贈り物の薔薇と薔薇色の線
リーエンベルクの広間を解放して、薔薇の見本が並ぶ日がやってきた。
この日になると、これでもかと並んだバケツの中に生けられた目を瞠る程の薔薇を迎え、リーエンベルクの広間には僅かな衣擦れのような囁きと歓喜が揺れる。
リーエンベルクに住まい、そこで暮らすネア達が触れる表層には出てこないような者達が、広間いっぱいに並べられた薔薇の美しさに僅かな気配や影を落とすのだ。
今年の薔薇の見本会場は、柔らかなミントグリーンの壁紙と、淡い水色を帯びた湖水結晶の広間である。
天井画は森と薔薇の天蓋になっており、大きなガゼボの中にいるような工夫で陰影が描かれた優美な梁には、天井画や壁画の中から結晶化するような不思議な美しさで、可憐な薔薇が咲いていた。
大きな窓にかけられたカーテンは柔らかなクリーム色で、淡いラベンダー色と水色で薔薇のパターンを織り込んだ上品な模様がある。
カーテンタッセルは彩度を抑えた極彩色のもので、ここでほんの僅かな異国風の優美さが加わることで、不思議な美しさが際立つばかりではない、当時の流行などを思わせる垢抜けた印象に変えている。
窓枠に嵌められているのは、夜霧の結晶石と朝靄の祝福石を組み合わせた稀有な細工で、この美しい装飾に目を奪われたのはネアだけではなかった。
エーダリアも、そんな組み合わせを可能とする失われた技術に魅せられてしまい、初めてこの広間を訪れた際には、沢山の記録を取ったのだとか。
つまりここは、ネアが初めて訪れる広間なのだ。
エーダリアはよく出会う広間だと聞いているので、きっとエーダリアのことを気に入っている場所なのだろう。
先程までエーダリアが居た時もそうだったが、このリーエンベルクの主人が入室すると、心なしか大きな花明りのシャンデリアがひと際明るく煌めくような気がする。
このシャンデリアは、リーエンベルクの広間の中では比較的珍しい素材ではない、晩冬の花々から満月の夜に紡いだ花明りの結晶石を使ったものだ。
広間自体がリーエンベルクの中では新しく造られたものであり、恐らくエーダリアから見て二世代から三世代前の時代に完成したものだろうと言われている。
そんな広間の中で、色ごとに並んだ薔薇の美しさは、堪らない程に胸に響いた。
儚い程の檸檬色の薔薇がけぶる月光や木漏れ日のように咲いているあたりから、これぞ薔薇の本命と言わんばかりの薔薇色の花達。
こっくりとした真紅の薔薇から、天鵞絨のような紫の薔薇まで。
勿論、淡雪のような白い薔薇もある。
その並びには、雪影のような白灰色の薔薇が、徐々に色味を載せて水色の薔薇へと転じてゆく素晴らしい区画もあった。
花としてはどうだろうと思わせる濃い灰色の薔薇も、ここにある薔薇はうっとりとするような繊細な美しさのものばかりで、霧雨の日の雲のようでもあるし、霧の日の足元の影のようでもある。
その中を、ネアはゆっくりと歩いていた。
芳しい薔薇の香りは瑞々しく爽やかなもので、むせ返るような香りが立っても決して息苦しくならない。
砂糖菓子のようなシュガーピンクに、僅かな血色を加えたような淡いピンク。
一つの色味にも質感があって、ネアが心を奪われたのは、優しい色なのにどこか結晶石のような硬質さがある白ピンク色のものであった。
(……………綺麗)
とても綺麗だけれど、予定している色ではない。
それなのにこうして手に取り、自分の手元で抱え込みたくなってしまうのはどんな強欲さなのか。
そんな自分に諦める事が下手になったなと思いかけて首を振り、ネアはくすりと微笑んだ。
いや、以前からずっと欲しくて欲しくて堪らなかったものばかりで、やっと手に出来る様になった今はもう、その時に蓄えた強欲さが手に負えなくなったというだけに違いない。
ネアは一人上手だ。
ネアハーレイもそうだったが、あの頃のネアには、そもそもの選択肢があまりなかった。
人付き合いが上手くいかない時は大抵、あなたと私が違うからで、ネアハーレイにはその説明がとても苦痛だったのだ。
かつての朗らかさを知る人達とは疎遠になり、見知らぬ人達の中に身を置くことの方が楽だった手負いの獣のような心向きの時期に、まっとうに人と関わる事の手法をどこかに落としてきてしまったのかもしれない。
体があまり丈夫ではなく、皆が思っているよりは人と同じような事が出来ず、そうして体を悪くした理由。
家族がいない理由と、家の管理や通院費でいつも困窮している理由。
それでも心を富ませようと試行錯誤していると、ますます歩調がずれてゆき、いつの間にかまたあなた達と離れてしまう理由。
(今はもう、たくさんの人達がここにいて、少しも寂しくないけれど…………)
そうすると、だからこそ時にはこんな風に一人きりでいたくなることもあるのが、贅沢な人間の悩みである。
けれど、一人で心の中のごわごわした部分を噛み砕き、或いは、一人だからこそ触れられる僅かな冷たさを感じたい時には、それでもいいと思うのだ。
ふわりと薔薇の香気が変わり、甘やかな香りの薔薇達の横を歩いた。
唇の端を持ち上げて深呼吸すると、今度は、見たことのない可愛らしいアプリコット色の薔薇に目を留める。
一番外側の花びらが開いてしまっているが、見本のものの全てがそうなっているので、この品種の特徴なのかもしれない。
記憶の棚から抽斗を幾つか引っ張り出すと、そんな薔薇は確かに、カタログにもあったような気がした。
(今年の薔薇のカタログは、薔薇の絵がとっても繊細で写実的なものだったな………)
思い返せばまだあの美麗さにむふんと幸せに蕩けてしまい、ネアは、お気に入りの画集のような薔薇のカタログを心の中で抱き締める。
こちらの世界に来たばかりの時に見ていた薔薇のカタログは、もう少し崩したタッチの輪郭に色を置き、あくまでも色見本であるというものであった。
翌年になって少し描かれ方が変わったかなと考えていたのだが、どうやら、何人かでチームを組み、交代でその年の薔薇のカタログを作っているらしい。
チームごとの特徴が、その年のカタログに出るのだ。
(…………となると、今年のカタログを担当した方達の次のものを待てばいいのかもしれない)
カタログのおまけがどんなに素敵でも、カタログそのものにあまり興味がないのであれば、本末転倒ではないか。
付録の為に品物そのものを蔑ろにするのは嫌なので、購入するかどうかの判断は慎重にならざるを得ない。
「……………あった」
ネアがその薔薇を見付けて手に取ると、どこかでざわりと空気が揺れた。
姿の見えないリーエンベルクの住人達が、薔薇選びをこっそり見守っているのだろう。
くすくすと笑う軽やかな乙女達の気配は妖精かもしれないし、あちらの薔薇の方がいいのにと言いたげな溜め息は男性のものに思えた。
そんな賑やかさにまた微笑み、ネアは、薔薇が敷き詰められたような広間の中の、細く作り付けられた通路を歩く。
花畑を通り抜けるようにして、茎が細く花がこちらに垂れ下がっているものに触れないように気を配りながら、ゆっくりとゆっくりと。
お目当ての薔薇は、ネアの毎回のお気に入りである、花びらのみっちり詰まったものだ。
しかし今年は、ころんとした丸めのフォルムではなく、浅めのティーカップのような形のものを選んでいた。
色合いは淡い赤みよりのラベンダー色で、葉の部分が青緑色なのでそのコントラストも美しい。
これまでの薔薇の傾向が古典的で上品、或いはロマンチックな薔薇であれば、今年のものは少しだけ小粋な大人の女性のイメージである。
(これを中心にして…………)
花束にして渡すディノへのものには、他の種類の薔薇も選ばなければならない。
ネアは予め選んでおいた、水色がかった灰色のものと、白さが硬質に浮かび上がるような白ピンクのもの、そして同系色だが僅かに青みのラベンダー色のものとを見比べてみる。
「…………むぐ」
小さく唸りながら、素敵だと思っていたのにあまり合わなかった灰色のものを置き、いっそ水色のものをと探しに行った先で、気に入った形がなくて肩を落とす。
(二色だと浮いてしまうのなら、三色くらい入れてみてもいいのかもしれない…………)
少し考えてから当初の色合わせから方向転換したネアは、いそいそと先程の薔薇をもう一度取りに行った。
幾つかのものを一緒に持ってみて組み合わせを吟味し、満足の溜め息を吐くと、そちらの籠を家事妖精に渡して申し込みとする。
なおこの申し込みについては、本日の正午まで据え置きとなり、変更がある場合は受け付けてくれるのだから有難い。
エーダリアやリーエンベルクの騎士達の薔薇選びには、望まざるとも注目が集まる。
政治的な関わりや、他の諸侯との組み合わせなども影響するので、入ってきた情報によっては薔薇を変更する事もあるのだそうだ。
(例えばゼベルさんは、リーベルさんやガーウィンの親族と全く同じ品種の同じ色の薔薇にならないように注意を払っているみたいだし…………)
グラストも含めた他の騎士達の中にも、薔薇からの繋がりを考慮しなければならない場面は多い。
最もウィームが警戒しているのは、王都に暮らす王妃を筆頭にした者達の動向であるが、そちらは立場上ヴェルリアの固有種である薔薇を選ぶと決めているようなので、幸いにも選んだ薔薇が重なるような事はそうそうないのだそうだ。
もう一度並んだ薔薇の中に戻り、今度は、リーエンベルクから株分けされた薔薇を探した。
すぐに見付かったその薔薇は、内側に淡い雪明りを孕むような色合いがなんとも美しく、ネアは、特別に用意されたこの薔薇専門の注文用紙に、自分の注文分の本数を記入する。
既にリーエンベルクからは十五本の注文が決まっており、その中には、祝祭で公の場に姿を現すエーダリアの胸元を飾る薔薇も含まれているのだそうだ。
もっと階位が高く艶やかな大輪の白い薔薇もあるのだが、こうして自分の領域のものを選ぶウィームの領主だからこそ、領民達は今年のエーダリアの薔薇はそれだと信じて疑わない。
だからと言って会を中心に同じ品種に申し込みが殺到するという事はなく、事前に周知されていた上限本数を超えないよう、皆が楽しめるような配分が考えられていると聞けば、そこは流石のウィームである。
リノアールのエントランスホールにもこの薔薇が飾られるそうなので、手に入れられない者たちは、祝祭の日にそこに足を運べば噂の薔薇を見る事が出来るのだ。
そして勿論、ローゼンガルテンにもその薔薇が咲いている。
「……………ネア」
そこにやって来たのは、ネアが薔薇選びを終えて名前を呼んでおいた、真珠色の髪の伴侶の魔物だ。
やはりこんな高位の魔物が広間に足を踏み入れれば、広間の中の空気がさあっと揺れる。
見えないものの、部屋を賑わせている者達が興奮にさざめき、愛情や寵愛を好む薔薇たちは、美しい魔物の姿に花びらを僅かに上気させたようだった。
「君のものは選べたのかい?」
「はい。今年もディノに花束を贈るので、楽しみにしていて下さいね」
「うん。…………他にも欲しいものはないかい?君が使うものではなくても、部屋に飾るものを頼んでおくことは出来るからね」
そんな提案に眉を持ち上げ、ネアはどきりとするような優しい微笑みを浮かべた伴侶の、澄明な水紺の瞳を見あげる。
(いつもなら、少し離れていただけでも、すぐにべったりになってしまうのに……………)
生来が一人上手であるらしいネアが、その儀式がないことで寂しくて弱ってしまう事はないのだが、どうしたのだろうかという気持ちにはなる。
不思議そうに見上げられたディノは、小さく微笑みを深めると、そっと手を伸ばしてネアの頭を撫でてくれた。
「あの雨の日の部屋で、君に、花を取らせてあげられなかったからね。ここには、君が気に入りそうな薔薇が沢山あるだろう?薔薇の祝祭とは別にして、何か頼もうか」
「……………ディノ」
それは、バケツ怪人に寄生した謎めいた花が見せた過去の幻影の中でのことだ。
孤独なものに与えられる祝福の糸としての一輪のヒヤシンスに、手を伸ばしたあの日のネアの手を止めたのはディノである。
(……………そうか。ディノは、今の私が今のままの心でも、かつての私ならあの花を取っただろうと考えていた事に、気付いているのだわ……………)
それは仮定の話であるし、こうしてディノに呼び落とされたネアがいる以上は起こりえる筈もないことだ。
だとしても、もしディノがいなければと考えたネアをこの魔物は知り、かつてのネアが抱えた孤独の寄る辺なさをどうにかしてくれようとしている。
(とは言えきっと、それがもしもの話の中でのことであっても、私が他のものを選ぶということが不愉快でもあるのかもしれないけれど……………)
それでも嬉しいと、ネアは思った。
そんな執着すらもまた、あの日のネアには得られなかったものだ。
自分のものだからと抱え込まれるのであれば、勿論ディノだってネアのものなのである。
「……………ディノ。………上手く言えませんが、凄く嬉しいです。薔薇を買ってくれるのですか?」
「うん。頼めばすぐに手に入るそうだよ」
「で、では、…………この薔薇がいいです!」
ネアが選んだのは、淡い白灰色の薔薇であった。
珍しく剣高咲きのものであるが、青みがかった光を帯びる白灰色の薔薇は天鵞絨のようで、茎や葉の部分は白緑色という、なんとも雰囲気のある薔薇だ。
集めて花束にするよりも、一輪で窓辺に飾っておきたいような赴きのものという気がする。
「どこか、あの日に似ているね」
「むむ、そうかもしれません。静かな雨の日を思わせる薔薇ですね」
「これだけ、なのかい………?」
「ええ。この一輪を、今はもうディノという素敵な伴侶がいてくれるのだという素敵な贈り物の証として、大事にしたいのです。その代わり、この薔薇をお部屋のあちこちに持ち歩いてしまっても、許してくれますか?」
「………うん。もう君は、ずっと私のものだから、安心しておくれ」
そう微笑んだ魔物は、もしかしたら、あの夜にネアを変質したバケツ怪人に会わせてしまった事を後悔しているのかもしれない。
そう考えたネアは、本日のおやつも小さな薔薇のケーキだったなと頷いた。
であればお菓子のようなものを作っても、お腹には余裕がなさそうだ。
このおやつの運用は毎日という訳でもなく、お断りする事も出来るのだが、引き続き薔薇のケーキが出るとなれば参加せざるを得ない。
伴侶の人間が選んだ薔薇を確認すると、バケツに貼られた名称を見てどこかに注文をしている魔物の横顔を見上げて、ネアは、伸ばした手で真珠色の三つ編みを掴む。
「…………ネア?他にも欲しいものがあったのかい?」
「私の大事な魔物は、今夜の晩餐の後の予定は空いていますか?」
おもむろにそう尋ねると、ディノは、ばさりとした睫毛を揺らして瞬きをし、こちらをじっと見る。
その眼差しはどこか魔物らしい老獪さも窺えたが、同時に無垢なほどの稚さもあって、ネアは小さく唇の端を持ち上げてしまう。
「どこにも行かずに、君の側にいるよ?」
「では、今夜は美味しい煮出しのミルクティーを作りますね。ディノが素敵な薔薇を買ってくれたので、ちょっぴりはしゃいでしまおうと思います」
「…………うん。作ってくれるのかい?」
「ええ。そんな風に寄り添い、嬉しい事があった日を大事な人と分かち合う事も私の憧れでしたので、それも叶えて貰おうという作戦なのです」
「他にも叶えて欲しい事があるのなら、幾らでも叶えてあげるのに」
そんな呟きは、いつものくしゃくしゃになってしまう魔物のものではなく、魔物の王様らしい穏やかで美しい響きを以って届けられ、ネアは心の中がむずむずしてしまう。
(この魔物は、どうしてそんな事を、なんて困った伴侶だろうとでも言わんばかりに呟くのかしら………)
「………ディノにも、そんな願い事がありますか?私も、ディノがやってみたかった事を色々と叶えてみたいです」
「…………う、ん」
(あ、………少しだけくしゃりとなった…………)
その変化に嬉しくなり、ネアは、手に持った三つ編みをにぎにぎする。
男性らしくて凛々しい魔物も大好きだが、ぎゅっと抱き締めて大事に大事にしたい魔物には、こんな風に心を有りの侭に揺らしていて欲しい。
「…………ディノ、それともう一つ、お願いがあるのです」
「おや、薔薇を増やすかい?」
「そちらではなく、………お部屋に帰るまで、手を繋いで欲しいのです」
「…………ずるい」
「ふふ。今日のディノは、私を甘やかしてくれるのでしょう?人間はとても身勝手な生き物なのでいつもとは言いませんが、今日は、ここからお部屋までの帰り道で、手を繋いで伴侶に甘えたい気分になってしまいました」
そうお願いしたネアに、ディノは、ゆっくりと瞬きをしてからそっと頷いた。
どこか慎重そうな仕草が無防備で、ネアは目の前の魔物の頭を撫でてやりたくてむずむずした指先を、三つ編みを握り締める事で何とか誤魔化す。
(今は、ディノが私を甘やかそうとしてくれている時なのだから、撫でるのはまた後でにしよう…………)
ここにいる伴侶は、そんな魔物の気分を理解できる賢い人間なのである。
さわさわと、どこかで薔薇影が揺れた。
風の吹き込まない広間の中で、ゆったりとカーテンが揺れている。
今年のカーテンは咲かないのだなと考えながらそちらを見ると、窓辺に置かれた敷物の織り模様がしっかり咲いてしまっているようだ。
どうやら、この広間のカーテンは、咲いてしまい難い模様だったようで、その代わりに絵柄がしっかりと織り模様になっていた敷物から咲いてしまったのだろう。
パターン化されたものと、柄として織り込まれたものでは違うのかなと考え、ネアはふすんと頷いた。
「君の薔薇は、昼食の前には届くと思うよ」
「………いつも不思議に思っているのですが、何もしていないように見えて、誰かとお話ししているのですか?」
「相互間に術式を敷いておいて、そのような事が可能になっている相手もいるし、今回のように指定された場所に、離れた位置から文字などを書いて伝達を図る場合もあるかな」
「まぁ!今回は、文字を書いてどなたかとやり取りしたのですね」
「うん。魔術を使って、離れた場所にある紙に文字を記すんだ。アクスの注文表などでは、そのような注文方法を取る顧客も多いだろう。とは言え、それを可能とする距離には限界があるから、あくまでも可能な距離である事が求められるけれどね」
「ふぁ。…………ディノは凄いのですねぇ」
三つ編みを離して手を差し出せば、ディノは少しだけ目元を染めたが、しっかりとネアの手を握ってくれた。
嬉しくなったネアが小さく弾めば、また、窓を開けていない筈の広間にさわりと不思議な風が吹く。
(そう言えば…………)
薔薇は、愛される事が大好きな花でもあるが、愛情を育む者達を祝福する花でもある。
もしかしたらここに並んだ沢山の薔薇達が、伴侶に甘えてみたネアの試みが成功した事を、祝福してくれたのかもしれない。
繋いだ手は、ほんわりと暖かかった。
体温としては低めだが、温度のあるものだと分かる温もりに、心の奥の柔らかな部分が駄目にされてしまいそうな気がする。
(本当は、これで充分なのだわ)
薔薇の花を贈って貰えなくても、ディノが手を繋いでくれるだけで、きっとネアの心はふかふかとした幸福感でいっぱいになっただろう。
あの一輪のヒヤシンスではなく、この伴侶の手があるのだから。
それだけでもう、たっぷりしっかり、心は満たされているのだった。
ディノが注文してくれた薔薇は、白蝶貝のような艶が美しい白磁の一輪挿しと共に、一刻程で手元に届いた。
その薔薇を飾った部屋はとても明るく優しく感じられて、微笑まずにはいられない一日を過ごす贅沢さを得たネアがどれだけ幸福だったか。
けれども、手を繋いで歩いた帰り道で、そっと落とされた口付けの甘さには、この世界の口付けが祝福となるのも致し方ないと考える次第である。
贈り物の薔薇には、花が開ききったところで保存魔術をかけて貰い、二人の薔薇を集めた部屋に残しておく事にした。
これから先もずっと、あの雨音の響く部屋に現れたディノが、伸ばしかけたネアの手に触れた瞬間の事を覚えておこうと思う。
そこから先が、かつてのあなたと今の私の違いなのだと、あたたかな薔薇色の線を引く為に。
明日の更新は、「夜の長い国と最後の舞踏会」となります。




