小箱と街と山猫の荷馬車 1
不可抗力という言葉がある。
いや、この場合は自損事故と言えばいいだろうか。
ネアはこの時、だらだらと冷や汗をかき、ぎりぎりと音を立てそうな程に重たい動作で周囲を見回していた。
じゃりんと響くのは重たい鎖の音で、それはネアの手首にかけられている。
両手をひと纏めに縛り上げるその重さにどうしても背中が丸まってしまい、それでも両足で踏ん張りつつ見回した周囲は、不可思議な暗い夜の街であった。
(砂漠の街だろうか…………。ううん、それよりももう少しこちらの文化圏寄りかもしれない…………… ?)
そんな風に考えてしまうどこか異国風の街並みは、けれども豊かな緑に彩られていた。
ぼうっと青白い煌めきを宿した木々は見事な枝ぶりで、光っているのは木の枝に吊るした水晶のカンテラのようだ。
夜なのに森の中にいるようなふくよかな緑の深さを感じられるのは、その不思議なカンテラの光のお陰でもあった。
そして、やはり見知らぬ土地である。
おまけにネアは、両手を拘束されているではないか。
「…………ふぇっく」
「キュ!」
じわりと涙が滲み、ネアは、胸元から伸び上がりちびこい手で顎に触れてくれたムグリスの伴侶にはっと息を飲んだ。
この小さな伴侶の為にも、何としてでもここから逃げ出さなければならない。
めそめそしていても何にもならないのだと、慌てて自分を叱咤する。
(……………現状の把握をして、出来るだけこの状況を改善出来るような策を練らなければ………!!)
ネア達がいるのは、見知らぬ夜の街の通りだ。
道はきちんと舗装されていて今は周囲には誰もいないが、通りの向こうにある石造りの建物の中には、人々の生活の気配がある。
そんな場所に、罪人のように両手を鎖で拘束されて落とされたのだから、ここから先に、鎖に繋がれた哀れな人間をむしゃむしゃ食べてしまう怪物達が現れないとも限らない。
また、真っ当な人達が暮らす場所だった場合も、ネアのこの状態は怪しい以外の何物でもない。
牢屋に入れられてしまったり、最悪の場合は攻撃されたりもしかねなかった。
(せめて、人のいる建物の前に落とされなくて良かったのかもしれない…………。ここだったからこそ、すぐに誰かに見付けられずに、考える時間を得られたのだもの)
ネアがいる場所は、表通り沿いではあるものの丁度建物が途切れたところで、尚且つ道の端にある馬車留めのように奥まった場所になる。
ほんの少し歩けば街の中心という所だが、幸いにもここは、夜のこの時間で人通りがない間は比較的人目につかない場所であるようだ。
手首を拘束した鎖は、足元にとぐろを巻くくらいの長さで、どこかに固定されてはおらず、その代わりにネアが渾身の力で何とか少しだけ持ち上げられるくらいの重りが付いていた。
頑張って動かしてみると、じゃりりと重たい音がして、やはりこの鎖を引き摺って歩くのは無理がありそうだ。
「……………ディノは、元の姿には戻れないのですよね?」
「…………キュ」
「まぁ、ディノは何も悪くないのですから、落ち込まないで下さい!ジルクさんの荷馬車にあった綺麗な細工箱が、まさか触れてはならないものだとは思わなかったのです。あまりにも綺麗なブラックオパールのような輝きのもので、その煌めきの向こう側に妖精さんがいたような気がして……」
けれどもネアは勿論、触れるつもりはなかった。
しかし、そこまで危険なものだとも思っておらず、警戒心なく近付いて触れるほどの距離で覗き込んでしまい、名前を呼ばれて慌てて方向転換した際に、距離感を見誤って膝ががつんとぶつかったのである。
まさしく、大失態の上での事故であった。
その結果、すぽんと吸い込まれて落とされた先では、いつの間にかこんな風に鎖で拘束されているのだから、盗賊などを警戒した魔術的な罠が仕掛けられていたのかもしれない。
「…………っ、」
後方を見る為に体を捻ったからか、重たい鎖がぎりりと手首に食い込んでひりひりとした痛みが走った。
罪人を拘束する為の鎖は決して上質なものではなく、使い回されている物らしい。
誰かが鎖を切ろうとした痕跡の金属がひび割れて棘のようになった部分が肌に擦れ、表皮が薄く切れたのだろう。
何とか軽減しようとしたのだが、重たい鎖をぶら下げて立っているので呼吸が静められず、息を吸うたびに、ぴりりと鋭い痛みと、鎖の重さで傷口が押される鈍い痛みが走った。
ネアがその惨めさにくしゃくしゃにならずにいられたのは、胸元に大切な伴侶が入っていてくれたからだろう。
(もしここで血を落としていた場合、………この鎖を置いてはいけないわ……………)
だがそうなると、この重たさのものをずっと持ち運ぶ事になってしまう。
金庫が使えるのなら、鎖を外して金庫に入れるという手もあるが、金庫が使えなかった場合は、何らかの危険に見舞われた際にこの上ない足枷になるのは間違いない。
(……………そもそも、この鎖を外す手立てが……………)
「キュ……」
涙目でこちらを見上げているのは、水紺色の瞳のムグリス姿の伴侶だ。
すっかり涙目の伴侶に寄り添おうとしてよじ登って来ようとするので、ネアは、慌てて胸元に留まるように頼まねばならなかった。
もし足を踏み外して落ちてしまっても、この状態では助けてあげられないかもしれない。
胸元であれば、ムグリスディノのポケット移動ワッペンがあるので、もしもの時はせめてポケットには移動が出来る。
(…………そのような準備はしておいたのに、なぜ私は、ディノを人型に戻しておかなかったのかしら………… )
「ディノ。…………ごめんなさい。今回は、初めて見るようなものに近付いたのに、ついついもう少しふかふか毛皮に触れたくてディノをムグリスのままにしておいた私のせいで、ディノにまでこんな危険な思いをさせてしまいました」
「キュキュ!」
こちらの世界の魔術は、とても危ういものだ。
特にネアは自身の可動域が低いので、守護が分厚くても、体一つで弾けない仕掛けが沢山ある。
それを理解しながら、むくむくの伴侶を撫で回して弱らせてしまっていた自分の浅慮さに、ネアはへにゃりと眉を下げた。
ムグリスな伴侶はそんな事はないと慰めようとしてくれているのだが、今回は弁解のしようもない。
ただ、ただ、ネアの判断が甘かったのだ。
自分一人がその対価を払わされるのだとしても、今はもう、それで悲しむ大切な人達がいる。
おまけにここには、とても無防備な姿のままの、大事な伴侶がいるのだ。
どんな魔術の仕掛けがあったものか、元の姿に戻れないディノが怪我をしたりしたらどうしようと考えると、ネアは怖くて堪らなくなる。
両手を拘束されたこの状態では、取り出せるきりん札にも限界があった。
「………ふぐ。アルテアさんの名前を呼んでも応答がないのは、ここがそのような場所なのか、アルテアさんが森に帰っているのかのどちらかでしょう。………あの場にいたノアも呼んだのですが……………」
本日のリーエンベルクには、ジルクの訪問があった。
ウィーム領主であるエーダリアを訪ねた正式な会合の為で、とは言えエーダリアではなく、代理人として立ったダリルが対応をし、商会の代表としていつもよりきりりとした装いで現れたジルクは、会合の目的である山猫商会の新しい商品を持って参内している。
と言うのも、ウィームの領としての公共事業に初めて山猫商会が参入する事となったからで、ジルクがウィームに卸す事になったのは、検問所の排他術式に使われる品物なのだそうだ。
今回の一件は、取引の為の契約書の交換を済ませたジルクが、リーエンベルクを出て自慢の荷馬車に乗り込んだところで起きた。
手元にある品物を帰る前に買い取りして貰えないかなと顔を出したネアは、大喜びで査定の準備をしていたジルクが目を離していた隙に、彼の荷馬車に近付き過ぎてしまい、こんな目に遭っているのだった。
(とにかく、どうにかして安全を確保しなければ……………)
ネアはやや悲観的になりながらもそう考えたが、幸いにも幸運はすぐに、こちらに微笑んだようだ。
痺れてきた腕をどうにかしたくて体を捻ってしまい、またしてもぎりりと手首に食い込んだ鎖に声を上げないようにとぐっと奥歯を噛み締めたその時、背後にふわりと降り立つ転移の気配を感じた。
近付いてくるものがないか絶えず目を配っていたネアは、突然現れた背後の気配に飛び上がりそうになる。
思わず、飲み込めなかった小さな悲鳴が口からこぼれた。
「……………っ、」
慌てて振り返ったネアに、ほっとしたように目を細め、けれどもその手首を見て顔を強張らせたのは、白金色の瞳をした一人の魔物だ。
長身を屈めるようにして手を伸ばすと、すぐに鎖の端を軽々と持ち上げ、ネアの体にかかる負荷を軽減してくれる。
「ウィリアムさん!」
「ネア、………その手の鎖の他には何もされていないな?」
あまりにも頼もしい仲間の姿に思わず声が震えてしまい、ウィリアムの表情にはまた、痛ましげな色がひと刷毛塗り足される。
いつもの白い軍服ではなく、黒い軍服めいたコートに髪色も白に近い白灰色に擬態しているので、その姿でいたところを駆け付けてくれたのだろうか。
ウィリアムはまず、ネアを抱き上げて街路樹の影のかかった歩道の奥の目立たない場所に運ぶと、植え込みの奥の草地にどさりと座り込み、ネアを膝の上に乗せて抱えるようにしてくれた。
背後から抱き込まれるようにして鎖を外してくれるようで、珍しい擬態についての説明もしてくれる。
「ここは、ジルクの持っていた山猫商会の箱の中だというのは分かるな?」
「はい」
「キュ!」
「この中では、擬態が解けないんだ」
「……………そうなのですか?」
「ああ。だから、俺の今の擬態はあくまでも容姿的な緩和だけだ。流石に本来の姿だと騒ぎに成りかねない。少しだけ調整して、こちらに入ったんだ。本来ならこの手の場所はアルテアの方が得意なんだが、すぐに応じなかった彼を呼び出している時間はなかったからな………」
「むぐ。…………ウィリアムさんが来てくれて、とても安心なのです」
「キュ!」
そう言えば、にっこり微笑んだウィリアムが、鎖を持ち上げたまま片手で器用に頭を撫でてくれた。
さわさわと、夜風が頬に触れる。
地面に直接座り込んだ事で、先ほどよりも周囲から隔絶されたようになり、ネアは密かに安堵していた。
無防備な状態でいつ誰が来るとも知れない見知らぬ場所に置かれていたのが、堪らなく不安だったのだ。
体感気温は先程までいたウィームとさして変わらず、ただ、こちらは夜であるらしい。
空には星がまたたき、あの箱の中とは到底思えない。
ここは、山猫商会の積み荷に手を出したならず者が落とされる、あの箱の表層に仕込まれた金庫の中の街なのだそうだ。
ならず者達の他にも、交渉が決裂したお客や商売敵なども落とされており、多くのならず者達が無害な姿に擬態してこっそり積み荷に近付く事から、落とされた者の擬態が解けないような呪いがかけられている。
そんな事を手早く説明してくれながら、ウィリアムは手繰り寄せた鎖の塊の中から、隠されていた鍵穴を見付けてくれた。
通常の錠前のようなものではなく、鎖と一体型の施錠パーツのようなものが組み込まれており、こうしてその精巧さを目にすると、ネア一人ではどうしようもなかった事があらためてよく分かる。
ぞっとしながら見ていると、ウィリアムが安心させるようにぎゅっと抱き締めてくれた。
「この鎖の鍵も借りてきた。……………よし、いいぞ」
「…………ぎゅわ」
「……余程きつく拘束されたな。手を見せてくれるか」
「ふぁい。鎖の質がまずかったようです」
「キュ?!」
ウィリアムが、重厚な銀色の鍵でネアの手首を拘束した重たい鎖を外してくれると、胸元のムグリスディノが三つ編みを逆立ててけばけばになる。
ネアは、両足で踏ん張りながらの前屈みな体勢から漸く解放され、その上で鎖も解けたので嬉しくなってしまうくらいだが、その手首には、赤くなった酷い擦り傷が残されていた。
ウィリアムは、すっと瞳を細めて剣呑な眼差しになってしまうし、ムグリス姿の伴侶は慌てて駆け下りてくると、ぶるぶる震えながら傷口の近くにもふもふの体を擦り寄せてくれた。
ウィリアムに見せた手首は、そっとその手に包まれた。
すぐに温かな魔術の温度を感じ、手を外されると擦り傷は綺麗に完治していて、ネアが懸念していた鎖の方も、ウィリアムががりっと硬い音を立てて握り潰すとさらさらと灰のようなものになって崩れ消えた。
「キュ!キュキュ!!」
「ディノ、もう大丈夫ですからね。鎖がとても重たかったので、肌が擦れてしまったのでしょう。ほら、この通りウィリアムさんが治してくれましたよ?」
「……………キュ」
「私は、あれっぽっちの既に治して貰った傷よりも、ディノが落ち込んでしまう方が悲しいのです。元気を出して下さいね?」
「キュ…………」
傷を直してくれたウィリアムにお礼を言い、ネアは、やっと自由になった両手で、むくむくとした毛皮の伴侶をそっと抱き締めた。
こうして動かせる手があるだけで、こんなにも嬉しいのだと知ったのは初めてだ。
ちびこい三つ編みをぴるぴる震わせているムグリスディノは、涙が出そうなくらいに温かかった。
(良かった……………)
安堵のあまりに深く息を吐いてしまい、ふわりと頭に載せられた手に顔を上げる。
こちらを見たウィリアムは、まだ魔物らしい排他的で暗い目をしていたが、その手は優しかった。
「ジルクから鎖は残しておいてくれと言われていたんだが、ここにネアの血を落としてゆく訳にはいかないからな。…………よく頑張ったな。すぐに来てやれなくてすまない」
「ふぁい。私も、擦り傷が出来たなと感じていたので、この鎖は、どれだけ重くても持ってゆくしかないのかなと思っていたのです。手が括られていたので、金庫が使えるかどうか分かりませんでしたから」
ネアがそう告げれは、ウィリアムはくすりと微笑み、優しい微笑みが何だかくすぐったくて、ネアも小さく唇の端を持ち上げる。
そんな些細な事が許される状況になった事がとても嬉しくて、やっと呼吸も落ち着いてきた。
どっとのし掛かる疲労感は、感じていた不安や恐怖の大きさを物語っていたが、もうそんなものは投げ捨ててしまおう。
「道具類はそのまま使えるらしい。ここは隔離金庫の中だが、山猫商会の者達も何年に一度かは下りるそうだ」
「まぁ、そうなのですか?」
「この金庫の手入れとして、使える獲物を狩りに入るようだな。その際に弊害となるので、道具類は使えるようにしておいたんだろう。…………シルハーン、この通り俺は終焉としての力はそのまま有していますので、ご安心下さい」
「キュ!」
残念なことに、ではここから転移で帰るという事にはならないのだと聞かされ、ネアはこくりと頷いた。
悪さをした者を隔離する用の山猫商会の金庫の中と聞けば、それなりの措置は取られていると思っていたものの、やはり入るよりも出る事の方が厄介なのだそうだ。
立ち上がったウィリアムに持ち上げられてその腕の中に収まってほっと息を吐けば、あまりの安堵に体の力が抜けてしまいそうになる。
とは言え、このままこの金庫の中の街で、一日くらいは耐え忍ばなければならないと聞き、もう一度背筋を伸ばした。
(……………一日)
それくらいと思うべきか、そんなにもと思うべきか。
何しろここには、巻き込まれただけのウィリアムもいるのだから、楽観してはならない。
「一日経てば、ここから出られるのですか?」
「ああ。山猫商会の管理上、この金庫は簡単に入れるものの、中に入った者を連れ出せるのは資格を有した職員だけにしてあるらしい。その資格を持つ者は普段は表に出ない商会本部勤めの幹部で、商会の代表者であるジルクですら、中に入る事は出来ても出る事は叶わないのだそうだ」
「まぁ……………」
もし、この金庫を狙い中に落とされた者に、仲間達がいたとする。
その者達が山猫商会の者を捕らえ、仲間をここから出すようにと要求した場合。
その要求を飲み安易に敵を逃してしまえば、それだけの状況に置かれた商会の者が生きて解放される見込みはほぼないと言ってもいい。
また、襲撃者から身を隠す為にこの中に入るしかないという場合もある。
その場合は、箱の内部に侵入不可とする禁止の魔術や施錠魔術より、特定の者を鍵とする魔術の方が堅牢なのだと言う。
だからこそ、この金庫の中から出られる鍵となる資格を持つ者は、商品の運搬はせずに本部勤務とするという仕様が設けられたのだ。
(……………でも、それはそれで非効率なのではないだろうか)
ましてやジルクですら出られないのはどうだろうと、ネアが首を傾げていると、ウィリアムが山猫商会の荷馬車の箱について更に詳しく教えてくれる。
「まず、ネアが触れてしまったあの箱は、山猫商会の全ての荷馬車に設置されている同一規格の箱の一つだと考えてくれ。箱の内側は個々の箱の空間だが、全ての箱の表層金庫がここに繋がっている」
「はい」
「キュ!」
(それぞれに規格を変えるよりも、一つしっかりとした仕組みを作って、それをみんなで運用する方が手入れとしても楽なのだと思う…………)
だからこそ、この場所は繋がっているのだろう。
そこまでは理解出来たので、ネアはきりりと頷いた。
ウィリアムは周囲を見回し、まだ危険はないと判断したものか、続きの説明を続けてくれる。
「恐らく、身内の裏切り者を警戒もしたんだろうな。ネア達のように金庫の最下層に敷かれたこの街に隔離される者達とはまた別に、そもそもこの箱は、高価な品物を収める為の商品箱でもある」
「………ただの盗人対策だけではなく、そちらの役割も果たしているからこそなのです?」
品物が納められるのは、この場所とは違う箱の内側なのだそうだ。
あの箱は、大切な商品を収める商品箱としての金庫層と、外側の、許可なく箱に触れた者が落とされる金庫層の二層仕立てだったらしい。
「因みに、どのような形であれ、商会の者が金庫の中に入ると、あの箱は荷馬車ごと魔術式の山猫に転じ、商会の本部に強制転移するようになっているらしい」
「むむ、危険を回避出来ない場合は避難壕になり、その避難壕そのものが自力で本部に帰ってくれますし、運搬時にもしもの事があっても、箱に取り込まれた方を出せるのは本部にいる方のみととする事で、仲間が裏切って中の犯人をこっそり逃すことを回避し、敵に捕縛されて中の犯人を出すように脅された商会の方の命を守る仕組みともなっているのです?」
そう問いかければウィリアムは、それで合っていると頷いてくれた。
勿論、この箱は山猫商会運営の仕組みを握るものだ。
ジルクが全てを正直に告白している訳ではない事も含めて付け加えてくれ、ネアはそちらの可能性もあったのだと目を丸くした。
(そうか。自分にすら出してやれないのだとそう言う事で、秘密が漏れたり、自分の身を危うくする事を避けているのかもしれない……………)
なお、あの箱に収められた商品は、納品先の者達と共にのみ、正式な手順で取り出す事が出来る。
商品を持った商会職員が箱ごと持ち逃げしても、何らかの条件を満たすと発動する罠が起動し、やはりネア達と同じようにここに落とされるという仕組みなのだ。
好き勝手に中身を取り出せないので、全ての品物を中に入れる訳ではないし、商品目当ての盗賊などを商品を手放す事で黙らせる事は不可能となるが、そのような場合についてもまた別の施策があるらしい。
「とても、…………しっかりと管理されているのですね。となると、今頃のジルクさんは、その本部への帰り道なのでしょうか?」
「…………いや。もう一つ商談の為に寄る場所があるらしい。だから、俺達が解放されるまでには丸一日かかるんだ」
「おのれ…………」
「すまないな。俺もジルクを締め上げている時間も惜しくて中に入ってしまったから、………ノアベルトが交渉しているといいんだが」
「い、いえ。ウィリアムさんがすぐに来てくれたお陰で、私達は無事でいられたのです!こちらを優先してくれて良かったでふ…………」
ウィリアムを呼んだのはノアだったらしい。
ノアはアルテアにも声をかけたのだが、残念ながら応答がなく、たまたま近くにいてすぐに駆け付けてくれたのがウィリアムだったのだ。
「ノアベルト自身も、すぐにでも中に下りたかったようだが、もし、ネア達がこの中に落とされた事が罠だった場合、一時的にとは言え箱から離れ、リーエンベルクを空けるのも危険だと判断したらしい。この場所の入り口となっている箱を、山猫商会に持ち去られても厄介だしな」
「それで、ウィリアムさんと手分けしてくれたのですね…………」
手を鎖で拘束されていたので体感時間がとても長く感じられていたが、ネアがこの不思議な街に落とされてからは、まだあまり時間が経っていない筈だ。
ウィリアムは、とても待たせてしまったという言い方であるが、どれだけ素早く駆け付け、そして説明を受けた後に素早く中に入ってくれたのかが分かり、ネアは思わず、頼もしい終焉の魔物の肩にぎゅっと掴まってしまった。
こちらを見て安心させるように微笑んでくれたウィリアムは、配色の僅かな変化のせいかいつもよりどこか退廃的な雰囲気がある。
魔物らしい目をする時の磨き抜かれたような鋭さが軽減され、その代わりに老獪な気配が強まるようだ。
「さて、……………この中だが、街は、金庫の中の住人達のもののようだ。聞いて驚いたが、三つの都市があり、かなりの数の住人達が暮らしているらしい」
「…………となると、この規模の都市が、三つも有るのですか?」
ネアは、ならず者達がそんなにいるのかと不安になってしまったが、落とされた者達とは別に、元々この金庫の中で暮らす金庫の街の住人達がいるのだそうだ。
彼等は山猫商会の職員でもあり、この中に暮らしながら、ならず者達の管理をして暮らしているのだとか。
「箱に取り付けられた金庫の中に暮らしている人達がいるのだと思うと、何だか不思議ですね……………」
「何らかの事情があり、地上での暮らしを捨てた者達らしいな。また、箱に手を出した者達をこの中で管理出来るくらいの力は備えた、手練れの者達でもあるんだろう。ジルクから書状を預かってきているから、金庫の中の管理者達から、俺達が攻撃されたり不当に拘束される事はないから安心していい。…………だが、俺達はここで来訪者、……そうだな、観光客のような立場になる。ここが彼等の住まいである以上、特別に歓待される訳でもないそうだ」
「こちらにいる方達への、身分保障のようなものが得られただけでも嬉しいです。観光客という立場となると、食事やお買い物では普通に対価が求められると思いますが、普通の通貨などが使えるのでしょうか?」
「ああ。強いのはカルウィやヴェルクレアのような大国の通貨だが、おおよそ全ての通貨が使えるそうだ。この中にいる間は、ここを一つの国や街として認識するといいかもな」
(ここは、金庫の中に住む人達の街…………)
そう思えば、また、何とも不可思議な所に来てしまったようだ。
住人達がどうやってこの中に移り住んだのか、出入りを管理するのが商会の者達だけで不満はないのか。 はたまた、こちらに落とされたならず者達を、どのように管理して暮らしているのか。
この不思議な街に纏わる謎は沢山あるものの、ネアはひとまず、ここから出る為に必要な事を考えようと思考を切り替えた。
ウィリアムの仕事の都合などもあるので、一刻も早く出られたのなら幸いだが、最長でも丸一日程度で出られると分かれば何とか凌げそうだ。
ひゅおんと、夜風が吹き抜けた。
そうすると、大きな木に吊るされたカンテラがしゃりしゃりと澄んだ音を立て、不思議な光の影がちらちらと石畳に揺れる。
しっかりとした石造りの街並みは、落ち着いて眺めるとカルウィよりはタジクーシャの街並みに近く、建築意匠で言えば、カルウィとウィームの間といった感じだろうか。
日が昇ればまた印象が変わるかもしれないものの、全体的には砂色の石材を使った街並みに見える。
飲食店などもあるようで、通りに落ちている光には、店内を行き交う人々の影が見えた。
「この茂みの中に、テントのようなものを張って籠城します?」
「いや。俺一人なら兎も角、ネアとシルハーンもいるからな。街の管理から外れて、外に身を潜めているような者達に遭遇する可能性は避けたい。ジルクから、全ての街の管理局長の名前と所在を聞いてきている。まずは、その人物を尋ねようか」
「はい!」
(ここは街という名称で区分されるけれど、山猫商会の組織としては、それぞれの街の名前で局として扱われるのだわ…………)
特徴的なカンテラの木から、この場所が、金庫の中のどの街にあたるのかはすぐに判明した。
「森と夜の系譜の者達が集まる、ハムの街だな」
「ハム。…………じゅるり」
「…………キュ」
「はは、少し疲れたよな。商会の職員がこちらに来た際に使う部屋を、出るまでは借りられるそうだ。落ち着いたら、どこかで食事も出来るだろう」
そう言われ、ネアは、銀色の光を落とす水晶のカンテラの木を見上げる。
どうやら、金庫の中の街で、料理をいただく事も出来そうだ。
ここには、どんな料理があるのだろう。
そんな事を考えられる贅沢さに感謝し、ネアは、大事な伴侶にすりりと頬擦りをした。
ここからは、乗り物になってくれている終焉の魔物の肩にしっかりと掴まって、街の中心地に向かう事になる。




