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131. 夜明けは薔薇の中で過ごします(本編)




カーテンの隙間から差し込む夜明けの光に、ネアはゆっくりと目を開き微笑んだ。




今年も、ウィームに薔薇の祝祭の日がやってきた。

息を吸えば胸の中に煌めくような高揚感があり、どこからともなく薔薇の芳香が漂う。



それが、薔薇の祝祭だ。



勿論ネアも、いつもならまだむぐぐと毛布の中で唸っているような時間でも、期待に胸を弾ませぱちりと目を開く。


今日は朝から予定を詰め込んであるのでと、もそもそと寝台に体を起こせば、隣に寝ていた伴侶の魔物までがぎくりとしたように起き上がってしまうので、ネアは、おやっと隣に視線を向けた。


淡い夜明けの光に沈む部屋で、長い真珠色の髪を流したディノはどきりとするような凄艶さであった。

淡く淡く透けるような虹色の影を波打たせたその美しさを思わずじっと見つめてしまったネアに、ディノは、困惑したように宝石のような水紺色の瞳を揺らしている。



カーテンの隙間から差し込んだ夜明けの光が、ちらちらとその瞳で揺れていて、あまりにも美しいその揺らぎを手の中に留めておきたくなった。




「ネア…………?」

「むぅ……。ディノの瞳がとても綺麗で見惚れてしまいました。ディノは、もう少しゆっくり眠っていてもいいのですよ?」

「でも、君がいなくなってしまうから。…………頭突きをするかい?」

「朝から刺激が強過ぎるのでそちらはご遠慮しますが、顔を洗ったら、髪の毛を梳かして綺麗な三つ編みを結ってあげますね」

「うん。……………可愛い」



そう言えば、嬉しそうにこくりと頷いたディノに微笑みかけたネアの視界が、ふっと翳った。


目を瞠るばかりだったその瞬間に触れたのは、本来ならば、こんな薔薇の祝祭の日にこそ相応しい甘やかな温度だ。


けれどもネアは、その甘やかな吐息が触れた唇を押さえてじたばたしたいのを慌てて我慢しなければならなかった。

落ち着きなく視線を彷徨わせる事で、何とか淑女の体裁を整えたネアに、正面の魔物はそっと頭を撫でてくれる。



「にゃむ。……………なぜディノに、……………口付けをいただいて、頭を撫でられているのでしょう?」

「君が可愛いからかな。…………朝なのに、沢山動いているから?」

「こ、この小さな弾みは、薔薇の祝祭なので仕方がないのです。朝食の前半は別々になりますが、今日の朝食のディノのハムは、私が盛り付けを手伝ったので楽しみにしていて下さいね」

「ずるい……………」



今年の薔薇の祝祭の朝食では、ネアは、大事な魔物が寂しくないような一工夫をしてある。

朝食用のハムを、薔薇の形に盛り付けたのだ。


ほんの些細な事と思うだろうが、ディノは手料理の認識があまりにも広い魔物であるので、そんなちょっとした工夫を喜んでくれる。

それを幸いと、お留守番朝食セットを作成させていただいた次第だ。



「昨年のドレスは、あまりにもお気に入りでもう一度着たいくらいなのですが、同じ装いとなると、薔薇を下さる方の目に楽しくないかもしれません。今年は別のものをと…」

「新しいものが何着かあるから、見てご覧」

「…………まぁ。今日の為に、新しいものを増やしてくれたのです?」

「シシィがね、薔薇の祝祭の周りでは必要だと教えてくれたんだよ」

「むぐぐ…………、シシィさんのものであれば、吝かではありません」



二人の寝室には、先日ディノが買い与えてくれた灰色の薔薇が飾られていた。


こんな夜明けの光が一番似合う繊細な色合いで、指先で触れたくなる天鵞絨のような花びらが美しい。

薔薇の祝祭だからかもしれないが、淡く光りを孕むようなその佇まいに、ネアは、ほうっと至福の息を吐いた。



こうして二人が一緒の寝台で眠ることが多くなっても、今でも現役な魔物の巣の横を通って顔を洗いにゆく。


ネアは、薔薇の祝祭の日の朝に、蛇口を捻って祝福に煌めく水に触れるのが大好きだった。

どうしても弾むような足取りになってしまい、ご機嫌の伴侶が可愛いとディノが目元を染めている。



(気持ちいい………!)



ネアには本来の魔術の煌めきは見えないが、それでもどこかいつもよりも透明で、よく光を映し煌めく水で顔を洗えば、仄かに薔薇の香りを感じた。

あらためて手のひらに水を溜めて匂いを嗅いでみると、もう薔薇の香りはしなかったが、汲み上げられて流れて行く水のどこかに、ほんの僅かに薔薇の香りがついたのだろう。


そんな楽しみを得られるのも、薔薇の祝祭ならではのことなのだ。



顔を洗いすっかりご機嫌になった人間は、こんな日だからこそと、コロールで購入した薔薇の軟膏なども薄く塗りつけてみる。


化粧水は最近アルテアに入れ替えられたもので、季節によって肌に合うものは変わるらしい。

交換の際に前の化粧水が瓶に残っていたことで、使う量が少ないと叱られたばかりだ。



「ディノ、ここに座って下さいね」

「…………ネアが」

「む?私が…………?」

「ずるい…………」

「あら、大事な伴侶の髪の毛をブラシで梳かすだけなのに、ずるいのですか?」



そう問いかけたネアに、ディノは目元を染めて恥じらうばかりだ。


異性とのお付き合いが初めての魔物ではないし、伴侶になって二度目の薔薇の祝祭でもあるのだが、どうにもディノは、こうして大事にされると胸がいっぱいになってしまう魔物であるらしい。


ネアは、恥じらう魔物の長い真珠色の髪を丁寧に梳かしてやり、宝石を紡いだような滑らかな手触りをこっそり楽しんだ。


ふんわりとした巻き髪の曲線を潰さないようにゆったりとした三つ編みにすると、この日の為にこっそり用意しておいた、薔薇色がかった白灰色のリボンをきゅっと結んでやる。



これでどうだとふんすと胸を張れば、鏡台の鏡に映った魔物は、なぜか激しく震えていた。



「ディノ?」

「リボンを…………、くれるのかい?」

「ええ。薔薇の祝祭にぴったりなリボンを見付けたので、こっそり買って隠してあったのです。リボンの専門店に新しい商品が入った事を教えてくれたのは、グレアムさんなのですよ?」

「……………有難う。……………だ、」

「だ………」

「大好きだよ、ネア」

「まぁ!ではお揃いですね。私も、ディノが大好きなのですよ。……………む、死んでしまいました」



頑張って想いを伝えてくれた後に儚くなってしまった魔物を見下ろし、ネアは悲しく眉を下げた。


とは言え、人間とは軽薄なものだ。

伴侶を悼みつつも衣裳部屋に移動し、シシィが用意してくれたという薔薇の祝祭のドレスをわくわくと探してみる。




(……………あった)



恐らくはシシィが仕立てたものを、ディノが衣裳部屋に運び入れてくれたのだろう。


入ってすぐの、本日のコーディネートを吊り下げるラックに、見たことのない新しいドレスが二着もかかっているではないか。


ネアは、どちらも素晴らしいので足踏みせざるを得ないドレスの前でうろうろと彷徨い、淡い薔薇色がかった白灰色のドレスと、ラベンダー色がかった淡い水色のドレスを何度も見比べる。


ここで、残酷な人間は先程の自分の行いをすっかり忘れており、夜明けの光に似合う後者のドレスを選びかけたところで、慌てて薔薇色がかった白灰色のものを選んだ。


薔薇色の白灰色のドレスの色合いは、ディノに贈ったばかりのリボンに良く似たものだったので、となるともう、こちらにするしかない。




(…………綺麗)



そうして選ばれた本日のドレスは、一見、しっかりとした他所行きのシルクのドレスに見える。


そんな布地には掠れた水彩画のようなぼんやりとした色が織り込まれ、少し離れて見れば、ドレスのスカートの部分は雨に濡れた窓硝子越しに見る花園を思わせた。


けれども、触れると、着心地の良さそうなニット地めいた柔らかさがあるではないか。


何度もドレスを撫でてあまりの肌触りにふるふるしていると、何とか生き返って追いかけて来てくれた魔物が、何とこれは一角獣の毛を紡いで織り上げた生地なのだと教えてくれた。



「ルワ………」

「うん。そのルワという一角獣の毛を紡いだ糸を、薔薇柳の木の道具で織り上げたものなのだそうだよ」



ルワという、額に鋭い角を持つ真っ黒な羊がいる。



夜から夜へと旅をする不思議な羊で、毛を刈り紡げばこんな素晴らしい手触りの織物が仕上がるのだとか。

ドーミッシュの系譜の羊であるらしく、紡がれた糸は細い毛糸のようなものだが、織り上がる布は、織り手の願いに合わせた質感に仕上がるのだというから驚きだ。


綺麗な水を飲ませてやれば、毛刈りは自由にさせてくれるが、角に触ると怒り狂うので要注意だと知り、ネアはふむふむと頷いた。


荒ぶり方では、レインカルと同等とされる生き物なので、稀に誤って角に触れてしまった者が殺されてしまう事もある。



ネアは、その恐ろしさはひとまず何処かに置いておき、一角獣の毛織物だという素敵さに注目して唇の端を持ち上げた。




(このドレスを着て、今日は沢山の薔薇の中で過ごすのだわ)




これからの時間は、恒例のノアとの朝食となる。

お気に入りの美しい庭園で薔薇の祝祭を始めるのを、ネアはずっと楽しみにしていた。


新しいドレスに袖を通し、思った通りの素晴らしい着心地にうっとりしていると、こつこつとノックの音が響く。



「やぁ、僕の妹を迎えに来たよ」

「ノア。今日は宜しくお願いします」

「わーお。今日も、僕の大事な女の子は可愛いなぁ」

「ふふ。ディノがシシィさんに頼んでくれたのですよ。見て下さい、このディノのリボンと、偶然なのですが同じような色合いなんです」

「……………ネアがお揃いにしてくる………」

「ありゃ、シルが………」

「その結果、お留守番の儀式をする前に、儚くなってしまいました………」



今年も部屋まで迎えに来てくれたノアは、白いシャツを羽織ったいつもの姿だったが、誰に髪を結って貰ったものか、氷色混じりの白い髪はブラシをかけたように収まり、紺色のリボンは綺麗なリボン結びになっていた。



「では、行ってきますね」

「……………うん」

「念の為に、薔薇の形をした砂糖菓子を置いてゆきますが、このリボンも愛情の証なのですよ?」

「…………ずるい。結んでくる………」

「ふふ。では行ってきます!」

「シル、出かける間は、ネアは僕がしっかり守るからね」




昨年よりずっと穏やかになったノアの表情は、すっかりもう家族ですという柔和さで、これもまた、いつもの薔薇の祝祭の朝食と言えばの美しい庭に向かう道中は、兄妹らしく手を繋いだ。




(この朝食のお庭は大好き…………!)




ノアに連れて来て貰ったのは、お馴染みの、ガゼボのある薔薇の庭園だ。



魔術の揺らぎのある影絵であるらしく、一つの時間から切り出された影絵ながら、雨が降ったり木漏れ日が差し込んだりと、その景色には変化がある。



今朝は、昨年と同じようにさあさあと静かな霧雨が降っており、柔らかな雨音に繋がり落ちるのは、たたんと雨粒が葉を揺らす音だ。



朝靄の滲む夜明けの庭園には、あちこちに薔薇の茂みがあり、目を瞠るような美しい薔薇がそこかしこに咲き誇っていた。



歩道の両脇に茂るのは低く枝葉を伸ばす種類の薔薇で、その可憐さを引き立てるような他の美しい花々との組み合わせはうっとりしてしまう程の彩りだ。


石畳を濡らす霧雨のヴェールは白みがかった水色に滲み、その向こうに透ける瑞々しい森や庭園の色彩が、万華鏡のように散らばる。


どこからか差し込む僅かな夜明けの光は、きらきらと繋がる淡い色のビーズになって、全ての雨粒を煌めかせていた。



(あ、…………!)



「ノア、水溜りの中にだけ、青空と虹がありますよ」

「うん。今年の雨は、ガーウィンの天上湖のものかな。それとほら、雨薔薇を増やしたからね」

「雨薔薇…………。ほわ!この薔薇はなんて綺麗なのでしょう。水色の花びらの中に、雨が降っているみたいです」

「うん。その通り、雨の国で育った雨を閉じ込めて咲く薔薇だからね。砂漠の国では、至宝とされるものだ。ただ、花に触れて傾けると、雨がこぼれ落ちてくるから要注意なんだ」

「まぁ、びしゃびしゃになると困るので、うっかりぶつからないように注意しますね」

「うん。綺麗だなと思って花に触れて、ずぶ濡れになるといけないからね」




二人は、お喋りをしながらゆっくりと庭園を歩いた。



柔らかな雨に濡れた薔薇の花はその芳香を立たせ、華やかだが瑞々しい青い果実のような透明感のある香りは、胸いっぱいに吸い込みたい爽やかさだ。



小さな薔薇や、一重咲きの野薔薇。

大輪の薔薇に、こんもりと重なって重たく花をつける蔓薔薇。


ありとあらゆる薔薇を集めた庭園だが、青みがかった光を透かし落とす森に囲まれているからか、華やかなばかりではない、胸の底にまで染み渡る清廉さがあった。



「ふふ。昨年感動した、水溜りの中の街は健在なのですが、ここはきっと、昨年見た街とは違うところなのでしょうね」

「ああ、これはブルーベムだね。このあたりだと、ネアが行く事はないかもなぁ。小さいけれどいい国なんだ。でも、麦と葡萄の系譜の力が強いんだよなぁ……」

「じゅるり…………」

「ありゃ。美味しそうに見えるかもしれないけれど、また独特な文化圏のところだからね。大陸のこちら側にはない、独自の信仰や魔術が残る土地なんだ。でも、もしその界隈に迷い込んだら、アルテアを頼るのがいいだろうね。アイザックや、真夜中の座の精霊も悪くないかな」

「まぁ、ミカさんでもいいのですか?」

「うん。でも、真夜中の座の王というよりは、食楽と神殿あたりが手堅いかな」

「むむ。真夜中の座には、神殿な精霊さんがいるのです?」

「真夜中の中でも、造形物に属する精霊なんだ。そんな奴が派生するくらい、夜に纏わる建造物が多いんだろうね」



しっとりと雨に濡れた薔薇を潜って美しいガゼボに入りながら、ネアは、思わぬ肩書きの真夜中の座の精霊について教えて貰った。


ガゼボには澄んだ水色の光が差し込み、周囲を囲んだ今年の薔薇は、淡い白みのピンク色が堪らない儚さである。


薔薇の見本の中でも、同じような色味の薔薇に心を奪われたが、こうして夜明けの庭で咲いている姿は、なんとも美しく心を満たしてくれた。


ガゼボの椅子には、昨年とは違う色とりどりのクッションが並べられ、テーブルの上には既に朝食の準備が整えられている。



真っ白なナプキンは薔薇の形に整えられていて、ネアは、目を輝かせてノアを見上げた。



「なんて素敵な場所なのでしょう!何度来ても、この場所の美しさには、うっとりしてしまいますね」



微笑んで見上げると、ノアも微笑みを返してくれる。

氷色を持つこの美しい魔物は、陰謀に満ちた夜の王宮なども似合うだろうが、ネアが好きなのはこうしてふにゃりと微笑む塩の魔物なのだ。



「さぁ、朝食にしようか」

「まぁ、もしかしてこのスープは………」

「うん。君のお気に入りだった、去年のものと同じスープだよ。エーダリアとヒルドも気に入ったみたいで、それならって今年も作ってくれたみたいだね」

「は、はつみみです!」



ネアが昨年の薔薇の祝祭の朝食で感動したのは、セロリと青林檎のスープだ。


野菜らしい緑の風味は勿論だが、セロリ感を和らげて飲みやすくしてくれる青林檎の甘酸っぱさと絶妙な塩味がアクセントとなる綺麗な緑色のスープには、食べられる黄色い薔薇の花びらが散らされていて、目にも楽しい。


柔らかく開いた白い花びらのようなお皿の繊細さと合わせて、絵になるような美しい一皿だ。



大好きなスープの訪れにぴょんと弾み、ネアは、いそいそと朝食の席に着いた。



(このスープは、他のお料理と合わせると更に美味しく感じるのだけれど…………)



他にはどんなお料理があるのかなと視線を巡らせたネアは、サラダと前菜のお皿を見付けた途端、感動に弾んでしまった。



「…………まぁ!このお皿が!!」

「わーお。綺麗だね。ええと、メニューによると、薔薇鱒のタルタルと、花畑のサラダらしいよ」

「外側のサラダが、リースのようです。ふわぎゅ…………」



感嘆の溜め息を吐かずにはいられなかった一皿は、薔薇鱒の小さなタルタルをお皿の真ん中に配置し、その周囲にリースのようにサラダを盛り付けたものだ。


こちらのお皿の薔薇は、サラダ部分にはらりと散らされた淡いピンク色のもので、サラダにはたっぷりの野菜と白い山羊のチーズ、焼いたアスパラも載せられ、色違いのリボンのように回しかけられた二種類のドレッシングにわくわくしてしまう。



殻の上部だけを開けてスプーンで食べる半熟に仕立てた卵は、薔薇卵と言われる薔薇の花の下で育った鶏のものなのだそうだ。


味わいは普通のとびきり美味しい卵なのだが、愛情の祝福が得られるのでとても人気があるらしい。

殻の部分が薔薇色で美しいので、このようにして殻も見せる盛り付けが多いのだとか。



「ほら、僕のリンデルってさ、薔薇にも凄く合うよね」

「ふふ。ノアのリンデルは、何よりもノアにぴったりですね。大事な家族を守ってくれるものなので、リンデルを贈り物に出来て良かったです。…………むぐ!…………こ、これは!ノア、初めましてのハムがありますよ………」

「ありゃ、これかな。…………わーお。いい薫香だなぁ。うん。これと、焼きたてのパンとバターだけでも、立派なご馳走になりそうだ」

「間違いありません。むふぅ。このパンをいただきましたか?外側はぱりっとしていて、内側がふかふかで微かな甘さがハムに合うのでふ。………むぐ。このパンとハムの組み合わせは、なんて危険なのでしょう」



焼きたてのパンを千切ってバターを載せると、じゅわりと蕩ける。


ふわりと立ち昇る湯気の中、薫香豊かな薄切りのハムを乗せてさっといただけば、じたばたしたくなる普遍的な幸せの味だ。


お料理用に酸味を強くした薔薇ジャムとディジョンマスタードを添えた白いソーセージに、今年は濃厚なトマトのクリームソースでいただく野菜たっぷりキッシュまで。


どれも食べやすく、そしてここで暮らす人々が美味しいと感じられる事こそを重視したリーエンベルクの料理は、いつだってお腹と心をほかほかにしてくれる。




「ああ、美味しいなぁ」

「あら、さてはソーセージとハム、そしてパンの組み合わせにはまりましたね?」

「うん。僕はさ、どんなに美味しくても手が入り過ぎた豪華な食事より、こういうのが好きなんだよね。ほら、ネアの大好きなもぐもぐサラダも暫く気に入っていたし」

「ええ。ヒルドさんから、夜遊び明けのノアの朝食が、もぐもぐサラダまみれだった時があったとお聞きしました」



もぐもぐサラダは、元はと言えばネアが気に入ってしまったお食事系サラダであったが、飲み明けの朝には最適であると、ノアが誰よりもはまってしまっていた事がある。


流石にそちらはアルテアに再現を頼む事は出来なかったが、元々難しいサラダではない。

リーエンベルクの厨房でも、ドレッシングを試行錯誤しながら美味しい変化を付け、提供してくれていたらしい。



ぱくりとソーセージをいただき、ネアは顔を上げる。



こちらを見ている美麗な魔物は、はっとするほどに美しく、その美貌はディノと同じように怜悧な整い方をしている。


けれども、ガゼボに差し込む雨の煌めきを映した青紫色の瞳は、見ているこちらが嬉しくなってしまうような安らぎに満たされていた。



「いい時間だなぁ。きっとさ、これが百回目の薔薇の祝祭の朝食でも、僕は今日と同じように幸せだなって思うんだろうな」

「年齢を考慮しますと、若干その頃の私がどうなっているのかが懸念されますが、きっと私も同じように幸せな筈なので、頷くしかありません」

「こんなに幸せなのに、それでも、色々な事があったけれどね。それでも、こうして君とまたこの庭園で薔薇の祝祭の朝食を食べられるんだから、僕は世界一の幸せ者だよね」

「…………恐らく今年の最大の山場は、アルテアさんに…」

「そ、それは、現在調整中だから!」



銀狐問題が提示されてしまい、慌ててネアの言葉を遮り、たいへん動揺してしまった義兄はごくごくと紅茶を飲む。


そんなノアの姿に、ネアはくすりと微笑んだ。



ここにも置かれている今年の薔薇ジャムは、夜調べと星蜜の薔薇ジャムという初めていただくものと、昨年にすっかりお気に入りになったジャムの二種類を加えた三種類だ。


夜調べの薔薇ジャムは、音楽の園と呼ばれる特別な薔薇園で栽培された薔薇から作られるもので、最近人気の市販品である。


ノアと一緒にメニューを覗き込めば、薔薇園に住み着いた妖精の音楽家のお蔭で、その薔薇園が出荷する薔薇ジャムが劇的に美味しくなったのだと書いてあった。


流星雨の日や、星祭の日に採取する薔薇蜜を使った上品な甘さが特徴で、このジャムを頬張ると、素晴らしい音楽を聴いた後のような満足感が得られる。




「この前の雪の門の事件でさ、今年の火の慰霊祭は困った事になるだろうなと思っていたんだけど、支払った対価だけのものを取り戻せて良かったよ」

「でも、火の慰霊祭の日は、私達の部屋でお泊まりしましょうね」

「……………いいのかい?」

「もしノアが、同じ寝台で寝る程ではないかなと思えば、ディノが使っていない続き間の寝室もありますから。………むむ、それとも今年は、エーダリア様やヒルドさんと一緒に寝てみます?」

「……………わーお。このままの姿で頼みに行くと、凄い誤解を招くやつかな」

「ふふ、不思議ですね。狐さんだと、気の向くままに、エーダリア様やヒルドさんの寝台にお邪魔していると聞いているのに、この姿だと躊躇ってしまうのですね?」

「何でだろうね。あの姿だと、二人もあんまり気にしないんだよね。ほら、…………うっかり人型に戻ったのは、アルテアの屋敷のあの事件くらいだし………」



どこか遠く儚い目をして呟いたノアに、ネアは、この一年はノアとアルテアが並べて寝かされてしまう事すらあった激動の一年であったのだと重々しく頷く。


そして何よりも、タジクーシャや夏夜の宴など、ノアと一緒に事件に巻き込まれる事が何回かあった。




「…………ノア」

「ん?どうしたんだい?」



名前を呼べば、優しい目をした魔物が、微笑んでこちら見る。


いつかに見た瞳の下の疲れたような影はなくなったし、ネアは多分、塩の魔物が最も心を閉ざしていた時期をあまり知らないのだろう。




「私は、本来はこちら側の世界に無い筈のものです」

「…………ネア、」

「だからこそ、きっとこれからも沢山の事件に巻き込まれて、またノアとも冒険をしてしまうかもしれません」

「………うん。そうかもしれないね。でも、君は僕の大切な女の子だから、僕が絶対に守るよ。………これまでは、僕だけでは足りない部分もあった。だからこそ、次はその前よりも、その次はもっと君を守れるようにすると約束するよ」

「まぁ………。また事件に巻き込まれても、私が必ずノアを守ってみせるので、呆れてしまわないで下さいねと言おうとしたのですが、約束を取られてしまいました………」



ネアがそう言えば、どこか無防備に瞠った瞳を揺らしてまた微笑み、ノアは、片手で指に嵌めたリンデルを愛おしそうに撫でている。



「……………わーお。僕の妹が虐待するぞ」

「むむぅ。虐待してません………」

「そんなに駄目にされたら、僕は君を大事にするしかないよね。ほら、僕の事をもう外では暮らせない体にしたんだから、責任を取って貰わないと」

「あら、もはやノアと私は兄妹なので、当たり前のように大事にするつもりですよ?」

「……………うん」



ここでノアは、一度くしゃくしゃになってぱたんとテーブルに突っ伏してしまった。

けれども、大事な妹への薔薇の授与を思い出したのか、よろよろと顔を上げてくれる。



「……………はぁ。シルがすぐに倒れる気分も、最近分かってきたかな。………でも、今日は何よりもまず、君にとっておきの薔薇の花束を渡さないとだ」

「ふぁ!薔薇の花束がどこからか現れました!」



差し出された手に、ふわりと現れたのは素晴らしい薔薇の花束であった。



今年もどこから見張られていたものか、ネアが足を止めていた薔薇ばかりが集められた花束は、小さな水色の花をつけた可憐な薔薇を何本か入れる事で見事にまとまっている。



白に、ほんの一雫の色を落としたようなラベンダーカラーの薔薇に、ころんとしたフォルムの淡い檸檬色の薔薇。


くすんだような薔薇色のものに、儚いアプリコット色と、晴れた日の夜明けの空のようなふくよかな菫色の薔薇。



(こんなに色とりどりの薔薇を、どうやってまとめたのだろう…………)



多分これがアルテアならさもありなんと思えるのだが、ノアは、基本は白と黒だけの装いを好む魔物であるし、髪の毛も一本結びがぎりぎりなのだ。


そんな花束をまとめるリボンは、新雪のような白い天鵞絨のリボンで、ネアは、ふかふかとしたその手触りにまた頬を緩めてしまう。



(なんて綺麗なの…………)




「気にいってくれたかい?」

「………はい。私の欲しかった薔薇しか詰まっていないこんな贅沢な花束を貰って、大好き以外のどんな感想があるというのでしょう。………どうしたら、この全てを一つの花束にしてこんなに素敵にまとまるのですか?………花束になっているので、一つの花瓶に一度に飾れてしまうだなんて………」



感情の荒ぶるままにそう呟くと、ノアは、満足げな微笑みを浮かべうんうんと頷いてみせた。


薔薇の花に囲まれたガゼボの椅子に腰掛けた優雅さは、冷ややかな程の美貌によく映える。

そして何より、今のノアは、なんて幸せそうに微笑むのだろう。




「このままでは悔しいので、私からの薔薇を渡しますね!」

「え、ここで?!」

「ふふ、ノアへの薔薇はもうずっと家族仕様の花束なので、花束宣言の終わった今年からは、ガゼボでの授与にしました。こんなに素敵な場所での朝食を手配してくれたのですから、やはりこの場所で花束の交換をするのが素敵だと思いませんか?………なぜに死んでしまうのだ」

「…………どうしよう。今、少しだけだけど、本気で死んだよね」

「解せぬ」




さらさらと、優しい雨音が聞こえる。

雨に濡れた薔薇の香りは瑞々しく、ガゼボに続く歩道に出来た水溜りには、どこかの国の美しい街並みが揺れていた。



ネアが差し出した花束は、みんなへの贈り物にと用意した、浅いティーカップのような形をした、赤み寄りのラベンダー色の薔薇を入れたものだ。



いつものネアが好んで選ぶ薔薇のようなころんとした丸みはないが、みっしりと詰まった花びらが何とも贅沢で、一輪でもうっとりと楽しめる薔薇にした。


そこには、淡い雪の日の窓の影のような水色の薔薇と、その薔薇と同じ品種の白い薔薇を合わせてある。

当初の想定の二種類ではまとまりが悪く、急遽、三種類の薔薇を使う事にした履歴を持つ、渾身の家族用の花束だ。


勿論、リボンは青紫色なのだが、掠れたような風合いのある上品な色合いを選び、きちんと主役の薔薇を引き立てるように工夫してある。



「…………うん、花束だね」

「ノアは、私の家族ですものね」

「…………うん。ネア、」



そっと手を伸ばして花束を受け取ったノアが、そのままま体を屈めて、鼻先に口づけを落としてくれる。

ちびころにはなっておらぬと息を飲んだネアに、小さく微笑んだ義兄は、家族用の祝福だよと教えてくれた。



「僕はもう、ずっと君の家族だ。だから君にはこれからもずっと、最愛の家族としての口付けを贈るよ。………でも、もうちょっといけない恋人仕様のものが欲しい時は、誰にも内緒でこっそり申告して」



最後のところでネアが首を傾げると、ノアは、魔物らしい微笑みを深め、君を笑わせようとしたんだよと主張する。




二人は、来た道を戻りながら、あれこれとお喋りをした。


それぞれの手に薔薇の祝祭の日に最初に貰った花束を持ち、美しい薔薇の庭園を歩いた。





(…………百年後だって、ここは美しいのだろう)




寂しがりやの魔物達の為にも少しでも長生きをして、これからも沢山の薔薇を貰えるようにしなければと思えば、ネアの心は、慣れない願い事に慌ててぴょこんと跳ねたような気がした。















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