災いの雨と美味しい葡萄酢鶏 2
やっと揃った鶏肉のお酢煮込みを見渡し、エーダリアが笑顔になったのは、ぎりぎりのところであった。
ヒルドは素早く儀式会場へのお鍋の移動にかかり、エーダリアは、やれやれと息を吐いたオフェトリウスを振り返った。
「これで、揃ったな!ファリス、助力に感謝する」
「いや、僕としても報酬に納得した上で訪れているからね」
「…………え、何それ、不安しかないんだけど?」
エーダリア達を見送りながら慌てて振り返ったノアに、ネアはその内容を説明する。
オフェトリウスの要求は無理なものではなく、ダリルやウィームの民達に自身の有用性を示したいので、老後の移住計画の為にまた何かがあったら頼って欲しいというようなものだったのだ。
そのくらいであればと頷きかけ、加えてもう一つの要求が重ねられた。
それは、ザハでの昼食に付き合って欲しいというもので、土地の者が一緒であれば気兼ねなく食事も出来るし、尚且つ、観光客に擬態をして一人で食事をするのは侘しいと付け加えたオフェトリウスが小さく微笑んだので、ネアはそちらも了承した。
勿論ディノが一緒で構わないそうなので、こちらも無理な要求ではない。
オフェトリウスは、ザハの、牛コンソメのスープがお気に入りなのだそうだ。
看板メニューとはならないくらいのウィームではどこでも飲める伝統的なスープであるが、やはり店によって味が変わってくる。
琥珀色のスープには、ショートパスタやレバークネルなどの具材も入れられるのだが、オフェトリウスは、細く切ったセロリをたっぷりと入れる組み合わせが大好きなのだとか。
その組み合わせは試していなかったネアは、新しい美味しさとの出会いの予感にそわそわする。
しかしながら、本日の目玉はやはり、剣の魔物による鶏肉の葡萄酢煮込みのピーマン添えと言えよう。
基準に満たない料理がある事を懸念したオフェトリウスは余分に三鍋作ったのだが、何と、その内の二つが余り、遅めの昼食への流用が決まったのだ。
「ディノ、これで無事に鎮めの儀式が出来ますね。オフェトリウスさんの作った煮込みが残ったのも、素晴らしい幸運です」
「オフェトリウスなんて…………」
「食べる前に、繋ぎの魔術を切っておきましょう」
少しだけ荒ぶってしまったディノに、くすりと笑ったオフェトリウスがそう提案したその時の事だった。
とぷんと暗闇が落ちてきて、突然夜に包まれたかのように周囲が暗くなる。
窓の向こうは見通せない闇色に染まり、そのべったりとした暗さは、しかし僅かな緑色の光を帯びていた。
これまでにも気象性の悪夢は見てきたが、今回のものは初めて見る色をしていて、ネアは目を瞬く。
捲り上げていた袖を直していたオフェトリウスが、鮮やかな青緑色の瞳を瞠るのが見えた。
「…………おや、しまったな」
「わーお。これ、わざとだなぁ」
「はは、まさか。だがこれで、帰れなくなってしまった。悪夢が晴れるまではここでお世話になるしかないね」
「君なら帰れるんじゃないかな。ほら、ここには僕もシルもいるからもう充分だよね?」
ノアにそう言われたオフェトリウスが苦笑し、こちらを見て訝しげに眉を顰める。
その表情の変化に、ネアは慌てて隣の魔物を見上げた。
(……………あ、)
そこに立っていたのは、万象と呼ばれる魔物であった。
暗い暗い悪夢の底で、その眼差しは夜の光を宿した湖のように暗く煌めいていて、暗闇の中にいるのだと分かる暗いその色は、だが、澄んだ水紺色は失われずに言葉に出来ないような明るさもある。
真珠色の髪は闇を蕩かすような冴え冴えとした白さと色とりどりの闇を湛えていて、震える程に冷たいその美貌から目を逸らせずに心が震えてしまう。
ネアはふと、この魔物の全ての色が損なわれないのは、悪夢の暗さが万象というものを侵食出来ないからなのだと考えた。
そしてそれは、ノアやオフェトリウスの持つ色彩にも言えるのだ。
魔物達の身に持つ色は、どれも悪夢の闇には侵食されていない。
「…………いや、悪夢が明けるまではここにいた方がいいだろう。………この通り雨の災いには、ラジエルの気配がないね。おかしなものを鎮めの品にしていると思ったのだけれど、………随分と古い魔術の匂いだ」
「……………シルハーン?」
ディノの名前を呼ぶオフェトリウスの声には騎士らしい響きがあって、ネアは、そんなところにもはっとしてしまう。
ディノが王ならば、そこに対等ではなくとも同じ目線で立ち並ぶノア達とオフェトリウスは、やはり少し違うのだ。
魔物達がそれぞれに司る物の王だとしても、剣であるオフェトリウスは、主人を得ることを望む魔物である。
「この災いは、どこから来たのだろうと考えていたんだ。春告げの舞踏会が終わり、シャーディアックの春の舞踏会が終わった。このような災いが来るにはおかしな時期だが、ラジエルはよく癇癪を起こすからそのようなものだと思っていたのだけれど、………そうではないようだね」
その静かな声は美しかった。
音として成りながらも静謐を感じさせる声音は、まるで雪の夜に響く美貌の音楽のよう。
こうしてディノの美しさを思う時、ネアは、この魔物が魔物らしい気配を帯びるのだと知っている。
それはつまり、そのような目を向けなければならない事が、どこかで起きている証でもあった。
ふっと、優しい目でこちらを見たディノが、ネアの頭をふわりと撫でてくれる。
ネアが不安を感じている事に気付き、そっと宥めるように微笑みかけてくれたその眼差しは、ネアの良く知るいつものディノだった。
「わーお。確かに魔術の質が妙だね。………シル、エーダリアの儀式の様子を見てくるよ」
「うん。鎮めの儀式そのものは、無事に終わったと思うよ。でも、…………このような災いの中には、良くない見知らぬものが隠れているかもしれない。ここは、特別な所だから用心をした方がいいだろう」
「うん。それなら僕は、二人の側にいよう。ネア、この悪夢が晴れるまでは、シルの側から離れないようにね」
にっこり笑ってそう言われ、ネアは慌てて頷いた。
少し心配になって見上げたノアの表情は、深刻そうなものではない。
寧ろ、仮設厨房の中で鍋に祝福を与えていた時の方が、絶望に満ちた瞳をしていたくらいだ。
「はい。ディノから離れないようにして、会食堂で待ってますね」
「僕達もすぐに合流するけれど、外の様子次第では、こっちは忙しくなるかもしれない。場合によっては、先に食事を終えていてくれるかい?」
「むむ、お手伝い出来る事があれば、言って下さい!」
「うん。でもまずは、君がずっと食べたかった料理を食べておいで。意図的に過分にしたのではなく残された儀式の余り物は、祝福と守護の付与が強いものなんだ。…………だからオフェトリウスは、余分に作ろうとしたのかもね」
「さて。どうかな」
腕を組んでにっこり笑ったオフェトリウスに、ネアはそんな意図があった事に驚く。
どうやらオフェトリウスは、基準に満たない煮込みがある事を利用し、最初から鶏肉のお酢煮込みを残す予定だったようだ。
ノアが転移を踏んでふわりと姿を消してしまうと、ディノが背中に手を当てた。
「ネア、昼食にしてしまおうか。オフェトリウスの料理だけは、先に食べておいた方がいいかもしれないね」
「ふぁ、と、鶏肉のお酢煮込みです!」
「……………オフェトリウスなんて」
こつこつと、窓が鳴る。
ネアは、いつもの会食堂の窓の向こうを満たす真っ暗な闇の色の中を、蛍の光のように揺れる緑色の光を気にかけつつ、エーダリア達の戻らないまま、昼食を摂った。
オフェトリウスの作ってくれた鶏肉のお酢煮込みは、しっかりと味が染みた鶏肉はほろほろと崩れるくらいの柔らかさで、葡萄酢の酸味の角が取れ、僅かな香草の香りが何とも美味しい。
美味しい鶏肉のスープを吸ったピーマンはしんなりとしており、だがそれがまた素敵なのだ。
「決められたレシピから作ったものだが、口に合うといいな」
「むぐ!とっても美味しいです。オフェトリウスさんは、お料理は結構されるのですか?」
「そうだね。今の肩書になる前は、遠征に出かける事もあったからね。そのような時は持ち回りで料理を作るんだ。ある程度経験を積んでおかないと、用意された材料を美味しくする工夫が出来ない。それが可能なくらいには、練習したかな」
「まぁ、練習したのです?」
そう尋ねたネアに、オフェトリウスは笑って頷いた。
こちらに残るとなったので、会食堂にはオフェトリウスの分の昼食も届けられている。
リーエンベルクの料理人達も鎮めの料理作りに奔走していたので、本日の昼食は簡単なものだ。
だが、甘さが美味しい春キャベツたっぷりのアンチョビドレッシングの温かなサラダに、コンビーフのようなものとチーズのホットサンドイッチ、更には冷たいポテトスープという素敵な揃えに、ネアはすっかり夢中になってしまっていた。
オフェトリウスも、マスタードソースの効いたホットサンドが気に入ったようで、ぱくぱくと上品な仕草ながらに沢山食べている。
「沢山ね。今度、僕の得意料理の香辛料と魚介のスープを作ってあげよう。ヴェルリアでは、騎士達と船乗りしか作らない料理だから、あまり店でも出されないものだ。シルハーンがグヤーシュを好まれるのなら、きっとあのスープも好きだろう。気に入ったらレシピを教えてあげるよ」
「そ、それは是非教えて欲しいです!」
「オフェトリウスなんて………」
「あら、ディノが気に入ればレシピを教えてくれるそうなので、また作ってあげますよ?」
「それなら、………いいのかな」
ネアは、どちらかと言えば家庭料理が好きだ。
オフェトリウスのスープは素敵な予感しかしなかったので、ここはまず伴侶を荒ぶらせないようにと考え、狡猾に籠絡してしまった。
ディノは、ネアが自分の為に作ってくれるようになるのならと、少しだけおろおろしてから、こくりと頷いてくれる。
(これもまた、オフェトリウスさんなりの、馴染ませ方なのだろう…………)
オフェトリウスは、それなりに古参の魔物の一人であるという。
であれば、何でもないような提案にもきっと思惑があり、こうして腰を下ろし共生出来るのだと示す為の、彼なりの計略には違いない。
だがネアとしてみれば、美味しい利益が得られるので別に利用されるのも構わないのだった。
「エーダリア様達は、大丈夫でしょうか?」
「今回の災いの中に混ざった、古い魔術がリーエンベルクの結界に触れたようだね。術式が磨耗しているから、その補修だけだと聞いている。この悪夢の中となると手間はかかるだろうけれど、大きな問題にはならないだろう。…………ただ、そのひび割れが何かを既に迎え入れてしまっているとなると、悪夢には響くかな」
「………悪夢には、なのです?」
「うん。リーエンベルクや、ここにいる人間達に、直接の害を為せる物が入り込める程のひび割れではなかったそうだ。だが、今は悪夢が落ちてきているだろう?忍び込んだ物が悪夢に反映されると、…………そうだね、光を当てて影を伸ばした物が大きく見えるように、その輪郭が遥かに大きな物を見せる可能性はある」
「気象性の悪夢は、実現する悪夢なのですよね」
「うん。けれどもその懸念は、遮蔽さえしておければ、払い落とせる物でもある」
(でもディノは、オフェトリウスさんがここに残った方がいいと考えているようだった…………)
ネアの不安を和らげようとしてくれているものの、それでも魔物らしい目で時折窓の外を見る。
「不思議です。通り雨の災いが来ている筈なのに、雨は降っていないのですね」
「そう見せている事が、災いなのだろう。雨音は聞こえないけれど、雨はかなり激しく降っているよ」
「………なぬ」
「時折、窓の向こうに光る物が見えるかい?」
「緑色のものですね?」
「うん。それが、雨の激しさを示す災いの水飛沫のようなものだ。雨の姿が見えず、雨音が聞こえなくても決して窓を開けてはならないよ」
「は、はい!」
慌てて頷き、ネアはまた窓の外を見る。
こつこつと窓を鳴らすのは、風に揺れる庭木が窓を叩く音だと思っていた。
だが、良く耳を澄ましてみれば、それは雨樋から落ちる滴がことことと軒下の植木鉢を鳴らす音ではないか。
本来ならそんな風に音を立てないのだが、あまりにも激しい雨なので、雨樋から溢れた雨水が続き戸の前に敷かれた石畳を穿たぬように置かれた森結晶の植木鉢が揺れるのだ。
「………光りました」
「うん。また雨足が強くなったようだね」
ディノはそう言うけれど、ネアには雨の姿が見えず、雨音が聞こえない。
その緑色の光はまるで魔術の煌めきの粒子がざざんと揺れるようで、ネアはなぜか、強い風にさんざめく夜の麦畑を思ってしまった。
「むぐぐ、………雨音が聞こえないからでしょうか。なぜか、お外の暗闇が、強風にさざめく夜の麦畑のように見えてきました」
ネアがそう言った途端、がたりとオフェトリウスが立ち上がった。
ぎょっとして体を竦めてしまったネアを、隣の席に座っていたディノが素早く膝の上に抱え上げる。
ぎゅっと背中に回された腕に拘束され、ネアはぱちりと目を瞬いた。
何かを問う前に耳に届いたのは、どこか厳しいオフェトリウスの声だ。
「シルハーン…………」
「闇色の麦と緑色の火の粉。妖精の麦畑と、亡国の災いかもしれないね。…………オフェトリウス、剣を抜いておいた方がいい。もし、そうであれば、……直に妖精の騎士達がやって来るだろう」
「ええ。ヒルドにも伝えておいた方がいいでしょう。騎士達が訪れるのなら、狙われるのはエーダリア様だ。………シルハーン、あなたやネアも狙われるかもしれない。或いは、シーであるヒルドもか」
その言葉にぞっとしてしまい、ネアは慌てて真珠色の三つ編みを握り締めた。
「ディノ………!!」
「うん。ノアベルトに連絡を取ろう。君が、オフェトリウスを思い出してくれて良かった。特定の形を模した災いは、とても厄介な規則性を待つからね」
「………こ、怖いものなのです?」
「さざ波のような、………遠い過去の亡霊達だ。雨の形で訪れるのは初めてだけれど、君がこの悪夢の向こうに麦畑を感じたのなら、可能性はある」
がしゃんと音がして振り返れば、オフェトリウスはもう漆黒の甲冑姿になっていた。
あのあわいの中でもその姿を見せたのは、クライメルと対峙した時だけだったではないかと慄いたネアに、こちらを見たオフェトリウスが薄く微笑む。
「ここは僕の主人となる人の住処だからね、亡霊共は蹴散らして来よう。幸い、僕は古い時代の魔術の扱いには長けている」
「…………オフェトリウスさん」
「何も、その為だけでもない。この災いは、放っておけばやがては王都を目指すものだ。本来の姿のままで、堅牢なリーエンベルクで迎え撃てる事がどれだけ幸運か」
ひらりとケープが揺れ、どこかに向けて立ち去ってゆくオフェトリウスは、話に出ていた妖精の騎士達の対処をするのだろうか。
ネアは、悪夢の暗闇の中に滲むように消えていった剣の魔物の後ろ姿を思いながら、ディノをそっと窺う。
ディノはそのままネアを抱き上げ、会食堂を出てどこかに向かうようだ。
食事はまだ途中だが、ネアとてここで我が儘を言うほどに愚かではない。
「君が、気付いた事を言葉にしてくれて良かった。私達が懸念しているのはとても古い災いでね、人間の国に滅ぼされた豊穣の妖精達の災いなんだ」
「豊穣の妖精さん………。とても良いものに思えますが、人間は、その方達を滅ぼしてしまったのですか?」
「人間同士の戦争で滅ぼされたものだったようだね。豊穣の妖精達は、ある人間の国の国民達ととても親しくしていたが、その国が侵略され、豊穣の妖精達も国を焼かれたんだ」
豊穣の妖精達は、闇の妖精達やヒルドの一族に準じるくらいに古い妖精の一族で、漆黒の装いを好み、黒髪に緑の瞳を持つ美しい妖精達だったそうだ。
羊のような巻き角を持つ彼等は、旧世界の魔術にも長けた、人間で言うところの魔術師のような者達だったらしい。
「前の世界の魔術に詳しい方々だったのですね」
「土地を豊かにする為に、彼等は、自分達の暮らす土地に残る、古い世界の魔術も読み解かねばならなかったんだ。元々は、ランシーンの対岸にある別の大陸の西端に暮らした妖精達だ。今はもう、荒野になってしまっているけれどね」
豊穣の妖精達は魔術に長けていたが、それは戦乱の為のものではなく、土地を豊かに耕す為のものや、植物の育成を助けるものばかりであった。
彼等は思慮深く温厚で、偉大なる妖精の魔術師として恐れられながらも、人々を殺す為の魔術には長けていなかったのである。
そんな彼等を滅ぼしたのは、カルウィの祖となる土地の人々だ。
現在のカルウィの王族の一部は、現在の国土のある大陸ではなく、もう一つの大陸からの移民であったらしい。
「まぁ、それは初めて知りました…………」
「勿論、こちらの大陸の民も混ざっているよ。だが、民を纏め上げたのはどちらかといえば向こうの大陸から渡ってきた者達だ。あちらは、古い魔術が残っているが、だからこそこの世界での魔術基盤は潤沢ではない。力を蓄えた者達は、土地の貧しい収穫に耐えられなかったのだろう」
(…………そうか。だからその亡霊達は、エーダリア様やヒルドさん、そしてディノを狙うかもしれないのだ)
ディノは王でエーダリアは領主であるし、ヒルドに至っては今はもう統べる民を持たないものの、彼等はどのような形にせよ、一度は王家に連なると定められる者である。
戦乱によって滅ぼされた者達は、もう終わってしまった戦を覆す為に彷徨っているのではなかろうか。
「…………雨の形で現れるのは、初めてなのですか?」
「そうだね。どこかで、何かを取り込んだのかもしれない。………うん、やはりあの妖精達の障りで間違いないようだ。………元々は、強い風の日や、火の障りの中で現れる事が多いものだったんだよ。戦場にこそ多く現れる亡霊で、ごく稀に、草原に落ちる雷からも現れていたそうだ」
「先程まで、雷が激しく鳴っていたので、そこから来てしまったのかもしれませんね………」
「その辺りから、入り混じった可能性はあるだろう。でも今は、雷鳴は聞こえないだろう?………恐らく、最初にあったのはさして問題のない災いの雨だったのではないかな。その災いの雨の中に豊穣の妖精達の亡霊が混ざり込み、元からあった災いの形を得てしまったのかもしれないね」
「………むぐ」
窓の方を見たディノの横顔に、気象性の悪夢の深い影が落ちる。
はらりと揺れた真珠色の前髪に、ネアは思わず触れてしまった。
「ネア?…………大丈夫。私はここにいるよ」
「ディノは、気象性の悪夢としての、その影響は受けませんか?」
「うん。君はもう、こうして私の側に居てくれるからね。………グレアムやギードとも以前のように過ごせるようになった。だから私が悪夢を見る事はもうないだろう」
「むむ、そうなると私も、こうしてディノを捕まえておけば、もう怖くはありません」
「うん。………だが、少し無理をしてでも、ウィリアムやアルテアを呼んでおけば良かったね。守護の結界の隙間から入り込んだものだけとは言え、妖精の亡霊は手がかかる」
「………むぐぐ。その、妖精で、亡霊さんなのですか?」
「正しい理で死ねなかった者達、という事なんだ」
人間でも、死者と亡霊は違う。
死者達は真っ当に死に、或いはそうではなくても、人ならざる者達に殺された死者のあわいに行ったり、死者として人外者達に磨耗されたりする。
だが、それとは別に、死者としての在り方を全う出来ず、彷徨い変質したものが亡霊だ。
亡霊に至る理由は様々で、例えばリーエンベルクに残る亡霊達は、人外者の血統があまりにも強く、人間の死者としての結末を得られなかった者達が多いのだとか。
だが、人外者の亡霊達は人間のものとは違い、死んでも何らかの形で生前の魂が残ったものという意味合いが強い。
なので、障りや祟りもののように生前やその死から直結して悪変したものと、亡霊が成る災いは、悪変までの手順が異なる。
亡霊から変質する災いや祟りは、変質の段階がより深くなることでその複雑さを増しているのだそうだ。
「妖精は元々侵食に長けている。その上で、古い魔術を持つ者達だ。亡霊から災いに転じて、これ以上に厄介なものもないだろう。通り雨の災いそのものを鎮める儀式が終わっていなければ、もっと困った事になっていた筈だよ」
「………それを聞いてしまうと、鎮めが間に合わなかった所があったらと考えてもしまいますね」
「………そうだね。そのような場所も、出てはいる筈だ」
ざわざわと、悪夢が浸した闇の向こう側で、黒い麦畑が風にうねった。
ちらちらと揺れる緑色の光は、ディノの話を聞いてから見てみると、確かに風に舞い散る火の粉によく似ていた。
(知るという事は、知られるという事)
何も知らないネアはそれを蛍の光のようだと思い、ディノ達は雨の災いだと知っているので、水飛沫のような魔術の煌めきだと考えていた。
けれども、それが何であるのかを知った上で見ればもう、火の粉にしか見えないのが何とも不思議である。
(でも不思議だ。…………恐ろしいのにどこか胸の奥が揺れるような切なさがあって、あの緑の光は、怖いというよりも悲しいものに見える……………)
ネアがそう考えてしまうのは、豊穣の妖精達を滅ぼした戦の顛末がもう覆らないと知っているからだろうか。
だとすればそれは、何て高慢な感傷なのだろう。
そんな事を考えていると、ディノが小さく息を飲むのが分かり、ネアはぎくりとする。
「………ネア、少しだけこの悪夢に触れるかもしれないよ。どのようなものを見ても、どのような状態になっても、私がこうして君を抱いている事を忘れないように」
「…………む、むぐ!!」
「リーエンベルクは、収穫や豊穣の祝福を取り入れる構造であった事を失念していた。忍び込んだ者が、こちらの内側に居るようだ」
ざあっと、強い風混じりの雨が窓硝子を叩くような音がした。
もしかしたらそれは、風に揺れる麦畑のさざめきの音だったのかもしれない。
(………あ、)
廊下の向こう側に澱んだ悪夢の暗闇の中に、誰かが立っていた。
その暗さと、外には出ていない筈なのに鼻腔に届いた濡れた土の香りと、どこか香ばしい陽光に暖められた麦穂の香りに、ネアは、ここがもう気象性の悪夢の中なのだと知る。
「…………っ、」
いつの間にかディノはどこにもいなくて、ネアは、先日、舞踏会帰りの魔物達を待っていた日に着ていた室内着姿で、風にざわざわと揺れる夜の麦畑の中に立っていた。
少し離れた位置に立っているのは、一人の男性だ。
一瞬、美しい女性のように見えたが、身長の高さや騎士服のような装いに加え、身に纏う気配の硬質さにそれが男性だと理解する。
(…………なんて美しい人なのだろう)
ネアは初めて、ヒルドを見たときの感動を脅かす程に美しい妖精を見た。
濡れたような艶のある黒髪に、どこか青みが滲む輪郭に縁取られた鮮やかな緑の瞳。
黒曜石のような羊の巻き角に、異国風の軍服めいた装いは凛々しくて華やかだ。
宝石を削ったような羽は六枚で、四枚の外羽は、淡い淡い水色をしている。
二枚の内羽は、金色の粉を塗したような緑色で、その鮮やかなのに透けるような薄さを感じる色合いが、えもいわれぬ美しさであった。
(私が、それでもヒルドさんの方が綺麗だと思うのは、単純にヒルドさんの美しさや配色の方が私の趣味に合うからだ)
だから、その美醜に階位を反映させる人外者の中で、この妖精の方が美しいと思う者達も、きっと沢山いるだろう。
ネアは、同じように身に黒を宿す闇の妖精達の美しさも思い返してみたが、彼等の美貌は、この目の前の妖精に比べると華やかで鋭い精緻にカットされた宝石のよう。
対するこちらの妖精には、目まぐるしく姿を変えてゆく暗雲や、ランシーンのような土地の夜を思わせる、どこかひたむきで胸を打つような自然の美しさがあった。
「……………ああ、少し混ざってしまったかな。お前は、生きている人間の子供だね」
「…………っ、」
そんな妖精に話しかけられ、ネアは鋭く息を吸う。
ここは悪夢の中で、本当の自分はディノの腕の中にいるのだと言い聞かせなければ、冷静さを保つのは難しかっただろう。
背筋を撫で上げるような甘く澄んだ声は、低く豊かな優しさが滲み、久し振りに聞く打ちのめされるような美しさであった。
魔物達の声で随分と慣れたつもりでいたが、それでも震える程なのだ。
何の盾もなくその声を聞いたらと思うと、背筋を冷たい汗が伝う。
これが災いを宿す亡霊である限り、その声に魅了されてしまうのが、いいことにはならないのは分かりきっているではないか。
(でも、……………とても悲しい)
良くないものなのは間違いないのに、その眼差しや悍ましさはとても悲しくて美しい。
ネアは善人ではないし、この者達はネアの大切な場所に立ち入った侵入者である。
いつもなら滅ぼすばかりの者に心を添わせたくなるのはなぜだろうと困惑していると、目の前の妖精が淡く微笑んだ。
「やれやれ、身の内には全てを喰らい尽くして壊してしまえという衝動があるのに、お前は、なんと僕に似ているのだろう。終焉の子供。…………それも、呪いをかけられ、愛する者を炎に奪われた子供だね」
「……………あなたは、自分がどのようなものなのかを、ご存知なのですか?」
おずおずと話しかけてみれば、妖精の緑色の瞳はきちんとネアを見ていた。
幻のようなものではなく、対話を図れる者のようだ。
「それはそうだ。抗いようもなく災いとなった訳ではない。僕達は亡霊だが、亡霊なりの矜恃がある。生前とは違うものに成り果て、けれども自分の意思で災いたるものだ」
「災いになる事を、選ばれたのですか?」
「勿論だよ。それが僕たちの復讐の形だからね。………お前が、誰の為でもなくただ自分の為にあの男を殺したのは、それがお前の唯一の選択だったからだろう」
その言葉に愕然としたネアに、妖精はひっそりと笑った。
「ここは悪夢の中で、僕達は古い魔術に触れる。お前が僕を見て自分の過去を思うのならば、蓄えた悪夢はこちらにも触れるだろう。…………さて、どうしたものか。…………僕達と同じように呪いと炎に奪われ、僕達と同じように復讐を誓った者。そして、僕達がかつてそうであった豊穣の祝福を随分と多くその身に宿している。おまけにお前は、この世界で名前のないものであるらしい」
顎先に手を当て考え込む様子を見せた妖精に、ネアはポケットの中のきりん札を握り締めて立っていた。
目を閉じると、ひたりとこちらを窺う魔物の眼差しの気配がどこかにある。
だがネアはどこかで、目の前の妖精には立ち去って貰い、滅ぼす事なくこの妖精達をどこかに行かせてやりたいと考えてしまうのだった。




