ここで人間の給仕として過ごすのは、グレアムが自身を取り戻す為に支払った大切な対価なので、分けられる時にはきっちりとその線引きをつけるのだろう。


ネアは、そんなザハのラウンジで、ディノとローゼンガルテンでの時間についてあれこれお喋りした。

シュプリを二杯いただいたので、二杯目を持って来てくれた際にまた少しだけ会話に引き入れたグレアムも、幸せそうなディノの姿をしっかり堪能出来ただろうか。



「どうか良い夜をお過ごし下さい」

「今夜は有難うございました。美味しいシュプリで、すっかり幸せな気分になってしまいました」



ザハを出る時には、グレアムはあえてラウンジの入り口までの見送りだった。

なのでネアが挨拶を返しておき、ディノとは何やら視線で会話をしたようだ。

ザハの入り口までの案内を引き継ぎ、挨拶をしてくれたのは支配人で、そこであらためてお祝いの言葉を貰ってしまう。



通り沿いに出ると、そこからも建物の屋根の向こうに夜の虹が見えた。

ネアはそっと差し出された三つ編みに厳しく首を振り、ディノの手を摑まえてしまう。

魔物はたいそう恥じらっていたが、今夜はローゼンガルテンでも手を繋いでいたので少しだけ抵抗値が上がっているようだ。



「これからは、お食事ですか?」

「うん。今年は薔薇の祝祭の影絵があったから、そこにしたんだ」

「まぁ、既に素敵に違いないと確信したので、とても楽しみです!」


二人はその区画だけは街を歩いて薔薇の祝祭の気分を楽しみ、次の区画の角のところで転移で晩餐会会場に移動した。

次の区画には、壁に寄り掛かったままずるずると座り込み泣いている男性がいたので、ネアはその前を通らずに済んでほっとしている。


やはり、こうも明確に愛情を司る祝祭とされてしまうと、悲しい夜を過ごしている者も多いのだろう。


それはきっと、いつかのネアかもしれない。

でも今のネアは、大事な魔物の手を掴んでいるので、怖いことなど何もないのだ。



(あ、…………)



薔薇の香りが辺りを包んだ。


ネアは、転移の薄闇が晴れると目を瞠り、そろりと周囲を見回した。




「………………まぁ!………やっぱり私は、他の誰よりもディノが一番大好きです…………」

「……………ネア」


思わずそう呟いてしまったネアに、魔物は危うく儚くなりかけてしまったが、涙目でずるいと呟きながらもどこか誇らしげに本日の会場を示してくれる。



そこは、なんてことはない、いつものリーエンベルクの大広間の一つだった。



けれども、きっとその夜は素晴らしい舞踏会があったのだろう。

広間の床には薔薇の花びらが敷き詰められ、壁やテーブルの上にはまだ薔薇飾りが残っている。

大きく開かれた庭への続き戸からはリーエンベルクの雪景色と、そんな雪の中でも咲いている冬の系譜の薔薇が満開になった美しい庭が見えて、奥に続く禁足地の森は祝福の光できらきらと輝いていた。


シャンデリアには灯りが入っておらず、この大広間を照らすのは、外から差し込む夜の光のみ。



一歩踏み出せば、足元に敷かれた薔薇にふんわり爪先が沈む。



「薔薇の祝祭の夜の、大広間ですね。………見て下さい、素敵な飾りが沢山残っていますし、この、舞踏会の終わった後に秘密のパーティをしているようなお部屋が、堪らなく素敵でわくわくします!」

「うん。………………君は、真夜中に大浴場に行く時に、大広間を覗くのが好きだったからね。何か君の喜ぶものはないかなと思って探していた時に、この影絵を見付けたんだ。………こうして残してあるからには、恐らく部屋をこのままにするように家事妖精達に命じただけの理由があったのだろう」

「ふふ、誰もいない大広間で、今の私達のようにゆっくり過ごした誰かがいたのかもしれません!…………まぁ、あのテーブルですね。大広間の真ん中で、贅沢な気持ちでお食事が出来そうです……………」



広間の真ん中に、夜結晶と何か他の乳白色に水色が混ざるような美しい結晶石で作られた、優美なテーブルセットがあった。

テーブルそのものの素材が美しいのでテーブルクロスをかけることはなく、中央には白い花瓶にふんわり生けられた小さな白薔薇が可憐である。

あえての大輪の薔薇ではなく素朴な雰囲気の薔薇にしてあるのは、一番の薔薇をこの後で貰えるからだろうか。



ディノにエスコートされ、ネアは布の張られた椅子に腰を下す。

テーブルと同素材の椅子だが、背もたれと座面の部分には水色の布を張ってある。

それだけでも充分に座り心地が良いばかりか、肘置き付きの椅子なので、ゆっくりと晩餐を楽しむのに向いていそうだ。



(勿論、特別なものも大好きだけれど………)



ここだって、特別な空間ではあるのだろう。



けれども、どこか不思議で特別な空間ではなく、あえてこんな影絵を選んでくれたことが、ネアは何よりも嬉しかった。


ここは、毎日を一緒に過ごしネアのことをよく知っているディノだからこそ、選ぶことの出来る空間だ。

特別な夜に取り入れられたこの日常のエッセンスが、堪らなく心を柔らかくしてくれる。



「食事は、リーエンベルクのものにしたよ」

「私の大好きなお料理ですね。…………こうしていると、リーエンベルクで、二人きりの秘密の時間を過ごしているようですね」



テーブルの向いで微笑んだディノは、雪明りを帯びた夜の色の中で、溺れそうな程に美しい真珠色の髪が淡く光る。

水紺色の瞳に滲んだのはどこか密やかな魔物らしい色香で、けれどもそんな老獪な生き物の瞳が、薔薇のビーズの話題になると無垢に揺れるのがいい。



「まぁ、この前菜は初めてかもしれません。エスカルゴのようなものでしょうか?」


魔術の転移陣の仕掛けでふわりと現れた前菜のお皿は、二皿あった。


まずは薔薇の花びらの彩りも美しい前菜のお皿には、何品かの料理が乗っていた。

スモークしたサーモンと甘く焼いたポロ葱に辛味のある小さな赤い小花を散らしたものと、鶏レバーのペーストと焼いた無花果が乗った一口タルト。

ぷちぷちとした粒チーズを乗せた金鴉のとろとろスクランブルエッグに、小さなグラスに入ったのは、果物風味の酸味のある薔薇の花びらを乗せた、宝石のようなコンソメのジュレだ。


そしてもう一皿、緑色の宝石を砕いた塩のようなものの上に、ネアにはエスカルゴにしか見えない物体の香草バター焼きが殻ごと鎮座している。

ほかほかと湯気を立てており、美味しそうなのだが、ディノはネアの質問に首を傾げた。



「えすかるご、ではないと思うよ。シャンテグという春風の妖精の一種で、薔薇の花蜜を糧にするものだ。貝のように見えるけれど、植物の系譜のものなんだ」

「エスカルゴは、蝸牛さんのことでした。…………となるとこやつは、春風の妖精さんなのですね」

「蝸牛を食べてしまうのだね…………」



ここで、異世界文化的価値観の違いにより、ネアとディノは二人でふるふるして頷き合う。

幸い、シャンテグは喋ったりはしないと聞き、ネアはやはりどう見てもエスカルゴな妖精を、僅かな躊躇の後にぱくりといただいた。



「むぐ!エスカルゴのガーリック香草バター味です!美味しいれふ」

「蝸牛を、大蒜で……………」


一般的な食品であり、美味しければいいやという大雑把な人間に対し、自分の伴侶は蝸牛を食べると聞かされてしまった魔物はまだ怯えていたが、ネアは季節の珍味でもあるというシャンテグを美味しくいただいた。

添えられたクネドリーキ風の蒸しパンの薄切りを、残った香草バターに浸して食べても美味しいので、是非にまた食べたいお料理だ。


貝殻にしか見えない、妖精の羽が進化したものだという外殻とやらの下に敷かれているのは、薔薇の葉を結晶化して岩塩と合わせたものなのだそうだ。


薔薇の精のように残しても祟りはしないが、春風の系譜のものなので、この薔薇葉塩を敷いておかないと、あっという間に料理が冷めてしまうらしい。


口直しの薔薇のシャーベットと、小さなサラダを挟み、ネア達のメインは今年もローストビーフになる。

今夜のお料理は、薔薇鯨が入荷したので魚からも選べたそうなのだが、ネアは薔薇鯨の正体が不明過ぎたので、安全な方を選ばせて貰った。



薄くそぎ切りにして並んだものではなく、ぶ厚く切って温かいグレービーソースを回しかけたローストビーフは、噛み締める度に美味しさでいっぱいになり、ネアはお行儀悪く机の下で足をぱたぱたさせてしまう。

ディノと二人だけだからというよりも、あまりにも美味しかったのだ。



「……………ふぁふ」

「気に入ったのかい?」

「はい!いつもより、お肉がとろけるようで、でも、脂っこくはないのです。じゅわっと旨味がお口の中に溢れて、この辛い実がぷちっと美味しくて至福の一皿でした…………」



なお、一緒に出されたシンプルなチーズリゾットは、新鮮な水牛のチーズを使っており、香草の香りが爽やかでさらりといただける。

シンプルだからこその美味しさにまたじたばたしてしまい、デザートに入る頃には、美味しい食事と素敵な空間にうっとりと心まで蕩かされた人間が残るばかりだった。



お戻し用の魔術陣に重ねるとしゅわっと消えるお皿を見送り、ネア達は夜の光だけが揺蕩う薔薇の広間でのんびりお茶をした。


開かれた扉の向こうに広がる森からは、舞踏会が行われているような美しい音楽が微かに流れてくる。

けれどもそれは、決して近寄ってはいけないそら恐ろしさも備えた、人ならざるものの音楽なのだろう。




「…………少し踊ろうか」

「はい。私もそんな気分でした。………優雅だけれど少し物悲しくて、昔から知っていたように感じてしまう不思議で綺麗な曲ですね」

「妖精の音楽だと思うよ。この影絵の夜は、森の向こうも薔薇の祝祭だからね。森の中でも祝祭を楽しむ者達がいたのだろう」



そっと手を預ければ、今日下したばかりのお気に入りのワンピースの裾が、ステップに合わせて揺れる。

触れている手のぬくもりに、こちらを愛おしそうに見ている水紺色の鮮やかな瞳。

手を取りエスコートしてくれたディノと、その音楽に合わせて少しだけ踊り、二人は微笑みを交わし合う。



「私からの薔薇を受け取ってくれるかい?」

「はい。実は、お食事の後かなと思ってそわそわしていました」

「ネアが、今年は特別なものにしてくれただろう?………私も、少しだけいつもと変えてみたんだ」

「まぁ、…………伴侶になったばかりだからですね?」

「………………そうだね。君が、私の伴侶になってくれたから」



そう微笑んだ魔物に促され、ネアは影絵の大広間に現れた不思議な扉に導かれた。

それは、開いた扉から繋がるリーエンベルクの庭に向かう筈の扉だが、なぜだか大きく開いたところからではなく、その水色の枠の小さな扉を通って外に出るようだ。



「こちらの広いところからでは、お庭に出られないのですか?」

「そこから先の影絵は、少し層が薄いんだ。鑑賞にはいいけれど、踏みしめると危ういかな。だからこちら側は、私が作り足したものになる」

「作り足した…………」



何だかもの凄いことをさらりと言われたような気がしたが、導かれるままに庭に出ると、大きな驚きがネアを待っていた。




「…………ディノの薔薇のお庭があります!!」



そこには、いつもディノが贈ってくれる万象の色を映した白薔薇が、見渡す限りに広がる夜の庭園が広がっている。

中庭にあった筈の噴水などはそのまま残っているので、リーエンベルクの中庭の影絵に、この薔薇の庭を作ってくれたのだろうか。



「これが、私から君への薔薇だ。この薔薇はいつでも咲いているから、二人で薔薇を保管している部屋から好きな時に行けるようにしてあるよ」

「……………こんな素敵なものを、貰ってしまっていいのですか?」

「アルテアが、君にこういうものばかり贈るからね……………」

「まぁ、もしかして少し拗ねています?」

「……………アルテアなんて……………」

「ふふ、少しだけしょんぼりな私の伴侶には、こうです!」


ネアはここで、ばすんと体当たりで感動を表現しつつ、ひょいっと伸び上がって大事な魔物に口付けをしてやった。



「……………ずるい」

「大事な魔物が、いっそう大事に思えて、えいっという気持ちになってしまいました。ディノ、私からの薔薇を受け取ってくれますか?」



ネアが差し出した薔薇は、けぶるような繊細な色合いの薔薇色の薔薇だけを集めた、立派な花束だった。


花びらのみっしり詰まった薔薇を贅沢にたくさん詰めれば、花びらの縁の色が一際鮮やかになった部分までのグラデーションがより美しく見える。

手を伸ばしてその花束を受け取ってくれたディノが、嬉しそうに瞳を細め微笑みを深めると、ネアは、胸の奥深くがざわつくような愛おしさでいっぱいになる。



「……………有難う、ネア。………………これは、君が私の伴侶になってから初めて貰う薔薇だね」

「ええ。大好きなディノの伴侶になりましたという、とっておきの愛情を込めた薔薇なので……………、ディノ?」

「ネアが虐待する……………。とっておきにしてくるなんて…………」

「…………………解せぬ」



今夜は、どちらかと言えば無垢な魔物成分多めで頑張ったディノだったが、その分心の柔らかな部分が剥き出しになっていたのか、ネアのたわいもない言葉で、魔物はくしゃくしゃになってしまった。

今にも倒れてしまいそうになった魔物を介抱しつつ、ネアは、ディノの心が落ち着くまで、万象の薔薇の庭に取り寄せた長椅子に座って二人でお喋りをした。



雪景色ではあるものの、影絵だからなのか、ディノが何か工夫をしてくれたのか、肌の表面がひんやりするだけで寒くはならない。


夜の光に咲き誇る万象の薔薇の美しさは、白薔薇に滲むように落ちる微かな虹色の翳りが、どんな祝福の光や、この夜の煌めきの何よりも美しく思えた。



「……………む。椅子になってくるということは、少し落ち着きました?」

「君はもう私の伴侶なのに、どうしてこうなってしまうのかな……………」

「きっと今夜は、薔薇のビーズが貰えたり、グレアムさんに会えたり、楽しい事が沢山あったので、心が満杯になってしまったのかもしれませんね」

「君は、そういう風にならないのかい?」

「むむむ、私もくしゃくしゃにもなりますが、どちらかと言えば嬉しいものは貪欲に楽しんでしまうので、受け止めたくなるのかもしれません」

「では、今夜は逃げないかな…………」

「………………………む」




ふっと、囁きのような甘い微笑みが落ちた。



その魔物らしい美貌に獣のような鋭さが揺れ、ネアはぎくりとした。

とは言え、伴侶なのに慌てて逃げるというのもおかしな話であるので、何とか踏み止まって深い口付けを受け入れれば、微笑む気配の凄艶さに、またもう一段階焦燥感が募る。



「………………ぎゅ。さ、さて、そろそろ、もう一杯お茶などでも………」

「ネア、逃げてはいけないよ?」

「むぐ?!」



隙を突いて逃げ出そうとしたネアは、さっと捕獲されてしまい目を瞠る。

そこにはもう、優雅に艶やかに微笑む魔物がいるばかりで、先程まで涙目で震えていた面影は微塵もない。


こうなってしまうともう、魔物は魔物らしくその老獪さにネアが太刀打ち出来る筈もなく、気恥ずかしくて逃げ出したくなるだけで、ネアだってこの魔物が愛おしいのだ。



くらりと眩暈のように視界が反転し、夜の中に揺れる薔薇の花影が瞳に映る。

ネアは、今夜のローストビーフはもう残っていないのかなと考えて心の冷静さを取戻しつつ、そっと瞼を閉じた。

















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