リノアールと秘密の買い物
その日はとても風の強い日で、その煽りを受けて最初の事件に巻き込まれたのはディノだった。
リノアールの入口のところで、強風に飛ばされてきた布怪人的な謎生物が顔にばしんと張り付いた魔物は、すっかりよれよれになってしまったのだ。
ネアは、しくしく泣いている可哀想な伴侶の頭を丁寧に撫でてやり、怖いと言うことをしっかり主張出来るようになったディノのおでこに口づけしてやる。
二人が座っているのはリノアールの休憩室で、上得意用の個室の一つなのだとか。
隣の個室には、ディノと同じように布生物に巻き付かれて失神したご婦人が寝かされているそうだ。
ふくよかな葡萄酒色の天鵞絨張りの椅子に座り、擬態した青灰色の髪の三つ編みの魔物は、すっかり小さく見えた。
「…………あんな布なんて」
「怖かったですね。すっかり髪の毛までぱさぱさになってしまって。あの、みぎゃわぎゃ暴れる布めは、私が滅ぼしておきましたからね」
「ご主人様…………」
「椅子になりますか?それとも、落ち着くまで手を繋いでいましょうか?」
「……………椅子かな」
「ふむ。こんなに怯えている伴侶ですので、椅子にするしかありません」
ネアは、まだ震えている伴侶の膝の上に座ってやり、ぎゅっと拘束する事を許した。
リーエンベルクの外ではあるが、ここは個室である。
こうしてしっかり抱き締めることで心が落ち着くのなら、いくらでも抱き締め給えと思うばかりだ。
幾ら万象の魔物とは言え、怖いものを怖いと言って震えられる心の柔らかさもきっと必要だろう。
こんな時、心の内側にあるものを吐き出して泣いてしまえる事ほど、その傷を癒す事はない。
くしゃりと肩口に埋められた頭をよしよしと撫でてやり、ネアはぱさりと落ちてきた三つ編みを握り締めた。
(……………でも、あんな生き物が、飛ばされてきてしまうのだわ………)
強風で飛ばされてきた布生物は、リノアールの警備員の見立てでは、冬蝙蝠の亜種であったらしい。
冬蝙蝠と、恐らく祝祭などで配られるパンフレットやチラシのようなものとの間に生まれた種だろうと言われ、ネアはとても困惑して頷くしかなかった。
ディノから引き剥がした布生物を丸めて捨てたのはネアだが、最後まで、どこから鳴き声が聞こえてくるのかは分からなかったし、顔らしき部分も発見出来なかった。
個人的には、選択の系譜の生き物かなと思っているので、今度捕まえたらアルテアに渡してみよう。
かちこちと、時計の針が動く。
商品店という場所柄、ここは個室ごとに時計が置かれていて、飴色の飾り棚の上には、優美な木の時計に絵付けがされたものが置かれていた。
硝子工芸に並びウィームの伝統工芸品の一つであるらしいが、地色が黒や深緑などの暗めの色の事が多く、淡い色調で部屋を統一しているネアは持っていないものだ。
こうして使われているものを見る機会は少ないのでと、ついつい、繊細な絵付けをじっくり鑑賞してしまう。
(…………まだこの様子となると、落ち着くまでには少し時間がかかりそう。早く、リーエンベルクに帰ってあげたいな)
このまま買い物を後回しにして帰る事も出来るが、小心者のネアは、この個室を借りてしまった手前、出来れば買い物は済ませて帰りたいと思っていた。
それに、ディノもこんな目に遭った以上は、伴侶が頑張ってくれたので無事に買い物が終えられたと言われた方が嬉しいだろう。
「ディノ、文具店の素敵消しゴムを買うだけですので、その間は、ムグリスになりませんか?きっと、早くリーエンベルクに帰った方が安心出来るのではないでしょうか?」
「…………君が攫われるといけないから、いいかな」
「むむぅ。でも、すっかりへなへなの伴侶が心配なのです。その、……………複合商店なので、道中には布関連のお店もありますし………」
「ひどい…………」
「ほら、そんな風に悲しくなってしまうでしょう?やはり、ムグリスなディノになって隠れていた方が安心出来ますよ?」
だが、それだけではディノは頷けないようであった。
何しろ、つい先程の自分が、布生物に襲われたばかりなのだ。
可動域が上品な伴侶を、リノアールとは言え、一人で歩かせる訳にはいかないらしい。
とは言えやはり、ではこのまま帰ろうかと尋ねると涙目でふるふると首を振って健気にも立ち上がろうとするので、ネアはすっかり困ってしまった。
(リノアールの中では、一応転移は禁じられているし、文具店までの道中には布屋さんや、衣料店もあったから…………)
そんな問題を解消してくれたのは、美しいクリスタルの水差しに入った冷たい夜雫の水を持って来てくれたリノアールの従業員であった。
淡く、けれども酷薄にならない柔らかさで微笑んだ女性は、漆黒の燕尾服姿の執事のような服装が特徴だ。
リノアールのお客様担当は男女共にこの装いで、年間に一定額以上のお買い上げのある顧客や、特定の階位のお客であれば、お買い物にも付き添って貰う事も出来る、リノアールの上級職員である。
リノアールの商品の潤沢な知識と、驚く程のお客様情報を持っている事から、諜報員顔負けの情報網があると言われているそうだ。
「おや、であれば、ご面識のある方をお連れしましょうか?」
「……………面識のある方と言うと、我々とでしょうか?」
「勿論でございます。恐らく、会の方が何人かおられるでしょう。私はエーダリア様の会に属しておりますが、同僚にそちらの会の方に詳しい者がおりますので、すぐに手配いたしましょう」
「か、かいはありません…………!」
「うふふ、では、ご内密に打診させていただきますね。少々お待ち下さいませ」
「か、かいはないのでふ!!!」
悲しい声を上げた人間は、その恐ろしい計画を止めようとはしたのだ。
けれども、素敵な微笑みを残してさっと立ち去ってしまったその女性を引き止める事は出来なかった。
「……………何の騒ぎですかね」
そして、数分後に連れてこられたのは、おや、どちら様ですかという謎の男性であった。
ネアは目を瞠って、これは初めましての誰かなので連れて来てはならないのだと首をふるふるしたが、その男性を連れて来てくれた青年は、とてもいい笑顔でご主人様お納め下さいと言うではないか。
しかし、あんまりな公開処刑の仕打ちにぎゃっとなったネアが素早くそちらを向く迄に、その青年は扉の向こうから伸びてきた誰かの手に掴まれ、物凄い勢いで連れ去られて行ってしまった。
そして、上客用の個室の前に立った紫がかった砂色の髪を黒いリボンで一本結びにした背の高い男性と、その男性を見上げて呆然としているネアが残される。
なお、弱り切った伴侶は、ムグリスにならせて胸元に設置完了した後だ。
時々ぴるると震えているので、まだ心の傷が癒えていないらしい。
「シルハーンはどうしたんだ?」
「…………むぅ。ディノのお知り合いの方ですか?」
「お前がハイフク海老を食べる現場にもいたがな」
「グラフィーツさんでした!初めましての擬態はとても紛らわしいのです…………」
どうやら、先程の青年が捕まえてきてくれたのは、擬態している砂糖の魔物であったらしい。
よく見れば、青藍の瞳はそのままだ。
ザッカムの事件ですっかり先生な存在になってしまったグラフィーツなので、ネアはほっとして唇の端をふにゃりと緩ませる。
「……………キュ」
胸元から顔を出したムグリスディノも、グラフィーツであればと納得したようだ。
ちびりと顔を出して伴侶の同伴者に相応しいのかを査定すると、もぞもぞと胸元に戻ってゆく。
(グラフィーツさんなら、安心かも。…………特に、こういう装いの時なら)
上手く説明出来ないし一方的なものなのだが、この魔物はいつの間にか、離れて暮らす祖父くらいの親しみを覚えるような存在になったのだ。
ザッカムで、自分を抱えているグラフィーツが槍に射られた時の事は、今でも鮮明に思い出せた。
あの時に、ぎゅっと背中に回された手の温度は、ネアのよく知る魔物達とは違う、遠い昔に失くした家族の温度に似ている。
グラフィーツがネアの額縁を通して自分の歌乞いを思うのなら、ネアにとってのグラフィーツは、前の世界の家族を垣間見せてくれる額縁なのだった。
「まずは、布怪人的な生物めにディノが襲われた話をしなければなりません」
「始まりから様子がおかしいが、話してみるといい」
ここでネアは、上品な漆黒の装いの砂糖の魔物に、同行者を求めていた事情を説明した。
こうして落ち着いた装いだと身に纏う雰囲気が似ているものの、アルテアのように叱るでもなく無言で聞き終えたグラフィーツは、短く頷く。
「リノアールを出たところで、シルハーンが擬態を解くんだな?」
「はい。ただし、リノアールの中は、布生物的な危険が高過ぎるので、少し休んでいて欲しいのです。お外に出れば、帰り道は転移が使えますしね」
「それくらいであれば、同行しても構わないが。…………少し待て」
「ぎゃ!こちらを見ながら、携帯用のおやつ砂糖を食べるのはやめるのだ!!」
きゅぽんと小さな水筒のようなものを開けたグラフィーツが、さっそく銀のスプーンでじゃりじゃりとお砂糖を食べ始めてしまったので、ネアは慌ててじりじりと後退する。
だが、グラフィーツは警戒してぐるると唸ったネアが反撃する前に、おやつ砂糖を食べ終えたようだ。
「お、おのれ、謎のお砂糖を食べる為に利用するなど許すまじ………」
「カルウィ近くの土地で育てた、聖女のものだ」
「ぎゅ。お砂糖の経歴は必要ありません………」
「そもそも、この恩恵がなければ俺の利点がないだろう。何の為に快諾したと思っているんだ」
「あまりにも可憐な乙女が困っている事に、悪い野性の魔物さんもついつい心を動かされ、善行を積んでしまうのですよね?」
「…………で?買い物に行く店は?」
「文具店の消しゴム売り場です。消したいものは悲しい過去の思い出まで消してくれる、ジッタさんの消しゴムが売っているのですよ」
ネアがそう言えば、どうやらグラフィーツは、ジッタ氏を知っていたらしい。
高位の魔物の、それも人間をお砂糖にして食べてしまう魔物らしからぬ愕然とした面持ちで、ゆっくりとこちらを見た。
「……………あいつはパン屋だったんじゃないのか?」
「偶然開発してしまった消しゴムを売る為に始めた、ジッタさんの副業なのだそうです。パン印の消しゴムは、時として悪い術符ですら無効化する、とても素敵なものなのですよ」
「さもありなん、か。ウィームの住人なら、それくらいの事はやりかねん」
「…………む」
ここでネアは、差し出された手をじっと凝視する。
アルテアやウィリアムと一緒の時も手までは繋がない事もあるのだが、グラフィーツは手を繋いでおけと言いたいようだ。
「…………手は繋がなくても」
「子供を、一人でちょろちょろさせておく訳にはいかないだろう」
「立派な淑女なのですよ………?」
「ピアノを弾く際に必要なリズムは壊滅的だがな。レッスンは続けているのか?指先の動きにリズムを記憶させれば、あの状態からでも多少は改善の余地がある筈だ」
「む、むぎゅ…………ぐるるる!」
きっと、休憩用の個室から出てきたネアは、遠い目をしていた事だろう。
手を繋いだグラフィーツからは、前回のピアノレッスンの際に露見した弱点について説明され、その後、練習を続けているのかどうか厳しく追及されている。
思わぬところで先生に遭遇してしまった哀れな生徒の目で連れられてゆくネアを、先ほどの女性従業員が優しい笑顔で見送ってくれた。
グラフィーツを連れてきてくれた青年の姿は見えないが、きっと明日は元気に通勤してくれると信じている。
休日のリノアールは、賑わっていた。
行き交う人々が少し安堵の表情を浮かべているのは、風の強い外から屋内に入れたからだろう。
高い位置にある天窓の向こうに、びゅんと飛ばされてゆく竜の姿を見付けたので、相変わらずかなりの強風なのは間違いない。
(……………こうして見ると、お父さん…………みたいなのかしら?)
手を繋いで歩いているグラフィーツは、擬態して端正な佇まいではあるものの目を引くような美貌ではない、普通の男性風の姿になっている。
ザハのおじさま給仕に擬態しているグレアムとは違い、容姿的な年齢はせいぜいがグラストくらいの年代に見えるものだ。
だが、不思議とこうして手を繋いでいると、例えばネアの伴侶や恋人には見えないのだった。
それは、ネアがグラフィーツに対して感じる事というよりは、二人の会話の距離感や、互いに向ける表情からのものもあるのかもしれない。
「グラフィーツさんも、リノアールは使われるのですね」
「必要なものを買い出しに来る際には、リノアールだな。自分の買い物となると、アクスはあまり使う気になれん」
「確かにそうなると、リノアールに来てしまえば一度に色々なものが手に入りそうです。……………むむ、このカードは新作…………」
「やれやれ、孫との散歩みたいなものか…………」
「しゅくじょです……………」
とてもとても不思議な事だが、事件ではないこんな普通の時間を共に過ごすと、グラフィーツは、とても話し易い相手であった。
空気感としてはアルテアに似ているが、アルテアとノアの中間といった感じで、面倒を見つつも、程よく気にならないところは放任してくれる。
(……………この人は、こうして誰かに寄り添う事に慣れているのだわ)
歩幅や、手の繋ぎ方。
こちらの視線を辿って、商品棚に向かってくれる手際の良さや、品物の説明や他の品物の提案。
一緒にいれば、そんなグラフィーツがかつて誰かを慈しんだ経験がそこに残るのはとても明白で。
ネアは、砂糖の魔物が、かつて大事な歌乞いと過ごした日々をまた想像してしまう。
しかし、その過去を思うとどこかほろりと甘い、不思議な程に優しい時間は、唐突に打ち切られる事となる。
お買い物の狂乱が、ネアの心を訪れたのだ。
「……………ほわ」
ネアが茫然とした面持ちで足を止めたのは、リノアールの特設販売会場だ。
上層階にある文具店は、休憩室とはフロアの端と端の位置関係にあたる。
その中間地点となるここはかつて、毛布の争奪合戦が繰り広げられた場所で、半月ごとに色々な催しが行われているのだ。
そして今は、ラベンダー色やミントグリーン、クリーム色や水色などの、淡い色合いの繊細なレースが心を奪い取る、素晴らしいランジェリーショップが鎮座していた。
こっくりとしたチョコレート色の店の外観といい、優美な文字の看板といい、女性用下着という趣きよりは高級ランジェリーショップらしいどこかロマンティックな雰囲気のある、上品でお洒落なお店だ。
(……………か、かわいい!!)
ネアは目を瞬き、かつて、生まれ育った世界では憧れたものの、一ヶ月の生活費かなという値段に慄いて撤退した店を思い出し、思わず一歩前進してしまう。
「……………こら」
「…………は!…………つ、ついです!」
低い制止の声にぎくりと立ち止まり、ネアは慌てて淑女の微笑みを貼り付け直す。
確かに、伴侶や家族ではない魔物を連れてランジェリーショップに入ってはいけないだろう。
アルテアやウィリアムあたりなら気にならないが、さすがにグラフィーツはそこまで親しい間柄ではない。
しかし、ここは自制心であるとしずしずと居住まいを正した後で、密かにいいなと思っていた商品をラックから外してお会計に走ってゆくご婦人を見てしまい、ネアは、あまりの悲しさにわなわなと打ち震えた。
高級な店構えなだけあり、この店の商品はどうやら一点ものばかりのようだ。
おまけに、店に入った女性達から、安いというような感動の声が聞こえてくるではないか。
無言で足踏みをし、胸元の伴侶からすぴぴという寝息を感じたところで、ネアは一つの重大な決断を下した。
「……………先生は先生なのですから、異性としては区分されません」
「何の為にその判断をしたのかは見えたが、ここで恥じらうという選択肢は、お前にはないんだな?」
「……………一点ものです。そして、お買い物は戦争なのですよ?」
「……………はぁ。別に俺としてもお前を女として意識なんぞしないが、外部から見るとどうかと思うぞ」
「いってんもの…………」
「やれやれだ。…………買いたいんだな?」
「はい!」
どこか諦めたように溜め息を吐いたグラフィーツに、目的の為なら手段を選ばない人間は、今の内だぞと、いそいそとランジェリーショップに向かう。
手を繋いだままなので、当然グラフィーツも入店してしまうが、店内には夫婦や恋人達らしき二人連れも少なくはない。
これは悪目立ちもしないようだとほくそ笑んだネアは、早速お目当てのラックを攻略しようとしたところで、奥にも素敵な下着が沢山ある事に気付いて目を瞠った。
真鍮の色の繊細な金属の細工の商品棚に、専用のハンガーにかけられた下着がぶら下がっている。
レースや天鵞絨、可愛さに甘くなり過ぎない上品なリボンに、小さな一粒石。
どれを見ても、溜め息がこぼれそうな程に素晴らしい商品ばかり。
「……………ふぁ。なんて繊細で可憐なものばかりなのでしょう!こ、これは肩紐が天鵞絨のリボンのようで、とても可愛いです。白水色な色合いも素敵ですし……………お値段が、」
吊るされた値札を見たネアは、思わず、目を閉じてからもう一度確認してしまった。
ザハの晩餐くらいの値段はするのだと思わせるこの品物が、まさかの運河沿いのお店のランチの値段で買えるらしい。
寧ろ、このくらいの値段のものであれば、中くらいの価格帯のクッキー缶よりも安価な程だ。
(ほ、掘り出し物だわ!!!)
掘り出すも何も、こうしてリノアールの催事場に目玉のお店として出店しているのだが、ネアはこんな幸運を掘り当てられた自分を沢山褒めてあげたくなる。
おまけに、大はしゃぎを隠しもしなくなったネアに、肩を竦めたグラフィーツが、素晴らしい格言をくれた。
「安いと思ったのなら買っておけ。後で、後悔しても同じものは売っていないんだろ」
「…………グラフィーツさんとのお買い物が、とても素敵だと思った一瞬でした。使い魔さんは、すぐに叱ってくるのですよ?」
「アルテアは過保護過ぎだ。多少のものは、過分に与えたところで、毒にもなりはしないだろうにな」
「うむ。そのお言葉を是非に、使い魔さんにも聞かせて差し上げたいですね。…………こ、このラベンダー色のものは、絶対にお持ち帰りです。……………ぎゃ!!サイズが…………。くすん」
この店のランジェリーは、同じデザインのものはそれぞれ各サイズごとに一つしか作りがないらしい。
ネアは、お目当てのデザインのもののサイズがない事に気付き、悲しく鼻を鳴らしながら、それでも諦め悪く、一つ小さなサイズのものに手を伸ばそうとした。
「サイズ違いはやめておけ。どうせ使わなくなるだろうが」
「…………ふぁい。私のラベンダー色が………」
「同じような色合いなら、こちらにもあるぞ」
「は!………こ、これも大好きです!!」
この辺りからもう、邪悪な人間は一刻も早くリーエンベルクに帰りたいという当初の目的を達せられなくなりつつあったが、胸元で温められたムグリスディノがすやすやと眠ってくれていたので、これ幸いと買い物を続けた。
けれども、合計で四組のランジェリーと、素敵な部屋着の組み合わせまでを強欲に買い占めたネアの幸運は、どうやらそこで尽きてしまったらしい。
お目当てだったジッタの消しゴムが、観光客に買い占められて完売していただけでなく、その売り場で、今ばかりは会ってはならない人に会ってしまったのである。
文房具店の、それもまさかの同じ消しゴム売り場で出会ったのは、淡い灰色のスリーピース姿の青灰色の髪の男性だ。
こちらも初めましての擬態をしているが、明らかに見覚えのある靴を履いている。
そしてこの杖となると、もう間違いはない。
「……………ほお?おかしな組み合わせだな」
「………なぜ、よりにもよってのここで、アルテアさんと遭遇してしまったのでしょう」
「ふむ。アルテアがいるなら、俺はお役御免だな。この後で食べる予定のケーキは、使い魔に付き合って貰うのが妥当だろうよ」
「ぎゃ!ケーキ計画をばらすのはやめるのだ!!」
「…………まさか、その紙袋の店に、グラフィーツと入ったんじゃないだろうな?」
「…………むぐ!消しゴムが買えなかった怒りを、私に向けるのはやめていただきたい。そして、頬っぺたを解放し給え!!」
「お前の情緒が空なのは知っているが、まさかここ迄だとはな………。経緯を説明して貰おうか」
「…………で、では、あちらの喫茶店などで」
「ケーキはなしだぞ」
「何という邪悪な魔物なのだ。こうならば、予定通りに先生と……………いません」
ネアはここで、狡猾にも砂糖の魔物は先生なのだと主張したのだが、助け舟を出して欲しかった同行者は既に姿を消していた。
(後で、ディノに頼んでお礼をして貰おう…………)
想定外の買い物もしていたので、時間にするとなかなかに付き合ってくれていた事になる。
グラフィーツも、自分の買い物に戻ったのだろう。
「では、わたくしめも…………」
「どこに行くつもりだ?お前はこっちだろうが」
「そろそろ、…………お家に帰ろうかと思うのですが…………」
「それなら、リーエンベルクで話を聞く事になるだけだぞ?」
「…………む、むぐ!では、あちらの喫茶店にしましょう。美味しい林檎とカラメルのケーキがあるので、消しゴムが買えなかったアルテアさんに奢って差し上げますね」
ネアは、たいへんによく懐いた使い魔にそう申し出て、何とかケーキにありつこうとした。
しかし残念ながら、使い魔ではない魔物とランジェリーショップに入ってしまったご主人様に荒ぶる選択の魔物のお許しが出ず、ケーキを注文する事はとうとう最後まで許されなかったのだった。




