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優しい竜と優しい刺繍




ウォルトンは、雪竜だ。

雪竜の騎士団の副団長をしており、長らく雪竜の王に仕えている。


優しい竜だと、言われてきた。

そう言われ続けることに首を傾げながら、それでも、他者から見た自分はそういうものなのだろうかと思い、であればその資質を伸ばすべく、優しくあろうと努めてきた。



ずっと。


ずっと。





「では、これが契約書類となる。…………世話をかけるが、彼をどうか宜しく頼む」

「ふふ、構いませんことよ。だってこの方の兄上は、私の大好きだった学院の先生を守って亡くなったのですもの。………多分、他人事ではないのだわ。私達人間は勝手にそう思うからこそ、この竜は大切にすると約束しましょう」



そう微笑んだのは、一人の女性であった。

柔らかな栗色の髪を凝った形に結い上げ、木漏れ日の色をした檸檬色の瞳をしている。


そして、その女性の正面に座ったのは、雪竜の宰相と祝い子のワイアートだ。



(人間達とも積極的に交流しているワイアートはともかく、宰相がこの地に降りたのは、どれくらいぶりのことだろう…………)




彼をそうせざるを得ない立場に追い込んだのは、血族である自分なのだと思えば、小さな手でぎゅっと掴んだ服地が、きりりと軋んだ。



雪竜の宰相は、ウォルトンの遠縁にある御仁だ。

あまり人間を好む方ではなく、当然ながら、人間の集落に足を運ぶ事など、以ての外だろう。



けれど、血族から危うく祟りものを出すところだったと王に頭を下げ、彼はここまで付き添ってくれた。

万象の魔物が魔術で変化させたという桃を食べさせられたウォルトンが牢に繋がれていた夜、朦朧とした意識の中で聞いた誰かの詫びる声は、きっと彼のものだった筈なのだ。



『すまない、ウォルトン。……………私は、ずっとあの忌まわしい戦災から目を逸らしていた。親しかった従姉妹を喪い、その日からずっと、彼女の事には触れられずにいた。…………私の臆病さが、一人で残された君と話し合う機会を奪い、君の心をそこまで孤独に追い込んでしまったのだ……………』



月の光も届かない暗い牢獄の中で、泣き叫ぶだけ泣き叫んでしまって、ぐったりと横たわるウォルトンは、ぼんやりとそんな誰かの悔恨を聞いていた。



違うのだと言いたかったが、違わないのかもしれない。


そんな事も分からないくらいに思考は濁り、また遠くで話していた誰かの言葉の通りに、自分は確かに悪変しかけているのだと思い知らされる。



でも多分、孤独は誰のせいでもなかった。

耐え難いほどに自分の責任で彷徨い、それを理解すればいっそうに惨めになってゆく。



あなたのせいではないのだと答えたかったが、そんな事はもうどうでもいいのかもしれない。

誰もこの手を取ってくれないのなら、この泥に沈むような眠りの底で永遠に溺れてしまいたい。




誰かのように一人ではなくなって。

誰かのように幸福になりたい。

そこから弾き出されるのが、なぜよりにもよって自分でなければならなかったのだろう。



ふっと視界が翳り、こちらを見ている人間の女を見上げた。

檸檬色の瞳は淡い金色に見えて、僅かにではあるものの、竜の気配もする。

であれば彼女は、ずっと昔に竜と交わった一族の子供なのだろう。



「これから、一緒に暮らす事になるジャスミンよ。どうぞ宜しく、ウォルトン」

「…………俺が、……………ここで」

「ええ。私はこの瞬間から、あなたの後見人になりました。私の役目は、ここであなたの面倒を見て、困った事をするようであればきちんと叱る事。けれども、出来ればそのような事は少ないと嬉しいわ」



にっこりと微笑んだジャスミンに頷き、立ち上がり彼女に挨拶をしている宰相とワイアートを見上げる。

忌々しい事に、ウォルトンの体はどうすればいいのか分からないくらいに小さくなってしまった。


見送りの為に慌てて立ち上がろうにも、一人ではこの椅子から下りることも出来ないのだ。



(竜種の子供であれば、もっと魔術が使えた筈なのだ…………)



だが、小さな手足はただ幼いというだけではない別の理由からも、魔術を上手く編み込まないようだ。

恐らく、誰かがこの身に、魔術の利用制限をかけたのだろう。


それがもどかしく腹立たしいのだが、ウォルトンとて、このような状況に置かれているのは、自分の愚かさのせいだと知っている。

それでも込み上げてくる腹立たしさに飲まれないように、ただひたすらに唇を噛みしめ、小さな手をぎゅっと握っていた。



やがて、仲間達は帰って行った。




約束の二年が経てば、戻れるかもしれない雪竜の国へ。

或いは、ウォルトンがもう二度と戻れないかもしれない愛おしい故郷へ。




「さて。私は今日は仕事を休んでいるの。刺繍工房を経営しているから、明日は、工房に集まったお針子達に会わせてあげるわね」

「…………結構だ」

「あら、ウォルトンは人見知りなのかしら。………では仕方ないわね。それぞれの性格というものは無理をして変えさせるようなものではないし、であれば、いきなり大勢の女の子達の前に引っ張り出すのは酷なことでしょう。…………お腹は空いていない?これからパンケーキを焼くのだけど、一緒に食べる?」

「……………いらん」

「でも、お腹が空くと機嫌が悪くなるものよ?食欲がないのなら休んでいるべきだけれど、意地を張っているだけなら、観念して食べてしまいなさい」

「…………っ、…………その話し方をやめてくれ。俺は、七百年は生きている竜なんだ。まるで、生まれたての赤子に話しかけるようではないか」



精一杯に、冷ややかな声で撥ねつけたつもりだった。

だが、小さな子供の声は容易く震えてしまうし、きつい言葉の最後の部分は上手く発音出来ずに崩れてしまった。


羞恥のあまりに黙り込んだウォルトンに、立ち上がりこちらを見ていた女は、どこか困ったように優しい目で微笑む。



その時のジャスミンの姿を、ウォルトンはずっと忘れられずにいた。



甘やかになり過ぎない花柄のカーテンは水色で、窓辺には薔薇の花を生けた花瓶が置かれていた。

小さな子供に与えるようなオルゴールと、もう長い間使われていないように見える短剣が並んで飾られていて、なんと奇妙な組み合わせだろうかと眉を顰めた。


壁にかけられた刺繍の大きな作品は、はっとする程に優しい色彩に満ちている。

これがこの人間の色なのだろうと思えば、なぜだか少しだけ泣きたくなった。



ジャスミンは、美しい女性だった。

けれどもどこか疲弊のような渇きを瞳に宿していて、それなのに穏やかでしなやかな印象を与える人間だった。


そんな彼女は、深い緑色のドレスを着て窓辺の光を背負い、僅かに影になった瞳がはっとする程に悲しげに微笑む。




「…………でも、そのようなものなのかもしれないわ。あなたは、とても幸せな竜よ。この世界には、どれだけ理不尽で悲しい事があると思う?すっかり参ってしまって、小さな子供だったあの日からやり直したいと願っても、それを叶えられる人なんて殆どいないでしょう」

「…………魔術の呪いのようなものだ。それを、幸運だと…………?」

「幸運よ。例え魔術に縛られた二年の間とは言え、あなたは、その間は小さな子供のように大事にされる事が出来る。そして、その間に自分を立て直す事が出来る。………ウォルトン、私は、あなたをとても大切にするでしょう。………この家はとても広いのに、私しか住んでいないのに気付いていて?」

「いきなり、なんの話だ。どうせ俺は、魔術の動きを制御するような制約をかけられているんだろう。誰もいない屋敷なら、お前が俺を気に食わなければ、誰の目にも止まらずに…」

「お馬鹿さんな竜ね!あなたは、やっと全てを投げ出してゆっくりする機会を得たのだから、それを堪能するべきだと思うわ。少なくとも、私には子供に戻って甘やかされるような幸運なんて訪れないのだもの。粗末にしたら許さないわよ?」



またどこか悲しげに、けれども愉快そうにそう言われ、ウォルトンは目の前に立った人間を睨み付けた。


これまでの雪竜の騎士のウォルトンは、決してそんな野蛮な事はしなかったが、ここで小さな子供の姿に変えられ、悪変に晒された咎人ならするだろう。



どうせもう、あの場所には戻れないのだ。

けれども、戻れなくなると分かってはいても、正気には戻れなかった。



どうしても。



あの、薔薇の祝祭の幸せそうな街と、笑い合う人々を思い出し、胸が潰れそうになる。

誰もが幸福そうで、誰もが恵まれていて、ウォルトンだけがいつも取り上げられるものが、そこかしこで煌めきこの身を呪っていた。



だから、その呪いから逃げ出したくて、何人もの女達に、そして思い出して呆然としたが、男達や、人型ではない者達にすら、ウォルトンは求婚した。



最初は人と同じものが良く、その後からは他の人々と同じものでは嫌だったことを薄らと覚えている。


とは言えその悪変に飲み込まれつつあった魂で求めたのは、たった一つのものだったのだ。

これだけ苦しんだのだから、今度こそ特別なものが得られるべきだと闇雲に求めながら、本当は、もう二度と取り戻せないと知っているあの契約の子供を探していたのだろう。



その特別なものはもう、どこにもいない。


ウォルトンの財産を巻き上げ、それでも飽き足らずに竜の瞳を奪おうとしたところで、彼女が密猟者と呼ばれる者達の長である事に気付いていた他の騎士達に取り押さえられた。



(……………あの子は、最後に俺に唾を吐いた)



獲物から契約の子供になどされて、悍ましかったと。

そう嘲笑い、引き立てられて行った。


ウォルトンはただ無言で立ち尽くし、もう二度と会う事がないであろう彼女の背中を見送るしかなかった。



彼女は罪人だったのだと、皆は言う。


ウォルトンから巻き上げた財産は、他の男達と遊び歩く為に使い果たされており、貞淑でもなく誠実でもなかったその女は、同族である妖精の恋人の一人と雪竜の子供を連れ去ってばらばらに解体し、売り捌いていた。



多分、自分一人を傷付けられたのなら、ウォルトンは契約の子供を許しただろう。

けれども、雪竜の騎士としての誇りが、罪もない小さな子供を無残に殺した者を決して許さなかった。




(契約の子供が死ねば、俺の心も死ぬだろうと分かっていた……………。いや、…………本当は、そんなものですらなかったのだ………)



仲間達が彼女の処分を躊躇わなかったのは、それが、ウォルトンの本物の契約の子供ではなかったと知っていたからだ。


本物の契約の子供と出会った竜は、心の飢餓感が満たされる筈であるし、外見にも僅かな変化が現れ、食事などの嗜好も変わる。

ウォルトンにはそれがなく、起こらない変化を装う事はウォルトンにも出来なかった。



けれども、探しても探しても何も得られずに、擦り寄ってきた女に契約の子供の約束を与えたウォルトンにとっては、彼女だけが契約の子供であったのだ。


他には何もなかったから。

だからもう、どうしようもなかったのだ。



そんな時間の解決の後で、自分では普通に過ごしていたつもりの数日間を過ごし、薔薇の祝祭の前日に頼んでいた薔薇が届いたあたりから、ウォルトンの記憶は曖昧になっている。


思考の霧が晴れる前に何やら酷い失態を犯したらしく、気付けば小さな子供の姿に変えられてしまい、城の地下牢を経て一人の人間に預けられる事となった。




(記憶はある…………)




記憶はあるのだが、それはとても不安定で、時々べたべたとした真っ黒なものに包まれて押し流されてしまう。



ばらばらの記憶の欠片の中ではいつも、統一戦争で愛する人間を守る為に飛び立った兄と、ウィームの王族から離れられず、もう二度と戻れないだろうと悲しげに微笑んだ母の姿がある。


父は、開戦の前の襲撃の際に、飛来した火竜に殺されていた。



幸せそうに微笑む家族。

兄の頭を撫でてくれる大きな手。

木漏れ日の中で煌めく雪の薔薇園と、その面影もなく燃え落ちたローゼンガルテンのあまりにも無残な対比。




笑え。

そう命じたのは、ウォルトンが騎士だからだ。


笑い、弱きもの達を守り、力を振るって仲間達を守るのがこの魂にかけられた約定である。

最早それしか残っていないのに、約定を果たさずしてどうするのか。


自分一人ではなかった。

皆が傷付いているのだから、悲嘆に暮れるばかりでどうするというのだろう。

呪わしく悲しく、絶望していて泣き叫びたいのは皆が同じではないか。



笑え。



笑って穏やかに過ごし、心を磨いていればいつか幸運も訪れるだろう。

どれだけこの先の時間が長くとも、絶望ばかりが続く事などありはしない。



実際に一人、また一人と、共にあの暗い夜を過ごした友達は、家族を得て幸せになっていった。



ばらりと、また一つの記憶の欠片が、どこかにこぼれ落ちてゆく。



友人が伴侶を得た祝いの席の帰り道で、薔薇の花びらのこぼれる美しい小道を歩き、一人きりの屋敷に帰る孤独に胸を痛めていたあの暗い夜。


人付き合いは不得手ではなかったし、女性と二人で出かける事も多かった。

けれどもそこで微笑み、苦痛を受け流してゆくのが偽物のウォルトンである限り、彼女達と過ごす時間はどうしても長続きしなかった。



最初は自分が疲弊してしまい、それを投げ出してしまう。

何度か同じ事を繰り返すと、自分がそのような努力に向いていない事が分かる。

それに、何とか愛そうと努力していても、共に過ごす事に疲弊してしまうなど、相手の女性にも失礼ではないか。


それから暫くすると、家族を作る事には興味がないふりをして、自然に訪れる縁がある事を、密かに祈っていた。




気付けば、自分と同じ境遇の者はいなくなり、ウォルトンだけが一人で暗い家に帰る。

それは、耐えがたい絶望であった。





「ウォルトン、その荷物を見張っていて頂戴ね。悪戯者の妖精鼠達が来たら、私を呼ぶのよ!」

「…………知らん」

「この言いつけを破ったら、私は悪い子供ですと書いた板を首から下げて、工房の前に暫く立っていて貰うわ」

「………っ?!」

「その代わりに、ちゃんと荷物を見ていてくれたら、後でおやつを食べながらお茶にしましょう」

「昼食を食べたばかりではないか………」

「ふふ。それでも、午後にはお茶をしてもいいのよ。焼き立てのスコーンがあるわ。そして私達には、仕事の合間にそのようなものを楽しむ事が許されているの」



ジャスミンは、この生活を楽しんでいるようだった。

菓子を買い込み、料理を作り、上機嫌に毎朝ウォルトンの髪をブラシで梳かす。



最初は何もかもに腹を立てていたウォルトンは、やがてジャスミンのその行為が、飲み込んだ毒を吐き出すようなものだと理解し始めた。




『オーナーはとても素晴らしい女性よ。美しくて優しいし、公平で楽しい人。でも、…………彼女は工房が休みの日には、決して街に出ないの。一人きりで、統一戦争で亡くなったご主人とお子さんと暮らしていた屋敷で過ごすのよ。………正直に言えば、休みの日のオーナーが、がらんどうのお屋敷の中でどんな顔をして生活しているのか、私には怖くて想像出来なかった。何年も、何年も。…………でも今は、休日に幸せそうに笑って、あなたの為に買い物に出かけてゆく姿を見る事が出来るようになったの。………だからどうか、お礼を言わせて頂戴。彼女を救ってくれて有り難う』




工房の前で出会った時に、そう頭を下げた刺繍妖精がいた。


ジャスミンの工房には、人間の少女達と刺繍妖精達が働いていて、彼女達にはそれぞれ、家族や恋人達といった風に、大切なものがあるようだった。


それはそうだろう。

刺繍などを嗜む者達は、深い愛情に恵まれるという祝福があった筈だ。



だからみんな。

みんな幸せで。

けれども、ジャスミンのその祝福だけは、あの忌まわしい戦争に奪われてしまった。



真っ暗で広過ぎる屋敷に一人で暮らし、かつて愛した者達の面影を残したその箱の中でひっそりと息をしているジャスミンを思うと、かつての自分の影を踏むようで胸が潰れそうになる。


それでも彼女はきっと、工房主として振る舞う時には穏やかに微笑み、楽しげに刺繍をしていたのだろう。





「……………あらあら、怖い夢を見たのかしら。そんな夜はね、誰かの側に居ると良いものよ。ほら、燭台には明かりが灯されているし、もう一人ではないでしょう?」



嵐の日の夜に魘されていたウォルトンに気付き部屋を訪れたジャスミンは、柔らかな声でそう話しかける。

寝台に腰掛けて額に手を当ててくれると、子供の体のせいでまた眠りかけてしまうウォルトンの髪をそっと撫でてくれた。



「大丈夫、私がここにいるわ」



その言葉にまた、息が止まりそうになる。


ウォルトンがずっと求めていたその言葉は、きっと、ジャスミンが求めてきた言葉でもあるのだろう。

彼女がそれをお守りのように言う事が、堪らなく恐ろしく悲しい。



眠りの入り口で立ち止まると、誰かの歌声が聞こえた。


優しい子守唄を聞きながら、それでは求婚ではないかと心の端でくすりと笑う。

その歌声で綴られるのは、愛している、愛していると語りかける家族の守護で、ウォルトンの傷だらけの心をそっと撫でてゆくようだった。




手を繋がれ、庭の大きなライラックの木の下でピクニックをして、土砂降りの雨の日に買い出しの帰り道で濡れて帰ったジャスミンを慌てて迎え入れる。


ウォルトンの為に買われた小さなマグカップと、二人で食事をする為に作られた、食卓のテーブルに届くような子供用の椅子。



けれども、この生活には期限がある。

二年の月日が流れれば、ウォルトンは成熟した雪竜の男に戻るのだ。



その時になったら、ジャスミンはどうするのだろう。

今度はウォルトンが使っていたマグカップが、喪った夫や息子の遺産に並べられるのだろうか。



柔らかな瞳で、悲しみの影なく微笑むようになった彼女が、声を上げて笑うようになった彼女が、またこの広い屋敷で一人ぼっちになるのだろうか。



誰にもおかえりと言われないままに扉を開き、今日あった事を誰かに伝える事もなく一人で食事をする。

気象性の悪夢の日には一人で戸締りをし、家族連れで賑わう市場で非常食を買い込み、がたがたと家を揺らす悪夢の中では誰とも寄り添わずに震えているのだろうか。




そんな事には、耐えられない。

そう気付いた時にはもう、ウォルトンの大切なものは決まっていたのだろう。



「早いものね。…………もうすぐ、二年なのだわ。ウォルトン、………あなたはもう大丈夫ね。お国に帰っても全てが元通りとは言えないでしょうけれど、きっともう、あなたの心の傷は癒えた筈よ」

「……………君はどうするんだ」



そう尋ねると、ジャスミンは途方に暮れたように瞳を揺らした。


けれどもそれはほんの一瞬の事で、彼女はまた、いつかのような悲しげな目をして穏やかに微笑む。



「あなたが家に来る前の生活に戻るわ。………有り難う、ウォルトン。私はこの二年の間、とても幸せでした。あなたにとっての対価である日々を、ついついただひたすらに楽しんでしまったわ。それでも構わないと言ってくれるのなら、いつか、そちらで落ち着いたら…………一度くらいは手紙を書いてくれる?」



そう言って微笑んだジャスミンはまた少しだけ幸せそうにしたから、ウォルトンはもう、他のどんな選択肢も持つ事が出来なかった。



「いや、……………雪竜の国には戻らない」

「…………ウォルトン?」

「あちらで雪竜として仕事をするにしても、ここから通えないという事もないだろう。今更生活を変えるつもりはないし、……………君が言うように、一人でなくなったら大丈夫になるのならば、我々は一人でいては良くないのではないのか?」



呆然と目を瞠り、こちらを見ているジャスミンを見上げる。


子供用の椅子に座っていても、二人の視線の高さには違いがあって、そんな無力さに辟易としながらも、だからこそここで共に過ごせた日々には感謝していた。



「………でも、………ここでの生活は、楽なばかりではないわ。あなたはいつも、夏になると弱ってしまうでしょう?」

「氷室にしたあの部屋は、悪いがそのままにしておいてくれ。後は、…………そうだな、夏期休暇の季節は雪竜の国にあなたが来ればいい。俺は咎人になったが、国に帰る事が許されたんだ。そのように過ごすくらいの事は許されるだろう」

「…………ウォルトン」

「なんだ?」

「あなた、……………ずっとここにいるつもりなの?」

「勿論だ。俺がこの家を出たら、誰が君の面倒を見るんだ」

「ええと、…………とても言い難いけれど、これまでは私があなたの面倒を見てきたのよ?」

「…………っ、…………だとしてもだ」

「あなたは、それでいいの?これからまた、どこへだって、望むものを探しに行けるかもしれないのに」



その問いかけは、長い時間を穏やかに装い続けた人間のしたたかさで、静かに整えられていた。

けれどももう、ウォルトンにはその奥にあるものを見据える事が出来る。

ジャスミンの瞳は今、諦観と希望に揺れていて、ウォルトンはきっぱりと頷いた。



「俺はここにいる。竜は、竜の宝からは離れないものだからな」

「……………まぁ。………その、そういう事にしておいても、私は嬉しいばかりだから構わないけれど………」

「こ、今度は本当のものだ!ほら、ここを見てくれ。鱗の色が変わったのだから、間違いない!!」

「…………そうなの?」



首を傾げて不思議そうに瞬きをし、ジャスミンがこちらを覗き込む。

首筋にある鱗を見せようと体を捻っていたウォルトンは、ふわりと漂ったジャスミンのよく飲む紅茶の香りと、刺繍に使う魔術針のラベンダーの香りに、なぜか胸が苦しくなってしまう。

慌てて顔を上げると、ジャスミンがまた首を傾げる。


しかしその眼差しはもう悲し気ではなく、どこか、安堵にも似たような幸福そうな煌めきを帯びていて、とても美しかった。



「ウォルトン?」

「……………今後は、俺も年相応の姿に戻るのだろう。あまり、そのように近付かれるのもだな…………」

「……………まぁ。そうなるともう、あなたを抱っこしたり、髪の毛を梳かしてあげられないのかしら」

「髪を梳かすくらいは好きにすればいい。……………ん?」

「それは困ったわねぇ……………」

「……………ジャスミン?」



不穏な気配を感じないでもなかったが、ウォルトンは、とにかく、ここに暮らし続けるのだからとジャスミンに言い含めてしまい、その夜は今までにないくらいに良い気分で眠りについた。

翌朝になると確かにきっかり二年で幼児化の呪いは解けていて、久し振りに感じられる肉体の強靭さを心地よく思いながら、寝台から起き上がった。



今日は、忙しい日になるだろう。



事前に届いた手紙の通りであるのならば、朝食後の時間で、宰相とワイアートがこの家にやって来る予定であるし、その際に、ウォルトンとしても今後の事を色々と話し合わなければならない。

このまま、この屋敷に残るという話をし、とは言え、仕事の話なども出来れば幸いだ。



刺繍工房には領内外の顧客が沢山おり、ジャスミンは資産家だが、竜には竜の矜持がある。

ましてや、相手は竜の宝なのだ。

色々なものを買ってやりたいし、彼女が望んだ時に不自由などさせたくはない。

仕事をして、稼ぐという事は譲れなかった。



「……………まぁ。大きくなってしまったのね。……………ちびちびとした、あの小さな手が……………」



しかし、朝の光の煌めく部屋で、本来の姿で最初に顔を合わせたジャスミンの瞳には、なぜか小さな落胆の色があった。

これはまさかと冷たい汗が背中を伝い、ウォルトンは、やめておけばいいのに、尋ねてしまった。



「もしかして君は、……………子供の姿ではない俺は、あまり好ましくないのか?」

「嫌いではないわ。あなたの事は、どんな姿であっても大好きよ。……………でも、可愛いか可愛くないかで答えるのなら、今のあなたは、……………あまり可愛くないわね」

「……………え」



その返答は、喜んでいいのだろうか。

ウォルトンが呆然としている内に、ジャスミンはいつものようにパンケーキを焼いてくれたし、ウォルトンも、いつものようにたっぷりのシロップをかけて甘くしてそのパンケーキを食べた。

ホットミルクには蜂蜜が入り、自分でもかなり甘党の自覚がある。


以前のウォルトンには、なかった嗜好だ。



「ねぇ、ウォルトン。ここに今後もあなたが住むのなら、家賃を貰ってもいい?」

「……………構わないが、俺がここに残ることが迷惑なら、いっそそう言ってくれ」

「いいえ。ずっとここにいて欲しいわ。あなたがそう決めてくれて、私はとても嬉しかったの。何なら、今夜はお祝いをしようと思って、上等なシュプリを倉庫から出してきたくらい。……………でも、年に何回かは、私の大好きな可愛いウォルトンにも会いたいの」

「……………ま、待て。俺から、どんな家賃を取り立てようとしているんだ?!」



この時にはもう、ウォルトンはだらだらと冷や汗をかいていた。

昨晩、眠りの淵で、ウォルトンは確信したのだ。

ジャスミンは、竜の宝なだけでなく、伴侶として迎え入れたい愛しい女性だと。


しかしそんな彼女は今、目をぎらぎらと輝かせて立ち上がり、テーブルに手を突いてこちらを覗き込んでいる。


(なぜ、愛する女性の前で、また幼児化しなければならないんだ……………?!)



だが、ウォルトンは竜である。

そして、竜は竜の宝の為であれば、どんな事もしてしまうのだった。



二年ぶりの再会で、ウォルトンが今後支払う事になるそんな家賃の話を聞いてしまい、宰相は、明らかに可哀想なものを見る目でこちらを見ていた。

ワイアートはなぜか、愛の形は様々だと得意げに納得していたので、この祝い子が今どんな愛を育んでいるのかが大いに気になるところである。




「ウォルトン。私の大切な竜。あなたはとても優しい竜だわ」



年に数回、あの桃を食べて短い時間だけ子供の姿になる。

幸せそうなジャスミンに抱きかかえられ、ウォルトンは諦めにも似た溜め息を吐きながら、彼女が作った刺繍の作品に囲まれた暖かな家を見回した。



(……………優しい刺繍だ)



この家にあるものは、昔も今も、ずっとそうだった。

であればウォルトンは、ジャスミンが孤独だった頃から愛情をかけて作り上げてきた刺繍がこれからもずっと優しいものであるように、力の限り守り続けてゆこうと思う。




今はもう、どれだけ優しい竜になっても、胸が苦しくなることはない。

優しい竜だと言われると誇らしい気持ちになり、ウォルトンは今日も大事な竜の宝を抱き締めるのだった。



















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