災いの雨と美味しい葡萄酢鶏 3
ざざんと、また大きく麦畑が揺れた。
ネアは最初、ここは、目の前の豊穣の妖精が暮らした国が豊かだった頃の風景なのだろうかと思っていたが、どちらかと言えば心象風景に近しいのだろうか。
見上げた空には深い夜闇が佇んでいて、ディノの腕の中にいる筈なのに、まるで一人でこの麦畑に立っているようだ。
はたはたと風に揺れる服裾が足首に当たり、時折強い風にくしゃっとなった前髪に視界が遮られる。
闇色は風に流されてゆく雲で濃淡を変え、僅かに手をにぎにぎしてみても、指先に触れるものは何もない。
ほうと、どこかで鳥が鳴いた。
けれども、夜の鳥が羽を休めるような木はどこにもないのだった。
風に舞う緑の光は、緑の目をした豊穣の妖精の魔術の色なのかもしれない。
それとも、過去に起きた悲劇の何かを示した色なのだろうか。
「出来れば、このまま帰していただけないでしょうか?」
「それはそう思うだろう。悪夢の底で滅びるのは、誰だって嫌なものだ」
「それは勿論ですが、私はなぜか、このような所に私を迷い込ませたのかもしれないあなたの事が、あまり嫌いではないようなのです。なので、是非にここでお別れしたいと思っています」
「だとすればそれは、お前が僕達に近いから………なのかもしれないね。君が終えた復讐は、愉快なものだったかい?」
そう問いかけられ、ネアは少しだけ考えた。
吹き抜けてゆく風に千切れ飛ぶ緑色の光はどこか寂しく、なぜかやはり、つきつきと胸が痛むのだ。
(……………ああ、そうか)
ネアはふと、その理由に思い至った。
目の前の美しい人の眼差しは、ネアが救えなかったネアの外周の誰かによく似ているのだ。
この妖精はネアを脅かすかもしれないものだが、同時に、これ迄にネアを脅かしてきたどんなものよりもどこにも行けず、そして、彼が言うように在りし日のネアに近いもの。
(この人は、知っているのだ…………)
もう二度と、愛したものが元通りにならず、自分達が健やかなものに戻れないと知っていて、その中でも狂わずにひっそりと微笑んでいる。
きっと本当は正しくて優しいどこかに行きたかった筈なのに、無残に砕かれたその願いを踏み越えて、自分の意思で正しくはないと知る滅びの道を行く人だ。
(知るという事は、知られるという事)
麦畑に佇む妖精の亡霊は、ネアもよく知る道を今も歩く人で、同時に、かつてネアが救いたかった誰かに似た人なのだと。
「…………満足はしました。毎日胸が潰れそうで、上手く息も出来ずに喘ぐように生きて来た日々が終わり、私は、私の棘を取り除いたのでしょう。ただし、溜飲は下げましたが、幸福は戻りません。私の大切なものはもう、奪われてしまった後なのですから」
「こうして今も災いである僕達を、お前は、愚かなものだと思うかい?」
「いいえ。満足する迄はと、そのように在り続ける事もあるでしょう。ただ、前述の通り私はなぜかあなたが嫌いではないので、あなたにとってこの日々が不愉快なものであれば、この先のいつかで、愉快に過ごせるようになればいいのにとは思います」
「……………愉快に、か」
小さく微笑み、黒髪の妖精は首を振った。
それは決して幸福な者の仕草ではなかったが、影の国で見た海からやって来る者のように、壊れたまま彷徨っているようにも見えなかった。
そうして再びこちらを見た緑色の瞳には、ぞっとするような暗い翳りがある。
「…………では、もし僕がお前に災いを齎すのなら、お前はどうするつもりだい?」
「あなたを壊します。ずたぼろにして、私を損なおうとした事を心から後悔させてみましょう。私にはもう大事なものがあり、私があなたに向ける身勝手な感傷や親しみは、私の中の優先順位を変えるものではありません。私は所詮、自分の為に復讐を選ぶような人間なのですから」
きっぱりとそう言ったネアに、彼は短く頷いたようだ。
俯くように瞳を伏せると、大輪の花が満開になるような艶やかさで、あまりにも冷たく美しい微笑みを浮かべる。
(……………っ、)
あまりにも美しく、そして冷たい手を首筋に伸ばされたような悍ましさに、ネアは奥歯を噛み締めて背筋を伸ばす。
後退などしてなるものか。
問われたのであれば、目の前の人外者は、ネアのその覚悟こそを見極めようとしているのだろう。
それにここは、ネアの大切な魔物の腕の中なのだ。
どんな悪夢に惑わされても、この場所こそが最も安全な場所である。
ばさりと音を立てて、妖精の羽が閉じられた。
ネアは、美しい羽が見えなくなる事に少しだけがっかりしたが、相手が油断のならない者ならば、閉じられていた方がいい事も知っている。
「………いいだろう。ここでお前がもし、僕に食い殺されるのも吝かではないと答えたのなら、その言葉通りにずたずたに引き裂いてしまおうかとも考えたが、お前が今も僕達と同じものであるのなら、今回は特別だ」
ゆっくりと持ち上げられた人差し指先を、沈黙を誓うように唇に当てると、その妖精はどきりとするような優しい微笑みを浮かべた。
先程に一瞬だけ垣間見せた残忍さは剥がれ落ち、今はもう、穏やかでどこかひたむきな切なさのある、この空間そのもののような静けさが戻っている。
「あなたと私は、………今も同じもの、なのでしょうか?」
「さして変わらないさ。どんな理由であれ、どんなものであれ、結局は自分の為に滅ぼす事を厭わない。それは、既に最も一般的な道筋を外れた者の生き方だ」
言われてみるとその通りだったので、ネアは、成る程と頷いた。
「では、私はもう解放して貰えるのですか?」
「僕が立ち去れば、お前は元いた場所に戻るだろう。だが、立ち去るのはあくまでも、お前に目を止めて立ち止まった僕だけである事を忘れないように。僕が見逃しても、他の者達はどうするかは分からない。この災いが去る迄は、用心し給え」
「………まぁ。他にも沢山の方がいらっしゃるのでしょう?」
ネアは、目の前の妖精がシーである事を踏まえた上で、この対面を終えれば災いが去るのだろうと考えていた己の甘さに溜め息を吐きたくなった。
だが、今回は残念ながら各個撃破という形になるらしい。
「それはそうだろう。僕は僕でしかなく、この災いの中には同胞達や、同胞だった者達が大勢いる」
(……………同胞だった?)
ネアが、その不思議な響きに目を瞠った時の事だった。
ぎゃおんと金属をかき鳴らすような大きな音が響き、麦畑の中から煙が立ち上がるように、真っ黒なものが現れた。
ぎょっとしてポケットの中のものを握り締めたネアは、暗闇の中で鈍い光を放った、目の前のシーがすらりと抜き放った剣の美しさに魅せられる。
それはまるで、夜の中で唯一清廉な輝きを纏うもののような明るさで、美しい女性とも見紛う美貌のシーは、鞭がしなるような優美な動きでその剣を振り下ろした。
ざざんと、草束を切り割ったような音が響く。
ぎゃあと、獣のそれに似た悲鳴が響き渡り、立ち上がった黒い影は切り分けられた場所からばらばらになった。
大きな体が崩れてざあっと風に舞ったのは、この悪夢の中に千切れ飛ぶものと同じ緑色の光。
「僕が解放する者を、この場で喰らう事は許さないよ。ここはまだ僕の領域で、この子供は守護者の手の内に戻されてはいない。………これだけの時間が経つと、僕への敬意すら忘れてしまうのか」
ぎゃおおと、崩れ落ちてなくなりながら黒い怪物が泣いている。
その声はまるで、仲間だと思っていた獣に傷付けられ、理由が分からずにおろおろと泣いているようにも聞こえた。
「…………その方は、あなたが誰であるのかを忘れてしまったのですね」
「僕達は、無残に殺され踏みにじられた。壊れてしまったり、ひび割れたまま残されるのだから、徐々に狂ってゆく者が少なくはないのは当然の事だろう」
さようならの言葉はない。
かしゃんと剣を鞘に収める音がすると、ばさりとケープを翻し、黒髪の妖精はネアに背を向けた。
その途端にネアは、背中にしっかりと回されたディノの手の温度を感じられるようになり、妖精が麦畑の奥に歩を進めると、周囲の景色が剥がれ落ちるようにしてリーエンベルクの廊下の風景が戻ってくる。
ぱちりと瞬きをすると、そこはもう、いつものリーエンベルクの中であった。
悪夢が明けてはおらずぐっと暗いが、見慣れた景色には違いない。
安堵のあまり深い息を吐けば、暗闇で光るような水紺色の瞳が、気遣わしげにこちらを見る。
「……………ネア、大丈夫だったかい?」
「………ふぁ、………い。戻りました…………」
「うん。いい子だ、その場から動かずにいたね」
「はい。………とてもはらはらしましたが、ディノの視線をどこからか感じていたのです。それ迄はディノの腕の中にいたので、動かなければそのままなのだと考えて我慢しました」
「今の者は、豊穣のシーの一人だろう。彼の言葉通りであれば、妖精達は一枚岩ではないようだ。………オフェトリウス、そちらは終わったのかい?」
ディノのその声に、ネアはぎくりとした。
ついさっきまで、黒髪の妖精が立っていた場所に、気象性の悪夢の闇色に輪郭を溶け込ませるようにして、剣を手にしたオフェトリウスが立っていたのだ。
「牙を剥いた者達は、あらかた片付けておきました。後はもう、ネアに攻撃されないかひやひやしたくらいですね。僕と影の位置までを重ねてくるあたり、先程の悪夢の中にいた男が、かの国の王、もしくはそれに匹敵する階位の者でしょう」
「私が覚えている限り、あの一族の王ではない筈だ。ウィリアムに聞けば分かるかもしれないね」
「……………ディノ、」
ネアがそろりと声を上げると、こちらを見た魔物がそっと体を寄せ、宥めるように頬に一つ口づけを落としてくれた。
ネアは、僅かに鼓動を早めた胸を押さえ、恐ろしい可能性について問いかける。
「もし私が、あの妖精さんを攻撃していたのなら、………それは、こちら側にいるオフェトリウスさんに届いたのですね?」
「そうなっただろうね。彼には、君が取り出したものを見てはならないと伝えておいたよ」
「…………ふぁい。………っ、ディノ!!」
見知らぬ者を滅ぼそうとした手で、リーエンベルクを守ってくれていた人を傷付けていたのかもしれないのだと知り、それを回避出来た安堵に胸を撫で下ろそうとしたのだ。
それなのに、まさにその瞬間に気付いてしまった恐ろしさを、どう言葉にすればいいのだろう。
ネアは、手は打っておいたのだと安心させてくれた伴侶にぎゅっとしがみつこうとして、その背中に捩れたような槍と剣の間のようなものが、何本も突き立てられている事に気付いてしまった。
抱えたネアの側には届いていないが、真っ黒な棒のようなものが何本も、そして深々と背中に突き刺さり、ネアの大事な魔物の背中はずっぷりと真紅に濡れていた。
悲鳴のような声で名前を呼んだネアに、ディノはこんな時なのに微笑むのだ。
「…………ごめん。君が気付いてしまう前に排除したかったのだけれど、こちらまでは間に合わなかったようだ」
「っ、降ります!!まずは傷を治して………い、いえ、ここから傷薬を振りかけます!!」
「すぐに消してしまうから、怖がらなくていいよ。こちらにやって来た妖精の騎士達を排除するには、彼等がいた悪夢の側に踏み込まなければならない。それは出来なかったから、攻撃を受け止めておくしかなかったんだ」
「…………私から、離れないようにしてくれたのですね?」
そう尋ねたネアに、ディノは、少しだけ困ったように微笑んだ。
否定してしまいたいけれど、ここで嘘を吐けばネアが怒ると知っているのだろう。
慌てて傷薬の瓶を取り出したが、ディノの背中に突き立てられていた醜い武器達は、さらさらと砂のようなものになって崩れて消えてしまった。
そうするともう、ディノの背中にあった痛ましい傷も消え失せてしまい、鉤裂きすらない綺麗な服地に戻っている。
怖々と手を伸ばしてそっと触れると、ネアの大事な魔物はもう、どこも欠けてはいないけれど、それでも傷を負えば痛みは感じるのだ。
(……………こちらは、と言った。だからきっと、私が気付く前に治してしまった傷は、他にもあったのではないだろうか…………)
「………そうだね。けれど、この程度であれば問題ないと分かっていて、君から手を離したくないからそうしたまでだ。ネア。………どうか、………我慢しておくれ」
「………っ……………、ぐむぅ。………はい。そうする事が唯一の最善だったのだとディノが考え、私の大事な魔物が治せる範囲の傷だったのなら、…………むぐ。………我慢します」
ネアは我慢した。
傷付いたのはディノで、これは、かつてのディノが頓着せずに自分を粗雑に扱っていた頃の負傷とは違うものだ。
それなのに、もしもの時に自力で悪夢から抜け出せないのかもしれないネアを案じて寄り添ってくれたディノを、勝手に怪我をするなんてと責めるのは間違っている。
むぐぐと唇を噛み締め、大事な魔物の頭をそっと撫でてやると、ディノは澄明な瞳を揺らして嬉しそうに微笑んだ。
こちらの様子にひやりとしていたものか、廊下の奥で、オフェトリウスがほっとしたように息を吐いているのが見えた。
「ディノ、離れないように手を繋いでおきますから、私を床に下ろしてみませんか?」
「やめておこうか」
「もうどこも痛くありません?」
「うん。爪先を踏むかい?」
「なぜ、この状況でそうなったのだ………」
さすがに爪先を踏むのは躊躇われたので、ネアは、三つ編みを手に取りそこに口づけを落としてやった。
こうするとディノはとても大切にされていると感じられるようで、目元を染めて小さくずるいと呟いている。
「今日は、ディノをとても大事にしますね!」
「………うん。………悪夢については、規模はさして大きくないが、階位はハイダットに近い。暫くは残るだろう。けれど、災いそのものはそろそろ晴れそうだね」
「妖精さん達は、もういなくなってしまったのですか?」
「オフェトリウスが対処したもので最後だよ」
「…………なぬ」
慌ててそちらを見ると、一角獣の角のようなもののある甲冑姿の妖精の騎士が、オフェトリウスに切り捨てられるところであった。
随分と大柄な騎士で、ばっさりと両断されると、緑色の光になってざあっと崩れて消えてしまう。
今の妖精が、正気を保ちながらオフェトリウスを襲ったものなのか、正気を失ってしまったものなのかが気になったが、何となく、ネアが出会った妖精に近しい者達はもう、ここでは立ち止まらないような気がした。
「やれやれ、最後にもう一人残っていたらしい。以前にも何回か遭遇した事があるが、こうして壊す度に、狂っているものが増えてゆくな…………」
「………もしかして、倒しても消えてはしまわないのですか?」
「ウィリアムにしかそれは叶わない。僕には無理だし、死の精霊達にすら難しいと思うよ。切り捨てればこの場から退ける事は出来るが、また災いの中で形を取り戻し、次に現れる頃には元通りだ」
オフェトリウスからそんな事を教えられてしまい、ネアは、慌ててディノの背後に鋭い視線を向けた。
もしまた大事な魔物を狙う者がいれば、今度こそきりん札で滅ぼす時だ。
「ぐるる………」
「ネア、もう新しいものが出て来ることはないと思うよ。………おや」
「…………む?」
ここで、がしゃんと音がして、廊下に投げ捨てられた妖精の騎士がいる。
剣で串刺しにしていたその騎士を、剣を振るって粗雑に投げ捨てたのは、オフェトリウスではなくネアのよく見知った魔物の方だ。
「ウィリアムさんです!!」
その声に、ぱっとこちらを見た白金色の瞳に、ほろりと緩むような安堵の色が浮かぶ。
余程急いで駆け付けてくれたのか、ばさりとケープが揺れ落ち、まだ妖精の騎士の残骸が纏わりついていた剣を振るった。
「ネア、無事だったか!………シルハーン、連絡に気付いてリーエンベルクに到着した時にはもう、悪夢の檻が下りていたので、こちらに入るのにいささか手間取りました」
「来てくれて助かったよ。君に声をかけたのは、料理の為だったのだけれど、妖精の騎士達を減らしてくれたのだね」
「ええ。これは、俺にしか殺せない災いですからね。………料理?」
「ああ、そちらの問題は僕が片付けたから、安心してくれ。これでも、主人となる予定の相手はきちんと守るよ」
にっこりと微笑んだオフェトリウスにそう告げられ、ウィリアムは、暗闇で一際明るい白金色の瞳をすっと細めた。
「オフェトリウス、俺が来るまですまなかったな」
「いやいや、ウィームの事は、今も昔も僕にとっても決して他人事ではないからね」
「はは、それは初耳だな。昔話だけに収めておいてもいいんじゃないか」
「ウィリアムは狭量だな。騎士としての役割を果たすのなら、主人の利益こそを考えないと」
ネアは、何やら微笑みを交わしながらも冷ややかな空気を纏う二人を見比べ、ディノを見上げた。
この二人は騎士感を競っているのかなと眉を下げたが、見上げられた魔物は甘えられたと思ったようで、ネアをぎゅうぎゅうと抱き締めてくれる。
「ネア、そちらは無事か?!」
「まぁ、エーダリア様です!こちらは、ディノが頑張ってくれて、オフェトリウスさんが、そして駆け付けてくれたウィリアムさんも、妖精の騎士さん達をがしゃんとやってくれました」
「ありゃ、ウィリアムはいつ来たのさ………」
「先程、転移申請がありましたよ。…………やれやれ、あの小さな摩耗箇所から、これ程の事になるとは………。ネア様、お怪我などはありませんね?」
「ふぁい。しかし、もう治してしまったものの、ディノが怪我をしたのですよ…………」
しょんぼりと伝えたネアに、無言で眉を持ち上げたのは、ノアとウィリアムだ。
さっとこちらに来たノアがディノを調べてくれ、ほっとしたように息を吐いている。
「…………うん。問題ないね。ネアに気付かれるくらいだから、結構まずかったのかなと思ったけれど。でも、珍しいね」
「むぎゅ。私が悪夢に迷い込んでしまったので、離れないようにしてくれていたのでふ」
「ありゃ。それなら仕方ないよ。僕でもそうしたから」
「………ふぁい」
「ネア様が迷い込んだ悪夢は、身に危険が迫る事はなかったのですか?」
そう尋ねたヒルドに、ネアは悪夢の中であった事を皆に説明した。
何かネアに分からない魔術の効果だといけないのでと、悪夢の中にいた妖精にちょっぴり親しみを感じた事も正直に伝えたところ、ウィリアムとヒルドがぴくりと眉を持ち上げている。
「うーん、あんまり言いたくないけれど、…………身の内の衝動があるって言っていたのに、それを抑えられていたのなら、鎮めの儀式がいい方向に働いていた可能性が高いね。特にネアは、残った料理を食べた訳だから、一番最善に近い形で、その上でもっとも恩恵を得られ易いものに出会ったんじゃないかな」
「むむ!美味しいお酢煮込みを食べられた上に、そのような恩恵を得られたのなら、オフェトリウスさんにはもう感謝しかありません!」
「うん。君を守れたようで良かったよ」
「オフェトリウスなんて…………」
「ネア、次からは、もう少し強引に呼んでくれて構わないからな?」
窓の外を見ると、そこにはもう、あの緑色の光はなく、窓を濡らしてばしゃばしゃと音を立てて降る雨が見えた。
相変わらず気象性の悪夢がとぷとぷと満ちていて、ネアは、闇色の霧のようだった悪夢との違いはあるのだろうかと首を傾げる。
(エーダリア様達が受けた襲撃で姿を現した騎士達は、比較的意識を保っている人達が多かったのだとか…………)
そちらに現れた妖精の騎士達は、ヒルドの姿を見て剣を収めた者も多かったようだ。
ヒルドはその中の一人から直接、我々は同胞を傷付ける事はないと言われたのだとか。
その妖精が、先程出会った人物とは違うようだと分かると、ネアは少しだけ安堵してしまった。
(…………あの人が、一人きりでなくて良かった)
そんな風に思うのは、やはり高慢なのだろう。
だとしても、災いの中で復讐を続けている美しい妖精が一人ぼっちでないのなら、身勝手なネアは、それだけで少しばかりの救いを得られるのだ。
「リーエンベルクの騎士さん達の方には、襲撃がなかったと聞いて一安心です…………」
「オフェトリウスが示したように、彼等が標的と見做した者達の元だけに現れたようだね」
「さてと。僕達も昼食にしようかな」
「………は!まだお昼が途中でした!!サンドイッチをしっかり堪能するのは、これからだったのです」
「おや、それではご一緒しましょうか。気象性の悪夢の初動は、ダリル達が請け負うそうですので、こちらはひとまず休息ですね」
「ああ。妖精の騎士達の襲撃が、リーエンベルクだけで助かった。災いとしての被害状況はこれから出てくるのだろうが、あの襲撃が他方でも起きていたら酷い被害を出すところだった………」
このまま、暫くはこちらに留まるというウィリアムも加わり、ネア達は昼食に戻る事になった。
ヒルドが温かな紅茶を淹れてくれ、ほこほことした湯気が会食堂に立ち昇る。
「むぐ!………やはりこの、鶏肉のお酢煮込みは最高なのです」
「オフェトリウスなんて………」
「すっかり気に入ってしまいましたので、また今度、魔術的な要素はないものですが、作ってあげますね」
「ご主人様!」
美味しい鶏肉を齧りながら、ネアは、鶏皮大好きっ子のエーダリアも、お酢煮込みをはふはふと頬張っている姿を確認し、こっそりと唇の端を持ち上げる。
鍋に保温魔術がかけられているので、煮込みは温かなままで待っていてくれた。
この悪夢は、明日の昼頃までは残るらしい。
あの妖精達はどこに向ったのだろうと考えると、いつか、復讐への執着が満たされ、沢山の麦が実るような豊かな土地で、その長い旅が終わればいいのにと考えずにはいられない。
それは勿論、ネアの勝手な願い事だ。
ちくちくするセーターを着られず、幸せになりたいのに、自分の心を殺す事も出来ないまま、ゆっくりと破滅に向かうあの日々を過ごしたネアだからこそ、それ以外の何も選べずに一本の長い道を行く妖精の亡霊達を、そう見送ってしまうのだろう。
ウィリアムに確認したところ、ネアが出会ったのは、豊穣の妖精の第三王子であったらしい。
魔術に長けた彼は、儀式などを司る祭祀としての肩書を持ちながら、騎士の才でも名を馳せた妖精だったのだとか。
豊穣の妖精達は、収穫祭の夜に豊かに実った麦畑に毒を撒かれ、放たれた火にその毒の煙が立ち昇り、まともに抵抗も出来ない内に殺されたのだそうだ。
今はもう、別の土地で派生した豊穣の妖精達がいる。
彼等は黄金色の髪に琥珀色の瞳を持つ乙女達で、今は亡き初代の豊穣の妖精達とは容姿的な特徴も異なるのだそうだ。
「ヒルドが出会ったというのが、豊穣の妖精の王と、第一王子だろう。あの一族は親族達の仲が良かったと聞いているから、ネアが心配する必要は無いからな」
終焉を司る者だからか、そう教えてくれたのはウィリアムで、ネアはその嬉しい情報にこくりと頷く。
大切な家族と共にいられるのであれば、それがどれだけ救いのない道行きであっても、きっとあの妖精は大丈夫だろう。
「あの方達は、災いとなるのをやめてしまう事は出来るのでしょうか?」
「怨嗟のようなものだから、それを鎮める事は出来る筈だよ。自我があり、自分の意思でそれを収めるのならば、或いは本来の顛末に近い終わり方を選ぶ事も出来るだろう」
「カルウィの王族達は、強固な妖精の亡霊避けを施している。恐らく、彼等はまだカルウィの王族を殺せていないんだろう。該当する血筋の王族、もしくはカルウィの王を殺すまでは鎮まる事はないだろうな」
「それならば、お目当てらしい方をぽいっと渡してしまえば、あの方達は満足するのです?」
「いや、侵略によって滅ぼされたものだ。彼等が王や王家に属する者を害する襲撃という災いであり続けるのは、怨嗟を鎮めるのにその形を踏襲する必要があるんだろう。贄として与えられた者では、条件を満たさないと思うぞ」
ウィリアムの言葉にぎりぎりと眉を寄せて頷き、ネアは、狡猾で残忍な人間の一人として、いつかカルウィがこの国やウィームを脅かした時には、妖精の亡霊達という手札がある事を心に留めておこうと考えた。
ふと、ではなぜあの妖精が自分の前に現れたのだろうと考えたが、ディノと一緒にいたからかもしれない。
「ディノ、今日は沢山大事にしますので、ゆっくりとしていて下さいね」
「体当たりをするかい?」
「なぜに打撃系なのだ。怪我をしたばかりなのですから、もっと体に優しいご褒美にして下さい………」
「虐待…………」
「解せぬ」
なお、夜になってから今回の騒ぎを知ったアルテアからは、なぜ呼ばなかったのだと、理不尽な叱られ方をした。
オフェトリウスがリーエンベルクに宿泊すると聞いてたいへんに荒ぶり、そんな選択の魔物まで来てしまったので、まだ悪夢への警戒を緩めていなかったディノとノアは少しだけほっとしたらしい。
ネアは、例の部屋着を着ていたところ、襟元は魔術で温かいのだとどれだけ説明しても荒ぶる、神父姿のままこちらに来てしまった選択の魔物に、上からストールでぐるぐる巻きにされたので、たいへん遺憾であると言わずにはいられなかった。
明日、4/21の更新はお休みとなります。
TwitterでSSを上げさせていただきますので、もし宜しければご覧ください。




