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144. 予防接種で訪れます(本編)




それは、薄曇りの日であった。

大いなる戦いの始まりの前夜、それは悲報と共に幕開けとなる。




「……………シヴァルさんが、遠征に出ている」



ネアは呆然としながら、そう呟き、さっと膝の上に置かれた三つ編みをにぎにぎした。

向かいの席に座ったヒルドはどこか悩ましげで、手元には幾つかの報告書類がクリップ留めをして重ねてあった。



「ええ。今回の遠征担当は彼になっています。ただ、今は待機期間ですので、遠征先でも予防接種を受け付けておりますよ。ウィーム中央は、この通りかなり混乱しておりますから、そちらに連れていかれるのも手ですね」

「今は、獣医が足りていないのだろう?なぜ、遠征に出ているんだい?」

「実は、竜達の予防接種に於いて騒ぎがありまして………」



そう教えてくれたのは、晩餐後のお茶を飲みながら少しだけ遠い目をしたヒルドだ。

ただ今話題に上がっているウィームのペット予防接種は、実は、ネア達が山猫商会の金庫に落ちた日と帰ってきた日で、初日と二日目の日程が終わってしまっている。


勿論、設定日は一日ではないので次の接種日にと考えていたところ、この悲報なのであった。

ネアは、あまりの悲しみにわなわな震えるしかない。




「初回の予防接種で、その村で祀られている竜達が一斉蜂起してな………」

「たかが予防接種です。大人しく受けていただきたい………」



よりによってその日は、あの事件の起きた日でもあった。


ネア達はまだ金庫の中にいたし、王都との連携もあったエーダリア達は大忙しだったのだ。

そして、そんな日に限って何かと騒ぎの起きる予防接種があり、ウィームの各地は荒ぶる獣達で阿鼻叫喚となった。



(今回は、三日目の予備日で行く筈だったから、予防接種の日だという事をすっかり失念しかけていたけれど…………)




毎年の事であるし、ウィームでもペットや使い魔の予防接種は獣医師会の管轄である。

本来ならエーダリア達が煩わされる事はないのに、まさかの蜂起という最悪の展開だったのだ。



「蜂起してしまうのだね………」

「そこまでの騒ぎになったのは、その村の一氏族だけでしたが、少々特殊な竜種でして………。ディノ様は、祠守りの竜をご存知ですか?」

「おや、祠守りの集落があるのだね。珍しい竜種だよ」

「まぁ、祠を守っている竜さんなのです?」

「信仰の系譜、もしくは迷宮や迷路の系譜の竜だね。前者は信仰に見合った恩恵を齎すし、後者はその試練を踏破した者に祝福を与える。特に後者の竜については、深い森そのものを迷路に見立てていたり、城跡や滅びた集落の跡地に暮らしていたりもする珍しい竜なんだ」

「…………わくわくしてしまいました!冒険物語に出てくる竜さんのようです!」

「……………浮気」

「なぜなのだ……………」

「今回のミノスの竜は、後者の竜種ですね。森の中に今は土地の者達に再利用されている既に役目を終えた迷宮があり、その要所を守る土地の守護者です」




そんなミノスの竜達は、本来、裁定をする側の立場の竜だ。


元々竜種の中でも自尊心が高いらしく、尚且つやはり、予防接種がすごく怖い。

怖さと矜持の間で心がずたずたになり、結果として蜂起してしまったらしい。



「…………もう一度言いますが、たかが予防接種くらい大人しく受けていただきたい」

「ええ。私もそう思いますよ。あのような時期でしたから尚更に、煩わしい事件でした」



にっこり微笑みながらも率直な意見を述べてくれたヒルドは、そんな訳で、手練れの獣医の一人がその村に派遣された事を教えてくれた。

即ち、シヴァルである。


このような遠征業務にあたる魔術獣医は、明確にその年次が決まっているのだそうだ。

生粋の魔術師と違い、医療系の魔術師達は学院を出た後と勤続年数と診療数も考慮され、魔術階位だけで評価する事が出来なくなっている。


どれだけ才があろうと、実務経験があってこそという職業なのだ。


そうなってくると年次制なので、勤続年数の長い獣医達程、相応の役職に見合った職務もある。

学院の講師職や、非常勤講師としての仕事に加え、各組合との共同開発やガレンとの共同研究、はたまた、学会の参加や論文の発表などの業務もある為、なかなか自分の研究室や工房、病院を空ける事が出来ない。


よって、まだ年次の若い医師に遠征業務が割り当てられるようになっており、上層部からの直接の指名でもない限り、中堅以上の医師達が遠征に出ることはないのだという。 



「幸いにして、今回はシヴァルがいた。彼は年次の割に優秀で、もしもの場合は自身でも、災い祓いの魔術を持っているくらいだからな。竜達が悪変しても対応出来るということで、適任だったのだが……………」



少しだけ遠い目でそう教えてくれたエーダリアは、その後に起こった悲しい事件を思っているのだろう。

現在、ウィームで起きている事件は、そんな遠征担当だったシヴァルが優秀過ぎるが故に起こった悲劇と言っても過言ではない。



(ウィームだけではなく、国内のあちこちで水仙に纏わる障りが出たのが、予防接種の二日前の事…………)



それは、牛や羊などの家畜に伝染する疫病型の障りで、症状は植物の系譜本来の障り程に深刻ではないのだが、それでも獣医達による魔術薬の処方が必要になる。


どこかで牛たちに何度も踏みつけられて荒ぶった水仙が癇癪を起こして始まった伝染だが、結果として獣医達は、予防接種の日程を終えていない時期にそちらの対処にも追われる事になったのだ。



(今回は、その障りが起きた時期が悪かった…………)



まずは、ガーウィンの郊外で始まった伝染型の障りは、その次にウィームを襲った。

それが、あの山猫金庫の事件と、予防接種の期間にぴったりと重なったのである。


現在はヴェルリアとアルビクロムがその障りの中にあり、そちらもなかなか混乱しているそうだが、やはり今回は酪農の盛んなウィームが最も大きな被害を受ける事になったのだろう。



そんな状態なのでと、ウィームの獣医師会では、早々に特別対策が敷かれた。

三日目の日程を残した段階でまだ予防接種を終えていない者達は、伝染型の障りを対処を優先するので少し時期を後ろ倒しにしての接種を推奨して欲しいと協力要請をする運びとなったのだ。


この対策案の下地になったのは、竜や獣たちの予防接種は、出来るだけ初日に済ませようとする者が多いというこれ迄の経験であった。


例年のネア達のように、本人に気付かせずに会場に連れていってしまうのが最も効率的なので、集団予防接種は、少しでも早く済ませようと考える飼い主が多いのだ。


また竜達も、恐怖に慄く仲間の姿を見て恐怖感を蓄積しない内にと、初日に済ませてしまう事が多いのだと言う。

つまり、集団予防接種の設定日は既に二日を無事に終えており、残された患者がそういないというのも油断の一因であったのだ。



だが、ここで運命の天秤はその意地悪さを発揮してしまう。



今年は予防接種日初日に祠守りの竜達の予防接種に駆り出されたシヴァルを目当てにしていた者達が存外に多く、そんな彼を必要としていたのが、希少種の生き物の飼い主や、予防接種で毎年かなり荒ぶる、手のかかる生き物達の主人だったのだ。


加えて現場経験の長い他の獣医達は水仙の障りの対応に追われており、予防接種担当になっている代わりの者達では予防接種が思うように進まず、接種終了迄に時間がかかった。


不運は続くもので、いつもならまだ発病することはないと思われていたこの時期に、飼い主を薙ぎ倒して踊り去る狼の使い魔が現れたのは一昨日のこと。



よりにもよって、今年に限って発病の時期が早まったのである。




「そちらの発病も、まだ増えているのかい?」

「ええ、残念ながら昨日は、三件の報告がありました。早急に手を打っておりますが、何分、急を要するのはどちらも同じでして。その結果、現在予防接種を行えるのは、完全に免許取得済の学生達のみとなっております」

「むむむぅ。となると、ご近所で経験の浅い学生さんにお願いするか、転移などが可能な場合は、業務過多に陥っていない獣医師さんを見付けて予防接種をお願いするかの二択なのですね……………」

「…………シヴァルかな」

「話に聞いている様子からすると、その方がいいだろうな。シヴァルは、立て籠もっている竜達の投降を待っているだけで、待機状態に等しい。また、他の植物の系譜の強いそちらの地方では、水仙の障りの伝染も起きていないのだ。その場に行く事さえ可能であれば手は空いている」

「確かに、聞いているネイの騒ぎ方では、学生達には荷が重いでしょう。…………今回はアルテア様はご同行されるのですか?」

「はい。その為に取っていてくれたお休みを、明日にずらして貰う事にしました。…………ディノ、ここはやはり、ミノスの村に行ってシヴァルさんにお願いしましょう」

「うん。そうしようか。…………ネア、祠の竜は飼えないからね?」



心配そうにそう付け加えたディノに、ネアは、何だかごつごつしていそうな名前の竜はいらないなと考えた。

性格的にも問題がありそうなので、祠の竜には興味がないと告げると、魔物はほっとしたようにふにゃりと表情を緩めている。



かくして、急遽、ミノスの村への予防接種訪問が決まったのだ。




「…………もう、学生でも何でもいいだろうが」

「アルテアさんは、あの儀式を甘く見ているのです。…………今年は既に、一人の学生さんがお亡くなりになったのですよ…………」

「…………は?」

「悲しい事故でした。まさか、ぎゃん泣きのむくむく鼠さんが、あまりの注射の恐怖に爆発するとは、どなたも想定していなかったのでしょう」

「………それなら、俺が押さえておけばいいだろう」

「そして更に三例、暴れる患者に手元が狂って注射を自分に刺してしまい、今も尚、隔離施設で踊り狂っている学生さんがいます」

「…………ミノスに行くぞ。考えたら、転移を使える分、そちらの方が早い」

「ええ。狐さんには素敵なボール投げ場を見付けたと伝えてあります」



当日、銀狐の換毛期対策で少しラフめな服装でリーエンベルクを訪問したアルテアは、思わぬ遠出に顔を顰めていたものの、何とか納得してくれた。


今日は灰色が白っぽく掠れたような風合いの素敵なリネンのシャツを羽織り、黒いパンツには、編み込みの白い革のベルトがお洒落な装いだ。

帽子はいつもよりもカジュアルな素材のもので、編み上げのショートブーツは敢えて優美なデザインなのが装いのバランスを見事に整えている。



無事に同行者の了承が得られたネアがディノを呼ぶと、すっかりお散歩気分で尻尾を振り回したご機嫌狐を抱いたディノが、悲し気な顔で現れた。



「狐さん、今日のお出かけ先は少し遠いので、念の為にアルテアさんにも付いてきて貰う事にしました」

「…………喜んで、いるのかな」

「むぅ。尻尾がぶんぶんです…………」


銀狐にとって、ボール遊びに伴う人数は即ちボールを投げて貰える数に比例する。

アルテアが増えるという事に警戒をする様子はなく、青紫色の瞳をきらきらにして大喜びだ。


恐らく、遠出という文言から予防接種を想像出来ないのもいいのだろう。

とは言え、塩の魔物の時のノアは今回の騒ぎも知っている筈なのに、どうしてこちらの時には考えが及ばないのかは謎のままだ。


ちびふわの時の選択の魔物が、何度酔っ払っても甘いお菓子を食べてしまうのと同じ原理に違いない。



「…………おい、ブラッシングはしているのか?毛が膨らみ過ぎだぞ」

「…………これは、細っそり夏毛になりたくないという、狐さんの精一杯の抵抗の印なのですよ」



ネアのその言葉に、突然銀狐は居眠りを始めたようだ。


寝たフリで都合の悪い言葉は聞きたくないという姿勢なのだが、そんな狐姿の友人を抱いているディノはすっかりしょんぼりしてしまっている。




(いざ往かん!迷宮と迷路の再利用の村へ!!)




ネアが今回の予防接種ツアーに乗り気なのは、決して、ミノスの村に美味しい郷土料理のお店があるからではない。

素朴な料理はどれも美味しく、リーエンベルクの料理人もご贔屓のお店なのだとか。



特殊な村なのでと、入村許可証を発行してくれたエーダリアは心配そうに見送ってくれたが、秘されている魔物も含めれば、白持ちの魔物三人が一緒である。


多少、蜂起して立て籠もっている竜くらい問題ないだろうと考え、ネアは行ってきますと手を振った。

今日のエーダリアは、問題の水仙の伝染病問題で、今日は朝から獣医師会との会議があるのだそうだ。




(…………あ、)



お馴染みの淡い転移の薄闇を踏めば、ふわりと空気の香りが変わり、ふかふかとした緑の絨毯の上に爪先を下す。


ネア達が降り立ったのはミノス村外れの森の入り口で、靴のままでもじゃばじゃばと渡れそうな小川が流れ、可愛らしい煉瓦の橋がかかっていた。



(……………花の花粉の香りと、水の匂いがする。お日様に暖められた草地の匂いに、少しだけ土の匂いも)



さわりと、僅かな風に草花が揺れる。


可憐な野の花があちこちに咲いていて、森は健やかで、豊かな緑の縁取りで長閑な景色を見せてくれる。

橋の向こうの森の中には、素朴さが何とも言えない風合いを添えている、赤い瓦屋根の家が何軒か建っていた。


あまりにも可愛らしい景色を眺めてほっこりとした後、ネアは、むむっと眉を寄せて振り返った。

残念な事に、同伴した魔物達の美麗さにはあまり似合わない長閑さである。

これではまるで、静かな村を襲撃に来た悪者のような構図ではないか。




「申し訳ありません。入村許可証を拝見…………」



実用ではなく飾りのようなものかなと思う程の、小さな橋の近くで輪になってお喋りに興じていた騎士達の内の一人がネア達に気付き、こちらにやって来るその道中で顔色を失う。


魔物達は擬態をしているのだが、それでも高位の人ならざるものの美貌までは隠していない。

また、ディノもアルテアも、ウィリアムのように印象を和らげる特性は持っていないのだ。



(しまった。入村手続きがあるから、敢えて注目を避けるような魔術を使っていないのだった…………!)



ウィーム中央とは違い、この村の人達は、幾ら訪問予定を通達済みとは言え、ネア達がリーエンベルクの住人だと一目で判別出来る筈もない。


だが、騒ぎになる前にと、ネアが慌ててエーダリアから預かって来た入村許可証をポケットから取り出そうとしていると、その騎士はよろよろしながらも何とか持ち堪えてくれた。


こんな時に限って許可証はポケットに引っかかってしまい、ネアはあわあわとそれを引っ張る。

たいへん遺憾な事に、隣の使い魔は、ご主人様のポケットから許可証を取り出す手伝いをするよと手を差し伸べる様子はない。


それどころか、呆れたような冷たい目でこちらを見ているではないか。



「す、少し待って下さいね。入村許可証は、…………こちらにあります。承認者はウィーム領主のエーダリア様になりますので、ご確認いただけますか?」

「…………っ、あ、………あの、伺っております。よぼ………おっと、例の目的の為のご訪問ですね。…………申し訳ありません。私には、視覚的な刺激が強かったようです」

「いえ、こちらこそお忙しい時期に、お手数をおかけします。例のあれを終え、噂の丸屋根亭でお昼を食べたら、ささっと帰りますね」

「ああ、あの店はお勧めですよ。今日の日替わり料理は、鶏肉の香草トマトソース煮込みだそうです」

「まぁ!素敵な情報を入手してしまいました」



最も人外者の密度が高いウィーム中央からは離れるが、ここも魔術の潤沢な土地だ。


明らかに高位の人外者たちを引き連れているが、訪問の目的は予防接種であるし、何しろウィーム領主の名前で承認されている許可証を持っている。

何とか気を取り直してくれた騎士は穏やかな微笑みを取り戻し、橋を渡る手続きにすぐに取り掛かってくれた。

 


「通行証のようなものではなく、この許可証を使って、橋を渡る手続きとなるのですね………」

「はい。魔術の条件許可を付与するという形になります。このような小さな子供でも渡れそうな小川ですが、この橋を渡らないと村には入れませんので、もう少々お待ち下さい」

「はい。手続きをお待ちしていますね。………その、不思議に思ってしまうのですが、例えば、この小川をぴょいと跨いで越えられないのですか?」

「はは、そう思いますよね。ですがこれでも、この小川の流れが隔離結界の役割を果たしているんですよ」



ネアは、こんな浅い小川なのにと驚いてしまい、慌ててディノの三つ編みを引っ張ろうとして目を丸くした。


まだリーエンベルクを出たばかりなのに、お気に入りの青いリードを付けた銀狐が、ディノの腕の中ですやすやと眠ってしまっている。

眠っているフリをしていたらいい揺籠具合に本気で眠ってしまったものか、幸せそうにだらんとなっているのだ。


そのせいで、眠っている獣を抱える事に慣れない魔物は、哀れにもぴしりと固まっていた。


途方に暮れている伴侶が動かないようにしている優しさに唇の端を持ち上げたネアは、起きてしまったら起きてしまったで構わないので、歩行で振動が伝わっても大丈夫だと教えてやる。


それを聞いたディノは安堵したように頷いたが、それでも気は遣うものか、そろりと動いていた。



(でも、このまま眠っていてくれたら、ささっと予防接種を終えられるかもしれない…………!!)



邪悪な野望を胸にそう考えたネアだったが、目が合ったアルテアから、どうせすぐに起きる筈だと夢も希望もない事を言われてしまう。


残酷な言葉でネアの願いを潰えさせた魔物は、眠っている銀狐よりも、目の前の小川に興味があるらしい。

これだから魔物はとぷんすかしたネアは、村の食堂で美味しい料理があった時には、是非に再現を任せてくれると報復の手段を整えておいた。



「大したものだな。この浅い川で、境界の魔術を巧みに敷いてある」

「アルテアさんの目から見ても、この村には簡単には入れないようになっているのですか?」

「敷かれている規則性を破れないことはないが、敢えて手をかけない限りは、定められた者以外は橋からしか森の中に入れないようになっているな。この選定の魔術は、元々森の中にあった迷宮に備わっていた誘導魔術の再構築だろう」

「うん。迷宮の魔術基盤と繋がっているようだ。上手な利用の仕方だね。この橋にしか外部の者の為の道が敷かれていないから、随分と低い労力で土地を守る事が出来るのではないかな」



ネアには長閑な風景にしか見えずとも、魔物達の目にはかなり高度な魔術が確認出来ているようだ。

村の仕組みをこんな綺麗な魔物達に褒められてしまった騎士は、どこか誇らしげににっこり微笑んでいる。



「今、別の騎士に用意させていた地図を取りに行かせています。思っていたよりお早いご到着で、お待たせしてしまい、申し訳ありません」

「いえ、転移でびゅんと来てしまいましたので、こちらこそお手数をおかけします」



どうやら村の地図の準備をしてくれていたようだ。

慌ててお礼を言うと、苦笑した騎士が例の目的の為に他にも訪問客がいたので、慌てて作ったんですよと教えてくれた。


となると、同じ条件なので当然なのだが、ネア達より先に、この村に待機しているシヴァルを訪ねて来た者達もいたのだろう。


今日はどうだろうと尋ねてみると、午後からも、二組の予防接種訪問が予定されているらしい。

この村はウィーム中央からはそこそこ離れているのだが、ウィームは市場のおかみさんが祟りものと戦える土地なので、このくらいの転移くらいは容易いのだろうか。



「こちらで、何かご注意するべき事はありますでしょうか?」

「中に入りますと、これは住人の生活の知恵でもあるのですが、分かりやすいように村の建物は赤い屋根にしてあります。もし、青い屋根や緑の屋根の建物があった場合は、それがどれだけ魅力的な施設に見えても、目的地に思えても、決して近付かないで下さいね。玄関先に植えられたヤマボウシの花も目印です。ヤマボウシの咲いていない建物は、我々が使っていない迷宮の建物なのでご注意下さい」

「となると、村の方々が管理していない建物は、この森の中の迷宮が作り出したものなのですか?」

「ええ。とは言え、元々の迷宮としての魔術構築そのものは閉じております。それでも時折、かつての迷宮の影絵やあわいが、そのような形で現れるのです」



ここで、入村許可の手続きが無事に終わった。


一人で歩くのがせいいっぱいの、玩具のような可愛い橋を一列になって渡ると、ネア達は慎ましやかなヤマボウシの花を象ったワッペンのようなものを手渡される。

人差し指の第二関節程までの大きさのこのワッペンが、ミノスの村で過ごす間の通行証の代わりになるのだそうだ。



「印付けのようでご不快かもしれませんが、もし、迷宮の中に迷い込んでも、この通行証を持っていて下されば、我々が捜索に向かえます。然し乍ら、同時に大勢のお客さんが迷われてしまうとこの村の住人の数では手に負えなくなりますので、ミノスの村では同時に十人までのお客しか迎え入れられないんですよ」

「確かに、この広い森で迷子になった方を探すのは、骨が折れそうですね…………」

「はは。ここは、村のある森そのものが元は迷宮だった場所なので、祠の竜の方々も積極的に迷わせにかかるんです。厄介な土地である分、祟りものや悪食などの襲撃はありませんし、障りも届き難いのですが、なかなか気が抜けない日々でして」



そう微笑んだ騎士曰く、なので、村の境界を守る橋番の方が幾分か楽な役割りであるらしい。

捜索担当になった日は、出来るなら誰も迷子になってくれるなよと祈るように過ごすという。



「あなた方であれば、森の迷宮に囚われる事はないでしょう。…………それと、一つお聞きしても?」

「はい。何かご懸念があれば、寧ろ聞いていただけると助かります」

「…………そちらの魔物様の腕の中にいるのは、リーエンベルクの銀狐と呼ばれる狐でしょうか?………その、妹が袋入りのカードを持っているもので」

「さてはくじびきカードですね?ええ、この今は抱っこでうっかりすやすや眠っている狐さんが、そのリーエンベルクの銀狐さんなのです」

「おお!これが!」



案内の騎士が感動して声を上げると、他の橋番の騎士達もわらわらと集まって来た。

ディノが抱っこしているので少し遠巻きではあるものの、他の者達もリーエンベルクの銀狐は知っているようで、嬉しそうにすやすや狐を見ている。

一応は狐なので視線を感じたものか、眠っていた銀狐が、鼻先をぴくぴくさせてから前足をむぐぐっと伸ばし、ぱちりと目を開く。


起きている銀狐を見られた騎士達が嬉しそうに目を瞠り、目を覚ましたら少しだけ遠巻きに囲まれていた銀狐はこてんと首を傾げた。


遊んでくれるのかなと僅かに尻尾をふりふりしたが、残念ながら騎士達とはここでお別れだ。

シヴァルが立て籠もり犯達を監視しているという迷宮中央の小屋までの道を示した地図を受け取り、騎士達にお礼を言って村の中に向かった。



「いいか。祠守りの竜は捕まえるなよ。それと、おかしなものを見付けても独断で狩るな。迷宮の役割は確かに閉じているが、ここを迷宮にしただけの魔術基盤は残っている」

「初歩的な質問なのですが、迷宮はどうして閉じてしまったのでしょう?」


地図はアルテアが管理するそうなので、渡して道順を確認して貰いつつ、ネアはずっと疑問だった事を尋ねてみる。

すると、振り返ったアルテアが、ウィームが国だった頃には稼働していたという迷宮について教えてくれた。


「大抵の迷宮は、何かしらの品物の番人代わりだ。中に収められていた品物が失われたり、祀り上げられていた生き物がいなくなれば、役目を終えて自然に閉じる」

「むむ、という事は役目を終えていない迷宮の中には、宝物などがあるのですね……………」

「怪物がいるだけだったりもするがな」

「ぎゃ!」

「ミノスの迷宮は、銘のある武器を守ってきたものだ。だが、ウィームがヴェルリアに統合された事で、その武器の流出を案じた者が、武器を回収して迷宮を閉じたと言う」

「という事は、この村の人達が中に住むようになったのは、統一戦争後の事なのですね……………」


ずっと昔からあったような趣の家の横を通り抜けながら、ネアは不思議な感慨で赤い屋根の家を見上げた。

どの家も二階建てになっており、家壁は柔らかなクリーム色だ。

結晶質な石材を切り出して積み上げた造りになっており、家壁には蔓薔薇が見事な花を咲かせている。


「元々は、迷宮に挑む者達の為の商売などをしていた集落が近くにあったようだ。建物自体の経年の様子からすると、それ以前からあった物を迷宮の中に移築したんだろうな」

「まぁ。それでこのような素敵な風合いのお家なのですね」



さくさくと踏むのはみっしり茂った下草で、迷宮の中の村は大きな木の生い茂る森の中に家々が点在するという事以外は、普通の集落に見えた。

目を覚ました銀狐は自分の足で歩いており、お散歩気分が楽しいのか、びょんと弾んだりとご機嫌だ。



(シヴァルさんがいる小屋まで、どうかこのままで済みますように……………)



そう願っていたネアは、この時はまだ、祠守りの竜がどんな生き物なのかを知らずにいたのだった。









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