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パン屋と領主





「この度は、息子が大変なご迷惑をおかけしました」




そう頭を下げた男に、エーダリアは慌てて立ち上がりかけ、こほんと咳をしたヒルドの方を見て、浮かせかけた体を椅子に戻す。


この外客用の天鵞絨張りの椅子は、エーダリアには少しだけ慣れない硬さであった。

いつもであればこのような時は正式な客間を使うのだが、今回は略式でと言うこともあり、騎士達が使う会談用の部屋を使っている。


騎士達が使用する椅子は、騎士服での座り心地を考え、少しだけ硬めに作ってあるのだそうだ。

エーダリアには僅かに体が浮くような感覚があるが、重たい防具などを付けた騎士達にとってはこの椅子が良いのだろう。



リーエンベルクの外客棟にあるこの会談室では、街にあるパン屋の主人であるジッタが、先日の傘祭りで起きた一件について謝罪に訪れている。



リーエンベルクで出される食事は、基本的にリーエンベルク内で賄われていたが、大規模な遠征などが行われる場合には、このジッタのパン屋で作られた長期保存に長けたパンを購入することもあり、正面の椅子に座った男はエーダリアにとっても馴染み深い人物であった。



(……………おかしいな。なぜ、更に魔術階位を上げているのだろう)




正面に座ったジッタを見て、エーダリアがまず最初に驚いたのはそこだ。

謝罪の間も気がそぞろになるくらい、魔術階位の波紋を凝視してしまう。



ウィームには、この中央域でも四軒のパン屋があるが、その開業に必要な魔術可動域は、おおよそ二百程度である。


それなのにジッタは、エーダリアが出会った頃から、魔術師などに用いる特殊な計測機を使わねばならない千以上の可動域を有していた謎の多い人物で、そもそも、上限に近い値を持つ者が魔術階位を上げることなどそうそうない。


それなのに、一目見て階位が上がっていると分かるのだから、実際にはどれ程の階位変化があったものか。

呆然と見ていると、溜め息を吐いたヒルドにばしんと背中を叩かれてしまった。



「…………す、すまない。…………先日の件は、こちらから既に、シルタと結ぶ誓約書面などは送らせて貰っている。わざわざ足を運ぶ事はなかったのだが………」


事情を分かっていてもそう伝えたエーダリアに、ジッタは僅かに苦笑した。

エーダリアの気質を理解した上で、困ったように微笑むような瞳は美しい灰色である。


「ジッタがリーエンベルクに正式な謝罪に訪れたのは、シルタが、ヴェルリア貴族の血統だからでもあるのでしょう。事情を知らずに、その履歴を不安視する者もいるでしょうからね」

「ええ。ギルドからもあらためて俺からも謝罪をするようにと、厳しく言われましてね。本人は必要な事をしたつもりでも、息子の行いはあまりにも浅慮でした。………履歴が明かされれば、ヴェルリア派にとって、あいつはこの上なく美味しい獲物です。食指を伸ばし易いような隙を与えてはならないという事を理解出来ていなかったのは、親としての俺の指導不足でした」



その言葉でエーダリアも腑に落ちたのだが、だからこそジッタは、保護管理責任者としてリーエンベルクを訪れなければならなかったのだろう。


これは、ジッタがリーエンベルクに恭順する姿勢を見せる事で、彼の家族がリーエンベルクの管理下にあるという主張も兼ねる、政治的な公示でもあるのだ。



「魔術的な証跡を付けておいた方が、説得力があるでしょう。ジッタ、こちらから警告文を出させていただいても?」

「是非にそうして下さい。そのような縛りを受けておいた方が、こちらも安心です。…………充分に身の上の危うさは伝えておいたつもりでいましたが、男はあの年頃になると、自分は誰にも理解されない病になるのを失念していました。青年期後半になってからこそ、息子とよく話し合うべきでした」

「………そ、そのような病があるのだな」

「思春期特有の流行り病みたいなもんですよ。思い返してみれば自分も通った道なんですが、この歳になるとすっかり忘れちまうもんですねぇ………」



恐縮しきったように頭を下げる男を宥めながら、ジッタがその年頃だった頃にはどのような青年だったのかを考え、エーダリアは少しだけ慄いた。


初めて挨拶を交わした時に可動域の話をし、青年期には千くらいになっていて、若さに任せて魔獣狩りなどもしたと聞いていたのだ。


今の朗らかなジッタではなく、自分は誰にも理解されないと思って狩りをしていた頃の彼は、どんな様相だったのだろう。



(……………そして、どんな魔獣を狩っていたのだろうか………)




またしても若き日のジッタについて考えかけてしまい、慌ててその思考を打ち消した。

深く考えてはいけないと思い至ったのだ。



ここでエーダリアはふと、傘祭りで見た、虐殺王の傘持ちの傘の記憶を思い出す。



雨の合間に訪れた僅かな晴れ間に、その王はウィームの街並みを見下ろしてどこか満足気であった。

艶のある黒い巻き髪に、銀灰色交じりの灰色の瞳は、時折このウィームを訪れる犠牲の魔物の瞳を彷彿とさせる美しさで、全く同じ配色を持っているジッタを、ついついじっと見てしまう。



(あの王は、…………その血筋が、ウィームの民達の中に残るのだと話していた)



ウィームには、記録にある最も大きな内戦を機に、一つの王家筋がこの地を離れたという記録が残されている。

意図的な決別ではなく、結果としてその血脈の者達の多くがウィームを出る事になったのだ。



古くからこの地に暮らす人外者達によれば、そのような内戦や内乱などは記録にあるだけではなかったと聞くが、であれば、その数だけこの土地を離れた者達がいるのだろう。


けれども彼等の血筋は、脈々とこのウィームの領民達の中に残っているのだ。




例えばきっと、このジッタのように。




「……………エーダリア様?」

「い、いや、……………傘祭りの日に、古いウィーム王の傘の記憶を覗いてな。その映像の中に、お前によく似た者がいたのだ。今更ではあるが、そうしてウィームに残るものについて、あらためて考えてしまった」

「エーダリア様………」




こんな席で何を気を散らしているのかと、ヒルドに顔を顰められてしまったが、ジッタは小さく微笑んだようだ。


ジッタは、服装だけを見ていればパン屋らしからぬ貴族の道楽息子のようにも見えるが、実はこの装いは、彼なりの工夫によるものである。

怜悧な美貌と高い魔術可動域のせいで、彼が普通のパン屋風の装いをすると、なぜか威圧感が増してしまうのだ。


お客から子供が泣くと言われて試行錯誤した結果、この装いだと、視覚的な情報と可動域の圧が釣り合う事が分かったらしい。


エーダリアが初めて挨拶をした日から、彼は、袖を丁寧に折り上げたシャツにクラヴァットのジレ姿で、思い返せば、クッキー祭りで見かけた時にもこの装いであった。


今は外出着なので上着を着ているが、ウィームのジッタの店と言えばもう、美麗な貴族のような店主がいると領内外で有名である。



「ああ、俺は先祖返りらしいですからね。王朝時代以前、内戦前のウィームでは、淡い色の髪の者と黒髪の者が半々くらいだったそうですよ。アレクシスなんかも生まれた頃は夜闇のような黒髪でしたが、今はすっかり白くなっちまって」

「…………アレクシスもなのか?」

「はは、今のあいつをご存知なら驚かれるでしょう。あいつは、何を食っていたものか、少年期からもう黒髪じゃなかったですしね。ですが、小さな子供の頃は、俺達は容姿的な特徴が似ているってことで仲良くなったくらいです。不思議と黒髪の子供は、属性や系譜が違っても、魔術の構築方法が似ている。黒髪の子供は癇癪持ちか一人上手ってんで、親同士が情報交換なんぞしていたもんです」

「そうだったのか。…………すまない。そのような事を、私は今まで調べようとも思い至らなかったのだ」



自分は、ウィームを愛していると思っていたのに、どれだけのことを見落としていたのだろう。


そんな情けなさに堪らなくなっていると、こちらを見たジッタが、その微笑みを深めるのが分かった。


よく見れば、その気配の重さや魔術の扱いの巧みさ、そして突出した美貌なども含め、ジッタには最初から常人らしからぬ部分があった。


美醜が魔術階位に関わる人外者程のものではないが、例えばこれがガレンの魔術師が土地の固有魔術の調査に来たと仮定して目線を変えてみれば、見落とす筈もなかった兆候がそこかしこにある。


ウィームであれば異種婚姻も少なくはないからと見逃してしまわず、領主として知っておくべきだった事はまだまだあった筈だ。



そう考えて恥じ入ったエーダリアだったが、ジッタはそうは思わなかったようだ。



「エーダリア様はそれでいいんですよ。ウィームに着任されてから暫くの間は、中央からの監視の目もあったでしょう。つい最近までは、ヒルド様もまだ中央に留め置かれ、王都に気懸りを与えれば、ヒルド様を責任者に立てての調査が行われた可能性もあった訳です。こうして、ウィームに身を馴染ませ、過分が身を危うくしないようになってから、少しずつまた新しくウィームの事を知ってゆけばいいんです」

「………結果としては、良かったのかもしれない。だが、知ろうとする為の気付きすら得られなかったのは、やはり情けないな…………」

「うーん、エーダリア様は真面目だなぁ。ウィーム人の血統の特徴なんざ、あってないようなものですよ。何しろ、妖精も竜も、そこかしこで混ざりたい放題ですからね」

「だが、お前達の身体的特徴は、古い王…」

「おっと!」



言いかけた言葉を遮られ、エーダリアは目を瞬いた。

こちらを見て、こりゃ危なかったと息を吐いてみせたジッタの表情には、珍しく鮮やかな焦りの色がある。



「それについては、どうか言及なさいませんよう。今の流れですと、的確な指摘になるのが間違いないので、尚更に。…………統一戦争で敷かれた魔術は、ウィーム王族抹殺の因果の魔術です。そこには、我々の囁きや記録書などからも情報を拾う魔術が、幾層にも重ねられていました」



そんな説明に目を瞠り、エーダリアは、一人のパン屋の言葉を聞いていた。



これまで誰からも聞くこともなく、自分で知り得る事もなかった、統一戦争を知る当時のウィーム領民の言葉に、ただ、震える心をしっかりと押さえ込み、耳を傾ける。



今迄は誰も、ここまでの事を語りはしなかったのだ。

寧ろその術式への言及は、どこかこの土地では禁忌に近しい趣きであった。




「だからこそ、文書館やダリルダレン、封印庫やシカトラームは、早々に中立の立場を表明してその魔術を逃れたんです。まぁ、能力的にはヴェルリア風情には難しいでしょうが、万が一あちらが取り込まれると厄介な事になりますからね。………なので我々は、残されているかもしれない魔術が全て取り除かれるまでは、その履歴を語りません」

「……………そうだったのか」

「実はね、転属程度のことで逃れられたあの術式には、対象は人間の領域のもののみっていう、大きな穴があるんですよ。だから俺やあなたは語れなくても、ヒルド様や、あの塩の魔物様なんぞは平気でしょう。更に言えば、あの時の魔術式が土地に残されていたとしても、もしかしたらもう、それは何の効力も残していないかもしれない。ですがね、………不確定な事で危険は冒さない方がいい。………魔術ってもんは、みんなそうだ」



ジッタはいつも、少しだけぞんざいで、ゆったりとした穏やかな口調で話す。


その声音や表情には、いっそ冷ややかな程の美貌に反した、ごつごつと節くれだった大木のような暖かさと頼もしさがあり、エーダリアが密かに同性として憧れるような存在感はいつも、若輩者のウィームの民として見上げるばかりのものだ。



「そうだな。私も魔術師として問われれば、そうするべきだと答えるだろう。浅慮な質問で、お前の身を危うくするところだったな。すまなかった」

「はは、そりゃ知らないんですから、仕方ありませんよ。今みたいに、俺とあなたとで術式に引っかかる問いかけが成立しかねない時以外では問題ないでしょうから、あまり気にしなくていいものですしね」

「そ、そうなのだな………」

「俺はまぁ、………一族的にも確定なんです。こっちの血筋は、エーダリア様方の王家のものより沢山市井に下りましたから、本来ならとっくに希釈されているべきなんですが、うちの家系は血が残り易い組み合わせだったんでしょう」



そう苦笑したジッタに、成る程と得心する。

知るという事は知られる事という魔術の理に於いて、自分は旧王家の血を引くという確証が得られない者には、あの魔術の障りはないのだろう。


しかし、ジッタのようにその資質が色濃く出てしまう一族の者は、自分達でもまず間違いなくそうだろうと認識出来てしまい、その認識こそが魔術を結ぶのだ。




ふうっと息を吐き、不思議な思いで目の前の男を見つめる。


ああやはりという感慨と喜びに、誰もいないと考えていた場所が、実は賑やかであったという驚きがあり、上手く言葉を選べない。



(…………厳密には、私とは違う王家筋だ。だが、血族ではなかったとしても、…………私と彼等は繋がっていて、…………そして、このウィームから全てが失われた訳ではなかったのだと……………)



もしかしたら、だからこそ最後のウィーム王家は、王族達だけで戦い、ウィームの国民をその滅亡から切り離したのかもしれない。



ウィームの国民が生き残れば、そこには、一つの王家の血が残る。



血に宿り成し得ることが出来る魔術などは、市井に下りても確実にどこかには息づいてゆく筈だ。

どこか破滅的で悲しく思えたあの最期の決断には、国民や文化を含めたウィームという土地そのものを守るという名目の他に、せめて一つの血筋はこの地に残るという確信もあったのだとしたら。



ぐっと目の奥が熱くなり、エーダリアは何とかその感動と感謝を宥めた。

ジッタは傘祭りの日の謝罪で来ているのだから、これ以上、話題を逸させてどうするというのか。


しかし、また叱られるだろうかとそろりと見たヒルドは、どこか優しい目をして微笑んでいる。



「エーダリア様、良い話を聞けましたね」

「ヒルド…………。ああ。ここで知っておく事が出来て良かった。ジッタ、…………感謝する」



もっと他にも言いようがあったのだが、短い言葉しか選べなかった。


それに、言葉を重ねて、今の事がどれだけ自分にとって大切な情報であったかを伝えるより、ジッタにはこれで伝わるような気がしたのだ。



そこからは元の話題に立ち返り、リーエンベルクから先日の行いに対して警告文書を発行し、そこに紐付けた罰則として、ジッタ親子が不当な干渉を受けないようにする手続きを行った。


ウィーム領主やリーエンベルクの騎士達に対し、制止された上での害意を持った接近などを禁じるもので、ジッタの意見も取り入れながら、より適切な形に整え結び終える。



「結果としては、良いきっかけを貰いました。これで、息子は安心してウィームで暮らしてゆけるでしょう。俺もまだまだ元気なつもりですが、それでも不安の芽は可能な時に摘んでおいた方がいい」



立ち上がれば、ジッタは竜種並みに背が高く、こうして部屋の中で向き合うと少しの威圧感は確かに感じてしまう。


魔物達も長身ではあるが、竜種の体格にはまだ慣れない。



(……………旧王家に交わったという竜の血のせいなのか、それともこれが、旧王家の者達や、ジッタの一族の身体的な特徴なのか…………)




ふと、あの傘は幸せだったのだろうなと思った。



ネアが手にした灰紫色の傘は、自分がこの地から去る事を悲しんではおらず、どこかに強い執着を残す事もなかったように思う。


それはきっと、このウィームのそこかしこに、かつて親しんだ者達の面影が残り、健やかであったからこそなのではないだろうか。




「これは余談ですが、…………統一戦争前まで、ヴェルリアとウィームは良き隣人同士でした。それは、この地から失われた王家筋の者達こそが、ヴェルリア王族と親しみ易い気質だったからだと聞いています。かつては、相反する気質だったからこそ取れていた調和があるのなら、もし、中央と折り合いが悪くなる事があった場合は、まるで違う気質の者に助言を仰いでみるといいかもしれませんね」

「それも私が知らずにいた事だな。ジッタ、良い助言をくれて助かった。もしもの場合は、是非にそうしてみようと思う」

「まぁ、これからのウィームは、俺がこんな事を言わなくても大丈夫でしょうけれどね」

「そうだろうか………」



激励かと思いそう苦笑してしまうと、ジッタはくすりと笑ってヒルドと視線を交わしている。



「そもそも、ウィームを損なう事が不可能な階位の魔物方の守護があるのは勿論のこと、ダリル様もそうですし、ネア様は確実に気質的にこちら寄りの視点の持ち主でしょう。外部者の意見を求めずとも、そのお二方で充分に正反対の視点が補えるでしょうからね」

「そ、そうだな…………」

「ヒルド様もこちら側ですかねぇ」

「おや、私もジッタ側ですか」

「厄介なもんが現れた際には、対話より駆除方法を考えませんか?」

「そう言われてみますと、そうかもしれませんね」

「ヒルド……………」




かつてのウィームは、国が安定し豊かになったことで、苛烈な思想を持つ王族たちが生き難くなったのかもしれない。




(けれども、戦火に晒され、大切なものを多く喪った…………)




だからもう二度と、隠した腕の下で研ぐ刃を捨ててしまう事はなく、新しく飲み込んだ苛烈さや力と共に、このウィームは生きてゆくのではないだろうか。



そして、そうある限り、この美しい土地は二度と誰の手にも渡らないのかもしれないと、そんな事を考えてしまう。




ギルドの議会で上がっている問題などを少し話し、彼を送り出そうとした時の事だった。

この会談室から外に出るには騎士棟前の外廊下を通るのだが、部屋を出たところで、その外廊下から、わあっと声が聞こえてくる。



何かあったのだろうかと慌てて角を曲がれば、そこには、公共文書館での仕事を終えて戻ってきたらしい、ネア達がいた。


ディノがネアを抱き上げて慌てているようで、隣にいたヒルドの気配が、さっと強張る。




「…………ネア、すぐにノアベルトのところに行こう」

「………ふぎゅ。もしかして、あのごろごろ獣めに、かぶれたのでしょうか」

「魔術反応だった場合、原因が分かる前に治療してしまわない方がいいかもしれないから、少しだけ我慢しておくれ」

「ふぁい…………」




どうやら、ネアの手のひらに何らかの疾患が出たらしい。


近くにいた騎士達が心配そうに覗き込んでおり、ディノはすっかり動揺しているようだった。




「………どうやら、ネア様はあわいの獣に触れられたようですね」



ヒルドがそう呟くと、ジッタが小さく声を上げた。



「…………もしかして、季節性のあわいの獣ですか?」

「ああ。恐らくそれだろう。文書館での対応を頼んだのだが、素手で触れたようだな………」

「素手とは流石だが、そりゃ、かぶれるでしょう。薬草パンを持っていますので、差し上げても?」

「ジッタ、頼んでもいいですか?」

「ええ、勿論ですよ。この季節はいつも持ち歩くようにしていますからね」

「薬草パン………?」




そのパンについてはよく分からないままにネア達の方に歩み寄ると、一緒にいたアメリアがこちらに気付いた。


その視線を辿り、ネアが顔を上げる。

ディノに慌てて抱き上げられたからか少し髪が乱れているが、怯えたような様子は幸いにもなかった。



「エーダリア様、ヒルドさん………」

「ネア様、こちらにおりますジッタが、季節性のあわいの獣用の薬草パンを持っていますので、そちらを食べていただいてもいいですか?」

「まぁ、それがこの症状に効くのでしょうか?」

「ええ。すぐに効果がありますよ」

「では、お願いさせていただきます。うっかり、あのごろごろ獣めを鷲掴みにしてしまったからか、一刻程してから、手のひらや指の間が真っ赤になってしまいました………。ジッタさん、どうぞ宜しくお願いします」



ヒルドの提案に鳩羽色の瞳を瞠ったネアは、ディノの腕の中から頭を下げた。

青灰色の髪がさらりと揺れ、ジッタも微笑んで挨拶をしている。



(……………パンで?)




「では、このパンを食べて下さい。大きくはありませんが、香草系が苦手だと少し薬草の風味が強いかもしれませんよ」

「むむ、香草ものは大好きなのできっと美味しくいただける筈ですし、香草チャパタのようで美味しそうです!………ディノ、私は手がこんなですので、お支払いをお願いしてもいいですか?」

「うん。これで治るのかい………?」



ネアが手を腫らした事でディノはすっかり怯えていたようだが、ジッタが支払いは必要ないし、すぐに治ると言えばほっとしたように息を吐く。



特殊な魔術封印のある紙袋に入った薄いパンを受け取ると、ネアは、ジッタにお礼を言って早速食べている。


効果についてはまだ未知数だが、ジッタのパンなら間違いないだろう。

エーダリアも、その様子を見て胸を撫で下ろした。



「むぐ!とても美味しいパンでした。私の不注意で、お騒がせしてしまい申し訳ありません」

「……何でもう腫れが引いたんだろう…………」

「ははは、うちの店のパンは、効能の即効性が売りですからね。幾つか手持ちがあるので、これを差し上げましょう。これがあわいの獣用、こちらが祟りもの用、これは春明かりの時期のあわいの妖精用です」

「………ネア。……………その、貰ったようだよ」

「ジッタさん、とても素敵なものばかりなので、是非にお買い上げさせて下さい」

「いやいや、差し上げますよ。ディノ様にはこれもだな。………いや、これもか。………ああ、これはお好きだと思いますよ。温めて食べるといい」



挨拶をするので下ろして欲しいと言われ、ネアを下ろした事で手の空いたディノは、ジッタから山ほどのパンを持たされてしまっている。



それも支払いはいらないと言われておろおろしていたが、黒砂糖と夜の滴の蒸しパンの説明をされると、好きな類のものなのか瞳を揺らして頷いていた。




「ディノ、こんなに沢山いただいてしまったので、お気に入りのものを見付けて、今度はジッタさんのお店に伺いましょうね」

「うん…………」

「そしてディノは、ジッタさんにお礼を言いましたか?付与魔術が結ばれないように、お礼が言えるのですよね?」

「……………あ、………有難う?」

「はい、よく出来ました!」



おずおずとお礼をしたディノに、ジッタは至福の表情で頷いた。


気に入ったパンがあれば幾らでも食べさせてやると意気込んでいるところを見ると、噂に違わぬディノ贔屓であるらしい。

先程まで怯えていた伴侶が表情を緩ませたからか、ネアも、安心したように微笑んでいる。





その日の夜、リーエンベルクの歌乞いの魔物にお礼を言われたと、ジッタは家に帰ってから祝杯を上げたそうだ。



ネアからは、あらためて職務上不適切な気の緩みがあったと、経緯報告と謝罪をされた。


こちらは、どうやらアルビクロムの子爵へ自身の有能さを見せつけようとし、ついついあわいの獣を手掴みにしてしまったらしい。


手掴みに出来た事が驚きだが、ジッタがすぐに対応出来たのだから、彼も知る症状であるのだろう。 

 



「…………ヒルドは、あの薬草パンが、あわいの獣にも効くのだと知っていたのだな」

「以前に、うっかりあわいの獣に触れてしまったと、雪竜達が買いに来ていましたからね」



しかしそちらは竜で、こちらは人間なのではと思わないでもなかったが、ネアなのでこんな事もあるだろう。




エーダリアはその夜、このウィームに暮らす領民達の履歴や、かつて二王家が栄えた頃のウィームを思いながら、不思議にあたたかな気持ちで眠りについた。




ウィームは、賑やかで豊かな土地だ。



きっとあの傘の記憶の中にいた在りし日のウィーム王も、今のウィームを見たら喜んでくれるだろう。












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― 新着の感想 ―
[一言] この世界は魔術でもって生活を成り立たせ、魔術による監視、拘束もある。 この世界で言うところの神様よりは明確な感じがするけど、神様みたいな。 私なんか、忘れっぽいしのほほんタイプだから、すぐ触…
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