浜辺の夜と雲の階段
藍色がかった色が夜空から零れ落ち、雲間から差し込んだ月光が白くけぶる。
その夜は満月であったが、夜半過ぎから空を覆った雲に遮られ、明るい月光が海辺を照らすことはなかった。
ちらちらと、淡い月と夜の光の切れ端が、静かにひたひたと打ち寄せる波に散らばる。
そんな光を何ともなしに眺め、ざわりと揺らいだ砂浜を踏んだ。
波間からこちらを窺っている者は、どんな思いでここに立つ魔物達を見上げているのだろう。
「…………やれやれだな。海から這い上がるものかと思えば」
そう呟いたのは、アルテアだ。
最初にこの魔術異変に気付いた選択は、つい先程まではその対処にあたっていたが、ヨシュアが駆け付けた今はすっかり傍観者になってしまっている。
夜闇にぼうっと赤く光ったのは、煙草に火を付けたからだろう。
ざざんと、先ほどより大きく波がうねり、砂浜に打ち寄せた。
もしかすると、波間に浮かぶ異形の物を、少しでも早く地上に追いやりたいのかもしれない。
「僕は今日は忙しかったんだよ。それなのに、どうしてこんな事をしたんだい?」
そう問いかけても、波間から顔を出した怪物が答えることはないだろう。
だが、ヨシュアは雲の系譜の王なのだ。
それが系譜の理を大きく外れた怪物であろうと、王としての問いかけはするべきだった。
暗い波間に顔を出している生き物を、ヨシュアは大きな濡れそぼった鳥のようだと思っている。
しかし、アルテアは大きな獣だと言い、シルハーンとウィリアムは、人型の怪物だと言う。
それだけ身に宿している資質が歪み、見え方すら壊れてしまった生き物からは、僅かながら、呪いにも似た壊れた魔術の気配が感じられた。
はたはたと風にケープを揺らし、腕を組んで考え込んだのはウィリアムだ。
「随分と、足場が歪んでいるようだな。この季節に空からの落とし物は珍しい。ヨシュア、雲間のあわいはどうなんだ?」
「…………ウィリアムに言われたくはないよ。僕は、空のあわいだけは、きちんと管理しているからね」
「そうなると、祟りものの気配を帯びる分、障りに近いものなのだろう。…………シルハーン」
「これは、少し前に目を覚ました災いの余波のようなものだね。あの魔術が再び目を覚ましたのは、ここから随分と離れてはいたものの、海辺の町だっただろう?」
「…………クライメルの仕掛けですか」
「ほぇ、僕、大嫌いなんだけど…………」
その名前が出ると、顔を顰めそうになる。
今夜は、久し振りにイーザだけでなく、ルイザも城に遊びに来ているのだ。
少しでも早く終わらせて帰りたいし、呼び出されただけで充分過ぎる程に不愉快であったが、クライメルの足跡であればきちんと壊しておこう。
それは、残しておけばいつか大切な人を傷付けるかもしれない、ヨシュア自身も決して見慣れぬものではない、かの魔物の災いの一つ。
(どこかでクライメルの古い呪いが目を覚まして、ネア達を巻き込んだらしい…………)
最初にそう教えてくれたのはイーザだ。
最近では、イーザの属する会の活動から、ウィームが手薄になる場合には、ヨシュアにも助力を求める声がかかることがある。
雲の魔物としての本分ではないその要請は、本来であれば断るところなのだ。
だが、イーザはあの土地を大事にしているし、そちらとの繋がりを大事にしておけば、いつかその繋がりがイーザ達の助けになることもあるだろう。
ヨシュアは高位の魔物でとても偉大であるが、そんな自分が一人で全てを治められると思いはしなかった。
ポコが死んでしまった時に、思い知らされたのだ。
あの時に、もし彼女が一人でいなければ。
空のあちこちに伸びてきた塔に囲まれ途方に暮れているときに、声が届かなかった自分達だけでなく、助けを求められる相手がいれば。
もしかすればその繋がりは、彼女を殺した塔の魔物すら取り込む大きな輪であったかもしれない。
それこそが、ヨシュアが領域外の活動を渋々受け入れている、考えうる限り最大の恩恵である。
(…………あの頃に、僕にそういう繋がりがあれば)
その伝手があり、そこに知り合いがいれば。
そうすれば、何かが変わったかもしれないのに。
大事な大事な伴侶は、今も隣にいたかもしれないのに。
「……………答える声も持たないようだし、海の魔術に随分と汚染されているようだからね。もう君は壊してしまうよ」
「…………問題ないんだな?」
「勿論だよ。これは雲の系譜から生まれたものだから、僕にその権利がある。それに、僕はとても偉大だから、壊れた物を排除するくらい簡単なことだよ」
こんな時、アルテアは抜け目ない。
もし彼の手を借りるような事になれば、それだけの対価を取られるのだろう。
(けれど、これはまだ雲の領域のもののままだから、僕が壊せる…………)
手に持った煙管を振るえば、海を渡ってこの砂浜に漂着した怪物の体が、青白く燃え上がりざわりと崩れ落ちる。
そのままもろもろと崩れて波に溶け、最後には小さな月の光の欠片になって消えてしまった。
「…………ほぇ。月も混ざっていたようだよ」
「ああ、だからこんなに狂っていたのか。月光の不純物は怪物を狂わせるからな。…………シルハーン、海辺で死んだ者たちは、俺が片付けてゆきます。これで、この土地からネアやウィームに何かが及ぶ事はないでしょう」
「うん。任せていいかい?…………ヨシュア、来てくれて助かったよ。ここはあの子の暮らす国の王都でもあるから、このままにはしておけなかったんだ」
「イーザも喜ぶから、構わないよ。でも、昨日や明日だったら、もっと良かったけれどね」
そこでふと、先程の怪物が消え去った波間を振り返った。
そこに現れ消えていったものではないがと暫く考えていると、シルハーンがこちらを見るのが分かった。
「……………ヨシュア?」
「シルハーン、ネアに、漂流物の話をしてあるかい?」
「………いいや、まだだ。何か予兆があったのかな」
「僕が呼ばれる前に、ウィリアムとアルテアが来ていたのは、今の怪物が漂流物だと思ったからかい?」
「最初にあの怪物を見付けたアルテアは、その可能性を考えたようだ。世界の魔術の変化を見ているとまだ頃合いではないようだけれど、大きな蝕から数年で上がってくる事が多いから、再来年までにかけてのどこかでは現れるだろう」
「…………僕は、漂流物は嫌いだよ。シルハーンも、あれには損なわれる可能性がある。だから、用心するといいよ。…………伴侶が怪我をすると、とても嫌な気分なんだ。ネアが嫌がるからね」
そう言えば、こちらを見たシルハーンが瞳を瞠った。
ややあって、静かに頷く。
「……………そうか。君はそのように考えるのだね。伴侶を悲しませた事があったのかい?」
「僕がそんな風になった時、ポコは、三日間も何も食べられなかったんだ。ああいうのは、とても嫌いだ。ポコが死んでしまった時に一つだけ救われたのは、あんな思いをするのが僕で、ポコじゃなかった事だと思ったくらいだからね」
ゆっくりと言葉を噛み締めながらそう告げると、シルハーンが淡く微笑んだ。
その微笑みはシルハーンそのものだけれどとても優しくて、少しだけいい気分になってしまう。
こんな時、シルハーンはとても優しく、けれどもどこか悲しそうに微笑むのだ。
「………うん。では、ネアにはそろそろ漂流物の話をしておこう。そして私は、それに損なわれないようにするよ。幸い、オフェトリウスがウィームの民達と親しくなりつつある。あの子が知り合った光竜もいる。いざという時の為の、それを退ける手立てがあるのは良い事だ」
「ほぇ。ウィリアムは、漂流物の災いを退けた事がないのかい?」
そう問いかけると、ウィリアムは白金色の瞳を細めて、短く首を振った。
とうに漂流物くらいのものは退けていると思っていたので、少し意外に思う。
「ないのかい?」
「巡礼者とは縁深くもあるが、漂流物は、逆に終焉には近付かないな。………何か魔術的な規則性があるんだろうが、前世界の残滓だからこそ、終焉を厭うのかもしれない。………アルテアはありませんか?」
「遭遇した事は何度かあるが、呪われたり障りを受けるような不手際がそもそもないな。………だが、盾役として、その為の素材を用意しておくべきだった」
漂流物は、海の底から這い上がってくるものの事だ。
ヴォジャノーイとも近いものだが、海の系譜のもの達が扉を守る、影の国に現れる海から来るものと森から現れるものが、最も近い。
前世界の残滓であり、残響であり、亡霊でもある。
海の底から現れてこのような浜辺に流れ着き、そこで出会ったものを呪う、悍しく儚い災いなのだ。
今代の世界に紐付かないからこそ今の世界の理を持たず、万象を損なう事も出来るが、同時に、在るべきものを在るようにする者や、災いを退ける資質を持つ者には弱い。
多分それは、前の世界の最期にあまりにも強く焼き付いた、その世界の高位の者達の、慟哭や悲鳴なのかもしれない。
(でも、漂流物がシルハーンを壊す事は出来ない。それは、もうここが新しい世界で、漂流物の在るべき場所がもうない世界だからこそ叶わないらしい………)
とは言え、傷付ける事が可能であれば、それはネアの心を損ないかねないものだろう。
ヨシュアにとって、イーザはとても大切な友達で、そんなイーザが大切にしているネアが、そのように傷付くのは嫌なのだ。
ネアは、ぬいぐるみのポコに会わせてくれて、そのポコにお祝いを贈ってくれる。
シルハーンの側に居てくれて、ネアがいると、ウィリアムはとても安心したような目をしている。
(それに、アヒルをくれたし、イーザが喜ぶ事を色々と教えてくれる。……………すぐに叩いて乱暴だし、凄く怖いけれど………)
兎に角、ネアが悲しまないのがいいだろう。
そうすれば、イーザもシルハーンも安泰だ。
つまり、雲の上にあるヨシュアの領域がとても穏やかであるという事にもなる。
「本当は、漂流物に呪われて、その呪いを退けた者がいるといいのだけれどね。僕はそういう者は知らないからね」
唯一、どのような漂流物であれ退けるものがある。
それは、漂流物を招き入れても、呼び寄せても、彼等に決して損なえない免罪符のようなもの。
漂流物は、どれだけそうしたいと願っても、既に漂流物の災いを退けた者にだけは、決して近付く事が出来ないのだ。
「………災いを司る剣が残っていればね。或いは、先代の白樺がいれば、漂流物避けにはなっただろう」
「うん。でもいないなら、ウィリアムで退けて、アルテアで道を敷くといいよ。僕は、漂流物には勝てないからね」
「そうするよ。…………ヨシュア、今日は来てくれて有難う」
「僕は、シルハーンが呼んだら出来るだけ応えたいと思うから、幾らでも褒めていいよ」
今夜ばかりはウィリアムにも叱られなかったので、そう言い残し、ふわりと空に昇った。
帰り道で、王への退出の挨拶を忘れていた事を思い出したが、また戻るのは大変なのでまぁいいかと思い直す。
夜のヨシュアは、いつもより少しだけ儀礼的な事を忘れがちで、こればかりは仕方ない。
雲の城への扉を開けば、待ち構えていた門番達が恭しく頭を下げ、下にいたシルハーンたちの姿を見て青ざめている。
「彼等は上がってこないから、僕が上がったら扉を閉めるといいよ」
「……………御意」
「それと、階段に砂が落ちていたら片付けておいて」
「波音や月光は如何いたしましょう?」
「それもだね。ここに、僕以外の要素で残しておくべきものはないよ。ここから上は、雲の領域だからね」
砂浜に残るのはもう、あの怪物に遭遇して沈んだ船の残骸と、その死者達だけだ。
その先は終焉の領域であるし、気になるものがあれば統括のアルテアが対処するだろう。
ヨシュアの役割は、雲の系譜の怪物を、後に障りが残らないよう系譜の王として処理するだけ。
城への階段を登ると、そこには晩餐の途中で呼び出されたヨシュアを待つ、大切な友人達の姿があった。
迎えに出てきてくれたらしいと考えると、気分が良くなる。
今晩は、久し振りに三人で過ごす夜なのだ。
「シルハーンの手伝いをしたよ。ヴェルクレアの王都に障りがないようにしたから、きっとネアも喜ぶんじゃないかな」
「それはいい働きをしましたね。料理にはまだ手を付けていませんから、あらためて仕切り直しましょう」
「まったくもう。ちゃんと、待っていたから、帰りは家まで送って頂戴ね」
「ほぇ、待っていてくれたのかい?」
「当たり前でしょう。今夜は、色々聞いて欲しい話があるんだもの。お疲れ様、ヨシュア」
「うん。疲れたから、労うといいよ」
「労って欲しいのは私だわ!今夜は上等なお酒を空けるわよ!」
「あの人間に何かされたのかい?」
「幸いにも、されたのではありませんよ。出来ない事が問題のようです」
「ほぇ………出来ない」
「ど、どうせ私は、オズよりも料理が下手よ!!」
ぱたんと階下で扉が閉まる。
そこはもう雲の上の城に繋がる天上の庭園で、この領域に今夜は招き入れていない月光はなく、細やかに煌めき落ちる星の光が満ちていた。
雲の上に繋がる扉は閉じたのだから、あの浜辺にはもう、眩いばかりの月光が降り注いでいることだろう。




