141. 帰らないお客です(本編)
はらりと花びらが舞い、藤色の床石に落ちた。
鉱石の中にあるひび割れのような不純物の筋と、不思議なことに床石の下に咲いている春の草原の花。
そこに落ちた桜の花びらを、ネアはじっと見つめて少しだけ微笑む。
春告げの舞踏会の会場にいる事がこんなにも幸せに思えるのは、決して、一口食べた海老のカクテルが美味しかったからではない。
どこか異国風のミモザ色のソースが、ぷりぷりの海老にとても合うばかりか、食べ終えると口の中に残る香草の香りが素晴らしいのだが、そればかりがネアを幸せで満たす訳ではないのだった。
初めていただいた夜兎の香草パン粉焼きがとても美味しくて、むぐっとなったネアは目を輝かせて使い魔を見上げる。
「……………なんだ」
「この味を覚えておいて欲しいのです!」
「…………っ?!……………お前な」
使い魔のお口にぎゅむっと香草パン粉焼きを押し込み、ネアは期待に目を輝かせる。
こんなに美味しい出会いがあった事も言葉に出来ない程の喜びであるが、この場にお料理上手な使い魔がいたのは僥倖だ。
いきなり選択の魔物に香草パン粉焼きを食べさせてしまった人間に周囲が少しだけざわざわしたが、ネアとしてはそんな事を気にしていられない大事件である。
何しろ、この場でしか記録を促せない物であるばかりか、誰かがこのお料理を食べ尽くしてしまったら教材がなくなってしまうではないか。
そのような悲しい事故が起こらぬよう、速やかに、アルテアに食べて貰う必要があったのだ。
「これを再現して下さいね。夜兎さんは、初めていただきましたが、こんなに美味しいものだとは。………じゅるり」
「ほお、いいのか?夜兎は、お前の好むような見た目の生き物だぞ?」
意地悪な使い魔にそう問いかけられ、ネアは、二口目の夜兎の香草パン粉焼きをもぐもぐしながら首を傾げた。
例え相手が愛くるしい毛皮生物であろうとも、お腹に入るのであれば、それは無益な殺傷ではない。
狩りの女王として、時には世界の残酷さに向き合う事も必要なのだろう。
「…………致し方ありません。人間はとても罪深い生き物ですし、夜兎さんはとても美味しいので」
「そっちの情緒もなかったか…………」
「む?」
首を傾げたネアに、なぜかアルテアは溜め息を吐き、こちらに向かって手を伸ばしかけ、その手がすっと引き戻された。
(……………おや?)
どのような行為であれ、その不自然さが意識に触れる事がある。
いつもなら気にも留めない変化でも、何かがおかしいと気付く瞬間は確かにあって、ネアは隣にいるアルテアを見上げようとした。
アルテアの隣に一人の女性が立つのが見えたのは、その時の事だ。
ネアの腕を誰かが掴むのと、アルテアが、掴んでいたネアの手を離したのは殆ど同時だっただろうか。
そのまま見上げる筈だった視界はくるりと反転し、誰かの胸元にぽすんと抱き込まれる。
「ネア、こっち」
「まぁ、ダナエさんです…………」
「ティラミアは危ないから」
そこに立っていたのは春闇の竜であるダナエで、隣にはバーレンもいるではないか。
なぜ突然拘束されたのかはさて置き、久し振りの再会に微笑もうとしたネアは、バーレンの青い瞳が、僅かな怯えさえも浮かべている事に気付き目を瞠った。
隣にいた筈のアルテアの気配はいつの間にか離れており、もう一度その姿を探して振り返ろうとしたところで、頬に触れた手の温度にダナエを見上げる。
ぴたりと頬を押さえた手は、ネアの視線の方向も固定してしまう。
「……………むむ?」
「こっちにおいで」
「…………そうだな。あちらのテーブルの料理も、きっと気に入るだろう」
やはりこちらもどこか不自然なダナエとバーレンの様子からすると、どうやらダナエは、ネアが振り返らないように頬に手を当てたようだ。
おまけにバーレンは、背後の事には一言も触れずに隣のテーブルを勧めてくる。
明らかに何かが起きている背後が気にならないでもなかったが、ここまで状況が整っていても振り返る程、ネアは無謀な人間ではなかった。
(ダナエさんは最初、危ないと言わなかっただろうか……………)
魅惑の香草パン粉焼きに夢中で状況の把握が遅れてしまったが、ダナエ達の手を借りて、この場から立ち去った方が良さそうだ。
「はい。では、お隣のテーブルを攻めてみますね」
「うん。………ネアは、食べたくなくて可愛い」
「ふふ。久し振りに、ダナエさんに会えて嬉しいです。お元気でしたか?」
「昨日は、鯨もどきを沢山食べた」
「鯨もどき…………」
何かからネアを隠すようにして抱き締めてくれているダナエだが、腕の中に食べたくない人間がいる事には少しだけどぎまぎしているようだ。
ほわりと目元を染めて嬉しそうに微笑むので、ネアはくすりと微笑んで伸ばされた指先に頭を撫でさせてやった。
「……………少し離れたな」
無事に隣のテーブルに移り、ややあってから、そう呟いたのはバーレンだ。
ネアはダナエの腕の中から出して貰い、今は二人に挟まれる形でまた新しい料理達と向かい合っている。
「お二人の様子からすると、アルテアさんの隣に、私が遭遇しない方がいいようなどなたがいらっしゃったのですか?」
自然に先程のテーブルを離れたように見せかける努力を怠らない聡明な人間は、こちらでもすぐに、ダナエのお勧めのサフラン色の濃厚な魚介のスープを飲んでいた。
(……………美味しい!)
このスープは小さなグラスに入っていて華奢な水晶のスプーンでいただくのだが、冷製ではなく、ほかほかと湯気を立てているのがいい。
あまりの美味しさにむぐっとなり、もう一つ貰ってもいいだろうかと思いつつ、ネアは、先程までいた方向を振り向くような事もせずにぐっと我慢していた。
とは言えそろそろ、なぜ自分が先程のテーブルから引き離されたのかを教えて貰わねばなるまい。
「人間を食べる者が、アルテアを訪ねて来ていた。ネアが側にいるのはよくない」
「よく見えませんでしたが、女性の方、…………でしたよね?」
「ああ。春喰らいだ。雪食い鳥に似た春の獣で、恋をした男の恋人や伴侶、更には家族を食う女の魔物なんだ。アルテアとは顔見知りのようだったからな。お前が標的にされる可能性が高かった」
そう教えてくれたのはバーレンで、ダナエと一緒にいるとちょっぴり苦労性な弟感が出てしまうものの、彼とて高位長命の竜種である。
そう言えばと思わせてくれる静かな声に、ネアはやっと、突然強いられた離脱の真相を知った。
「春、喰らい…………」
「うん。ネアを見ていたから、食べてしまうつもりだったのだと思う。だから、迎えに行ったんだ。暫くするとアルテアが追い出すと思うけれど、また近付いてきたら私が食べてしまうから大丈夫だよ」
「まぁ、…………私は、先程の女性の方に食べられてしまいそうだったのですね。ダナエさん、連れ出してくれて有難うございます」
微笑んでお礼を言えば、ダナエは少しだけもじもじした。
嬉しそうにこくりと頷いたこの春闇の竜は、少なくともネアにとっては、とても優しい竜なのだ。
「春告げの招待客ではないのに、時折現れて参加者を食べていくんだ」
「しかも、招待状すらお持ちではないご様子なので、通り魔的な感じの方なのでしょうか…………」
正規の招待客であれば、ネアも、少々参加者を食べるくらいで文句を言いはするまい。
そもそもここにいるダナエがそんな感じなのだし、他にも、人間をがぶりと食べてしまう生き物はいるだろう。
(でも、…………正規の招待客ですらないのだ)
まだ夜兎の香草パン粉焼きをいただくつもりであったネアが、そんなお客に素敵な食事の時間を奪われたのかと低く唸ると、バーレンが小さく肩を竦めた。
「対処するのも、アルテアで良かったのだろう。俺であれば、あの問答には答えられまい。ティラミアに狙われるような相手はいないが、分の悪い相手だな」
「まぁ、バーレンさんですらそうなのですか?」
「…………多分、竜はみんな苦手だと思う。だからよく、伴侶や家族を食べられてしまうみたいだよ」
「ああ。ずっと昔、………俺の親族内でも子供が一人食われてしまった」
かつては油断のならない敵であった光竜の本日の装いは、柔らかな白緑色の盛装姿で、装飾の類は淡い砂色の不思議な結晶石で統一している。
ぐっと色味を抑えたその装いは、バーレンの貴族的な美貌をよく引き立てていた。
(ダナエさんの装いも、とっても素敵だわ…………)
ダナエの盛装姿は、夜明けの空の色のような水色がかった紫紺色で、髪色が馴染むその装いでいると、白い片角と桜色の瞳がくっきりと浮かび上がる。
ダナエの持つ、儚くもひやりとするような美貌にはとてもよく似合う。
「思っていたよりも、怖い魔物さんなのですね………」
「ああ。どれだけ腹を立てても、あの獣には手を出さないようにした方がいい。春喰らいは、問いかけの試練に打ち勝たない限りは、傷付ける事が出来ないものだ。春の魔術師と呼ばれている程の魔術の知識を有していて、ある程度の可動域がないと理解さえ出来ない問いかけも多いだろう。お前にとっては最も不利な相手の一つだ」
「……………私の可動域は、上品なだけなのです」
春喰らいのことを、竜達は、害獣という意味を込めてティラミアと呼ぶのだそうだ。
今の世界には五人のティラミアがいると言われており、もう大丈夫だと言われてダナエの影からちらりとアルテアの方を見てみたところ、親しげに談笑している様子からすると確かにアルテアとは知り合いのようだ。
とは言え、あれだけ今日は離れないようにと言っていたアルテアが手を離したのだから、ティラミアが使い魔と顔見知りなのだとしても、ネアは近くにいない方がいいのだろう。
アルテアの隣に立っているティラミアは、けぶるような金髪の巻き髪は足元まであり、鮮やかな緑色の瞳をした妖艶な美女である。
獣と言われて考えていたような獰猛さはないが、大きく胸元の開いた真紅のドレスを着ている姿は、女性としての獰猛さを感じないでもない。
背中には、雪食い鳥のような大きなクリーム色の翼がある。
「アルテアが心配、かい?」
心配そうにこちらを覗き込んだダナエに、ネアは微笑んで首を振った。
こちらのテーブルの花瓶には、色とりどりのフリージアのような花と可憐なピンク色の薔薇が生けられていて、料理の美味しさを邪魔しないくらいの優しく甘い香りがする。
「いえ、談笑のご様子からすると仲良しそうですので、寧ろほっとしました」
「…………知り合いなのは間違いないが、お前が考えるような関係ではないだろう。魔物達の中で、あれは春の魔術の書庫のようなものだと聞く。簡単に害する事も出来ない以上は、下手にお前を獲物として見定められたくないんだろう」
「バーレンさん?」
なぜか困り果てたように説明され、ネアは、抜け目なく競合を滅ぼし、魚介のスープのグラスをもう一つ手に取りながら首を傾げる。
「仮にも、舞踏会のパートナーだ。気にはなると思うが………」
「まぁ、それを心配して下さったのですか?こうしてダナエさんとバーレンさんとお喋り出来ていますし、アルテアさんは、森に帰りたくなる系の魔物さんですから、時にはあのような方とのお喋りもきっと良い気分転換になると思うのです。使い魔さんが虐められていないのなら、私としては特に問題ありません」
ネアがそう言えばバーレンは困惑したような目をしたが、ダナエは、そうかもしれないとこくりと頷いた。
色々なものをぱくりと食べてしまうので、そちらの要素ばかりに注意が向きがちだが、こんな時のダナエは高位の竜らしい理解を見せる事が多い。
(あ、…………)
視線を戻すと、少し離れた場所からグレアムがこちらを見ていたので、ネアは、微笑んで頷いておいた。
(…………今日は、ご挨拶は出来ないのかな)
これまでの舞踏会のように、グレアムが声をかけに来てくれる様子はない。
だが、今日は春告げの舞踏会で、グレアム当人とは知り合いとは言え、その隣にいる同伴者は知らない女性なので、向こうからこちらに近付かない限りは挨拶に押しかける必要もないだろう。
時として、恋人達には、二人きりで過ごす時間でのみ育まれるものもある。
是非に幸せになって欲しい人なので、お邪魔になるような真似だけは避けなければなるまい。
「昨晩は、バーレンさんも、鯨もどきを食べたのですか?」
「…………いや、俺は食べなかった。あれは無理だ………」
「バーレンには少し硬いかな。中は甘くて美味しい」
「むむ。謎が深まるばかりです」
「…………お前は、何なのか知らない方がいいだろう」
そう呟いたバーレンがとても遠い目をしたので、どんな物なのかをダナエに尋ねようとしていたネアは、ぴたりと動きを止めた。
そっと首を横に振るバーレンの表情を見て、これはやめておくべきだと思うに至り、鯨もどきについては忘れる事にした。
賢い人間は紐解いてはならない謎には触れないのだと凛々しく頷いていたネアは、視界の端できらきらと光ったものにおやっと振り返り、目を瞠る。
たまたま料理を取りに来たものか、いつの間にか、向かいに淡い水色のドレスを着た美しい妖精が立っていた。
淡い緑色の髪に春の泉のような水色の瞳で、僅かに広げられた六枚羽はその両方の色だ。
(……………わ、)
その女性は、これ迄にも何度か春告げの舞踏会で見かけた事のある妖精で、かつては、ネアの脳内の綺麗だと思う妖精ランキングの上位にいた妖精である。
だが、おおっと目を輝かせたネアの方は見ず、彼女は、朝露の煌く新緑の森のような瞳でダナエに微笑みかけた。
「ダナエ、久し振りね」
「エティメート」
「最近は、毎年その子を連れているのね。仲良しの竜を見付けたの?」
「友達だよ」
「ふふ、彼の前に出るって事は、私が手を出しては駄目なのね?勿論、あなたの友達を食い散らかしたりはしないから、安心して」
「……うん」
「まぁ!さては信用していないわね?」
「…………エティメートには、あまり近付かない方がいい」
こちらを見たダナエからどこか深刻そうな目で言われ、ネアとバーレンはこくりと頷く。
それを見たエティメートは怖い顔をしてみせたが、本気で怒っている様子はなく、隣にいるパートナーの腕に手を回して愉快そうに笑っている。
(……………まずい)
そして、目下のネアの大誤算はそこにあった。
どうやらダナエ達は、本日のネアが、共鳴の魔物に出会ってはいけないとは知らずにいたようだ。
よりにもよって、ダナエの知り合いらしい妖精のパートナーこそが、ネアが避けなければならなかったギルフォーンという男性だったのだ。
こちらの事情を知らない竜達は、当然、エティメートの隣に問題の魔物がいても、すぐさまここから立ち去ろうだとか、ネアを隠しておこうという動きにはならない。
結果として、一人で決して出会ってはいけませんと言われた魔物のお向かいに立ってしまったネアは、ひやりとした思いで、頑なにそちらは見ないようにしながら、思いがけず近くで拝見出来てしまった春風のシーの羽の美しさに集中するしかなくなる。
残念ながら、エティメートの中でネアは存在しない事になっている模様だが、そこは春の系譜な生き物なので致し方ない。
珍しい反応ではないのだ。
「………やぁ、ダナエ。久し振りだね」
そんな中、穏やかな声がふわりと落ちた。
心の中でびゃっと飛び上がったネアはしかし、バーレンとの意思疎通に夢中なふりをして、必死にそちらを見ないようにと踏ん張った。
(不思議な声だ…………)
その声は美しく柔らかく、この上なく優しいのにとても冷たい。
まるで、こちらが見ている時だけ微笑んでいるのに、目を逸らすと空っぽになる虚な人形の声のよう。
なおここで、あまりにも必死に目を合わせたからか、バーレンが、ネアが春風のシーの同伴者を避けている事に気付いたようだ。
仲間の一人がこちらの問題を察してくれた事にほっとし、気を緩めたのがいけなかったのだろうか。
「ダナエ、君の手にぶら下がっている、この薄汚い子供は何だい?」
「…………友達だ。可愛いし、薄汚くない。ギルフォーンは煩い」
「おや、叱られてしまった。ごめんよ、君の気分を害するつもりはなかったんだ。でも、…………灰色だねぇ」
「優しい雨の日の、夜明けの色だ。可愛い」
(おまけに、ダナエさんとも知り合いだなんて!)
ここで憎むべきは、共鳴の魔物の顔の広さだろうか。
ダナエは、貶されてしまったネアが心配でならないのか一生懸命撫でてくれるのだが、ネアはその度に、はっとする程に鮮やかなギルフォーンの青い瞳を向けられる。
ヒルドの瑠璃色の瞳にも似た深い青色だが、ネアはまだ頑なにそちらを見ようとしていないので、詳しい色までは分からない。
幸いにもこちらは人間であるので、高位の方の精神圧には耐えられませんといった風情で、そっとダナエの影に隠れさせていただく。
しかしその動きは、却って共鳴の魔物の興味を引いてしまったらしい。
こつりと床石を踏む音がして翳った視界に嫌な予感を覚えると、そろりと視線を持ち上げたネアは、とても後悔した。
こちらを見ていたのは、その眼差し一つに強い力を持つ魔物の瞳で、多くの魔物達を見てきたネアとて、初対面の魔物からの視線をこの距離で受け止めるのは簡単ではない。
ネアと目が合うと微笑んだギルフォーンは、先程の言葉の乱暴さからは想像出来ないくらいに、優しい微笑みを浮かべている。
「…………ねぇ、君。君は確か、アルテアの連れだったよね。君は彼のどんな道具なのかな」
「………知らない方とは話してはならないと、そう言われていますので」
少し考えてから、ネアは、ここは立場の弱い人間である事を最大限に利用するべく、そんな答えを選んだ。
いつもであれば、不安要因は踏み滅ぼして終わるばかりだが、今回は春告げの舞踏会の最中である。
足が付くような場所で、ましてや、不特定多数の人々の視線に晒されながらの問題行動は起こせない。
(よりにもよって、春告げの主軸になる二人がいるからか、周囲の人達の視線が集まってしまっているから………!!)
こっそり踏んで追い払うにはあまりにも不向きな環境であるので、何とか捨て置いて欲しいのだが。
「それは気にしなくてもいい。私は、アルテアとは古い友人だからね。………君のような特徴のない人間を、どうして彼が季節の舞踏会に連れてきたのだろう。とても不思議なんだ。ほら、響かせた音が通らない場所がひとつだけあれば、それはなぜだろうと思うだろう?」
「そのようなものなのですね」
「であるからして、私はその理由が知りたいのだよ。ねぇ、教えてくれるかい?」
「………その理由は、私とアルテアさんのものです。なぜ、見ず知らずの方に説明をしなければならないのでしょう。それと、少し近いので是非に離れていただきたい」
まるで睦言を囁くようにぐいぐいと顔を寄せられ、ネアはもう、我慢出来なかった。
夜兎の香草パン粉焼きを食べられなくなったのは共鳴の魔物のせいではないのだが、やっと訪れた幸せな食事の時間を再三遮られ、心の狭い人間は、ずっとむしゃくしゃしていたのである。
腹を立てた人間に噛み付かれ、ギルフォーンはおやっと瞳を瞠った。
鮮やかな青い瞳はそのまますっと細められ、たいそう残忍な魔物らしい微笑みが浮かぶ。
青い瞳には僅かながらに赤紫色の光彩模様があり、教会のステンドグラスを思わせる不思議な煌めきだ。
「ふぅん。醜いなりにも誇り高い、困った小さな獣のようだね。おまけに、僕と響き合わない」
「おのれ、………っ?!ダナエさん?」
「……………エティメート、ここにいるとギルフォーンを食べてしまうよ」
「ダナエ?………驚いた。あなた、本気で怒ってるの?」
「ギルフォーンが煩い」
何度も醜いと言われて本気できりんを取り出しかけたネアは、突然ダナエに持ち上げられ、凍えるような冷ややかな目をした春闇の竜の横顔を間近で見る事になった。
ちりりと揺れたのは、春闇に転じかけた紺色の艶やかな長い髪で、光を孕む桜色の瞳が色を薄くすると、ダナエの面立ちはどきりとするくらいに冷たくなる。
「ダナエ、私は彼女と話をしようとしただけだよ。アルテアは、古い友達でね。彼がなぜ、このような人間の子供を連れているのかを不思議に思うのは、当然の事だと思わないかい?」
「アルテアは、ネアをとても可愛がっている。だからだろう」
「……………アルテアが?………ふぅん。となると、余程旨味のある獲物、という事かな。こちらでも手懐けてみるのも悪くないね」
思案するように顎先に手を当てたギルフォーンに、ネアは小さく唸り声を上げ、ダナエに、宥めるようにそっと背中を撫でられた。
「…………ダナエさん。もはやこの方は、こっそり滅ぼして会場の片隅に転がしておけば………むむ、そうでした。素敵なご同伴者の方がいらっしゃるので、そうもいかないのです…………」
「エティメートの恋人はよく変わるから、交代するのは慣れていると思うよ」
「ちょっと、ダナエ!続けるか切るかを決めるのは、あくまでも私の判断よ。あなたが勝手に決めないで頂戴!………ギルフォーン、向こうに行きましょう?ダナエは、怒ると手がつけられなくなるから」
「でもね、エティメート。私は、この目を見て頬を染めもしない人間がいるのは、とても不思議なんだ。ましてや、友人の連れだからね。もう少しお喋りしたいところだね」
「そんな理由で、私を悲しませないで頂戴。私は、私を一番にしてくれない恋人は嫌いよ」
薔薇色の唇を歪めてそう告げたエティメートに、とても腹を立てていたネアですら、思わず見惚れてしまった。
ネアのよく知る妖精達とは違い、この春風の妖精は、こんな表情でこそ、その美貌が際立つようだ。
なんて綺麗な人なのだろうと見ていると、なぜか、向かいに立った魔物がやれやれと肩を竦めている。
「勿論、君を優先するよ。だが、君も私の顔を立ててくれなければ、対等ではないだろう。…………この子供は、君を見るときには目を輝かせるのに、どうして私の事は道端の小石を見るような目で見るのかな。私が、そのような事を我慢出来ないのは、君もよく知っているだろう?」
「ギルフォーン………」
「そうだね、とても興味深くてとても不愉快だ。丁寧に甘やかして蕩してから、ずたずたに引き裂いてその涙を啜ってみたくなる。もしかして、アルテアもそんな風に思っているのかもしれないね」
その問いかけにネアが答えるより、懲りずに伸ばされたギルフォーンの腕に眉を顰めたダナエが反応するより、白い杖が鋭く振り下ろされる方が早かった。
「……………っ?!」
濡れた布を振り捌くような音がして、何か質量のあるものが床にどさりと落ちた。
こつりと静かな靴音が響き、春の夜明けの薄闇の中で光の尾を引くような赤紫色の瞳が揺れると、周囲でこちらの様子を窺っていた者達が、一斉に離れてゆく。
「俺のものだと分かっていて手を伸ばしたのなら、その手はいらないんだろうな」
「…………っ、久し振りの再会で、随分な挨拶だね。何も、君の遊びの手順を狂わせようとしている訳ではないんだ。少し触れるくらい構わないだろう。何、ばらばらにしても、綺麗に繋ぎ合わせて返してあげるよ」
そう笑ったギルフォーンが、ふと、目を止めた。
床に落とされた片腕を拾い上げ、まるで手品のように事もなく繋ぎ合わせながら、ひたりと見据えたアルテアの装いから、ダナエに持ち上げられているネアに視線を戻す。
「…………そのつもりだったが、おかしな事に気付いてしまった。君が、誰かと衣装合わせをしている姿は、初めて見るような気がする。耳飾りと靴もお揃いだね?」
「だとしたら、お前の行為の愚かさは言うまでもないだろうな。腕くらいでは足りないのだとしたら、目か舌あたりもいらないようだ」
「はは、それは手厳しい。…………だが、………ふぅん。君は悪食なのかな?それともこの子供は、不格好な皮の下が意外に美味しい隠れたご馳走なのか」
「ギルフォーン」
尚も言葉を重ねた共鳴の魔物に、その名前を呼んだ静かな声は、ぞっとする程に暗かった。
だが、ダナエから手渡されたネアを抱き上げるアルテアの表情は、寧ろ艶やかなくらいの微笑みを浮かべている。
しかし、その微笑みを優しいと評する者はいないだろう。
触れれば飲み込まれてしまいそうな程に暗く、最高位に程近い魔物の精神圧はどこまでも重い。
(……………それなのにこの人は、まだ微笑めるのだわ)
ネアは、そんな事実に密かに慄いていた。
隣のエティメートが真っ青になって震えているのに、ギルフォーンは僅かに顔色を悪くしたものの、困ったように苦笑しているばかり。
「はは、さすがに舞踏会の今日は不粋だったね。味見をするのはやめておこう。アルテア、君がこの獲物に飽きた頃に、私も試してみるよ。こう見えて私は寂しがり屋でね。自分一人がご馳走にありつけないのは我慢ならないんだ。…………ん?」
ここで、婉然と微笑んだギルフォーンの視線が横に逸れたのは、ネアが腕輪の金庫からきりん札を取り出そうとして、うっかり、狩ったばかりの獲物の頭が見えてしまったからだったのかもしれない。
「…………おい、お前は妙なものを取り出すな」
「き、きりんさんを出そうとしただけなのです。うっかり、先程仕留めたばかりの、紙ロール生物が引っかかって出てきてしまいました」
「そもそも、この舞踏会の参加者を気安く狩るな」
「私としても、無益な殺傷は望まないところなのですが、残り一つの魚介のスープの競合でしたので、やむを得ない事でした」
「しかも、その程度のことで狩ったのかよ」
「追い払おうとして、手でばしんとやっただけなのですが、思いの外儚い生き物でしたね」
「そんな訳あるか。そいつは、男爵位生物だぞ」
「……………この、紙ロール生物めが………?」
「…………ええと、アルテア。念の為に聞くが、今その子が取り出そうとしていたのは、ロヨイではないかな?」
「…………だろうな。春明かりは代替わりだ」
「……………んん?」
ここで、初めてギルフォーンが頭を抱えてしまい、ネアは、獲物を払い落として掴んだきりん札を取り出すか少しだけ迷った。
とは言え、敵が弱っている内に滅ぼすのは、兵法の基礎でもある。
「うむ」
「おい!それは出すな。しまっておけ」
「むぐぅ…………」
「男爵位なら兎も角、こいつを狩ると春告げの舞台がひび割れるぞ」
「……………エティメート、まだここにいるのかい?」
「ダナエ………。っ、分かったわよ。彼は連れてゆくわ。…………ギルフォーン、行きましょう?まったくもう、困った人ねぇ」
幸い、今回はもう、ギルフォーンも逆らわなかった。
エティメートに手を引かれ、どこかに連れてゆかれる。
その姿が見えなくなってから、ふうっと息を吐いたのは、バーレンだろうか。
そんな友人に背中をばしんと叩かれ、ダナエが不思議そうに目を瞬く。
「……………戻るのが遅れた。何もされていないな?」
てっきり、ギルフォーンと遭遇してしまった事を叱られるのだとばかり考えていたネアは、そう尋ねたアルテアの声があまりにも静かで、思わず目を瞠ってしまった。
「はい。沢山貶され、ダナエさんが追い払おうとして下さっても居座る執念深い方でしたが、ダナエさんとバーレンさんがいてくれたお陰で、触れられてしまうような事はありませんでした」
「瞳を覗き込まれたりはしなかったのか?」
「…………それはありましたが、何が問題があるのですか?」
「…………ネア、ギルフォーンの事をどう思う?」
「とても失礼な方なので、足に重石をつけて逃げ沼に沈めば良いと思います」
「……………そうか。お前には効かないらしいな」
「むむ?」
どこか安堵にも似た溜め息を吐き、アルテアが教えてくれた事によると、共鳴の魔物は人間の心を動かすのがとても巧みなのだそうだ。
それが共鳴の資質である以上、多くの人間は、理解していてもその影響を遮れないらしい。
「影響を受けるのは、人間だけなのですか?」
「身の内に魔術を持たない事で、その影響を受け易くなるのは人間だけだな。憎しみでも愛情や崇拝でも、あの男が望む感情を増幅させやすくなるが、その影響が最も強く反映されるのが、愛情や執着を動かされる場合だ」
「………まぁ」
「おまけにあいつは、色狂いだからな。長くてもひと月程度しか興味が続かないが、一昔前のノアベルトとは違い、興味を向けた獲物は本気で落としにかかる。あの様子だと、その手の執着ではなさそうだが…………」
隣では、友達を貶されて腹が立ったと、ダナエがグラタンのようなお料理を抱えて食べている。
バーレンは、そんな友人を鎮めるべく、次に食べる為の料理を甲斐甲斐しく取ってやっているようだ。
こちらの会話が落ち着いたら、ダナエ達にお礼を言おうと考えながら、ネアはアルテアの瞳を見上げている。
「どちらかと言えば、物珍しさと不快感といった感じでしょうか」
「ああ。お前は、あいつの趣味の範囲だと思っていたが、幸いにも違ったらしい」
「…………なぜでしょう。それで良かった筈なのに、それもそれでむしゃくしゃします」
ぎりぎりと眉を寄せていると、ふっと頬に触れた温度に目を瞬いた。
淡い口づけを一つ落としたアルテアは、いつものように軽口を叩いたり、また事故ったのかと荒ぶる事もなく、先程からずっと見ていて途方に暮れてしまうくらいの安堵を滲ませている。
「…………アルテアさん?」
「今回は、俺の手落ちだ。春喰らいの目に留まらせないように手を離したが、そうするべきではなかった。ギルフォーンの目に留まり、どれだけ備えがあったとてその影響が出れば、お前の心の有り様はその瞬間から歪められていた可能性があったんだからな」
(……………ああ、)
その言葉に、ネアは理解した。
それは、大切なものが損なわれる事を恐れる人間のような恐れではなく、人間とは違う生き物なりの、恐れ方なのだろう。
こちらの心を覗き込み、その有り方を気に入ったからこそ寄り添う人外者にとって、自分の気に入った物が歪められる事程に恐ろしい事はないのかもしれない。
(多分、ここにいたのがディノやノアだったら、真っ先に、私が怖がっていないのかを案じてくれるのだろう。でもアルテアさんは、私が変えられなかった事にこそ、安堵するのだ…………)
もし、望まない形に変えられてしまったのなら、自分がもうここに居られなくなるかもしれないから。
或いは、与える事で得られる心の動きを、そうして失ってしまうかもしれないから。
ネアが先程の魔物に心を歪められ、彼に跪き、その寵愛を願うような状態に成り下がれば、アルテアは失望しこの場から立ち去るかもしれない。
とても身勝手だが魔物とはそのような生き物で、それは多分、彼らにとっても取り返しのつかない喪失になるのだろう。
「………むぅ、では、アルテアさんが居ない間に私はとても心の危機に晒されましたので、先程の香草パン粉焼きを、いつか作ってくれます?」
「……………やれやれだな」
そう強請っても、呆れたように顔を顰めたアルテアの瞳の中には未だ僅かばかりの安堵がある。
ネアは、もう人波の向こう側に見えなくなってしまった共鳴の魔物を思い、後々に問題が残らないよう、こっそりあの魔物の記憶を奪っておくにはどうすればいいのかなと、邪悪な思考を巡らせたのだった。




