灰色の箱と小さな鳥
どおんと鈍い音が響き、ゆっくりと顔を上げればそこには何人かの人間が倒れていた。
やれやれと思いながら瞳を細めれば、展開された魔術の翳りが黒い靄のように太陽を隠す。
幾層にも塗り込めた呪いを小さな箱に詰め込み、愚かな誰かに開かせる災いがある。
高位の魔術師ですら仕損じる選択の妙は、この災いが箱と呼ばれながらも箱だと認識し難い形状である事が所以していた。
(……………ラノラの箱だな)
時折歴史に現れるその箱は、中に織り上げた災いを住まわせた災いの住処でもあった。
一度、人間に擬態して暮らしていた時に実物を手にした事があるが、そのようなものには見えない小さな箱は、指輪や宝石を入れる箱のようなもの。
多くの犠牲者は、その灰色の小箱に何らかの品物が入っていると言われて開けてしまう。
例えば、標的の人物に、高価な魔術道具や希少な宝石を売りつける。
最初は囮になる品物を見せて売買契約などで箱と標的を魔術的に繋いでしまい、後からラノラの箱と摺り替えておくのだ。
ラノラの箱自体に潤沢な魔術が内包されている為に、犠牲者はその摺り替えに気付かない事が多い。
とは言え、媒介するのは人間ではなく、中階位以上の魔物や精霊などが主であった。
(久し振りに見たが、………持ち込んだのは、アルビクロムの者達ではなく、侵攻をしかけた国の王子であるらしい。意図的に待たされたのか、有用な魔術道具だと思っていたのか、…………どちらにせよ、持ち主は助からないな)
それなりに人死にの多い戦場ではあるが、この程度の凄惨さでは本来、鳥籠は必要ない。
今回は、ラノラの箱が開いた事で、鳥籠が必要になったのだ。
ひらひらと揺れる漆黒のドレスを翻した死の妖精達に、死の精霊の手にした大鎌の影。
地面に落ちた影から這いずり出てくるのは、死者達を地の底に引き摺り込む妖精や魔物達。
決して規模は大きくないが、このような殲滅戦の方が、彼らにとってのご馳走が幾らでもある。
嬉々として獲物に飛びかかる死者の行列の者達を見送り、ゆっくりと立ち上がると手にした剣を構えた。
「……………ウィリアム、今はまだ近付かない方がいい」
後方から声をかけられ、ぴたりと動きを止める。
振り返った先にいたのは、友人である絶望の魔物だ。
大ぶりな耳飾りが風に揺れ、ちかりと戦火を映して光った。
「ギード?」
「もうすぐ箱が閉じる。気に入った獲物を見付けたんだろう。……………捕まえられた女性の悲鳴が、俺のところにまで届いたんだ」
「…………餌ではなく、花嫁を見付けたのか」
「そうみたいだな。あんたは、あまり近付かない方がいい。あの手のものとなると、…………すぐに目をつけられるからな」
「…………そうだな」
ウィリアムはなぜか、災いの犠牲になった女達に執着される事が多い。
言われなければ、あの箱を壊しておこうと近付いていただろう。
止めてくれて良かったと息を吐いたのは、そんなものを持ち帰る訳にはいかない事情があるからだ。
「シルハーンやネア達が悲しむ」
「……………ああ。あの手の花嫁は、ネアを狙いかねない。立ち去るのを待つしかないが、………おっと、」
砂塵の向こうで、漆黒の軍服めいた服装で立ち上がった一人の女がいた。
けぶるような金髪を黒い靄に靡かせ、内側から光るような災いの光を宿しているからには、あれが花嫁だろう。
胸元にはべったりと真紅の色が踊り、その人間が既に生者ではない事を示している。
あの災いの箱は、食らった獲物の中に気に入った者を見付け、災いを分け与えて伴侶としたのだ。
おおんと、どこかで災いが吠えた。
それは怨嗟の声のようで、そして歓喜の声のようにも聞こえる。
狂乱を知る魔物達や、元よりそちら側の資質を持つ魔物達であれば災いの言葉を聞く事も出来るだろうが、ウィリアムには、その意味は分からなかった。
太陽を隠す靄が地表近くを渦巻き、遠くから犠牲者達の血臭が届く。
幸いにもこの戦場は、死者の引き取り手達が姿を見せると怯え慄くような者達ばかりではなく、まだ戦闘が続いているところもあるようだ。
あまり人外者に馴染みがないとは言え、アルビクロムは大国の領地であり、かつては中規模の一国家であった。
ましてや、あの災いの箱が展開されても、大きな動揺は見せずに戦い続ける精鋭達でもある。
死者の王が同じ戦場にいても取り乱さないくらいの知識は、持ち得ているのだろう。
或いは、このような場所でも隊列を崩させないだけの、優秀な指揮官がいるのかもしれない。
また一つ、災いの声が響いた。
大きく古い術式に耐えきれず、箱を開いてしまった術者がどうっと倒れる。
自分達で持ち込んでおいて損なわれるのも皮肉な話だが、恐らくどこかに、人間の手には余るあの箱を仕込んだ者がいる筈だ。
(……………花嫁を得たとなると、何年かは地下に潜るだろうな。そして、蜜月が明ける頃に食事が始まる…………)
そのようなものが再び目を覚ます日のことを覚えておいた方がいいのだが、残念ながらこのような品物は決して珍しくはない。
他の災いにかかりきりになっている内に、どこかで目を覚ましていたという事も珍しくはないだろう。
やれやれと肩を竦めようとして、漆黒の軍服姿の一人の男が、そんな災いの花嫁にゆっくりと歩み寄る事に気付いた。
それは、例えば恋人や友人を奪われて取り乱したというものではなく、冷静で獲物を見据えるような歩みは、どこか確信的な行動とも言える。
(ん?あれは、……………)
「……………アルテアだな」
「俺はともかく、ギードも、いつも分かるんだな」
「ああ。擬態には、どれだけ必要なものでも、纏う者の嗜好が出るんだ。あれは多分、アルテアだと思う。ウィリアムもそう思ったんだろう?」
「となると、…………あれを持って帰るつもりか。出来れば、こちらに返して欲しいんだがな」
「………いいんじゃないのか?どうせ、災いの花嫁にされたら、何年も帰って来なくなる。その間に壊れてしまう事も多いんだろう?」
「それはそうだが、回収の可能性があるのと、ないのとではな…………」
終焉を司る以上、死者達は皆、ウィリアムの管轄下にある領民達のようなものである。
どれだけ煩わしいのだとしても、その管理と扱いには、ウィリアムなりの裁量で構わないにせよ責任が生じるのであった。
「だとしても、あの死者を取り返しに行くと、あんたが損をするだけだぞ?」
「………うーん、確かにそうだな」
「アルテアなら、シルハーン達の障りになるような扱い方はしないだろう。会った時にでも、それとなく、釘を刺しておけばいいんじゃないのか?」
「……………そうするよ」
言われてみればその通りだと、小さく苦笑するとギードはどこか生真面目な表情で頷いた。
遠くを見るようにネアがオーロラのようだと言う瞳を細め、今はもう黒い靄ですっかり覆われてしまったその向こうを見据えている。
(多分、ギードには見えるのだろう…………)
絶望の花びらが舞い散り、そして誰かの願いが潰えるその様が。
「……………あの女性は、誰かを愛していたんだな。愛する者の前で殺され、悍しい災厄の花嫁にされた。それはとても悲しい事なのだろう。…………それに、彼女が愛していた男は、彼女の事を魔術の素材くらいにしか考えていない」
「…………アルテアだな」
「ああ。アルテアだろう。………可哀想だな。手が届かない者に魅せられる者は、みんな苦しくて可哀想だ。………かつての俺やあんたも、あんな花びらを降らせていたんだろう」
ざあっと、砂塵が舞う。
友人の静かな声に、ウィリアムは、手に持つ剣の柄を強く握り締めた。
この友人の目には、これ迄にウィリアムが踏み越えてきた絶望の色が、ありありと見えていたのは間違いない。
そしてその光景を、ギードはどのような思いで眺めていたのだろう。
「ギードはもう、苦しくはないのか?」
「…………多分。狼達と暮らすようになって、そして、シルハーンがネアと出会って、グレアムが戻って来て、あんたも苦しそうにしなくなった。だからもう、憂いはなくなった。時折悲しいものを見るが、それは切り離せるものではない」
「そうだな。…………俺も、今は幸せだ」
「ああ。そう言えば今度、森でキノコ探しの祭りがあるんだ。その事を考えるとどんな時も楽しくなる」
「………狼の姿で?」
「そう。狼達だけが食べる、夜の祝福を宿した美味しいキノコがある。あの美味しさを知る事が出来ただけでも、狼として暮らしていて良かった」
「はは、そういうものなんだな…………」
これ迄のウィリアムは、ギードからそんな話を聞いても、こちら側では見たくない物を見る事が多かった彼が、伸びやかに生きてゆける場所なのだとばかり思ってきた。
実際に、魔物達だけではない他の種族でも、獣の姿で暮らしている者達は少なくない。
その姿にはそれなりの恩恵があり、また、野生のけだものになる事で研ぎ澄まされる領域を磨く事もあるのだと考えてきたのだ。
だがしかし、最近はとても複雑な思いがある。
それは例えば、リーエンベルクの廊下でボールを抱えたまま眠りこけているノアベルトな狐だったり、ネアの手の中で酔っ払って伸びきっているアルテアなちびふわだったりした。
ああして、あまりにも平素と違う有様を見せられてしまうと、さすがに困惑する部分もある。
では自分はどうかと言えば、緩んだり崩れる部分が僅かにあったとしても、あの二人程に獣としての習性に引きずられる事はなさそうだ。
やがて黒い靄が晴れる頃にはもう、災いの花嫁の姿は見えなくなっていた。
どこか困惑したように周囲を見回している隣国の王子の私兵達と、これを幸いと一気に攻勢をかけるアルビクロムの軍人達の姿がある。
災いの気配もいつの間にか消え失せており、夢から覚めたように普通の青空が広がっていた。
「俺はもういいようだ。ウィリアム、また今度な」
「ああ。その、…………祭りを楽しんでくれ」
辛うじてそう言えば、ギードは小さく微笑んでから頷き、転移を踏んで姿を消した。
狼姿の友人とキノコについては考えないようにし、ウィリアムは小さく息を吐く。
ここからは、見慣れたいつもの戦場で、あの災厄が姿を消せばもう、ありふれていて特別な悲劇の気配すらない。
(それにしても、……………こうして真昼の戦場に出るのは久し振りだな………)
大抵の場合、鳥籠が展開されるのは夜から朝にかけてで、戦乱には熟しきる時間があるのだと考えている。
最も戦局が変化しないのが真昼で、大戦が真昼に終結する事はあまりない。
災いが姿を隠した以上は鳥籠をかけ続ける必要はないのだが、もう一度だけ周囲を見回し、他には異変が起きていない事を確かめてから頷いた。
死者の行列の者達に指示を出し、剣を鞘に収める。
後はもう、死者達の回収が終われば帰路に就くばかりだ。
「ミグ!」
そんな声が聞こえてきたのは、そろそろ引き上げるかと考えていた時のこと。
眉を寄せて声がした方を見ると、珍しい終焉の系譜の鳥が地面からこちらを見上げていた。
(幕引き鳥か…………)
一応区分は鳥なのだが、この生き物は少しばかり竜にも似ている。
枯れた花を食べる害のない生き物で、凄惨さを欠いた戦場に派生する事が多い。
特定の種族には寄らず、どちらかと言えばあわいの怪物に近いものなのだとか。
「ミグ!ミギャ!!」
「……………悪いが、何を言っているのか分からないんだ」
系譜の王とは言え、さすがに鳥の言葉までは分からない。
そう言えば、足元の青い鳥は、ふっくらとした面立ちにどこか呆れたような表情を浮かべる。
何かに似ているなと思いかけ、ほこりに似ているのだと気付けば、悪食ではない事を祈るばかりだ。
ウィリアムが自分の言葉を解さないと知ると、その鳥は翼を広げてどこかに飛んでいってしまった。
もし、まだ飛べなかった場合は、系譜の王として拾って帰るべきかを悩んでいたので、どこかに行ってくれてほっとする。
(……………安堵?)
けれども、なぜ自分が安堵したのだろうと眉を寄せると、先程の鳥はどうにもネアの好みそうな生き物である事に思い至った。
青い毛皮に美しい飾り羽を持つ、どこか竜に似た丸い生き物など、万が一にでもリーエンベルクに持ち込まないようにしなければならない。
そう考えてしまう自分に気付き、ウィリアムは淡く苦笑する。
「ウィリアム様、こちらはあらかた撤収を終えました。そろそろ閉めて宜しいですか?」
そう聞きに来たのは死の妖精の一人で、長い黒髪がいつも少しだけアイザックを思い出させる。
死者達の回収の手際が良く、高位の死の精霊達が姿を見せない戦場では、現場の管理を任せておく事が多い。
「構わない。だが、西側の区画の死者達は、最初の一晩は二区に隔離しておいてくれ。あの障りの影響が残っていないかどうか、念の為に慎重に調べておこう」
「ではそのようにいたしましょう。先程の幕引き鳥は、連れて帰られますか?」
「…………俺が、か?」
「以前、アンセルムが、あなたの守護を得た人間は、小さな獣を好むようだと話していましたので」
「…………好みはするだろうが、持ち帰るつもりはない。幕引き鳥達の群れに入ったのなら、そのままにしておいてくれ」
「承知しました」
(……………あんなものを持ち帰ったら)
幕引き鳥の特性はともかく、その見た目にネアは喜ぶだろう。
だが、彼女の手があの鳥を撫でている様子を思い浮かべると、なぜか気分が悪くなった。
「……………ウィリアム様?」
どこか怯えたような声で名前を呼ばれ、何でもないのだと微笑んでおく。
一礼して立ち去る後ろ姿を見送りながら、無事に仲間達の中に受け入れられた幕引き鳥を視界に収めた。
(……………鳥、だよな)
どれだけ竜に似ていてもそれは鳥で、竜だったとしても、人型にはなれない獣のようなもの。
それなのになぜ、自分はこうも狭量になるのだろう。
こちらの回避ルートから抜けようとしていた異国の人間たちと遭遇してしまい、狼狽して襲い掛かってきた彼等を切り捨てながら、そんな小さな生き物に心を揺らした不可解さを思う。
(……………竜だから、…………いやまさかな)
ふと、霧竜になってネア達と過ごした僅かな時間を思い、眉を顰めた。
だが、相手はあの小さな鳥なのだ。
まさかそんな事はあるまいと、苦笑して首を振る。
背中を向けて戦場を去ると、その日は城に帰る事にする。
そこには、先日の薔薇の祝祭でネアに贈ったランプと同じ形をした薔薇が咲いていて、青白い光に花びらを燃やしていた。
深く深く溜め息を吐き、戦場の汚れを手で払い落とす。
足元でもろもろと灰になった戦場の澱を捨て、その花の灯りにそっと手を翳した。
「…………そうだな。今の俺は幸せだ」
こんな日は、貰ったランチョンマットを使って食事を摂るのがいいだろう。
今日であれば、出かけようと思えば出かけられたが、あの場所から得られたものを使って、ゆっくりと寛ぎたかった。
温かな食事を済ませると、久し振りに着替える事も忘れてぐっすりと眠った。
どうやら、スープに入っていた疲労回復の食材が思いがけず効いたらしい。
目を覚ましてから、やれやれと苦笑すると、あらためて着替えるべく服に手をかける。
視線を巡らせれば、薔薇を燃やす灯りは今もこの城を照らしていて、その光の輪の向こうに、ウィリアムにとっての安息の地である、リーエンベルクを思わせるのだった。




