135. 薔薇の昼食で奪います(本編)
会食堂に戻ってきたネアは、踊り終えて暫くするとしゅわりと消えてしまった薔薇の花びらの絨毯について、熱く伴侶に語って聞かせた。
ディノは、大はしゃぎな伴侶が可愛い半分、ちょっぴり荒ぶり爪先を差し出してくる。
「まぁ。爪先を踏んでも、もう薔薇は咲かせられないのですよ?」
「…………アルテアなんて」
「いつか、ムグリスディノが歩くとお花が咲く魔術を、ノアに考えて貰いますね。きっととても愛くるしいに違いありません!」
「…………咲かなくていいかな」
「むぐぅ。なぜに突然冷静になったのだ」
そろりとウィリアムの方を振り返ると、白金色の瞳の魔物もしっかりと首を横に振ったので、魔物はあまり好まないようだ。
どうしてなのかなと思えば、高位の魔物にとって、証跡を書き換えられるという呪いはあまり好ましくないらしい。
歩いた後に花を咲かせる呪いの靴を喜ぶのは、主に人間達なのだと知り、ネアは、であればお花の絨毯を作ってその上にムグリスディノを乗せるしかないと考える。
「公にはしていないが、以前、ヴェンツェルが花の精の呪いをかけられ、靴跡に花を咲かせられた事があった。あの時も、なぜかヴェンツェルは面白がっていたな」
「まぁ。ドリーさんにとっては、あまり愉快ではなかったのですか?」
ヴェルクレアの第一王子の秘密を教えてくれたのは、ゆったりとした仕草で椅子に腰掛けたドリーだ。
リーエンベルクを訪れたドリーが、こうしてネア達のところに顔を出してくれるのは久し振りである。
これからエルトのところにも立ち寄るそうで、今年は、こちらもロクサーヌの系譜のものを避けた、艶やかなアプリコットカラーの薔薇をたっぷり持って来てくれた。
大きな籠いっぱいに薔薇を抱えた美麗な火竜が、くしゃりと微笑んでこちらに歩いてくる姿はとても素晴らしく、ネアは、アルテアとのダンスの帰り道で偶然そんな光景を目に出来た自分の強運に感謝しているところだ。
薔薇の祝祭には王都でも様々な催しがあるそうで、今日のドリーは、深みのある赤色と黒の軍服めいた盛装姿である。
竜としては、春闇と氷雪の系譜をご贔屓にしているネアであるし、ここまで鮮やかで強い色彩には少し気後れしてしまうのだが、それでも、金色の瞳を細めて優しく微笑むドリーはとても尊いお姿だと言わざるを得ない。
「アルテアは、今年は王都には寄らないのか?」
「夜には、立ち寄るかもしれないな。だが、…………ウィーム次第だな」
「ああ。薔薇の祝祭だものな。ヴェンツェルも、今年は恋人を見付けられるといいんだが………」
「アルテアさんも………」
「おい、こっちを見るな。それとお前は、何か忘れている事があるんじゃないか?」
「……………む?」
「と言うかアルテアは、昼食には参加しない筈だったのでは?」
そう問いかけたウィリアムに、アルテアはすっと瞳を細めている。
とは言え、ダンスの後の紅茶を用意したりと何だかんだで仲良しな二人の魔物のやり取りを、ドリーは穏やかな瞳で見ていた。
以前にヒルドから聞いた事があるのだが、ドリーは、アルテアを気に入っているようなのだ。
正しく付き合い、互いに同じ方向を見ている限りは、その英知や力を借りることも可能な高位の魔物と出会えるという事は、ヴェンツェルのような大国の王子であっても稀なる恩寵となる。
おまけにアルテアは魔物の第三席なのだから、ドリーにとっては失い得ない竜の宝の防壁に近しいのだろう。
そんな話をしてくれたヒルドにとっても、このリーエンベルクを訪れる魔物達がそんな恩寵になる事もあるのだと思う。
エーダリアは、ウィリアムから教わった鳥籠魔術を応用した結界で、何者かによる襲撃を凌いだ事があるらしいのだから、そうして得られたものの豊かさは確かに守護としての形になっている。
「ネアは、ディノの伴侶になって二度目の祝祭だな。今の生活が幸せなのだろう。いっそうに綺麗になった」
「ふふ。ディノと一緒にいられてとても幸せですので、そう言っていただけると誇らしくなってしまいます。…………まぁ、私の伴侶が死んでしまいました」
「はは、仲がいいからこそ、そうして心が動くのだろう」
ドリーは優しい竜だ。
社交的なバランス感覚も優れており、こんな風に素敵な言葉をかけてくれる。
けれども、社交としての趣きもあるそんな挨拶が、ネアの大事な魔物にとっては刺激が強過ぎたらしい。
またしても目元を染めてくしゃくしゃになってしまったディノに、ネアは、この伴侶の心臓は、今日だけで随分な負荷がかかっているのではあるまいかと不安になった。
よしよしとそんな伴侶の頭を撫でているネアを優しい目で見つめ、ドリーはさてとと立ち上がった。
「お帰りになられますか?」
「ああ。ヴェンツェルを回収しないとだから、あまり長居出来ないんだ」
「……………む。ヴェンツェル様もこちらにいらしているのですね」
「エルゼと共に、エーダリア達と一緒にいる。俺が薔薇を届ける間だけ時間を潰していると話していたが、実際にはエーダリアに会いに来たんだろう。弟と会いたかったのだが、どうしてもまだ素直になれないんだ」
「まぁ。ではエーダリア様も、ヴェンツェル様にお会い出来ているのですね」
ネアがそう言えば、ドリーは嬉しそうに微笑みを深めた。
契約の子供で竜の宝なヴェンツェルが大好きな彼にとって、大切なヴェンツェルと会える事をエーダリアが喜んでくれたなら、それはとても嬉しい事なのだろう。
立ち上がり、優雅だが武人めいた退出の挨拶をすると、ドリーは会食堂を出てゆく。
おやっと思えば、扉の向こうにアメリアが控えていたので、リーエンベルクの居住棟への訪問の間は、やはり付き添いがあったらしい。
ドリーからの薔薇が入った籠は、ここでネア達が自分の分を取ってよく、残りのものは後で騎士達が取りに来てくれるそうだ。
(でも、普段であれば、…………外客棟で会う事の方が自然だった筈なのに、今日に限って、ドリーさんがこちらまで来たのはどうしてなのだろう)
ネアに挨拶をしに来てくれた訳ではなさそうだし、アルテアと約束をしていた訳でもないようだ。
勿論、エーダリア達が不在にしているのを知っているのなら、うっかりすれ違ったという事もないだろう。
そろそろ昼食の準備が始まる会食堂でネアがそんな疑問を口に出してみると、思わぬ事が判明した。
「外客棟には、王都から宰相の使いが来ていたようだね。武器狩りも含めてガレンやウィームとの連携が続いたから、政治的な挨拶の一環だろう。互いに訪問の時間は変えられなかった。であれば、どのような不測の事態があるか分からないからと、ドリーを受け入れる場所を変えたんだ」
「ふむふむ。外客受付のある騎士棟の方には、宰相様の使いの方がいたからこそ、ドリーさんは会食堂に来てくれたのですね。お蔭でお会い出来てしまいましたし、久し振りにお話し出来て良かったです」
「…………浮気」
「あらあら、ドリーさんはヴェンツェル様の大切な竜さんなので、浮気はしませんよ。……………なぜか、勝手に好きだった風になり、結果として意図せず失恋したかのようになった苦い過去もありますので、今後ともそのような誤解を受けないように尽力します」
「それなら、………いいのかな」
魔物にはまだ線引きが分からない事も多いが、こうして荒ぶるのは、魔物なりに甘えてみている部分もあるのだと思う。
ネアは微笑みを深めて、そんな魔物が膝の上に置いていった三つ編みをにぎにぎしてやり、薔薇の祝祭らしい昼食の訪れを待つ。
朝食とスコーンからの蜜薔薇の花蜜をかけたアイスをお腹に収めてからあまり時間は経っていないが、アルテアとのダンスを挟んだのでいい具合にお腹を空かせる事が出来た。
ここでネアは、おやっと眉を持ち上げる。
テーブルに並んだ食器の準備を見ていると、やはりアルテアも昼食に参加してゆくらしい。
とても自然にしているのだが初耳なので、ネアは、薔薇の薫香付けの大事なハムが足りなくならないかと、ついつい給仕妖精の方を見てしまった。
(良かった。お料理が足りなくなったりはしないみたい………)
ネアの無言の問いかけを察した給仕が微笑んで頷いてくれたので、料理が足りなくなる不安はないのだろう。
胸を撫で下ろしたネアに対し、呆れたように溜め息を吐いている赤紫色の瞳の魔物は、突然の昼食参加ではなく、予めの承認を求めていただきたい。
なぜかこちらをじっとりした目で見るので、構って貰いたいのかなとこてんと首を傾げると、選択の魔物はどこか酷薄な眼差しになった。
「……………で、お前の薔薇はどうしたんだ?」
「……………は!」
ここで漸く、残酷で愚かな人間にも、アルテアが帰らなかった理由が腑に落ちてしまった。
一瞬にして血の気が引き、背中には冷たい汗が流れる。
しかし人間はとても利己的な生き物なので、にっこり微笑んでさも計画通りですという柔らかな声を意識する事にしよう。
「先程まではダンスに夢中でしたので、こちらで落ち着いてからと思っていましたが、そろそろお渡しした方が良さそうです」
「ほお、明らかに持って行くのを忘れていたようだがな」
「なんのことでしょう。わたしがつかいまさんへのばらをわすれるはずがありません」
「一つ貸しだ。取り立てを忘れるつもりはないからな」
「濡れ衣なのです……………」
ネアは悲しい目で、計画通りなのだと訴えたが、アルテアは、ゆっくりと首を横に振った。
うっかり、薔薇の花を咲かせるダンスが楽しみ過ぎて薔薇を渡すことを失念してしまっていただけなので、ここはもう、遥かに長生きしている魔物らしく、さり気無く促して欲しかったと思う次第である。
それでは昼食を食べ終わった後でともならないようなので、ネアは、ディノが部屋から持って来てくれていた花籠に手を伸ばし、柔らかな遮蔽布を持ち上げてアルテアの薔薇を取り出す。
例年であれば金庫に隠し持っておくのだが、やはり早めの訪問だったことと、いきなり薔薇の呪いの靴を受け取ってしまったりと想定外が続き、そちらに移すのをすっかり忘れていた贈り物だ。
「アルテアさん、今年の薔薇になります。貰ってくれますか?」
おずおずと差し出したのは、ネアの今年のお気に入りの赤みの強めのラベンダー色の薔薇である。
沿えてある蕾は、アルテアのものには白灰色がかった白い薔薇を選んだ。
華やかさや可憐さより、上品さを意識した組み合わせにしたのだ。
「…………ったく」
「むぐぐ………」
一拍無言でこちらを見つめ、ご立腹感を出した後でその薔薇を受け取ると、それでも選択の魔物の唇の端は僅かに持ち上がる。
冷ややかで魔物らしい微笑みは違う印象にも受け取れるかもしれないが、ネアは、使い魔が機嫌を直したことに気付きほっとした。
魔物達は、恐ろしく酷薄な気質を持つ反面、大事にして欲しい生き物でもある。
抜け目のない人間は、そんな種属性を理解した上で、後でお菓子でも足しておこうと考えた。
「やれやれだな」
「今年は、小粋で優美な大人の女性を意識した薔薇なのですよ?」
「悪くはないが、この揃えの場合は花束にした方が見栄えがするな」
「ぐぬぅ……………」
「アルテア、花束が貰えるのはシルハーンだけですよ?今日はあなたも色々と忙しいでしょうが、忘れないで下さい」
機嫌は直ったようだが、少しだけ大事にされたくなってしまった使い魔は花束を所望であったが、にっこり微笑んだウィリアムに窘められている。
ネアは、であれば仕方ないので、近い内にちびふわにして沢山撫でて差し上げようと考えた。
無言で両手をわきわきさせると、アルテアが顔を顰める。
「おい、その手をやめろ」
「むぅ。さらりとなかったことにしましたが、うっかり薔薇のダンスが楽しみ過ぎてお渡しを忘れた分、ちびふわを沢山なでなでするぞという心の誓いなのです」
「言っておくが、それで支払いにはならないからな?」
「なぬ。では、おかずパイからの、デザートタルトという組み合わせで注文を入れれば良いのでしょうか?」
「何でだよ」
窓の向こうでは、雲間から陽光が差し込み、雪景色に暗さと明るさの入り混じる不思議な煌めきが落ちていた。
上品な灰色の中に煌めく陽光は、どこかグレアムの瞳を思わせる美しさだ。
翼を広げて飛んでゆく雪竜の姿が見え、ネアは、見知らぬあれは誰だろうかと考える。
雪竜だとは思うのだが、初めて見る菫色の体に水色の翼の優美な姿に目をきらきらさせていると、おもむろに伴侶な魔物に羽織物になられてしまった。
「綺麗な竜さんが……………」
「ネア、竜は飼えないんだよ?」
「見ているだけなのです……………」
もう一度窓の向こうに視線を戻した時にはもう、その竜の姿はなかった。
或いは薔薇の祝祭の儀式に参加する為にこちらに出てきたのかなとも考えたが、向かった方向的に違うようだ。
今年のウィームでは、領主参加の小さな薔薇の祝祭の儀式がある。
そこに参加するエーダリア達は、儀式での挨拶を終えると、王都への挨拶回りとなる予定だった。
今年はもう昼食の時間までには戻れないからと、まずはネア達が先に昼食を食べ、エーダリア達はこちらに戻ってから遅い昼食となる。
王都で食事を済ませて来てもと思うのだが、多少遅くなっても落ち着いた場所で食べたいのだろう。
なお、グラストとゼノーシュ達は、王都からのお客への対応で騎士棟での昼食になるそうだ。
(今年の薔薇の祝祭の儀式は、土地の魔術を助けるものなのだとか……………)
毎年行う必要はないが、五年に一度程は、愛情を司る薔薇の祝祭に土地への愛情を約束する儀式が行われるのだそうだ。
半刻にも満たない短いもので、ローゼンガルテンの管理人と各ギルド長などが主導し、エーダリアはあくまでも招待客の一人として儀式に参加する。
そんな儀式の管理は、まずはその祝祭の顔となる者に委ね、領民こそがその要だと考える、現在のウィーム領主の取り決めによる。
必要な準備資金や公的な援助などの、公的資金の投入も含めた手助けを惜しまず、けれども、様々な分野の者達にはきちんとその行いを称賛されるべき場所を与える。
それが、ダリルの指導の下にエーダリアが目指すウィーム領主としての在り方だという。
かつてのウィーム王族が治めた時代とは、リーエンベルクに許された機能がそもそも違うのだ。
ザルツにのみ貴族主導の領地の管理が残っているが、現在のウィームでは、各分野の長こそが様々な運用や試行への権限を持つ。
誰もが現在のウィーム領主を好ましく思っており、そんな最後のウィーム王族の末裔を守りたいと思うからこそ、リーエンベルクと領民達が一体になってウィームを回す仕組みになっているのだった。
やがて、会食堂のテーブルには薔薇色のクロスが敷かれ、花瓶の薔薇がいっそうに美しく際立つようになった。
こぼれるように咲いている薔薇の花びらは、透けるような色の中に僅かな祝福の煌めきを帯びているような気がするので、魔術を認識出来る目があればもっと輝いて見えるのかもしれない。
整然と並べられたシルバーに、真っ白なナプキンの薔薇を載せたお皿。
まずはと出された前菜は、薄く削ぎ落した雪牛のカルパッチョ仕立てで、薔薇の花が咲いたような盛り付けにネアは無言で二度弾んだ。
他にも、雪草と棘豚の蒸し物に、タルタルソースでいただく水晶鱒の香草フリットまで。
雪草はしゃきしゃきとした歯ごたえで、マスタードソースできりっとさせていただく、柔らかに蒸し上げられた棘豚ともよく合う。
棘豚は見た目が少々とげとげした豚という感じの生き物であるが、味わいとしては豚肉と言うよりは、鶏肉に近しいものだ。
種族的には兎に近いと聞けば、ネアはもう何も信じられない心持ちであった。
「まぁ、美味しそうなサラダも出てきました!」
「……………トマトが酢漬けになってるのだね」
「ふふ。ディノの好きな味わいですね」
酢漬け野菜と薔薇のサラダは、リーエンベルクお得意の焼き野菜も混ぜるスタイルの、手の込んだものである。
味の変化として白い山羊のチーズを少し散らし、クリーム系のドレッシングを回しかけ、赤い薔薇の花びらが鮮やかな一皿だった。
(酢漬け野菜の酸味で、ぐっと味が締まるのだわ………)
突然ではあるがサラダ博士となったネアは、複雑な組み合わせで素晴らしい美味しさを描き出したサラダを噛み締め、その美味しさにむぐむぐする。
他の野菜との組み合わせを考慮し、尖り過ぎない程度に酸味を抑えたトマトは、まろやかなクリームドレッシングや焼いたアスパラともよく合う。
そして、美味しさに気の急いた人間が、あっという間にそんなサラダのお皿も空にしてしまった後に、いよいよその時間が訪れた。
「ハ、ハム様が現れました!!」
暖かなジャガイモのポタージュを経て現れたのは、薔薇の祝祭の昼食には欠かせないハム盛りだ。
今年はセージグリーンのお皿の上に、美しい薔薇の花のように盛り付けられたハムには、ほこほこの塩茹で薔薇の精が添えてある。
緑色のブルーベリーのような形状の薔薇の精は、食べ残しを許さないという、なかなかに過激な食材である。
とは言え、綺麗に平らげてしまえば美味しいだけなので、ネアは、薔薇の精というものの生涯については深く考えないようにしていた。
今年はマスタードソースとリーエンベルクのオリジナルマヨネーズソースが用意されており、ネアは薔薇の祝祭と言えばの味覚への期待で頬を緩める。
(そのままの塩茹ででも美味しいから、全部の味を楽しまなくては………!)
見ようによっては素朴な主菜だが、この一皿がどれだけ美味しい驚きを齎すのかを知っているネアは、テーブルの下で爪先をぱたぱたさせてしまう。
「……………あぐ」
まずは、ほこほこ湯気を立てている薔薇の精をフォークに差し、美味しいマヨネーズソースをつけてぱくりといただく。
そして、お久し振りの素朴でほっこりした味わいを、ネアはじっくりと味わって飲み込んだ。
隣の席では、ディノもさっそく薔薇の精を美味しくいただいているので、そんな魔物のお皿には、抜け目なく交換用の薔薇の精をころんと載せてみる。
「……………可愛い」
食べ物の交換は、愛情の上位行為だ。
そんな世界では不用意に一口頂戴と言うような通り魔が現れない良い文化だとも言えるが、魔物な伴侶にとっては大切な心の通わせ方でもあるので、疎かにしてはいけない。
薔薇の精の対価としてディノから贈られたのは、ネアの大事なボロニアソーセージだ。
チーズと香草の味のもので、中に入ったチーズはミモザ色の濃厚な味わいである。
「……………ふぐ?!」
一口食べてあまりの美味しさに背筋を伸ばしてしまったネアに、ウィリアムがくすりと笑った。
「気に入ったんだな?」
「はい。…………これは、とても良いものです。チーズが濃厚なのに、香草の香りが爽やかで、薄く輪切りになどしなくても、一本丸ごといただけるかもしれません」
「おい。春告げまでは、腰は残しておけよ」
「こ、腰は健在です!アルテアさんは、先程のダンスで触ったではありませんか!」
「アルテア、塩はひと瓶でしたっけ?」
「そんな訳ないだろうが」
「アルテアなんて…………」
ネアは、幸せな思いでハムを沢山食べた。
途中でウィリアムとアルテアがわちゃわちゃしていても、ディノがそっとハムをお皿に増やしてくれても、偉大なるハムの信奉者は、パンとの配分を見誤らない賢人なのである。
(ここにいるのは、魔物の王様と王族と、公爵様なのだけれど…………)
そんな美しく恐ろしい生き物たちが、パンとハムを食べながら薔薇の祝祭で同じテーブルに着いている。
そう考えればあまりにも贅沢な昼食会を見回し、ネアは最後にとっておいた、本日の最優秀賞となるボロニアソーセージの薄切りをぱくりと口に入れた。
ふと、ウィリアムと目が合うと優しく微笑んだ終焉の魔物が、こちらもネアのお気に入りだった焼きハムが残っている自分のお皿を見て、今度はネアの方を見た。
(……………む)
目をしぱしぱさせ、ネアは、そろりと銀のフォークを持った手を伸ばした。
強欲な人間なりに解釈すれば、ウィリアムは焼きハムの強奪を許してくれるようだ。
「…………ネア?」
「ぎゃ!」
しかしそこで、ご主人様の不審な動きに気付いてしまった魔物が声を上げてしまい、その声にさっとこちらを見た使い魔の視線にネアは進路を塞がれてしまう。
「お前はもう、シルハーンからも充分に貰っているだろうが」
「ぐるるる!!」
「うーん、アルテアは意地悪だなぁ。ネア、食べていいからな」
「………ぎゅ。チーズがけ焼きハム……」
時として人間は、どれだけ困難な局面であっても負けられない事がある。
アルテアの厳しい眼差しを受けながら、ネアは震える手でフォークを伸ばした。
とは言え、チーズがけ焼きハムはとても尊いものなので、丁寧に自分のお皿に移設するべきものだ。
無事に強奪が終わり笑顔になると、そんな貢物をしてくれた優しい終焉の魔物も微笑みかけてくれた。
そんな様子を見たディノが自分のハムをまたくれようとしたので、ネアは、そんな魔物には薔薇の精にマヨネーズをつけてえいっとお口に入れてやっておいた。
「……………虐待」
「ディノはもう、ボロニアソーセージと、生ハムの蜂蜜結晶がけをくれたので、満腹ではない限りは自分のお皿を楽しんで下さいね?私の大事な魔物にとっても、美味しい薔薇の祝祭のお昼であって欲しいのです」
「ずるい…………」
ナイフで半分に切り分け、焼きハムをぱくりと食べたネアは、むちむちじゅんわりと蕩けるチーズとハムの至高の組み合わせに椅子の上で小さく弾んだ。
このチーズが塩味の強過ぎない新鮮なものなので、焼きハムと合わせても味が強くなり過ぎず、単体でおいしく食べられるようにしてくれている。
つまり、どれだけでも食べられるのだ。
「……………むふぅ」
「いい加減、食べ過ぎだぞ………」
「ふむ。では、狩りなどでまた体を動かせばいいのです。白けものさんと、ボール遊びをするのも吝かではありません」
「却下だ」
「それなら、今度砂漠の下にある森で、果実梟でも狩るか?捕まえると、その梟の食べていた果実の結晶石が取れるらしい」
「まぁ!新しい獲物ですね。行きたいです!」
「ウィリアムなんて………」
「ディノも行きませんか?狩りの間に退屈してしまいそうなら、ムグリスディノになっていてもいいですものね」
新しい場所に行くと知り、アルテアは更に渋面になったが、昼食を終えたネアがまだ薔薇色の靴を脱ごうとしないのを見て、少しだけ機嫌を直したようだ。
次の約束をしているウィリアムから、行き先が外だと聞いて戦闘靴に履き替えるまで、ネアはお気に入りの薔薇色の靴を履いた爪先を動かし、お腹を温めてくれる美味しい昼食の余韻に浸っていた。
ふと、今年は多いという積み残しの人々について考える。
ネアとてもし、この世界に一人でいたらどうだろう。
美しいウィームを貪欲に楽しむべく、しっかりとした調査の上で選び出したとっておきの獲物に、思いを込めた薔薇の花を贈ってしまう通り魔になったかもしれない。
そんな事を考えながら、一人でも多くの通り魔が、思いがけず得られた素敵なお相手と幸せになれるようにと祈ったのは、強欲な人間がいつの間にかすっかり満たされてしまっているからだろう。
いい気分になったネアは、そっと伴侶の爪先を踏み、魔物をきゃっと恥じらわせておいた。




