薔薇の置物と薔薇菓子
薔薇の祝祭の前夜に、今日もリーエンベルクの廊下を忍び歩く影があった。
てしてしと絨毯を踏み、ふさふさの胸毛を誇らしげに見せつけ尻尾はぴしりと立てている。
咥えているのは青紫色の影を宿した細長い水晶のようなもので、時折窓から差し込む夜の光にきらりと光っていた。
うっかりその光景を見てしまったのは、執務室に隠し持っていた魔術書を月明かりに晒していたところを見付かり、叱られていた帰り道のエーダリアと、そんなウィーム領主を叱ったばかりのヒルドだ。
(今年は、夜明け前ではなく、就寝前の時間にしたのだな)
まさかの、執務室にいる筈な尋ね人が後ろから歩いてきているとは露知らず、銀狐はムギムギと廊下を歩いている。
エーダリアはヒルドと顔を見合わせて苦笑したが、そうして微笑んだ心の片端に、慣れない喜びがこぼれ落ちる。
銀狐姿の塩の魔物がどこに何を運んでいるのかを、エーダリアは知っていた。
このヴェルクレアの王都では、薔薇の祝祭の前夜に贈り物をする風習がある。
王族や貴族の間くらいでしか行われないものだが、大切な相手の部屋や枕元に、薔薇の形をしたものを置いておくのだ。
(そんな薔薇の贈り物を、ノアベルトが今年も………)
正直なところ、一度きりだと思っていたので驚いた。
あの一輪の薔薇だけで、例えようもない恩寵であるし、その一輪が齎すもので、エーダリアの小さな失望を埋めるには充分だろう。
それでも、今は銀狐姿のこの契約の魔物は、今年も薔薇を届けてくれるらしい。
こつんと、くぐもった音が響く。
石造りの床を踏み、天井の高い王宮の廊下や回廊で靴跡を消すのは、いつも難しかった。
音の壁を展開しなければ、小さな声もよく響く王宮の回廊では、薔薇の祝祭の朝になると昨晩の贈り物はどうだったかという楽しげな囁きが満ちる。
儀式的な面を除けば、愛情を司る祝祭とは無縁であったエーダリアだが、それでもそんな回廊を歩かねばならない事もあった。
さして年頃の変わらない貴族の子供達が、家族に連れられて王宮への挨拶に訪れている。
窓から差し込む細い朝の光を踏み、名前も知らない誰かの楽しげな声に下を向いた。
息を薄く吸いながら胸を冷やし、早く、一刻も早くと部屋に向かう。
自分の小さな足が悲しく、この手が、そんな贈り物などと笑い飛ばせないくらいに大きくない事がもどかしくてならない。
自分とて、恵まれた子供である事は知っている。
誰かに殺される事はあれど、寒さや暑さを凌げない事はないし、飢えて死ぬこともないだろう。
それでも、どんなに我が儘でもいいから、その薔薇の贈り物が欲しかった。
その時のエーダリアは決して認められなかったが、欲しくてならなかったのだ。
ことんと音がして、エーダリアははっと息を飲む。
あの日のひりつくような孤独を思い返していると、いつの間にか、銀狐はエーダリアの執務室の前に辿り着いていた。
そこで、扉がきっちり閉じられている事に気付き、銀狐は咥えていた塩の結晶の薔薇を床に置き、けばけばになっている。
ムギーと叫んで飛び跳ねている姿に、エーダリアはなぜかほくほくと温まった胸をそっと押さえた。
「やれやれ。この時間は、執務が終わっていれば施錠されていることを、すっかり忘れているようですね」
「ああ。だが、普段は理解していた筈なのだが、今夜は忘れてしまったのだろうか………」
「もしかすると、昨年は、解錠の音が響くのを恐れたあなたが、執務室前の廊下にさしかかる前に魔術解錠したからでは?」
「………っ、…………だ、だが、あの日だけの事だったのにか?」
慌てて弁解すれば、ヒルドはどこか呆れたような目でこちらを見るではないか。
まさか、塩の魔物が、それがあの夜だけの偶然だったことを忘れてしまっているとは思えなかった。
しかし、視線を戻すと、執務室の前でムギャムギャと大騒ぎしている銀狐がいるので、エーダリアは少しだけ自信がなくなってしまう。
「………さて。そろそろ参りましょうか。ネイも、限界でしょう」
「あ、ああ。………この距離でも、こちらには気付かないものなのだな」
ゆっくりと歩み寄り、執務室の扉の前で腹部を出して転がって暴れている銀狐を見下ろせば、最後にムギャワーと一際高く鳴いた銀狐が、はっと目を丸くする。
けばけばになって固まったその姿に、すまないと思いながらも、エーダリアはくすりと笑ってしまった。
勿論、そんな銀狐の隣には、上質な青紫色の煌めきのある見事な薔薇の置物が置かれている。
飛び上がるようにして慌てて起き上がった銀狐は、なぜかきちんと座って前足を揃えてみせ、まだ冬毛の見事な尻尾をふさふさと振ってこちらを見上げる。
「すまないな。ヒルドと話をしていて、執務室を空けていたのだ」
「おや、私からの話があってという表現が正しいのでは?」
「ヒルド………」
そのやり取りで、銀狐はどんな用事でエーダリアが執務室を空けていたのかを察したのだろう。
なぜか神妙な面持ちで頷き、小さく足踏みしている。
そして、少しだけそわそわした後に、床に置いてあった塩結晶の薔薇を咥えると、すすっとこちらに差し出した。
「…………これを、私にくれるのだな」
穏やかにそう呟いたつもりが、声が揺れてしまった。
じわりと目の奥に滲むような熱があるが、さすがにこの場面で泣きたくなる訳はないだろう。
きっとそうだ。
少しだけ狼狽えて微笑みを作り直せば、隣に立ったヒルドが、小さく微笑む気配があった。
こちらを見上げた銀狐も、塩結晶の薔薇を咥えて機嫌よく弾んでいる。
体を屈めて、床に膝を突いた。
こんなことすら、リーエンベルクに来てから許されるようになったのだと思えば、不用意に隙を見せることすら危うかった王宮での暮らしを思い、また胸の奥がざわめく。
こちらを見ている銀狐の眼差しは宝石のような青紫色だが、魔物としてのノアベルトの時のように、光を孕む鮮やかさではない。
ネアがよく、究極のただの狐の擬態なのだと話しているが、確かにこうして見ていると、普通の獣にしか見えなかった。
(だが、…………これから先、どのような生き物が一番好きなのかと問われれば、私は狐だと答えるだろう)
竜は好きだ。
憧れでもあるし、魔術的にも興味がある。
それでももう、エーダリアにとっての狐という生き物は特別で、そんなものが得られた事が幸せでならない。
視察先でボールを見れば買ってしまうし、狐温泉で沢山の狐達を見たが、ノアベルトの擬態する狐が最も愛らしく美しいと感じた。
それは、妖精の中のヒルドにも言える事であるし、ウィームという土地への愛着でもある。
そうして、自分の中のかけがえの無いものを得る度に、心は豊かで安らかになってゆく。
満たされる事は即ち、当然の形に回帰するのだと話していたのはネアであった。
漸く、当然の権利を得てその普遍的な幸福を噛み締めるのだから、どれだけ贅沢になってもいいのだと教えられ、その時のエーダリアは少しだけ呆然としてしまったものだ。
けれども多分、その当たり前のものを得られず、或いは失った者達ばかりが集まる場所だからこそ、そろそろ強欲に当然の恩恵だと言えるようになるべきなのかもしれない。
尻尾を振り回している銀狐から薔薇を受け取り、昨年とはまた違う造形と色合いに心が震えた。
(ノアベルトから貰う塩結晶の薔薇は、これで二つ目だ)
これからも増えるのだろうか。
或いは別の形になってゆくのだろうか。
どちらにせよ、きっとここで家族の時間は続いてゆく。
そうでなければ困るのだ。
昨年とは違う品種のものを置物にしてくれた薔薇の置物に、この贈り物を用意してくれたノアベルトを思う。
昨年が上品な華やかさを思わせるのなら、今年のものは可憐な美しさを感じさせてくれる薔薇で、ふっくらとした蕾が解けるように花びらが重なる様子は、結晶石とは思えない柔らかさであった。
ふと、葉にぽたりと落ちた赤い血が、記憶の底の方から蘇った。
(……………ああ。もう、忘れていたつもりだったが………)
それは薔薇の祝祭に届けられた一輪の薔薇で、ふくよかなオレンジ色のものだったことを今でも覚えている。
誰が届けてくれたものか、王子であった頃のエーダリアに届く薔薇はそればかりではなかったが、その薔薇は、まるで心を届けてくれた誰かがいたかのように、ひっそりと秘密めいた面差しであった。
だからこそ、エーダリアは油断した。
一輪の薔薇をこのように届けてくれたのなら、きっとその薔薇は優しいものなのだろうと考え、不用意に手に取ってしまったのだ。
細い薔薇の茎に忍ばされた呪いが指をざっくりと切り裂き、エーダリアは深々と切り裂かれた指に滲み、じわりと赤く盛り上がった血の粒を見ていた。
ぽたりと、こぼれた血が薔薇の葉に落ちる。
引き攣れたように息を吸い、惨めさに打ちのめされてひりついた息を飲むと、背後に立ったヒルドが無言でその薔薇を取り上げ、エーダリアを後ろから抱き竦めるようにして指の傷に触れた。
『……………傷は塞ぎましたが、呪いの引き剥がしはドリー様にお願いしましょう。手に入れてあった魔物の薬がありますし、傷は私が治しましたが、この呪いは火の系譜のものですからね』
背中越しに感じるヒルドの気配と、耳元に落とされた静かな声から、ヒルドは怒っているのだと分かった。
けれどもそれは酷く抑制されており、ヒルドが怒っているのが、迂闊な自分の振る舞いになのか、それともこの呪いを敷いた何者へなのかまでは判別がつかなかった。
今であれば、それは、この身を案じてくれたからこその怒りだったのだろうと断言出来る。
けれどもその頃はまだ、ヒルドが本当にその叡智や力を貸してくれるのか、確信が持てずにいた。
それでも、初めてという程に近くに感じたその体温に心が震え、真っ赤な血のその赤さが深く深く心に残った。
皆が喜びに弾み、期待や幸福に微笑むその日に届けられた悪意に、もろもろと崩れ落ちてゆく冷静さがある。
その無惨さを感じながら、エーダリアは、こんな事は珍しくはないのだと笑おうとした。
これっぽっちの事で大袈裟に傷付いてみせ、やっと手に入れたヒルドの助力を失う訳にはいかない。
この無力な人間の子供を庇護する事が、どれだけ無謀な事なのかを、どうしてもヒルドにだけは、知られたくはなかった。
あの夜は、無心で魔術書を読んだ。
禁書の書架に忍び込み、これこそが自分を育てて救う確かな術だと自分に言い聞かせながら、何も考えなくてもいいように、目が乾いて痛みを覚えるようになっても、頁を捲った。
ふと、優しい贈り物を手にそんな日の記憶が蘇ったのは、エーダリアの心が、その凝りを洗い流そうとしたからなのだろうか。
「エーダリア様?」
動きを止めて受け取った薔薇を見ていたからか、ヒルドが訝しげに名前を呼ぶ。
「……………王宮にいた頃、届けられた薔薇で手を切った時の事を思い出したのだ。あの時の私にはまだよく理解出来ていなかったのだが、…………お前はあの日、私が傷付けられた事に腹を立ててくれたのだろう?」
そう言って隣に立ったヒルドを見上げれば、もう、これからはずっとここにいる筈の妖精が、瑠璃色の瞳を瞠る。
エーダリアが塩結晶の薔薇を手にした事で尻尾を振り回していた銀狐は、あんまりな思い出話に全身をけばだたせていた。
「………と言うより、激昂しておりましたよ。あの頃のあなたは、自分を傷付ける悪意の持つ嘘にも縋るような、不安定なところがありましたからね。あの薔薇を届けさせた愚かな男は、その夜の内に海の乙女達にくれてやりましたが」
「…………っ、その夜の内に………?」
ヒルドであれば、手を伸ばした者の為に心を砕いてくれていた筈だ。
そう考えて告げた言葉であるが、まさか、薔薇の送り手がそのような事になっていたとは思わなかった。
ぎょっとして目を瞠れば、ヒルドは事もなげに頷く。
「ええ。幸い、姿を晦まして騒ぎになるような階位の者ではありませんでしたし、ヴェンツェル様も腹を立てておりましたからね」
「………兄上が?」
「おや、お気付きではなかったのですか?朝議の後、あの方は会議で出されて辟易したと、ご自身の朝食を持って訪れられたでしょう?」
「ああ。………ドリーが用意し過ぎたのだと話しておられたな」
「それは、あの方なりの気遣いですよ。竜が契約の子供、それも自身の竜の宝の為に作った食べ物であれば、あのようなことがあった後でも安心して食事が出来るでしょう?」
説明されて初めて、あの日の兄の優しさに気付き、息を飲んだ。
あの日、なぜか部屋にはドリーもやって来て、火竜との縁が深いヴェルリアに於いても、伝説とも言わしめるだけの竜に見つめられ、とても緊張しながらサンドイッチを食べた。
正直なところ、兄やドリーが突然部屋を訪れた理由が分からずに緊張し過ぎており、味はよく分からなかったが、それでも届けられたものを食べる事への躊躇いはなかったような気がする。
(……………そうか)
そうかと思い、また揺れてしまった心をそっと支えるように胸に手を当てる。
心配そうにこちらを見上げている銀狐に、貰った薔薇をそっと持ち替え、その頭を撫でた。
「すまない、せっかくの贈り物なのに、このような話を聞かせてしまったな。………こうしてあの日々に望んでいたようなものを貰った事で、記憶が………この薔薇を手にした喜びであの日の落胆を塞ごうとしているのだと思うのだ。………お前のお陰で、やっとヒルドともあの日の話が出来た」
エーダリアは元々、思っている事を説明するのが得意ではない。
ネアがディノと話している時の様子を思い起こしながら、心配をかけないようにそう伝えるには、少しばかり骨が折れた。
きちんと伝わっただろうかと不安になっで様子を窺えば、そんな事を言われてしまった銀狐は、またしてもけばけばになっている。
なぜかぴょんと弾むと、くるくると円を描くように駆け回り、ムギーと声を上げて鳴いている。
そして、飛び上がってエーダリアに体当たりをしてから、一生懸命に体を擦り寄せてくれた。
「こ、これは、伝わったのだろうか………」
「慰めているつもりのようですね。………いいですか、あの日の事は、策謀ですらない稚拙な嫌がらせです。触れる前に取り上げられなかったのは、私の手落ちでした」
「ヒルド………、すまない。そのようなつもりで口にしたのではなかったのだ」
慌ててそう言えば、ヒルドは短く首を振った。
妖精の中でも長命な一族の者なのだ。
あの日からその姿は殆ど変わっておらず、それでも彼は変わったと思うのは、その表情がはっとする程に柔らかくなったからだろう。
「やれやれ、そのくらいは分かっておりますよ。ただ、薔薇の送り手について思いを馳せる必要はないとお伝えした迄です。本来であれば、あなたが知る必要などなかった、下らない悪意ですからね」
「……………ああ。そうする」
きっぱりとそう言い捨てたヒルドに、思わず苦笑してしまった。
であればこの妖精は、そう考え腹を立てながら、薔薇を贈ったという人物を海の乙女達に引き渡したのだろうか。
そんなヒルドを想像したら、あの頃の自分達の面差しは決して明るくはなかった筈なのに、なぜか、今のヒルドの姿で思い浮かべてしまったのだ。
「有難う、ノアベルト。…………そうだな。このような贈り物を貰えた事で、また一つ不要なものを手放せたような気がする。………い、いや、ボールはお前の宝物なのだろう?それはくれなくてもいいのだからな………?」
どこから取り出したものか、お気に入りの青いボールをぐいぐいと押しつけてきた銀狐に、エーダリアは慌てて首を振った。
この優しい銀狐は、もっと喜んで貰おうとしたものか、自分のボールまで分けてくれようとしたのだ。
だが、お気に入りのボールを手放すのはやはり辛いのか、尻尾はけばけばになっているし、涙目で震えているではないか。
「ネイ、それはあなたが持っていてもいいのではありませんか?どちらにせよ、使う際にはあなたが必要なのですから」
見かねたヒルドがそう提案してくれると、銀狐は目を丸くしてこくりと頷いた。
ほっと胸を撫で下ろして微笑むと、では投げるだろうかとボール遊びの時の様に押し付け方を変えたので、くすりと笑ってしまった。
「そうだな。まだ少しくらいはいいだろう…」
「エーダリア様?あの魔術書をしまってあった、抽斗の魔術洗浄をされるのでは?」
「………っ、」
そもそも、なぜヒルドがここにいるのかをうっかり失念していたエーダリアは、ぎくりと体を強張らせた。
そろりと振り返ると、ヒルドは先程までの柔らかな眼差しではなく、微笑んではいるものの、しっかり最後まで魔術洗浄を見届けると決めた厳しさでこちらを見ている。
銀狐もぽとりとボールを口から落とし、慌ててエーダリアの足の間に隠れてしまった。
「………ですがその前に、まずは紅茶でもお淹れしましょう。ウィームはまだまだ雪が残る季節ですから、廊下も冷えますからね。それから抽斗の魔術洗浄を済ませ、今夜は早めにお休みいただきますよう。………くれぐれも、また別の本などを読んで、回復薬を使ってはいけませんよ」
「そ、………そうだな。明日は薔薇の祝祭なのだ。早めに眠るようにする」
「ボール投げも結構ですが、十回までとします。ネイ、あなたもですよ?明日は、早朝から約束があるのでしょう?」
しっかりと回数の制限を設けられ、銀狐は、良識を弁えていることを示す為にかすとんとお座りをしてみせている。
その首には、リボンを通して首から下げたリンデルが光っていた。
執務室の扉を開け、一緒に中に入る。
シャンデリアに魔術の火を灯す前の部屋にはカーテン越しに雪明りの夜の光が差し込んでいて、暗闇を安らかに感じられる幸いさに心が和んだ。
足元で弾んでいる銀狐に、あの王宮で自分の為に剣を振るってくれたヒルドがいて、このリーエンベルクの中にいるだけで不思議と心が安らかになる。
部屋が明るくなれば、ヒルドは、部屋に備え付けられた魔術保温のポットを取り出した。
執務室に置かれた戸棚から紅茶の缶を取り出し、取り寄せの魔術を応用した棚から茶器を下ろす。
銀狐は、抽斗の魔術洗浄をするエーダリアに付き添ってくれるらしく、執務用の椅子に座ったエーダリアの膝の上にびょんと飛び乗った。
そうして当たり前のように寄り添う生き物の心地よい重さに、エーダリアは、どうしても少しだけ微笑んでしまう。
片手で首回りの毛を撫でてやれば、ふさふさの尻尾が左右に揺れた。
「…………さて、魔術洗浄だな。あの魔術書は僅かながらに狂乱の気配を帯びていたので……っ?!ノアベルト、お、落ち着いてくれ!あくまでも、魔術書の中での表記に重ねられた魔術が、その気配を帯びていただけなのだ。………っ、ノアベルト!」
執務室の机の抽斗に、エーダリアが狂乱の魔術を帯びたものを隠し持っていた事を知った契約の魔物は、銀狐の姿で膝の上で大暴れしてしまい、エーダリアはまず、そんな塩の魔物を宥めるところから始めなければならなかった。
銀狐を落ち着かせて魔術洗浄を済ませた頃には、すっかり疲れ果ててしまい、ふうっと息を吐く。
いつの間にか執務室の中は芳しい紅茶の香りに満たされており、ことりとテーブルに置かれたのは、湯気を立てる紅茶を湛えたカップと、小さな薔薇の形をしたチョコレートを載せた小皿だった。
「ヒルド…………」
「薔薇の祝祭の前夜ですからね。僅かですが、疲労軽減の効果のある祝福が含まれているそうですよ」
「……………そうなのだな。食べてしまうのが勿体ない、綺麗なチョコレートだ。………有難う」
銀狐は、狐姿ではチョコレートは食べてはならないと言われてしまい、ヒルドに抗議するべくその足元で飛び跳ねて体当たりしている。
お茶をするのなら元の姿に戻るように言われて涙目になっているのは謎だが、今夜は、狐の姿でいたいようだ。
賑やかな真夜中の執務室で、エーダリアは、本物の薔薇の花のようなチョコレートを取り上げ、込み上げてきた幸福感に緩む口元を隠すように口に入れる。
とろりと溶ければ、中には甘酸っぱい薔薇ジャムのようなものが入っているようだ。
口の中でほどける優しい贈り物は、いつかの薔薇の祝祭の前夜にヒルドがくれた薔薇菓子より、ずっと甘かった。
執務室のテーブルの上では、新しい薔薇の置物がきらきらと輝いている。
子供のようだと呆れられてしまうかもしれないが、今夜は自室に持ち帰って、枕元に置いておこうと思う。
夜が明けて部屋を出てももう、俯いて歩く事はない。
ウィームに来てから、薔薇の祝祭が終わると、エーダリアの部屋は薔薇の花でいっぱいになる。
その香りを思い、エーダリアは、満ち足りた思いで微笑んだ。
明日の更新は、少し短めのお話となります。




