小箱と街と山猫の荷馬車 4
「まぁ、トレベルさんは王子様なのですね」
案内係として迎えに来てくれたトレベルという名前の青年は、なんと宝物庫のシーであり、当代の第一王子という肩書きであるらしい。
有能な執事や給仕のようにも見える装いだが、そう言われると、お忍びで遊びに来た王子様に見えなくもない。
とは言え、六枚羽が揺れる後ろ姿を見れば、シーであるのは一目瞭然なのだが。
「ですが僕は、父が黎明のシーですからね。妹達を放っておけずにこちらに暮らしておりますが、宝物庫のシーとしては力足らずでして」
黎明のシーは剣技に長けており、トレベルは、宝物庫の管理としてのこの街の維持ではなく、こちらに落とされたならず者達の管理などを請け負っているそうだ。
仕立て直して使える者は残し、残せない者達は素材にしてしまうのだと朗らかに語られ、ネアは、こちらの妖精も逆らってはいけない系の御仁であると背筋を伸ばした。
「この中の宝物庫の妖精の一族は、女性が多いと聞いているがそうなのか?」
「ええ。宝物庫の妖精はかなり多くの氏族があるのですが、うちは女達が多いですね。アンジュリアから聞いたハバーレンの一族は、逆に男達が多いんですよ」
さらりとその名前を出したトレベルに、ネアは、ほんの少しだけ息を詰めた。
そんな様子に気付いたものか、トレベルがくすりと笑う。
まだ年若い青年だが、どこか年長者めいた雰囲気はウェルバを思わせる。
会話の為に体を寄せたトレベルに、ネアが、何だか素敵な妖精であると唇の端を持ち上げたところ、ウィリアムにひょいと持ち上げられてしまった。
「むぐ?!」
「転ぶといけないからな」
「これまでも自由自在に階段を登って来たのです。そうそうは転びません…………」
「おや、これは噂に聞く魔物の狭量さですかね。彼女に近付き過ぎてしまいましたか。失礼いたしました」
微笑んでそう詫びたトレベルは気分を害した様子はなく、それどころか面白がるような余裕もあって、ネアは、ますますこの妖精が好きになってしまう。
「そうそう、ハバーレンの名前を呼んだ際の僕の様子が気になられたのでしょう?先程、アンジュリアとも話した名ですが、僕は、彼等が、と言うよりあの王子が、姉に未だに執着しているようには思えないんですよ」
「…………まぁ、そうなのです?」
「そうなのか?」
「ええ。確かにあちらの王子は姉にご執心でしたし、姉も逃げ回っていました。ですが、王子が求婚をしていたのは何百年か前のことですし、あの王子は多分、……姉よりも自分自身の方が好きですよ。ここまで長く不毛な恋に身を焦がす男ではないと思うのですがね………」
小さく微笑み、トレベルは、ハバーレンの王子は同じ歳なので実は面識があるのだと教えてくれた。
その話からすると、ハバーレンの王子は自分の魅力に自信を持ち、どちらかと言えば自己愛の強い御仁のようだ。
短い期間であれば拒絶の言葉を理解せずに追い回しもするだろうが、確かに、このような絡め手を使ってまで欲しがる事もないだろうと思わずにはいられない。
「ですので僕は、ハバーレンが動いたのには他の理由がある。もしくは、何らかの理由を提示して彼等を焚き付けた者達がいるのではと考えています。…………彼は軽薄だが、王族としては愚かではない。僕は最初は彼を軽蔑し、その後に見直した事があります。どのような出来事だったのかは個人的な事ですが。……だからこそ、今回の一件が、姉への執着が理由だと言うのであれば、それはないだろうと主張したいですね」
トレベルの主張は、分かり易かった。
ネアはこくりと頷き、このような見方が出来る人の言葉であれば信用に足るのではと、トレベルに断ってからカードに書いてリーエンベルクの家族達にも共有しておいた。
こつこつとノックの音がして、先程の執務室の扉が開かれる。
ふわりと煙草の残り香が漂い、トレベルがこほんと咳をした。
「アンジュリア………」
「はは、すまないねぇ。換気したつもりだったんだが、つい吸っちまったよ。…………どうだい?あの店の料理は美味かっただろう?」
窓辺に立ち振り返ってにかっと笑ったのは、こんな時間でも疲れた様子もないアンジュリアだ。
ネアはまたしても魔物の乗り物の上からではあるが、食べてきたばかりの晩餐がどれだけ美味しかったのかを少しだけ興奮気味に説明してしまった。
(……………しまった。この方の、どっしりとした包容力のようなもののせいで、つい心が緩んでしまうのだわ………)
話し終えてからそう思いひやりとしたが、アンジュリアは寧ろ上機嫌になったようだ。
「それだけ喜んでくれると、こうも嬉しいものなんだねぇ。夫の後任としてこの街の管理者になってから、丁寧に世話して守り育てたこの土地は、もう一人の子供みたいなものになった。ウィームほどの豊かな土地からの訪問者に、ハムの食事が美味しいと言われるのは光栄な事だよ」
「ええ。店の給仕達も喜んでおりましたよ。街の住人達の憩いの場になる事も誇りだが、外からのお客を喜ばせるのも愉快な事だと話していました」
「あまりにも美味しかったので、あのベーコンなどは是非にお土産に買って帰ろうと企んでいるのです。こちらに、市場のような所はありますでしょうか?」
これからの深刻な話し合いの前に済ませてしまおうと、おずおずとそう申し出たネアに、アンジュリアは声を上げて楽しそうに笑った。
「そりゃあ、お勧めの店を案内してやらないとだね!どうせなら、ムーハのシュプリも持って帰るといい。その腕輪は金庫だろう?一箱やるから、詰め込んでおきな」
「い、いいのですか?!」
「山猫商会から購入出来るものだ。気に入ったら今度は買っておくれ」
「はい!」
ネアは、ウィリアムに床に下ろして貰うと、アンジュリアの執務室に無造作に積み上げられていたシュプリの箱を一つ分けて貰い、魔術の繋ぎを切ってほくほくとした思いで腕輪の金庫に押し込んだ。
思わず軽やかになってしまう足取りに、トレベルが微笑みを深めている。
アンジュリアから教えられたトレベルの年齢は、ヒルドよりも上で驚いた。
青年のように見えるトレベルだが、宝物庫の妖精達はだいたいがそのくらいの年代に見える容姿で、細っそりとした妖精達の中でも華奢な肢体であるらしい。
「手足が細く見えますが、力はありますよ。宝物庫の系譜は、重たいものを運ぶ場面が多いですからね」
「むむ、中のものをご自身で運ばれたりするのですか?」
「自分の領域の中を、居心地良く整えたがる嗜好があるんです。ここの場合だと、街作りになりますね」
一つの宝物庫に付く宝物庫の妖精は、その中を自分の領域として守護するのだという。
そして、ハムの街のように広大な土地を治める妖精達は、この土地とそこに暮らす人々を宝物として大切に手入れするのだとか。
「もっとも、ここに暮らす人々やこの街こそが宝だと判断したからこそ、宝物庫の中に入れた訳ですけれどね。他の街も同じようなものです。あちらは、酪農と家具造りに長けた街と、花を育む事に長けた香水の街です。親族達が庇護しておりますよ」
それぞれが気に入った街を庇護していると聞けば、ネアは、トレベルはベーコンがお気に入りなのかなとにっこりしてしまう。
だが、和やかな空気だったのはそこまでで、各自がテーブルについた後は、今回の事件についての意見交換が再開される事になった。
こつこつと、アンジュリアは広げた白い紙の上を手に持った赤いペンで叩く。
先程もそうだったが、こうしてしっかりとメモを取るのが彼女の流儀なのだろう。
各自に行き渡ったのは、夜想曲と菫の紅茶で、夜の雫が入っているので光の加減できらきらと光る。
「さて、トレベルから聞いたかもしれないが、ハバーレンの一族が積極的に今回の一件に関わるとは思えないという証言がある」
「はい。お聞きしました。私個人の意見ですが、トレベルさんの目線のお話はとても納得のいくものでしたので、ご本人の許可をいただいて上長にも共有しております」
「ああ。そうするといい。その上でこちらからの提案だが、少なくとも明日の夜までは帰れないのであれば、いっそ大っぴらに市場や商店で買い物をして行ってくれないかね」
「…………むむ?」
思いがけない提案にネアが目を丸くすると、ウィリアムが小さく頷くのが見えた。
「代理が立てられそうなのか?」
「ああ。ジルク坊やがすぐに手を打ったようだね。こちらに一人のウィーム貴族が落とされてきたと報告が上がった。既に保護済みだ」
「……………ウィームの、」
その地名だけでぎくりとしかけて、ネアは思考を巻き戻す。
ウィリアムは代理だと言っていたのだ。
であればその人物は、ネア達の身代わりになるような人物なのだろうか。
「………その方は、私が何ら罪悪感を抱かずに、見殺しに出来る方なのでしょうか。ジルクさんとは、その方について何かお話をされているのですか?」
そう問いかければ、ジルクのものによく似た燐光の緑の瞳が愉快そうに笑う。
「話が早くて助かるよ。その通り、そいつはお嬢さんの身代わりだ。これは山猫の秘密だから詳細は明かさないけれどね、山猫の金庫からこちらへの道筋は、箱の持ち手がある程度操作出来るのさ」
「まぁ………」
「でなけりゃ、避難時に困るだろう?」
「言われてみれば、その通りです。…………となるともしかして、私の時は、ジルクさんが目立たない場所に落としてくれたのです?」
「………だが、それなら俺が彼女を保護するよりも早く、こちらの住人に保護させられていた筈だ。ある程度の道筋は出来ても、それは万全じゃないんだろう。あの手枷にも工夫があったんだったな?それぞれに可能な事を組み合わせて管理しているんだろう」
ネアの言葉に重ねてそう告げたウィリアムに、アンジュリアは無言で天井を仰ぎ、片手をひらりと振ってみせた。
「誰だい。終焉は大雑把だから、細やかな魔術の規則性には気付かないだろうって言ったのは」
「…………あなたですよ、アンジュリア」
「はは、気付かれちまったら仕方ないねぇ。…………まぁ、そう言う事さ。僅かな道筋と、捕縛用の鎖で幾重にも調整をかける。落とすだけ落として放りっぱなしとなりゃぁ、こちらも堪ったもんじゃないないからね。あんたの壊したあの鎖は、山猫の魔術と、宝物庫の魔術の叡智を詰め込んだとても希少なものだったんだよ?」
明け透けに話しているようで、それでもアンジュリアはその仕組みを詳らかにはしなかった。
けれどもネアは、落とす場所の調整がある程度可能であり、尚且つあの鎖をかけられた者は、鍵を持っている者にしか見えないという条件付けがあるという二つの要素を組み合わせての想像は出来るようになる。
(その調整が必要になったのは多分、こちらには先に落とされたならず者達がいるからだろう)
その罪人達が徒党を組んで反抗する事程に厄介な事はなく、だからこそ、こちらに落とされた者達は確実に管理下に置けるようにしてあるのだ。
「………私の存在は、ウィリアムさんが保護してくれる迄、こちら側の方々に認識されないようになっていたのですね?こちら側に既に敵が入り込んでいる事も想定の上で、身代わりを立てられるくらいの周知の調整を行ってくれたという事でしょうか?」
「その通りだよ。本来、落とされた者達の回収の仕方は一律だ。時間毎の見回りで各街の管理組織が発見し、収監となる。その作業はある程度目立つものだ。お嬢さんをこちらに落とした事にも意味があるのなら、そうして落とされたのがお嬢さんだと周知されないようにしたのさ」
「という事は、………こちらは、土地の住人ではない方がいるのも珍しくはないのですか?」
(ここは、滅多に入れないようなもっと閉鎖された空間だと思っていたけれど、………)
だが、どうやらそうではないようだ。
でなければ、街を歩くだけですぐに露見してしまう。
そんなネアの問いかけに、アンジュリアはニヤリと笑うと、それも秘密だったんだけれどねぇと呟く。
「この地への入り口となる山猫の商品箱は、相当数ある。元はと言えば、小さな町程もあった宝物庫群の内壁だったものを資材にしているんだから、そりゃあかなりのものさ」
「アンジュリア、自慢は控えめに」
「やれやれ、あんたは昔から口煩いねぇ。………まぁ、そういう訳だ。こちらへの訪問の仕方は、許可なく触れて何も落下するばかりが全てじゃない。でなけりゃ、この土地の名産品の流通が成り立たないだろう」
(………そうか。この人が最初の会談で触れた回収周期は、地上との行き来の頻度を誤認させようとしたのだ………)
だからネアはすっかり、金庫の中の街と地上の行き来は、特別な事情がなければ何年かに一度の手入れくらいのものだと思い込んでいた。
けれども実際には、もっと頻繁に行き来しているのだろう。
「という事で、あなたには、珍しくはない定期商談のお客として振る舞っていただきます。あなたの身代わりとなるウィーム貴族は、既に我々が保護しました。問題がなければ事故で迷い込んだ一般人として地上にお返ししますが、場合によっては生きて帰れずとも問題のない人物だと伺っております。ジルク殿からは、ダリルの指定だと言えば伝わるとの事でした」
「……トレベル」
「あなたの話が長いからいけないんですよ。このような事は、手際よく説明して話を進めねば。………という事ですので、明日は存分に市場で買い物をなされて下さい。資金が足りなければジルク殿が自分のツケにして構わないと。しかし、我々が取れるこの措置は所詮は後追いのもの。敵、と言っていいのかは分かりませんが、………その者達がより周到に罠を仕掛けていれば、目を眩ませる事は出来ないでしょう。充分に注意をされた上で、けれども外に出ていただきたいとお願いしなければなりません」
遠い目をしているアンジュリアの話を遮り、トレベルはてきぱきと話を進めてくれた。
ネアはふむふむと頷きながら、ほんの僅かな違和感を覚えはしたが、敢えてそれを指摘はしなかった。
だがそれは、ウィリアムが見過ごせなかったようだ。
「最初からそうするつもりであれば、俺達がこちらに来る迄の工程にも気を使うだろう。そうしなかったのは、………そこまでは囮にしたからだな?」
ウィリアムは穏やかに微笑んでいたし、紅茶を飲む為に目を伏せていたので、アンジュリア達の方を見てすらいなかった。
けれどもその瞬間、空気そのものがずしりと重たくなるような感覚があって、ネアは胸元のムグリスディノがびゃっと飛び起きるのを感じた。
慌てて服の上から撫でてやる。
「……………はは、終焉の精神圧なんざやめとくれ。苦情はジルク坊やに言うんだね。それに、囮にしたと言うよりは、その場ですぐさま襲撃があるのであれば、いっそ早く解決すると考えたんじゃないかね」
「…………はぁ。アンジュリアは甘いですねぇ。申し訳ない。ご気分を害されていないといいのですが」
困ったように微笑みそう問いかけたくれたトレベルに、ネアはおやっと目を瞠った。
そうしてネアを窺う優しい眼差しは、当然だが、線引きのこちら側のものではない。
アンジュリアの発言を和らげてゆく合いの手の絶妙さは、この二人が、交渉事に於いてこれ以上ない相棒なのだと教えてくれた。
「いえ。ジルクさんとて、ご自身の利益を考えねばなりません。そのような事もあるだろうなと考えていましたので、特に気にしてはおりません。ただ、私の家族や友人に害を為す悪巧みをした場合は、もう一度、指先までぴかぴかコースでお風呂に入っていただきます」
ネアがきっぱりとそう言えば、アンジュリアは目を瞠り、そうしてまたにんまりと笑った。
「頼もしいお嬢さんだ。あの子を風呂に入れたのかい?」
「めそめそ泣いていましたが、きちんとぴかぴかに磨き上げ、湯船にもしっかり浸かってから出てきましたよ」
「はは、こりゃあいい。魔物の伴侶じゃなければ、ジルク坊やの嫁に欲しかった子だねぇ」
「……………アンジュリア」
「はいはい。そう怒りなさんな。あんたの伴侶でもないだろうに。………おや、驚いたのかい?そりゃあ、あんた等の様子を見ていれば、伴侶じゃない事くらいは分かるよ。伴侶じゃないのにその溺愛ぶりとなると、もっと重症って気もするけれどねぇ」
その笑い方があまりにも優しくて、ネアはふと、この女性の伴侶はどんな人だったのだろうかと考えた。
話しぶりでは、もう亡くなっているのではないだろうか。
その人がいた頃は、ウィリアムやグレアム達と共に、どんな風に過ごしていたのだろう。
「アンジュリア、また話が逸れておりますよ。…………ご理解があるようで幸いです。ジルク殿については、あちらに戻られてからどのようにしていただいても構いませんよ。僕としては、ご主人様と記すくらいであれば、了承を得られないと考えたにせよ、やはり事前に説明しておくべきだとは思いますからね」
トレベルはそう言って溜め息を吐いていたが、そこからは素早く明日の行程などについて説明をしてくれた。
買い付けに来ている事になった以上、ネア達はそれなりの買い物をしなければならない。
道楽で買い付けに来たネアと、その契約の魔物、もしくは護衛の人外者を装う事になる。
ネアが業者のふりをするのは難しいので、あくまでも個人の買い付けという体だ。
「………ほわ。蚤の市に、朝市に、午後からは陶器の工房にも行けるのです?」
「楽しめそうか?」
「はい!……お昼のお店も、こちらの三店舗から選べるのですね」
「ええ。当日は僕や、他の宝物庫の妖精達がそれとなく周囲におりますから、どの店を選んでいただいても構いません。ですが晩餐の店は、本日のレストランとなります。夜間の襲撃に対応出来る場所は限られておりますので」
「はい。幾つかのお料理を食べられず口惜しい思いをしていましたので、それは全く問題ありません」
かちこちと時計の針が動く音。
窓の向こうの街からは、リンゴーンという教会の鐘の音が重なり合う音が聞こえて来る。
澄んだ美しい音の重なり合いには怖さはなくて、ネアはその音色に耳を澄まして、見慣れない土地の夜の色に目を凝らした。
(……………綺麗な夜だわ)
夜の光は澄んだ色をしていて、ちかちかと光る星は金色をしていた。
ウィームの星とは色も違うのだなと考え、ネアは沢山の物に囲まれた居心地の良い部屋の中で、部屋の明かりにきらきらと光る金色の髪の妖精が作ってれた工程表に目を通していた。
ネア達は仕入れに来た風を装うので、この工程表は紙で持っていて良いのだそうだ。
少しだけざらりとした紙は古い本の頁のようで、街の見取り図もざっと描いて貰うと、何だか物語の中に出てくる秘密の地図のよう。
トレベルが余計なインクを紙に吸わせて乾かすと、そっと指先で撫でてインクが指につかないかを確認し、ネアが丁寧に折り畳んだものをウィリアムが受け取った。
「さて。ではそろそろ部屋に案内しようかね。朝食は下でも摂れるが、市場でも食べられるよ」
「下のレストランは、随分と早い時間から開いているのですね」
「ここの職員達の、食堂代わりにもなっているからね。着替えなんかは揃っているのかい?」
「はい。お気遣いいただき、有難うございます」
こんな時、魔物達は魔術で着替えをどうにかしてしまえるので、ネアが、首飾りの金庫の中に着替えを持ってさえいれば問題ない。
金庫の中の街で思うのも奇妙な事だが、魔術金庫という物の便利に、ネアはいつも救われていた。
(この首飾りを比較的早い段階でくれたディノのお陰で、私はいつも楽をしてしまうのだわ………)
そんな伴侶は今、すっかり目が覚めたようで胸元でもぞりと丸まっている。
ネアは少しだけ考えて、友達という訳でもないし、あらためて紹介する必要はないかなと考えた。
ムグリスディノがもぞもぞしているので、ネアが胸元に生き物を入れているのは気付いているだろう。
となれば隠しているという感じでもないので、まぁいいかと考えたのだ。
「商会の鍵番が到着次第、こちらから迎えに行くよ。晩餐の時間になっても鍵番が来ない場合は、もう一度こちらで話し合いだね」
「その鍵番とやらが、一刻でも早くこちらに来る事を願うばかりだな。こちらに留まれば留まる程、余計な問題に深入りしそうだ」
「はは、そりゃこちらも同じ意見だ。どこぞの馬鹿共が、迂闊にもあんたを怒らせるような事をすれば、そのついででこの土地ごと滅びかねない。…………念の為に言っておくが、魔物同士の領土争いなら外でやっておくれよ?」
(……………あ、)
苦笑混じりの声で成された苦言であったが、その声を聞いた瞬間に、最後の疑念が剥がれ落ちた。
どうやら、この建物のどこかにいるらしい未確定の魔物のお客の件も含め、アンジュリアは、本当に今回の一件には何の関わりもなさそうだ。
僅かに声に滲んだ混じり気のない苛立ちは、自分の領域を荒らされた獣の不機嫌さで、縄張り意識のとても強い人間であるネアもよく感じるもの。
器用な者達の手にかかれば、感情はどれもが容易く装える仮面のようなものだが、腹立たしさと不安を綺麗に混ぜ合わせたような癇癪ばかりは、込み上げてきて演技を崩すものでこそあれ、演じようと思って絶妙に配分出来るものではない。
今の、アンジュリアの声には確かに、その微かな気配が宿っていて、ネアはそんな響きの中に彼女の真意を見たような気がした。
(この人は、言葉以上の執着として、この土地をとても大切にしていて、守らなければいけない土地に厄介事を持ち込んだ人にとても腹を立てているのだわ………)
だが、垣間見えた真意にほっとしたネアとは違い、ウィリアムがひたりと纏ったのは、凍えそうな魔物らしい酷薄さだ。
斜めの席に座っていたトレベルが、ひゅっと短く息を呑み、ネアのムグリスな伴侶がこちらを案じるように体をぎゅっと寄せてくれる。
退出の為に立ち上がったばかりだったウィリアムは、夜の街を映した窓を背に、酷く暗く、けれどもぞっとする程に美しく見えた。
ネアはその手をしっかりと握り、魔物らしい目でアンジュリア達を一瞥したその横顔を見ている。
「俺達より先にこちらに滞在している魔物の事であれば、俺も、誰なのかを教えて欲しいと思っていたところだな。君は古い友人の伴侶だが、守るべきものを手の内に残しているのなら、俺の機嫌を損ねるような真似だけはしないでおいた方がいい。…………言うまでもないが、俺は君が守りたい物との相性はあまり良くない」
「…………っ、…………言えるものなら、とっくに言っているよ。だが、こちらも商売で管理と維持を回している土地でね。おまけに、商いに紐付く魔術誓約は、誰よりもしたたかな領域で組み立てられた強固な規律だ。それを破る事は出来ないよ」
「やれやれ、君もその魔物が何の為にこちらに滞在しているのかは知らないのか。だが、俺がその魔物との間に問題を抱えていると考えたという事は、相手はそれなりの階位らしいな」
「おっと、そこは一つ失言だったようだ。これ以上の情報は渡せないよ。あんたに街を滅ぼされるのも、あちらのお客に殺されるのも真っ平だからね」
「失言だったのかどうかはさて置き、睡眠の邪魔だけはしないでくれ」
どこか酷薄さは残るものの、そう告げたウィリアムの表情はもう、見慣れたものになっていた。
ネアはぱちぱちと目を瞬き、人外者同士の駆け引きの場に立ち会ってしまったのだなと、きりりと頷く。
しかし、その謎の魔物の正体は、思いがけない程に早く判明する事となった。
アンジュリアの執務室を出て、宿泊させて貰う客室に案内して貰おうとしたところで、ネアは、すぐ目の前の廊下の壁にもたれて誰かが立っている事に気付いた。
部屋までの案内を買って出てくれたトレベルが、はっとしたように羽を広げてこちらの姿を隠してくれようとしたが、ネアは、立っていた魔物とばっちり目が合ってしまう。
「……………なぬ」
目が合うと無言で片眉を持ち上げ、かつかつと靴音を立ててこちらに真っ直ぐに歩いて来る魔物に、慌てたように制止の声を上げたトレベルに、何事かと執務室からアンジュリアが飛び出して来る。
トレベルを宥めるように首を振ったウィリアムと手を繋いだまま、ネアは、正面に立った魔物にぐいっと頬っぺたを摘まれてしまった。
「……………おのれ。許すまじ」
「ふざけるな。何でお前がここに居るんだ!」
「………やれやれ。先程の精神圧で炙り出せるかなと思ったんですが、あなたでしたか…………」
「また目を離した隙に事故りやがって。ましてや、よりにもよって、厄介な調整の最中にか!」
「ぐるるる!この手を離すのだ!!」
再会するなり頬っぺたを摘む悪い生き物を威嚇し、ネアは、ウィリアムがそのアルテアの手を引き剥がしてくれたところで、さっとウィリアムの背中の後ろに避難する。
「………はぁ。久し振りに肝を冷やしたよ。知り合いだったのかい…………」
「……………むぅ。アルテアさんです」
そこに立っていたのは、擬態はせずに漆黒のスリーピースに帽子と杖という隙のない装いをし、赤紫色の瞳に苛立ちを浮かべたアルテアであった。
珍しく魔物の姿のままであるので、森に帰っているところだったのかもしれない。




