16. 大切な薔薇を抱き締めます(本編)
夕刻になると、ウィリアムは、名残惜しそうにネアの頭を撫でてから帰っていった。
この様子だと、まだちびころにされたネアの余韻を引き摺っているので、来年は敵に回るかもしれない。
ネアは、その時ばかりはウィリアムと戦う覚悟をしなければならなそうだと、冷徹な眼差しで頷いた。
一方で、未来への期待に満ち溢れる者もいる。
ネアが、帰り際のウィリアムにとろふわ竜の約束を重ねてしておいたところ、ノアが目を輝かせていた。
アルテアがいるので表情に気を付け給えとネアはハラハラしたが、よれよれで戻ってきたエーダリアがさり気なく他の話題を振って守っている姿が愛おしい。
少しでも体力を回復しなければと、遅い昼食を摂ったエーダリア達は、王都では媚薬的な混ぜ物が怖くて飲食が出来なかったようだ。
一般人から狙われるなら、魔術師の塔の長であるエーダリアとシーであるヒルドなのだから危険もないが、ガレンで狙われた場合にはマッドサイエンティスト的な魔術師が異能魔術を編み出している危険があり、油断出来ない。
好意を得てしまうからこその危険を乗り越え、けれどもそれなりに疲弊しきって帰ってきた二人は、理由は違えどノアと同じ目をしている。
「さて、………これからは、領内の儀式なども残っているからな。今年は夜薔薇の気配が強いので、祝祭の儀式詠唱を夜の入りにしたのだ」
「まぁ、そうして時間を変えてゆくこともあるのですね?」
「ああ。普段は避けているのだが、こういうことも無い訳ではないんだ。花火の時間に近くなると人の動きが忙しないからな、あまり好ましくない」
「確かに、花火もあるので大忙しになりそうです。…………お手伝いする事はありますでしょうか?」
そう尋ねたネアに、エーダリアは鳶色の瞳を瞠って微笑んだ。
相変わらず怜悧な美貌の面立ちは変わらないが、瞳の表情はとても柔らかくなった。
とは言え未だに、初対面の者はその面立ちや整った言葉から冷たい印象を受けるらしい。
これについては、ダリルから失わないで欲しい武器の一つだと言われているそうだ。
「…………お前と初めて仕事の内容について話をした時、時間外の勤務について厳しく注文を受けたのを思い出した」
「むぅ。あの時は、エーダリア様が福利厚生の手厚い上司だと知らなかったのです。見知らぬ場所でしたし、私も威嚇せねばなりませんでした」
「いや、お前が思う程に良い領主でもなかった。こうして様々なところに手が回るようになってきたのは、お前が来てからだからな。………それと、今夜は私達だけで充分だ。伴侶になったばかりの魔物との時間を過ごすのも、歌乞いとしての仕事だと思ってくれ」
「ふふ、エーダリア様はやっぱり素敵な上司です!」
ここでネアは、自分を置いて仕事に出るつもりだろうかと不安そうにこちらを見ていた魔物の頭を撫でてやる。
「まぁ、そんな悲しい顔をしないで下さいね。残りの時間は全部ディノ用ですが、その内の一時間程がお仕事になるかなというくらいだったんですよ?」
「花火の時間は…………」
「ふふ、強欲な私が、せっかくディノが用意をしてくれている大切な時間を削るでしょうか。お仕事で削るものがあるとしても、それは出かける前のひと休憩の時間だったので、安心して下さい」
「うん……………」
ひどくほっとした様子の魔物に、ネアはふと、今年はいつもとは違う予定があるのかなと考えた。
そしてそれは、すぐに判明した。
今夜からは人心地のつかない辺境の地で時間を過ごすらしく、なぜかリーエンベルクで滞在する用の部屋で休憩していたアルテアも帰ってゆき、ネア達も薔薇の祝祭で美しく煌めく街に向かうその道中で、ディノはそわそわし始めた。
「ディノ………?」
「ネア、………今年は行き先を変えてもいいかい?」
「ええ。これからの時間はディノにお任せしてあるので、ディノの行きたいところに連れて行って下さい」
「……………その、君は気に入らないかもしれないんだ」
リーエンベルクからウィームの街に向かう並木道には、歩道沿いに魔術で美しい花々が咲き乱れている。
白薔薇や鈴蘭などが淡く光るような花を雪の上で咲かせている様は、観光客達からすれば驚嘆すべき光景だろう。
これは勿論、ウィームという土地でこそ出来ることなのだが、白を咲かせる花々の階位は普通の人間達が介入出来ないくらいに高いものだ。
とは言えここはウィームである。
領主であるエーダリアの魔術を号令に、土地に住まう人外者達は、美しい愛情を司る祝祭の為にその花を咲かせてくれる。
魔術はあくまでも号令であり、実際にその花を咲かせるのは、ウィームの祝祭の為に、そしてエーダリアという領主の為に、彼等から差し出された愛情なのだ。
雪と花と、そしてあちこちで煌めく魔術の光や祝福の煌めきのまたたく夜の青さの中で、ネアは途方に暮れたように水紺色の瞳を揺らした魔物を見上げる。
さくりと雪を踏んで近付くと、はっとする程に美しい瞳でこちらを見た魔物の為に、手を伸ばしてその三つ編みを掴む。
ネアは強欲な人間なので、薔薇の花びらの敷き詰められたウィームの美しい街並みを歩きたかったし、いつものザハの二階で、美味しいシュプリを飲みながら花火を見たかった。
けれども、それよりも優先される事があるのだ。
ネアにとって、この美貌の魔物こそが、最優先の存在なのだから。
「ディノが一緒ではないのですか?」
「ネア?私は一緒にいるよ。ただ、…」
「ディノがいれば、私が気に入らないことなんてないと思います。でも、薔薇の祝祭の夜はディノと過ごすことだけは譲れません」
「ネア……………」
こんな時、この魔物は胸が苦しくなるような透明な無防備さで幸せそうな目をする。
そこには男性らしい満足も滲むが、それでも尚、どこまでも透明に見えた。
「ローゼンガルテンに行きたいんだ…………」
「まぁ!間近で花火を見られるところなのですね?」
「………………うん。一度だけ、…………ほんの少しだけ、私は薔薇の祝祭にその場所に居たことがあるんだ。…………その日から、………いつか、そこで……………」
上手く説明出来ずにぺそりと項垂れた魔物の腕にぎゅっと掴まり、ネアは小さく弾む。
「私を、ローゼンガルテンに連れて行ってくれるのですよね?ふふ、初めて行くのでとても楽しみです!」
「花火を真下で見ると、あまりよく見えないかもしれないのだろう?」
「ええ。その代わりに頭上で傘のように広がる花火は、他のどこでも見られない光景です。ディノは、そこでしたい事があるのですよね?」
「………………うん」
「薔薇の祝祭でローゼンガルテンを訪れたのは、もしかしてグレアムさんのご招待ですか?」
「誰に招かれた訳でもないんだ。…………包丁の魔物がそこで伴侶と過ごしていて、私はその様子を見てみたかった。…………だから、姿を隠してほんのひと時だけ、彼等の姿を見ていた…………」
「ディノに、愛情の形を教えてくれた魔物さんの一人ですね?その方と伴侶さんはどんな事をしていたのでしょう?」
「……………薔薇の祝祭に配られる、リボンに繋いだ薔薇のビーズがあるのだけれど、それを貰って手を繋いで花火を見ていた…………」
「…………薔薇のビーズ!そんな素敵な配布物があるのですか?!い、行きましょう!すぐさま手に入れます!!」
「ご主人様!」
激しいまでの意欲を見せたネアに、ディノはぱっと微笑みを浮かべる。
嬉しそうに目元を染めて微笑む魔物はちょっと眩いくらいに美しかったので、ぼさっと木の上から二匹のコグリスが落ちてきてしまう。
今年になって見かけるのは初めてだったが、そろそろ渡りの季節だったようだ。
二人はそのコグリス達をそっと花の茂みに避難させておいてやり、愛情の日らしく祝福の色に煌めく並木道を歩いた。
「ローゼンガルテンに向かうまでに、ウィームの街は歩けるよ。けれど、ザハに行くのは花火の後になってしまうかな…………」
「ザハの予定もあるのですか?」
「うん。君はあのシュプリを気に入っていたから、ザハも予約してあるよ。………ネア?」
「ディノ、私はディノみたいに優しい伴侶がいて幸せですね」
「………………ずるい」
うきうきと弾んだネアに弱ってしまいかけたものの、ディノはすぐに自分を立て直してくれた。
カラカラと音を立てて馬車が走ってゆく。
幸せそうな恋人達の姿が見て取れ、馬車に吊るされたカンテラの中には、この祝祭にあちこちで魔術の火の代わりに灯る夜火薔薇が燃えていた。
その美しさに心が弾み、ネアは隣を歩く魔物を見上げる。
擬態をしてはいるものの、ネアが一緒にローゼンガルテンに行ってくれるとなって余程嬉しかったのか、その髪は内側から光を孕むようにきらきらと輝いていた。
(並木道や花壇の中や、噴水の中や建物の屋根の上が光っているのも、そんな風に幸せに輝く生き物達がいるからなんだろうな…………)
「…………っ、」
ここでネアは、歩道の先にある街灯の影に、薔薇の花束を手に潜んでいる人影にぎくりとした。
肩の揺れ方からするとかなり荒い息を吐いているようなので、確実に薔薇の祝祭の通り魔に違いない。
それも、あの荒ぶり方は相当なものだ。
「あの人間と遭遇しないようにしよう。少しだけ転移するけれど、それでもいいかい?」
「はい。あの方をこれ以上見ていたくありません。な、なぜだか、あれだけ荒ぶる程の何があったのだろうと考えてしまい、心がくしゃくしゃになります…………」
「うん…………」
ここでネア達は僅かに転移を踏み、祝祭の夜に賑わう街の中に立った。
ふかりと踏みしめるのは、家々の戸の前から歩道に敷き詰められた薔薇の花びらだ。
こうして行き交う人々が花びらを踏み締めることでも、薔薇の祝祭の魔術が結ばれてゆく。
残念ながらネアには目視出来ないものだが、その魔術の光はとても美しいものであるのだとか。
「ふぁ、…………なんて綺麗なんでしょう!見て下さい。あのお店は、飾り窓の内側が薔薇でみっしりです!…………むむ、あの行列は……………」
「ノアベルトの店かな……………」
「狐さんの専門店ですね。…………むぎゅ。開いてはいけない心の傷の扉が開きかけたので、早足で通り過ぎましょう。限定カードという恐ろしい囁きが、あの行列から聞こえてきました…………ぎゅ」
「可哀想に。ほら、三つ編みをしっかり握っているんだよ」
「…………ふぁい」
けれども世界はとても残酷で、ネアは、この行列のお客達が何を求めているのかを、買い物を終えて店を出てきた人々の会話から察してしまった。
薔薇の祝祭の日には、リーエンベルクの正門のところに、それは美しい薔薇の大きなリースが飾られる。
ネア達も、出る時にそのリース目当てで集まっていた観光客や小さくぽわりと光る妖精達の邪魔をしないよう、美しいリースを鑑賞してきた。
そして、今日の銀狐カードの限定品は、そんな薔薇のリースとリーエンベルクと銀狐のものであるらしい。
また、薔薇の花輪を頭に乗せたうきうき銀狐の陶器人形も売り出しており、それもかなりの人気であるらしい。
ぎぎぎっと、トラウマの扉が開きかけてしまい、ネアは、今度こそどうにかなるだろうという希望など未来永劫抱かぬよう、自分の愚かなる無垢さなど、あの日に心の奥底に重石をつけて沈めた筈だと胸の内で呟く。
くじ引きカードについては、ネアは、二度と己も世界も信じないと決めたのだ。
「むぐる…………」
「可哀想に。怖かったね……………」
「ふぐ。素敵なビーズが貰えるところに連れて行って貰えるというわくわくがなければ、危うく祟りものとして目覚めるところでした。優しい伴侶のお陰で世界が救われたと言わざるを得ませんね」
「……………くっついてくる。可愛い………」
ウィームの街は、夢のように美しかった。
イブメリアの夜にも近しいものがあるが、人々が浮かべ、或いは交わし合う微笑みがあちこちに見られ、薔薇飾りや石畳の上の雪と薔薇の花びらがそれを彩る。
街灯や家々の明かりのそこかしこに夜火薔薇が燃え、あちこちから薔薇の花びらがはらはらと降っていた。
妖精達や精霊達の煌めきで明るい噴水のところでは、二匹の毛玉兎のような生き物が顔を擦り寄せて幸せそうに妖精の羽を光らせている。
通りがかった商店の屋根の上で見つめ合う恋人達は、息を飲むような美貌の金髪の女性と男性だ。
「ディノ、あの恋人さん達は妖精さんですか?」
「うん。灯火の系譜の妖精だね」
「あの妖精さん達にも巻き角があるんですね。全体的に淡い金色でとても素敵です」
「灯火の妖精達は、あの姿に成長するまでは巻き角のある獣の姿をしているんだ。………そうだね、狼の牙を持つ鹿のような生き物と言えばいいのかな…………。気性が激しい妖精だから、あのようにしていてくれて良かった」
「と言うことは、あの妖精さんで積み残しが出ると、とても危険なことに…………」
「燃やそうとしてくるからね…………」
「ノアに、気を付けるように言っておきます……………」
この薔薇の祝祭において、愛情を得られなかった者達を俗に積み残しと言う。
とても悲しい言葉だと思うのは、かつては永らく積み残し側の存在だったネアの心の一部で、今は漸くその苦しみを脱した幸福なネアだ。
例えばそんな積み残しの者達は、先程の通り魔のように無差別に恋人を欲してきたり、こうして今見上げている水色の竜のように、恋に破れて店じまいした屋台の屋根の上でひっくり返っていたりする。
「……………ディノ、あの竜さんは完全に裏返しですが、死んでしまっていたりはしませんよね?」
「あれは、誰でもいいから伴侶を欲する時の姿勢だね。…………急所でもあるのだけれど、ああして剥き出しにしてある腹部に、偶然でも触れさせることで、求婚とするそうだ…………」
「捨て身の通り魔さんでした……………」
「…………あちらの精霊は、とても弱ってしまっているね」
「ぎゃ!植え込みで女の子が死んでます!!」
植え込みにぱたりと倒れ、誰かを呼び止めようとしたかのように片手を伸ばしたまま、虚ろで暗い目で虚無を見ている精霊は、美しい少女の姿をしている。
ネアは、あんなにも美しい少女が道端に倒れているなんてと思いハラハラしたが、行き交う人々は怯えて近付かないように迂回していたので、危険はなさそうだ。
精霊の祟りや呪いは特別に厄介なものであることが多く、誰だって、こんな祝祭の夜に不用意な危険に晒されたくはないのだろう。
(あ、…………)
けれども、そんな精霊の少女に駆け寄り、小さな薔薇の花を差し出した一人の少年がいた。
一緒に居たらしい親達は慌てて止めようとしていたが、少年はどこか真摯な眼差しで薔薇を差し出し、目を瞠って顔を上げた少女の頭をそっと撫でてやっている。
思いがけず訪れた優しさに、顔を上げた精霊の少女がわっと泣き出した。
その途端にぽぽんと植え込みにチューリップが咲いたので、チューリップの精霊だったのかもしれない。
「ふふ、あの方には幸せが訪れたようです」
「…………そうだね。……………決して多くは与えられない恩寵だ。あの精霊は、薔薇を与えてくれた人間をとても大切にするだろう」
そう呟いた魔物の声音には、かつて一人きりでその多くはない恩寵を探して彷徨った頃の絶望が微かに揺らめく。
「でも、私には、ディノが来てくれました」
「……………うん。君がいるから、…………私はもう探さなくていいんだ」
「まぁ。もしディノが、他にも伴侶を探したら、私は怒り狂いますよ?」
「ずるい……………」
ぐいっと三つ編みを引っ張られ、魔物は目元を染めてもじもじしてしまう。
そろりと差し出された爪先を、公共の場ではやめ給えと跳ね除けられないのは、今日が薔薇の祝祭だからだろうか。
鋭く周囲を見回して、他の人々がにこにこしながら精霊の少女と薔薇を贈った少年の方を見ていることを確かめてから、ネアは魔物の爪先をぎゅむっと踏んでやった。
やがて、新年のミサの教会に向かう人々の列のように、歩道が混み合い始めた。
ここからは、花火の上がるローゼンガルテンに向かう人々の列が、ウィームでかつては苛烈な戦地にもなった小高い丘に続いている。
「混み合って来ましたね。片道三列で進むようです。魔術の道を使える方はそちらからお進み下さいと書いてありますよ」
「魔術の道に入ろう。配っているものを貰う為に上ではそこから出なければいけないけれど、君が迷子にならないように影を繋いでおくからね」
「あら、これからは手を繋ぐのでしょう?」
「…………………うん」
ネアに言われてはっとしたのか、魔物は目元を染めてまたしても乙女のような恥じらいを見せると、ややあってこくりと頷いた。
ネアは、これだけの人出からお客を見込んで立ち並ぶ屋台から漂う美味しい匂いに、ついついぐらついているのを悟られぬよう、にっこり微笑んで手を差し出してみた。
今日も勿論、薔薇の祝祭だからと伴侶と手を繋ぐ為に手袋をして来なかったのだが、ディノの話を聞いてから、手を繋ぐのはローゼンガルテンに近くなってからにしようと考えを改めたのだ。
「もう、かい………?」
「ええ。ほら、そこからはもうローゼンガルテンの敷地の入り口ですので、手を繋いで下さい。何だかわくわくしますね」
「…………どうしよう、ネアが可愛い………」
「弱り方はいつものままでしたが、今日は逃げてはいけませんよ?」
「ネアが可愛い…………。逃さないようにしてくれるんだね」
今からこの様子で果たして生き延びられるだろうかと首を傾げたネアに、魔物は力を振り絞って手を繋いでくれた。
それだけでもう涙目になっているので、短い訪問でこの魔物が垣間見た光景は、よほど眩しくそして羨望に値する喜びに見えたのだろう。
かつてはネアも、家族で仲良く休日の食料店で買い物をしている人達が羨ましくてならなかった。
お祭りの日に楽しそうに出かけてゆく人々や、急な天候の悪化や怖い事件を、家族や仲間達と案じ合える誰かも。
(でも今は、家族がいる……………)
あの頃の胸が潰れるような失望と羨望は、ナイフの切っ先を失い、ネアは、幸福が疲れないということをやっと知った。
ここにはもう、孤独の惨めさが押し付けてくる疲弊は、影も形もなかった。
「わ!…………ディノ、あちこちに薔薇が満開です!…………この薔薇は紫陽花のような色で綺麗ですね。ほわ、こちらは何て可憐な薔薇色なんでしょう!…………き、木になっている薔薇があります。ば、薔薇のトンネルも…………」
どうやらローゼンガルテンは、ネアが知らなかった、薔薇の祝祭の日だけの姿があるようだ。
そこは見たこともない不思議な満開の薔薇の森のようになっており、人々は美しい迷路にも似た薔薇の壁に囲まれて、歓声を上げている。
ネアもすっかり興奮してしまい、魔術の道の中を、ディノの手を引いて大はしゃぎで動き回った。
「ディノ、………これは、私の知らない特別なものでした。こんな素敵なものが見られたのは、ディノのお陰ですね…………。ただ、ちょっと興奮し過ぎて胸が苦しいので、素敵過ぎて刺激が強めなのかもしれません」
「…………気に入ってくれたんだね」
「ええ。今日は、特別に不思議で美しいところを沢山見せて貰いましたが、こうして人が集まって期待にざわざわしてる祝祭だけの空気が加わると、また格別な楽しさです。沢山のウィームの方々と花火を待つわくわくは、ここでしか得られないものでした…………」
その言葉にまた安堵や喜びを深めたのか、ディノは、瞳をきらきらさせて頷いた。
二人は混み合うローゼンガルテンの薔薇の丘を、手を繋いで歩き、魔術の道を使って快適に進んだ。
魔術の道は階位ごとに分かれているのだが、この近くには、ネア達が使う道を行く高階位の者は少ないのか、行きは貸し切り状態だ。
「ふむ。これだけ混み合っているのに、貸し切りでしたね」
「この道は、サムフェルくらいの階位が求められるからね」
「となると、上位十二人的な………」
それは勿論世界規模の話なので、そうなると世界の各種族の上位十二人がこのウィームのローゼンガルテンに揃う可能性はかなり低そうだ。
そんな伴侶の階位による贅沢さを堪能させて貰い、次にネア達が直面したのは、そんな階位故に起こるこのような場所への不慣れさだった。
二人とも、どこで薔薇のビーズが配られているのかという、とても大事な事を知らなかったのだ。
「…………どこで配っているのでしょう?ちらほらと、持っている方がいますものね。皆さん迷う様子もないので、どこかに配布所の案内があったのかもしれません…………」
「……………うん。なくなってしまわないかな」
「なぬ。一緒にここに来られただけでもとても楽しいのですが、それで満足せずに高みを目指してこそ、狩りの女王です。斯くなる上は、既にビーズを持っている方に、配っているところを聞いてみましょう!」
「ご主人様!」
けれども、ネアが聞き込みを開始するよりも早く、そんな会話を聞いていたらしい近くの男性が振り返った。
竜種らしい背の高い男性は、髪の長い美しい男性と共にここに来たようで、手にはネア達のお目当のビーズを持っている。
「お困りですか?」
「実は、記念のビーズの配布所を探しているんですが見付からないんです」
「おや、これをお探しなら、あちらの建物の入り口で配っておりますよ。ただし、あの建物の側からは花火が見え難いので、ビーズを貰ったらこの辺りに戻られるといいでしょう」
髪の長い方の男性がそう教えてくれ、ネア達はほっとして顔を見合わせた。
見ず知らずのネア達にも親切にしてくれた男性達に丁寧にお礼を言い、はぐれないようにしっかりと手を繋いで普段は小さなカフェであるその建物に向かう。
ローゼンガルテンにある幾つかのレストランは営業しているようだが、特に行列などはないので、今夜は最初から予約で一杯なのだろう。
そんな特別な夜ではあるものの、お目当のカフェは、カフェとしての営業ではなく、薔薇の祝祭の記念品を配る事務局のような使われ方をしているらしい。
可愛らしい薔薇色の瓦を乗せた砂灰色の建物は、二階部分に美しい円形のステンドグラスが嵌め込まれている。
入り口は蔓薔薇で覆われており、淡いピンク色の薔薇が花明かりになっていた。
「み、見付けました!!そして、まだ沢山残っていまふ。…………むぐ。興奮のあまり噛みました……………」
「………………薔薇のビーズだね」
ここで、既に感極まってしまった涙目の魔物を引っ張ってやり、ネアは、いそいそとビーズを貰う列に並んだ。
花火の見物客の邪魔にならないよう管理された配布列は列同士がとても近いので、二人それぞれ別の列に並ぶことも出来たが、ここは敢えて前後して同じ列に並ぶ。
その方が一度に受付して貰えるので、相談しながらビーズを貰えそうだ。
(何しろ、ビーズを通したリボンの色が選べるのだ!!)
その辺りの大衆心理を理解しているあたり、このビーズ配布の運営はとても優秀だと言わざるを得ない。
勿論、同数しか用意していないので先着順だが、列に並ぶと配られる小さな紙に貰えるビーズの種類が書いてあり、並びながら好きなものを選べるのだ。
これはきっと、お目当のものがなくなっている可能性も視野に入れ、五種類の中で欲しい順番を決めておくといいのだろう。
配られる紙には整理番号が振られており、持ち帰ると後日このカフェのお食事券が当たるダブルチャンス方式の為、配布物でゴミが出ることもない。
ウィームを再訪するのが手間な遠方からのお客には、問い合わせると抽選の結果を教えてくれ、当選者には薔薇の紅茶の詰め合わせを送ってくれるので、観光客達も大事に持ち帰るという。
実に上手なやり方だ。
(……………水色のビーズの薔薇にミントグリーンのリボン、ラベンダー色の薔薇にミントグリーンのリボン、赤い薔薇に紺色のリボン、黄色の薔薇に水色のリボン、ピンク色の薔薇に琥珀色のリボン……………)
ネアは配られた紙を一瞥し、顔を上げた。
並んでいる間中悩んでしまうかと思ったビーズ選びだが、欲しいものが即座に決まってしまったのだ。
目を丸くして顔を上げると、ディノも目を瞠ってこちらを見る。
「ラベンダーの薔薇のビーズの」
「…………ミントグリーンのリボンがあるね……………」
そうなってしまうともう後は残っていてくれ給えと祈りながらじりじりと順番を待ち、受け渡し口で順番が来ると、早足になってしまった。
残っていたもので貰えるだけ満足という謙虚さがある筈もなく、ネアは、伸び上がって奥に見える箱の在庫を確認してしまったくらいだ。
「家族ですので一緒の受付でお願いします。こちらのビーズを二ついただけますか?」
「はい。お連れ様と合わせて、ラベンダー色のビーズにミントグリーンのリボンですね。承知しました」
この記念品の配布は、カフェで働いている薔薇の妖精が行うようだ。
ネア達が並んだ列の担当だったふくよかなご婦人姿の妖精は、目を爛々と輝かせた人間とその羽織りものになって目をきらきらさせた魔物に怯むことなく、にっこり笑って取りに行ってくれる。
そして、待ちに待ったビーズを手渡してくれながら、優しい緑色の瞳を細めて微笑みかけ、思ってもいなかったお祝いの言葉をくれた。
「ご成婚、おめでとうございます。お二人にこの愛情の記念品を渡せて光栄ですわ」
「まぁ、有難うございます!初めていただくビーズなので、大切にしますね」
その職業によって必要とされることで制限を受けないよう、各職業ごとに開発された魔術があり、専門職に就く者達は、この世界に混在する魔術の理の幾つかを回避する事が出来るようになっている。
例えば騎士達は手助けをしても相手との魔術の縁が結ばれないし、カフェなどのようなところでは、お祝いの料理やケーキを振るまう関係から、こうして見ず知らずの相手にも気軽にお祝いの言葉を贈れるのだそうだ。
しゃらりと、周囲を照らす夜火薔薇の灯りに、美しいビーズが揺れた。
ビーズとは言え、薔薇の部分は大玉の飴くらいの大きさがあり、だからこそリボンが通せるだけの余裕もある。
薔薇の形に彫り込まれた繊細で美しいビーズと、輪っか状にしてそんなビーズを通したリボンの艶やかさに、ネアは小さく弾んだ。
「ディノ、欲しかったものを貰えて良かったですね!…………まぁ、泣いてしまったのですね?」
「……………ネア」
心が大きく揺さぶれる時でも魔物らしく振舞うこともあったが、今回はいけなかったようだ。
すっかり大感動してしまったディノの手を引いて、ネアは、先程の男性達が教えてくれたように、花火が見やすい位置に向かう。
片手には無くさないように手首にリボンを巻きつけた大切なビーズの薔薇を持ち、もう片方の手はしっかりとディノの手を握っている。
(きっとディノは、誰かと過ごす幸せの形に強く憧れている時に、ここで幸せそうにしている包丁の魔物さん達を見たのだろう……………)
それは多分、当時のディノには欲しくても欲しくても、見付けられないものだったのかもしれない。
列に並んでいる時に教えて貰ったのだが、ディノは、このビーズは伴侶といる者しか貰えないものだと思っていたようだ。
だからこの魔物は、今迄の薔薇の祝祭でも、ローゼンガルテンで薔薇のビーズが欲しいとは言い出せずにいたのだろう。
きゅっと握った大切なビーズを抱き締めるようにして胸元に持つディノは、見ているだけで幸せになれそうなくらい、嬉しくてたまらない様子で口元をもぞもぞさせている。
「さぁ、次は花火ですね。手を繋いで楽しみましょうね」
「……………うん。君がここに来てくれて、漸くこのビーズを貰えたよ」
「ふふ、これは二人の宝物にしましょうね。宝物だらけですが、これからもまだまだ増やしますよ!」
そう宣言したネアに微笑みかけられ、ディノは深く深く、幸せそうに微笑んだ。




