小箱と街と山猫の荷馬車 3
美術館だった建物の一階にあるレストランは、優美な曲線の装飾が美しい天井の高い造りであった。
入り口には百合の花を象った彫刻があり、扉は繊細なステンドグラスの装飾だ。
店の前にはこの街で作られる陶器片でゼリージュのようなモザイクがなされており、リボンに記された店名を掲げる青い小鳥の絵柄が可愛らしい。
入口の両脇には庁舎側の入り口にもある陶器の鉢に植えられた植物があり、こちらに植えられているのは丸く刈り込まれて、アプリコット色の花を咲かせる薔薇であった。
ふわりと香るのは、清しい薔薇の香りだ。
「ご予約のお客様ですね。アンジュリア様からステンドグラスのよく見える席をと言われております。さぁ、こちらにどうぞ」
「まぁ、このお店のステンドグラスは、外から見ていてとても気になっていたのです。とても楽しみですね」
ザハのような高級店とはまた雰囲気が違うが、案内に出てくれた給仕の男性は水色のクラヴァットが涼やかな黒いジレ姿の制服に身を包んでいる。
そんな店員に、ウィリアムがムグリスの同席が可能かを尋ねてくれた。
「店内を見る限り問題なさそうだが、使い魔の連れ込みは可能だろうか」
「ええ。騒ぎを起こすようであれば弁償となりますが、お連れ様が御せると判断すれば入店を許可しております」
「こちらなのですが………」
「キュ」
「おや、ムグリスですね。勿論構いませんよ。小さなお取り皿を用意するようにしますね」
アンジュリアの執務室では顔を出すタイミングを見失っていたムグリスの伴侶が顔を出し、ネアは、こちらに伺う前に染め粉玉で色変えをした、水色なムグリスディノの頭を指先で撫でた。
むくむくの毛皮に触れるだけで心がほわほわになってしまい、ネアは小さな幸せに酔いしれる。
勿論人型の伴侶にぎゅっとして貰うのも素敵なのだが、ウィリアムが一緒に居てくれる今は、この姿で胸元に収まっていてくれるからこその安らぎも嬉しいのだ。
「キュ」
「ふふ。晩餐は一緒にいただきましょうね」
「キュ!」
そんなやり取りをしながらエントランスを抜けて入った店内は、高い天井から百合の花を模したシャンデリアが吊り下げられ、深い飴色の木の家具で統一された落ち着いた空間だった。
テーブルの上には、もはやお馴染みの艶なしの青磁色の花瓶が置かれており、スプレー咲きのアプリコット色の薔薇が生けられていた。
小指の先くらいの小さな薔薇がぽひゅんぽひゅんと咲いているので、何とも可憐な印象である。
「まぁ!お店の奥の壁が、一面ステンドグラスになっているのですね」
「ええ。こちらは元々、美術館だった頃に作られたエントランスホールの装飾だったんですよ。とは言え、名のある芸術家の作品ではなく、開館を祝った住人達の手作りだったのですが」
「なんて素敵なのでしょう。それが、今もこうして楽しめるのは、素敵な事ですね」
「…………ええ。残念ながら、美術館に収められていた作品は全て持ち去られてしまいましたが、このステンドグラスだけは残ったのです」
ネアはふと、この青年はどれくらいこの街の歴史を知っているのだろうと考えた。
ハムの街が金庫の中に移されてからは随分と月日が経っているようだが、彼はまるで、その日のことを思い出すように語るのだ。
「君は妖精だな。昔からここに暮らしているのか」
「あれ、よくお分かりになりましたね。これでも人間に転属中なんですよ。妻が同じように歳を取りたいと言うので、そろそろもういいかなと思いまして」
そう微笑んだ青年は、昼間は著名な陶芸家の工房で働いているのだそうだ。
釉薬の調合をする妖精の一族で、この街が、ハーグルムーハと呼ばれた頃からここに暮らしている。
後継ぎが出来ない内はと考えていたが、近年良い後継者達が育ってきており、安心して後を任せられるだろうと考えて転属を決意したらしい。
席まで案内して貰いながら、思いがけず素敵な話も聞かせて貰い、ネアは、丁寧に彫り込まれて作られた木の椅子に座る。
クッションなどは敷かれていないのにごつごつとしないのは、椅子の座面に絶妙な窪みが彫られているからだ。
背もたれ部分の彫刻も素晴らしく、これはハムの街で作られたものだろうかと、ネアは目を輝かせた。
「まずは、………ムーハのシュプリはあるだろうか」
「ええ。勿論ございますよ」
「では、それをグラスで二つ。ネア、最初のシュプリだけ任せてくれるか?これは多分、好きなものだと思うからな」
「はい!初めてのものですし、土地のもののようなのでとても楽しみです」
ウィリアムが頼んでくれたムーハのシュプリは、ハムの街で育てられる温室苺のシュプリなのだそうだ。
綺麗なロゼ色で、酒精の祝福は弱くどちらかと言えばジュース寄りであるらしい。
疲労回復の祝福が強く、ここでは晩餐の乾杯に好まれるシュプリだと聞けば、今日はちょっぴりお疲れ気味のネアはわくわくと微笑みを深めた。
「……………林檎燻製の、ベーコンのステーキ」
「それは必須だな」
メニューを開いたネアがふるふるしながらそう呟けば、こちらを見たウィリアムがにっこり微笑んでくれる。
向かいの席に座りコートを脱いだウィリアムは、どこか寛いだ雰囲気でとても柔らかな目をしていた。
珍しく、シャツにクラヴァットに黒いジレ姿で、やはり少しだけ見慣れない雰囲気ではないか。
「そのような服装だと、ウィリアムさんの雰囲気がいつもと違って少しどきどきしますね」
「はは、それならこういうのも悪くはないかな」
「黒いジレは、こちらの住人の方の特徴的な装いなのでしょうか?」
「ああ。ジレ姿に羽飾りは職人の証なんだ」
「まぁ!それで、帽子に羽飾りを付けた方が多いのですね。とても素敵だなぁと見ていたのです」
なお、黒いサスペンダー姿の男達は、見習い職人なのだそうだ。
とは言え、熟練の技術が求められる工房が多いので、長年見習いのままの者達も多いらしい。
見習いでいる限りは給金が低くて困るという事もなく、見習いの中でも何段階かに肩書きが分かれ、上級見習いはそれなりの稼ぎなのだとか。
かつこつと、店内にも続くゼリージュの床を踏む靴音に、店内のどこかに噴水があるようで、しゃばしゃばとした水音も聞こえる。
客席との仕切りにあるカウンターに置かれた花瓶にふんだんに生けられた花と、夜の光を透かしたステンドグラスの影。
バイオリンを弾いているのは、綺麗なミントグリーン色の羽をした妖精だ。
足元までの髪の毛を複雑に結い上げ、とろりとした銀鼠色のドレスがこの街のカンテラの光のよう。
優雅な夜は、人々の晩餐を彩るいい匂いに満ちていて、柔らかな談笑の声の重なりは健やかさ以外の何物でもない。
ネアはその安らかさを吸い込んで唇の端を持ち上げ、目が合ったウィリアムに微笑みかける。
だがしかし、すぐに視線はメニューに釘付けになった。
「焼きフェンネル添えベーコンのステーキに、……煮林檎添えのピリ辛燻製ソーセージ………むむ、森喰みキノコの濃厚ソースの自家製トウモロコシニョッキも素敵ですね。……夜堀り豚のモレソースがけ………むむ………むぐぅ」
ネアは素敵なメニューの並びに途方に暮れてしまい、まずはと、くすりと笑ったウィリアムが、ベーコンステーキとソーセージを頼んでくれた。
その間に、誰かのテーブルに運ばれてゆくチョコレートケーキのようなものに目を光らせたネアは、店員から、ケーキ仕立ての黒すぐりとフォアグラの前菜だと教えて貰う。
かりかりっと焼いた金小麦の薄いビスケットも添えられており、バターナイフのようなものでそのビスケットに塗って食べるのだ。
メニューを見るとあまりにも安価なので、すぐさま追加する。
(や、安い………!!)
これだけ頼んでも、まだウィームのランチの一人分のお値段だ。
ネアは椅子の上で小さく弾み、真剣にメニューと向き合い直す。
「モレソース………」
「カカオを使った少し辛いソースだな。こちらのものは風味が強いから、好き好きかもしれない。他にも食べたいものがあるのなら、味が想像し易い物を頼んでおいた方がいいかもだぞ」
「むぐぐ!ではそうしますね。なおこの、春果実のチャツネと黄色いチーズのトーストは頼みます!」
「お、これは久し振りだな。かなりお勧めだ」
そう聞けば、ネアはむふんと頬を緩めるしかない。
ウィリアムが一人前くらい食べられると聞き、ハーフサイズではなくしっかりと頼む事になった。
ぴりりとした爽やかな辛さの檸檬と青唐辛子のソースが付いてくるそうで、それをかけて食べても美味しいらしい。
香草をたっぷり練り込んだ羊の新鮮なチーズを散らしたサラダも一つ頼めば、テーブルの上の素敵な彩りになる。
じゅうじゅうと音を立ててベーコンのステーキが届くと、ネアは、ムグリスの伴侶が火傷しないように手のひらで覆いつつ、目をきらきらと輝かせた。
お店からのサービスで、ひよこ豆のペーストをさっと揚げたフライドポテト風のものも添えられている。
「ウィリアムさんが来てくれたお陰で、こんな素敵な晩餐にありつけました」
シュプリのグラスを手にもう一度そう言ってしまえば、ウィリアムが目を細めて微笑む。
テーブルの上に臨時の席を作って貰ったムグリスディノも、ちびこい三つ編みをしゃきんとさせて頷いていた。
「まだ心配はあるだろうが、ひとまずは、リーエンベルクに帰る事を優先しよう。今はもう落ち着いていても、今夜は怖い思いをしたばかりなんだ。くれぐれも、無理はしないようにな?」
「はい!…………むぐ。………ふぁ!こ、このシュプリはとても美味しいです!!」
「…………キュキュ」
ムグリスな伴侶も、お店の人が用意してくれた小さな妖精用のグラスでシュプリを分けて貰い、気に入ったのか三つ編みをぴーんとさせていた。
ほんの少しだが、けれどもこうして食べ物を分かち合えるのだから、なんて素敵なのだろう。
「あぐ!…………こちらは、林檎の香りがふわっと抜けて、なんて美味しいベーコンなのでしょう!ほくほくのフェンネルと合わせて食べると、塩味も丁度良くて幾らでも食べられてしまいますね」
ここにフォアグラの前菜と、ウィリアムが待っていたチーズトーストも届き、テーブルは途端に賑やかになった。
まだアンジュリアとの会談が残っているのでと考えながらもネアは、もう一杯だけ同じシュプリを頼んでしまい、その後からは飲み物をお茶に切り替えた。
「キュ?!」
「まぁ、さてはチーズトーストがお気に入りですね?」
「キュキュ!」
「ふふ。ムグリスなディノと、ウィリアムさんが同時に同じものを食べていると、何だか不思議でほっこりしますね」
そんな事を言われてしまった魔物達は顔を見合わせてしまい、なぜか少しだけ恥じらったようだ。
僅かに目元を染めたウィリアムは、どことなく無防備な感じがする。
「ネアも食べてみるか?」
「むむ、チーズトースト………」
ウィリアムがどこか悪戯っぽく微笑み、チーズトーストを千切って口に押し込んでくれる。
体を寄せてぱくりとそれをいただけば、上で蕩けるチーズの濃厚さと、チャツネの甘さが絶妙な組み合わせで、ウィリアムは尚且つ少し辛味を足して食べているようだ。
(…………美味しい!!)
ここでも新しい味覚に出会ってしまい、ネアはテーブルの下の爪先をぱたぱたさせた。
結局そこにトウモロコシニョッキも頼み、尚且つデザートには美味しい三種の果実のタルトにも出会ってしまい、ネアは大満足でハムの街の晩餐を終えた。
若干ハム度が足りない気もするが、ハムの街とは言えこの街で有名なのはベーコンなのだ。
「ここのベーコンを、お土産に買って帰ります………」
「キュ………」
「であれば、アンジュリアに伝えて店を教えて貰おうか。丸一日こちらに拘束されるのなら、明日は時間が取れそうだからな」
(……………丸一日、)
そう言ってくれたウィリアムに、ネアは、ずっと気になっていた事を尋ねてみることにした。
閉店までの残り時間を見て入店したので時間が計り易く、先方の準備が出来次第に、この席に迎えが来るようになっている。
つまりそれ迄は、のんびりと食後のお茶をいただけるのだ。
「ウィリアムさん、今回は急な事でしたので、大急ぎで駆け付けて貰ってしまったのですが、………その、お仕事は大丈夫なのでしょうか?」
「もしかして、ずっと心配していたのか?」
「……………ふぁい」
伸ばされた指先が、とんと、鼻先をつつく。
むぐっと目を丸くしたネアに、ウィリアムはどきりとするような優しい目で微笑んだ。
「ネア、たった一日だ」
「ふぁい…………」
「それに、ノアベルトの呼びかけに応えられる余裕があったからこそ、こちらに来られたんだからな?」
「ふぁい」
「こんな風に、ネアやシルハーンとウィームを離れて食事をする事も珍しいだろう。実は、あまりない機会だからとこっそり楽しんでいるんだ。そう告白したら、ネアは失望するか?」
「まぁ、私も、こっそりお土産ベーコンで頭がいっぱいなのです。こちらにウィリアムさんが来てくれて、帰るまでは一緒なのでとすっかり楽しんでしまっているのです………ぎゅ」
「はは。そうか。それなら良かった。………俺は、あまりこういう時に一緒に居てやれなかったからな。今回は側にいられて嬉しいよ」
(ウィリアムさんは、優しいな…………)
その言葉にすっかり安心してしまう人間は、お腹もいっぱいになって心がほこほこしてきた。
ムグリス度の高めな伴侶は、満腹ですっかり眠たくなってきてしまったらしく、こくりこくりと居眠りで体が揺れているので、お口の周りを綺麗にしてから胸元に設置し直す。
またしてもアンジュリアには会えなくなってしまうが、ムグリスの小さな体に睡眠は大切なものだ。
「そう言えば、この建物の中にはまだ魔物さんがいるのですか?」
ふと、そんな事を思い出して聞いてみると、ウィリアムは白金色の瞳を細めて僅かに剣呑な眼差しになる。
「ああ。………俺は細やかな魔術の気配を追うのは得意ではないんだが、気配擬態を行っていなければ、まだいる筈だ。だが、俺達が建物の中に入ってから少し気配が薄くなったな。向こうも、こちらを警戒しているんだろう」
「アンジュリアさんの対応を見ている限り、こちらに害を為すような方ではないのかもしれませんが、……お相手が山猫商会の顧客の方だと、そもそもこちらに情報を開示出来ないでしょうね」
「そうだな。このような隔離地に、ある程度高位の魔物が暮らしているという事はないだろう。俺達と同じように外部から来た者だろうな」
「むぅ。…………時期が時期だけに、少し気になりますよね」
(問題の妖精さん達が、ヴェルリアの宝物庫にとって欠かせない一族なのであれば…………、)
ネアの生まれ育った世界とは違い、こちらの世界の宝物庫には、魔術的な価値のある物も保管される。
また、タジクーシャのスフェンを隔離金庫に捕縛した時のように金庫魔術は牢獄として使われる事もあり、王都では、広大な宝物庫そのものを牢獄として管理していると聞いていた。
どちらにせよ、簡単に排除出来る者達ではなく、入れ替えるのも難しい運用を管理する一族なのだろう。
問題を起こしたからと言って排除する訳にはいかないヴェルリアと、今回の問題の板挟みになっているウィームとの間には、何らかの話し合いが必要になる。
そう考えて、ネアはふと、人間側の理由もあるのだと気付いた。
(……………今回の一件は、妖精ありきとなっているけれど、もし、ノアがカードで教えてくれたように、山猫商会の持ち込む新しい魔術を検問所で使われては困る理由があるのだとしたら、………)
政治的な理由から、ウィームが山猫商会を切る事こそが目的でもおかしくはない。
ヴェルリア側で宝物庫の妖精達の手綱を取れないのであれば、高い確率でウィームがこの問題から手を引くしかなくなるではないか。
「ネア、…………大丈夫か?」
「…………今回の一件は、ウィームはなかなか難しい立場だなと考えていたのです。ですがそれは、私がちっぽけな頭で考えなくとも、ダリルさん達が上手く回してくれるでしょう。………だからこそ、こちらで足を引っ張るような言動をしたくはないなと考えてしまいました」
ネアが山猫商会の金庫の中に落ちてしまったのは、ネアが踵を返して箱から離れようとした際に、巧みに進路を塞ぎ、体をぐらつかせた人物がいたからだと聞いている。
言われてみれば確かに、誰かにぶつかりそうになって一歩内側に下がった事で、ネアはあの箱に膝をぶつけたのであった。
(でも、それは私の不注意でしかないのだとばかり…………)
巧みに計画を示したその手のひらで踊らされたのだと知れば、気付けなかったネアはやはりぞくりとする。
こちらにもそのような道筋がなければと、そう考えずにはいられないのだ。
「…………確かに、今回の一件はあまり気持ちのいいものではないな。俺の考えだが、少し話してもいいか?」
そう前置きをして、ウィリアムはクリーム色の繊細なカップを持ち上げ、春の花のお茶を一口飲む。
可憐な名前のお茶だが、どちらかと言えば薬草茶に近く、緑の茶葉を使ったかのような爽やかな苦味と甘みが口の中をすっきりとさせてくれるものだ。
これを飲むと、ネアは水竜の王から沢山貰ってまだ備蓄が減らない香草茶を思い出してしまう。
この土地は、ロクマリアがカルウィ寄りまで領土を広げた頃の国境域の街の一つなので、案外、同じような味わいが好まれるのかもしれない。
「この手の人間の思惑と、人ならざる者達の要求が絡み合う事件は少なくはないんだ。俺はその顛末の戦場でそれを知る事もあるし、その途中の騒動に、人間に混じって暮らしている中で触れることもある。少ししか話は出来なかったが、ノアベルト達の会話を聞く限り、問題になっている商会の人間達は恐らく妖精の浸食下にあるだろう。……………ネアが箱に触れた経緯を聞いて、よく似た工作を幾つも思い出した」
「……………同じような手口が、これ迄にもあったのですか?」
「ああ。気付かれずに行動に介入する。或いは、思惑通りにその言動を操作する。そう聞いて、思い当たる節はないか?」
「……………妖精さんの得意分野です」
はっとしてそう呟けば、ウィリアムは静かに頷いた。
「だからこそ、妖精の血を引く騎士や兵士は重宝される。代理妖精の中でも護衛官となる剣の役割の者達もそうだな。彼等は、魔術侵食をせずとも、相手の行動をそれとなく操作する事に長けているんだ」
「実は、…………箱にぶつかったのが、近くにいた方にそのように仕向けられたのだと知って、……………少し怖かったのです。私は、………前の世界で暮らしていた頃の経験上、そのようなものには敏感だと自負していたのに気付かなくて………」
その不安も告白してしまうと、ウィリアムは僅かに目を瞠り、ネアの頭にふわりと手を載せてくれた。
「そうか。それは不安になるよな。もっと早く説明しておくべきだった」
「………むぐ。あまり良くない事が起きているという証明なのに、理由が分かって、ほっとしてしまいました」
「それでいいさ。知らないという事は、やはり恐ろしいものだ。人間も、俺達もな」
閉店時間が近付き、店の中ではラストオーダーの時間を知らせる店員達が各テーブルを回り始めた。
ネア達はもう一杯ずつお茶を注文し、ネアは、運ばれてきた紅茶のソーサーに置かれた小さなキャラメルクッキーをぱりりと齧る。
「ウィリアムさんは、今回の件が少し厄介な事件だと思っているのですね?」
「…………俺の見立てだとな。表面的には人間の仕業と見せかけての妖精の介入による事件だが、俺の見慣れたこれまでの同種の事件は、ここまで整っていないものばかりだ」
「妖精さん主導となると、やり方が変わってくるのです?」
「ああ。もう少し荒いか、もっと巧妙に、その介入にすら気付かせず大きな騒ぎも起こさずに動くかのどちらかだ。ましてや宝物庫の妖精達は、閉ざす事と隠す事に長けている。潤沢な人材を抱えていたであろうロクマリア程の大国にすらその消失に気付かせずに、この街をここに隠してしまっただろう?」
「…………まぁ!その通りでした」
「だから、ノアベルトやダリルにさえ気付かせずにあの場にその介入を受けた者がいたところまでは、不思議じゃないんだ。だが、ネアをこちら側に落とす事こそが目的でもない限り、やはり妙だな。妖精側の理由だけでは、リーエンベルク前広場であれだけの衆目の下、ましてや誰かをこちらに落とす必要がない」
であれば、それは人間側の画策なのか。
「むむ、となるとやはり、検問所の問題絡みなのでしょうか?」
「かもしれないが、ウィームの目すら欺いていた者達が、結果としてそちらの不正を炙り出されるような騒ぎを起こすかという疑問もあるんだ。そう考えると、双方の足並みが全く揃っていないか、或いは、双方とも誰かの手のひらで踊らされている可能性もある」
「……………例えば、ここにいる魔物さんでしょうか」
ひやりとしてそう問いかければ、ウィリアムはあまり嬉しくない推理なんだがなと苦笑した。
「騒乱や災いを好む者達は、そうやって何本もの糸を絡めて問題を起こす事が多い。糸の引き方がおかしい時には、大抵誰かが背後でその端を持っているものなんだ。俺がこれ迄に悩まされてきたのは、主にクライメルやアルテアだったがな」
「…………むぅ。もしかすると、使い魔さんが森に帰っているのかもしれません。まだ連絡が取れませんから………」
「まぁ、アルテアなら、どう動いていたとしても、最終的にウィームに損失を与えるような事はないだろう。寧ろ、他の魔物だった時の方が厄介だ」
「クライメルめはもういないとして、他に、そのような事をする方はいらっしゃるのですか?」
「うーん、気が向けば殆どがやりかねないが、近場だと、アイザックと白樺だな。ブレメやガザナルディ、ニトムスなどもあり得るか…………」
「がざ………」
「ガザナルディは混迷の魔物で、ニトムスは踏み外しの魔物だ」
ネアはここで、踏み外しの魔物というまた微妙なものを司るご新規さんの登場に目を瞬いたが、よく考えればとても怖い魔物なのかもしれない。
「ニトムスは、…………そうだな。ふとした折に、やってはならない事の側に無意識に足が向かいそうになる事があるだろう?踏み外してはいけないのに体がそちらに傾いたり、触れてはならない物に触れてみたくなる。あのような衝動を司る魔物なんだ」
「…………… ぞくりとしました。会いたくありません………」
「ガザナルディは、どちらかと言えばアルテア寄りか。混迷の齎す光と影のどちらの資質もあるから、上手くやってゆける者達もいる一方で、災厄として認識している者達もいる。…………とは言えやはり、最も手を出していて欲しくないのは、アイザックだな」
そう言われ、ネアは少し意外であった。
アイザック自身はネアの線引きの内側の存在ではないが、ウィームに拠点を置き、獲物の卸しなどもしているのでどこか親しみがあるのも否めない。
(でも、………レーヌさんの時のように、アイザックさんが気に入った側に付いて、こちらの足場を崩すという事もあり得るのだ…………)
あの時は最終的にはこちらに付いてくれたが、今のアイザックにとっての最上の顧客が誰なのかは、彼にしか分からない事である。
アクス商会を動かせる欲望の魔物が対岸に立てば、かなり厄介な事になりかねない。
「むぐぐ…………」
「だから、ここからは、線引きを少し厳しく見た方がいい。例えばこちらで出会うのが、アイザックや、アクスの所属の者達やその関係者だったとしても、油断はしない方がいい。まぁ、アクス絡みだと、そもそも山猫商会の金庫の中に入り込んでいる時点で、かなり怪しいがな…………」
「そう考えると、私も擬態が出来れば良かったのですが…………」
「ああ。それが少し痛いな。ネアの持っていた染め粉に、他の色があれば良かったんだが…………」
こちらでは、擬態を解けないように、新しい擬態を重ねる事も出来ない。
それは、人間などに擬態して積み荷に近付いたならず者が、解けない擬態の代わりにと別の擬態を纏い直す事を防ぐ為のもので、その結果ネアとディノの変装はかなり難しくなった。
幸い、ディノは染め粉玉で水色ムグリスへの変更が出来たものの、運悪く残された染め粉玉が赤色しかなかった。
この土地では赤毛は倦厭される髪色で余計に目立ってしまうと聞けば、却って目を引く髪色への変更は憚られる。
へにゃりと眉を下げたネアに、ウィリアムが淡く微笑み、そっと頬に手を当ててくれた。
ひんやりとしたその温度が、シュプリのわずかに残った火照りを冷やしてくれるようで心地よい。
「どのような思惑が動くにせよ、ネアに危険が及ぶような事にはさせないから安心してくれ。とは言え警戒をしておいて欲しいと話した事で、少し不安にさせてしまったな」
「いえ、危険を知る事が出来た方が良かったです。しっかりと気を引き締めて、帰るまでは周囲に注意を向けておきますね」
ネアが、そうきりりとしたところで、こつこつと真っ直ぐにこちらに向かってくる靴音が聞こえた。
ゆっくりと振り向けば、そこに立っているのは一人の美麗な青年だ。
アンジュリアやこちらの住人達のようにジレ姿で、長い金糸の髪を一本に縛った藤色の瞳の妖精である。
見慣れたヒルドの羽よりもすらりとした細長い妖精の羽は髪色と同じ淡い金色で、ネアは一瞬、陽光の系譜の妖精だろうかと考えてしまった。
「お待たせしました。アンジュリアから、あなた方を上の執務室へご案内するように申し使っております。お食事がお済みでしたら、こちらへどうぞ」
そう微笑んだ青年は優雅に腰を折ってお辞儀をし、自分が、宝物庫のシーである事をさらりと明かしたのであった。




