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142. 春の下で出会います(本編)




「むぐ!」


振り返ったアルテアが誰かから手渡されたのは、ネアのお気に入りの夜兎の香草パン粉焼きの載った小皿であった。


期待に満ちた瞳で見ていると、ひょいとお口に入れて貰い、ネアは目をきらきらさせて美味しいお肉を噛み締める。

ふっと微笑んだアルテアに指の背で頬を撫でられ、ネアは夜兎を奉納する良い使い魔に頷きかけてやった。



「グレアムからだ。相変わらず、よく見ているな」

「まぁ、グレアムさんからなのです?」

「あいつもあいつで、今日はこちらに来られないからな。気を遣ったつもりなんだろう」

「分かります。恋人さんとの、大切な時期なのですね」

「…………ギルフォーンを警戒しているんだ。先代の犠牲の伴侶は、ギルフォーンを手酷く振ってから、犠牲を選んだからな」

「……………ほわ」



それは、場合によってはとても拗れている可能性があるので、ネアは、ふるふるしてから頷いた。

あくまで物語の中から得た知見ではあるが、遊び人めいた男性が唯一心を許した女性というものは、時として、その男性の心に最後まで残る深い執着となる事がある。


表向きは代替わりしたグレアムだが、魔物達の代替わりは姿形がまるで変わらない事も多く、先代を思わせる姿のままの今代の犠牲の魔物は、ギルフォーンにとってあまり好ましくない相手なのかもしれない。


(だからこそ、グレアムさんはこちらに来ないでくれていたのだわ…………)



「…………ネア?」

「む?どうしました?…………むぐ」



ギルフォーンとの遭遇から、アルテアは少しばかり神経質になっているようだ。

ネアが、次はあのゼリー寄せかなと心を彷徨わせていると、すぐに名前を呼んで何かを確かめようとする。

なのでネアは、全く困った魔物であるとそんな魔物のケープの内側に入り込み、どすんと胸に寄りかかってから、新たに手に入れたゼリー寄せを食べる事にした。



「…………おい」

「使い魔さんを背もたれにして、暫し、お料理を堪能しますね。なお、今年のゼリー寄せは普通に美味しいは美味しいのですが、これ迄のような特別な美味しさという訳ではありませんでした」

「うん。それはあんまり美味しくない…………」

「まぁ、ダナエさんもなのです?」

「バーレンは気に入っているから、人それぞれなのかも知れない?」

「い、いいだろう!俺はこれが気に入ったんだ」



注目されてしまい、目元を少し染めたバーレンは、慌ててお皿の上のゼリー寄せを食べてしまう。

そんなバーレンを見守るダナエの眼差しの優しさを見ていると、ネアは胸の中がほかほかしてきてしまう。


ずっと一人で旅をしていたダナエは、これからはもうずっと、バーレンと旅をするのだそうだ。

バーレンがこれからもと言ってくれたのだと、ダナエがカードから教えてくれた夜がある。

その時のダナエは、どれだけ嬉しかったのだろう。

こうして仲良しの二人を見ているだけで、ネアは勝手に嬉しくなってしまうのだ。



そんな思いで見ていると、こちらを見たダナエが、困ったように僅かに首を傾げる。


「………ネア、エティメートで困ったら、私に言ってくれるかい?」

「はい。ですが、あの綺麗な妖精さんは少しも感じが悪くなかったのですよ?」

「君を一度も見なかったのに?」

「ええ。この季節には、そのような方も沢山いらっしゃるのでしょう。それはね、気にならないのです。おまけに、あの方がダナエさんに会いに来て下さったので、私は綺麗な妖精さんを近くで見られてしまいとても幸運でした」

「…………うん」


エティメートの連れがネアに危険を及ぼしかねなかった事を、ダナエは心配してくれたのかもしれない。

ネアがそう言うとほっとしたように頷き、どこからか持って来た大きなパイ包みをぱくりと食べている。

ネアはそれはどこからかと思いじっと見つめたが、中身が苺クリームだと知ると、まだデザートではないなと考えた。



はらりと桜の花びらが落ちた。

ネアは取り皿を置いて花の天蓋を見上げ、その彩りにふと眉を顰める。



(…………何だろう、色が違うのかしら?………でも、寧ろ種類が違うのかもしれない………?)



「アルテアさん、この木は、桜ではないのでしょうか?」

「…………は?」

「何というかよく似た木なので、ずっと桜の花だと思っていたのですが、どことは言えない違和感があるので、どうやら違うお花のようです」



首を傾げたネアが、そう伝えた時の事だった。



ゴーンゴーンと、どこか遠くで鐘の音が鳴り響き、きりきりがしゃんと金属の歯車を巻くような鈍い音が響く。


ぎくりとしたネアが視線を戻すと、なぜかアルテアの姿が見えない。


きりきり、しゃりん。

最後に聞こえたのは、水晶の留め金を下ろすような澄んだ音で、その音が響いた途端に肌に感じたのは、森を吹き抜けるような芳しく不思議な風の温度だった。




「おかしいな。これだけ響き合わせても、やはり君は鳴らない、か」



その言葉にゆっくりと振り返ったの先にあったのは、深い森の底。

はらはらと花びらの雨を降らせるその場所は、先程までの春告げの舞踏会の会場によく似た、けれどもまるで違う、静まり返った夜の中であった。



そんな春の夜の中に立っているのは、つい先程に立ち去った筈の共鳴の魔物で、こちらを見ている鮮やかな青い瞳は、今はもうヒルドの瑠璃色の瞳には少しも似ていなかった。


周囲に広がる森や、辺りを包む夜と少しも混ざり合わないとても異質な物は、そこから生まれた色とはまた違う輝きを帯びる。



(どちらかと言えば、ダリルさんの瞳に似ている)



自然から派生した人ならざるもの特有の瞳の鮮やかさを持つ種族のものとは違い、誰かの作り上げたものは、事象を司る人外者達に共通した自然界のものとは違う色になると言われている。

唯一、ディノの瞳の孕む色だけは、万象というものの理に於いて、この世界のあらゆるものに馴染み、そしてあらゆるものから隔絶されているのだそうだ。



となるとこの魔物は、自然に属する者達とは違う魔術を扱う者なのだろう。

そんな事を考えながら、ネアは、すぐ隣にいてくれた筈のアルテアとお揃いの靴を見下ろしている。



「…………アルテアさん?」


どこかに落とされたのだ。

すぐにそう察する事が出来たが、わざと途方に暮れたようにその名前を呼んだのは、混乱している風を装ってでも、頼もしい使い魔を呼び出したかったから。

しかし、その声に応えるようにアルテアが姿を現す事はなかった。



「…………ここはどこでしょう?」

「共鳴の幕間、といったところかな。響き合わせた魔術のあわいで、同じものを重ねて鳴り響かせるからこそ、普通はあまり気付かれないものだけれど、なぜだか君は異変に気付いたようだね」

「………ここは、あわいの中なのですね?」

「あわいの、上澄みのようなところだね。春告げには、参加者をあわいに落とす規則が一つ敷かれているだろう?その魔術を君の足元に響かせたんだ。アルテアを呼んだつもりだろうけれど、これでも私は彼を出し抜いた事もあるくらいには器用な男でね、すぐに現れないという事は、来られないのだろう」



そう微笑んだギルフォーンに、ネアは、この魔物の仕掛けた罠が、擬態している状態とは言えアルテアを手間取らせ、ウィリアムを不快にさせてきたらしい事を思い出した。


とても器用な魔物だと、教えられたではないか。



「………ダンスのステップを間違えて落とされるのは、戻り雪さんの領域なのでは?」

「へぇ、あまり怖がらないし、驚かないね。でもまぁ、アルテアが連れているくらいだから、このような目に遭うのは初めてではないのかな。………ますます、彼の駒か呪物だという可能性が高くなった」



ひっそりと微笑んだギルフォーンは、穏やかな目をしていた。


とは言えそれは、ここに立つちっぽけな人間を傷付けない優しさではなく、興味を引かれた本を手元に取り寄せ、さて頁を捲ろうかという満足を滲ませた穏やかさに他ならない。


こつりと石床を踏む音が響き、ネアは、腕輪の金庫に指先を押し込むのが丸見えになるドレス姿でいることを、少しだけ悔やんだ。



「戻り雪の領域に落とされる君を、そのあわいと春告げの会場の合間にあるあわいに押し込んである。でもなぜか君は、こんな場所でも少しも怖がらないようだ」

「ただの同行者だとお伝えしても、あなたは信じて下さらないのでしょうね」

「さてどうだろう。君が本当の事を言っているかどうかは、すぐに分かると思うよ。これから私が、籠絡してしまうから」

「…………お断りさせていただきます」

「はは、君はとてもつれない子だね。でもそれは、私にとってはとても不愉快な事なんだ。ほら、私は共鳴を司る者だから、理由も不確かなまま、思うように響かないものがあるととても困るんだよ」



にっこりと微笑んだ魔物は、とても美しかった。

この世界では、美しいものは厄介な生き物である事が多いのだと知るネアは、背筋を伸ばして正面の魔物をひたと見据える。



(………この靴があれば、大丈夫、………なのだろうか?)



なぜここにアルテアがいないのだろう。

そんな不安が背筋を這い登り、ネアは、短く刻みかけた呼吸をゆっくりと飲み込んだ。

すぐにでも迎えに来て欲しいけれど、それが叶わないのであれば、この状況を打破するべく、方策を練らなければなるまい。


いざとなれば歌うしかないが、ここが何らかの形で春告げの舞踏会の会場に繋がっているのなら、高位の魔物を崩壊させてしまったら困った事になる。



(……………籠絡)



作戦を考えようとして、ふと、その言葉が胸の中でざらりと引っかかった。



ネアの大切な魔物はこの魔物をとても警戒していて、アルテアもしっかりと守りを固めてくれていた。

それなのにこんな場所に呼び落とされた苛立ちは、届かなかった手ではなく、自分の領域を脅かした相手にこそ感じるもの。


ここにいるとても強欲な人間は、自分の取り分を奪う者こそが大嫌いな、とても利己的な乙女なのである。

もういいや取り敢えず歌おうと思ったネアは、けれども、口を開く前にむぐっと息を飲み込む事になる。



ギルフォーンの背後に続く桜の森から、誰かが姿を現したのだ。



「あら、綺麗な場所ねぇ。ここは、あわいのどのくらいの層かしら?」

「……………食べるものがない」

「まったく、先程の集落で肉料理を食べてきたばかりではないか。…………ん?」



ふっとこちらを見た深い水色の瞳を、ネアは呆然と見返した。


深緑色の金糸の刺繍入りのローブという、最後に見た時とはまるで違う装いをしているが、忘れる筈もないその人は、蝕の中のブンシェの町で出会った、緑の塔の魔術師である。



「……………ウェルバさん」

「え?!やだ!!弟子!!!」

「…………グレーティアさんもです!!」



その隣には、お揃いのローブを羽織ったグレーティアと、そう言えばこんな容姿だったかなという貪食の魔物まで。


ここでもう、感動に胸がぎゅわんとなってしまい、ネアはうっかり目の前の魔物の事を忘れかけていたのだが、残念な事に、あの日ぶりの再会を果たした感動の瞬間に、共鳴の魔物はとても邪魔な感じで挟まっているではないか。


これはもうきりんで滅ぼすしかないと考えたのだが、ここで、ギルフォーンの注意を引き付けてくれるものが現れた。



「……………ムガル」

「……ギルフォーン」



なぜか、共鳴の魔物は、貪食の魔物を見てぴしりと固まってしまう。

その様子を見たネアは、しゅばっと走り出すと、固まったままのギルフォーンを華麗に迂回して、頼もしい味方の側に逃げ込んだ。


こちらを見たグレーティアが、どこか懐かしそうに微笑む。

ネアはグレーティアの目の前で立ち止まる筈だったのだが、受け止めるように伸ばされた手を見て、そのまま飛び込む事にした。



「むぐ!」


おじさまだけどとても甘い香りのするたくましい腕にしっかりと抱き締められ、ぼすんと顔を埋めたのは、分厚い胸筋の胸元だ。

羽織ったケープの裾が長いので見落としがちだが、懐かしい微笑みの梱包妖精は、どうやら今日もしっかりとドレスを着ているらしい。


そんならしさに、ここはもう、姿を隠して息を潜めなくてもいい場所なのだと感じられて、ネアは胸がいっぱいになってしまう。


蝕はとうに終わっているし、ウィリアムも、ここにいるグレーティアもウェルバも無事であった。

それなのに、こうして再会出来た瞬間にあの日に引き戻されてしまうのはなぜだろう。


壁に囲まれ、人々が崩れ落ちてゆく物語の顛末の日に会いたくて堪らなかった人達が、やっと触れられる場所にいると思うと、胸がぎゅっと引き絞られる。



「……………ふぇっく」

「参ったわね。あんたは、物語のあわいの中ですら泣かなかったくせに、まさかここで泣くの。………まったくもう!私まで泣いちゃいそうじゃない!!」

「師匠です。………ふぇぐ。最近、先生が出来たばかりなのでとても紛らわしいですが、師匠は師匠なのです」

「…………え、次は何を極めようとしてるのよ。もう、縄師の素質はあるから大丈夫でしょ」

「むぐ。にゃわしではありません。………そして、私にはさっぱりリズム感がないと言う、悪い先生がいるのですよ。その汚名を濯ぐべく、ピアノを習っているのです」

「あ、確かにそれはないと思うわ」

「ぎゃ!」

「そういうのね、意外に生活の中でも分かるのよね。動きの取り方が調子外れっていうの?」

「……………ふぇぐ」



久し振りに再会出来たにゃわなる師匠からもリズム感を貶されてしまい、ネアは、悲しく目を瞠ってふるふるする。

生活の中でも分かる程のリズム感の欠如とは、一体どのようなものなのだろう。



「これこれ、やっと再会出来た弟子を、余計に絶望させてどうする。久しいの、綺麗なドレスを着ているという事は……………ふむ。その魔術の基盤といい、春告げの舞踏会か」

「…………まぁ、ウェルバさんには、そんな事まで分かってしまうのです?」

「はは、これでもそれなりに優秀な魔術師だからな」

「ところで、………あれ、あんたの知り合い?」

「いえ、春告げの舞踏会でお料理をいただいていたところ、難癖を付けてきたあやつめに、ここに落とされたのです。心配している方もいるので、早々に元いた場所に戻りたいのですが、ここに引き摺り込まれたお陰で師匠達に会えましたので、………むぅ、何だかこれはこれで良かったのかもしれません?」



ネアとしては珍しく、得られたものの方が勝ってしまい、へにゃりと眉を下げてそう告白すると、こちらを見て考え込む様子を見せたウェルバが、くすりと笑った。


そんなウェルバもグレーティアも、淡い金糸の髪に水色の瞳。

今の二人はそっくりで、同じローブを着ていると家族にしか見えないのは、なんて素敵な事なのだろう。



「だとしても、お主を呼び戻そうと伸ばされた手があるようだ。そろそろ戻ってやるといい。ここまで来たのなら、我らも春告げが結ばれれば、地上に戻れるだろうて。グレーティアの屋敷は知っておるのだったな?」

「はい!皆さんがそちらに戻るのであれば、必ず会いに行きますね!!」



(……………不思議だわ)



ネアはこの世界の生き物達に比べると、まだほんの少ししか生きていない人間だけれど、これ迄に巡り合ってきた者達に相対した時には、きりりと背筋を伸ばして彼等を見上げてきた。


それなのになぜか、グレーティアとウェルバに会うと、どっしりとした包容力のある年長者に守られているような気持ちになってしまう。

圧倒的保護者感とでも言えばいいのか、ふにゃりと心を緩めて甘えたくなってしまうのだ。



(元から親しくしていた訳ではなくて、あの物語のあわいの中で、短い時間を一緒に過ごしただけなのに…………)



それでもきっと、あの時間はそれだけ深く重く、忘れようもない恐ろしさだったのかもしれない。

ウィリアムが倒れた瞬間の怖さを思い出しかけ、ネアはぶるりと身震いする。



「迎えの手が届くようだぞ。どうやらその靴は、身の危険に反応する守護を繋いだもののようだな。今回は、魔術がそれを必要のないものとして繋がなかったのだろう」

「むむ、この靴のことも分かってしまうのです?」

「それを辿って来る者が見えたのでな。では、こちらからも送り出してやろう。あわいを旅して来たからか、その扱いは少々得意になったのだ。…………あの魔物は、……ムガルがどうにかするだろう」

「…………まぁ」



振り返れば、ギルフォーンは、ムガルと冷え冷えとした声で舌戦を繰り広げている。

よく知らない魔物なので若干どうでもいいのだが、貪食の魔物との間には、ただならぬ因縁があるようだ。


幸いにも、ギルフォーンはムガルの事をとても嫌がっているようで、グレーティア達に危険が及ぶ事はなさそうだ。


ネアは、ギルフォーンが共鳴を司る魔物である事を伝え、念の為に激辛香辛料油の予備水鉄砲も預けると、ウェルバの魔術であわいから押し上げて貰った。




「ぷは!」

「…………っ、」



まるで重たい空気のヴェールをくぐるように顔を出せば、見計ったように伸ばされた手の中にしっかりと抱き締められる。

先程までいた場所の光量の違いに瞬きをすると、赤紫色の瞳がほんの少しだけ、温度のない感情に歪められた。



「………アルテアさんです」

「…………ギルフォーンだな。戻り雪のあわいに繋がる表層を、共鳴でこちらに響かせたというところか。あいつはどうした?」

「この下…………下?で、ムガルさんと喧嘩中です」

「……………は?」

「この下のあわいで、にゃわなる師匠と、ウェルバさん、そしてムガルさんに再会したのですよ!そして、ギルフォーンさんは、ムガルさんと喧嘩していたので置いてきました。ウェルバさんが、えいっと押し上げてくれたのです!」

「………こちらの道をノックしたのは、あの魔術師か」



ふーっと深く息を吐き、アルテアは爪先の位置を変えたようだ。

自分の足でネアの爪先を挟み込むようにしたので、再びどこかに落ちてしまうのを警戒しているのだろう。



「はい。あわい生活の中で、あわいの魔術が得意になられたようです。こうして押し上げてくれました」

「最深部からの登りをやってのけた程だ。そのくらいの研鑽は積んできただろう。地上に戻れば、特例とは言え、第一席の魔術師になり得る人間だ」

「…………まぁ。師匠のお父様は、凄いのですね」

「在らざる知識の最後の番人のような者だからな。その錬成は約定で封じられるが、だからこそ、他の誰にも到達しえない道を持つ最後の魔術師として、第一席に相当する」


そんな事を教えて貰いながら、ネアは、アルテアのケープの内側で、すっかり威嚇気味になってしまった魔物の体温を感じていた。


表情にひび割れめいた感情の鋭さが見えたのはほんの一瞬で、今はもう、舞踏会の場に立つ高位の魔物らしい優雅さですらりと立っているばかり。

それでも、しっかりと腰に回された腕や、周囲を窺う眼差しの鋭さから、アルテアがとても警戒してくれているのはこちらにも伝わる。



「…………ウェルバさんが、この靴が反応しなかったのは、繋いだ魔術が、危険ありと判断しなかったからだと仰っていました」

「…………ああ。スープの魔術師の魔術が先に動いた事で、こちらの守護が繋がらなかったんだろう」

「まぁ、そのような理由だったのですね。一つずつという決まり事なのですか?」

「お前が巻き込まれる騒ぎが、一つで済むとは限らないだろうが。事前に、守護を同時に磨耗しないように選択の術式で均しておいたが、優劣を付けておくべきだったな」

「………その、お腹を撫でたら元気を出してくれます?」

「何でだよ」

「むが!なぜ鼻を摘むのだ!許すまじ………」



ネアがこの会場から姿を消していたのはほんの一瞬で、確かに、ダンスでステップを間違えて戻り雪の領域に落とされる人のように、すとんと落ちていったのだそうだ。


アルテアの隣にはダナエ達もいて、とても心配してくれたというダナエは、指先でネアのおでこを撫でてくれた。



「………泣かされてしまったのかい?」

「いえ、これは、落とされた先で、とても会いたかった方に再会出来たので、嬉しくてなのです。せっかくの春告げの舞踏会なのに、ご心配をおかけしました」

「ネアが無事で良かった。アルテアが、とても落ち込んでいた」

「おい…………」

「むぅ。やはりお腹を……」

「おい、やめろ!」

「…………やめてやれ」



ネアが素早く使い魔のお腹を撫でてやると、どこか遠い目をしたバーレンがそう呟いていたので、ネアは、この使い魔は素直ではないがお腹を撫でるとふにゃんとなってしまうのだと説明しておいた。



「選択の魔物が………?」

「そんな訳ないだろうが、お前も手を出すな!」

「バルバの為に、撫でておかなくていいのかい?」

「おい…………」

「む?なぜこちらを睨むのでしょう。私は、立派なご主人様として、使い魔さんの心を和らげるお役目を果たしたまでなのです」




アルテア曰く、共鳴と貪食はとても響き合わない関係なのだそうだ。


どれだけ共鳴の魔術を響かせても食べる事しか考えていないムガルは、ギルフォーンにとっては、うっかりにでも魔術を触れさせたくない相手である。

また、ムガルにとっても、空腹のお腹を揺らす魔術を扱うギルフォーンは、とても不愉快な相手であるらしい。



(……………あ、)



会場の中央で踊っていた誰かが、すとんと落ちてゆくのが見えた。


ステップを間違えていなくなってしまった参加者を見てしまった周囲の者達がざわりと波打ち、気紛れで酷薄な春の系譜の者達らしく、すぐにまたそれぞれのダンスに戻ってゆく。


ふと花の天蓋を見上げると、そこにあるのは桜でしかない美しい花枝の覆いで、明らかに先程見たものとは色相が違う。



(…………ギルフォーンさんが、私が気付いたと言った異変が、風景の違和感に現れていたものだったのかな………)



共鳴に響き合わされるという事は、風景も震えたのだろうか。

そうしてずれた、ほんの一瞬の揺らぎが、あの瞬間の見慣れない桜の木だったのかもしれない。



「……………これでいいだろう。ギルフォーンは、春告げが終わる迄は、こちらに上がれないようにしておいた」

「となると、春告げの祝福も貰い損ねてしまうのです?」

「だろうな」


春告げの祝福がどれ程に得難いものなのかを知っているネアは、自損事故で祝福を得られなくなった共鳴の魔物に相応の報いであるとにんまりした。

後はもう、またどこかで見付けたら踏み締めておけばいいのだ。


そんな事を考えていると、ダナエがこちらに手を伸ばすのが見えた。



「ネア…………、踊って欲しい」

「ダナエさん。………その、バーレンさんとは…」

「俺は絶対に踊らないからな?!」

「バーレンは恥ずかしがり屋なんだ。踊ってくれる?」

「はい。バーレンさんが良いのであれば勿論です!アルテアさん、ダナエさんと踊って来てもいいですか?」

「一曲だけだぞ」

「その、寂しくないように、バーレンさんの隣にいて下さいね」

「やめろ………」



今日は何かと心労の多い使い魔をそっと気遣いつつ、ネアは、アルテアの腕の中からダナエの手に預けられる。


一歩踏み出すとしゃわんとスカートが揺れ、最後まで添えられていた手が、なぜかもう一度ネアの指先をしっかりと掴んだ。


おやっと振り返れば、こちらを見ているのはぞくりとする程に凄艶な赤紫色の瞳の魔物。

その魔物らしい仄暗い美貌は、花びら混じりの風にケープが揺れ、はっとする程に美しかった。



「ネア」

「アルテアさん?」

「いいか、何か異変があったら、すぐに俺の名前を呼べ。お前をあわいに落とした手際の良さといい、ギルフォーンの奴は、最初からお前を調べようとしていた節がある。恐らく、こちらの反応を探る為か、或いは俺をお前から引き離す為に、春喰らいをぶつけてきたのもあいつだろう」

「…………まぁ。という事は、私はあの方のせいで、夜兎の香草パン粉焼きをいただく、至福の時間を打ち切られたのですね…………」


これはもう、再会出来たなら激辛香辛料油に漬け込むしかないと頷いたネアに、アルテアはやれやれと呆れた顔をしている。




触れていた指先が離れ、ネアは、ダナエの腕に預けられた。


バーレンがとてもほっとした顔をしているので、そちらのご友人は、本当にダンスは踊りたくなかったようだ。


であれば他の参加者のご婦人と踊ってみてはと思うのだが、本人が言っていたように、このような場所でダンスを踊ること自体があまり好きではないのかもしれない。




「ダナエさん、宜しくお願いします」

「うん。ネアは、今年も食べたくならない」

「ふふ、これからもお友達でいて下さいね?」

「うん………」



嬉しそうに頷いたダナエが、そっと背中に手を回してくれる。

流れ始めた音楽は、優雅で華やかな春を思わせるワルツだ。



これまでに降り積もった花びらの絨毯の上で、ネアは、春告げを司る一人である春闇の竜と踊り始めた。

くるりくるりと回る視界の中で、グレアムと話しているアルテアが見え、唇の端を持ち上げる。


グラスに入ったシュプリのようなものを飲んでいるバーレンは、美しい春の景色や楽しげな春告げの会場を見ているのが楽しいようで、とても寛いだ表情でいた。

ダンスは苦手だが、このような場で過ごすのは満更でもなさそうだ。




(エティメートさんは、せっかくの舞踏会なのに、一人になってしまったのかしら…………)



とても綺麗な妖精なのでついつい心の中で贔屓してしまい、少しだけそんな事を考える。

だが、だからと言ってギルフォーンに帰ってきて欲しいとも思わない。



落とされたあわいでぎゅっと抱き締めてくれたグレーティアの温かさを思い出し、ネアは、また優雅にくるりと回してくれたダナエに微笑みかけた。



(……………やっと会えて、嬉しかったな)



アレクシスのスープが齎した効果だったのかもしれないが、面倒な魔物に絡まれた不快感をくしゃりとやってくれたあの再会は、美しい春の景色が呼び込んでくれた祝福のようにも思えたのだった。
















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