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バレンタインと贅沢な幸福




日付的な問題ではあるが、バレンタインになった。

勿論、この世界にはバレンタインなどは存在せず、代わりに薔薇の祝祭がある。


だがネアは、かつての世界で楽しみ損ねたそのイベントを強欲に堪能するべく、今年もまたチョコレート作りに精を出すのであった。


当然、ここでうっかり当日まで忘れていた年があった事は内緒である。

近年では、ディノと一緒にカレンダーを眺める事で、失念の危険を回避する賢さに恵まれていた。




(とは言え、私の祖国では本来、男性から薔薇を貰える日だったのだけれど、………)



それでは薔薇の祝祭とかぶってしまうのでと、かつての祖母の出身国でのお作法を踏襲しているのだが、そんなやり方が魔物の側の需要にも合致したようだ。

こちらの世界では、手作りの食べ物を与えられることが、しっかりとした愛情表現になる。



「ですので、ディノはその揺り椅子で待っていて下さいね?」

「……………ご主人様」

「つ、爪先は今はいけません。それはご褒美でしょう?」

「うん………。では、こうしようかな」

「……………にゃむ」




そろりと伸ばされた爪先を却下したところ、ネアは立ち上がった伴侶に、エプロン姿のまま抱き上げられてしまい、甘やかな口づけを落とされる。


真珠色の髪が輝くようなこの魔物は、伴侶が自分の為にお菓子を作ってくれるのが嬉しくてならないのだ。


しかし突然、魔物らしい眼差しの伴侶が出現してしまったネアとして、ぜいぜいしながら逃げ出すしかなかった。



「こ、これからは、制作活動に入りますので、職人の体力を削いではなりませんよ!ディノはそこで待っているのがお役目ですからね?」

「うん。では、ここで待っているよ。手伝ったりはしなくていいのだよね?クリームはいいのかい?」

「……………今回は、私が最後まで作ります!」




心の弱い怠惰な人間は、仕上用の生クリームを立てる作業を一瞬ディノに任せてしまいそうになったが、ぶんぶんと首を横に振って我慢した。



ネアの生まれた国の作法とは少し違うが、こうして美味しいお菓子を差し上げるバレンタインデーは、伴侶な魔物には喜んで貰うことに専念して欲しい。


なお、今年のバレンタインは、既に多方面で料理の素晴らしい才能は披露してきたのでと、配布用のものはシンプルに美味しさを追求した、ざくざくチョコチップクッキーにさせていただいた。


勿論、伴侶な魔物も沢山貰えるので、ご主人様からの愛情を確かめたい時用の保存用のお菓子としても活用してゆくつもりだ。



湯煎しておいたチョコレートもそろそろ良さそうだ。

卵とバターの組み合わせは、こうして並べ置くだけでも心を明るくしてくれる。



(お酒に浸けておいたドライフルーツも、このくらいでいいかな。素朴な味わいを優先させたいから、あまりお酒の風味が強くならないようにしよう…………)



「むむ、まずは生地作りからですね…………」

「生地を作るのだね…………」

「はい。今年は、美味しいチョコレートのパウンドケーキを作るので、生地作りが命なのです」

「命…………」



恥じらい喜ぶような声の後に、厨房のカウンターの上に生けてあったローズマリーにぽぽんと花が咲いた。


ローズマリーの花が大好きなネアは、目を輝かせてしまい、料理で使う為に切ってきた小さな枝を差した小瓶を料理中にもよく見える場所に移動させる。



「ふふ、ディノのお陰でローズマリーの可愛いお花を見ながら、お菓子作りが出来ますね」



ネアのその言葉に、魔物は少しだけもじもじしたようだ。


水紺色の瞳を煌めかせているディノの姿に、ネアは振るった粉を混ぜ合わせながら、こうして現れる小さな変化を、この魔物がずっと災いだと思っていたことを少しだけ考えた。



(……………変えてしまうという事実がそこにあっても、こんなに素敵なものはギフトでいいと思うのに)



ディノは万象なので、些細な気分の変化で、木々が成長し花壇の花が満開になってしまうことがある。

それが喜びに基づくものであっても、誰もこの魔物に、これは嬉しいだとか、綺麗だとか、そのような言葉をかけてあげることはなかったのだろうか。



万象ともあろうものが、そんなもので心を揺らしていると考えなかったと言われればそれ迄だが、そんな小さな変化や変質の向こう側で、それを成してしまったディノがどれだけ怯えていたのかを、今のネアは知っている。


そして、水紺の瞳を揺らして途方に暮れていたに違いない過去のディノを思い、胸が苦しくなるのだ。



万象に於いて万象を動かし、万象であるからこそ、万象に触れてしまう。



そんな風にして崩れてゆくものの上に立ち、それが自分だけである恐ろしさは、きっととても悲しい。

同じように変え難いものを司っていたとしても、ウィリアムは顛末を司り、その絶望はディノとはまた違うものになる。


自分が健やかなものまでを絶望に傾けてしまうのではと恐れていたらしいギードもまた、その苦しみや寄る辺なさは万象とは違うものなのだ。




「君は、この花が好きなのだね」

「ええ。控えめな花ですし、香草としての利用が殆どなローズマリーですが、私は観賞用のお花としても大好きです。それに、このお花はディノが咲かせてくれたので、見ていると何だか幸せな気持ちになりますね」

「…………もっと咲かせるかい?」

「いいえ。これは、ディノの心が動いて咲かせてくれたお花なので、この小枝一本で充分なのです」

「そうなのだね」



そう言われたディノはまた嬉しそうに口元をもぞもぞさせると、先程の魔物らしい凄艶さはどこへやら、はっとする程に無垢な瞳でローズマリーの小枝を見ている。



(今回は、お花を咲かせただけだったけれど…………)



例え成されたものが、その失望や怒りによる災いだとしても、ネアは大事な魔物こそを抱き締めるだろう。

ネアにとっての大事なものは、常にこの優しい魔物が筆頭に上がっていて、ネアの狭量な心には愛情の優先順位があるのだった。



それからも暫く、魔物は目をきらきらさせてネアのお菓子作りを眺めていた。


ネアがあの世界で誰とも食べ物を分け合えなかったように、ディノもまた、こうして過ごしたことはなかったという。



(それでもいつの間にか、私達の間にはお互いの定位置が出来て、私は向こう側で出来なかったことを、これからもディノと何回だって果たせるのだわ………)



そんな喜びに唇の端を持ち上げ、ネアは大切な魔物のお口に入るケーキ生地に、世界で一番美味しいパウンドケーキになりますようにと、強欲な願い事をかける。


こんなにもネアを幸せにしてくれる魔物に贈るものなのだから、とびきり美味しくなるのが妥当な筈なのだ。



「ケーキでは、歌は歌わないのかい?」

「生地を混ぜるのに歌う事はありませんが、私の大事な伴侶が食べるケーキなので、美味しくなりますようにと念じながら生地を混ぜますね」

「ずるい。……………可愛い」

「今日食べて貰うのは、焼き立てのふかふかのものですが、また保冷庫で冷やしても、よりしっとりして美味しく食べられるものになる予定なのです。二度美味しいケーキなのですよ」



焼き立てでも冷やしても美味しくいただけると知り、ディノは、真剣な面持ちでこくりと頷いた。


同じように形成されてゆくクッキーも、誰にあげるのだろうかとたいそう不安げに見ているので、こちらにも伴侶用のものがあると教えてやれば、澄明な瞳はいっそうにきらきらになった。




甘い匂いの中で、溜め息を吐くしかないような穏やかで優しい温もりが満ちる。



三つ編みを握り締め、期待の眼差しでこちらを見つめるディノの足元で、僅かな仕草に合わせて揺り椅子が揺れた。


泉結晶の窓硝子に綺麗な緑の色を映した雫は、霧雨が降ったからだろう。

初夏の気候を映したこの建物のある土地では、ゆったりと空を泳ぐ鯨の影なども見る事が出来る。


アルテアが新しく植えた霧雫の珈琲の木は、そろそろ収穫時が近いのではないだろうか。

可愛らしい赤い実はネアの生まれた世界の珈琲の実とは違うなり方をしていて、生育環境なども少し相違があるようだ。


なお、最近になってネアがお気に入りのリーキのような野菜も植えられたので、食べ頃になったら、使い魔に美味しく調理して貰う予定である。




薄く開けてある窓から、気持ちのいい風が吹き込めば、薄いレースのカーテンを揺らし、窓辺に置かれた花瓶の薔薇の香りを孕む。

そんな風の馨しさに、ネアは、見えない筈の風の中の魔術に少しだけ触れられたような気がした。



ボウルの中の生地を丁寧に混ぜ、細長いケーキ型に流し込む。


後はもう、たたんと型を動かして空気を抜いてオーブンに入れるだけのものなのだが、ディノは素朴なお菓子や料理が好きなので、きっとこのパウンドケーキも喜んでくれるだろう。



(とは言え、ディノは、いっぱいチョコレートという感じではないから、甘さは控えめにして……………)



ふかふかしっとりなパウンドケーキには、沢山のドライフルーツも入っている。


ネアの生まれた国では、もう少しお酒の風味が強いものが紅茶の専門店によく置かれていて、薄く切って濃い目の紅茶といただく事が多い。

しかしそれは、困窮していたあの世界のネアにとっては縁遠い楽しみでもあった。



なお、中に入れるものが変わると別のお菓子として認識してしまう魔物は気付いていないが、秋には、たっぷりの栗を使った栗のパウンドケーキも提供済みだ。

それをディノが気に入っていたので、今回の試みとなった次第である。



(……………やっぱり、手の込んだお菓子よりも、ディノが喜んでくれるものがいいもの)



つまりのところ、ネアの、お菓子作りの腕もなかなかであるという自己主張は終わったのだ。

ディノの好きなものも固まってきたので、今後の提供はそちらに傾けてゆくことになる。



「……………そしてこれが、二種類目です」

「二種類もあるのかい……………?」



既に型に流しいれたチョコレート色の生地のものとは別に、ネアはスタンダードな色合いのパウンドケーキも作っていた。


そんな作業を訝し気に見ていた魔物は、二種類目と聞いて目を瞬いている。

今度こそ他の誰かの分かもしれないので荒ぶるべきか、或いはそれも自分にくれるのかなと期待するべきか心が揺れているのだろう。



そんな心の動きが手にとるように伝わり、ネアはくすりと微笑んだ。



「勿論、これもディノへの贈り物になりますからね」

「ご主人様!」

「私はとても賢い人間ですから、どちらも初めて作る味のものになる場合は、少し趣を変えて二種類作れば、お気に入りの味を見付けてくれるかなと考えたのです」

「君の作るものは、どれも美味しいよ?」

「ふふ、そう言って貰えると私は喜んでしまいますが、その中でもこのレシピがお気に入りだというものを見付けてくれると、なんと私は、ディノのお気に入りの食べ物を見付けられたという喜びすら味わえてしまうのです」



そんな狡猾な人間の言い分を、ディノは理解してくれたようだ。

きりりとして頷いたディノに、ネアは微笑みを残して、オーブンにケーキ型を入れにゆく。



「その、長方形のものは、どれも好きだと思うよ」

「秋に焼いた栗のケーキも、お気に入りにしてくれていましたものね。今回はバレンタインなので両方ともチョコレートが入ってしまいますが、これからもディノには沢山のパウンドケーキを焼いてゆくつもりなので、色々な味のものを試してみましょうね」

「……………君は、足りているかい?」



不意にそんな事を尋ねられ、ネアは首を傾げた。

こちらを見ているディノの眼差しは、魔物らしい酷薄さはなかったが、清廉な湖の水に触れるようなひたむきさがあって、それでいて、酷く老成もしている。



「私が、…………今の生活に対してでしょうか?」

「私には、分からないものも多い。君が欲していて、けれども私がその存在にすら気付いていないものはないのだろうか。………君は、私に沢山のものをくれるだろう?」

「…………まぁ。…………そうですね。実は今、そのようなものはあるだろうかと考え、一つだけ見付けてしまいました」



ネアのその言葉に、ディノは小さく瞳を揺らした。


ネアは使っていたボウルをこの厨房に用意されている、特殊な洗浄液で濡れた紙で拭うと、洗い物がし易いように水を張っておく。


本当はこの隙に洗い物を済ませてしまいたかったが、こんな会話にこそ、タイミングというものがあるものだ。

それは、オーブンに入れたケーキが焼き上がるまでに洗い物を済ませるより、遥かに大切な時間なのだと思う。



「……………どのような事だい?」

「打ち明けたなら、ディノは受け止めてくれますか?とても我が儘な言い分なのです」

「………そうだね。全てを許容出来るかと言えば、私は、君だからこそそう出来ないものもあるのだろう。例えば君を、……………手放してあげる事は出来ないから」

「…………むぅ。では、こうしてディノに特別なお菓子を作る時間が思いの外気に入ってしまったので、何でもない日にまたこんな事をしたいとお願いしたら、ディノは今日のように一緒にいてくれますか?」



そんな問いかけに目を丸くした魔物は、それが、かつてはどれだけ難しい願い事だったのかを、本当の意味で理解する事はないだろう。




(その苦しみも孤独も、……………あの世界で落伍者だった私が、誰もが持つように思えたものを得られずにのたうち回った苦しみの形を知るのはやはり、生涯において私だけなのだ…………)



ディノの孤独をディノだけが知るように。

ディノの抱えた恐怖や諦観を、ネアがそっくりそのまま紐解ける訳ではないように。



この願い事がどれだけ強欲で、どんな切実さで曝け出したものなのかは、知らなくてもいい。



だからその代わりに、叶えてほしいのだ。




「……………それが、君にとっての願いなのだね?」

「ええ。私がまず欲したのが、愛してくれるものではなく愛するものだったように、こんな時間もまた、私という生き物の心が求める、最上のグラスの中の水なのだと思うのです。ですから、さり気なさを装っていますが、実はとても重たい願い事なのですよ?」

「私にとっては、それは例えようもないほどの、喜びや………救いなのかもしれない。君が願うまでもないものなのだけれど、君は自分の願い事として伝えてくれるのだね………」



ディノの声はとても穏やかで、ネアはこちらを見ている伴侶に微笑みかける。

こうして理解してくれる事もまた、とても贅沢な幸運なのだと考えながら。



「ディノがいいのです。こんな時間を一緒に過ごすのは、ディノでなければ駄目なので、私はこれを願い事として掲げてしまうのでしょう」

「……………うん。………ネア、これからもまた、こんな風にケーキを焼いてくれるかい?」

「まぁ!ではこれからも、大好きな伴侶の為に沢山のケーキを焼きますね!………ただ、こうしてはしゃいでしまう人間の為に、もし今日はケーキはあまり欲しくないかなという日があれば、ディノは、年長者として巧妙に私の興味を他のものに向けて下さい」

「うん。そのようにすると約束するよ。…………けれども、君の作った食べ物だから、どんなものでも、どんな時でも欲しいのではないかな」




また一つ、小さな、けれども大切な約束が交わされる。

ネアは洗い物を始め、オーブンからはいい匂いが漂うようになってきた。



紅茶の準備をしてオーブンを開ける頃には、本日の昼食には美味しい冬野菜と鶏肉のクリーム煮を食べたばかりのネアも、すっかりお腹がぺこぺこになっていた。



「出来ました!型から外して切り分けますね」

「……………うん」

「味の変化も楽しめる様に生クリームも添えますが、パウンドケーキは焼きたてほかほかのですので、クリームが溶けやすくなっております」

「だから、入れ物に入れたのかい?」

「はい。欲しい時にこのスプーンでお皿に乗せて、パウンドケーキと一緒に食べてみて下さいね」



こうして生クリームを添えてしまうのは、もはやネアの執念と言ってもいいだろう。

かつての世界ではお店でよく見かけた光景で、ネアはずっと、シフォンケーキやパウンドケーキに添えられる生クリームやアイスクリームが羨ましくてならなかった。


しかし、そんなデザート皿を頼むお金を捻り出すよりも、お菓子は買って帰れる安価なものにしておき、日々の三食が欠けないようにすることこそ、重要なのだった。



淡いセージグリーンのお皿にほかほかと湯気を立てるパウンドケーキが載せられ、ことんとディノの前に出された。


お行儀よく着席していた魔物は、華奢な銀のフォークを手に取りなぜか胸を押さえている。

パウンドケーキを切り出す時にも震えていたので、贈られたお菓子が減ってしまうのも悲しいのだろう。



「あらあら、また焼いてあげますから、安心して食べて下さいね」

「………うん」

「いただきます」

「……………ネアがかわいい」


暫し、自分の前に置かれたお皿のパウンドケーキを嬉しそうに見つめてから、ディノはぽそりとそう呟く。

ネアとしては、焼きたてパウンドケーキの表面のところが少しだけさくっとしている美味しさを知って貰いたいのだが、こうして贈り物を堪能するのもディノの楽しみ方なのだろう。



ややあって、最初の一口を食べた魔物は、目元を染めてまた少し震えていた。



「……………ネア、とても美味しいよ。有難う」

「どういたしまして。………ディノ?」

「ネアがケーキを作ってくれる………」


なぜか動きを止めてしまったので、苦手な味だったかなと不安になったが、どうやら感動しているだけのようだ。

焼き立てパウンドケーキを、几帳面なくらいに小さく切り分けて食べている姿に、ネアは、あまりにも贅沢な優しさを感じて口元がむずむずしてしまう。



「それはもう、大事な伴侶を大事にするのが、私の幸福でもあるからでしょう。なお、クッキーはリーエンベルクの皆さんにも配りますので、後でお届けの旅に出ます!」

「………私のものも、あるのだよね?」

「夜のおやつで味見するもう一つのパウンドケーキもあるので、ディノの分のクッキーは、また後日食べて下さいね」

「うん………」



クッキーのお届け先は、エーダリアとヒルド、そしてノアと、ゼノーシュだ。

こちらの世界の風習ではないものなので、あくまでも身近な人達への差し入れになる。

なお、ウィリアムとアルテアにもこちらに来た際にという形でクッキーの存在を知らせておけば、ウィリアムは仕事の合間だということで受け取りに来てくれた。


その際に貰った南国の果物に笑顔になったネアは、そう言えば梟の魔物のお届け便がいつの間にか途切れている事に気付いたものの、まぁいいかとすぐに記憶から掃き落としてしまう。


(あの日からもまた、随分と時間が経ったのだ……………)


アルテアは手が離せない用事があるようで、今週中にはそちらに立ち寄るとカードの返事が来ていた。

暫くの間は近付かないようにと知らない国名が記載されていたので、念の為にその情報はエーダリア達にも共有させていただくこととする。



「戦乱の気配はないようだから、何かの手入れだろうな」

「ウィリアムさんからそう聞いて安心しました。……………ノア?」

「ありゃ、心配させたかな。凄く美味しいよ。ただ、せっかく君が作ってくれたクッキーだから、大事に食べようと思ってさ」

「とても美味しいですよ。これは、ネイが大事に食べたいと思うのも分かりますね」

「ふふ、ヒルドさんのお口にも合って良かったです」

「ああ。市販のものより甘さが控えめで、私はこちらの方が好きかもしれないな」

「ええ。皆さんには、これくらいの甘さの方がいいかなと思って、少し控えめで、でもほろ苦くならない素朴な甘さはなくならないようにしてあるのです。少し意外ですが、ほこりも甘すぎるお菓子よりは、このくらいの方が好きみたいですね」



ネアは、ゼノーシュがクッキーを届けてくれるという可愛い雛玉にも思いを馳せた。

実は今、ネアの可愛い雛玉は、とある百合のシーとの死闘を繰り広げており、会う事が困難になっているのだ。


(けれど、ジョーイさんの昔馴染みだという百合のシーさんが、伴侶を亡くしてからはジョーイさんにべったりで、気が気ではないだろうし……………)


昨年のディノの誕生日にも来られなかったので、今年のほこりの誕生日には会えるのかなと楽しみにしていたものの、可愛い名付け子の大事な人を巡る戦いであれば是非にそちらを優先して欲しい。

何しろその百合のシーは、ジョーイのかつての伴侶の友人というなかなか闇討ちするには難しい立ち位置の女性で、尚且つジョーイの実質上奥様な位置を押さえようと数々の巧妙な罠を巡らせてくるのだそうだ。


既にシャンデリアな伴侶はいるほこりには不利な面もあり、伴侶ではないけれど失いたくない大事な人を取られないよう、とても頑張っているのだという。



「ネア?」

「むぐぐ、私の可愛いほこりの邪魔をする者など、許すまじなのです」

「うーん。そこもなかなか濃厚だよね。ほこりは伴侶持ちだし、ジョーイとその妖精は互いに伴侶を亡くしている訳だし、その妖精って、ウィリアムのところにも来たんだったけ?」

「いや、俺ではなくてルグリューの方だな。俺はたまたまあの場にいただけだ……………」

「まぁ。ウィリアムさんが遠い目をしてしまうということは、かなりの猛攻だったのですね?」

「はは、ルグリューに自分とジョーイの仲を取り持って欲しかったらしいが、初対面でそんな事を言われた彼はかなり困惑していたようだ。とは言え、客商売だから無下にも出来ないだろうしな……………」



そんな会話をしていると、なぜかウィリアムだけではなく、ノアやエーダリア達も若干遠い目になる。

ネアは、そう言えばこの人達もそのような猛攻の標的になりかねないのだなと納得し、淡く苦笑した。


なお、薔薇の祝祭の近いこの時期になると、王都では騎士団長宛の凄まじい量の薔薇が動くのだそうだ。

高位の魔物達も気付かないくらいの擬態をしても尚、なぜかオフェトリウスはご婦人方に追い回される運命からは逃れられないらしい。


ネアは、疑心暗鬼になってしまった魔物達からオフェトリウスには薔薇を贈ってはならないという規制をかけられたが、そもそも贈る気もないのだと丁寧に釈明しなければならなかった。



さくりとクッキーを噛み締め、美味しい紅茶を飲む。

そうしてネアはまた、今日も贅沢で穏やかな時間を過ごすのだった。














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