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疑惑の怪人と一輪の花




はらはらと細やかな雪の降る静かな夜に、遠い叫び声が響いた。



ネアはびゃっと飛び起きてしまい、隣の魔物にすぐさま抱き締められる。


起きはしたものの状況が良く分からず、尚且つとても眠いので何も聞かなかったことにしようかなとまた目を閉じてしまったネアを、ディノはすかさず膝の上に抱き上げたようだ。



わしゃりと抱き上げられた事で、怠惰な人間は確かに一度目を覚ました。

しかしながら、魔物製の椅子は珍しくなかった為、眠りの淵から蘇った儚い人間の心はあっという間に眠りの中に戻っていってしまう。



「……………寝台が椅子になりました。ぐぅ」

「ネア、何が起きているか分からないから、離れないようにね」

「断末魔的なものが聞こえましたが、…………むにゃ。…………穏やかな眠りを優先するべく、何も聞かなかったことにもできふ………ぐぅ」

「ご主人様……………」




あまりの眠さに残酷な本音がこぼれてしまい、ディノは少しだけ震えたようだ。

しかし、そこできゅっと抱き締められる拘束椅子は、しっかりと体を固定してネアをより深い眠りの中に誘うばかりであった。



しかしここで、二度目のムギャーという悲鳴が響き渡る。



これにはさすがのネアも目をかっと見開いてしまい、慌ててきょろきょろと周囲を見回す。

先程の叫び声は遠く感じたが、今回のものは随分と近くで聞こえたような気がしたのだ。



寝間着のまま魔物の椅子から起き上がろうとしたが、独立心の旺盛なご主人様が逃げ出さないようにと、ディノにさっと抱き上げられてしまう。



「…………ディノ、誰かが死んでしまったのかもしれません。そして、私の勘違いでなければ、狐さんの声がしたように思うのです」

「うん。ノアベルトの声だろう。…………君を一人にはしたくないから、このまま部屋を出て構わないかい?」

「はい。ディノが持ち上げてくれていれば、安心していられます」

「…………可愛い。掴まってきた」

「なぜにここで恥じらうのだ…………」



伴侶にぎゅっとしがみつかれた魔物は弱ってしまったが、ネアをしっかり抱えると、どこからか取り出したふかふかコートを着せてくれる。


淑女というよりはネグリジェ的で少女寄りな雰囲気なものの、こちらの世界ではツーピースタイプになった寝巻きは珍しい。

そんなお気に入りな寝間着にコートという、真夜中の冒険着に相応しい装いで部屋を出たネアは、しんと静まり返った廊下の先に目を凝らす。


この時間は照度を落としている廊下のシャンデリアの光の輪がぽつぽつと落ちていて、窓から差し込む夜の光は雪灯りを映して淡く柔らかい。


床に敷かれた絨毯の毛先が、そんな夜の光にさらされてけぶるように光っている。

まるで、葉先に光を宿した草原を見付けたような特別な気分に目を瞬き、ネアは、眠気を払い落とした心に芽生えたわくわくと弾むような特別感を宥めた。


これは有事なのだ。

大切な銀狐が危険に晒されているかもしれないのに、そんな風に心を緩めてはならない。


慌てて気を引き締め直し、大切な冬毛でふわふわの家族の姿を探した。

しかし、静まり返った廊下にはお馴染みの尻尾の影はない。




「……………狐さんがいません」

「ノアベルト…………」



不安になった二人が、そう声を上げた瞬間のことだ。


どこからかムギーと声が聞こえ、しゅばっと銀色の影が駆け抜けてくる。

目を瞠ったその間に、ぼすんと二人の間に飛び込んだもふふわは、確かに大事なネア達の家族であった。




「狐さん!」

「…………ノアベルト、何があったんだい?」



けばけばで尻尾をぴしりと立てている銀狐に、困惑したように問いかけたのはディノだ。

その声に顔を上げ、こちらを見上げた銀狐の首元に、絶対に切れない謎魔術で守られたリボンに通された指貫があったので、ネアはひとまずほっとする。



(良かった。あの声だと、どこかに落ちたか、リンデルを無くしてしまったのかなと思ったから…………)



けれども、ぶるぶる震えている銀狐をそっと撫でると、じわっと涙目になるのだから、きっと他の悲しい事や怖い事が起きたのだろう。

そう考えたネアは、家族をこんな目に遭わせた何者かは、脱脂綿妖精ではない限り討ち滅ぼしてくれると眼差しを険しくする。



「………何かに遭遇したようだね。………その、元の姿に戻れるかい?良くないものだとしたら、対処を急いだ方がいいだろう」

「まぁ。…………確かにそうでした」



そんな言葉に、震えていた銀狐は目をまん丸にした。

もしゃもしゃと動くと、ぴょんと飛び降り、ふわりといつもの美麗な塩の魔物の姿に戻る。


氷色混じりの白い髪はくしゃくしゃで、髪を結んだリボンは斜めになってしまっているが、どこも怪我などはしていないようだ。



「…………そうだった。こうすれば良かったんだ」

「ノアベルトが…………」

「とても心配になってしまう発言ですが、…………ノア、怖いことがあったのですか?」



ふっと、青紫色の瞳が瞠られる。

その綺麗な瞳に揺らぐのは窓からの夜の光で、ネアは、いつかのどこかで同じような目をしたディノを見た事があるような気がした。


一拍の間を開けて微笑んだノアは魔物らしい落ち着いた眼差しではあったものの、その向こう側のどこかに僅かな安堵の気配を感じて、ネアは、先程の震えていた銀狐をもっと沢山撫でておけばよかったのにと後悔する。



やっと大切なものが見付かったのだ。

ひと欠片も残さずに大事に大事にしたいのに、時々、その取り分を奪い忘れてしまいそうになる。



「………うん。狐の僕には、ちょっと刺激が強かったのかな。実はさ、さっき廊下の向こうにバケツ怪人を見たんだけど、……………バケツ怪人じゃないかもしれなくて」

「バケツ怪人では、ないかもしれないのかい?」

「よく似てるんだよ。でも、あれって歌ったっけ?」

「…………ぎゅわ。その組み合わせは無理でふ」

「あの生き物は、歌うのかな…………」

「まずはそこからだよね。………僕もさ、そもそもあの系統の生き物が歌うのかすら分からないんだ。まず、発声が出来るのかな……」

「考えたくありません………。脳内が、あやつが滑らかに話す姿を思い描くのを拒否するのだ」

「滑らかには無理そうじゃない?何となくだけど………」

「片言だった場合は、ホラー度が跳ね上がるばかりでふ……ぎゅ」



またしてもぎゅっとしがみつかれてしまった魔物は弱ってしまったが、ここは、伴侶を守るべくしっかりと抱き締めてくれた。


自分は魔物だったという事に気付いた驚きから抜け出せないものか、ノアはここで気を取り直すようにして、巻き込まれた事件について教えてくれる。



「狐姿でさ、部屋に戻ろうとしたんだ。あ、せっかく夜の色が綺麗だからと思って、夜の見回りの担当騎士と一緒にリーエンベルクの外周を歩いた帰り道だよ」

「ふむ。そしてボール遊びなどもしたのですね?」

「うーん、惜しい。騎士棟でボールハンモックに少し乗っただけかな」

「ほぼ同じとみなします」

「ありゃ。…………で、そこから部屋への帰り道で、その歌うバケツ怪人に遭遇したんだ。………ええと、いきなり背後に忍び寄って耳元で歌われたから、思わず叫んだよね」




そんな事件のあらましに、ネアは目を瞬いた。

ノアは神妙な表情であるし、ディノも真剣に聞いている。


しかしながら、ここにいる繊細な人間の意見としては、邂逅の頭からたいそうホラーな状況に陥っていると言わざるを得ず、現時点で、きゃーと叫んでもいい危険段階だと提言させていただきたい。



「それが、最初の叫び声だったのかな。………攻撃されたりはしなかったのだね?」

「うん。…………女の歌声くらいかな。慌てて振り返ったら足元にバケツ怪人の姿が見えたんだけど、ただそこにいて体を震わせているだけなんだ。距離を取って部屋まで駆け戻ろうとしたら、また歌声が聞こえるんだよ。そこで初めて、どこからか飛び掛かってきたバケツ怪人にへばりつかれそうになって、慌てて壁の絵の額縁の上に避難したよね」

「狐さんが、どこから現れたのかの謎は解けました」

「額縁………、あの辺りかな。バケツ怪人の姿は見えないようだけれど、…………廊下の向こう側かい?」

「多分そっちだね。…………はぁ。二代目の心臓が止まるかなと思ったけれど、この姿に戻るとそんなに怖くないのが辛いなぁ。亜種だったりしたら困るから、探しに行かなきゃだ」




ここでノアは、寝間着の上にコートを羽織っているネアを見て、くすりと微笑んだ。

伸ばした手で頭を撫でて貰い、ネアは、珍しい仕草におやっと眉を持ち上げる。



「僕の妹は、ぐっすり寝ている時間だったよね。後はもう僕一人で対処出来るから、君は部屋に戻っておいで」

「…………むぐ」

「ノアベルト、…………そのバケツ怪人を見付けるまでは、一緒に行こう」

「………シル?」



珍しく、きっぱりとそう言ったディノに、ノアは困惑したように目を瞠った。

よく見れば、結びきれなかった一房の髪が首筋にこぼれ落ちていて、そんなところが酷く無防備にも見える。



「狐姿の君は、…………以前はバケツ怪人を怖がってはいなかったように思うんだ。あの姿でその歌うバケツ怪人を恐れたのが、不意を突かれた事でなら構わないのだけれど、…………無意識に異端さを感じての事なら、一人で行かない方がいいだろう」

「…………うん。でも、バケツ怪人はバケツ怪人だよ?」

「この子は、多分そうするだろうから」



(……………あ、)



その一言でネアは、優しい伴侶が、魔物というものの線引きを超えた配慮を示した事に気付いた。

ノアが混乱しているのは、本来なら魔物が斟酌しない領域のものをディノが案じたからで、ディノがそれを見過ごさずにいてくれたのは、そんな僅かな危うさをネアが恐れると知っているからだろう。



まじまじとそんな伴侶を見上げてしまうと、夜の光の中でこそ冴え冴えと輝く真珠色の髪の魔物は、男性らしく艶やかな微笑みを優しく深める。



こんな時のディノは、どうしてはっとする程に美しく微笑むのだろう。



ネアはなぜだかはっとしてしまい、不安や孤独やもどかしさを、たった一人でいいから誰かに見付けて欲しかった遠い日のやるせない孤独な夜を思った。




「はい。…………それは、怖いものなのです。ディノ、一緒にノアに付いて行ってくれますか?」

「勿論だよ。君が怖くないようにしようか」

「でも、こんな時間なのにいいのかい?」

「一緒にと言っても、ディノを乗り物にしていますし、そもそも、最初の悲鳴の後は眠気に負けてしまい、何も聞かなかったことにして二度寝しようとした愚かな人間なのです」

「わーお。見捨てられるところだったぞ…………」

「なぬ。なぜ知っているのだ」



さてこうなれば、三人で慎重にその歌うバケツ怪人を探すのかなと思っていたネアは、魔物たちが特に遮蔽結界などを設けずにさくさく歩いて行ってしまう事に驚いた。



歩行に合わせて僅かに揺れる前髪を見つめ、そっとディノに尋ねてみる。



「ディノは、バケツ怪人さんが苦手だった筈なのですが、怖くはないのですか?」

「………歌うのであれば、そこまで苦手ではないかな。扱える魔術から、少しだけ不可解さが緩むからね」

「謎の運用でした。発声するような器官があるとなると、却って受け入れ易くなるのですね………」

「そうだね。………脱脂綿妖精が、あわいの獣になる感じかな………」

「まぁ、その説明で理解出来てしまいました………」



線引きとしては謎めいているが、伝えたい印象の変化は飲み込めてしまい、ネアはこくりと頷いた。


一輪挿し聖人のように擬人化しやすい動きを見せるものも苦手そうなので、あくまでも魔術が変化するからなのかなという疑問も過ったが、それは答えて貰っても専門的過ぎて理解出来ない可能性が高く、心に留めておく。



こつこつと、廊下に靴音が響いた。


リーエンベルクも全ての廊下に絨毯が敷かれている訳ではなく、棟内の住居区画を超えると石床がそのまま剥き出しになっているところも多い。


これは、かつてリーエンベルクが王宮であった頃に、住居区画との境界の向こう側では、敢えて往来の靴音を響かせるようにしていたからなのだとか。


安全面での措置であったようだが、その結果、絨毯の敷かれない廊下は床石の質が高かったり、モザイクなどの装飾が美しかったりする。

なので今も、そのように使っていた廊下には絨毯は敷かないままであった。



「こちらには、いないようだね」

「ありゃ。逃げたかな…………。それとも、薔薇の見本が届く広間に戻ったのかな………」

「歌声…………も、聴こえませんね」

「ええと、………本当に見たんだよ?」



高位の魔物達が気配を探っても、新生バケツ怪人の気配はどこにもないらしい。

ノアは慌てて酔っ払っていなかったと主張したが、ネアは、さっと手を伸ばして義兄のおでこに手を当てる。



「ノアベルトに、ご褒美………?」

「あら、魔物さんはこうして熱を測ったりはしないのですか?」

「………ありゃ、熱も出ていないぞ」

「ふむ。ノアは、酔っ払い風でもなく熱でふらふらでもなく、正常値のようです。となるともう、その歌うバケツ怪人さんがどこかに隠れているとしか。…………きゅっ」



ぴしりと指を立ててそう推理を述べたネアは、窓に映ったものを見てしまい、びゃんと飛び上がった。

ネアの反応に、魔物達も慌てて振り返る。




「…………これは何だろう」

「………わーお。…………わーお」




そこにいたのは、魔物達をも絶句させる奇妙なものであった。




本来のバケツ怪人は、バケツ型の半透明の体に長い触手を持ち、七つの目を有するクリーチャー風クラゲ怪人である。

しかしそこにいたのは、そんな既に色々と危うい姿形に加え、頭の上に一輪の花を咲かせたバケツ怪人であった。



(これは…………)



悍しいと捉えればいいのか、バケツ怪人なりの可憐な一工夫と認識してあげればいいのか、ネアはとても混乱してしまい、伴侶の三つ編みをぎゅっと握り締めるしかない。

平素は歌わないバケツ怪人が歌ったのであれば、この花が原因かもしれなかった。



「……………可愛いお花です。ヒヤシンスのようなものでしょうか」

「ご主人様…………」

「むぅ。早速、苦手な感じでしたね………」

「………え、………その花のせい?……………有り得ないくらいに二重属性なんだけど………」



そんなノアの言葉に、ネアは目を瞬いた。

どうやら魔物達の困惑はそこにあるようで、バケツ怪人の本来の資質に対して、頭の花は、誘惑などを司る愛情の系譜なので完全に魔術の系譜相違なのだとか。


「しかも、どちらかって言うと精霊寄りかな」

「むむ、バケツ怪人さんは確か、怪人という名の妖精さんの系譜でしたよね………?」


であれば目の前のバケツ怪人は、妖精でもあり精霊の資質も備えているということなのだろうか。


妖精だが魔物の気質に近いタジクーシャの宝石妖精などは会ったことがあるものの、どちらの要素も持ってしまっているような生き物に出会う機会は、あまりなかったように思う。

なお、思うと曖昧に表現したのは、よく分からない生き物も相当数出会って来たからである。


そもそも、頭の上の花はどうしてそこに咲いてしまったのだろうと首を傾げたネア達に、バケツ怪人はゆらゆらと長い触手を揺らめかせた。


(……………しまった!)



その動きに目を止め、ネアは無言で慄いた。

不可解さが先に立ってしまい、最も苦手な形状の生き物をまじまじと凝視してしまったことに気付いたのだ。



是非もう少し距離を空けさせていただきたいと考え、ネアが魔物の三つ編みを引っ張ったところで異変が起きた。


初めて見るバケツ怪人が、ネア達の目の前で歌を歌い始めたのだ。

たいそうホラーな外見に似合わず、その歌声は艶やかな女性のものである。

長年舞台の上で喝采を浴びてきたプリマドンナのような歌声は、間近で発せられるとかなりの声量だった。


「…………っ、」



強い風が吹き抜けるような歌声を叩きつけられ、ネアは、人外者にとっての歌唱は愛情表現ではなかったのだろうかと考えたのを最後に、くらくらする頭で目を閉じる。

抱き締めてくれているディノにしっかりと掴まったのに擦り抜ける意識は、歌声の圧に体から押し出されるようにして、どこか遠くにさらさらと運ばれてゆくよう。




ぽつんと、小さな水滴が天井から落ちてくる。



その水滴を受け止めたバケツは、あちこちの塗装が剥がれた緑色のものだ。

側面に記された文字からすると、元々はどこかの園芸店のものだったのだろう。

ネアが知らないどこかで、何かを買うか貰うかをして、この屋敷にやって来たバケツだと思われる。

そこにあった筈の物語は、残念ながらもう、ネアが知る事が出来ないものであった。



こほこほと咳をしながらその水滴を見ていて、まだ自分は屋根の上にはしごをかけて登れるだろうかと考えていた。


窓辺に揺れる庭木の向こうに、むくむくとした灰色の雨雲が見える。

今日から暫くの間は雨が続くらしい。

どれだけ続くのかは分からないが、子供の頃のように雨も美しいと考えるには、背負うものが多くなった。



(ああ、…………なんて寂しいのかしら)



家族でも暮らせる屋敷は静まり返っていて、ネアはどうして我が家には、野良猫や小鳥が遊びに来ないのだろうかと考えた。

そんなものはお伽噺の恩寵だと分かってはいるが、人型の家族や隣人を得るという野望は既に潰えてしまったのだから、せめて小さな友人が出来るくらいの奇跡を夢見るくらいのことは、どうか許して欲しい。


寝台の上に膝を抱えて座り、毛布から出てしまった冷たい爪先を擦り合わせる。

暖かな飲み物を飲む為に、階下まで下りてお湯を沸かさねばならないと思うとうんざりした。


その時だ。


誰かの影がゆらりと動き、ネアはゆっくりと瞬きをした。


ぱさりと寝台の上に落ちたのは、小さな花がたくさんついてる瑞々しいヒヤシンスの花ではないだろうか。


どこからこんなものが舞い込んだのだろう。

さっぱり謎であるし、こうして訪れる不可解さにはきっと不穏なものの気配もあるに違いない。


けれども、今のネアにとっては必要なものであった。

良く分からないけれど、場合によっては破滅するのだとしても、がらんどうの今を変えてくれるかもしれない小さな魔法こそが、ネアに必要なのだ。


ほうっと息を吐いた。

薬の影響で重たい手を持ち上げ、その美しい花に触れようとする。




「……………ネア」



しかし、躊躇いもなく伸ばそうとしたネアの手をそっと押さえたのは、見たこともない美しい男性だった。

呆然と目を瞠り、肌に触れた温度に唇の端を震えさせる。

この人はどこから現れたのだろうと考えることすら億劫で、久し振りに触れた誰かの気配に、わぁっと声を上げて泣きたくなった。



「先程のものが、ノアベルトではなく君を選んでしまったのだろう。孤独なものに愛情を差し出し、それを手にした者を捕らえてしまう仕掛けだったようだ。元々の資質を大きく歪めて咲いた、この花に宿る資質なのかもしれないね」

「……………あなたは、…………っ、……………ディノ?」

「うん。ほら、今はもう私がここにいるだろう?この花はいらないものだね?」

「…………はい。ディノに勝るものなどありませんでした。…………それなのになぜか、私はもうずっと一人ぼっちで、この花を手にしなければ他に愉快な事は何もないような気がしたのです」

「この時間だから、夢や記憶に紐付く柔らかな部分に触れるものだったのかもしれないね。……………おいで。一緒に帰ろう。ノアベルトも心配しているよ」

「ふぁい。……………このお花は、ぽいです」

「うん。ここで壊してゆこう。寄生した者を動かして獲物を狩るものであれば、これがなければ、バケツ怪人も元に戻るかもしれない」

「……………ふふ。バケツ怪人だなんて」



ネアはここで、何だかその名称が少し面白くなってしまい、小さく笑った。

そうするとディノが痛ましげにこちらを見て安堵するのだから、伸ばされた魔物の腕の中にぎゅっと体を寄せようではないか。



「もう、怖くないかい?」

「ディノが、迎えに来てくれたので、もう怖くなくなりました」

「ごめん。私が君をあの生き物の前に連れだしてしまったんだ。私が君を危険に晒したのに、君がここで一人にされるのが、……………とても、不愉快で堪らない」

「ディノ…………」




ひやりとするような呟きに、ぴしりとどこかがひび割れる。


いつかの雨の日の静かな恐ろしさはそのままであったが、この場所はもう、一人ぼっちでつぎはぎにし続けたあの場所ではないので、ネアは振り返らなかった。




どうやらあのおかしなバケツ怪人は、頭の上の花によって悪変していたようだ。

ディノに持ち上げられてふわりと雨の匂いのする空気が揺れれば、そこはもう、いつものリーエンベルクだ。




「ネア!…………無事だね?」

「ノア………。遠い昔の夢を見ていたようでした。ディノが、迎えに来てくれたのですよ」

「うん。系譜上、孤独から拾い上げて持ち帰るってところで、祝福の一種に分類されて結界を超えたみたいだね。おまけにバケツ怪人を宿主にしたからかな。………ごめんよ、ネア。僕と一緒にバケツ怪人を探したせいで…」

「あら、もしノアが一人だったら、連れ去られてしまったのかもしれませんよ?ディノもです。ここで見付けておいたからこそ、二人がいるところで遭遇出来たのですから、ここは安心するべきところなのでしょう」

「……………うん」

「ありゃ……………」



ここで、少しだけしょんぼりとしたノアに、お呼びがかかった。


魔術通信はヒルドからで、どうやら魔術書の読破に余念がなかったエーダリアが、夜明けの滴を採取に行こうとして部屋を出たところでバケツ怪人に遭遇し、身動きが取れなくなってしまったらしい。




「……………ありゃ」

「おかしいです。バケツ怪人さんは、ここにいるではないですか」

「これではないのかな………」




無事に頭の上の花は取れ、とても直視出来ない感じに蠢いているバケツ怪人は、ネア達の目の前にいる。

しかし、執務棟では、エーダリアの目の前にもいるのだ。



三人はそろりと顔を見合わせ、厳しい眼差しで頷き合った。




「少なくとも、二体はいるってことだね。そっか、僕が最初に振り返って見たバケツ怪人は、頭に花が咲いていなかったから、通常のものの方だったんだ……………」

「エーダリア様は、今年も角に追い詰められてしまったのですね………」

「これは、必要なものなのかな………」




かくして、夜明け前にバケツ怪人の試練を乗り越えた家族全員が、会食堂に集まって温かな紅茶を飲むことになった。


あの花がどこから来たのかは分からないものの、ノアが、今後は結界で弾き出すようにしてくれたそうだ。

頭の上の花を失ったバケツ怪人は、暫くゆらゆらしていたがふつりと消えてしまったので、問題ないと考えてもいいのだろう。




ぴしゃんと、どこかで水音が聞こえる。




もう、こうして集まれる家族が同じ屋根の下にいるのだと考え、温かな爪先を擦り合わせた。

室内履きには保温魔術がかけられており、ネアの手には真珠色の美しい指輪がある。




それでももし、あの場所にいたのが在りし日のネアだけであったなら。

優しい魔物どころか、小鳥や栗鼠などのお伽話風な友達も出来なかったのなら。



そこにいるネアはきっと、躊躇いもなくあのヒヤシンスを手に取ったに違いない。


















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