127. 傘祭りで荒ぶります(本編)
傘祭りも、後半戦となった。
稚拙な企みによる小さな暗躍とその解決の一幕もあったが、こうして無事にいつもの祝祭となるには、様々な努力が幕間にあるのだろうと考えさせてくれた出来事に、ネアは、傘祭りをまた違う角度から見られたような己の成長を感じていた。
外に出ると、そこには普段の上品で穏やかなウィームの民の姿はなかった。
祝祭ごとに荒ぶるので、最早本来の姿はこちらなのではと思わざるを得ないが、どちらにせよ普段から見られるものではない。
わぁぁぁと遠い戦の勝鬨のようなものの響くウィームの街に、ネアは、綺麗な青空だなと遠い空を仰いだ。
魔物達はびくりと肩を揺らし、エーダリアとヒルドは、外の騎士達の配置や、休憩を終えた学院の実習生達の様子、貴賓席のお客達に怪我人がいないかなどを目視で確認しているようだ。
すぐにこちらに来たのは、ゼベルで、布怪人な傘はかつての被害者の遺族一同と戦い、こちらも早々に昇華してしまったと報告を上げている。
ネアは少しだけほっとしながら、周囲を見回しぴしりと動きを止めた。
議事堂を出て最初に見たものは、昼食前にネアが見かけていた可憐なピンク色のドレスの少女が、戦っていたフリル傘をばきばきにへし折った瞬間であった。
戦いが終わった直後に駆け寄ってきた少女の姉達の歓声からすると、問題の傘は、少女の幼馴染みの婚約者を、彼女から奪った人物の持ち物であったらしい。
恐らく、少し離れた場所で震え上がっている青年が元婚約者だと思われるが、ピンクのドレスの少女はそちらをつまらなそうに一瞥すると、声もかけずに立ち去った。
置き去りにされた少年は呆然としていたが、どこか切ない眼差しでかつての婚約者を見ているので、今更相手にして貰えるかどうかはさて置き、この傘祭りを機に新たな恋を育んでしまった可能性もある。
傘祭りは、さまざまな物語が動く日でもあるのだ。
「……………ご主人様」
「むむぅ、ディノがすっかり怯えてしまいました。綿菓子を買いに行く間、頑張って街を歩けますか?」
「君が、傘に刺されないようにするよ」
「ふふ、ディノがいてくれたらすっかり安心ですね」
「…………え、僕はその間誰に守って貰えばいいのかな?」
「なぬ。なぜにノアまで怯えているのだ」
「さっきさ、前に付き合ってた女の子の持っていた傘が飛んでいたような気がしたんだ………」
「おや、それでは我々は別行動としましょうか」
「エーダリア、ヒルドが冷たいんだけど………」
ネアはここで、ぎゅおんと音を立てて飛んでゆく暴れ傘を見かけたが、襲いかかって行った先で市場のチーズ専門店の女主人に拳で撃破されていたので、何だかもうこの土地の領民はみんな大丈夫かなと思う事にした。
ここで一度ノア達とは離れ、広場の反対側の時計屋の前にある青い屋根の屋台に向かう。
「まぁ。あちらでも戦争が起きていますね。街の騎士さんのようですが、婦人傘にくしゃくしゃにされています」
「………あれでいいのかな」
「ちょっぴり気障っぽい装いといい、周囲のご婦人達の冷たい眼差しといい、あの婦人傘の持ち主と個人的な問題があったと推察されますので、そっとしておきましょうか」
「うん………」
(こうして傘祭りの日に、ウィームの街の中を、ゆっくりと歩いたのは初めてかもしれない)
大きな青い傘と戦うご老人がいたり、アルビクロムから遊びに来ていた技師達と押し合いをしてはしゃいでいる竜用の大傘がいたりする。
ぷかぷかと散歩を楽しむ傘達は、色々なお店のショウウィンドウをひやかしたり、噴水の水を浴びてくるくると回ったりして楽しそうだ。
青い青い空には色とりどりの傘達が浮かび、そんな光景を窓を開けて楽しんでいる領民もいる。
広場の雪はお祭りを楽しむ人々に踏み固められ、花壇の中からは小さな妖精達が賑やかな傘祭り観覧をしているようで、暴走傘がぎゅんと空を飛び交う度に、おおっと歓声を上げていた。
(むむ………、)
ネアはここで、幾つかの屋台の看板に、綿菓子終了のお知らせが出ていることに気付いてしまった。
どうやら早々に完売してしまったらしく、何箇所かに見られるという事は、おおよその屋台で売り切れたと思っていいだろう。
かくりと項垂れたネアに、ディノがおろおろしている。
「ぐぎぎ………この時間ですと、限定の綿菓子はもうないのかもしれません。ですが、もう一つのお祭りの楽しみである、傘飴はある筈です。ゼノからお菓子情報を入手している私に抜かりはありません!」
「かさあめ、なのだね?」
「はい。閉じた傘型の棒付き飴で、舐めている内に飽きてしまわないような、素早く食べ終えられる工夫のあるものなのだとか。ゼノ曰く、薄荷味と苺味があるようなのですが、ディノは薄荷はあまり得意ではないので苺にします?」
お祭りの屋台にあまり慣れていない魔物の為に、ネアは予め買うものを決めておく事にした。
屋台のご主人などがお勧めを教えてくれる事があるのだが、この魔物はそうなった時に慌ててお勧めのものにしてしまう事がある。
今回は二択の中にディノの苦手なものがあるので、そちらを買ってしまい、しょんぼりしていたら可哀想ではないか。
それなのに魔物はなぜか、水紺色の瞳をきりりとさせると、どこか殉教者のような凛々しい表情でこちらを見る。
「君の好きな方にしようか」
「まぁ。では、これは内緒なのですが、私も薄荷飴はあんまり得意ではないものが多いので、お揃いの苺になってしまってもいいですか?」
「……………ずるい」
「むむぅ。またしても謎活用が始まりましたね………」
「お揃いにしてくるなんて………」
二人は、お目当ての屋台の列に並ぶと、前にいた六組のお客を経て、傘飴を手に入れた。
傘飴は、傘の柄のついた棒飴なのだが、色とりどりの包み紙が可愛らしくお土産物としても人気の飴だ。
今日しか買えないものなので、ネアは六本セットを購入し、その中の二本を食べ歩き用に袋から出して貰った。
屋台の店主は、ネアの支払いで傘飴を受け取った魔物の、この飴には一緒に食べた相手との幸せなこれからを約束する祝福があると知ってのきらきらの眼差しに、孫を愛でる祖父のような眼差しを向けている。
こちらも実は会の人かもしれないと考えれば、ネアも何だか幸せな気持ちになってしまう。
「………はむ!」
「可愛い………」
「むぐ。……………むむ?!しゅわしゅわっとなって、お口の中で、あっという間に溶けてゆきます。瑞々しくて、なんて美味しいのでしょう!」
「弾んでる………」
「………ふぁ!飴でしかなかったのに、もうなくなってしまいました。これは素敵なお菓子です!」
買ってみたお菓子の美味しさに喜び弾む伴侶の姿に、ディノも包紙を剥いて傘飴を口に入れてみたようだ。
その途端、水紺色の瞳を瞠ってふるふるしているので、これは驚き半分美味しい半分であると、ネアは冷静に観察を深める。
ややあって、飴のなくなってしまった傘の柄だけを取り出し、ディノはぱちりと目を瞬いた。
「………あっという間に溶けてしまうのだね」
「ふふ。ディノも気に入ってくれたようなので、傘祭りの時には、また買いましょうね」
「うん。………苺、だったね」
「ええ。じゅんわり甘い苺の味が、とっても美味しかったです」
傘飴の柄の部分は、そのまま捨てると魔術的な繋ぎが危うい事を考慮し、飴を食べてしまった後に軽く振ると、傘祭りの昇華に合わせてしゅわりと消えてしまうようになっている。
これも傘祭りで昇華するべき、使用出来なくなった傘という扱いになるのだ。
街は賑やかだった。
あちこちで揺れる傘の色に目を奪われ、空からは散歩中の傘達の影が落ちる。
二人は美味しい祝祭の飴を食べ終えて、和やかな気持ちで広場を歩いていた。
しかし、目的を達すると視野が広がるものか、先程には見かけなかった傘祭りの喧騒が目に止まるようになる。
「ま、待て!!そちらに向かうな!追い込まれるぞ!!」
「お、お父さん!」
「くっ、囲まれたか!すまない、皆は傘に打ち勝ってくれ…………っ!!」
大きな水色の傘との力比べに負けてしまい、ぽーんと空中に投げ出された父親を、慌てて壁を蹴った息子らしい青年が受け止めている。
家族で傘達と戦っていたようで、父親の敗戦を見ていた娘が、その雪辱を晴らすべく水色の傘にぶつかってゆく。
指揮を執っているのは祖父らしき人物なのだが、孫娘の苦戦を見てられなくなったのだろう。
うぉぉぉと雄叫びを上げると、傘に突撃していってしまった。
「……………かぞくでおまつりをたのしんでいるようで、なによりです」
「………どうして戦ってしまうのかな」
慄きながらネアに三つ編みを差し出してきたディノに、ネアは、この危険な土地で二人が決して引き離される事のないように三つ編みを握り締めた。
おまけに、広場中央の特設会場でエーダリア達と合流するとなぜだか、ノアがくしゃくしゃになっているではないか。
擬態している銀髪は突風に巻き込まれたかのように乱れており、青紫色の瞳は恐怖に潤んでいる。
そして、よほど怖い目に遭ってしまったものか、しっかりとエーダリアの手を掴んでいた。
「………ノア?」
「ノアベルト、どうしたんだい?」
ネア達が声をかけても、塩の魔物は震えるばかりだ。
やれやれと溜め息を吐いたヒルドが、何やら因縁のあったらしい婦人傘が仲間を連れてきてしまい、周りを囲まれてぐるぐる回られたのだと教えてくれた。
「その際に、…………その傘達に口づけを奪われかけたそうで」
「まぁ、傘さんと口づけをされそうになってしまったのですか?」
「……………排他結界があったから、奪われなかったよ」
「ノアベルトが……………」
悲しい声で、口づけは奪われなかったと教えてくれたノアだったが、自分を囲む傘達が、ぶつかってくるような仕草でうっかりな口づけを狙ってきた事にとても怯えてしまい、エーダリアから離れられなくなってしまったらしい。
それも、婦人傘に襲われたノアを誰も助けられず、エーダリアだけが助けに来てくれたからなのだそうだ。
ヒルドが偶々離れていたのも、その悲劇に繋がってしまったようだ。
なお、エーダリアがノアを助けようとしたことで、周囲の領民達が荒ぶる婦人傘を排除してくれたらしい。
その時にはもう、塩の魔物はすっかりくしゃくしゃになっていたのだそうだ。
「…………ノア。もう、私もディノもいるので、怖くありませんからね」
「………うん。僕は、二度と傘を持っている女の子とはデートしない…………」
「そろそろ、昇華が始まる頃だ。ネア、お前の傘も戻って来たようだぞ」
「傘さんです!」
「…………え、あの傘も女の子だよね………」
「ノアベルト、少し離れるか?」
「エーダリア様、それくらいは我慢させて下さい」
「ヒルド…………」
ネアの下に舞い降りて来た傘は、柄の部分に紙袋をぶら下げていた。
おやっと思いながらその袋を渡されたネアは、持ち手の部分にグレアムの署名を見て目を丸くする。
「まぁ、グレアムさんからです!」
「おや、君の食べたかった綿菓子のようだね」
「わ、綿菓子様が!!限定の、七色のものです!!」
喜び弾んでしまったネアを、灰紫の傘はどこか優しい佇まいで見守っていてくれた。
そんな柔らかな雰囲気にネアはまた嬉しくなってしまい、街のあちこちを散歩して来たに違いない傘に話しかける。
「傘さんは、のんびりお散歩できましたか?」
そう尋ねるとこくりと頷き、その場でくるりと回転してみせる。
楽しげな仕草だがそれでも優雅で、ネアは凛々しい女性騎士を想像してにんまりとした。
「傘さんは、私が来るよりもずっと前から、このウィームにいたのですものね。きっとあちこちに思い出があるのでしょう」
ネアのその言葉に、エーダリアが鳶色の瞳を僅かに揺らす。
そこには、どこからか舞い戻って来たリーエンベルクの水色の傘が寄り添い、あたりはいつの間にか、昇華してゆく傘が落とす光の粒子に包まれていた。
「……………まぁ、何て綺麗なのでしょう」
例年であれば、ネア達の元にいた傘のどれかが、一際大きな光を放って昇華している頃合いだ。
だが今年は、領民の持ち物だったらしい普通の傘達がその先陣を切り、しゅわしゅわとした光の粒子となって空に溶けてゆく。
こぼれ落ちる光は、特殊な素材を持つ傘よりは弱いものの、その淡い煌めきが不思議なほどに胸を打った。
あちこちで、ざあっと傘達が空に舞い上がる。
ざざんと街路樹の枝葉を揺らし、大きな上昇気流が出来ると、エーダリアの隣にいた水色の傘も、柔らかくエーダリアに体を寄せてからその風に向かって飛んでゆく。
どこまでも、どこまでも。
色とりどりの傘達が集まり、風に乗って空の高みまで。
そしてそんな風の中で、きらきらと光ってゆっくりと昇華してゆく様は、例えようもない程に美しく、そして息が止まりそうなくらいに胸を打つ光景であった。
そんな最初の昇華の光を浴びると、ウィームの街のそこかしこで戦いに明け暮れていた男たちが顔を上げる。
共に戦っていた傘達が空を見上げ、こちらも壮絶な死闘に身を投じていたご婦人達があらあらうふふふと、ドレスの裾を直して近くにいた者同士で微笑み合っていた。
それでもまだ、夕刻迄はと傘達との力比べをしている者達もいる。
沿道の観客の中に飛び込んでいった暴れ傘に、お祭りも後半に差し掛かり、ほろ酔いだったご老人が負けるものかと飛びかかっていった。
慌てて止めに入った騎士は、また別のところから飛び込んで来た傘に跳ね飛ばされてしまい、周囲の観客達が助け起こしている。
「その、……感動すればいいのか、慄けばいいのか、心が真っ二つです」
「お前が来てからの傘祭りは、昇華の際の波が大きなものが多かったからな。通常はこのような感じなのだ。なので、………物陰に潜んでしまう傘達の捜索にも、時間がかかる」
「なぬ………」
少しだけ不穏な言葉が聞こえて来たような気がしたものの、ネアは目をしぱしぱしてからにっこり微笑み、気のせいだったに違いないと考えた。
虐殺王な傘がお届けしてくれた綿菓子は、リーエンベルクに帰ってからゆっくり楽しむ事にして金庫にしまい、夕刻までの今暫くはまだまだウィームの街や空を彩る傘達の姿を楽しむ事にする。
「傘さん…………?」
ここで、寄り添った灰紫色の傘にくいくいっと体を押されて振り返ってみたネアは、ぱっと笑顔になった。
そこには、小さな子供傘の群れがくるくるとつむじ風のように回りながら、ゆっくりと空に登ってゆく光景がある。
可愛らしい子供傘の色合いと、小さな傘がこまこまと回りながら飛んでいる様子は、子供達のダンスのような微笑ましさだ。
そんな傘達に手を振っている家族がちらほらと見えるのは、かつての持ち主達が見送りに来ているのだろうか。
また一つ、大きな上昇気流が生まれた。
周囲から集まった傘達も加わり、空の上に色鮮やかな波がうねるような昇華の瞬間が訪れる。
一斉に空の上できらきらと光る粒子になって解けてゆく傘達に、涙目で空を見上げる家族や、胸を押さえて立ち尽くしている観光客達の姿も見えた。
「……………綺麗ですねぇ。こうして傘祭りに来る度に思うのですが、このお祭りは空に戻って行く傘さん達を見送るお別れの日でもあるのに、こうして傘祭りがあるということは、それだけ今のウィームが平和でもあるのだと思わせてくれるのです」
思わず呟いたそんなネアの言葉を、虐殺王の傘は、静かに聞いているようだった。
この傘がどれだけの時間をここで過ごし、そうしてどれだけのものを見てきたのかは分からない。
だからネアは、一つだけ気になっていた事を、その傘に尋ねてみた。
「傘さん。長年あなたを管理してくれた方々のところへは、ご挨拶に行かなくてもいいのですか?ここに居てくれるのはとても嬉しいのですが、傘さんには、きっとお別れを伝えたい方が沢山いるのではないでしょうか?」
ネアのそんな質問に、美しい灰紫色の傘は、くすりと笑ったように思えた。
勿論傘の姿なので、僅かに体を傾けるだけなのだが、ネアには、はっとする程に美しい人がそこにいて、困った子ねと優しく微笑んだように思えたのだ。
それは、とある夏前の日の雨上がりの事だった。
「我々がこの地を去っても、この血筋がウィームから失われる事はない」
ふと、誰かがそこに立ち、そう呟いた。
はっと息を飲んだネアは、けれどもディノの三つ編みを握り締めていたし、隣にはエーダリアやノア、ヒルドもいる。
それはそれは穏やかな夕刻で、雨上がりのウィームの街はとても美しかった。
きらきらと街路樹や花壇の花の色を映した雨粒がそこかしこで光り、傘達の昇華の煌めきにどこか似ている。
「…………最初にこの地に国を構えた我々の血は、どれだけこの国の民の中に流れている事だろう。王家としては残らずとも、王族として残らずとも、我々の記憶や血筋はウィームの民に残る。寧ろ、ここに暮らす民達は皆、我々の子供達のようなものではないか」
その人の声は穏やかだった。
悲しげではあるが、どこか満足気で、ばさりと音を立てて傘を広げたのは傘持ちだろうか。
どこか高台に立ち、ウィームの街を見下ろしていた人がふっと微笑んだ気配があった。
短い晴れ間が雲と共に流れ去り、さあっと音を立てて降り出した霧雨からその人を濡らさずにいるのは、美しい灰紫色の傘だ。
こちらからは逆光になっていてよく見えないものの、王族や貴族のような豪奢な漆黒の装いのその人物は、くるりとした癖のある黒髪に、水色がかった灰色の瞳をしているようにも見えた。
ばさりと、傘が閉じるような音がする。
「……………あ、」
「傘の記憶だね。私達に、今の情景を見せてくれようとしたのかな」
「………っ、い、今のは…………」
「おっと、エーダリア落ち着いて」
「かつての主人の記憶、でしょうか………」
そんな家族達の声に、ネアは、みんなも今の光景を見たのだと分かった。
ゆるゆると持ち上げた両手で、言葉に出来ないような感情でいっぱいになった胸を押さえる。
虐殺王の傘持ちの傘は、いつの間にかネア達の正面に浮かんでいて、柄の部分からきらきらと光の粒子になりかけていた。
「傘さんが一番見たかったのは、ウィームのこの街と、ここで暮らす人々だったのですね?」
そう問い掛ければ、傘はこくりと頷くように体を揺らした。
そしてふわりとネアの前に飛んでくると、まるで頭を撫でるようにそっと体を寄せてくれる。
堪らずにそっと柄の部分に触れれば、夜鉱石の持ち手はなぜだかほんわりと温かかい。
「………むぎゅ」
ネアは胸がいっぱいになってしまい、ぎゅっと口を引き結んで頷き、お別れの挨拶を終えた灰紫色の傘はふわりと舞い上がる。
それは、周囲にいた人々も思わず目を奪われてしまうような、かつてのウィーム王の傘の、最後の艶姿であった。
ぐんぐんと空高く舞い上がり、しゅばんと光の花びらになって砕け散ったその姿は、誰もが胸を打たれるような美しさだ。
はらはらと、光の花びらが降り注ぎ、こちらに届く前にはらりと消えてしまう。
そのあまりにも儚く艶やかな旅立ちに、ネアは、暫くの間無言で空を見上げていた。
「…………もしかすると、このウィームを知らないような遠くからここに移り住んだ私だからこそ、あの傘さんは、私を選んでくれたのかもしれませんね」
「そう思えたのかい?」
「傘さんが見せてくれた思い出には、このウィームを心から慈しむ人の姿がありました。こうして今も、健やかで、そして大きな家族を増やしてゆくウィームこそをあの方は思ったのかもしれないと、そんな風に考えてしまうのです」
エーダリアの方を見ると、空を見上げたウィーム領主は、澄み渡ったウィームの空をどこまでも見つめているようだ。
その眼差しには深い喜びと優しさがあり、ネアはそんなエーダリアの隣でひっそりと微笑んだノアと視線を交わす。
ヒルドもまた、傘達の昇華してゆく空を見上げていた。
かつてあったものが失われ、それでも生きて行くこの土地の有り様に、ヒルドはどんな心の言葉を重ねるのだろう。
(何て美しくて寂しくて、そして優しくて幸せな光景なのだろう…………)
立ち去る者達の煌めきが、柔らかな祝福の雨のようにウィームに降り注いでいる。
目を凝らしても見えなくなりそうなくらいの高さに舞い上がる傘達や、屋根ほどの高さでくるくると回って昇華してゆく傘達。
数ある祝祭の中でも、この毎年の傘祭りに見るのは、暮らす人々に愛され守られてきたウィームという土地の、積み上げてきた歴史そのものなのだろう。
だからこそ、こんなにも胸を打つのだ。
「隊長!!!」
「っ、しまった、つい余所見を………ぐはっ!」
「隊長ーっ!!!」
「囲め囲め!隊長の犠牲を無駄にするな!」
「くっ、………お、俺ももう駄目だ。せめてお前だけは………っ、」
「イアン!ここで諦めるな!何の為に、雨の系譜の特等魔術を極めたんだ!今年こそは、一緒に祝杯を上げるんだろう?!」
「そうだ……。俺は、今年こそは………」
「ああ。一緒にこの傘に勝とうぜ、イアン!」
「ああ!お前がいれば、…………っ?!ファーガット!!!」
「ぐっ?!」
「うわぁぁぁ、ファーガット!!!………っ、」
「くそ、ファーガットとイアンがやられたぞ!西側の部隊を招集しろ!!!」
美しい傘達の昇華に胸を熱くし、感傷的な気分になっていたネアは、背後のあんまりな騒ぎに無の表情で振り返った。
エーダリアも夢から醒めたような顔で振り返っているが、まだ地上に残り人々との荒々しい交流を続けている傘達も多いようだ。
「ふむ。沢山の方々が倒れているので、どなたがどなたなのかの区別はつきませんが、今年もイアンさんが刺されたのは分かりました」
「わーお。雨の系譜の特等魔術を極めても、傘に刺されるんだ………」
「ご主人様……………」
「むぅ。私の伴侶が、すっかり怯えてしまったではないですか………」
すばぁんと激しい音がして、どこかの家壁に激突している傘がいる。
どうしてまだこんなに元気なんだとぼやきながら、そんな傘を追いかけるのは街の騎士達だろう。
少しずつ夕闇の気配を帯びる空に煌めく昇華の光と、街中で暴れる傘達の対比は、なんとも言えないものながらも、どこか、人々の生活というものの力強さそのものであった。
ネアはくすりと笑い、手に持っていた魔物の三つ編みを引っ張る。
「ネア………?」
「今年は、最後まで賑やかな傘祭りなのかもしれませんね。また一緒に、物陰に隠れる悪い傘さんを探してくれますか?」
「…………うん。これまでのように、一緒に探そうか」
「こうして、ディノと一緒に携わる毎年の祝祭のお仕事も、素敵な思い出にして沢山積み重ねてゆきましょうね」
「…………虐待」
「あらあら、どうして私の伴侶は、すぐに弱ってしまうのです?」
目元を染めてふらりとよろめいた魔物の腕を慌てて掴み、ネアはへなへなの魔物がもう少し頑張ってくれるようにその腕をぐいぐい引っ張った。
するとディノはいっそうに弱ってしまったが、幸いにもノアが少し元気になったようなので、ディノが倒れないように一緒に支えてくれる。
しかし、この年の傘祭りは、全ての傘達の回収を終える迄に、ネアの想像を絶する時間を要する事になった。
これが通常の傘祭りなのだと宥められネアはとっぷりと日が暮れてからもあちこちの物陰に隠れている傘達を根気強く探したが、予定では美味しい晩餐を終えてのんびりしている頃合いな時刻になると、空腹のあまりに怒り狂った。
祟りもののようになった人間に恐れをなしてあちこちから隠れていた傘達が飛び出して来たが、すっかり荒んでしまった人間としては、既に手遅れだと言わざるを得ない。
傘祭りに来ていたものか、偶然にすれ違ったベージや、ミカ達からそれぞれにお菓子などを貰い、何とか世界を呪わずにリーエンベルクに戻った頃にはもう、入浴して就寝準備をしている時刻であったのだ。
憤怒の唸り声を上げながら遅い晩餐をいただくネアを鎮める為に、伴侶な魔物は、いざという時の為に保存しておいたアクテーのバタークッキーの箱を開けるしかなかったという。




