天秤と花影
はらはらと舞い落ちるのは雪ではなく、あえかな花びらの雨だ。
それを見上げてゆるりと揺れた月光の下で、ネアは小さく震える息を吐く。
そして、目を開いた。
(……………多分、夢だったのだろう)
そこでは雨が降っていて、薄暗く青い部屋の中でぎいぎいと音を立てている天秤があった。
分銅どころか何一つ乗っていない対の皿は鈍い金色で、僅かにくすんだその輝きが、不思議と鮮やかに記憶に残る。
ネアはその部屋で、音を立てて左右に揺れ続ける天秤を眺めながら、天秤の魔物が現れた日の事を考えていた。
すると、ネアはどうしようもない不安に駆られてしまい、こつこつと床を鳴らして歩いてゆくと、目の前の冷たい石のテーブルに置かれた天秤の動きを止めようと手を伸ばす。
たったそれだけの夢。
それなのになぜか、なんとも言えない不愉快さが胸の中に残っていて、胸に手を当ててみれば、どきどきと刻まれる鼓動もいつもより少し早いような気がする。
(部屋の中にいて、外は雨だったのに、月の光と花びらの雨が降っていて…………)
こうして目を覚ましてみればただの夢で、なのにどうしてこんなにも心が騒ぐのか。
なぜだか息を潜めていたネアは、そっと隣を伺い、いつもはお気に入りの個別包装となっている毛布を少しばかり恨めしく思った。
じりじりと隣に寝ている伴侶に近付き、ほんの少しの後ろめたさを感じながら、自分の体に巻き付けた毛布を剥いで、ディノに体を寄せる。
「……………ネア?」
「……………むぐ」
しかし、明らかに不審な動きは、せっかく気持ち良さそうに眠っていたディノを起こしてしまったようだ。
がっかりしたのと、恥ずかしいのとで項垂れたネアに、こんな暗い夜の中でも光を孕むような水紺色の瞳がこちらを見て、心配そうに細められる。
「怖い夢を見たのかい?」
「ふぁい…………」
「おいで。夢の侵食がないかどうか見てあげよう」
「では、そちらに移動しますね」
自分用毛布からディノの体温の宿った毛布の中に移動すると、ネアはふすんと安堵の溜め息を吐いた。
伴侶な魔物の優しい手が額に触れ、その温度にまた心が柔らかくなる。
「……………おや」
「なぬ?!」
「ああ、怖がらなくていいよ。夢の虫だ」
「ぎゃ!虫!!」
きっと何でも無いはずだとそのまま眠ろうとした人間は、思いがけない宣告に飛び上がってしまう。
ディノは安心させてくれようとしたようだが、虫と聞いて慄かない筈もない。
はわはわしているネアに、ディノは困ったように微笑むと額に口付けを落としてくれた。
「…………夢の虫は、心の中の扉の向こう側の自浄作用のようなもので、人間にとっては珍しいものではない筈だよ。扉の向こうで何らかの不要排除が行われると、その虫の羽ばたきのような振動があちこちに伝わるらしい。その影響で、少しだけ不穏な気配のある夢を見るのだそうだ」
「向こう側となると、以前私が落ちてしまったところなのですか?」
「うん。君の扉はもう閉めてあるから安心していい」
「…………ふぁい」
それでも少しだけの不安を飲み込めずにいたネアは、こちらを見たディノにふわりと抱き締められる。
「それはもうない事だけれど、扉の向こうに落ちてしまってもすぐに迎えに行くよ。私が動かなくても、そちら側については、…………そうだね、アルテアやグラフィーツなど、出入りに長けている者達が君の近くにはいる。安心していい」
「…………ディノ達は、扉の向こう側に落ちてしまう事はないのですか?」
ふと、気になってそう尋ねてみた。
おやっと目を瞠り、ディノは少しだけ考え込む様子を見せる。
そうして動いている表情を見ると、ネアは不思議な安堵を覚えて、ほかほかと温まる胸をそっと押さえた。
「………どうだろう。私は、自分で踏み込まない限りは入り込まない場所だけれど、階位や心の状態によってはそのような事もあるのかもしれないね。一度だけ、グレアムの伴侶だった魔物が向こう側にいた事があるという話を聞いた事がある」
「…………まぁ。その時は、グレアムさんが迎えに行かれたのですか?」
「いや、自分で帰って来たそうだよ。話を聞いたグレアムが、とても驚いていた」
それは、ネアのよく知るあの優しい魔物に、彼を狂乱させる程に大切な人がいた頃の話。
滅多に聞くことはないその人を頭の中で思い描き、ネアは小さく頷いた。
ディノは時々、今のグレアムが幸せそうだからと嬉しそうにしている事がある。
どうやら最近の犠牲の魔物は、趣味のサークル活動のようなものに参加しており、その活動はそれなりに忙しいのだとか。
その輪の中にいる友人達と泊まりがけで出かける事もあるのだと知れば、ネアも何だか嬉しかった。
(それはきっと、奥様を亡くされても大切な人が側に居てくれるヨシュアさんのような賑やかさなのかもしれない…………)
その人の心はその人だけのものだ。
だからヨシュアだってきっと、伴侶が恋しくて泣けてくるような夜もあるかもしれない。
けれども、彼が一人きりかと言えばそうではなく、側に居て欲しいと願える人達が居ることはどれだけの救いなのだろう。
「アレクシスさんも、落ちてしまった事があるのだそうですよ。沢山のスープの材料を見付け、その全部を刈り取って持って帰ろうとしたところで戻ってきてしまい、とてもむしゃくしゃしたのだとか」
「………刈り取ってしまったのだね」
「ふふ、アレクシスさんらしいですね。何となくですが、ネイアさんも同じような事になる気がします」
「……………あの人間の話はやめようか」
「むぅ。ディノは、ネイアさんがあまり好きではないのですね?」
「…………うん」
「あら…………」
珍しく誰かを嫌いだときっぱり言い切った魔物に、ネアは目を瞬くと唇の端を持ち上げた。
ディノが不思議そうにこちらを見るが、そうして、誰かを苦手だと言える事は決して悪いことではないと思うのだ。
(勿論、嫌いな人なんていない方がいいのだけれど……………)
「…………君が、気に入りそうだからね」
「まぁ。それで荒ぶってしまうのです?私の大切な伴侶は、ディノしかいないのですよ?」
「…………うん」
「こちらに来て、大好きな方や大切に思える方は沢山出会いましたが、伴侶にしてもいいのはディノだけです」
「理想、…………とは違うのかい?君は、騎士が好きだったのだよね」
「ふふ、理想はあくまでも理想で、本当に一番の大好きなものには敵わないのです。となると、この世界にディノに敵うような素敵な伴侶候補はいないので、安心していて下さい」
「それなら、いいのかな…………」
「ディノにも、…………その、そういう方はいませんか?」
「ネアしかいない」
ネアは、ほんの少しの不安を噛み殺してさり気なく尋ねてみたのだが、ディノは浮気を疑われたのかと怯えてしまったようで、慌ててそう断言してくれた。
ぎゅうぎゅうと抱き締められながら、ネアはふと、出会った頃のディノが名前を呼ぶたびに目を輝かせてくれていて、そんな表情を見る度に胸が苦しくなったのを思い出す。
あの頃のディノは、まるで誰にも名前を呼んで貰えなかったかのように、名前を呼ぶだけで幸せそうにしていたものだ。
「ディノ」
「…………ネア?」
「ふふ、大切な伴侶の名前を呼んでみました」
「…………おいで」
「…………にゃむ?!」
緩やかに抱き締められ、ネアはむぐぐっと眉を寄せたが、ディノの満足げな表情を見て、まぁいいかと諦める事にした。
いつだって、この魔物はネアの一番大事にしたい魔物なのである。
だがそれは、目の前に美味しそうな豚肉の白葡萄酒煮なおかずの入ったおかずパイがない時に限られるという注釈が付く。
「アルテアなんて…………」
「むぐ。このパイ様の為であれば、吝かではありません。春告げの舞踏会では、アルテアさんとお揃いのデザインにした繋ぎ石の耳飾りを着けて、お揃いの靴を履いておけばいいのですね?」
「ドレスのデザインから、俺の装いもそちらに寄せる事になるな。季節の舞踏会に共鳴が出るのは久し振りだ」
「その方は、…………アルビクロムの問題で、困った箱を持ち込んだ方、なのですよね?」
「色狂いで災いに偏る男だな。言っておくが、ダナエとの相性も悪いぞ」
「まぁ、通りすがりに踏んでおきます?」
「ご褒美をあげるなんて…………」
「むむ、ディノはそう思ってしまうかもしれませんが、その場合は少しだけ滅ぼしてもという感じで踏みつけているのですからね?」
「そうなのかい?」
共鳴の魔物は、以前からも少し話を聞いていたが、厄介な御仁のようだ。
ウィリアムが毛嫌いしている事でも有名らしく、となると、複数名からそこまで思われる程度には個性の強い人物なのかもしれない。
「アルテアさんも、その方がお嫌いですか?」
「さてな」
「アルテアは、一時期は親しくしていた筈だ。だからこそ、寄ってきてしまうのではないかな」
そう呟いたディノは少しだけ憂鬱そうで魔物らしく、ネアは、にっこりと微笑んでそんな伴侶を撫でてやる。
「では、アルテアさんの他には、ダナエさんやバーレンさん、グレアムさんとしか踊らないと約束しますね」
「…………うん」
「おい、余分に踊る余裕なんぞないぞ。せいぜい、春告げの祝福を固定する為のダナエとの一曲が上限だ」
「ディノ、この通り、アルテアさんはダンスが好き過ぎるので、そもそも、他の方と踊るような余裕はなさそうです」
「アルテアなんて…………」
静かな午後の会食堂には、美味しいパイの香りが漂い、温かな紅茶がカップの中で揺れる。
窓の外は雪の色がだいぶ薄くなり、いよいよ、春の訪れの気配を帯び始めていた。
今日は、テーブルの上に、可憐なチューリップがたっぷりと生けてある。
これは、ロマックが休暇明けに実家から持ち帰ったもので、彼の従兄弟がチューリップの妖精から求婚された際に、荷馬車五台分のチューリップが届けられてしまい、必死にあちこちにお裾分けする羽目になったのだとか。
けれどもそのお陰で、思いがけず春の色を一足先に楽しめるようになってしまったネアは、色とりどりのチューリップを見るとついついにっこり微笑んでしまう。
「チューリップが可愛いです………」
「……………言っておくが、その系譜にはお前が好むような奴はいないからな」
「お花を愛でているだけなので、荒ぶるのはやめるのだ」
「チューリップなんて…………」
「ディノ、このチューリップさんは、私に素敵な収穫を齎すお花でもあるので、あまり荒ぶってはいけませんよ?それにほら、お部屋がぱっと明るくなってとても可愛いですよね」
「………チューリップなんて」
こんな時はちょっぴり面倒臭い魔物達を半眼で眺め、ネアは、なぜ今日は義兄がいないのだろうと肩を落とす。
そんなノアは、エーダリア達に同行してザルツに赴いており、今日はアルビクロムの議員の一人とザルツ伯爵との間に、音楽留学に於ける取り決めが交わされる日なのだとか。
元々、ザルツは国外からも音楽を学ぶ者達を受け入れてきた土地であるが、これまで、ザルツの音楽院に入学出来るアルビクロムの生徒はとても少なかったのだそうだ。
だが、最近のアルビクロムでは、やっと芸術の分野の教育を強化してゆく為に有用な法律が定められたらしく、それにあたって、毎年一定の人数の音楽に長けた子供達をザルツの学院で預かって育てるという取り決めが行われる。
その子供達は、ザルツの入学試験の基準には満たずとも良く、成績によっては最大一年しか滞在が許されない。
全ての費用はアルビクロム領から捻出されるので、入試からこぼれてしまう子供達にも音楽を学ぶ機会を与える事で、未来のアルビクロムの民達の教養を高めるという方針であるようだ。
(アルビクロム側から選ばれた子供ではなく、子供達やその親達が申し込み用紙さえあれば自由に申請出来るようにしておいて、ザルツ側が選ぶという仕組みにしたのは、政治的な利用を避ける為なのかな…………)
ウィーム第二の大都市となるザルツは、それなりに問題のある土地でもあるが、音楽については、政治利用などを拒むだけの確固たる誇りを持っている。
どれだけ政治的な旨味があれど、その為に音楽を切り売る事はしないのだそうだ。
「……………おい」
「むむ、なぜ私とパイの間に手を伸ばすのだ」
「それが二個目だからだろうな。一度に食べ過ぎだぞ」
「お母さん……………」
「やめろ……………」
ネアは、パイのお皿が遠ざけられてしまったので悲しく唸り、ふと、窓の向こうに落ちる花影に昨晩の夢を思い出した。
「そう言えば、こちらの世界には夢占いなどはあるのでしょうか?」
「どうだろう、知っているかい?」
「カルウィにはあるが、こちら側の土地では占いというより託宣の部類だな。何か気になるものでもあったのか?」
「昨晩の、……………夢の虫?で、あまり夢に出てこないようなものを見たのです。扉の向こう側の影響を受けて見る夢であれば、覚えのないものが出て来ても不思議はないのですが、出てきたものに意味はあるのかなと少しだけ気になってしまいました」
「黄金の天秤を見たと話していたね」
「ええ。空っぽで、がこんがこん音を立てていました。窓の外は雨でお部屋は薄暗くて、なぜか月光が差し込んでおり、花びらの雨も降っていたのですよ」
ネアがそう言えば、魔物達は顔を見合わせたようだ。
ややあって口を開いたアルテア曰く、空の天秤というものは、預言や託宣の領域では在るべきものが在るようにならないという状況を示すものなのだそうだ。
「だが、黄金は結実を満たすという意味になる。その色が記憶に残ったのであれば、尚更にその示唆に当たるだろう。降り注ぐ月光や花びらもそうだな。そのまま読み解けば、在るべきものがそのように在らず、けれども満たされるという啓示になる。だが、雨と暗い部屋は、隔絶や失意を示すものとしても取られる事が多い。だが、ウィームでは安息を示すものだがな」
「むむぅ。そうして読み解けてしまう部分もあるのですね……………。となると私は、在るべきものが在るようにはないものの、ウィームだから幸せという感じでしょうか」
ネアがそう言えば、少しだけ難しい顔をしていた魔物達は、おやそれでいいのかなという表情になった。
とても素敵な解釈にまとまったので、ネアはふんすと胸を張る。
「それでいいのかな……………」
「うむ。であれば間違いありません。ディノと昨晩話したことのように、今ある形は、かつての私が貧弱な想像力で思い描いた理想とは違いますが、もっともっと素敵な私だけの一番のものになりました」
(けれども……………)
ネアは、少しだけ考える。
あの夢を見た時、心の中に残ったものは何だっただろう。
それを思うと少しだけ不安になったので、念の為にとディノと相談して、アルテアの持つ夢の領域の守護を一つ貰っておくことにした。
「…………これは、チョコレートです」
「夢の領域の魔術は、嗜好品の形で取り込む方が定着がいいからな」
「勿論美味しくいただいてしまいますが、想像と違いました」
「……………何だその目は」
「こう、何だか格好いい魔術で、えいっとやるものだとばかり…………。あぐ!」
少し準備をしてくると数分姿を消していたアルテアが持って来たのは、白いお皿の上に載った宝石のような一粒のチョコレートだ。
準備とはお菓子作りだったのかなと驚きつつも、ネアは、差し出されたお皿の上に乗せられたチョコレートをぱくりといただき、甘酸っぱい美味しさに身震いすると幸せに頬を緩ませる。
ネアが美味しさにじたばたしたせいか、椅子になった伴侶な魔物がきゃっとなってしまっていた。
「アルテアさん、美味しい守護の追加を、有難うございました」
「……………お前は、細かいところまで報告するからな。事故の多さはさして変わらないかもしれないが、それだけは褒めてやる」
「……………む、むぐぅ」
「ネア、…………アルテアは、事前に手が打てたから安心したのだと思うよ」
「ディノも、昨晩の内に悪い影響がないようにと、魔術洗浄してくれて頼もしかったです」
「…………可愛い。三つ編みを引っ張ってくる」
「そして、このチョコレートはもう少し増やしても構いませんが……………」
「おい、守護をパイのように強請るな。パイも、一日一切れまでだからな」
「むぐぅ……………」
「ドレスが入らなくなるぞ」
そう脅されると黙るしかなく、ネアはチョコレートが増えただけ幸いであったと思う事にした。
なお、リーエンベルクのおやつについては、使い魔への報告義務はない。
はらはらと、あの部屋で降り注いだ花の雨を思い出せば、それはどこか、桜の花びらに似てたような気がする。
ネアは、近くなってきた春告げの舞踏会に向け、ドレスが入らなくなる不安が見せた夢ではないだろうかと少しだけ考え、そっと自分の腰回りを掴んでみたのだった。
緊急事態宣言の発令前後で仕事が立て込みそうでして、明日4/7・明後日4/8の更新はお休みとさせていただきます。
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もし控えめでも更新が可能でしたら、Twitterからご連絡させていただきますね。
また、現在お手入れ中の過去作品につきましては、現在は手元での改稿中ですので、ご披露させていただく際にはあらためてTwitterや活動報告からご報告させていただきますね。




