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ディートハルト



ごめんなさい。

ごめんなさい。


そう思いながら、重たい鎖をかけるような魔術誓約書に署名をした。


ここにはもう誰もいなくて、可憐だったり美しかった隣人達が、大切な家族のような者達が、どれだけ無残に命を散らしたのかを考える度に、恐ろしくて悲しくて涙がこぼれる。



「やれやれ、泣くなと躾ける者もいなかったのか。これはどうしようもないな」



そう嗤う山猫の声が聞こえ、惨めさに唇を噛み締める。


だがディートハルトは、この場で宰相が今回の事件の処分を読み上げるまで、今朝まで共にいた仲間達がどこへ連れて行かれてしまったのかを知らなかったのだ。



(でも、……………一人だけは無事だ)



火竜の王女は、昨晩の内に別れを告げに来た。

これから百年程の間、火竜の王が設けた隔離塔の中に入れられ誰とも会えなくなるのだそうだ。

それは、この国に仇を成した罪人に与し、土地の盟約を交わした国の王に牙を向けた魔術の報いであるらしい。


魔術誓約があったのだ。

それなのに、その誓約に触れるような行いに手を貸してしまった。


だからもう彼女は、術式に呪われて目が見えない。

綺麗な瞳は瞼に覆い隠されており、艶やかな髪はばさばさになり、隔離魔術の中に入るまでは身が焼け爛れるような痛みに苦しみ続ける。




『さようなら、私の大事な王子様』



そう告げて閉ざされた目から涙を溢した彼女は、迎えに来た姉妹達に連れられ、窓の向こうに飛び去ってゆく。


こちらを一瞥した他の火竜達の凍えるような眼差しには、なぜ大切な姉妹をこんな目に遭わせたのだという苛立ちが滲み、ディートハルトは、その槍を手にするべきだと強く勧めたのが彼女である事を考え自分を慰めようとしたが、それももう出来なかった。



どこかで分かっている。

理解していて、けれども恐ろしくて飲み込めない。

誰が始めて誰が御膳立てしたとしても、結論から言えば間違えたのは自分で、その選択は最早取り返しのつかない事態を招いてしまった。



(……………ロクサーヌがいない)



昨晩、ロクサーヌは終ぞ現れなかった。

探しても探してもどこにもおらず、捜索に手を貸してくれた薔薇の妖精達もふつりと姿を消してしまう。

それでも諦めきれずに部屋を出ようとすると、真っ白な布に包まれた、薔薇の妖精の一人の羽が部屋に送りつけられた。


無残に引き裂かれたそれを茫然と見つめ、ディートハルトは部屋の中で蹲り、眠れない夜を過ごした。

窓の外ではざあっと音を立てて雨が降っていて、母親を喪った日の事をぼんやりと思い出す。



ロクサーヌ。

ロクサーヌ。

ロクサーヌだけはどうか。



こんな時に自分は何て愚かなのだろうと考えながら、どれだけ身勝手で残忍なのだろうと考えながら、命を失わずにここから立ち去った火竜の後ろ姿を思う。

そうすると、そんな目に遭っても尚、自分の事を大事な王子と呼んでくれた彼女ではなく、ロクサーヌこそを逃して欲しかったのだと考えてしまうのだ。



ああ、それでもロクサーヌだけは駄目だ。

ロクサーヌだけはどうか取らないで。



こちらを見て微笑んだその眼差しと、薔薇の茂みの中で枕を抱えて見上げた彼女の横顔を思い出す。

ロクサーヌはいつも美しくて、いつだって誰からも愛されていた。

女王というものはあのようなもので、上に立つ者はああでなくてはと、人ならざる者達も人間も、うっとりと頬を染めて呟く。


彼女が得ていた揺るぎない力と慈愛に満ちた管理のように、多くの女性達に微笑みかけ、彼女達を慈しんできたこの道筋は、何が間違いだったのだろう。

他に何も見えないから、ロクサーヌのようになろうとしたのに、そうして積み上げてきたものがロクサーヌを奪い取ってしまったのだとしたら。




「……………あ、兄上なら、」



考えて考えて、けれども考えたくはなかった。

助けてくれるかもしれないと縋れば、それは、ロクサーヌがもうどこにもいないかもしれないと認めてしまう事になる。


ロクサーヌはきっと、やり方を間違えた自分に愛想を尽かしてとうに妖精の国に逃げ帰ってしまったに違いない。

なぜならば、まだ周囲に残っていた女性達がそう言って慰めてくれたし、彼女達は、ディートハルトは王子様なのだから、国王も話せば分かってくれると頭を撫でてくれる。



でも、本当はどこかで理解していた。




(きっと父上は、…………僕を許さないだろう)



商会の連絡係から、妖精達と交渉をした者達の様子がおかしいと一報が入った時から。

彼等が山猫商会の荷馬車に手をかけた際に、ロクサーヌだけではなく、あの宰相までもが決して怒らせてはならないと話していたウィームの歌乞いが巻き込まれたと聞いた時から。


そして、それまで出入りしていた教育係や、ディートハルトを大事にしてくれる女性達がすぐに追い払ってしまう側仕え達が、一度も顔を見せないと気付いた時から。



全身の血が足元に落ちるような感覚に、何か、とてつもない場所を踏み抜いてしまったと感じて、怖くて堪らなくなった。



ウィームの歌乞いはとても凡庸な人間だが、そんな彼女の守護には統括の魔物も付いている。

そう教えてくれたのは、先程ぼろぼろの羽だけが帰ってきた薔薇の妖精で、ディートハルトはそんな情報を聞いてからはウィームへの介入はするまいと固く誓って来た。


一度だけそちら寄りの領域に触れてしまい、後からその情報を聞いてひやりとしたのだ。

ロクサーヌがとても青ざめていたのを見て、慌てて、もう二度とウィームには近付かないよと約束したのは、星の綺麗な夜の事だった。



ロクサーヌ。

ロクサーヌはどこにいるのだろう。



部屋の向こうで恐ろしい叫び声が聞こえた気がしたが、そこで何が起きたのかを問いかけようにも、今は誰もいない。

ディートハルトを寝かしつけた女性達は、この部屋にだけは決して入らないのだ。


それは、婚約者である紅薔薇の女王に対する、礼儀からなのだと聞いていた。



(だからいつも、寝る前にはロクサーヌがおやすみと言いに来てくれる)



頭を撫でておでこに口づけを落としてくれて、私の大事な婚約者がゆっくりと眠れますようにと、微笑みかけてくれるのだ。


それはロクサーヌと喧嘩した日も、彼女が呼び寄せた側仕えを、他の仲間達が追い払ってしまった日も、変わらずに続いていて、ディートハルトはそんな日には大好きなロクサーヌを見上げてごめんなさいと謝るのだった。



でも今夜はロクサーヌがいなくて、寝台の上で膝を抱えて蹲る。




(もっと、沢山の女の人達に、僕を好きになって貰わなきゃ)



そうすればロクサーヌのようになれて、きっとロクサーヌも安心してくれるだろう。

微笑みかけ、親愛の情を示し、その手を取ってこれからも側にいてねと約束する。

彼女達はみんな喜んでくれたし、一緒に難しい問題を考えてくれたり、王子としての足元を固める為に必要な物を探してくれたりした。



それは、ロクサーヌが治めている薔薇の妖精達の輪のその姿のよう。



現にディートハルトの側には、他の薔薇の妖精達もいてくれたし、宰相ですら目を剥くような人外者が祝福を与えてくれたりした。

だから、ずっとずっと、これで間違っていないと思っていたのに。




でも今は、自分のやり方が、今回の一件だけではなく、何か途方もなく間違っていたような気がしてならない。


たまたまウィームの歌乞いが巻き込まれたからではなく、父殺しの槍を手に入れようとした事が思いがけず大きな騒動に繋がったからではなくて、ふと顔を上げたら深い森の中の見たこともないような場所に迷い込んだような気分なのだ。



(……………でも僕は、本物の森なんて見た事がない)



氷の張った湖を見た事がないし、本物の砂漠も知らない。

ヴェンツェル兄上のように軍部の指揮を執ったこともなければ、街に出て買い物をした事も殆ど無い。



(男の人達と、あまり話した事がない)



ロクサーヌが手配してくれた側仕えの青年は、いつもディートハルトの事を馬鹿にしたような目で見ていて、とても意地悪に思えた。

だが、何度かふと、それでも彼と話をしてみなければと感じる事もあったのに、その時にはもう彼は、ディートハルトを案じた仲間達に遠ざけられていて。



心のどこかで、何かが歪だと感じながらも、そこから抜け出せずにいた。

もう意地悪な人間はいなくなったと微笑んでくれる女性達に、やっぱり彼と話してみたいと伝える勇気がないまま、彼はしがない貴族の家の三男なのだと吐き捨てるように言った火竜の王女にこくりと頷く。



その青年を追い払ってしまったと聞いた時、ロクサーヌはとても悲しそうに微笑んで、困ったわねと呟いていた。

どうすればいいのか分からなくて、けれども間違えたところを見せて失望させる訳にもいかず、何でもない事のように振る舞うと、ロクサーヌも諦めたようだ。




そんな事が何度かあった。

ひたひたと、ひたひたと、あの遠い日の絶望のように、何か良くないモノが近付いてくる。




『父殺しの槍だよ、ディー』



そう微笑んで教えてくれたのは、あの火竜の王女。

名前を思い出そうとして、なぜか思い出せなくなっている事に気付き、彼女はもしかするともう、魔術の障りを和らげる為に名前を奪われてしまったのかもしれないと考える。



『ロクサーヌには内緒でやろう。彼女はほら、…………少し気位が高いからさ。自分を守る為にディーがそんな物を手にしようとしていると知ったら、やめさせると思うんだ。でも、このままじゃ、階位を落としかけている紅薔薇の女王様は、王子には相応しくないと引き裂かれてしまうよ。ね?いいかい?父殺しの槍だ。ハバーレンの一族に探させてやるといい。それを持っていれば、あの王だってディーを軽視出来なくなる。やっぱり、最後には強い者が優遇されるんだよ』

『でも、…………僕に扱えるかな。銘のある武器は危ないと言うし、少し、…………極端な武器じゃない?』

『第一王子と同じ手だよ?なぜか王に気に入られているあいつはさ、うちの一族の呪いの子供を手に入れて、一目置かれるようになったんだ。だから、同じ手を使えばディーだって』



そう言った彼女が、ドリーを敵視していたのは知っている。


王宮での振る舞いを何度か直接窘められたことがあり、年寄りの竜は口煩いと腹を立てていたのだ。

でも、ここに来る前迄は、強い竜で一族の誇りなのだとドリーの事が大好きだったのに。




(ごめんね、……………僕が兄上のように優秀ではないから)



だから彼女は、優秀な兄上の契約の竜からも、その振る舞いを正されてしまうのだ。

とても偉大で、けれども大嫌いな兄上のようになれないディートハルトの側にいて、その足りないところを補おうと頑張ってくれるから、頑張り過ぎていつも叱られてばかりいる。



(だからそうか。……………僕も、兄上のようになれば、…………)



ロクサーヌが、時折兄上に何かを忠告され、苦しげに額を押さえて溜め息を吐くような事もなくなるだろう。

軟弱なアルビクロムの血と愛嬌ばかりでは、この海と商人の街を治められないと、影で嘲笑う者達もいなくなるだろうか。



(けれども、……………)



そう思い父殺しの槍を手に入れると決めたあの夜を思い返せば、あの火竜の王女の影は、不自然な揺らぎを見せてはいなかっただろうか。

いつも澄んでいた瞳は、どこか澱んでいなかっただろうか。


そしてその翌日、商会の繋ぎで参じた筈のハバーレンの妖精達は、どこか嘲るような目でこちらを見はしなかっただろうか。



『今回は……』

『存じておりますよ。父殺しの槍でしょう?いささか、響きが良過ぎたくらいですな。勿論、手に入れてご覧に入れますとも。この地の王族の命がなければ、我々は他の者達の所有の宝物庫に触れられませんから、そうしろと命じてさえ下されば』

『そういうものなの?』

『ええ。我々は、土地の盟約で縛られておりますからね』



その一言がおかしかったらしく、妖精達は小さくくすくすと笑っていた。


その日は良い天気だったのに部屋はなぜか薄暗く、一緒にいた仲間達も不安そうに周囲を見回している。

すると、ハバーレン王の副官だという妖精が、宝物庫の妖精は陽を翳らせる事もあるのだと詫びてくれた。



けれどあの日から、彼等との交渉役に立った鈴蘭の精霊の姿を見かけなくなった。


どうしたのだろうとは思ったが、あの妖精達との交渉になぜか強い不安を覚えて任せきりにした事で、こちらに失望して去ってしまったのかなと考えて探せずにいたのだ。




あの時に覚えた違和感が、もし。





「……………考えても仕方ないじゃないか。時間は戻らないんだ」




そうして一睡もせずに迎えた朝、ディートハルトの支度をしてくれたのは、いつもよりぐっと数を減らした仲間達で、彼女達もどこか不安そうにしきりに周囲を気にしていた。




そして、王からの参集の命に応じて向かった先で、ディートハルトは、すっかり詳らかにされていた今回の企みの責任を取らされたのだ。




ロクサーヌがいなくなった。

ぽとりと、誓約書を置いたテーブルに涙が落ちる。


彼女はディートハルトの代理妖精で、それは即ち、ただ共にいてくれる城勤めの妖精達よりも遥かに、ディートハルトの犯した罪の責任を取るべき立場だと言う事に他ならない。


排除という無情な言葉で命を奪われ、障りや呪いを受けないようにと、この王都のどこかにいる高位の魔物の餌にされた者達の名前が次々と呼び上げられてゆく。


そこには、今朝まで側にいた者達の名前もあり、階位が低いからだとか、ディートハルトの陣営に付いて日が浅いだとか、そんな事で見逃された者は一人もいなかった。




ロクサーヌの名前はまだ挙がらない。

だが、こんな時にはきっと、最後にその名前を呼ぶものだろう。



そう考えると怖くて怖くて堪らずに、涙が止められない。




(僕が、ロクサーヌを殺した……………)




ロクサーヌのようになりたかったのに、そうすればもう、彼女を誰よりも守れて幸せに出来た筈なのに。

そうすれば、きっと彼女にも認めて貰えた筈なのに。

母上のように、無力な王子を守ろうとしたせいで殺されてしまわない筈だったのに。



(……………だけど、僕は間違えた。ロクサーヌを、……………僕が、魔物の餌にしてしまった)




王都には恐ろしい魔物が一人いるのだと、ロクサーヌに教えられた事がある。

その魔物が王家を守護しているのか、王宮を住処にしているのか、はたまた国王の守護をしているのかはロクサーヌにも分からないらしい。


統括の魔物や塩の魔物の呪いとは違うのと問いかけると、ロクサーヌは指を唇に当てて、その名前を探してはいけないと言う。


その魔物は悪戯に人間を破滅させる恐ろしい生き物で、決して視界に入らないようにと言い含めて。



ロクサーヌから、一族の問題で高位の魔物達の不興を買い、紅薔薇自体が階位を落としかけていると教えられた時、高位の魔物というものがどれだけ恐ろしいのかを初めて知った。


妖精の王であるロクサーヌですら、魔物の王の怒りを宥める事は出来なかったと言う。

それどころか、もしその魔物が願えば、簡単に世界から紅薔薇は消えてしまうと言うではないか。




(だから、城に住んでいるという魔物には、ロクサーヌだって敵わない…………)




逃げていて欲しいけれど、こんな婚約者を見捨てて立ち去っていて欲しいけれど、多分ロクサーヌはその時はきちんと別れの挨拶をしてくれるだろう。



だから多分、もう彼女はいないのだ。




(……………父上は、ロクサーヌではなく、僕を殺せば良かったのに)




そう思うけれど、それでは王家は損をするだけだ。

この血筋を持ち、いざと言う時には捨て駒に出来る王子が必要なのだと言う事くらいは、ディートハルトにも分かる。


それは婚姻かもしれないし、人質かもしれないし、生贄かもしれない。

どちらにせよ、いざという時の保険は必要だ。

だから父王は、せっかく作っておいたディートハルトを、無駄に殺しはしないだろう。



ぽたり、ぽたりと涙が落ちる。

結局その場ではロクサーヌの名前は呼ばれる事はなく、けれどもディートハルトは、アクス商会の会長だという黒髪の男と、山猫商会の会長だという金髪の男に、きらきらと光る薔薇色の妖精の羽が下賜されたのを見逃さなかった。




その羽を見た瞬間、息が止まりそうになった。




(その羽は、ロクサーヌの物だ!ロクサーヌの物なんだよ!!!)



そう叫び声を上げて取り縋り、彼らがまるで売り物のように他人行儀に受け取るその羽を、力尽くで取り返したかった。

けれどもディートハルトはやはり臆病で、もしかしたらどこかで生きていてくれるかもしれないロクサーヌの為に、そんな真似は出来ずにいる。



紅薔薇の女王の羽は商人達に検分され、やはり、ただの品物のように包み直されて、金庫にしまわれてしまった。



これでお終いだと誰かが宣言し、父王は一度もこちらを見ないまま、冷めたような目をして部屋を出て行った。



ああ、そうか。

あれで察しろという事なのだ。






「……………ディートハルト」




招かれていた商人達が立ち去り、新しく宝物庫を任される事になったハバーレンの王子もいなくなった。

どれだけそこに居たのかは分からないが、気付けば、高い位置にある窓から差し込む陽の光は、既に夕刻のものとなっていた。



名前を呼ぶ声にのろのろと顔を上げ、そこに立っていた兄の姿に、ひび割れた心に少しだけ羨望が疼く。



(……………僕が、兄上のようだったなら)



そうしたら、母は殺されなかっただろうか。

大切な仲間たちは、そして、大好きなロクサーヌは。



何か声を発しようとしたが、喉が張り付いたようになっていて声が出ない。

沢山泣き過ぎてしまい腫れた目では、夕暮れの光の眩しい部屋で、兄の顔も霞んで見えなくなった。




「……………お前にまだ覚悟が残っているのなら、残された者の為に生き延びてみせろ。ここに集うのは人間ばかりではない。気を抜き、研鑽を怠れば、簡単に愚かな人間を引き摺り込む者達の餌食になる。今回の事はこちらでも想定外であった。それを画策した者達はもういないが、利用されたお前も同罪なのだ」

「……………のこ、……………てない」

「……………ディートハルト?」

「のこ、てない。……………だれ………も、…………ない」

「残っているだろう。ロクサーヌは、お前の婚約者だろう」




(……………え、)




その言葉を聞き、胸がぎりりと傷んだ。

息を吸い何かを言おうとして、けれども声を上手く出せずに咳き込んだ。


枯れたと思っていた涙が溢れ落ち、そんな惨めな姿に呆れたような溜め息が落ちる。

まるで先程の誰かのように、涙を落とす事の意味を知らないのかと呟かれた。



(……………知っているよ)



その意味は知っている。

でも、もうそんな事はどうでも良くなっていて、ロクサーヌがいないのなら意味がないだけ。


ロクサーヌがいないのに、涙を取られても何の意味もないだけ。




「……………ロク、…………サヌは、」

「彼女は今回の一件から、敢えて外されていたからな。お前を利用したハバーレンの者達も、彼女の事は警戒したのだろう。ロクサーヌを徹底的に遠ざけ、計画が漏れないようにしていた。それが幸いしたんだ」




(ロクサーヌが……………)




ロクサーヌが、まだ生きている。




胸を押さえて蹲ったまま泣いていると、そう教えてくれた兄上の声が途中から聞こえなくなる。

どうしてだろうと考えていると、自分の嗚咽が混ざり、上手く聞こえないのだと分かった。



「……………生きて、る」

「ああ。彼女はお前の執務室にいる。今回の責任を取り自ら羽を落とし、もうシーではなくなった。その階位でお前の側に立つのは、これ迄以上に難しくなるだろう。であれば、お前が彼女の階位を必要としないくらいに、ここで必要とされる存在になれ。…………彼女がお前の為に失った物を、お前がこれからの人生の全てを賭けて補ってみせろ」




(……………これからの、人生の全てを賭けて)




それは、なんという甘美な言葉だろう。

なんて優しくて、温かくて悲しい言葉だろう。

まだそれを返せるロクサーヌが生きていてくれたけれど、それだけの物を、自分がロクサーヌから奪ったのだ。





「やれやれ、あまりうちの王子様を虐めないで下さいよ」



不意にそんな声が聞こえた。

ゆっくりと振り返ると、いつか仲間達が追い払ってしまったあの側仕えの青年が、扉の横に立っている。



「……………ウォルターの末の弟か」

「またぞんざいな覚え方ですね。ですがこれからは、あなたの不出来な弟君の教育係となります。この反動を生かして良く躾けるつもりですので、出来ればあなたの派閥に組み込んでいただきたい」

「それはないだろうな。こうして弟と話に来たのは、これが王族の一人としての義務だからだ。でなければ、ここには来なかった」

「はは、今は一蹴ですか。……………そうですね、今のあなたには、ディートハルト殿下への情はないに等しい。それだけ、この王子様があなたを失望させ、腹を立てさせたというところでしょう。ですが、有能な、それも王子という肩書を持つ駒はいずれ必要になりますよ?私はこの王子を、その駒に育ててみせましょう」

「……………ウォルターから聞いていた通りだな」

「おや、兄は私のことを何て?」

「性格が捻じ曲がっていると。教師をしているが、教育の面に於いては、やや加虐的な嗜好があるとも話していた」

「ふむ。間違ってはいませんね。この通り、ここまで無様に落ちぶれた王子を育てると思えば、なかなかに胸が躍ります。女達に囲まれてへらへらと笑っていた頃は少しも食指が動きませんでしたが、これなら、……………まぁ、生徒としては合格でしょう」

「……………好きにするがいい。とは言え、ここ迄の足枷を付けられた者を、こちらの陣営に迎え入れるつもりはない。私とて、我が身は可愛いからな」



かつこつと、立ち去ってゆく靴跡が聞こえる。

どうしようと焦り、慌てて声を上げた。




「あに、……………うえ、」



靴音が止まり、けれども声はかけられない。

兄上は僅かに振り向きはしたが、本人が言うようにその瞳には、欠片の情愛も同情もありはしなかった。

冷たい冷たい眼差しに、心が震える。


でも、もう間違える訳にはいかないのだ。




「……………あ……りがと、…………ござ、います」



まだ上手く発せない声を絞り出しそう告げると、また靴跡が遠ざかってゆく。

応える言葉はなかったが、それでも良かった。

伝えられただけで、少しだけ安堵した。




「今のは、まぁまぁ、及第点ですね。じゃ、執務室に戻りますか。婚約者殿との涙の再会なんぞやっている時間はありませんよ。まずは、今夜の晩餐迄に正式な謝罪の手紙を国王陛下にお送りする事。それから、この先噂が広まれば広まる程に手配が難しくなる、各種業者と教育者達の再手配。後援者は、……………まぁ、薔薇の妖精達に絞り出して貰うしかありませんねぇ。今のあなたにはもう、ロクサーヌ様しかおりませんから」



そう言われ、ゆっくりと頷いた。


そうだ。

やはり自分は、この青年ともっと早くに話をしておくべきだったのだ。


けれども、下らない自尊心と、依頼の煩わしさから目を背け、そうはしないままに殆ど全てを失った。




「……………僕、…………は、ロクサ………ヌさえいればいい。………だから、…………ロクサーヌを幸せにする為に、…………これか………ら、お前の………力を…………借りたい」



喉は酷く痛み、苦心して途切れ途切れの言葉でそう告げれば、呆れたようにこちらを見たのは、淡い水色の瞳。


彼は眼鏡をかけていて、短い髪は淡い緑色をしている。

目元にすらりと記された赤い化粧のような線は、学聖の叡智の祝福を受けた人間の特徴だ。



「さっきはああ言いましたが、ヴェンツェル王子の派閥に潜り込める確率はほぼないですよ。ここは大国だからこそ波風の強く当たる王宮で、彼とてその足元は盤石ではない。現王の頭の良さと隙のなさが例外的なんです。………ですが、あちらにとって使い勝手の良い手駒にくらいはならないと、正直なところ、成人まで生かされるかどうかすら危うい。その頃にはもう、ヴェンツェル王子にも子供がいるでしょうし、あの屑………失礼、ジュリアン殿下もさすがに子を持たれるでしょう。となると、手駒とする王族の血筋が他に出来上がるって訳です。…………この国の王は無駄を嫌いますからね」

「それで、……………も」

「ええ。それでも足掻きなさい。ロクサーヌ様を守りたければ」



その言葉に、歯を食いしばり頷いた。




(……………もう二度と)




もう二度と、彼女から何も奪わないように。


膝は萎え、立ち上がれるようになる迄には時間を要し、呆れた宰相の息子に抱えられて執務室に戻ると、そこには、泣き腫らした目のロクサーヌがいた。



「……………無事だったのね?」



その言葉に、彼女もまた自分が殺されていると考えて怯えていたのだと知り、胸が潰れそうになった。


その腕の中に飛び込み、また泣いてしまいながら、何度も何度も謝って、大好きなロクサーヌをしっかりと抱き締める。



(……………お母さまの時と、同じだ)



また、自分のせいで沢山のものを失ってしまったけれど、ロクサーヌだけはこの手の中に残った。

それだけでこれからも、生きてゆける。




ロクサーヌ。

ロクサーヌ。



どうか、君だけは。

どうか、あなただけは。




あの裁きの日の前夜に祈ったのは、醜くも真っさらなこの心の本音で、その時にディートハルトが生き延びて欲しいと願ったのは、彼女一人だけだった。



だからもう、ロクサーヌのようにはならなくていい。

かつての母上のようにも、いつも誰かに傅かれている兄上のようにも。


どれだけ泥をすすり、地面を這いずってでも、美しい紅薔薇の妖精のその一人が微笑んでくれていれば、他には何も望まないのだから。

それくらいの在り方が、今の自分には相応しい。




「あんたは馬鹿ですか。自らの身を守れない男に、婚約者が守れるとでも?さっさとこのくらいの課題はこなして下さいよ」



そう言えば、容赦のない言葉で叱る側仕えがおり、そんな彼と過ごす時間はあの頃より本当はずっと居心地がいいのだとは、まだ彼には言えずにいる。



自分の未熟さのせいで殺されてしまった女性達の名前は、災い封じの為に、名前に宿る魔術ごと尽く壊されてしまったらしい。

だからもう、彼女達のことは、仲間だった者達としてしか呼びかける事が出来ない。



それでもその日になると、与えられた棟の庭に建てた慰霊塔に花を手向け、その冥福を祈る。

愚かな王子を慈しんでくれた為に失われてしまった者達に、尽きない謝罪と、感謝の言葉を捧げ続けた。




目を閉じて眠ると時々、夢の中で彼女達と過ごした賑やかな祝祭の日の声が聞こえる事がある。



みんなで林檎のケーキを分け合い、下らないことを言い合って笑っていた幼い日の記憶。

誰かが失敗して、誰かが微笑み、頭を撫でてくれたり抱き締めてくれたり。


その夢を見ると今でも涙がこぼれるのだが、目が覚めるとやはり、夢の中で呼んでいた名前は一つも思い出せないのであった。




余談だが、あの事件の後で、一人の魔物の訪問を受けた。


真夜中に窓辺に立ち、凍えるような青紫色の瞳で微笑んだ美しい魔物は、愚かな王子に一つの呪いをかけた。


それは、生粋のヴェルリア王族しか呪わない筈の塩の魔物の呪いで、ディートハルトは今後、ウィームに仇成す事は出来なくなる。

かけられた呪いの重さに項垂れ、けれどもその魔物に頭を下げてきちんと謝罪が出来たのは、頼もしい側仕えが教育を急いでくれたお陰だろう。


その呪いは、ウィームを損なうような分岐に差し掛かると、ちりりと心臓が痛むので、実はかなり重宝している。

いつか、あの火竜の王女が話していた呪いの活用の仕方は、寧ろこのような物にこそあるような気がした。




ロクサーヌが羽を取り戻したのは、彼女を失ったと思った日から三年後の事であった。



彼女が紅薔薇の女王に戻ったのは、紅薔薇の妖精達が彼女を慕い続けていたからだ。

紅薔薇の女王に戻った彼女は、幸いにも国王や宰相達から見て、末王子の伴侶として相応しい価値を取り戻したらしい。


だが、ディートハルト自身が彼女に相応しいと、紅薔薇の妖精達に認めて貰う迄には、まだまだ時間がかかるだろう。





「だから、ロクサーヌ。僕はこれからも君の一族に認めて貰えるように死ぬ気で努力する。ここで生き延びられるように、君を幸せに出来るように。……………でも、もし待ちくたびれてしまったら、或いは僕の立場が悪くなって君に危険が迫るような事があったなら、僕を置いていっていいからね。…………でも、その時はどうか、お別れの挨拶だけはしに来て欲しいんだ。君が無事かどうか分からないと困るから。…………それと、………君が僕にうんざりして他の人を愛するようになっても、どうか僕の友人ではいて欲しい」




星の綺麗な夜だった。

そんな事をロクサーヌに告げると、彼女は瞳を瞠って言葉を失い、困った人ねと微笑み、口づけを落としてくれる。



温かなその頬に手を添えると、いつだって胸が震えた。




僕はね、君が生きていてくれて微笑んでいるのなら、それだけでもう充分なんだよ。

こんなにもまだ、何も出来ない愚かな王子だけれど。

それでも。



ロクサーヌ。



これからも、君が生きていてくれさえすれば。















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― 新着の感想 ―
ロクサーヌは危惧していた周りに侍る女たちをまんまと排除して、愛を独占した訳だ。 なるほど妖精は狡猾だなぁ。
[一言] 本編ではないけれど、とても大切な回だと思います 恥ずかしい感想になっちゃいますが、すごく心揺さぶられているので書いておきます。 小さな王子の、取り返しのつかない失態 甘言に流されて、無知…
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