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11. 夜明けの薔薇に満足します(本編)




柔らかな夜明けの光に胸を温め、ネアはそっと目を開いた。


今日は楽しみにしていた薔薇の祝祭である。

ふくよかな薔薇の香りがどこからか鼻腔に届き、胸の奥をきらきらと輝かせるような瑞々しい幸福感で満たしてくれる。


ピチチとまだ早い時間だが小鳥の声が聞こえ、しゅばっと起き出したネアは、まずは朝食の席を用意してくれたノアとの約束に備え、弾むような足取りで顔を洗いにゆく。

隣で寝ていた魔物も、眠たそうな目をしてよろよろと付いて来た。



「ディノ、もう少し寝ていてもいいんですよ?」

「…………起きるよ。君は、もうすぐいなくなってしまうから…………」

「旅立ちの日かのように言いますが、私はノアと朝食を食べたら戻って来ますので、どうか安心して下さい」

「……………うん」




伴侶がとてもうきうきしているので、魔物は心配でならないようだ。

浮気は、伴侶に対しての不満が見え始める新婚後三ヶ月くらいでこそ警戒せねばならないと、またどこから仕入れてきたのか分からない困った情報を掲げて不安そうにしているので、ネアは、このうきうきは、素敵な薔薇が貰える日であることと、とっておきのワンピースを着るからなのだと教えてやった。



実は今日は、薔薇の祝祭に相応しい素敵なワンピースを着るのだ。



すぐに衣装部屋をいっぱいにしてしまう悪い魔物の手により増やされたものだが、あまりにも素敵で一目惚れしてしまい、気に入り過ぎたことで今日まで着られずにいたものである。



顔を洗って魔物の髪の毛の手入れをしてやり、一度部屋を出て衣装部屋に移ると、ハンガーにかけて吊るしておいたそのワンピースに着替える。



「…………むふぅ」



するりと袖を通して唇の端を持ち上げ、繊細で詩的なその美しさにうっとりとした。


淡く灰色がかった薔薇色のワンピースは、白灰色の布地にふわりと薔薇の花びらを重ねたような美しさで、しゃわりと揺れる薄布を重ねてふんわりとさせたボリュームのあるスカート部分は、くるりと回ると綺麗に広がるのだ。


大人びたセーラーカラーのような襟元も可愛く、着てみたネアは、やはりこれはたいへんなお気に入りであるので、状態保存の魔術をかけて欲しいとすぐさまディノにお願いにゆき、伴侶な魔物はとても嬉しそうに頷いた。


ネアは、魔物が服を増やしてしまうのであえて衣料品には保存魔術をかけないようにしているので、こうしてお願いをするのは珍しいのだ。



(そんなお気に入りのワンピースを着て、薔薇の祝祭を楽しめるだなんて……………)



そう考えるとまたにんまりしてしまい、鏡台の前に戻ったネアは、ディノと共用のブラシで丁寧に髪を梳かした。


このブラシは、まだこちらの世界に来たばかりの頃、節約も兼ねて一緒に使う用に買ったものだが、当時のディノはそれがとても嬉しかったらしく、これからもずっと共用だと宣言している。




「……………薔薇ジャム…………」




ふとそんな熱い思いが溢れ出し、ネアの心は、本日の祝祭の食事に彷徨ってしまった。


美味しい薔薇ジャムが待ち遠しくてならないし、引き続き朝食担当なノアから、今年はこれからもずっとと言ってくれたあの薔薇の庭園とガゼボではあるが、少し趣向を変えたと言われているので、楽しみのあまりに胸が苦しくなり始める。



(そろそろ時間かな………)



ゆっくりと立ち上がり、ネアは、今年は伴侶を得たばかりのしっとりとした大人の魅力も見せつけるべく、優雅にこつこつと踵を鳴らして部屋を出る。



(不本意なちびころの記憶を払拭してみせる!)



そうして、いよいよその時が来た。


白いシャツをふんわり羽織り、今日は濃紺のリボンで髪を結んだノアがにっこり微笑んで戸口に立っていた。




「おはよう、ネア。迎えに来たよ」



相変わらず、そうして立っている姿は、怜悧に整った美貌といい、ディノ以外の魔物の中で唯一の多色性を持つ白い髪といい、微笑みに細めた青紫色の瞳の鮮やかさも眩しい特等の魔物ではないか。

けれどもそこには、家族だからこその安らかさが滲み、そんな魔物の表情を柔らかくしている。


なお、ディノは悲しげにこちらを見ているので、ネアは用意しておいた薔薇の形の砂糖菓子をさっと取り出して持たせておく。



「…………くれるのかい?」

「はい。ノアと朝食を食べて来るので、また、薔薇のジャムと焼き立てスコーンでお会いしましょうね!」

「…………うん。一人で段差を超えられるかい?」

「お、おのれ!ちびころの私はもういないのです……………!!」



暗い目でそう告げたネアに、魔物は神妙な面持ちでこくりと頷いた。

桃の祝福で幼児化したご主人様はとても減ってしまっていて悲しいが、一人では椅子になった魔物からも降りられないということが気に入ったらしい。


ネアは、ここは大人の魅力を見せつけてやると、ひょいと背伸びをしてそんな魔物の頬に口付けてやり、今年もディノは儚くなってしまった。


伴侶になって色々慣れたと思うのだが、不意打ちに弱いこの魔物は、色事よりも純粋な愛情の付与的口付けにひどく弱い。



「うむ。ディノはこれで少し休んでいられますので、寂しくありませんね」

「わーお、今年もこの手法か………」

「大事な魔物を思えばこそです!」

「よし、じゃあ行こうか。今年からネアは僕の妹だから、魔術が影絵を揺らしているところにも行けるんだ。あの庭園の影絵の中で、君が気に入りそうな風景を用意したよ」

「…………はぁはぁしてきました………」

「はい、お手をどうぞお嬢様。最高の朝食を約束するよ」

「はい!」



預けた手をぎゅっと握り込んだノアが、幸せそうに微笑む口元を横から見上げた。


チェスカのラベンダー畑で初めて見た時、この魔物は気安い言動とは裏腹にただの見知らぬ魔物であったが、今はこうして当たり前のように手を繋ぐ。


ディノはまだ恥じらう手繋ぎだが、ノアは兄妹だとこれが通常仕様だと公言しているので、ディノも荒ぶることはない。



(でも、ノアと兄妹になることに反対されなかったから、ディノも、ノアには側にいて欲しいのだと思う…………)



大切に思い慈しむ友人であるウィリアムやグレアム、ギード達とは違う近しさで、ディノはノアをとても大切にしていた。


ネアにはその差分を正確に言葉には出来ないが、大切さの分量は変わらずとも、その区分が違うのだろう。

そして、アルテアがまた違う区分の大切さや親しさになることで、ネアの伴侶が大事に思うものの種類を一つ増やしてくれる。




「ありゃ。今年は熱烈に見つめてくれるなぁ…………」

「ふふ、ディノの大切なものについて考えていました。ウィリアムさん達がお友達としての大切なひとで、ノアはディノにとっては家族のようなものなのかなと…………む、恥じらいましたね?」

「……………折角格好良く決めてるんだから、そういう妨害は禁止だよ」



思いがけない攻撃を受け、ノアは目元を染めてもぞもぞしてしまっている。

とても嬉しそうなので、邪悪な人間は、定期的にこの攻撃を行おうと心に決めた。




「………………わ。…………ほわ」




そうして、ネアが訪れた薔薇の庭園は、確かにノアが言う通りの趣向を変えた美しさであった。



満開の白薔薇に彩られたガゼボは、昨年までと変わらず物語のような情景をそこに広げている。

けれども、初夏の夜明けのようだったその場所は今、淡い夜明けの薄闇の中で優しい雨に打たれていた。



さぁさぁと、そこには静かなヴェールをかけるような雨が降る。

雨と言っても冷たい雨ではない季節なので、いっそうに薔薇の香りを瑞々しく立てるばかりだ。


細やかな花を咲かせた下草の上には薄く水溜りが湖面のように広がり、ここからはおとぎ話の表現に入って行くのだが、薔薇の茂みを鮮やかに映し出しつつ、落ちる雨粒が波紋を描くことで、えもいわれぬ繊細な影を作り出していた。



(雨だけれど、どこからか差し込む朝日の欠片が、ほんの少しだけの一際強い光を線状に落としていて、………………)



足元に広がる波紋に、そのハイライトが入ることで、世界はいっそうに複雑な色を見せる。



きらきらと、どこまでも澄明に。




「どうだい?気に入ってくれたかな?」

「………………言葉にならないくらいの美しさです。…………この雨粒の銀色と、足元の水面の水色や瑠璃色が加わると、来たことのある筈のこの場所が、まるで別の世界のように見えるのですね……………」

「………うん、良かった。その目は本気で感動してくれているやつだね。雨には濡れないようにしてあるから、その紫陽花色の庭石のところを歩いてごらん」

「………………は、はい。……………ほわ?!ノア!水の下に街があります!!」



ここでネアは、水の下に瀟洒な街並を見付けてしまい、仰天して振り返った。

ノアはそんな驚きは想定済みだったらしく、満足げに微笑んで頷いてくれる。



「これは、魔術を潤沢に蓄えた雨が降ることで、その雨になる水蒸気が立ち昇った場所の景色を、こうして一緒に降らせるんだ。もっと激しい雨だと、水煙の中に蜃気楼みたいに見える事もあるよ。ただ、そんな日に雨の中を歩いていると向こう側に誘われることもあるから、気を付けないといけないけれどね」

「………………ここには、ずっといられます。美しくて、秘密めいていて、波紋が広がる度に風景がゆらゆらと変わって、顔を上げると、今度は薔薇が何とも情感たっぷりに雨に打たれていて、薔薇と緑と雨の匂いがして…………」

「はは、そんなに喜んでくれるなら本望だなぁ。でも、君にはまだとっておきの楽しみがあるんじゃないかな?ここは、朝食の場だし、僕はまだ君に薔薇を贈ってないからね」



そう言われ、ネアはこくりと頷いた。

確かにその通りなのだが、既に胸の中の五割くらいがこの情景でいっぱいになってしまっている気がする。



(どうしよう。まだ朝食も食べていないのに…………!)



そんな贅沢さを噛み締めつつ、ネアは、ノアのエスコートで薔薇のガゼボに入った。



「わ……………ぎゅ」

「うん。もう準備が出来てるね。本来なら、朝食には早い時間なんだけど、リーエンベルクは騎士達の食事の準備が早いから、こうして僕達のものもこの時間に用意してくれるんだ」

「確か、お料理の状態保存の魔術が沢山使えるからこそ、あの人数で回せるということもあるのですよね?」

「そうだね。他所の土地ではこうはいかないと思うよ。勿論、料理人の腕もいいしね」

「うむ。間違いありません!」



ガゼボの中の椅子にはふかふかのクッションが敷かれており、そつのなさが魔物らしく、テーブルの高さや広さなどまで、食事をする為のものは全て完璧に整っていた。


ネアは、水色がかった銀鼠色のクッションに腰を下ろして絶妙なふかふか具合に感動し、目の前に並んだ前菜の美しさと美味しそうな彩りに打ち震え、幾つかのピッチャーを示したノアから、冷たい果実紅茶をたっぷりとグラスに注いでもらった。



「さて、食べようか。今年も君と薔薇の祝祭を過ごせることが、僕は何よりも嬉しいよ。…………昨年は、色々な事があったからね」

「…………ええ。ノアにはたくさん心配をかけてしまいました」



思い返すまでもなく、昨年も危うい事件は沢山あった。


そのような時、リーエンベルクで待っていてくれることの多いノアは、待つことばかりが際立つからこそ、どれ程気を揉んでくれたことだろう。


やっと見付けた居場所だからこそ、やっと得られた家族だからこそ、ノアを怖がらせてしまったこともあるに違いない。



「私は勿論ディノの為にいつだって頑張りますが、大切な…………兄の為にも、どんな事があっても必ず戻ってきますからね」

「うん。…………うん。君ならそうしてくれるって、もう僕にも分かるんだ。でもね、僕は、僕の大切な家族には過保護なくらいで行くと決めているから覚悟しているように」

「まぁ、それなら私も黙ってはいませんよ?…………今年の花束は、少し減らしたのですね?良い心がけです!」

「………………ありゃ」



ここでノアは、情けなさそうにふにゃりと苦笑した。


昨年の花束は七個だったので、より危険は減ったと思いたい。

とは言え、それでもなぜか刺されたり燃やされかけたりするのが、この塩の魔物なのだ。



さわさわしゃわりと、雨に濡れた薔薇の茂みを風が揺らした。


ガゼボの中にまで風が吹き込むことはないが、風に揺れた薔薇の花から雨粒がざっと落ちると、地面の水面に幾つもの水紋が広がるのが、溜め息を吐きたくなるくらいに美しい。



ネアは、薔薇の祝祭の彩りとして添えられた、色鮮やかなキッシュに真っ赤な薔薇の花びらが乗ったものをぱくりといただき、その美味しさに頬を緩めた。

ほんわりと温かく、中の粒チーズがとろりと蕩けるのだ。



「むぐ。美味しいれふ!………そうして花束をあげる方を絞り込んだのなら、今年の恋人さんの中に、ノアの家族になってくれるような方がいるといいのですが…………」



(絞り込んでも渡したいような人を選ぶのなら、いつかは大切な一人を選ぼうと思って頑張っているのかしら………?)


ネアが、とは言え果たしてそのような理解でいいのだろうかと首を傾げながら言えば、ノアは、どこか酷薄な眼差しで淡く微笑む。



「いや、そういうのはもういいんだ。………なんて言うと、女の子の君には、身勝手で残酷にも聞こえるかな。僕を心配してくれる妹への返答としても、誠実ではないしね。でも、…………僕の幸福はもうここで満杯だよ。君が案じてくれるようにこれ以上を望むことも出来るけれど、抱え込み過ぎて内側で摩擦が起きるのはご免だ。今だってさ、これだけの要素が、各々の関係を奇跡的に釣り合わせて成り立っているだけなんだから、ここの居心地がこんなにもいい間は、もうこのままでいいんだよ。…………それにほら、僕は外で上手く遊んでいるからね」

「むぐぅ。それについては、どうか危ない橋を渡らないように、気を付けて下さいね…………」

「はは、最近は刺されてはいないかな。…………あ、毒殺されそうになったことはあるか……………」

「ぎゃ!」



雨で落ちた花びらが、水面に浮かび揺れている。

テーブルの上の朝食にも、薔薇がふんだんに使われていた。



酸っぱい果物のような瑞々しい美味しさの食べられる薔薇を合わせたサーモンのタルタルに、薔薇の花びらを散らした青林檎とセロリのスープ。

薔薇の形に盛り付けた燻製の香りが素晴らしいとろ生ハムに、さっぱりとしたチーズをくつくつと溶かしたものをかけた、温野菜のサラダ。


少食のノアは少なめに、そしてネアのお皿にも、どれも食べやすい量に盛られているのが、リーエンベルクの料理人らしい気遣いだ。

今日ばかりは、ネアにとっての主役が薔薇のジャムだと知ってくれているのだろう。



テーブルに飾られた白薔薇には、細やかな雨の影が儚く揺れる。



(………………む!)




「…………このスープは、爽やかな甘酸っぱさに、時々きりりと塩が効いていて、珍しい組み合わせなのにとっても飲みやすいです!」



さらりとしたポタージュ状のスープなので、疲れが抜けない体の重い朝にすっきりと飲めそうだし、淡い緑色のスープが体に染み渡る感じが、如何にも健康に良さそうで満足感がある。


前菜にスタンダードなハムやチーズがある為、この珍しい風味の爽やかなスープが変わりものでもバランスも取れ、彩りとしてもテーブルの上をぱっと華やかにしてくれる。



「…………ほんとうだ。こりゃ、美味しいなぁ」

「上に散らした黄色の薔薇の花びらが、なんて可愛いのでしょう。じゅわっと体に吸収される感じが堪りません!」



二人は顔を見合わせて微笑み、一緒にスープを飲んだ。


ノアがこうして食事を摂ってくれるのは、心を許して寛げる場所でだけなのだ。

そう思えばまた、胸の奥がほこほこしてくる。




「…………この前、あの日の夢を見たよ。…………リーエンベルクが燃えていて、…………僕はね、どこか小高い丘の上からその様子を見ているんだ」

「ノア……………」



食事の途中で、ノアがふとそんなことを呟いた。


けれども、目を瞠って顔を上げたネアに、安心させるようににっこりと微笑む。



「けれど、そこで呆然と立っている僕の手を、誰かが引っ張るんだよ。怪訝に思って振り返ると、…………君がいるんだ。…………君がね、泣いてしまった僕を宥めて、ほら家に帰るよってどこかに連れて行ってくれるんだけど、そうすると僕は今のリーエンベルクにいて、…………シルがいて、エーダリアやヒルドや、ゼノーシュやグラストに、騎士達がいて、…………何だ、僕はもうこんなに幸せじゃないかって、……………うん」



きっとノアは、何か結びの言葉を考えていたのだろう。


けれども、口元をもぞもぞさせてしまったノアは、それを誤魔化すようにハムをフォークで巻き取る作業に没頭したようだ。



「ふふ、恥じらってしまいましたね?」

「僕の妹は容赦ないなぁ…………。何だか、こういう告白って妙に照れるよね。どうしてなのかなぁ………。胸の内側から、何かが溢れてしまいそうになるんだよ」

「…………それは、嬉しくて堪らなくて胸がいっぱいだからですね」

「……………だから、息が苦しくなる?」

「ええ。胸がいっぱいだと、満腹の時のように心がはぁはぁします。現に私も今朝はそんな感じだったので、その気持ちはよく分かりますから」

「はは、僕たちは似たもの兄妹だからね。………だから、さっきの君が僕のことを兄だと言い淀んだ理由も知っている」

「……………むぐ。ノアを弟にし損ねたことが、たいへん無念と言わざるを得ず……………」

「ほらほら、そんな妹にはジャムを献上するよ!」

「薔薇ジャム様!」




今年の薔薇ジャムは、晴れた日の夜空を集めたような澄んだ青紫色のジャムと、薔薇の日らしい琥珀色がかった艶やかな薔薇色のジャム、そして、新鮮な花びらと和えたものか、黄色の花びらが鮮やかなジャムの三色だ。



「ノアの色のジャムがありますね!ディノの瞳の色にも見えるので、これはいいジャムに違いありません」

「これは、真夜中の溜め息っていう紫色の薔薇を使った薔薇ジャムらしいよ。夜の雫と新月のさざめきが入っていて、冬の間に作るとこんな色になるみたいだ」

「いただいてみますね!…………むぐふ?!」



香り高く優しい甘さのそのジャムは、紅茶のお供にスプーンでちびちび食べていたいくらいの美味しさだった。

もったりとした甘さではなく、時折舌の上でしゃりんと綺麗な音がする。



「……………とっても美味しいです!この、……しゃりんとなるのは何でしょう?」

「新月のさざめきだね。この祝福は、心がさっと澄み渡るんだ。その冷ややかさが病みつきになるみたいで、かなり人気がある香辛料だよ」

「…………本当です!しゃりんの音の後に、胸の奥がしゅんとなります!エシュカルの美味しさに似ていて、口の中がすっきりするのが癖になってしまいますね…………。こ、これを樽いっぱい確保するには、どうすれば…………」

「わーお。かなり気に入ったみたいだぞ………。真剣に答えると、これはリーエンベルクの手作りだから、ヒルドに相談するといいかもだね。ヒルドはさ、ほら、君からのお願いに弱いから」

「…………むぐる。ちびころにされた時に、ツインテールはご辞退させていただきますと言いましたが、容赦がありませんでした…………」

「ありゃ、根に持ってるぞ…………」



琥珀色がかった薔薇色のジャムは、しっかりとした甘さがあり、パンに塗ったバターの塩味と合わせると口の中に幸せなハーモニーを生み出し、黄色の薔薇ジャムは、まさに食べるジャムという感じのものだ。

爽やかな酸味にヨーグルトのような特定の種の薔薇の香りが高く、これもスプーンでざくざく食べたい薔薇ジャムだ。

花びらの食感が楽しく、見た目も一番華やかだと思う。



大喜びでそれぞれのジャムを食べていたいネアは、ふと視線を感じて顔を上げると、頬杖を突いたノアがこちらをじっと見ているではないか。



「むぐ…………監視されています」

「僕の妹は可愛いなぁと思ってさ。君は、僕の特別な家族なんだよ。シルとは違う意味で、こうやって見ているのは好きだな」

「私も、ノアが、幸せそうにエーダリア様たちとお喋りをしていたり、ディノと仲良くしていたり、…………狐さんになって廊下でお腹を出して寝ているのを見るのが好きです」

「うん。廊下は仕方ないよね。ボールで遊んでいるとさ、いつまでも終わらなくて途中で力尽きることがあるから」

「リーエンベルクがノアのお家になった証拠ですし、廊下の真ん中はまだ発見できるので良いのですが、飾り棚の下から尻尾だけが出ていると、とても危険なんですよ?」

「それについては善処するとしか言えないよ。ボールは弾むからなぁ。そして絶対にどこかで棚の下に入るんだ……………」



くすりとそう笑い、ノアはネアの手を取った。

ふわりと立たせて貰ったネアをくるりと回し、まるでダンスでも踊るかのように抱き締める。




「……………ノア?」

「ねぇ、…………君は、僕がどれだけ魔物らしいこともしているか知っているかい?」

「ヴェルリアの宰相様を牽制したり、ちょっと複雑な履歴をお持ちな、ウィームのとある商社の御子息を上手にあしらったりしている事でしょうか?」

「ありゃ、…………誰が君に教えたのかな?」

「それはもう、ダリルさんが。私の場合は何かと縁が向こうから飛び込んでくるので、起こっていることは対岸の火事程度には知っておいた方がいいと教えてくれました。火事を知らないと、うっかり向こう岸に渡ってしまいますからね」



そう言ったネアに、雨に濡れる薔薇のガゼボの中で、影を落としても尚、光を透かすような青紫色の瞳がじわりと揺らぐ。



それは、両手で包み込んで抱き締めてあげたいような、ひどく無防備な眼差しだった。




「…………そっか、それなら、………少しだけ安心した」

「不安な事があったのですか?」

「…………人間はさ、かつては自分も獰猛だったとしても、幸せになると牙が抜け落ちて、他の誰かの獰猛さに眉を顰めるようになるんだ。………僕は魔物だから、やっぱりどこかで君達人間と折り合えないところもあるかもしれない。でも、…………その時に、君に失望されるのは嫌なんだ…………。喧嘩したり、呆れられたり、叱られたりするのはいいけれど、一緒にやっていけないと思われて立ち去られたら、………耐えられない。そういう目に遭って狂乱した魔物も珍しくはないからね…………」



魔物と人間の契約は、いつも人間が裏切るのだと誰かが話していた。

こうして家族になったことで、ノアはそんな同胞達のことを思い出し、不安を覚えたのかもしれない。




「ノア、それなら安心していいと思います。私は、私の大切なものに手を出す悪いやつは、びしばしと端から滅ぼしてゆく所存ですので、そんなノアの魔物さんらしさは歓迎しますから」

「………………ネア」

「けれども、ノアがノアを損なうようなことや、一人で無理をすることがそこに含まれる場合は、抗議させて貰いますからね?それだけは忘れないで下さい」

「……………うん」




美しい瞳を潤ませてぎゅっと抱き締めてきたノアに、ネアはこんな風に抱き締めたりしたくて自分を立たせたのかなと得心し、手を伸ばしてそんな兄を抱き締め返してやる。




「うん、胸がふかふかで役得だ」

「これからひと月の間、ボール遊びなしにしましょう」

「ごめんなさい……………」



体を離し、ふっと微笑んだ幸せそうな魔物に、ネアはもう一つ言葉を添える。



「なお、エーダリア様は私とは嗜好が違いますが、あの方は強くて優しくて、清廉な心を持ちながらも、理不尽なことも必要であればと飲み込める方です。エーダリア様の場合はエーダリア様なりの気質で、決してノアのことを嫌いになんてならないと思いますよ?妹から見ても、ノアは特別に安心な方との優良契約をしたのだと思います」

「そう思うかい…………?」

「よく考えて下さい。エーダリア様は、ああ見えてダリルさんのこともとても大好きなのですよ?」

「……………わーお。その言葉で、すごく安心した」

「ふふ。でしょう?そして私は、ダリルさんをとても尊敬していますから」

「…………え、程々にしてくれないと、お兄ちゃん、そっちは不安だなぁ……………」




雨音が優しい鼓動のように響き、地面の水面に波紋が広がる。


その下に映る街には、どんな物語があってどんな国だったのだろう。

ウィームに少し似ているが、建物の装飾がやや華美な傾向にあるその街は、今はもうないロクマリアの商業都市の一つだったらしい。



そっと差し出されたものに、ネアは微笑みを深め、ノアを見上げる。



「これが僕からの薔薇だ。大事な妹は喜んでくれるかな?」

「まぁ!私の大好きな色の薔薇がたくさん入っています!………ふぁ、この薔薇はちょっと難しいと思ったのに、こうして合わせるとこんなに素敵なのですね………………」



今年のノアからの薔薇も、薔薇の見本が届いた広間で、ネアが目を奪われていたものばかりが集められていた。


その中には、ヒヤシンスのような形に小さな薔薇が集まっている独特の形状から、薔薇合わせの難易度が高いかなと思っていたものも含まれており、それが、ノアの手によって見事な花束になっていた。



こっくりとした薔薇色に、ロマンティックなラベンダー色、光を孕むような白水色に、白薔薇を陽光にかざしたような透明度の高い檸檬色。

その全てをとんでもない色彩感覚でぴたりと押さえ込み、今年の花束は繊細なラベンダー色を主としてまとめてくれていた。




「………………なんて綺麗なのでしょう。見ているだけでにこにこしてしまいます…………。ノア、私の大好きなものばかりの花束を有難うございます!大事にしますね」



喜びを上手く噛み殺せずにぱたぱたと足踏みしてしまったネアに、ノアは幸せそうに微笑んだ。


けれど、ふっと視界が翳り、鼻先に口付けを落とされたネアは目を丸くする。




「ノア、その祝福は確か…………」

「うん。我が家の大事な子供が、迷子にならないようにする祝福だね。自身の子供や、妹や弟にしか贈れない祝福だから、この世界で僕にしか贈れないものだよ」

「むぐる…………」

「ありゃ、何でご立腹なのさ?」

「ちびころは卒業しました!」

「あ、それまだ引き摺ってるんだ。それなら、来年のこの時期は、桃が入ったものに気を付けた方がいいかもね。ヒルドが珍しく大はしゃぎしてたし、僕もまた見たい」

「むぐるる!許すまじ!それなら私だってノア達をちびころにしますよ!!」

「うーん、どうだろうなぁ。僕達はかなり用心深いよ?」



悪戯っぽくそう微笑んでみせた魔物に、ネアは暗い決意を固める。



この魔物は、とても大事にしたい家族になったばかりの魔物であるが、それとこれは話が別だと言えよう。



必ず来年は、あの桃を食べさせてみせると心に誓った。














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