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薔薇と回復薬




その日、ウィーム領主の執務室に侵入した者がいた。

夜明けにも近い時間にそろりと忍び込んだその姿に、エーダリアはぎくりと扉の影に隠れる。

隠れてしまってから、そんな条件反射を示してしまった自分に溜め息を吐いた。


かつてまでのそれは、何者かが差し向けた自分を害する者を警戒する上で。

そして最近からのそれは、うっかり夜更かしをしてしまい、自室に帰る姿をヒルドに見付からないようにする為に。



そして今日の対応としては、後者の後ろめたさであった。



今日は薔薇の祝祭であるというのに、エーダリアは昨晩から殆ど眠っていない。

よりにもよって、昨日の夕方にネアから借りてしまった塩の魔物の転落物語による弊害なのだが、ヒルドどころか、ネアにだってその本を夢中で読んでしまい、気付けば夜が明けかけていたとは言えないではないか。



よって、今のエーダリアにはどうしても、執務室に準備されている、徹夜の執務の為に使う特別な回復薬が必要なのだった。



本来であればそのようなものは自室に置きたいのだが、残念ながらヒルドに全て取り上げられてしまい、読書の為に使う薬ではないのだからと、執務室の保管を義務付けられている。

だからこそ、足音を立てないようにこっそりとここまで来たのだが、まさか先に侵入している者がいるとは思いもしなかったのだ。



(……………だが、こちらには気付いてはいないようだ……)



その小さな影は、冬毛の尻尾をふさふささせながら、弾むように歩いている。

一度ボールの縁飾りのあるボール籠の前でぎくりと足を止めたが、じりじりと後ずさりして距離を置くと、その後は真っ直ぐにエーダリアの執務机に向かう。



(何かを届けに来たのだろうか…………)


何かを口に咥えているようだが、この角度からは良く見えない。

エーダリアは扉の影で首を傾げつつ、小さな侵入者がぐぐっと体を屈めて身軽に椅子の上に飛び乗り、次に机の上に飛び乗るまでを見守った。


机の上に飛び乗った際に、置かれていた機密ではない資料書類の山が微かに動き、そこでまたぎくりとしたようにけばけばになる。

けれども資料書類の山が崩れなかったので安心したものか、なぜか誰もいない筈のエーダリアの執務机の上で誇らしげに胸を張っていた。



(無事に目的を達したことが嬉しいのだろうか…………)


まだ窓の外が暗いので、こちらから表情までは見えない。

淡い淡い夜明けの予兆である光の当たる角度によって、その毛並みが見えたりはするのだが、口元に咥えているのが何なのかも、まったくの謎のままだ。



ことりと、音がした。



(…………………あ、)



ここでエーダリアは、銀狐が自分の執務机の上に何を届けようとしていたのかを理解した。


慎重な仕草で置かれたそれは、まだ冬の気配の強いウィームの夜明け前の空の淡い光を受け、きらきらと光る塩結晶の薔薇の置物だ。


いつだったか、ノアベルトが鳥の巣を再現する為にそのようなものを作り、以降エーダリアは、その時の見事な塩結晶の鳥の巣の置物を執務机の上に飾ってある。

そこに並べるようにして鼻先で押し出されたのは、見事な花と一枚の葉をつけた薔薇の枝の置物、なのだろう。



(…………………薔薇の祝祭だからなのだろうか)



そう考え、なぜだか胸が苦しくなった。


この国では、王都だけの独自な風習ではあるが、薔薇の祝祭の日に、大事に思う相手の部屋や枕元に、薔薇の形をしたものをそっと置いておくという風習があった。

その当時のエーダリアと同世代の子供達が起き出してくると、無邪気に枕元に置かれていたものを自慢するお喋りが回廊の向こうから聞こえ、居心地の悪さに逃げるように部屋に帰ったものだ。



その頃から王宮にいたのだから、塩の魔物はそんな風習を知っていたのだろうか。



エーダリアに最初に薔薇を贈ってくれたのはヒルドで、とは言えそれは、植物の系譜の人外者からの守護や祝福を得るのではないかと周囲の者達を警戒させるような、薔薇の花ではなかった。

薔薇の祝祭に則り、特別な祝福を得ることすら禁じられていた時代がエーダリアにはあったのだ。



どこからか仕入れた薔薇菓子が包まれた茶色の包み紙を、ヒルドが、その日の授業の合間にそっと机の上に乗せてくれたあの日。

当時はヒルドも制約の多い立場であったし、寧ろその中でよくあんな風に慈しんでくれたものだと思う。

このリーエンベルクに来てからは、薔薇の祝祭の朝に目が覚めると、枕元のカーテンの織り柄が見事な薔薇の花を咲かせていたりして、心を和ませたこともある。



でも、あの日に、この手にもと欲したような薔薇の祝祭の贈り物を、与えられたのは初めてだった。



もう一度扉の影にしっかり体を隠し、弾むような足取りで銀狐が部屋を出てゆくまで息を殺していた。

軽やかな足音が遠ざかってゆき、エーダリアはゆっくりと自分の執務机に向かう。



そこに置かれていたのは、息を飲む程に美しい塩結晶の薔薇の小枝だ。

微かに青紫がかった硝子のような結晶で、驚く程に光を集め煌めいている。



「……………っ、」



小さく嗚咽のような声が漏れ、きらきらと光る塩結晶の薔薇に指先で触れた。




あの日、小さな子供が欲しかったものが、ここにある。

けれども、それを欲していると自分で認めてしまったなら、エーダリアは、あまりにも惨めで立ち上がれなかっただろう。

あまり会うことが出来なかった母親は、そのような手配をするだけの力がなかったのか、或いはそのような風習に気付いてすらいなかったのかもしれない。


勿論こちらでも一般的な風習であれば、ネア辺りが率先して手配しただろう。

だが、ウィームにはない風習であり、恐らくはヴェルリアでも、王宮や貴族達の間のごく一部でしか行われていないようだった。



(だから、これが初めてのものだ…………)



恐る恐る手のひらに取り上げ、その重さに唇の端を持ち上げる。

仮にも、公爵位の魔物の要素を結晶化させたものなのだ。

握り締めても壊れることはないだろうが、万が一にも壊したらいけないので、指先を閉じるのは怖かった。



(……………いい気分だ。何だろう、…………もう回復薬などいらないのではないだろうか………)



胸の奥が星屑のように弾ける不思議な昂揚感に、とは言え、こんな喜びの後だからこそ薔薇の祝祭ではしっかりしていなければと、回復薬の保管をしている棚の扉を開けた。


その時だった。



「……………やれやれ、このような日に夜更かしをされるとは………」

「ヒルド?!」



背後からかけられた静かな声に、思わず飛び上がりそうになった。

手に持った薔薇を落さないように慌てて振り返ると、廊下から執務室に入る為の続き間の入り口に、ヒルドが立っている。

そしてその足下にはなぜか、けばけばになった銀狐が、後ろ足を開いてしまうような姿勢で座り込んでいた。



「いつからそこにいたのだ…………」

「最初からおりましたよ。身を潜めるということであれば、私程慣れた者もいないでしょう。それに、ネイは、最初に私の部屋に来ましたからね。残りの薔薇を運んでゆくので、恐らくはこちらだろうと思いまして、扉の閉め忘れなどがないよう後をつけたのですが、まさかあなたまでいるとは思いませんでした」

「……………………す、すまない。その、だな…………」

「恐らく、ネア様から借りた塩の魔物の転落物語でも、読み耽っておられたのでしょう」



ヒルドのその言葉に、銀狐は飛び上がった。

もの凄い勢いでこちらに走ってきて、飛び上がってエーダリアの足に何度も体当たりをする。

よりにもよってこんな日にその本を読んでいたことに精一杯の抗議をしているつもりなのだろうが、涙目なので申し訳なくなってしまった。


溜め息を吐いたヒルドがこちらに来ると、弾んでいる銀狐を捕まえそのまま抱き上げる。



「ネイ、あの薔薇は、ヴェルリアの王宮の風習ですね?」


そう尋ねたヒルドに、前足でヒルドの腕をぐいぐいと押していた銀狐が顔を上げる。

控えめではあるが、冬毛の尻尾がゆっくりと振られた。



「…………ノアベルト、素晴らしい贈り物だ。大切にする。…………有難う」



なぜか上手く喋れず片言になってしまったが、初めてのその言葉が心を震わせ、エーダリアは小さく微笑んだ。


ヒルドからもお礼を言われ、銀狐は尻尾を振り回していた。

この後はまず間違いなくヒルドからのお説教が入るだろうが、今日は良い祝祭になりそうだ。



そう考えて、白み始めた窓の外に目を向ける。

薔薇の祝祭の朝が訪れようとしていた。











本日は更新お休みとしておりましたが、短いお話が間に合いましたので更新させていただきました!

明日は通常通り更新予定です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 大きな魔術が動くわけでもなく、恋が語られるわけでもありませんが、薔薇の祝祭のこのお話がとても好きです。
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