140. 春告げで引っ張ります(本編)
その日の朝早くにリーエンベルクを訪れたシシィは、いつもの闊達さはなく、どこか鬼気迫るような目をしていた。
くるりと巻いた髪は綺麗になっているし、素敵な木苺色のパンツスーツも場が華やぐようなのだが、兎に角目が暗い。
「……………シシィさん?」
ぎくりとしたネアが思わず名前を呼んでしまうと、シシィは、いつものトランクから仕立てたばかりのドレスを取り出しつつ、目の下の隈の理由を話してくれた。
とても低い声であった。
「…………アルテアが、最後の最後で難癖をつけてきたんですよ。いいですか、ネア様。来年からは、あれを最後まで参加させずに、春告げのドレスを仕立てましょう」
「は、はい…………」
「今回は揃いの仕立てにするからと言って、よりにもよって、ネア様のドレスなら兎も角、自分の仕立てに難癖を付けたんですよ?!それも、ネア様のドレスとの揃えが甘いと言って。乙女ですか!!」
「む、むぅ。私の使い魔めが、たいへんお手数をおかけしました…………」
「おまけに、刺繍がかかる部位の直しだなんて………。いいですか、ネア様。絶対に今日はあの男を床に這わせて下さい」
「ほわ…………。今回は、たいへんに鮮度の高い復讐の道具にされる模様です」
だがしかし、トランクから取り出されたドレスを見れば、それも不可能ではないように思えた。
ふぁさりと、この日の為のドレスの立てる衣擦れの音は、胸を弾ませる柔らかさであった。
それはもう、美味しいパイの焼き上がるオーブンを覗き込むような喜びに、ネアは小さく弾む。
採寸の後で、仮縫いを二着着てみるという手間をかけて作られた今年の春告げのドレスは、この上ない美しさと繊細さで、何ならネアがもう床にぱたりと倒れたいくらいの仕上がりである。
そもそも、生地からして大好きなこのドレスは、曇りの日の春の朝を思わせる色合いが、ほうっと溜め息を吐きたくなる程に美しい。
灰色にウィスタリアがかった色の繊細さは、朝霧に霞む薄暗い森や庭園をも思わせ、触れれば消えてしまいそうな詩的な美しさだ。
そんな布がドレスになったのだからもう、ネアとしてはもうじたばたするしかない。
(デザインは結局、上半身に女性らしい雰囲気を持たせて、スカート部分はとてもシンプルにする事にした)
上半身は、透ける方の生地を多めに使い、胸元で生地が交差するようなデザインは、ドレス全体の印象をこの上なく繊細に仕立てている。
オフショルダーにして肩は出し、背中は大きく開かせているが、このくらい、舞踏会では慎ましいという範疇のものだろう。
薄布を巻き付けたように二の腕に少しかかる袖から胸元に繋がるデザインが美しく、春の妖精のような軽やかな装いに見える。
だがこのドレスは、実際には見えているよりもずっと布地に覆われているのだ。
背中や胸元部分には、着ているネアにも目を凝らさないと見えないような、朝霞の生地を使ってほとんど透明に仕立ててあり、そこから、ドレス全体に使われているネアのお気に入りの生地に繋がっている。
そんな透明な部分に、ドレス生地の淡く滲むような絵柄から、葉や、花枝を伸ばしたような刺繍が施されると、刺繍部分はネアの肌に直接貼り付けられているような不思議で艶やかな効果を生むのだった。
特に胸元などは、肌に落ちる刺繍の影がまたえもいわれぬ柔らかさを生み、ネアは家事妖精とシシィに手伝って貰ってそのドレスに着替えると、鏡の中の自分を見つめてむふんと微笑んでしまった程だ。
「………確かに、肌が出ている部分は少ないのですね」
「ええ。アルテアの要望通りですが、もっと大胆に開いたドレスに見えますでしょ?ネア様はお胸の曲線が綺麗ですので、その曲線に刺繍の花枝が這うように見せるだけで、素晴らしい効果ですからね」
「この、ふんわりと広がるスカート部分が、とても端正なのにうっとりしてしまうくらいに綺麗なのは、布地の素晴らしさと、シシィさんの縫製なのだと思います。清廉な印象なのに、動くとしゃわんと波打つのがなんて素敵なのでしょう!」
「今回は、必要以上には膨らませていません。その代わり、僅かな動きでも生地が揺らぐように、たっぷりと試行錯誤して仕立ててありますから。………んふふふ、清楚な薄物風に仕立ててありますから、肌の温度も伝わりたい放題ですしね」
「むぅ。復讐の道具ですね…………」
「アルテアの装いは、しっかりと優美で整った盛装姿という感じにしてあるんです。どちらかと言えば、古典的で優雅なデザインですね。着る者によっては退屈な装いになりかねませんが、あれはまぁ、素材はいいですから。………そしてそこに、ネア様の繊細でどこか儚げなドレスを合わせますと、夜会帰りに屋敷で待っていてくれた女を連れ出すような、どこか背徳感のある組み合わせになるんですよ」
「…………ほお、また余計な背景を持たせやがったな?」
とても丁寧にドレスに込められた物語を教えてくれたシシィに、背後から本日のエスコート役の声がかかり、ネアは振り返った。
戸口に立っていたアルテアは、目が合うと形のいい眉を顰めて、なぜか一歩下がる。
「…………シシィ。露出を抑えろと言わなかったか?」
「あら、抑えていますよ。胸元や背中は殆ど開いていませんからね。透けているだけです」
「…………くそ、そっちか」
「アルテアさん、見て下さい!このスカートは、少しでも動くと、しゃわんと揺れるのです!」
「おい、いいか。弾むなよ。…………その刺繍は、」
「胸元ですか?透明な布地の上にあるのですよ。こう、ぴったり肌に吸い付くようなデザインで……」
「よし、黙れ。…………シルハーンはどうしたんだ?」
そう問いかけられ、振り返ったネアは、背後の長椅子の影を覗き込んだ。
そこには今も震える魔物たちの頭が見えるので、ネアがシシィに手伝って貰って着替えた後に隠れてしまってから、ずっと隠れていたのだろう。
ディノ一人で隠れているのなら構ってやるのだが、ノアと一緒に隠れているのでと、舞踏会前で忙しい乙女はそのままにしておいたのだ。
「…………ネアが虐待する」
「今回のドレスってさ、ドレスそのものもいいけど、寧ろ似合い過ぎてていけないやつだよね…………。こう、夜のテラスとかで、人目を忍んで会いたい感じ?」
「虐待…………」
「ふむ。声が聞こえてきていますので、生存確認としますね。これから髪の毛もやらなくてはいけないので、そのままにしておきましょう」
残念ながら今日は、街のギルド長達との会合があり、エーダリアやヒルドはもう、リーエンベルクを出てしまっている。
議事堂に各組織の代表者達が集まり、新規仕入れ先の情報共有や、新しい品物や魔術の擦り合わせを行う日なのだそうだ。
決してネアが関わる事のないその領域の責任者達が集まる会議では、今月の頭から導入された魔術制度のお披露目があるらしく、近年の会合の中ではもっとも人数を集めてのものなのだとか。
「…………髪は、少し巻いて崩したものを結い上げるか」
「んふふ!そうして下さいまし。例えば、情事の後を思わせるようなしどけなさで…」
「いいか。手持ちの針を一本残らず砕かれたくなかったら、大人しくしていろ」
ネアはここで、何やら溜め息を重ねているアルテアに髪の毛をふんわり結い上げて貰い、天鵞絨の小箱に入っていたお揃いの耳飾りを付けて貰う。
耳飾りくらいは自分で装着出来ると手を伸ばしたのだが、アルテアが装着役を譲らなかったので、何か付け方の工夫もあるのだろうか。
シシィが、どうして部屋の隅でお腹を抱えて震えているのかは謎である。
「………なんて綺麗なのでしょう!ほんわり光る小さな結晶石が揺れるようになっていて、手折ってきた花を飾ったようにも見えます」
アルテアが用意したのは、細い夜結晶の鎖に、小さな小さな結晶石が揺れている耳飾りだ。
青みがかった濃灰色の結晶石はよく光り、滲むような水色と、夕暮れの霧のような菫色の煌めきを落とした。
その耳飾りをつければ、首筋や頬に結晶石の煌めきが細やかに散らばり、その光の影も美しい。
今回は、アルテアの装いと相似性を持たせる為にヒルドの耳飾りは出来ないので、とは言え重要な守護の品でもあるそちらは、生花と組み合わせて髪飾りにしてあった。
(…………本当に今回は、しっかりお揃いなのだわ)
これが、共鳴の魔物対策だと思い出せば、その魔物は、どれだけ厄介な人物なのだろう。
爵位は侯爵で、とは言え侯爵の中では最下位なのだそうだ。
白に近しい色を持つ魔物ではなく、人の世を掻き乱す事を好みあちこちに仕掛けをするその器用さからこそ、階位を上げた厄介な人物であるらしい。
今回は、春風のシーの同伴者として春告げの舞踏会に参加するらしく、彼の参加を知って恋人や伴侶を春告げに連れて行かないと決めた者達も多いのだとか。
「いいか、今日は俺から離れるなよ。場合によっては、紐で括っておかないといけなくなるぞ」
「……………ぐるる」
「その代わりに、事故らなければ、帰ったらパイでもタルトでも焼いてやる」
「………じゅるり」
アルテアの装いは、ネアのドレスの生地よりも色合いの暗い、けれども、灰色にウィスタリア色のかかった色合いのものだ。
艶のある生地だが、その艶をぴかぴかではなく、とろりと光るような上品さに抑え、ネアのドレスの生地のような織り模様はない単色としている。
その代わり、ネアのドレスと同じ生地を、羽織った片流しのケープや、襟元などにもあしらい、しっかりと揃えで仕立てたのだぞと主張するデザインであった。
「…………今回のアルテアさんの装いは、とても抑えた仕立てなのですが、今迄よりぐっと色めいた感じですね」
「おい、お前の情緒はまだ生まれないのか。捲るな!」
「むぅ。ケープの裏側を覗いただけなのです…………」
直しが入ったのはそこだろうと思われる、ケープを留める肩口の部分は、ケープ留めの宝石の装飾の周囲に、ネアのドレスの胸元の刺繍と同じものがある。
宝石留めに刺繍で額縁を付けるような繊細さで、ネアはすっかり気に入ってしまった。
(舞踏会用の盛装服だけれど、無駄な装飾は一切なくて、その代わり今回は、アクセントをつける宝石や祝福石の装飾が少し多め。だけど、このような装いをすると、ぐっと優雅で、…………魔物らしい雰囲気になるのだわ)
なお、今回の舞踏会では、靴もお揃いだ。
渋みのある菫色の革靴で、こちらにもきらきらとよく光る濃灰色の祝福石の飾りがある。
靴底の魔術を繋いでいるので、もしネアがどこかに吹き飛ばされてしまっても、アルテアも引き摺られてくれる仕組みだ。
「…………ネア、共鳴には気を付けるんだよ」
「まぁ、ディノ。生き返ってくれたのです?」
「うん。…………虐待」
「そしてまた、弱ってしまうのですね」
「…………ずるい」
「くるりと回ってみせますので、褒めてくれますか?」
「…………すごく可愛いのに、回ってみせるなんて」
「ディノ!どうですか?」
「とても綺麗だよ。…………それに、可愛い。……………ずるい」
伴侶として、注意喚起の為だけに生き返ってくれた魔物だったが、ネアがくるりと回ってドレスを見せてしまうと、すぐにまた長椅子の後ろに帰っていってしまった。
ネアは、長椅子の後ろに隠れつつ、そろりと顔を上げてこちらを伺っているノアに、お留守番の伴侶をお願いしておいた。
帰ってきたらリーエンベルクの広間で踊ってもらう予定なので、それ迄には元気になっていてくれると嬉しい。
「そろそろ出るぞ」
「はい。アルテアさん、今日は宜しくお願いします」
「んふふふ、その胸元の刺繍の影がとっておきなのですが、見ていますね!」
「…………そうだな。お前の見送りも、ついでにしておいてやる。まずは、これをリーエンベルクから追い出してからだ」
今日はシシィを送り出すヒルドがいないからか、アルテアは、出かける前に仕立て妖精の王女をお見送りする事にしたようだ。
ネアに部屋で待つようにと言いつけると、シシィを引き摺るようにして姿を消してしまう。
「…………ほわ、行ってしまいました」
「その刺繍、ちょっと触ってみてもいいかい?」
「む、…………表面ではなく、裏面にして下さいね」
「ありゃ。背中側にされたぞ」
「ノアベルトなんて……………」
用心深い野生の獣のように長椅子の裏から出てきた魔物達に囲まれていると、シシィを送り出したアルテアが戻ってきた。
ディノの為にまたしてもくるっとターンをしてみせていたネアを見て、なぜかとても厳しい面持ちになる。
「アルテアさん?」
「……………行くぞ」
「はい。ディノ、ノア、行ってきますね」
「アルテアなんて………」
「ふふ。今回は今朝までドレスが仕上がらず、お出かけの前に踊ろうにもディノはとても弱ってしまっていたので、帰ってきたら一緒に踊りましょうね。春告げの話もしたいですから、それまでに元気になっていて下さいね?」
「………うん」
「ノア、ディノをお願いします。おやつ用に、パウンドケーキを焼いておいたので、一緒に食べてあげて下さい」
「ありゃ。求婚された…………」
「ノアベルトなんて…………」
差し出された手を取り、なぜかパウンドケーキかと呟いている魔物に首を傾げる。
残念ながら、どれだけパウンドケーキ大好きっ子だとしても、焼いてあるケーキはディノの為のものだ。
淡い薄闇の転移を踏めば、ふわっとその中に舞い散る桜の花びらがある。
今年はスリジエなのか桜なのか悩ましいところだが、どうやら春告げの舞踏会にはスリジエはいないのだそうだ。
司る物のあるひと柱の魔物として春告げには参加しないというだけで、スリジエに問題が起きているということはないのだそうだが、なぜ出席がないのかの理由までがネアに下りてくることはない。
ただ、今年の春告げにはいないのだと言われ、そうなのかと頷くばかりである。
「…………まぁ」
視界が開けると、そこは春の夜明けであった。
見事な桜の森に囲まれた舞踏会の会場には、ミモザや木蓮などの花盛りの見事な木々もあって、その木立の奥には様々な花々が咲き乱れていた。
昨年の朝の桜の森のように、桜だけの淡い色合いで統一されるのも圧巻ではあるが、こうして花々の色が入り乱れる複雑な色彩もうっとりするほどに美しい。
足元には朝霧が這い、夜明けの空の天蓋からは、花明かりを模したシャンデリアが吊り下げられている。
今年は風景として切り取られているというよりも、舞踏会の会場としての華やかさを前面に出し、その中で花々が咲き乱れるといった風情だ。
床石は艶やかな藤色の結晶石なのだが、敷き詰められた春の草原の色が透けることでどこか可憐な印象になっており、まだ薄暗い花の森の木々にかけられた泉結晶のランタンの明かりが、祝祭の夜のような高揚感を与えてくれる。
これはまたこれで素晴らしいと唇の端を持ち上げて足踏みをしていると、ふっと誰かの影が落ちた。
そちらを見てみれば、もはや恒例の出会いとなる春を司る一人がこちらを見ている。
「これはこれは。もはや選択のパートナーは決まってしまったと考えていいのかな」
「…………お前は、毎年入り口にいるな」
「はは。それは勿論だとも。ここで、美しいご婦人や、旧交を温めたい知人を待つのも、季節の舞踏会の醍醐味さ。君と違って、私は春の舞踏会にしか参加しない訳だからね」
会場に入ってすぐの場所に立っていたのは、春宵の魔物のリーヌスだ。
淡い桜色の巻き髪は、会場の不思議な花明かりに僅かに白みがかり、セージグリーンの瞳に映る清廉な煌めきは、いっそ無垢なほど。
ネアは、思わぬ色を映すことで、この、いつも複数名の女性に囲まれている魔物が、がらりと印象を変えるのだと驚いた。
アルテアは足を止めるつもりはないようで、すぐにその場を立ち去ってしまったが、リーヌスはこちらを見て優雅にお辞儀をしてくれている。
今年の彼を囲む乙女達に、昨年と同じ女性はいないようだ。
そのあたりにもまた、何やら感慨深いものがある。
「今年の春宵さんは、少し雰囲気が違いましたね」
「夜と朝のあわいの時間と、朝霧だな。あいつの資質との相性で言えば、弱毒化だ」
「…………弱毒化」
「人間であれば、悪しきものが良きものに切り替わる一瞬だと言うだろう。もしどうしても春宵の力を借りる必要があれば、春の、夜がまだ空に残る夜明けの時間、そして朝霧が出ている一瞬にしておけ。前提として、お前が交渉をする必要はないが、一応は言っておくぞ」
「はい。もしそれが叶わなければ、きりんさんで脅しながらでもいいですか?」
「…………崩壊しかねないからやめておけ」
(春の宵が、良きものに変わる…………)
ネアは、そもそも春の宵を司るものは、人間にとって悪しきものなのだろうかと考えたが、ふわくしゃが雷鳥なこちらの世界なりの区分もあるのだろう。
そうか、同じ春の要素でもそのような変化を付ける事が出来るのだなと頷き、高位の魔物の訪れに優雅にお辞儀をする花々の集まりのような春告げの会場を見回した。
料理を載せたテーブルは全部で五つで、春の泉のような優しい水色の石材で出来ている。
テーブルクロスは敷かず、テーブルの中央には花影を落とす程にふんだんに生けられた春の花が飾られており、優美な曲線のテーブルの脚にも、テーブルの中から芽吹いたように春の花が咲いていた。
流れてくるのは、心が弾むような、けれども春の系譜のものらしくほんの僅かにひやりとするような仄暗さのある音楽で、ネアは常々、夏至祭の音楽や、妖精の国で聞こえてきた音楽に近しいような気がしていた。
だが、夏至祭の音楽が夜の野外演奏会であれば、春告げの音楽は春の庭園に面した歌劇場で演奏される音楽だろう
どれだけ似ていても、何かの要素が決定的に違うと思わせるのもまた、属する季節の違いという差異なのだ。
「アルテアさん。あちらのテーブルにある、春野菜と素敵ハムのゼリー寄せと、小海老のカクテルと、春角牛とマスタードムースのタルタルが本日の目玉です」
「後にしろ。まずはダンスだ」
「何曲か踊ったら、さりげなくあのテーブルに着地して下さいね」
「来て早々、食い物の話しかしていないぞ」
「…………あちらにある、桜色のケーキもとっても美味しそうですね!」
「それも、同じ括りの話題だ」
「ぐぬぅ…………」
アルテアは、春告げに参加する最高位の魔物である。
はらはらと舞い落ちる桜の花びらの下で、そんな魔物がダンスの輪に向かえば、やはり衆目を集めるのは避けようがない。
ネアは、その道中で歓談しているグレアムを見付けて頬を緩め、更には山盛りにした料理を食べているダナエと、その隣でお皿を食べないように注意しているバーレンも見付けた。
とは言え、春の系譜の乙女達は、なぜ高位の魔物がこんな貧相な人間を相手に選んだのだろうと眉を顰めているし、春の系譜の男達は、あの人間はさして魅力的でないと失笑にも似た気配を纏う。
やはり、冬告げの舞踏会と比べれば、ネアを取り巻く空気がまるで違うのだ。
「…………ステップを間違えるなよ」
「アルテアさんも、また落ちてしまわないで下さいね?」
ダンスの前に向き合ってお辞儀をし、そして流れ始めた音楽に最初の一歩を踏み出す。
しっかりと体を抱き寄せる手に、はらはらと散り舞う花びらの雨の中にぼうっと浮かび上がるような、美しい白い髪が揺れる。
(今日の装いは、アルテアさんの白い髪を引き立てるものでもあるのだわ…………)
揃いの靴に、同じ耳飾り。
そんな姿を見れば、ネアを見てどこか呆れたような気配を帯びていた周囲の視線が、訝しみ、途方に暮れるようなものに変わる。
昨年までの様子を知る者達は今更驚きもしないが、数の多い春の系譜が招かれる春告げの舞踏会では、毎年、一定数の新参者もいるのだそうだ。
「……………ペチコートはなしか」
「はい。その代わりに、沢山布を使って、少しの動きでも揺れるようにしてあるのだそうです」
「…………いいか、俺とダナエ以外の誰とも踊るなよ。バーレンとグレアムともだ」
「なぬ。お知り合いなので、そちらは問題なしなのでは…………」
「それが出来ないのなら、紐付きだぞ」
「むぎぎ…………」
体を離してくるりと周り、また、腰を抱き寄せられる。
音楽に乗り、踏み渡るのは艶やかなワルツで、その優雅な旋律の中で、沢山のドレスが花咲くように翻り膨らんだ。
(ああ、……………春だわ)
それはなんて艶やかで、優しくて美しく、そして酷薄な者達だろう。
淡い色調と楽しげな微笑みに、笑いさざめく美しい乙女達に、彼女達を見る眼差しにどこか危うい思案を浮かべた男達。
そんな駆け引きの彩りもまた春らしい残忍さで、ネアは、他の参加者達の駆け引きを見るのも好きだった。
「自分事でなければ、美味しいお料理のスパイスのようなものですものね」
「お前は、自分事の情緒は皆無だが、他人の問題については達観しているにも程があるぞ」
「いいのですよ。このような日ですし、春というものは、そんな酷薄さもきっと美しいのでしょう。こう、若者達の無謀さもまた、危うくて良いものなのです」
「言っておくが、お前より何百年も長く生きている者達ばかりだからな」
「まぁ、だとしたら少し…………」
ネアがちらりと視線を向けたのは、隣でダンスを踊っている二人連れで、春らしい美貌の男性は、穏やかな微笑みと酷薄な言葉で、踊っている可憐な妖精を断罪していた。
ネアの目から見るとそちらは、男性の気を引きたくて軽薄なふりをしてしまう乙女と、女性を大事にしたいのについつい傷付けるような冷たい言葉ばかりぶつけてしまう男性である。
若いならいざ知らず、いい歳でまだそんな事をしているのなら、少しばかり心の成長が遅いと言わざるを得ない。
「…………お隣さんは、かなりの両思いだとお見受けしますが、どうして、お互いに違う方向に走り出してみせ、おまけに壁に激突しているのでしょう」
ネアは思わずそう呟いてしまったのだが、運悪く、それは音楽の終わりのところであった。
ぽそりとした小さな呟きは、よりにもよって、当人達に届いてしまったようだ。
なぜか、弾かれたようにこちらを見た二人が、ゆっくりと視線をお互いに戻し、真っ赤になってふるふると首を振っている。
ぎくりとしたネアだったが、彼等はもう、互いの事しか見ていないようなので、これもまた良しとしておこう。
「…………ったく」
「ぎゃ!」
だが、ふんすと胸を張っていると、なぜかアルテアにびしりとおでこを叩かれてしまい、唸りながらも二曲目のダンスに加えられてゆく。
「余計な口を挟むな。魔術の繋ぎに触れたいのか」
「アルテアさんに話しかけたつもりだったのですよ?………何というか、ご高齢であの有様では、あまりにも残念…」
「おい、何でこっちを見た」
「………それとも、アルテアさんが時々森に帰るような、種族的な習性なのかもしれないのです?」
「俺に聞くな。それと、森の設定はいつまで続けるつもりだ」
「ぎゃ!腰をぎゅっとしましたね。許すまじ………」
「っ、足を踏むな!ステップを間違えたら、この靴だとお前も道連れだからな?」
「なぬ…………」
あれこれお喋りしながらダンスを踊っていると、ネアは、こちらを見ていた楽団の指揮者が、どんどん困惑の表情を深めてゆく事に気付いた。
昨年までの年老いた妖精ではなく、今年は若い指揮者に替わったようで、初めましてな妖精である。
だが、出来ればこちらではなく、楽団に目を向けて指揮をするべきだろう。
「……………アルテアさん、もう八曲目なのです。お料理のテーブルに……………」
「この曲が終わったらな」
「むぎぎ、九曲目…………」
今年の春告げでは、選択の魔物はとても踊りたい気分であったらしい。
ネアは、後半からは心ここに在らずとなりかけ、ちらちらと料理のテーブルを見てしまう。
ネアの本日のパートナーは、その度にわざと強めにターンしてみせたりする、悪い魔物であった。
(……………む、)
ふっと視界が翳り、顔を上げる。
すると、ダンスの流れかのように、少しの不自然さのない仕草で伸ばされた指先に顎を持ち上げられ、淡い口づけが落とされた。
見上げるのは、春の夜明けの光量で逆光になり、薄闇の中で光を孕む赤紫色の瞳。
片側だけを掻き上げたような髪型だからか、いつもよりもその眼差しは鮮やかだ。
「…………お料理を見ていただけで、別に、危険物を発見した訳ではないのですよ?」
「……………そうだな。そろそろお前にも情緒が生まれるよう、無駄だとしてもその分の守護を増やしておいてやる」
「なぜ、情緒問題が終わらないのでしょう。私とて、この素敵な会場でいただくご馳走は、いつもよりも美味しく感じるかもしれないと考えたりするのです」
「前にも似たような事を聞いたが、それを情緒とは言わん」
「解せぬ」
ネアとしてはたいへん遺憾な思いであったが、そのまま九曲目のダンスを終えると、漸くダンスの輪を抜けたアルテアに、ほっと息を吐いた。
ふぁさりと揺れたスカートの裾にも舞い落ちた花びらがついており、アルテアのケープが揺れると、花びらが何枚か舞い落ちた。
そんな事に少しだけ微笑んでしまったネアは、ふと、アルテアの気配が鋭くなった事に気付く。
「…………右奥に、共鳴………ギルフォーンがいる。見えるか?琥珀色の髪の男だ」
「……………まぁ」
睦言を呟くかのように体を寄せられ、アルテアの唇が耳に触れたので、耳にまで祝福をするのはやめ給えとなりかけたが、どうやら甘える仕草に見せかけての内緒話だったらしい。
(右奥……………)
そこに立っていたのは、琥珀色の髪の男だ。
だが、その表現のように色としての琥珀ではない。
琥珀そのものを紡いだかのような宝石質の髪は、透明感があって硬質なのに思わず触れてみたくなるような柔らかさもあり、ネアは、思わず指先がむずむずしてしまった。
(……………綺麗な人だわ。硬質だけれど、柔和な印象で、…………何というか、あんなに綺麗なのに御し易い雰囲気もある)
だが、僅かに垂れ目がちな青い瞳には、はっとするほどの嘲りと冷たさがあり、そのアンバランスさが、ギルフォーンという魔物を却って魅力的にすら見せていた。
「…………ふむ。お綺麗な方ですが、もふもふもしておりませんし、面倒そうな方なのでぽいですね。ただ、あの髪の毛は素敵なので、誰かが頭を掴んでいてくれるのなら、触ってみてもいいです」
「お前がその様子なら一安心だが、触れる程には近付くなよ」
そう言いながらも、アルテアは少しだけほっとした様子だった。
ネアはもう一度だけ、女性達に囲まれている背の高い魔物に視線を移し、リーヌスに劣らずちやほやされている魔物を観察する。
恐らくだが、アルテアは、ネアが共鳴の魔物に興味を惹かれるかどうかを確かめたのだろう。
「………金貨でも落とされるというのであれば、考えを変えるのですが。残念です…………」
「………お前の情緒のなさに、まさか感謝する日が来るとは思わなかったな」
「なぜ、その問題が続くのだ。解せぬ」
だが、ご主人様が共鳴の魔物に用がないらしいと分かると、アルテアは機嫌が良くなったようだ。
ふっと艶やかに微笑み、どきりとするような紳士的な仕草で、どこかにエスコートしてくれる。
「あのテーブルに行きたいんだろう?」
「は!お、お料理です!!まずは、テーブルの近くにいる妖精どもめを追い払いますね!」
「…………狩るなよ?」
「はい!」
気が急いたネアがアルテアの腕を掴んでぐいぐいと引っ張ると、怯えたような顔をした参加者達が慌てて道を開けたので、後はもう真っ直ぐにお目当てのテーブルに向かうばかりだ。
すっかり幸せな気持ちになってしまい、ネアは小さく弾み、やれやれと顔を顰めてみせたアルテアをいっそうに引っ張ったのだった。




