138. 薔薇と伴侶と過ごします(本編)
ローゼンガルテンの入り口には、昨年より多くの薔薇の花びらが敷き詰められていた。
踏み締めると少しふわっとするくらいの花びらに、ネアは、使い魔と踊ったダンスを思い出して微笑みを浮かべる。
そして、こちらを見て不思議そうな目をした伴侶の、もう片方の手もさっと掴んでしまった。
「……………ネア、」
「ディノ、こうして私の両手を掴んで、くるっと回して下さい」
「凄く懐いてくる………」
「このふくふくとした足元の花びらに使い魔さんとの薔薇のダンスを思い出したのですが、ここでディノとだけの薔薇のちびダンスも付け加えておく所存なのです」
「私とだけの、…………ものなのかい?」
「はい。ディノは大切な伴侶なので、ディノとだけの間に得られるものも作りましょう?」
「…………うん」
狡猾な人間にそんなことを言われてしまい、ディノはこくりと頷いた。
周囲の人がいなくなった瞬間を狙い、二人は一度だけ、ダンスのようにくるりと回る。
ドレスの裾がふぁさりと揺れ、青灰色に擬態させたディノの三つ編みのリボンがひらひらと揺れた。
ここはもう充分なのにローゼンガルテンの入り口は特別なのか、どこからか、はらはらと薔薇の花びらが降る。
足元に敷かれた薔薇の絨毯は、この先の薔薇の群生地に続くのだ。
「ふふ、ディノと今日の最初のダンスは、くるっとターンですね。ローゼンガルテンの入り口で踊ったのは初めてなので、お相手はディノでなければなりませんでした」
「………そのようなものなのかい?」
「ええ。やはり薔薇の祝祭ともなれば、伴侶と過ごす時間は特別なものなのですよ。ついつい、こうしてはしゃいでしまいました」
「ネアが可愛い………」
目元を染めて恥じらう魔物の瞳は、こんな夜の中でもきらきらと澄明な泉のように煌めき、ネアは、大事な魔物の表情に先程の事件の翳りが残っていない事に密かに安堵した。
歩道の脇では、もふもふの栗鼠妖精達が、ネア達の真似をしてくるりと回っている。
それを見た人型の妖精の恋人達も、くすくすと微笑み合いながら同じように手を取り合いくるりと回った。
そんな様子を見てくすりと微笑むと、ネア達は薔薇の祝祭のビーズを貰う為に丘の上に向かった。
(薔薇の香りがなんて贅沢なのかしら…………)
ローゼンガルテンの美しさは、やはりこの薔薇の祝祭こそだろう。
ゆっくりと歩いてゆく歩道の両脇には見事な薔薇の茂みがあり、夜の光の中に祝福の煌めきをこぼしたり、ぼうっと淡く輝く光を宿した薔薇が満開になっている。
まだ入り口付近ではあるが、それでも見渡す限りのあちこちに見事な薔薇の茂みがあった。
豪奢な紅薔薇の艶やかさは勿論だが、可憐なピンク色の薔薇も、夜の色の中ではその表情を変える。
夜色を添わせたその花びらには薄っすらと紫紺の影が落ち、うっとり見惚れてしまいそうになるくらいに儚げな佇まいだ。
周囲を歩く人々は、皆が幸せそうに見える。
勿論、誰もの心の中に憂いがない訳はなく、それぞれに、少なからずの悩みや悲しみを抱えているのだろう。
それでも今日はと、自分を満たし豊かにする為に祝祭を楽しむのが人間なのだ。
(ウィームでは、どのような人であれ、祝祭の慈悲を受けられない事はない…………)
ネアがそんな制度を知ったのは、恥ずかしながらも随分と後になってからであった。
貧しくてお菓子が買えない人には、公共施設各所で手続きさえ受ければ、祝祭用の飲み物チケットとお菓子チケットが貰える制度がある。
この制度の支払いはとても簡単なもので、定められた期間内に馬車に轢かれているパンの魔物を歩道に避難させてやったり、雪溜まりにはまって動けなくなった妖精を助けてやる事で相殺する事が出来た。
また、体が弱くその支払いすら難しい者達には対価なく支給される補助制度がある。
これは、移民や迷い子のように生活基盤が安定していない者達の最初の数年にも適用された。
前の世界のネアからすると、随分と手厚いように感じてしまう制度が幾つもあるが、この世界の中でも特に、ウィームは魔術の流れが土地を支える傾向がある。
祝福刺繍や、硝子工芸など、職人の手仕事が品物の質を変えてしまう魔術も多い。
民の生活を支える事が、ウィームの産業を育てる事にも繋がるのだった。
勿論、魔術というものの契約において、偽りの申告があれば障りがあるからこそ得られる恩恵でもあるが、どれだけ魔術が豊かな土地でも為政者の意向次第では、その繋がりが足枷や監視にしかならない土地もある。
(エーダリア様の前任者の方は、そちらに舵を切り私腹を肥やした方だったらしい。だから、今はこんなにも豊かなウィームであっても、こうして公的な支援制度が整ったのは最近の事なのだわ)
だからこそ、ウィームの人々は皆、祝祭をとても大事にしていた。
敬い愛しまれる祝祭は更に力を蓄え、祝福や調伏、鎮魂に於いてまでいっそうの効果を齎す。
楽しげにお喋りをしたり、屋台で売られている焼き菓子を食べながら、人々の口元には微笑みが浮かべられている様子を見れば、土地に暮らす人々の心が豊かだからこそ、ウィームの祝祭は美しいのだと感じられた。
(…………薔薇の彫り物のある小さな水晶のグラスに、薔薇の枝を編み込んだ緑のリース。薔薇の刺繍の入ったハンカチや小さなポーチまで。高価なものでは、結晶化した薔薇の花びらの装飾品や、髪に薔薇の香りを付けてくれる薔薇の木のブラシや、薔薇から紡いだ糸を使った織物や刺繍も…………)
街の専門店だけではなく、この日のローゼンガルテンの屋台には様々なものが売られていた。
魔術師が多い土地なので、うっかり欲しい魔術道具の為に生活費を枯渇させてしまったという御仁も少なくはない。
だからか、飲み物や食べ物の交換用のチケットの使用は悪目立ちせず、近くの屋台では、屋台の柱に齧り付いているちび精霊狼を、そのチケットの支払い代わりに茂みに返してきてくれという支払いを店主から頼まれている魔術師もいた。
「ふふ、たっぷりハムと薔薇ジャムのサンドイッチを狙ったちび狼さんは、柱から引き剥がされてしまいましたね」
「………あの精霊の階位であれば、自分でお金を用意出来るのではないのかな………」
「まぁ。あんなちびもこでも、なかなかの階位なのですか?」
「森水晶の精霊だからね。祝福石を一つ作れば充分に交換に値するだろうし、そのくらいの事を簡単に成せる階位の者だと思うよ」
「となると、………能力と手段はあるのに、ただ無銭飲食を強請る困った精霊さんということに…………」
「うん…………」
そんな中を歩きながらネアはふと、歩道に枝を伸ばして花開いた、一輪の薔薇に目を止めた。
ふくよかな白水色の大輪の薔薇で、冷たい色合いながらもふっくらとした天鵞絨のような手触りを思わせる花びらの美しさに心惹かれたのだ。
思わず手を伸ばしてしまい、指先でそっとその花びらに触れた。
(……………あ、)
その瞬間、しゃりんと、どこかでウィリアムに連れて行って貰った草原で触れた星雲のような星色が弾け、澄んだ音を立てた。
目を瞬いたネアは、もしや厄介な魔術に触れてしまったのだろうかと隣の伴侶を見上げ、ぴしりと凍りつく。
しゃわしゃわと、風に薔薇の茂みが揺れ、重たい花をつけた茎もゆらゆらと揺れる。
花の盛りを過ぎた枝の上の方の薔薇からは、はらりと花びらが落ちた。
そこに立っていたのはディノだ。
ゆるやかに波打ち流れるのは真珠色の長い髪で、装いも今とあまり変わりはない。
けれども、長い髪は三つ編みにせずに下ろしていて、柔らかな夜風のせいか、魔術の風が動くのか、ゆらゆらと揺れて複雑な光の影を宿し、息を飲むような美しさであった。
だがそれも、砕いた宝石を敷き詰めたような眩さで、けれども冷たく凍えた光を湛えた瞳の、魂を削ぎ落とすような美しさには敵わないだろう。
長い睫毛の影でその色彩はいっそうに彩り深くなり、こちらを見据えた眼差しの冷たさは、凍えるほどの美貌で線引かれた境界の向こう側のものだという気がした。
(……………ディノ?)
これは誰だろう。
そう考え、その存在の冷たさと重たさに息が詰まりそうになる。
これは誰だろう。
ディノだけどよく知るディノではなくて、その暗さと残忍さに胸が潰れそうになる。
(……………どこかに落とされた?それとも、迷い込んでしまった?……………でも、そんな感じは少しもしないのに)
ここにいるべきではないという違和感はなく、在るべき場所から連れ去られた時のような焦燥感もない。
ふと視界を揺らして映された白昼夢のような感覚に、ネアは目が覚めないかなとぱしぱしと瞬きをした。
(なんて美しいのだろう。…………そして、だからこそとても恐ろしい………)
多分これは、くらりと歪んだ目眩の向こう側のような、罪のない幻覚なのではなかろうか。
けれども、目の前に立った魔物がこちらに手を伸ばせば、それは目障りな人間をただ邪魔だというだけで壊してしまう為だろう。
本当に恐ろしいものを見たときには、震えることすら出来ないのだと感じながら、ネアは、ただその美貌の魔物を見上げていた。
(ディノは優しい魔物だけれど、それだけではない時も勿論あって、…………)
目の前の見知らぬ冷酷さを浮かべた魔物は、まさにそんな瞬間の姿に見えた。
気分一つで目についたものを壊してしまいそうな様子だけではなく、ここではないどこかから、戦場や誰かが死ぬときに感じる冷たい夜のような破滅の香りがする。
ここにいる魔物は、人間とは違う生き物として何の感慨もなく殺すだろうし、万象を司る王として何の執着もなく余計なものを排除するだろう。
これは、そのような時のディノなのだ。
そこまでを理解し、ネアは、出会った時から見ていた、時には酷薄でもここまで鋭利ではなかった瞳をじっと見上げた。
(それでも、…………)
それは、例えようもなく美しい生き物だった。
その美しさが残酷なまでに冷酷で、もしかすると、向かい合ったのがネアであっても、簡単に壊してしまうかもしれない見慣れない魔物であった。
それでもなぜか、ネアは手を伸ばしていた。
寄る辺なくても、傷付いていなくても、この冷酷なばかりの美しい人ならざるものであっても、それでもこんな風に退けられるのは我慢がならないという悲しさや腹立ちから、容赦なく触れたいと思ってしまったのだ。
もしかしたらその愚かさは、これは自分のものである筈なのだと考えた人間の強欲さが成したものだったのかもしれない。
最初からずるをして自分を選んでくれていた魔物に出会えていた人間が、そうではない魔物に出会ってもなお、その手を掴み捕まえてしまおうと考えたのだろうか。
しゃりんと、どこかで澄んだ音が響く。
もう一度瞬きをしたネアは、伸ばした手をそっと掴んでくれた伴侶を見上げていた。
「ネア、持ち上げるのかい?」
「……………む。ちゃんと私のディノです」
「もしかして、何かを見たのかな………。薔薇の魔術は時々、………秘密を見せるからね」
「まぁ、私が覗いたのは秘密のものだったのですか?髪の毛を下ろした、素敵なディノを見ました」
「…………おいで」
ネアは微笑んでそう告げたのに、さっと表情を強張らせた魔物に持ち上げられてしまう。
迂闊な返答が大事な伴侶が眼差しを曇らせた事に、ネアは、へにゃりと眉を寄せた。
するとディノは、そんな伴侶を労るようにそっと頬を寄せるのだ。
「……………ディノ。私が見たのは恐らく、私の知らないディノでした。けれども、そんなちょっと冷ややかな雰囲気のディノにすら、強欲な私は手を伸ばしてしまいましたので、もはやディノは、どんなディノでも私の大切な魔物なのかもしれませんね」
「………怖い思いをしなかったかい?この場所には、何度か訪れた事がある。自分の意思で訪れた訳ではなかった事もあるし、この土地の生き物達が望まないものを齎した事もあった………。薔薇が秘密を落としたのなら、それは、…………私が望まないものだったのかもしれない」
その言葉から、ネアは小さな怯えと、魔物らしい老獪な問いかけを汲み上げる。
厭われる事は恐ろしく、けれどもそれが己の資質の一つだと理解した魔物は、時々、そんな酷薄さを受け入れられるだろうかと問いかけるのだ。
(もしかしたら、それは魔物というものの性格なのかもしれない………)
精霊はそれを問わずに奪い去り、竜は受け入れて欲しいと嘆願する。
妖精はひっそりと侵食し、魔物は問いかけの答えを待つ。
だから人間は、彼等と共にある為に、それぞれの相手に相応しい返答を見せなければならない。
今でも時折、エーダリアが領主としての顔をして、魔物達の要求にはきちんと応えているかと尋ねるのも、そのような事を案じているのだろう。
「あまりにも綺麗で近寄り難い雰囲気ではありましたが、どうあってもディノはディノなのです。となるともう、私の大事な魔物には違いなく、手を伸ばすしかありませんでした」
ふつりと落ちたのは、安堵の溜め息だろうか。
ネアはそんな魔物にそっと体を寄せ、内緒話をするように声を落とした。
「なお、これは私の伴侶には秘密ですが、そのディノは寂しそうでも朗らかでもなくて、けれども、元々可愛らしい生き物よりも美しい獣さんが好きだという嗜好を持つような私は、その怜悧さがあまりにも綺麗で見惚れてしまったのです。とは言え、今の伴侶が一番大好きなので、これは秘密ですよ」
「ネア…………」
「ふむ。贅沢にどちらのディノも堪能してしまったので、薔薇のビーズを貰いに行きましょう」
そう言えば、ディノはゆっくりと頷いた。
それでもまだ警戒しているのか、それとも怯えているのか、ネアを下ろそうとはしない。
なのでネアも、そんな魔物に体を預けて、ちゃんとここにいるのだと伝えておく事にする。
「なお、今日は薔薇の祝祭なので、このまま私を持ち上げていても構いませんが、あの緑の屋根の屋台には必ず立ち寄って下さいね。ビーズの列に並びながら、祝祭限定の焼き菓子を食べる予定なのです」
「左手にある店の方かい?」
「むむ、同じようなお店がもう一軒あるとは誤算でした。はい。左手のお店の方です。ゼノから、美味しい屋台を教えて貰ったのですよ」
「では、そちら側に寄ろうか」
ふと、ネアはこっそり考える。
もし先程見たディノしかネアの前にいなかったとしたら、あまりにも綺麗で堪らずに手を伸ばしたとしても、そこからの顛末はあまり喜ばしくない事になったに違いない。
あの魔物は不躾に触れたネアを壊したかもしれないし、何かの奇跡が起きてネアを受け入れたとしても、我が儘な人間は自分に優しくないものにむしゃくしゃしてそこから立ち去ったように思う。
だからあれは、ネアの魔物だとしても、ネアの手に入れられないものだ。
そんな冷たさと恐ろしさに、強欲な人間は少しだけ羨望を覚えた。
(きっと、ディノを見て心を奪われてしまった人達の中には、私よりもずっと、あのディノを知っている人達がいるのだろう………)
自分の手には入らないものだからと、無い物強請りでそんな誰かを少しだけ羨ましく思ってしまう。
雪豹が大好きな人間には、ああも凄惨な美貌を持つ魔物でしかないディノの姿が入手不可という現実は、なかなかに惜しいものであったのだ。
「むぬぬ…………」
「ネア?…………下ろして欲しいかい?」
「いえ、薔薇の祝祭で皆さんがくっついているので悪目立ちもせず、すっかり魔物な乗り物で寛いでいますが、…………先程見たディノを、私ももう少しだけ堪能したかったのでちょっぴり悔しくなっていました」
そんな人間の本音を告げられ、ディノは泉のような瞳をそっと揺らした。
こうして見れば、同じ色をしている違う泉のようだ。
今のディノは、そこにネアがいなくても、どれだけ不機嫌な時も、もう、あのような冷めきった瞳を見せはしないだろう。
ネアがいなくてもディノにはノアもいるし、リーエンベルクがあって、ウィリアムやアルテア達もいる。
心の動かし方を知った魔物は、どれだけ残忍な振る舞いをしても、きっとあの日のディノとは違うのだ。
「………君は、……………ずるい」
「まぁ。どうしていつも、その言葉に到着してしまうのです?」
「君が私を怖がる事はもう、………ないのだと考えられるようになったけれど、薔薇の示した秘密を覗いても、私を恐れはしないのだね」
(まぁ…………)
そんな言葉を目元を染めて恥じらうように告げた魔物のどこか危うい美しさに、近くを歩いていたご夫婦ががくりと膝を突いてぜいぜいしていた。
屋台に寄る為に魔術の道を出たからか、周囲には祝祭を楽しむ人々が大勢いる。
それは、かつてのネアハーレイも、そしてかつてのディノも。
そのどちらもが入れなかった、穏やかで幸福な賑やかさに満ちた人々の輪だ。
「………もしかしたら薔薇さんは、そんな私の秘密こそを、ディノに教えてくれたのかもしれませんね」
「そうなのかな。………ネア、有難う」
「むむ、どんなディノもお気に入りなだけで、お礼を言われてしまうのですか?あまり甘やかしていると、私はとても強欲になってしまいますよ?」
「…………うん。私のものは全て君にあげよう。ほら、君の話していた店に着いたよ」
「で、では、このふかふか薔薇のパンケーキサンドを一つ買ってくれますか?他にもお目当ての店があるので、ここはまず、半分こしましょうね」
「ずるい………」
二人が最初に買ったのは、小さく薄く焼いたパンケーキに薔薇のクリームを挟んだ優しい焼き菓子だ。
ネアが両手の親指と人指し指で作る輪ぐらいの大きさで、半分に割って一緒に食べる。
本当はビーズの列に並びながら食べるつもりだったのだが、薔薇クリームがパンケーキの熱で溶けてしまいそうなので、その場でいただく事にしたのだ。
ディノは、ネアが落ち着いて食べられるよう、ご主人様を地面に下ろしてくれた。
「……………むぐ?!」
「美味しいね………」
「は、はい!これは素朴めな甘さと、クリームの薔薇の香りに木苺の甘酸っぱさで、とても美味しいです。また素敵なお菓子に出会ってしまいました!」
美味しいものがあると、人間は不思議と上機嫌になってしまうもので、ネアは最初の買い食いで当たりを引いた事にすっかりご機嫌になってしまい、伴侶の手をむんずと掴んでしまう。
可愛らしいお守り用の銀細工の店を覗き、次の屋台で買ったのは薔薇ジャムの入った一口マドレーヌのようなもの。
これはきちんと見定め、ビーズの列に並びながら食べられるものとし、ほこほこ湯気を立てる一口焼き菓子の紙袋を手に、二人は漸くお目当てのビーズの配布所に辿り着いた。
「皆さん、屋台を見る時間も取っていたのでしょう。こちらはまだ、昨年ほど混み合ってはいませんでした」
「………今年のものは、蕾の形をしたビーズのようだね」
列に並べば、早速今年のビーズの色について描かれた小さな紙が配られる。
ゴミが出ないように配慮され、この紙を持って抽選に行けばなかなか豪華な商品が当たるのも人気の秘訣だ。
今年の抽選会の目玉商品は、歌劇場のペアチケットか、ウィームの馬車観光と知り、ネアは裏面を凝視してしまい慌てて首を振った。
「………鈴蘭の花のようなころんとした薔薇の蕾で、けれども中に詰まった花びらをこれでもかと彫り込んであるのでとても贅沢にも見えます。花鈴のようで上品で可愛くて、今年のものもすっかりお気に入りになってしまいました………」
「色が選べるのだね…………」
「…………何という難問を課してくるのだ」
今年の薔薇のビーズは、五種類から選べるようになっていた。
ノアの瞳のような青紫色の蕾に白灰色のリボンと、うっとりとしてしまうようなローズピンクの蕾に水色のリボン。
内側で光が弾けるような繊細な檸檬色の蕾にミントグリーンのリボンに、泉結晶のような淡い水色の蕾にオレンジ色のリボン。
そして、水晶のような透明な蕾に、こっくりとした上品な赤色のリボンだ。
どれも美しく、それぞれの色の持つ良さがあるので、ネアは無言でじたばたしてしまい、一つを選ぶという儀式の恐ろしさを噛み締めた。
「…………思いがけず、透明な薔薇のものが可愛いのですが、私の好きな色味として、青紫のものも気になります。爽やかな色合いの檸檬色のものも見ていると欲しくて堪らなくなりますし、水色とオレンジ色の組み合わせもこんなに素敵なのですね。………ローズピンクのものも、似たようなものを持っても尚欲しくなる可憐さでした……………。ぎゅ。私にどうしろと言うのだ。恐ろしい試練です………」
「腕を掴んでくる…………」
「これはもう、狡猾な私は、ディノが選んだもの次第にしますね!違う色を選べば、二色分を楽しめるという狡賢い作戦なのですよ?」
「私が…………選ぶのかい?」
「はい。私はもう全色が素晴らしいという迷路に落ちたので、ディノがまず、好きな色のものを選んで下さい。私は違う色を選び、お持ち帰りのものを二色にする作戦です!」
「…………好きな色」
突然そんな試練を与えられてしまった魔物は、おろおろよろよろしながら何とか一つのビーズを決めた。
ネアには少しだけ予感があったのだが、青紫色の薔薇の蕾のものを選んだのはやはり、どこかノアを思わせる色彩で、自分に近しく感じからだろうか。
となると少しは選び易くなった筈なネアであったが、その試練がより厳しくなったのは、まさにそれからであった。
最も選びがちな色が選択肢から除外された結果、普段は二番手以降となる色の組み合わせの中から、一つだけを選ばねばならなくなったのだ。
「むぐぅ。………ぐぬぬ。ここはもう、順番が回ってきた時にえいやっと決めるしかありません。………透明のものか、檸檬色のものにします。…………しかしながら、水色でもいいかもしれません。さ、三個には絞りましたからね!」
「可愛い。腕を叩いてくる………」
「色ごとの整理列になっていなくてほっとしました。これで、心ゆくまで悩めます………」
買ってきた薔薇ジャムの焼き菓子をもすもすと頬張りつつ、ネアは暗い目でその瞬間に備えた。
とは言え、直前までは透明なもので決めていた筈なのに、気付けば檸檬色のものを頼んでいたので、この色選びの贅沢さはあまりにも闇が深いと言い残しておこう。
「…………ディノ、今年の薔薇のビーズです」
「気に入ったのかい?」
「は、はい!手に取るともう、これしかなかったと思ってしまう綺麗さなのですが、私は同時に伴侶のビーズも愛でられるので、何という贅沢さなのでしょう。今の心模様は大富豪ですね」
「大富豪…………」
あまりにも簡単に大富豪体験をしてしまったご主人様に、魔物はごくりと息を飲んでいる。
二人の手の中できらきらと光る薔薇のビーズは、祝祭の魔術が凝ったような美しさで、心の中にほろりと甘く優しい色を届けてくれた。
その後、薔薇の花が咲き乱れるローゼンガルテンを手を繋いで歩きながら、薔薇のトンネルの美しさを堪能していたネアは、ほんの少しだけの恐怖とも戦っていた。
薔薇が秘密を見せるという事を知ってしまった今、首飾りの金庫の中にあと二個隠し持っている桃の存在が、ディノに知られてしまう可能性があるのだ。
その秘密が露見した際は、自身の身の安全と引き換えに仲間を売ったノアも一緒に叱られてしまうので、薔薇達には是非にこの秘密を明かさないで欲しい。
当面の間、ディノとヒルドをちびころにするのが、邪悪な人間の宿願である。




