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瓶の中と雪騙り




ふと、白い欠片が不自然に揺らぎ、エーダリアは目を瞬いた。


視界の端で揺れたその影を探り、視線を巡らせる。

しかし、窓の外には先日の雪が残るばかりで、今日も

雪が降り始めたという事はないようだ。



ひゅおんと風が鳴り、窓が揺れた。

今日は風が強いなと空を見上げ、そろそろ雨が降るだろうかと考える。

こんな日に窓辺で魔術を育みたい魔術書があるので、今日は少しだけ早く起きるのもいいだろう。



ゆっくりと伸びをして、その自由さに心が和らいだ。

寝台の端には、完全に仰向けになってしまった銀狐がボールに囲まれて眠っていた。

ノアベルト曰く、魔物の姿で眠るよりも短時間で熟睡出来るようで、その爽快感が病みつきなのだとか。


呼吸に合わせて毛並みが揺れ、時折、耳がぴくぴくと動いたり、前足がばたばたと動いたりもする。

温かな毛皮の生き物というだけでなく、ここにいるのは、当たり前のように寄り添う家族の一人でもあるのだと考えると、たったそれだけの事で目の奥が熱くなる。



(ヒルドがここにいて、…………)



かつては朗らかに微笑みながらも、瞳の奥に拭い難い悲しみを浮かべていたグラストが心から微笑み、ゼノーシュを抱き上げている。


ヒルドがネアの為に紅茶を淹れていたり、銀狐をブラッシングしている様子を見るのも好きだ。


全員で集まり食事をする時間もとても好きで、何でもない会話があちこちで生まれ、笑ったり驚いたりするその時間は、ゆっくりとお湯に浸かるように心を温めてゆく。




(……………あ、)



起き上がり、銀狐を起こさないように窓辺に歩いてゆけば、森の向こうを飛んでゆく雪竜が見えた。

ウィームの冬は長いが、春告げが終わり、初夏の気配が届く頃には彼らの姿を見る事もなくなるだろう。


泉結晶の窓は少しだけ曇っていて、澄んでいる部分と夜明けの冷え込みで曇った部分の間に、朝露が光っている。

伸ばした手の向こうには、人ならざるもの達とウィームの領民達が暮らす土地があり、窓枠で一枚の絵画のように切り取られていた。



今朝は、ゆっくりと過ごせる朝だ。

珍しく急ぎの執務もなく、予定がない為に遅めの朝食と出来た日なのだから、もう少しだけ外を見ていようか。


こんな余裕を持てるようになったのも、本来であれば何日もかけるような事案を素早く解決してしまう者達が近くにおり、調査の上で厳正な判断を下さなければならない事に助言をくれる家族がいるからだ。


例えば昨日に起こった祟りものの出現についても、吐き出した金貨で獲物を油断させると聞いたネアが飛び出してゆき、一刻程で狩ってきてしまった。


長毛の狸のようなその生き物の尻尾を掴み、誇らしげにこちらに見せたネアの笑顔を思い出し、何度考えてもどうやって狩ったのかが分からずに首を傾げる。


あの祟りものは、顕現する際には体を結晶化させており、決して珍しくはない祟りものながらも、討伐が困難な種の一つであった。



(掃除用のブラシの祟りものだからな…………)



日常生活に紐付いている道具は、頻繁に悪変したり祟りものになるものの一つだ。

利用者が多く、長年使われてゆく事で扱い方の悪い者に当たる可能性や、長年酷使された恨みなどが発現し易くなる。


だが、珍しいものではないからこそ対処法が確立されており、大抵の場合は顕現した場所で領民達が処理してしまう。


勿論、駆除及び討伐後は報告を上げて貰い、簡単な事例の蓄積は出来るようにしている。

細かな法令を定めていないのは、ウィームの領民達の多くが、それらの異変への対処法や、報告するべき事をよく理解しているからだ。



(だから、その中でも対処法が分かってはいるのだが、それを成すのが難しいとなると解決までに時間がかかるようになる…………)



以前であれば、討伐までには三日程かかっただろうか。


掃除用のブラシの祟りものは、硬い体でぶつかってくる以外の悪さはしないが、出現すると掃除が上手くいかなくなるので、あちこちに支障が出てしまう。

特に飲食業界には痛手となり、やはり発見次第に対処しなければならないのだった。



「……………っ、」



ここで、テーブルの影に落ちていたボールを危うく踏みそうになり、どきどきする胸を押さえて檸檬色のボールを拾い上げた。

昨晩は、銀狐がこの部屋中を跳ね回っていたので、他にもボールが落ちている可能性は高い。


部屋の中を見回して更に二つのボールを見付けると、執務室からこちらに移動させておいた銀狐用の籠に戻しておく。


この籠は、元々は銀狐の簡易寝台として用意されたものであるが、いつの間にかボール入れになりつつある。

だが、その上から銀狐が入っている事もあり、エーダリアかヒルドのどちらかの部屋に銀狐が泊まる際には、この籠も必ず一緒に持ち込まれるのだった。



しゃりんと小さな音がした。


おやっと振り返り反対側の窓側に並んだ小瓶を調べてゆくと、その中の一つがぼうっと青白い光を帯びている。


瓶の中に入っているのは、それぞれの資質の結晶石で、その日にどんな系譜の魔術が変動したのかを確かめるのに使っている。


領内での人々の生活への影響が懸念される程の変化であれば、流石に肌で感じるのだが、この小瓶で確かめられる僅かな変化は、繊細な魔術を扱う際に重宝するのだった。



(今日は、霧の系譜と風の系譜。だが、………風の系譜の魔術に見慣れない変化が出ているな………)



少し気になったので、その変化を記録簿に書き込んでおき、部屋に置かれたポットから温かな紅茶を飲んだ。


本当は冷たい檸檬水やラベンダー水が好きなのだが、最近になって温かいものを飲む機会が増えたのは、どこか、ここで大切な仲間たちと過ごす時間の穏やかさを感じられるからだろう。


子供の頃にヒルドがこっそり淹れてくれた蜂蜜と檸檬の飲み物は、実は今でも気に入っていて、よく飲んでいる。



(……………今日は、)



祝祭や季節の魔術などとの兼ね合いがあるのでと、料理人達と決めておいたメニュー表を確認すれば、今朝の朝食には温かなジャガイモのポタージュが出るようだ。

少しだけ嬉しくなり、唇の端を持ち上げた。


ヒルドが作ってくれる冷たいジャガイモのスープを飲んでから、ジャガイモのスープはどれも好きなのだ。



整理がまだだった魔術書を書架に戻し、朝の光が僅かに明度を増した部屋の中で、不思議な開放感を覚えつつ、のんびりとした時間を過ごす。

部屋には紅茶の香りが漂い、時折、銀狐がムグムグと寝言を言うのが聞こえてきた。



さて着替えるかと、うっかり座ってしまった椅子から立ち上がろうとした時の事だ。

窓の外をはらはらと舞い落ちる白いものに、ぎくりとして動きを止める。



勿論、このリーエンベルクの内部ともなれば庭とて不穏なものは入り込まないようにしてあるが、見慣れない気配と形をしたものに、本能的に体が強張ってしまう。

しかも同時に、寝返りを打とうとして転がった先がいけなかったのか、ムギーと声を上げて銀狐が寝台から落ちてしまった。



慌てて窓と寝台を見比べたが、外の異変はさて置きと銀狐の様子を見に戻る。

床に落ちた銀狐は、何が起きたのか分からないらしく、けばけばになって首を傾げていた。




「寝返りを打とうとして、寝台から落ちたようだ。怪我はないか?」


そう伝えてやると、こくりと頷き、少しだけ尻尾が振られる。

ぱさりと落としたままで力なく振られる尻尾が絨毯を撫でているのを見て、エーダリアは、ついつい銀狐を抱き上げてしまっていた。


だが、腕の中に生き物の温もりと重さが加われば、その安らかさに不思議と心が柔らかくなる。

こちらを見上げた銀狐からは、前脚でたしたしと腕を叩かれ、ムギムギと狐語で何かを訴えられていた。

恐らくだが、寝台から落ちた時の悲しみを訴えているのだろう。



「実は、窓の外に雪のような、だが風の系譜のものが舞っていたのだが、…………もうなくなっているな。何だったのだろう…………」



銀狐を抱いたまま窓辺に近付けば、銀狐は何を思ったものか、前足を伸ばして窓にぎゅっと押し当ててしまい、全身の毛をけばだたせて震え始めるではないか。



「っ、かなり冷たいと分かっていて、なぜ触れたのだ…………」



慌ててすっかり冷たくなった前足を掌で包んでやれば、涙目でこちらを見上げてくる。

だが、小さな狐の足跡が窓に残されているのを見ると、なぜか少しだけ心が弾んだ。



こつこつと扉が鳴り、おやっと振り返る。

銀狐を抱いたまま扉を開けると、そこに立っていたのは、既に身支度を整えたヒルドであった。



ふと。



ふと、こうして当たり前のように、まるで、家族のようにヒルドが部屋を訪ねてくる日々の贅沢さに、目眩がしそうになった。


腕の中には少し眠りかけている銀狐がいて、エーダリアはまだ寝巻きのままだ。

そんなエーダリアを見たヒルドが表情を取り繕わず、呆れたような優しい目で微笑む。


さらりと揺れた長い髪は一本に縛っており、腰には、見回りでもしてきたのか、サムフェルで取り戻した愛用の剣があるのだが、彼がその剣を手にしているのを見るのも嬉しかった。



「おはようございます。先程、雪騙りが観測されましたので、本日は窓をお開けになりませんように」

「………ああ、あれは雪騙りだったのか」

「おや、ご覧になられておりましたか。…………それと、ネイは、………寝ていますね」

「…………先程まで起きていたのだが、また眠ってしまったな。あれが雪騙りであれば、今日は風の系譜の祝福魔術が動いているので、問題のないものだと思う。午後からは、夜風の回廊の風通しをするのもいいかもしれないな」

「では、手配しておきましょう。確かにあの回廊には最近、夜風の系譜ではない風の気配が凝っておりますからね」



折角なのでと本日の仕事の伝達を終えてしまうと、ヒルドは短く頷く。

朝の光を透かした羽が淡く光るようで、こちらを見ている瑠璃色の瞳は艶やかだ。


その身に持つ魔術の系譜からか、こうして近くに立つと、深い森の中にある湖の畔に立ったようなえもいわれぬ清しさに胸が軽くなった。



「…………昨晩は、遅くまで魔術書を読まれておりましたね?」



伸ばされた手がそっと目尻に触れ、魔術遮蔽の眼鏡の跡が残っていたかとぎくりとする。

確かにいつもよりは長く魔術書を開いてはいたが、夜明け前には眠ったので気付かれないと思っていたが。



「い、いや、…………朝から執務のある日よりは、長く読んでいたというくらいだろうか」

「………朝食まではまだ時間がありますから、もう少し寝台に入られては?時間になったら起こしに参りましょう」

「だがもう、……」

「寝かしつけも必要ですか?」

「…………そうだな。もう少しだけ横になろう」



穏やかに微笑んではいるが、このような時のヒルドは決して譲らない。

いつだったか、ノアベルトがそんな友人について一つの秘密を明かしてくれた。



『ヒルドはさ、守る為に戦って守る為に隷属したのに、何も守れなかったっていう思いがあるんだよ。だからほら、今こうしてエーダリアを守れるのは、彼にとっての最高の贅沢で我が儘なんだ。甘やかしてあげるといいんじゃないかなぁ………』



そう教えられると、世話をかけてばかりではないかという申し訳なさも軽減され、こんな時のヒルドの頑なさに触れても、それが妖精の慈しみ方なのだと納得出来るようになった。


これがエーダリアの大事な妖精の安堵の仕方であるのなら、幾らだって叶えてやろう。

そう考えると、素直にもう少しだけ眠って体を休め、ヒルドの為にも健やかでいなければとあらためて考える。



「…………ヒルド、お前も少しは休むようにな」

「おや。私は、午後からは半日の休暇をいただいておりますが」

「だからだ。回廊の件も、午後までに手配を終えておく必要はない。一緒に行くと聞いているのだが、ゆっくりしてくるのであれば、ネイは私が預かろうか?」

「いえ、リーエンベルク内での事ですから、こちらの姿であれば構いませんよ。………エーダリア様、今日は良い朝でしたか?」



そう尋ねたヒルドが微笑んでいたので、エーダリアも微笑む。



「ああ。………いい朝だった。それにもう、こういう朝は珍しくはないのだ」

「……………ええ。そうですね」




ぱたんと扉が閉まり、エーダリアは抱いていた銀狐を寝台に寝かせると、指先で唇の端に触れた。



王都で過ごした日々は、奥歯を噛み締めることで表情が強張らないように、意識して表情を緩める事が多かった。

だが今は、ふとした折に緩む口元に、自分がどれだけ心を寛がせているのかを知る毎日。




「……………一人では、辿り着けなかった場所だ」



横倒しになって眠っている銀狐が、じたばたと足を動かしてまた仰向けになってしまうのを見ているだけで、また口元が綻ぶ。


誰かがいるからこそのその温度に、日々、どれだけ助けられている事だろう。



そんな喜びを噛み締めて、もう一度寝台に入った。



やがて、かつては寝過ごす事などなく、一睡も出来ない事があったエーダリアを見て、それでも何も言わずに頷くだけであったヒルドが、この部屋に起こしに来るのだろう。



エーダリアはゆっくりと眠り、ヒルドは、リーエンベルクを尋ねるアーヘムとお茶をする為に休みを取れるようになった。




(……………あ、)




はらはらと、窓の向こうに雪のような白いものが舞い散った。



雪騙りと呼ばれるその現象は、風や雨の系譜の者達が雪の系譜を騙るから起こるのだと言われている。

慶事や宴などで、或いは階位の高い捕食者から逃れる為に、階位に関わらずに白を纏える雪の系譜を真似るのだとか。



後者の場合は、鯨などが出る事もあるので、ヒルドは窓を開けないようにと言いに来たのだろう。

とは言え、そちらの予兆は出ておらず、小瓶の中の風の系譜の結晶石が光っている事も踏まえれば、慶事である可能性が高い。




自分の体温で暖まった寝具の中で、体を好きなように伸ばした。



時折、風が窓を揺らしているが、穏やかな朝である。

途中で、銀狐がまた寝台から落ちて起きてしまったが、体の疲れはすっかり抜け落ちていた。



















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