紐犬と乗り物
小さな星が一つ、しゃりんと落ちて来た夜であった。
ネアは、足元に転がった星屑に目を瞠り、きらきらしゅわりと煌めく小さな石の欠片のようなものを拾いたい衝動に駆られ、ぎりぎりと眉を寄せる。
だがしかし、このようなものに不用意に触れてはいけないと再三言われ続けているのだ。
勿論手を出すような真似はせず、その代わりに綺麗だが拾って持ち帰れないのだろうかとじっくり凝視する。
落ちてきた星は、雪の積もった石畳の上で、ちらちらと揺れる光の影を描く。
それが堪らなく美しく、いつもの夜より暗く感じるウィームの街ではとっておきの宝物のように思えた。
すっかり心を奪われてしまったネアは、隣に立ち、なぜか手を繋いでいる魔物を見上げた。
「アルテアさん、この星屑は……………」
「囮星だ。触れないようにしろ」
「囮星……………」
「精霊の好む呪いの一種だな。上を見てみろ。流星雨でもなく、他に流れる星もない静かな夜だろうが。こんな夜に突然降って来る星屑は、大抵が釣り餌のようなものだからな」
そう言われて見上げた空は、晴れているのに星の瞬きが少ない。
澄んだ黒色の空は黒曜石のようで、地平に触れるあたりでぼうっと青白く淡くなる。
「……………まぁ。確かに、今夜の空はとても静かですね。星が降って来る気配は感じられないように思います」
「予兆のないところに、魔術は成り立たない。となると、これが不自然なものだと分かるな?」
「むぐぅ……………」
「人間は、このようなものにも恩寵を求めたがって自滅する事が多い。言っておくが、こんな稚拙な罠に引っかかるのは、下位の生き物か人間くらいだぞ」
そう言われてしまうと引き下がるより他になかったが、ネアは、きらきらぴかぴかするものは、総じて拾ってしまうというたいそう強欲な人間であった。
悲し気に息を吐き、こんなものを囮として放り込んできた精霊は滅んでもいいに違いないと考える。
うっかり姿を見せるようなことがあれば、すかさずきりんボールを投げつけ、恨みを晴らしてみせよう。
夜は変わらずに暗く、けれどもそんな暗い夜にもウィームの街は囁きのような煌めきを灯して美しかった。
不穏さにはその彩りがあり、隣を歩く魔物の美貌の残忍さを思えば、こんな夜こそが相応しいのかもしれない。
こつこつと、時折露出する石畳に、アルテアの踵が鳴る。
春告の季節が近付いてきたからか、降り積もっていた雪の層はだいぶ薄くなった。
そんな美しいウィームの冬の終わりを感じるとネアはついつい寂しくなってしまうが、代わりに、街角の花屋には春らしい明るい色合いの花々が並ぶようになった。
けれども、昼間には色鮮やかな花を並べる店も、この時間は流石に閉まっている。
「ったく。紐犬なんぞ、いないだろうが……………」
「まだ、探し始めたばかりではありませんか。紐犬さんは、先程からウィームのあちこちで目撃されているものですので、どこかに隠れているだけで、きっと出会える筈なのです。それに私は狩りの女王なのですから、あやつを捕らえるのは私に違いありません」
「そもそも、お前はいつ女王になったんだよ」
「最初から……………?」
「おかしいだろ。よく考えてみろ」
ネアは、偉大なる狩りの女王なので致し方ないのではと首を傾げたが、同時に街並みを鋭く見回すのも忘れずにいた。
こうして使い魔と夜の街を歩いているのは、何もお夜食を求めて彷徨っている訳ではない。
本日の夕刻頃から目撃情報が上がっている、紐犬と呼ばれる、謎のにゃわめいた生物を捜索しているのだ。
これは、リーエンベルクからの正式な任務なので、本来ならディノとする筈の仕事である。
だが、残念ながら伴侶の魔物は現在別の作業にかかりきりで、急遽使い魔が招集されたのだった。
(……………ディノは、無事にノアを解凍してくれたかしら)
ディノは今、別の事件の収拾にあたってくれている。
保冷庫に向かうヒルドの後を追いかけてゆき、はしゃいで飛び跳ねてその中に落ちた銀狐の解凍に勤しんでいる筈だ。
エーダリアとヒルド、他の騎士達までもがこの紐犬騒動で手が離せなくなってしまったのだが、であればとそちらをアルテアに任せると、保冷庫に展開された氷室の魔術を脱ぎ去らねばならない銀狐は、その正体が不本意な形で露見してしまう。
そうなる以上、解凍係をディノに命じ、ネアは使い魔と連れ立って街に繰り出すしかなかったのだ。
「そもそも、障りが出た訳でもないのに、急いで見つけ出す必要があるのか?」
「むぅ。そやつは、窃盗犯なので捕まえなければいけないのです。何しろ、このウィームの素敵な街燈の結晶石を盗む悪い奴なのですよ」
「街の騎士で対応出来るだろうが」
「しかし、窃盗犯を取り押さえようとした街の騎士さんを一人食べてしまいましたので…………」
「……………は?」
探しているのが思っていたよりも獰猛な生き物だと知り、選択の魔物は立ち止まってみたようだ。
まじまじと見つめられて困惑していると、なぜか指先でおでこをぱしんと弾かれる。
なお、本日のアルテアは、僅かに青みがかった灰色のいつものスリーピース姿だが、帽子や杖も含めた装飾的なものは一切なく、少し寛いだ装いだ。
とは言え、迷子防止靴をしっかり履いているし、リンデルも装着済みであるので事故防止策もしっかりとなされている。
「むぐるる……………」
「おい、それは最初に共有しておくべき事柄だろうが。いいか、お前は事件が解決する迄はこの手を離すな。それから、見付けても勝手に狩るんじゃないぞ」
「おのれ、私とて咎竜を狩るくらいの力量のある、狩りの女王なのです………!」
「得体が知れないどころか、この土地の騎士を食えるのなら、悪食の可能性もあるのを忘れたのか?」
呆れたような声音でそう言われても、だからと引き下がれない事情がネアにもある。
そんな思いがあまりにも尊く示されてしまったからか、アルテアはひたりとこちらを見た。
「しかしこれは私のお仕事で、アルテアさんは、ただ同伴してくれるだけだとお聞きしています。それだけでもとても助かってしまうのですから、この上捕縛までをも任されるとなると、付き添いだけだとお願いしているアルテアさんの負担が、あまりにも大き過ぎると言わざるを得ません」
そんな返答を返すと、選択の魔物はふっと気配を揺らした。
こちらを見ている赤紫色の瞳は、夜の中ではどこか不穏な光を孕む。
だが、すぐに狩りに出てしまう人間を逃がさないように捕まえている腕に力が籠れば、ネアは、今の選択の魔物を怖いとは思わなかった。
続いたのは小さな溜め息で、ネアは、使い魔を慮った筈なのに何が問題だったのだろうかと首を傾げる。
「……………ここまで同行させておいて、その線引きは必要ない」
「むむぅ。アルテアさんが、紐犬さんを捕まえてくれるのです?」
「だが、正式な任務だというのなら、確かにリーエンベルクの主従契約に結ぶのも厄介だ。そちらは、あくまでもお前の獲物として届けるよう魔術契約を結べば問題ない」
「猟犬とご主人様的な…………」
「ほお。パイはいらないんだな?」
「な、なぜパイを取り上げようとしているのです?もしかして、森に帰り…」
「よし、黙れ」
「ぐるる………」
大切な生体機能を封じてくる魔物を威嚇する人間に、すっかり渋面になってしまった魔物になぜかもう片方の手を差し出されたネアは、捕獲されてなるものかと、さっと横に逃げた。
アルテアの眉がぴくりと持ち上がったが、現在はお仕事中なので、ここで捕獲される訳にはいかない。
「……………おい」
「おのれ、なぜ乗り物になろうとするのでしょう!今は、大切なお仕事の最中ですし、私は紐犬さんの捕縛に参加しないのだとしても、せめて、紐犬を探し出す役割は担い続けようと思っております!」
「手を繋いでおくだけでは、到底心許ないからだな」
「ぐるる…………」
「いい加減お前は学べ。…………っ、逃げるな!」
「お仕事中に使い魔さんを乗り回す程、私は世間体を気にしない人間ではないのです!………ぎゃ!」
何とか自立歩行を主張したネアだったが、すぐにアルテアに捕まってしまい、悲しい唸り声を上げながら持ち上げられることとなった。
あまりの屈辱に唸り声を上げ続ける人間を運びながら、アルテアは、まるで目的地でもあるかのように、すたすたと歩いてゆく。
現在の時刻は、遅めの晩餐の時間を過ぎた頃合いだ。
本来なら、通りは外食帰りの人々で賑わっていたりするのだが、まるで深夜のように人通りが少ない。
飲食店を見回せば店内には客が入っているようなので、店などの外に出る際には気を付けるようにという注意喚起がきちんと行き届いているらしい。
(誰かがその紐犬が街灯の結晶石を盗んでいるのを発見して、更には、街の騎士さんに報告が入って捜索にかかるまでの時間もあったとは思うから…………)
その間に、注意喚起を徹底する時間は確かにありそうだ。
そう考えてこくりと頷いたネアは、やはり目的地がありそうなアルテアの歩みに、眉を寄せた。
「……………もしかして、紐犬さんの居場所を掴んでいるのですか?」
「そもそもの気配が追えないにせよ、人間を食うようなものの向かう場所はある程度限られてくる。土地の魔術の属性や傾向があるからな。となると、この通りにはいないだろう」
「ふむ。そうして捜索する場所を絞り込んでゆくのですね」
「街灯の結晶石を盗んでいたのなら、そこでも一つ傾向が見えるな」
言われて見れば確かに、暗闇を好むような生き物であれば、中の結晶石を盗むよりも、街灯そのものを壊すだろう。
事件捜査の醍醐味ともいえる推理に心を躍らせつつ、ネアは、アルテアの向かう先にあるのが、リノアールなどの高級商店の並ぶ区画であることに気付いた。
その奥には、街の中心部の瀟洒な住宅地も広がる、需要の高さに反してなかなかに閑静な区画となる。
かつんかつんと靴音が響き、ネアは眉を顰めた。
そろりと地面を見下ろせば、明らかにこの歩道だけ雪がなくなっている。
剥き出しになっている石畳には、どこか不自然な乾き方があった。
石と石の隙間から咲いた小さな花も、夜だからか、項垂れて蕾を閉じている。
「運河沿いや森の方ではなく、街の中心部に潜んでいるものなのでしょうか………」
「命名の形状を踏まえると、灯り取りや、隙間食いの亜種の可能性が高い。寧ろ、人間の作り上げた街並みがなければ派生しないものだ」
「ふむふむ。森に暮らしているような生き物ではないのですね」
やはりこちらの区画でも外出が警戒されているものか、人通りは少ない。
立ち並ぶ高級商店は時間的に閉まっているが、いつもなら、美しく飾り付けられたショウウィンドウを眺めに来る妖精や竜達の姿がある筈だ。
この区画の店々は、夜になると窓辺が人ならざるもの達の美術館にもなっている。
人間たちが眠る時間には、その時間を領域とする者達が息づいているのだった。
(それなのに、…………人外者も?)
ウィームに暮らす彼等には、高位の者達も多い。
そんな者達までが、リーエンベルクからの指示に従い、紐犬を恐れて外出を控えたりするのだろうか。
ネアが聞いている情報では、銀狐大から仔馬大くらいの紐っぽい薄長い毛皮の生き物なのだという。
人間を食べてしまってはいるが、人型の人外者達であれば然程警戒する必要はないと思うのだ。
人気のなさを不思議に思いながら、まだ夜空は暗いのだなと顔を上げた時だった。
「……………ほわふ」
ネアは、静かな声で驚愕を示しつつ、これは幻かなと片手で目をごしごしした。
しかし、目の前の三階建ての石造りの建物の屋根に巻き付いた、にやにやと三日月の口で笑うマフラーのような生き物はまだそこにいる。
とても暗い場所に陣取っているのでその輪郭は曖昧だが、墨色の体によく光る金緑の瞳をした、猫のような瞳を持つ生き物だ。
毛皮のマフラーのような形状で、ゆったりと揺れる尻尾も猫のようだし、寧ろ、誰が紐犬と名付けてしまったのか謎だと言わざるを得ない。
紐猫が正しいのではなかろうかと、ネアは混乱した思考の片隅で思った。
そんなネアの視線を辿り、顔を上げたのはアルテアだ。
「…………は?」
「お、驚いていてはいけません!あやつめを捕まえて下さい!!たった今、明らかに街の騎士さんのものと思われる装備をぺっと吐き出したので、あやつが犯人なのは明白です!!」
「この系譜の生き物は、どれだけ育っても森竜の子供くらいにしかならない筈たぞ。………何でダナエより大きいんだ」
「その問いかけだけでもう、たいへん厄介な状態だと察しました………」
屋根の上に巻きつき体を固定している生き物は、ネア的な基準で説明すると、クッキー祭りの最後に現れるクッキーの巨人くらいの大きさであった。
ネアとしては、最大値でも仔馬くらいの大きさのものと認識して探していたので、この巨大さは想定外である。
ふるふるしながら乗り物にしっかりと掴まると、まだ呆然としているアルテアの頭を、そっと撫でてみる。
「……………やめろ」
「これは、ご主人様から使い魔さんへの、激励なのですよ?私にはどうにも出来ない大きさだと判明しましたので、予定通り全てお任せしますね」
「…………くそ、妙な餌をやった者がいるな」
「食べ物であそこまで育つと知り、驚きを禁じ得ません……………」
「食べ物とは限らない。燃料のようなものを与えても育つからな。………そもそも、あの図体のものが、どこから出て来たんだよ」
「言われてみれば、そうですよね…………。あの大きさで街中を闊歩したのであれば、とうに建物が滅茶苦茶になっていそうなのですが、……………もしや、体自体は軽いのでしょうか?」
「かもしれんな。……………やれやれだ。獲物として、目を付けられたようだぞ」
「むぅ。確かに騎士さん一人では足りない大きさだとお見受けします。激辛香辛料油………」
屋根の上の紐犬は、ネア達を見下ろしてウシシとほくそ笑んでいる。
むっとしたネアが、であればいい調味料があるぞとポケットをごそごそしている間に、アルテアは何か別の物を準備したようだ。
視界の中でくるりと回された白い杖におおっと目を瞬いたところで、その杖はどこかに消え失せてしまい、代わりに手に現れたのは一冊の魔術書である。
装飾の多い豪奢な魔術書には、どこか見覚えがあるような気がした。
アルテアがそのようなものを使うのは珍しいなと思って見ていれば、片手の上で器用に開かれた魔術書は、風に煽られるようにしてぱらぱらと頁が捲られてゆく。
(……………あ、)
ネアは不意に、この魔術書のようなものをどこで見たのかを思い出した。
ざざんと風が揺れるような音が聞こえ、屋根の上の紐犬を囲み、虚空に青白く光る水紋のようなものが幾つも描かれる。
はっとして振り返れば、アルテアの頭上には聖人の光輪のような光の装飾が現れ、けれども、暗い街の中で赤紫色の瞳にぼうっと暗い光を宿した魔物の背後にそんなものが現れると、聖なるものが穢れたような気持ちになってしまう。
聖衣というものには意味があるのだ。
ネアは唐突に、そんなことを思い知らされる。
あの装いだからこそ退けられる暗さや異端さがあり、かつてこの魔術を使ったリシャード枢機卿とて、決して聖人君子のような外見ではなかった。
それなのに、あちらは確かに聖職者に見えたこの魔術の反応が、今は、悪しきものの扱う悍しく恐ろしいものに思えるのだから、なんとも不思議ではないか。
魔術書の中から吹き上がる魔術の風に、銀灰色のリボンのようなものがたなびき、ざわざわと揺れる。
魔術書の中からこぼれ落ちるようにしてひらひらと広がってゆくその光のリボンが、次の瞬間、一滴のインクを垂らしたように漆黒に染まった。
「……………っ、」
強い風に煽られるようにして周囲に広がった漆黒のリボンが、屋根の上の獣に触れた。
その途端、耳をつんざくような獣の悲鳴が上がる。
先程迄のにやにや笑いはどこへやら、妙に平べったく細長い獣は、今や苦悶の表情で暴れていた。
ばしん、がしゃんと体をうねらせて建物にも体当たりしているが、幸いにも建造物に損傷が出ている様子はない。
大きな布を叩きつけているような音からしても、やはりあの獣はとても薄くて軽いのだろう。
「拘束完了だ。……………本当にあんなものを持ち帰るのか?」
「……………ふぁぎゅ。あまりにも迫力のある捕縛劇に、思わず息を止めてしまいました。暫く、押さえておけますか?大きさを共有して、持ち帰るかどうかの判断を仰ごうと思います」
「押さえておく分には問題ない。だが、暫くすると結晶化する術式だ。早々に結論を出させろ」
「ぎゃ!」
ネアは、慌ててリーエンベルクに捕縛の一報を入れ、ヒルドとグラストに街の騎士団の代表、そしてダリルまでもが駆けつける運びとなった。
真っ先に駆け付けてくれたのはやはりリーエンベルクの面々で、グラストの隣には勿論、契約の魔物であるゼノーシュがいる。
アルテアが捕縛したまま、屋根の上でむぎぎと固まっている紐犬に、愛くるしい見聞の魔物は目を丸くする。
「わぁ、凄く大きいんだ……………」
「ゼノ、こやつはアルテアさんが捕まえてくれたのですよ」
「うん。教会魔術なんだね。僕、この魔術って初めて見た」
「ネア様、お怪我はありませんか?」
「ヒルドさん!はい。お恥ずかしながらもこのように乗り物な魔物さんに身を預けていたので、私はただ、アルテアさんの上から捕縛を見守るばかりだったのです」
「これだけの大きさですから、そのようにしていて下さって良かったです。…………しかしまさか、ここまでの大きさになっているとは。報告があった時には、もう少し小さかった筈ですが」
そう振り返ったヒルドに答えたのは、こちらも駆けつけ、そして呆れたような顔をしているダリルだ。
あまりの大きさに慄いているというよりは、これをどうするのだろうとうんざりしているようにも見える。
光るような青い瞳と艶やかな青いドレスが、暗い夜にはよく映える。
「こっちに情報が入った時には、あんたのところの銀狐くらいの大きさだった筈だよ。体の魔術分配の効率が良く、獲物を糧に一気に階位を上げるような獣なんだろうさ」
「私もそのように聞いていましたので、ネア殿からの一報を共有され、驚いていたのですが……………」
困惑したように同意したのはグラストだ。
既に紐犬は捕縛されているので、剣は鞘に収められている。
全員の視線を向けられ、最後に答えたのは街の騎士団の代表者だ。
胸に手を当ててお辞儀をしてくれたが、その眼差しには深い喪失の痕が刻まれていた。
「こちらでも、最後の報告があった際には仔馬くらいの大きさでした。…………っ、イアン。非番の日に、あんな泥酔状態でも人々を守るのだと駆け付けたりさえしなければ…………!!」
「イアンさん?!」
苦し気にそう呟いた街の騎士の代表に、ネアは、思わずアルテアの腕の中でびゃっと飛び上がる。
同名の別人かもしれないが、ウィームのイアンと言えば、ネアにとっては傘祭りの大事な風物詩的人物だ。
こんなところで喪ってもいいような人ではない。
「……………彼をご存知なのですか?」
「その、傘祭りでよく刺されてしまう、イアンさんですか?」
「ええ。その彼です。数々の高位魔術を修めた銀の階位の騎士なのですが、どうも傘とは相性が悪く……………。おまけに今回は、コルヘムを七杯も飲んだ後でこの獣に遭遇したそうで、……………あの通信の時に、領民の為に一刻も早く捕まえねばと話した彼を思い留まらせるべきでした……………」
初めて話をした街の騎士の代表である男性は、赤みがかった長い髪を一本に縛った美丈夫である。
幾つかある街の騎士団の中で、この区画を受け持っている者であるらしい。
そんな男性が涙を堪え、彼は優秀な男だったのだと付け加えると、ネアももう駄目だった。
これまでのイアン氏の奮闘と努力を思い、堪らず涙が込み上げてきてしまう。
だが、喪われた人を惜しんでいるばかりでも仕方がない。
ひとまずは屋根から引きずり下ろした紐犬の周囲を囲み、そんな面々が揃えば驚くべき現象が起きた。
「ギャワン?!」
ヒルドを見た紐犬がなぜか飛び上がってしまい、捕縛用の魔術のリボンに巻き取られたまま、しゅるるると小さくなってしまったのだ。
見る間に小さくなった紐犬は、最終的には銀狐大の確かに紐犬という形状になり、そのまま小さく丸まってぶるぶると震えている。
こちらからは若干見え難いくらいの大きさになり、ネア達は目を細めなければならなかった。
「……………まぁ、ヒルドさんが怖いようです?」
「系譜的なものかもしれませんが、……………森や湖のものとも思えませんね」
「宝石の資質もないな。どちらかと言えば、辛うじて木の気配がするくらいだぞ」
「理由はさておき、この方が収監が楽で助かるよ。アルテア、拘束をそのままに捕縛籠に入れても構わないかい?」
「切り離せばすぐに消えるものだ。好きにしろ」
「じゃあ、そうさせて貰うよ。ネアちゃん、お手柄だね。これ以上の犠牲が出る前に、アルテアを呼んでくれて良かったよ。後でちゃんと褒めてやりな」
「……………おい」
「ふむ。では使い魔さんには、パイなどを所望しておきますね!」
「何でだよ」
見知らぬ人もいたからかアルテアはつんけんしていたが、恐らくパイは近日中に届くだろうし、ご主人様はそんなパイを美味しくいただく予定である。
その結論に至りふんすと胸を張っていると、紐犬を見ていたゼノーシュが、こてんと首を傾げた。
「……………あのね、食べられた騎士はあの中にいないみたい。どこかで迷い子になっちゃったかもしれないけれど、生きていると思うよ」
「ゼノーシュ?……………つまり、吸収はされていないということか?」
「うん。取り込むこと自体を栄養にしたんだと思う。肉体を食べた訳じゃなくて、魔術的な勝敗を成果として取り込んだのかもしれないね」
「それではイアンは……………!!」
ウィームの封印庫特製の捕縛檻に入れられた紐犬は、その後もきゅうんと大人しくなってしまっており、きちんとダリルの厳しい取り調べに応じていたようだ。
しかし、夜が明けると檻の中には紐犬の姿はなく、なぜか難解迷路図録の本が、びりびりになって落ちていたらしい。
「あの夜は、僕も死ぬかと思ったよね。きっとその紐犬は、大事にされなかった本の祟りものみたいなものだったんだろう。貸し本だったみたいだし、色々な者の手を経て幾つもの属性がついたのかもしれないね」
「ネア、怖くなかったかい?」
「ふふ。ディノがノアを助けてくれていたので、安心して使い魔さんを乗り物にしていました。それに、久し振りに拝見したあの本からびゅわっとなる魔術も、とても恰好良かったです」
「ネアが、本に浮気する……………」
なお、イアンについては、その二日後にどこからかひょっこり戻ってきた。
紐犬に食べられてしまった後、複雑怪奇な迷路を彷徨い、迷路内野宿などをしながらやっと抜け出したところ、ウィーム郊外の森にいたのだそうだ。
本人も良く分からないが、とにかく迷路は難しく、むしゃくしゃしたと話していた。
然しながら、迷路の魔術を持つダリルが、残された本とイアンの話から該当する迷路の頁を特定して攻略してみたところ、さして難しくなかったと聞かされてしまい、イアンはしょんぼりしていたようだ。
飲み込んだ街灯の結晶石も、迷路の踏破の賞品になっていたので、無事にイアンが持ち帰って幕引きとなった。
不思議な迷路図録の報告を受けたエーダリアは、その迷路本を読んでみたくてうずうずしていたが、ダリルからあっさり禁止されてしまい、悲しく項垂れていたのだった。
明日3/18の更新はお休みとなります。
明後日3/19より、継続理由とは別に新しいお話を書かせていただきます。
とても短い序章(もしくは、その次の第一話まで)が始まりますが、こちらのお話は全部で三話程度で完結予定です。
ラフィオ、ウォルトンと続いた、薬の魔物の竜に纏わる三部作の最後のお話をどうぞお楽しみに!
舞台はガーウィンです。




