夜の谷と風の振り子
深い森の中にある小さなその国には、世にも美しい森の乙女が住んでいると言われていた。
生涯に一度でいいのでその乙女を見てみたいと考える者達は、興味本位から研究目的までと数多く存在したが、そうして森に入っていった者達が戻ることはなかったという。
その国はクロットと呼ばれていた。
実際にはもっと長い正式な国名があるのだが、他の国の人々にはあまりにも発音が難しかったので、正式な場であっても書類など以外での呼称はクロットで構わないという声明を、国としても出さなければならなかったそうだ。
それぞれの土地にそれぞれの文化や言葉があるのは当然のことなのだが、難解な文字や発音も考え物だと思わざるを得ない出来事だが、そもそもクロットは、亡命者達が集まって出来上がった国である。
難解な言語については、最初から暗号性を求めての運用だったという説もあるが、その噂についてクロットの国民達が見解を述べたことはなかったらしい。
そしてそんな国の森の奥深くで、ばたばたと灰色の外套を風に翻している同行人を、バーレンは困惑しきって眺めていた。
同じ色の外套を着たダナエの横顔はやや硬いようだ。
この国の森を訪れたのは、旅の中でそんな土地があると知り足を運んでみたばかりなのだが、いざ足を踏み入れてみれば厄介な事が立て続けに起こった。
まず、特に前情報なく森に向かったからなのだろうが、足を踏み入れた途端に閉鎖魔術が展開されてしまい、二人はなぜかこの森から出られなくなった。
加えてこの森を住処にしている精霊は、見目は美しい女性達だがかなり獰猛であることが判明したのだ。
また、森の中に迷い込んで泣いていた妖精の女性を拾ってしまい、ダナエがさっぱり反応しないので、なぜかバーレンが面倒を見る羽目になっている。
三重苦だ。
そう考えれば小さく呻き声を上げたくもなったが、現在バーレンはじっとこちらを見上げている金髪の女性の方を見ないようにしながら、何とかダナエに付いていかなければならない。
バーレンとしてもこの女性はもう置いてゆきたいのだが、妙に人懐こい妖精でべったり張り付かれてしまっている。
この森のある国は入国審査が厳しい関係で人間に擬態しているので、人間だと思っているのだろう。
竜の外套はダナエに貸してしまい、バーレンはアクス商会の市販擬態術式を使っている為、そこまで良い仕上がりではないような気がするのだが、今のところ気付いた様子はない。
「レン、これから奥に進もうと思う」
「ああ。ここから先は道が悪いな。………事象の系譜の魔物の術式の跡だろうか」
「これは、白虹か選択かな…………白夜だともう少し酸味が混ざるから」
「なぜいつも魔術を味で判断するんだ………」
「食べられるものだから、かな」
そんなやり取りをしていれば、隣に立っていた妖精に袖を引っ張られた。
もしその腕で魔術を編み上げているときだったら、どうするつもりだったのだろう。
声をかければいいのになぜそんな振る舞いをするのだろうと思えば、心の中で煩わしさが段階を上げる。
「旅人さん、高位の魔物を知っているの?」
「さあ。その気配を知っているだけかもしれない。だが、この先には魔物達の証跡が色濃く残されているようだ。君は一緒に来ない方がいいだろう」
「……………どうして?」
「最奥にある、精霊の巣に行くのが俺達の目的だ。森を出たいのなら、正反対になるぞ」
「それでもいいわ。どうせこの森からはもう出られないのだもの。だったら、一人じゃない方がいい」
「レン、その妖精は煩いから置いていこう」
「……………ダナエ」
レンという偽名を使っているバーレンに対し、悪食のダナエはそのような予防策は取らずに済んでいる。
侵食や悪変に強い春闇の竜というだけではなく、ダナエは更に影響を受け難い悪食なのだ。
悪食であることを真似をしたいとは思わないが、一緒に旅をしていて、見知らぬ土地でも名前から紐づく魔術を警戒する必要がないダナエを見ていると、便利な資質だと思うことも多々あった。
拾われた名前を誰にも損なわれずに生きてゆけるということは、どれだけの強さだろう。
しかしそれは、裏を返せば誰からの魔術にも繋がれないという事を示しており、この友人の孤独の輪郭でもあるのだろうか。
そんな事を考えていたら、腕を掴んで体を寄せてきた妖精が耳元に囁きを落とした。
「…………ねぇ、こんな事は言いたくないけれど、彼は良くないものよ。死の匂いがぷんぷんするし、今は優しくしてくれていても、きっといつかあなたを食べてしまうわ」
「そんな事はない。彼は、大切な友人だ」
「旅人さんは楽観的なのね。あの男の足元に広がる、絶望の怨嗟が見えていないのかしら」
こちらを見上げた妖精は、甘く優しい香りがしたが、バーレンは、その囁きがダナエに聞こえはしないかと気が気ではなかった。
(ダナエは、おっとりとしているようだが、多くの事を考えて冷徹な結論を出す事も少なくはない。もし、…………)
もし、バーレンがこの囁きに毒されたらと考え、自分を裏切るかもしれない者を、或いは自分を疑うようになるかもしれない者を遠ざけておこうと、こちらに知らせずに立ち去ってしまったらどうしてくれるのだ。
そう考えると、ダナエに竜の外套を貸している事がふいに悔やまれた。
あの外套があれば、ダナエはバーレンにも気付かせずにどこにだって行ける。
(だが、…………却って誤解を受けるような言い方をして取り戻す訳にもいかないからな…………)
相変わらず隣の妖精はべったり張り付いてくるし、途方に暮れたバーレンは、春告げの舞踏会で出会う事の多い、ネアの言葉を必死に記憶から掘り出していた。
それは、正確にはネアが選択の魔物に向けていた言葉で、手をかけた相手を殺しがちな魔物という生き物達を巧みに繋ぐ彼女が、どうやって魔物達の諦観や癇癪を抑えているのかを思い出そうとしたのだ。
しかしそのせいでバーレンは、強くしなったダナエの攻撃に気付くのが遅れた。
「旅人さん!!」
側にいた妖精の鋭い声にはっとした時にはもう、大きな夜暮れの木の上からするすると下りてきた魔物達を打ち払ったダナエの魔術が、こちらに迫っていた。
どんと、強く突き飛ばされ、バーレンは近くにあった茂みの中に倒れ込む。
「……………っ、」
地面に叩きつけられるのと、この甘ったるい花を満開に咲かせた棘のある茂みに倒れ込むのとどちらがマシだったのだろうと考えながら呻めき体を起こしてから、バーレンはぎょっとして目を瞬いた。
先程まで自分が立っていた場所にはあの妖精が倒れていて、その片腕は真っ赤な血に濡れている。
「…………おい!…………大丈夫か?」
「………っ、…………うん。逃げ損ねちゃったわ」
慌てて駆け寄り助け起こすと、彼女は、綺麗に結い上げていた髪が崩れてくしゃくしゃになった哀れな姿のまま、力なく笑う。
幸いにも旅の中で必要だろうと魔物の薬を持っていたので、それを取り出そうとしていると、がさりと落ち葉を踏む音がした。
森には夜が来ていて、夜の谷と呼ばれるこの森はとても暗い。
それでも木々の間から満月の光が差し込み、ダナエのよく光を集める瞳は暗闇で輝くようだ。
その足元で暗く凝るのは春闇の欠片で、まだ周囲を警戒して収めていないのだろう。
「……………レン、それは使わない方がいい」
「ダナエ?………俺を庇ってこうなったんだ。放ってはおけないだろう」
「薬が無駄になる」
「……………ダナエ」
怪我をさせたまま置いてはいけないだろう。
せめて、後腐れなく別れる為にも、ここは傷薬くらい分けてやろう。
そんな本音の言い分は流石にこの場では口に出し難く、バーレンは途方に暮れて続ける言葉を飲み込んでしまう。
(……………あ、)
淡い桜色の瞳がどこか憂鬱そうな冷たさを孕み、その事にぞっとしながら彼を見上げる自分はどんな顔をしているのだろう。
「そう。ならいいや」
「……………っ、ダナエ、待て!」
ふいっと踵を返して立ち去ろうとしたダナエに、バーレンは慌てて立ち上がった。
ぞんざいに魔物の薬を少しだけ妖精の手にかけてしまい、小走りで外套の裾を揺らして歩いてゆくダナエの腕を掴む。
「……………何?」
振り返ったダナエの冷たい瞳に、ぞくりと心が萎縮しそうになる。
だが、ここで怖気付いて引き下がってしまったなら、この世界にはもう、これ程に大切なものなどどこにもないのだ。
「ダナエ、どこにも行くなよ」
「…………レン?」
「俺を置いてゆくなよ。これからも、ずっと一緒に旅をするんだ。この谷に住む精霊達は好きなだけ食べて構わないし、あの妖精も、不愉快ならここで別れよう。その代わり、俺の前から姿を消すのはやめてくれ」
かつて、あの選択の魔物を説き伏せてしまったネアのような巧みな言葉をと練り上げていたのに、そんなものを組み立て直す余裕などなかった。
ダナエを安心させる言葉も、もっと伝わり易い問いかけも用意出来ず、こちらの要求ばかりになってしまう。
もっとあっただろう。
言い方も、やり方も、もっとマシなものがあった筈だ。
そんな言葉をぶつけられたダナエは目を瞠っていたが、ややあってから、小さくふうっと息を吐いた。
背後にいるはずの妖精は無言のまま、けれどもそちらからも痛い程の視線を背中に感じる。
驚愕と失望に満ちた眼差しは、何とも身勝手な嫌悪にも満ちていて、バーレンはまた胸が悪くなった。
こんな妖精に出会ってしまったから。
そう思えば、嫌悪感を返したいのはこちらではないか。
「……………レンは、それでいい?」
「当たり前だ」
「精霊は美味しそうだし、あの妖精は嫌いだ」
「それでいい。そもそも、彼女は、たまたま行き合っただけの他人だろう。俺達の旅とは何の関わりもない」
「…………それでも私は、これからも沢山食べるよ。先程は、君に怪我をさせるところだった。一度ああいう事があるのなら、またあるのかもしれない。だからレンは、傷薬を残しておかなければいけなくなる」
「…………それで先程の言葉なのか。分り難いな!それに今迄、寝ぼけたダナエに俺が何度蹴られたと思っているんだ。先程は俺がぼんやりしていただけだし、うっかり闇の端が触れたくらいでどうにかなる程、俺は柔じゃない」
「………うん」
「……………友達なんだろう?」
「……………うん。レンは、大切な友達だ」
「だったら!」
「うん」
やはり良からぬ事を考えていたのか、先程までの不機嫌さが嘘のように、ほんわりと微笑んだダナエはほっとしたようだ。
(だが、…………ここで良かったのかもしれない)
胸を撫で下ろしつつも、この友人が今迄にどれだけ孤独だったのかを思えば、自分達の関係は、このような危うさをずっと孕んでいたのだろう。
例えば、宿の別の部屋でバーレンが眠っている間に、ダナエが姿を消していた可能性だってあったのだ。
「在るべきものを、在るように。だから俺は、これでいい。……………悪いが、君は俺の連れと相性があまり良くないようだ。また近くにいると怪我をするかもしれないから、やはり別々に行動しよう。ただ、先程は助かった。助けてくれた事には礼を言う」
それでも逃げられないようにとダナエの腕を掴んだまま、振り返ったバーレンは、地面に座り込んだままこちらを見上げている妖精の表情にぎくりとしつつも、淡々とそう告げた。
淡い緑色の瞳にありありと絶望と落胆を浮かべてこちらを見ている妖精は、恐らく春風の系譜の者だろう。
儚げで美しく、先程までこちらに向けていた微笑みは、可憐だが凛としていて美しかった。
でもそれは、この大切な友人にかける思いとは、まるで違うものなのだ。
確かに美しい妖精だとは思うが、それはバーレンの個人的な感情を動かすものではない。
「やめた方がいいわ。それは、自分がどう思ったとしても、自分ですら制御出来ない悪食の悍しい怪物よ。あなたはとても優しくて綺麗なのに、そんな怪物の餌になる事なんてない」
掠れた泣きそうな声音でそう責められ、その時にバーレンが感じたのは、純粋な憎しみばかりであった。
「……………黙れ」
「黙らないわ。だって、本当のことだもの。私、知っているのよ。悪食の春闇の竜。愛した女すら食べてしまう、残忍で醜悪な…」
声を上擦らせて叫ぶように糾弾した妖精はしかし、最後までその言葉を言う事は出来なかった。
あっと声を上げて見えない力に吹き飛ばされた華奢な体を、バーレンは凍えるような目で一瞥する。
「……………ダナエは俺の友人だ。それを悪様に罵り、悍しいのはどちらだというのだ」
さくりと、土を踏む音がしてゆっくりと振り返る。
振り返れば、心配そうな顔をしたダナエがこちらを見ていた。
「……レン。君が怒るのは珍しい」
「怒って当然だろう!友人をあのように言われて、腹を立てない方がどうかしている」
「でも、本当の事だよ」
「だが、それはダナエと他の誰かの話であって、俺とダナエの付き合いにはまるで関係のない事だ。そもそも、俺は男で、ダナエの食の嗜好ですらないだろう」
「うん。バーレンは食べようと思った事はない。…………ネアも」
「それなら、あのように言われた時には、怒ってもいい」
「………殆どその通りでも?」
「だが、…………胸が痛むだろう」
「……………うん」
「それなら、怒っていい」
「……………そうなんだね」
「ネアもそう言うだろう。何だったら、あの人間ならもう、先程の妖精を狩っているぞ」
「うん。ネアはそうするかもしれないね。………それに、バーレンも怒ってくれた」
嬉しそうに、そして安堵したように微笑んだダナエに、バーレンは深く深く息を吐いた。
(……………ああそうだ。奪わないでくれ)
やっと帰る場所を見付けたのだ。
それは、家や集落のようなものではなく、一か所に留まれない悪食の竜の隣であっても、そこは、バーレンがやっと見付けたバーレンにとっての正しい場所。
時々、寝ぼけたダナエに蹴られて鱗が欠けても、食べ過ぎるダナエのせいで街を追われても、この友人と別れようと思った事は一度もない。
これは多分、形や在り方は違えども、バーレンにとって宝物の一つなのだから。
「さて、行こうか。森の乙女を食べるんだろう?」
「うん。さっきの魔物は美味しくなかった」
「……………食べたのか」
「筋張っていたかな。森の精霊の方が、柔らかいと思う」
「………そうだな」
深く暗いこの森には、風の振り子があるという。
その振り子が揺らぐと、新しい風の系譜の者が生まれるのだそうだ。
先程の妖精も、そうして生まれ落ちた無垢な生き物に連なる者だったのかもしれないが、もうバーレンが、背後を振り返る事はなかった。
(俺が優しい訳がないだろう。……………優しいのは、ダナエだったんだ)
ダナエがとても優しい竜だから、バーレンは、そんなダナエの側であのまだ幼い妖精が死ぬのはどうだろうと、彼女を見捨てずにいたというのに。
もし一人でいたのなら、ああも煩く付き纏われた段階でどうにかして姿を消している。
最初はダナエだって、まだ子供だからと木の上に乗せてやろうとしたくらいだ。
それなのにあの妖精は、ダナエに対する嫌悪感を隠しもせず、やがてダナエも彼女と距離を取った。
(馬鹿な妖精だ…………)
「バーレン、…………精霊を見付けたら、少し分けてあげようか」
「……………それは遠慮する。ただ、この森のどこかには夜蜜葡萄の実がなっている筈だ。…………あの妖精からその匂いがしたからな。それは是非に食って帰りたいな」
「美味しい?」
「いいか、俺の分まで食べるなよ?」
「うん。では、それも探そう」
「先に見付けても、全部食べるなよ?!」
深い深い森を二人で歩いた。
幸いにも時間は幾らでもあるし、これからもどこまでも旅をする。
春告げの舞踏会にはまた連れてゆかれるだろうから、そこで、この友人と引き合わせてくれたあの人間に、久し振りに会うのだろう。
ダナエと会わせてくれたネアの事はとても気に入っているが、ダナエがネアの事ばかりを構うと少し腹立たしくなるのが、バーレンの目下の悩みであった。
とは言え、バルバはとても気に入っている。
あの美味しい焼き鯨を食べる日を思うと、少しだけ唇の端が持ち上がった。




