125. 傘祭りには投げ捨てます(本編)
傘祭りの日になった。
今年の傘祭りも、綺麗な青空に絵本に描かれるような白い雲の浮かぶ、穏やかな晴天だ。
なんと今年は珍しく元々晴れの日だったようで、雨天や曇天だと判明した場合はこの日の為に祈祷魔術を組み上げなければならない魔術師達は、少しほっとしたようだ。
昨年は一つきりだった白い雲が、今年は何個か空に浮かんでいる様子を見れば、この天候が自然のままのものであることが分かる。
ウィームの美しい街並みと雪景色に、青空のコントラストが何とも柔らかであった。
馬車で会場に向かえば、国内外から集まった観光客達で賑わうウィームの街には、そこかしこに心を躍らせるような屋台が出ているのが見える。
商店で売られている傘祭りの記念品や、家の窓辺に飾られている可愛らしい傘飾り。
特に人気があるのが、小さな飾り傘の柄に色とりどりのリボンを結んだ土産物で、主に領外や国外からやって来た観光客が買ってゆくのだとか。
今やウィーム領民とは言え違う世界からの観光客感も否めないネアは、そんな飾り傘が少しだけ気になっていたが、買っても飾る場所がないので眺めるだけで我慢していた。
「…………あんなに沢山の方が色とりどりの傘を持っていても、けばけばしくはならないのがウィームの方達の持ち物だった傘という感じがしますね」
「鮮やかな色のものもあるけれど、どちらかと言えば、淡い色合いのものが多いのかな………」
「かもしれません。それに、こっくりとした濃い色のものがあっても上品な色味ですし、少し霞んだような色合いのものも多いのでしょうか。加えて、雪景色が傘達の色を纏めてくれるのかもしれませんね」
毎年思うことであるし、傘祭りの本当に美しい瞬間は、傘達が舞い上がる時と最後に昇華されてゆくところだろう。
けれども、こうして傘を持った領民達が集まればそれだけでもう、不思議に幻想的な美しさにネアは胸がいっぱいになってしまうのだ。
とは言えこの傘祭りは、傘達との乱闘も想定されるお祭りである。
ご婦人達の装いは、可憐なドレス姿であっても若干の動き易さが求められ、ウィームでは荒ぶるお祭りが珍しくはない為か、そんな機能性重視のドレスメーカーがあるらしい。
ネアの機能性ドレスを手配してくれるのはディノなのでまだお世話になった事はないが、そのお店にも女性達の知恵の集まった素敵なドレスがあるに違いないので、ネアはいつか、男子禁制のお店を覗いてみようと思っている。
(こうして、傘と戦う為の動き易い服装を求めても、お洒落を怠らないのがウィームの人達らしいのかしら)
あくまでも表層は穏やかに上品に。
紳士達は優雅な貴族風の装いで、嫣然と微笑むご婦人方は、動き易いパンツスタイルではなくドレスの裾を持ち上げて傘達と拳で戦うのだ。
ウィームの住人は秘密を隠すのが上手だと話していたのは、ノアだっただろうか。
魔術と人ならざる者達に恵まれたこの土地だからこそ、ウィームの人々に育った気質でもあるのだろう。
(あ、…………)
がらがらと音を立てて走る馬車の窓から、歩道沿いに、青いケープを羽織った魔術学院の生徒たちの姿が見えた。
目を輝かせて誇らしげに警備の任に就いている彼等は、傘だけではなく人間までもが荒ぶる祝祭に於いて、街の騎士団やウィーム領の魔術師達だけでは手の回らない沿道の観客警護の仕事を任されるらしい。
ウィームの魔術学院での最初の野外実習はこの傘祭りなので、まだ学生の彼等にとって、魔術師として公の任務を負うのはこれが初めてとなる。
子供達の晴れ舞台を観覧に来た親達は勿論、我が子の担当区画で傘祭りに参加するのだろう。
恋人や友人達が駆けつけて応援してくれたりもするようで、研修中の魔術師達の周囲はいつも賑やかだ。
「ディノ、今年の学生さん達ですよ」
「……………ネアがいない」
「むぅ。相変わらず擬態をしてしまうとしょんぼりですが、ご主人様はここに健在ですからね?」
引き続き今年も、諸外国からのお客様も多いこの祝祭であるからと、ネアは、他者の目からは砂色の髪に見えるような特殊な擬態を纏っていた。
そんな擬態をかけてくれたのはディノなのだが、それでも尚、いつものご主人様ではないとしょんぼりしてしまうようだ。
ネアの示した実習中の学生達を見る余裕などなく、悲し気に溜め息を吐いている。
まるで失ったものを惜しむような悲し気な仕草でそっと髪を撫でられると、ネアとしても何やら複雑な気分になるので、どうかそろそろ慣れて欲しい。
「今年の傘祭りは、近年で最も穏やかなものになると言われてはいるが、あの学生達が、無事に役割を果たしてくれるといいのだが………」
「エーダリア様?」
そう呟いたのは、今年は同じ馬車に乗ったエーダリアだ。
その声に僅かな懸念を覚え、ネアは首を傾げた。
今年の傘祭りに参加する実習生達は、問題のある傘と言えば布怪人程度なので、かなり有利だと言われている。
経験値という意味では低くなるものの、やはり、任された仕事を問題なくやり切ったという経験は、本人達にとってかけがえのない成功体験になるだろう。
また、観客の中には未来の雇用主候補になりえる人物もいるので、そんな人物達が穏やかに観覧出来る年であることも大きな好条件となる。
けれども今のエーダリアの話し方では、学生達の野外実習に何某かの不安があるようではないか。
「今年は、いささか問題のある生徒がいるようでして…………」
眉を顰めたネアに、苦笑して教えてくれたのはヒルドだ。
微笑んではいるが、もしもがあってはならない祝祭日なので、その眼差しの温度はやや低い。
この世界には様々な魔術が溢れ、その扱いや規則は非常に繊細なものだ。
自分自身を損なうだけでは済まないような問題が起きないとは言えず、不安のあるような生徒を参加させるなと言いたいところなのだろう。
「それは、技術的な意味で、不安のある生徒さんがいらっしゃるということなのでしょうか?」
「いえ。残念ながら、気質的な意味合いの方でして。魔術師としての才能はあるようなのですが、言動に於いて、少々考えの足りない生徒が一人報告されております。このような祝祭での実習は連携が重視されるものですから、その者には荷が重い筈なのですがね…………」
「……………ガーウィンの伯爵家の次男なのだ。政治的な思惑が絡み、今回の実習に参加させるしかなかった」
「まぁ。問題を起こせばその方だけの問題では済まなくなるというのに、迷惑としか言いようがありません!」
「実習にあたっては、保護者との同意書と誓約書も取り交わすからな。不手際があったとしても、本人の問題だけで済めばいい戒めにもなるのだが………」
「おや、おりましたね。あの金髪の青年ですよ」
「むむ!」
ここでネアは、ヒルドがこっそり教えてくれた、沿道に立つ学生に目を凝らした。
幸いにも金髪の青年は一人しかいなかったのですぐに発見し、彼の担当する場所の横を馬車で通り抜けるだけでも、もうこれは何かしでかすぞという確信を得てしまう。
その青年は、リーエンベルクの馬車を見付けると優雅に腰を折ってお辞儀をしてみせた。
しかし、本人的には決めてみせたと思われるその自己満足の裏側で、祝祭のムードにはしゃいだご老人が傘を離しかけてしまい、浮かび上がった傘を慌てて取り押さえている街の騎士がいたのだ。
すぐ背後の騒ぎに気付いていない段階で、警備としては大失態である。
「……………早速減点されそうな感じですし、そもそも人手の足りなさを補う為にいるのに、同じ区画を担当する騎士さんがいる段階でお荷物でしかないのだと言われているようなものです」
「……………ああ。あの傘を捕まえていた騎士は、有能な人物だ。だからこそ、あの場所に配属するしかなかったのだろうな」
そんなエーダリアの呟きで、馬車の中はしんとした。
あの青年がどんな騒ぎを起こすとしても、今は誰もそんな未来を想像したくもないのだ。
(……………お、お祭りに専念しよう!)
学生達の管理は学院の領分ではないかと気を取り直して再び街並みを見渡せば、あちこちに傘祭りの飾りつけがあり、見ているだけでもわくわくしてしまう。
馬車が進み、街の中央広場に設置された、雪と霧の魔術の大きな傘祭りのモニュメントが見えてくると、ネアは目を輝かせ、いよいよ近くなった会場の賑わいを思った。
沿道にいる人々には、既に腕まくりをして傘との戦いに備えている男性たちの姿も多い。
後もう少しで、今年の傘祭りが始まるのだ。
(……………む)
雑踏の向こうに、小さな黄色い傘を持ったボラボラが佇んでいたような気がしたが、ぎくりとしたネアが目をこしこししてもう一度見た時には姿がなかったので、見間違いだったのかもしれない。
馬車は、定刻通りに会場入りした。
まずはエーダリア達が、そして続いてネア達が壇上に上がるのだが、ここでグラストやゼノーシュとも合流し、本日は朝から野暮用があり現地集合になったノアとも再会した。
「ノア、朝食デートはどうでしたか?」
「……………ありゃ。なんでバレてるんだろう」
ノアはリーエンベルクの騎士風の装いでさもエーダリアの護衛のように立ち並ぶので、そこに居るのが領主の契約の魔物だと知るのは、秘密を遵守する事に長けたウィームの領民達ばかりである。
皆の手には、ネアが配ったビーズの腕輪があり、今年はリボンが白灰色なのであまり目立たないだろうと思っていたものの、なぜか会場警備の魔術師達がものすごい凝視しているので、星削りのビーズか、きりん効果を秘めた白灰色のリボンのどちらかが気になるのかもしれない。
「傘さん、本日はどうぞ宜しくお願い致します」
「傘なんて……………」
「あらあら、本日の私の傘さんを虐めてはいけませんよ?」
「ずるい…………」
ネアは会場入りしてから渡された虐殺王の傘持ちの傘に挨拶をし、美しい傘は優雅なお辞儀をしてくれた。
幸いにも布怪人の傘は近くにはなかったのだが、なぜか呪いも障りもない筈のノアの選んだ傘が、こちらを見て荒ぶっているようだ。
「うーん、僕の妹を威嚇するのはやめて欲しいかな……………」
「まぁ、ノアに近付く全ての女性が許せないのですねぇ」
「……ふと思ったんだけど、ネアの傘の事も威嚇してるよね?」
「む…………」
そう言われてみればとネアが手の中の傘を見下ろせば、虐殺王の傘は少しだけ躊躇う様子を見せてから、こくりと頷いてくれた。
ネアは、あまりの驚きに目を丸くしてしまったが、となると、この灰紫色の傘は傘的性別では女性ということになるようだ。
一瞬、気付いてあげられず失礼がなかっただろうかとおろおろしたネアに、ノアがくすりと笑う。
「安心していいよ。ほら、その傘は、女の子だと思われるのは本意じゃないみたいだね」
「まぁ、そうなのです?」
おずおずと尋ねたネアに、灰紫の傘は力強く頷く。
「ふふ、こんなに凛々しくて優美な傘さんなので、私は、そんな姿ばかりに見惚れていました。新しい一面を知ってますます素敵に思えてしまうので、どちらにせよ魅力的な傘さんなのでしょう」
「こんな傘なんて……………」
「ありゃ、気付かせない方が良かったかな……………」
魔物達に緊張が走る中、ネアは、男装の麗人のような存在なのかもしれない傘の柄をきゅっと握り締め、これまでで一番のお気に入り感を出さずにはいられない。
(ただでさえ、同性の友人などに恵まれない環境なのだ!)
今日一日くらいは、このご婦人と一緒に過ごしても良いのではないだろうか。
自分の傘が男装の麗人だと知り、すっかりご機嫌になったネアがうきうきと弾む思いで壇上に上がれば、そこには既に、領民達からの歓声を浴びるエーダリアがいた。
その手にはリーエンベルクで役目を終えた水色の傘があり、会場の最前列近くに集まった領民達は、目敏くその傘の存在に気付いて優しい笑顔を浮かべている。
おやっと意外そうに目を瞠る者達は、今年のリーエンベルク勢のビーズの腕輪のリボンを見ているようだ。
ネアは、白いリボンではないものの、悪しきものを滅ぼす力は劣らないのだと心の中でにんまりしておいた。
地面から良くないものが顔を出さないようにと、どこからともなく、祝福魔術に浸した魔術の花びらがはらはらと舞い落ちてくる。
今年の花びらは淡い檸檬色で、そんな彩りが加えられることで、祝祭は更に艶やかに染まった。
特別観覧席に座るのは、特等席で傘祭りを楽しむべくチケットを購入したお客達である。
彼等は、美しい花びらに手を伸ばし、触れた途端にしゅわりと光って消えてしまう儚さを楽しんでいるようだ。
沿道に立つ毎年傘達との闘いに参戦しているという有名なアルビクロムの技師達の一団も、今ばかりは美しい情景にうっとりと酔いしれている。
祝祭の日の空の青さは、磨き抜かれた宝石のような青さであった。
「………ふぁ。どきどきしてきました。私は、傘祭りの日の、傘さん達が空に舞い上がる瞬間が大好きなのです」
「ネアが可愛い………」
「………そして、ディノの傘は、…………一度でも動きました?」
「……………動かないかな」
傘選びの際に戸棚の扉でばしんとやられてから、この黒真珠色の傘は、どうも動く様子がない。
すっかり怯えてしまったものか、或いは、全身打撲などで動けないものか。
無事に空に昇れるのかなと、心配になってしまう。
(……………そして、心配と言えば、今年こそイアンさんが刺されないといいのだけれど)
三年連続で傘に刺されたイアン氏については、今年も参戦しているかどうかは不明だが、今年こそ無傷で生き延びて欲しいものだ。
ネアにとっての傘祭りと言えば、議事堂での美味しい昼食や、屋台の綿菓子、そして、毎年刺されてしまうイアン氏の安否なのである。
リーエンベルクの代表者達の立つ壇上の下で、封印庫の魔術師の一人がゆっくりと手を上げた。
その途端、賑やかだった中央広場が水を打ったように静まり返り、ネアもいよいよの期待に胸を膨らませる。
短い挨拶の後に伸びやかに響いたのは、ウィーム領主であるエーダリアの魔術宣誓だ。
こうして壇上に立つのはリーエンベルクの者達だが、傘祭りの主導は封印庫なので、エーダリアはあくまでも土地の為政者として招聘されての挨拶となる。
近年ではそのような事はないそうだが、もし当日の魔術の状態で、封印庫の魔術師達がエーダリアの挨拶はない方がいいという判断をすれば、この壇上に上がるのは封印庫の魔術師達が選んだ別の者になるのだった。
(……………ああ、なんて素敵なのだろう)
宣誓を終え、美しい詠唱が始まる。
イブメリアの詠唱は厳かで静謐だが、傘祭りの詠唱は力強く鮮やかなものだ。
封印庫の魔術師達の詠唱もまた、僅かに音階を変えよく似た声音の三人の詠唱が重なってゆく様が圧巻で、ネアは、ほうっと息を吐いて豊かな魔術の音楽に身を委ねた。
美しいものにはいつも、羨望と畏怖が揺れる。
だからこそ詠唱は多くの者達の心を動かすのかもしれないし、人ならざる者達ですら掌握する力を持つのだろう。
詠唱が終わると、あちこちで傘が開き始めた。
ネアも手に持った傘持ちの傘を開き、陽光を浴びてまた印象を変える美しい色合いと、夜鉱石の柄に煌めく光の色に唇の端を待ち上げる。
ディノが傘を広げる際には思わず凝視してしまったが、幸いにも骨が折れていたりはしないようだ。
「今年は、穏やかな天候と、この地の魔術に近しい隣人たる傘達に恵まれた。幸いなる日に寄り添い、傘達の旅立ちを見送ろう。彼等の昇る空への道行きと、ウィームの空からの訪れに祝福があらんことを」
傘祭りの開会を告げるエーダリアの言葉に、わぁっと歓声が上がった。
そして今年は、エーダリアの言葉の直後に傘達を空に誘う不思議な風が吹いた。
広げて手に持っていた傘がふわりと軽くなり、ごうっとどこからともなく温度のない風が吹き上がる。
あちこちで、傘達が一斉に空に解き放たれた。
「……………まぁ!」
ネアが預かった傘は、離されたネアの手が引っかかったりしないように一拍置いてから、びゅんと空に舞い上がる。
エーダリアの傘はくるくると、ヒルドの傘はふんわりと風に乗るように。
ノアの傘は弾むように揺れ舞ったが、ノアから離れる様子はなく、騎士姿の塩の魔物に遠い目をさせている。
しかし、あちこちで空に舞い上がる傘達が見られる中、やはりぴくりとも動かない傘があった。
ネアのお隣のディノの傘だ。
「……………む、飛びません」
「…………もう飛ばないのかな」
「むぅ。私の伴侶をしょんぼりさせるなど許すまじ。貸してください。私が、力一杯お空に投げます!」
沈黙を守っていた黒真珠色の傘が動いたのは、その時だった。
乱暴な人間が触れようとした直後、びゃんと跳ねると凄まじい速さで空に舞い上がる。
ある程度の高度に達するとぴたりと止まったその姿は、まるでこちらを警戒しているようにも見えた。
「ぐるるる………」
「ご主人様…………」
「わーお。僕の妹が、傘を威嚇してるぞ」
ちっぽけな人間に威嚇された傘は、小首を傾げるようにして傾きながら上空に留まっていたが、ネアが自分のいる場所までは来ないようだぞと理解したものか、どこか小馬鹿にしたような動き方をした。
その瞬間である。
ばさりと背後に舞い降りた虐殺王の傘持ちの傘こと、略してもう虐殺王な傘が、優雅なダンスのターンのようにくるりと体を回し、不届きな黒真珠色の傘をばしんと空高く弾き上げたのだ。
「……………む。粉々になりました」
「粉々に…………」
「わーお。一瞬で昇華されたぞ……」
吹き飛ばされた黒真珠色の傘は、あまりの衝撃に空の高みで粉々になり、細やかな光の粒子になってきらきらと煌めく。
開始早々に昇華してしまったが、エーダリアを狙ったりと少しばかり得体の知れない傘でもあったので、冷淡な人間は、まぁいいかなと頷いておいた。
「ディノの傘は早々に退出してしまったので、一緒に私の傘を応援しましょうね」
「ずるい。自分のものにしようとしている……。浮気…………」
「荒ぶり方が解せぬのだ」
「傘なんて……………」
「そして、開始早々に派手にやったので、きっと観覧席の方々を盛り上げてくれ……………てません」
見ていた人達も喜んでくれたかなとわくわくしたネアだったが、周囲を見回して呆然としてしまう。
そこには既に、ディノが担当した傘の顛末などが生温い程の、荒ぶる傘祭りの光景が広がっていた。
「やれやれ、相変わらずですね…………」
「…………団体戦にしたようだな」
ヒルドとエーダリアが見ている先では、五人ほどの青年達が、艶々とした黒い傘と苛烈な戦いを繰り広げている。
すぐ近くでは、大はしゃぎで街灯に柄を引っ掛けてぐるんぐるん回っている緑色の傘がおり、何度目かの回転で柄が外れてしまい、ぎゅんと吹き飛んで近くの家の壁に激突してへしゃげていた。
「……………ほわぎゅ」
「どうして人間は、傘と戦ってしまうのかな……………」
ネアが見付けてしまったのは、可憐なピンク色のドレスの少女と、水色のフリル傘の組み合わせだ。
互いに親の仇かのように睨み合い、取っ組み合いの殺し合いが始まった。
どんな因縁があるものか、ああこれはもう、どちらかが死ぬまでは止まらないのだろうなと感じながら、ネアは、震えているディノから渡された三つ編みをきゅっと握り締める。
ずばんと音を立てて吹き飛んだ傘が近くにあった店の壁に激突すると、少女は傘の息の根を止める為にそこに飛び込んでゆく。
しかし、傘も負けてはおらず、跳ね上がって少女を弾き飛ばした。
「………ぎゅ。も、もう見ていられません」
「ネア、こちらにおいで。怖かったね………」
「あの二人に何があったのだ…………」
「うーん、正しくは一人と一本だね」
通りの向こうでは、傘に引っ掛けられて空に放り投げられているご老人がいたり、拳で傘を粉砕しているパン屋さんかなという雰囲気の優しげな面立ちの男性がいたりする。
ネアを最も震撼させたのは、飛びかかってきた傘を容赦なく片足で踏み付けている、おっとりとした柔和な微笑みのご婦人だ。
踏み付けられた傘は、くしゃっと粉砕されてしまい、きらきらと光る粒子になって空に登ってゆく。
敵の力量を見極められなかったのが敗因なのだが、あの華奢なご婦人が、凄まじい足技の持ち主だなんて想像出来るはずもない。
また新たな傘がそのご婦人に向かう様子を見て、ネアはそっと視線を逸らした。
「むむ、ゼノも戦っています………」
「おや、相変わらずですね」
「わーお。女の子は強いなぁ………」
壇上の右端では、グラストに声をかけようとしていたご婦人方を、ゼノーシュが何とか追い払おうとしているが、ご婦人方はそんな契約の魔物も堪能してしまうようで、一生懸命威嚇する魔物をうっとり見つめている。
「………そ、そろそろ議事堂に移動するか」
「ゼノのお顔が大変な事になりかけているので、そろそろかもしれません………」
そちらを見たエーダリアが、ぎくりとしたように提案し、ネアもこくりと頷いた。
(あ、……………)
ふわりと舞い降りて来た灰紫色の傘に手を差し伸べ、昼食に出てくると告げれば、その優美さで、贔屓目ながらも本日のウィームで一番の美形傘だと思わざるを得ない傘が、頷くようにしてひらりと回転してくれる。
「ふむ。皆さんの傘も素敵ですが、私の傘さんがウィームで一番素敵な傘です」
「ネアが浮気する…………」
誇らしさでいっぱいになったネアが、思わずそう宣言した時の事だった。
その時のネアは、今日は決して荒ぶらせてはならない傘が近くにいた事を、すっかり失念していたのだ。
「ぎゃ?!」
次の瞬間、ネアは誰かに足を引っ掛けられ、壇上から降りる為の階段の中腹から、転げ落とされそうになってしまい、慌てた伴侶の魔物に抱き留められる。
目を瞠ってふるふるしているネアに、続け様に襲い掛かった犯人は、ひゅんと飛び込んできた虐殺王な傘に、鋭く鈍い音を立てて叩き落とされた。
ばさりと落ちた薔薇色の傘を見て、ネアは犯人の正体を知った。
「………ノアの傘めに、意地悪されました」
「可哀想に。あの傘はもういらないのではないかい?」
「ディノ、今日は傘祭りなので、壊してしまわないで下さいね」
「…………ネア、けれども君を傷付けようとしたものだろう?」
「恐らくですが、私が私の傘さんを、ノアの隣で褒めたのが気に食わなかったのでしょう。何と面倒臭い思考回路なのだ。…………しかし今日は傘祭りです。ここは私も正々堂々と戦い、か弱い乙女の足元を狙った卑怯者など討ち滅ぼしてくれる……………」
「え………」
「ちょ、ちょっと待って!僕が対処するから、ここで決闘するのはやめようか!それに、君の傘がもう戦ってるから!!」
「むぐるる。壇上からはける前に恥をかかせたあやつめには、私からも一矢報いなければ我慢なりません!」
心がとても狭く、足を引っ掛けられたことを決して許さない人間は、慌てた魔物達に抱えられ、壇上から下されてしまう。
とは言えそんなネアが悪目立ちする事もないくらい、周囲は既に傘祭りらしい騒乱の中にあった。
「ぐるる!私の傘さんに体当たりしました!!!」
「え、普通の傘の筈なんだけど、虐殺王の傘持ちの傘ともやり合えるんだ………」
「その、恋情というものは凄いのだな………」
「え、僕って、とうとう傘とそんな結びな認識をされちゃうの…………」
そんな狂乱の中、リーエンベルクで大事にされてきたエーダリアの傘は、大事な領主が心配になったのか、エーダリアの近くで心配そうにふわふわしていた。
「好機です!」
「ネア?!」
ネアの傘にはたき落とされたノアの傘が、こちらにふらふらと飛んできたのはその時だ。
邪悪な人間がその一瞬を見逃す筈もなく、ネアは魔物を羽織ったまま手を伸ばしてその柄の部分をむんずと掴むと、憎っくき傘を、力一杯放り投げる。
ちょうどそちらの方向には乱闘中の傘達と人間達がおり、ネアに投げ捨てられた薔薇色の傘は、一人の男性を叩きのめそうとしていた青い傘に激突し、諸共ばりんと折れた。
「愚か者め」
ふっと残忍な微笑みを浮かべたネアに、魔物達はぴゃっと震え上がっている。
すかさず虐殺王な傘が飛び込んでとどめを刺し、塩の魔物を我が手に収めんとした夫人傘はその傘生の終わりを迎えたようだ。
きらきらと光の粒子になってゆく様子に、ネアは、すっかり相棒気分の灰紫色の傘と頷き合う。
「……………よく分からないけど、あの傘と僕の妹を一緒にしておくと凄くいけない気がする」
「ご主人様…………」
「おや、私が加わるまでもなく、ご自身で処分してしまいましたね。ネア様、お怪我などはありませんでしたか?」
「ヒルド…………」
「わぁ、ネアも戦ったんだね。僕も、頑張ったんだよ!」
「まぁ、ゼノもお疲れ様でした」
「うん。グラストは僕のだから、絶対に渡さないの」
ネアは、大事なグラストを死守したゼノーシュとも頷き合い、互いの戦いを讃えた。
議事堂に向かえば、美味しいローストビーフが待っている。
今年からは、事前に申請しておけば、ローストビーフかシュニッツェルかを選べるようになったので、ネアは勿論ローストビーフを、そして義兄はシュニッツェルを選んだようだ。
空を見上げれば、色とりどりの傘達がぷかりと浮かび、思い思いに散歩を楽しんでいた。
街の方からは戦場のような雄叫びが聞こえてくるが、こうして空だけを見ていると、胸の奥の柔らかな場所に触れるような何とも優しい光景ではないか。
「……………む」
「また、戦ってしまうと危ないからね」
「もう敵は滅ぼしたので、乗り物に乗るのも吝かではありません。午後は、屋台も見てみましょうね」
「綿菓子は、会から届くのではないかな」
「かいはありません……………」
伸びやかに艶やかに、ウィームの空を飛んでゆく灰紫色の傘が見える。
ネアは、心の中でもう一度あの傘が一番素敵なのだと呟き、満足げに微笑んだのであった。




