14. 大丈夫な薔薇か不安です(本編)
「ここに来る前に、小さな終局の変異が見受けられてな、実は歌劇場近くの櫛の専門店に寄って来たんだ」
お茶請け話のつもりなのかそう朗らかに語り出したウィリアムに、ネアは目を瞠ってからさっとディノの方を向いた。
まるで、お庭で子猫を見付けてねというような気安さだが、この柔らかい微笑みに誤魔化されてはいけない。
これは結構宜しくないやつだ。
案の定、ディノはばさりとした真珠色の睫毛を揺らし、どこか不安そうにウィリアムを見る。
「それは、…………崩壊の予兆かい?」
「ええ。釣鐘草の魔物が求婚に失敗したようです。どうも、相手の女性の伴侶である櫛のシーの方が階位が高く、略奪も出来ずに思い詰めていたようですね」
「…………君がここに来られたということは、問題はなかったのだね」
「俺がどうにかするよりも早く、通りがかった女性が、ずっと想っていたと釣鐘草の魔物に求婚しまして、そちらの女性の伴侶になりましたよ」
「おや、指輪は不要だったのかな?」
「魔物同士でしたからね。幸いが重なってほっとしました」
なかなか危ない世間話をしているぞとふるふるしたネアは、そもそもその女性は通りがかった訳もなく、虎視眈々と想い人の失恋の瞬間を待ち構えていたに違いないと考えた。
(と言うか、釣鐘草の魔物さんも略奪愛を企てているし……………)
おまけに、釣鐘草の魔物はとても庶民的な雰囲気の短毛種の犬姿だと知り、ネアはますます動揺した。
もはや脳内が大混乱なので、櫛のシーはきっと櫛の姿に違いないと考えたのだが、美しい髪を持つ小柄な青年であるらしい。
なお、釣鐘草の魔物に求婚した女性は、系譜の魔物が多いミモザの魔物の一人で、ちゃんと人型である。
今年の薔薇の祝祭では、犬姿の魔物が失恋する流れでも来ているのだろうか。
「絵的に大混乱なのはさて置き、釣鐘草の魔物さんは、それで良かったのでしょうか…………。確か、魔物さんの伴侶は生涯に一度きりなのですよね?」
「まぁ、崩壊されるよりは面倒がないな」
「了承したのであれば、いいのだと思うよ」
「二人とも他人事ですが、そもそも私にとっても完全なる他人事なので、それで良かったのでした…………。あの櫛の専門店は、リノアールに素敵なブラシを卸していて、私とディノの愛用のものもそのお店のブラシなんですよ」
ネアがそう言えば、ディノはそれは知らなかったと言わんばかりに目を瞬く。
「初めて二人で共用にした道具だね…………」
「謎に恥じらい出しましたね………」
「であれば、釣鐘草が櫛のシーを傷付けなくて良かったのかな…………」
ネアが思っていたよりもずっとブラシへの思い入れが深かったようで、ディノはそんなことを呟く。
こんな風に、この魔物が道具に纏わる誰かのことを考えるのは珍しいので、ネアは、ウィリアムと顔を見合わせた。
「…………ディノ、もし誰かが、私達のご愛用のリボンの専門店を襲撃しようとしていたら、どうしますか?」
「やめさせる、かな……………」
「まぁ。では、同じくご愛用のスープの専門店の…」
「彼等の心配はないと思うよ」
「むむぅ。少しだけ頑固な目をしているので、アレクシスさんを警戒しているのか、単純に力量的な問題からなるものなのか、謎が残ります…………」
「アレクシスなんて……………」
「あら、どうしてアレクシスさんに荒ぶっているのですか?」
「君は、……………彼が送って来た薔薇を部屋に飾るのだろう?」
悲しげにそう問いかけた魔物に、ネアは、こてんと首を傾げた。
そう言えば先程、リーエンベルクにネア宛の薔薇が届いたという報せをエーダリアから受けたことを思い出し、それかなと得心する。
でもそれは、きちんとリーエンベルクの公用の受け取り口を通してくれており、安心して受け取る事が出来る贈り物だ。
「あらあら、それでディノは警戒してしまったのですね?」
「……………アレクシスなんて」
「ヒルドさんが確認してくれたところ、あの薔薇は私とディノ宛になっていましたし、薔薇とは言えお花の咲かない原種の一つの根っこだそうでして、記憶関係の魔術弊害を受けた場合に、とても有用な回復薬になるそうです」
ネアがそう言えば、ディノは少しだけ驚いたようだ。
それまでの様子を見ると普通に祝祭のお作法通りの薔薇を贈られたと思っていたのだろうし、ネアが頼もしい生薬が手に入ったと喜んでいたことで、誤解を深めたらしい。
普段であればすぐに解けた誤解なのだが、本日が薔薇の祝祭でネアが忙しくしていたからこそ、ディノは一人であれこれ考えてしまったのだろうか。
誤解だったと知りまたしょんぼりしたディノを、ネアは丁寧に撫でてやった。
ぐりぐりと頭を擦り付けてくるので、誤解していた間は悲しかったようだ。
「つまりアレクシスさんは、薔薇の祝祭を理由に、また役に立つ珍しいものを私達にくださったので、後で、ディノのカードから一緒にお礼を言いましょうね」
「……………薬だったのだね」
「いや、その薬効が出せるとなると、かなりのものだな…………」
「私が怖いものの一つに、その記憶系統の魔術の事故があるので、それさえあれば、いざという時にディノのお口に押し込めば良いのです!」
「…………そのままかい?」
「む?…………そのままでも噛み締めれば効果はありそうですが、服用し易いお薬の状態に出来るのであれば、協力してくれますか?」
「薬にしておこうかな……………」
薔薇の根をそのまま口に入れられそうだった魔物はとても怯えてしまい、明日にでも薬にしてみようとたいへん意欲的な姿を見せてくれた。
ネアはウィリアムからも、くれぐれも加工もしていない薔薇の根をシルハーンに食べさせてはいけないと言い含められてしまい、大事な魔物にもしもがあるといけないので、緊急時には手段など選ばないのだとこっそりと反骨心を心の中で育てる。
ネアは、途中工程よりも結果を大事にする人間なのだ。
「…………やれやれ、であれば、そちらは問題なさそうだな。手を打たなければいけないのかと、少しひやりとした」
「スープの研究に余念がないだけの、善良なスープの魔術師さんなのです………」
とぷんと、紅茶の中に真っ白な角砂糖が落ちる。
今日ばかりは薔薇の細工のある角砂糖なので、角砂糖という呼び名が正しいのかどうかは謎だが、カップの中でほろりと崩れる時に薔薇が花開くようになるのが目にも楽しい。
そんな紅茶を一口飲み、ちらりと時計を見たネアは、微かに眉を下げる。
(……………思っていたより来るのが遅いけれど、もしかして今日だけは時間通りだったりするのかしら………)
実はネアは今、密かにとある魔物の訪問を心待ちにしているのだ。
先程からそわそわと時計を見ているのだが、もうそろそろ、来ていてもいい時間ではないだろうか。
「…………ウィリアムさん、もう少しお時間をいただけますか?約束の時間よりは三時間程早いのですが、そろそろ来てくれると信じているのです」
「ああ。俺の出番がありそうなのは、祝祭が終わってからだからな。今日は夕方までは時間を空けてあるから、安心してくれ」
そう尋ねたネアに、ウィリアムも誰を待っているのか分かったようで、微笑んで頷いてくれる。
エーダリア達やノアも出かけてしまっているリーエンベルクに、この薔薇の祝祭にディノを一人にはしたくない。
ネアのそんな気持ちに気付いて賛同してくれるのは、ウィリアムもまた、ディノのことを大切に思ってくれているからだろう。
今日は、釣鐘草の魔物の終局の予兆とやらを感じたからか、それとも終焉の魔物的な正装姿なのか、怜悧な装いだからこそ華やかにも見える、終焉の魔物らしい軍装に身を包んでいた。
帽子は膝の上に置かれているが、薔薇を渡してくれる時に一度くらいかぶって見せてくれるかもしれないぞと、ネアは今からとても期待している。
そして、その会話から五分も経たない内に待ち人はやって来てくれた。
扉を開けて会食堂に入った途端、ぱっと立ち上がったネアの姿に訝しげな顔をしたのはアルテアだ。
「……………なんだ」
「アルテアさんを待っていました!ふふ、今年も早めに来てくれたのですね!」
「弾むな…………。まさか、また何かやらかしたんじゃないだろうな?」
「まぁ、違いますよ!これから私はウィリアムさんとのお時間なので、ディノと一緒に居てくれるに違いない、アルテアさんを待っていたのです」
「おい、子守じゃないんだぞ…………」
「だとしても、使い魔さんなのではないでしょうか…………」
「アルテアがいなくても大丈夫ではないかな…………」
ディノ一人のお留守番は避けたいと考えたネアに、それぞれ、魔物の王様と第三席の魔物は反論してきたが、ネアはもう、魔物はとても寂しがり屋な生き物であることを知っているのだ。
「アルテアさんと待っていて下さいね。………その間だけ、ちびふわにしておいた方がいいですか?実は、お試しちび期間ちびふわ符も持っているのです」
「おい、やめろ」
「アルテアを……………」
本日のアルテアは、漆黒の正装姿がはっとするような艶やかな装いだ。
どこにも無駄のないシンプルな服装なのだが、真っ白なシャツとクラヴァットがこの上ない装飾のようで、白と黒のコントラストに鮮やかな赤紫色の瞳が宝石のよう。
顔を顰めてこちらを見ているこの魔物が、あの愛くるしいちびふわになる事があるのだから、この世界は、ネアにとても優しい世界である。
「アルテアさん、ここに紅茶と、薔薇のお砂糖と月光毛長牛のミルクがあります。スコーンと薔薇ジャムはこちらですよ」
ネアはひとまず、厨房にも作り置きをお願いしたお気に入りのジャムとスコーンなどをお薦めしておき、今後の参考になるようにどのジャムを気に入ったのかを伝えてみた。
今日も贈った靴を履いてくれているので、決して口には出さないが、そうして贈り物を大事にしてくれている姿を見るとほっこりする。
(ちびふわマフラーは間に合わなかったから、ちびふわ刺繍ハンカチを春告げの舞踏会であげようと思っていたけれど…………)
ちびふわ靴下も気に入ってくれているようだが、毛糸の靴下だとお出掛け着には合わせられないだろう。
ハンカチなら、ちびふわが覗いているような洒落たポケットチーフにも出来る。
この、使い魔契約更新記念でアルテアに品物を贈ることは、実はディノからの提案だった。
ネアが支払っている主人としての対価は、偉大なご主人様に仕えパイやタルトを受け取って貰えることや、ちびふわのお腹撫でなどと、本人は大満足でも魔術契約上は分かり難いものばかりらしく、ちょっとした品物を、あえて対価だと明言して贈ることで、契約の魔術の強度を保った方が良いのだそうだ。
しかし、アルテアにもあげるとなると、ウィリアムにも作った方が良さそうなので、元々ディノとノアにも納品の約束をしていたネアは、また沢山の発注を抱えることになりそうだ。
「ネア、そろそろ行こうか」
「はい!…………ではディノ、ウィリアムさんの薔薇を貰って来ますね」
「……………うん」
「砂糖菓子の補充は必要ですか?それとも、……………むむぅ、爪先を…………」
「踏んでゆくかい?」
その問いかけだとネアが欲しているみたいだが、おずおずと爪先を差し出し期待に満ちた瞳でこちらを見ている伴侶を無下にも出来ず、ネアはディノの爪先をぎゅむっと踏んでやった。
「はい。これでお留守番出来ますね?」
「ご主人様!」
「もし、困った事が起きたら連絡して下さいね。アルテアさんが事故ってしまうこともあるかもしれませんし………」
「ないな」
「自信満々ですが、ただの不動産内見でも足をばちんとやられてしまう、とても危険な生き様の魔物さんなのです………」
そう言われ、ディノは少しだけ友人が心配になったのだろうか。
どこか凛々しい表情でこくりと頷き、アルテアに遠い目をさせている。
(でも、こうして少しずつ、ディノにとってもアルテアさんが身内のような感じになってゆけば、困った時に相談しやすい関係になれるのではないかしら…………)
そんな野望を胸に秘めつつ、ネアは、差し出されたウィリアムの手を取った。
ひやりとするような鋭く澄んだ気配は正装姿の終焉の魔物特有のものだが、今はもう、その気配に気を張ることはなくなった。
魔物らしい一面の発露としての軍装ではなく、ウィリアムの場合は、その姿をしていても根本的な気質の変化はない。
世間では軍服姿の終焉の魔物は恐ろしいと言われているようだが、ネアにとってのこの姿は、寧ろ大好きな服装のウィリアムという括りである。
こつりと白い軍靴が床を鳴らし、淡い転移の魔術を開けばウィリアムのケープが温度のない風に広がった。
こうしてリーエンベルクからの転移が叶うのは、向かう先が影絵の一つであるからだ。
ネアの持つ厨房の鍵もそうだが、持ち込まれた空間であれば移動する事が出来る仕組みらしい。
「この前の様に、もう肩には乗せられないかな」
「むぐる……………」
「はは、すまない。ネアとしては不本意だったんだよな。あまりにも可愛かったからつい」
「来年は、ノアをちびころにすると心に誓ったのです。まずは、問題の集落に潜入するところから始める予定なので、姿を隠して桃を盗めるようなお道具をこの一年で手に入れてみせます………。なお、桃のお代として、その集落には素敵な祝福結晶などをばら撒いておきますね」
「うーん、ノアベルトか。俺としては、もう一度ネアのあの姿を見たいんだがな…………。あ、いや、冗談だよ」
「むぐぅ……………」
小さな子供を好きなだけ抱っこ出来たことが、余程嬉しかったようだ。
ウィリアムのような人物に、少し落ち込んだ様子で苦笑されてしまうと、なぜかネアの方が酷いことをしているような気分になるので反則ではないか。
釈然としない気持ちで小さく唸ったネアは、転移の薄闇を踏んで開けた風景に小さく息を飲んだ。
「……………まぁ」
ざあっと、青白い薔薇が揺れる。
ネア達の前にあるのは美しい教会で、そこに続く道の全てと、開いた扉の向こうの教会の内部にまで、青白い炎を宿すような薔薇が咲き乱れていた。
美しいと言えば勿論とてつもなく美しい光景なのだが、そこにはどこか荘厳さが色濃く現われ、吸い込んだ息のその端から、体の奥深くに静謐さが溜め込まれるような不思議な場所だ。
転移の間、片手で抱き込むようにしてケープの内側に入れてくれていたウィリアムを見上げ、ネアは、この場所が、終焉の魔物がこの上なく映える光景であることにも気付いた。
「ウィリアムさん、ここは…………」
「かつては終焉にも、薔薇の妖精がいたんだ。葬送に使う献花で薔薇だけを使う国があったからな。…………ここは、その国の教会の一つで、今はガーウィンの中に統合されている」
「…………ということは、その国はガーウィンに取り込まれてしまったのですか?」
「ああ。……………霧雨の妖精達が好むような詩人を多く輩出する国で、総国民数が千人にも満たない小さな国だったが、終焉の系譜とは相性が良くて俺は気に入っていたな。…………国がなくなり力を落とした葬送の薔薇のシー達は、今は全ての花を一まとめにした献花の妖精の系譜に下って暮らしている。ガーウィンの南西部が、この国だった部分にあたるんだ」
「……………なんて美しいところなんでしょう。…………けれど、心がきりりとするような、荘厳な感じがします」
その薔薇は、葉や茎に至る全ての部分が青白い色をしていて、まるで作りもののようにも見えた。
ネアが子供の頃に物語を読んで思い描いた氷の薔薇のようだが、こうして見てみると、その色のけぶり方は寧ろ温度のない炎を連想させる。
時折吹く柔らかな風に揺れると、ざあっと音を立てちらちらと宿す光の色合いを僅かに変えた。
「本来は葬送の為のものだからな。だが、あの国の最盛期には、死を連想させるものでありながらも慈しまれ、慶事にも重用されたらしい。この影絵は葬送の薔薇を使った結婚式の情景のものなんだ」
「まぁ、葬儀の為の薔薇でも、あまりにも綺麗なので結婚式でも使ってしまったのですね……………?」
「俺は、あの国の人間達の、そういう部分が好きだったんだ……………。独特の感性や嗜好があって、終焉の子供も多かった」
そう呟き淡く微笑んだウィリアムには、その国に誰か大切な人がいたのだろうか。
ネアは少しだけ躊躇い、聞いてみることにする。
「どなたか、その国に仲良くされていた方がいたのですか?」
「一人の詩人と仲良く………とは言っても、向こうは俺の正体を知らないままだったが、年に何回かは食事に行ったりしていた。彼は、俺と知り合った当時にはもう人間としてはかなり高齢だった筈だ。詩を書く為に、物思いに耽る静けさを得られるからと墓地に通うような男で、ギードとも親交があったかな………………。ウィームの王朝時代よりも前だから、もう随分と前のことだ………」
手を繋いで貰い、そんな、今は存在しない国の終焉の系譜の薔薇に飾られた影絵の中を歩く。
ウィリアムは、この影絵をとても綺麗だと思うのだが、あまり受け入れてくれる人がいなかったらしい。
ネアは終焉の子供なので、もしかしたらと思って連れて来てくれたのだそうだ。
「ネアがあまり気に入らなかった場合に備えて、実は他の場所も考えていたんだ。でもそこはまた来年にしよう」
「ふふ、そんなことを言われたら、一年後のことなのにわくわくしてしまいますね」
「そう言われると、俺も嬉しい。一年越しの約束が出来る訳だからな」
「あら、私は今後もずっとウィリアムさんにも祝祭の薔薇を贈る予定なので、その先もずっと予定ありにしておいて欲しいくらいなんですよ?」
ネアがそう言えば、人間の強欲さに怯えることなく、ウィリアムはふっと表情を柔らかくする。
ディノやノア達とはまた違う意味で、ウィリアムもまた、どこか寄る辺ない部分を持つ魔物だ。
「……………そうか。じゃあ、俺はずっとネアからの薔薇を貰えるんだな」
「はい!でも、もしウィリアムさんに恋人さんが出来た場合、誤解をされてしまうと申し訳ないので、その女性の方が納得されない場合は、辞退していただいて構いませんからね?薔薇の祝祭は、恋人さん達にとって大事な時間だそうですから……………」
「うーん、それは当分ないから、気にかけないでくれ」
「むむぅ。アルテアさんから、ウィリアムさんが舞踏会に出ると、お喋りしたい女性で行列が出来ると聞いているのですが、気になる女性の方はいないのですね…………」
ネアがそう言えば、ウィリアムは、すっと瞳を細めて怜悧に微笑む。
二人は、ちょうど薔薇の花の咲き乱れる教会の入り口まで来たところだったので、薔薇の中で垣間見えたその微笑みはいっそ凄艶ですらあった。
「そうか、アルテアがそんなことを。困ったな…………」
「ウィリアムさんのその感じは、アルテアさんがお仕置きされてしまうやつでは…………」
「勿論、いい加減なことを言ったんだ。アルテアは叱っておこう」
ネアは、またさっくりやられてしまうのかなと不安になったが、とは言えアルテアとウィリアムは仲良しである。
悪友めいた男同士ならではの付き合い方もあるのだろうし、ネアが口を出す必要はないのかもしれない。
(…………ああ、教会の匂いだわ…………)
教会の内部に入ると、焚き染めた香の香りと、熱されて溶けた蝋燭の匂いがした。
美しい薔薇は屋内でも青白く咲き誇り、そこに落ちるステンドグラスの色彩が言葉を失う程に美しい。
その中に立ち、振り返ったウィリアムが柔らかく微笑んだ。
それは、一枚の絵のように美しく、教会と軍服姿という組み合わせの妙なのか、どこか不穏さも感じさせる美貌だ。
ひとしきり教会の中の美しさに喜び弾んだネアに、ウィリアムはその様子を見守っていてくれる。
「さて、…………今年の薔薇を受け取ってくれるか?」
「はい!………………まぁ、……………なんて綺麗なんでしょう!昨年貰った薔薇に雰囲気は似ていますが、………何と言うか、こちらの薔薇はどこか華やかな感じがします…………」
「そう言って貰えると、少し気恥ずかしいな。…………これは、俺の歌声が凝ったことで育った薔薇なんだ。とは言え、終焉の要素を剥ぐ際に、限りなく存在としては希薄になってしまうから、昨年の影絵の薔薇に質感が近い」
「ほわ、ウィリアムさんの歌……………」
昨年と同じ円筒形の水晶のケースのようなものの中に、微かに白金色がかった白い薔薇が咲いていた。
この周囲を囲む葬送の薔薇とはまた違う輝きを帯び、どちらかと言えば見るなり宿すのは祝福に近い輝きだと判断出来るような、美しい薔薇だ。
「いつだったか、自分の城に居る時に無意識に歌っていたんだろうな。歌声の持つ魔術が凝って、こんな薔薇が咲いた。その時のことを思い出して、ネアに贈る薔薇にしようと育ててみたんだが、あの時よりも祝福としての色が強いような気がするな……………」
「もしかして、今回の為にわざわざ歌ってくれたのです?」
「ああ。残念ながら、終焉の歌はあまりいいものじゃない。調整をかけずにネアに直接歌うことは、現状だと難しいからこうして薔薇に映したんだ」
「ウィリアムさんの歌な薔薇!」
ネアは貰った薔薇を顔の前に持ち上げて凝視すると、瞳を輝かせた。
魔物の歌声が薔薇になっただなんて、お伽噺の中のもののようで何だか素敵ではないか。
現状はウィリアムの歌声が聴けないらしいという残念さはあるものの、けぶるような光を帯びる薔薇は惚れ惚れとするくらいに美しい。
「気に入りそうか?」
「勿論です!…………こんなに美しい薔薇ですし、どうやって育ててくれたのかを知った上で見ていると、いっそうに素敵な薔薇に思えます…………。昨年いただいた薔薇に引き続き、ウィリアムさんの欠片な薔薇な気がするので、ずっと大事にしますね」
「はは、そう言えばそうだな。特に今年の薔薇は、影絵ではないから俺本来の欠片に近い。ネアがシルハーンの伴侶として身に魔術が馴染んできたら、いつかは俺自身が育てた薔薇をそのまま贈れるようになるかもしれない」
そこでネアが、そんな薔薇を貰えるのは嬉しいが、果たして土筆可動域の手に負えるだろうかと眉を寄せていると、微かに悪戯っぽく微笑んだウィリアムから、そこまで怖いものではないと教えられる。
「特にネアには、俺が切り分けた守護があるからな。ただ、魔術の質が合わないとその部屋には影響が出るかもしれない。いつか贈れるようになったら、保管用の入れ物をもっと丈夫なものにしないといけないな………」
「ちょっぴり心配になってきました。取扱いは、厳重注意なのですね…………?」
身勝手な人間としては、万が一があると怖いので危険なものは受け取れないと言いたいところだが、何となくウィリアムがその日を楽しみにしているような気がして、きっぱりと断ることは出来なかった。
とは言え、すぐに来年にも持ち込まれるというような感じではないので、どこかでディノに上手に相談してみてもいいかもしれない。
「ウィリアムさん、これが私からの薔薇になります」
「有難う、ネア。今迄とは雰囲気を変えたんだな?」
ふっと目を瞠って驚かれたので、ネアは、新婚なので少し女性らしい雰囲気のものを選んだのだと説明する。
幾つか迷った薔薇の中からこれを選んだのだと語れば、ウィリアムは嬉しそうに目を細め、そっと薔薇の花びらに触れた。
「………そうか。今年のものも大事にするよ。これからもとなると、こうしてネアからの薔薇が増えていくんだな」
「私も、ウィリアムさんから薔薇をたくさん貰えてしまうのを楽しみにしているので、ずっと仲良くして下さいね」
「ああ、勿論」
ふっと視界が翳った。
目を瞠って顔を上げたネアに、ウィリアムはふと何かを躊躇い、首を傾げたネアに淡く苦笑するとネアのことをふわりと抱き締めてくれた。
「昨年は…………怖い思いをさせた。もうあんなことはしないからな」
耳元で揺れる声の温度に、ネアは胸がいっぱいになる。
一度はさようならと告げられたその声が、今は安らかな響きを帯びてここに響くのだ。
あの時の怖さは、言葉にしたくもない。
「ふぐ。ウィリアムさんは私が守るので、困ったことがあれば、私やディノに相談して下さいね?」
「ああ。……………ネアも、困ったことがあれば、俺に相談してくれ」
「……………霧竜さんにはいつ会えますか?」
「おっと……………。そうだな、その約束をしていたか…………」
微かに狼狽えた様子を見せ、ウィリアムは来月かなと答えてくれた。
やっととろふわ竜に会えるとネアが弾むと、困ったように、けれどもどこか穏やかな目をして笑う。
(ウィリアムさんが、もう蝕の時のような目に遭いませんように…………!)
そう願いながら微笑んだネアに、ウィリアムも微笑みを深める。
帰ろうかと伸ばされた手を取ると、さらりとした口付けを頬に落とされた。
こんな時にあまりにも幸せそうに微笑むから、ネアはこの魔物を、来年の人形飾りの桃で小さくして抱っこしてしまうのも悪くないなと、邪悪な野望を抱くのだった。




